yumenooto uminoiro

 

 

                                                                               N

 

 

 わかってくれたかな。説得できたかな。

 きっとできたよね?

 そうだよね、那智くん?

 

 

 マハネは、抱きしめるちからを少し、ほんの少し、ゆるめた、その刹那だった。

 獣が最後の抵抗をした。いきなり大きく胴震いして、マハネの手を振りほどき、もぎはなした。があがあ耳障りな声でわけのわからないことをわめきながら、がむしゃらにあがいた。

 そうしたいんだ! 彼の心が言う声を聞いたと思う。きみのいうとおりに。きみに喜んでもらえるようにしたい。そうしたい。でも、できないんだ。むりなんだ。どうしても。どうしても!

 変わりたい、変われない、屈伏したい、屈伏できない、やりなおしたい、終わりにしたい。こんなことぜんぶ否定したい。過去にもどってやりなおしたい。テーブルクロスを引き抜くように、みんな乗っけたまま、もとの場所においとたまま、大前提だけベースだけガラッと取り替えられたらいいのに! 相反する願いと思いの矛盾、マリオネットの糸は絡んで役に立たない。どうすることもできなくて、いてもたってもいられなくて、エネルギーがふくれあがり、暴発した。彼はおのれを地面にたたきつけた。葛藤から逃れたくて。どうしようもない気持を捨てたくて、振り払いたくて、ふがいない自分をぶち壊してしまいたくて。

 その動作のせいで獣の爪が宙に軌跡を描いた。軌道に、たまたま、居合わせたのが母だった。レイラだった。獣と化した彼を抱いて、恐れずに抱いて、ずっと、辛抱強くあやしつづけていた母。速度がやいばになり、膂力が衝撃になり、すぱりと刎ね飛ばす。

 ママの首が、顔が、いつものママのあの微笑んだ表情のまま、胴体から分かれて飛んでいった。

 見た。 

 見てしまった。

 すぐそばで。

 目の前で。

 手をのばせばとどきそうだった。

 それは一瞬のことだった。

 もうすこしはやく気がついて、なにか手がうてていたら。そんなに難しいことではなく、とめられそうだった。やめさせられそうだった。間に合いそうだった。

 だが。

 そのことはすでにおこってしまった。

 腕なら、足なら、たとえ切れてなくなってしまっても、圧倒的に致命的なことではない。しかし。

 顔。

 二度と消せない残酷な残像が瞼にありありと焼きついていて、否定することができない。見なかっこことにすることがもうできない。そうだ、現実だ、もう起きてしまったことなのだ。改めてそう思った瞬間、あたりが真っ暗になった。パチッとスイッチをオフにしたみたいに。緞帳が落ちたみたいに。目の前が真っ暗になるというのは比喩ではない。実際に体験されることなのだ。急激な脳貧血のせいで、視野が眩む。

 背骨は氷柱になったかのよう。そこからからだじゅうが冷えていく。すべての感覚がどんどん間遠になっていく。手も足も顔もみんないっせいに血の気がひいて、青ざめていくのが自分でもわかる。そうやって肉体はみるみる痺れていく。いのちらしさを放棄していく。みるみるただの「物体」にひっこんでしまおうとする。 

 両耳がつまって何も聞こえない。

 ママ、ママ、ママ。やだ、うそだ、叫んでいるわめいている自分の声も聞こえない。ただ喉が痛い、張り裂けんばかりに痛いだけ。

 

 ママが、死ぬ?

 死んでしまった?

 殺された?

 いちばん大好きなひとが。

 それも。

 那智くんに。

 憧れのひとに。

 やられちゃった?

 もうとりかえしがつかない。

 

 パパがなにか聞こえないことを叫びながら駆け寄ってきてママのからだを抱いて支えて、那智くんは那智くんの顔で怪物なのに那智くんの顔で驚いたような途方にくれたような顔をして涙を流していてまるで許しを乞うように私を見ている。信じられない。こんなことしでかしておいてどうしてそんな顔をしていられるの。どうしてそんなにふだんどおりで。まるで、自分のせいじゃないみたいに。被害者みたいに。こんな悪い夢からはやく醒めたいのに醒められないどうしていいかわからない子どもみたいな顔をして私を見ている。

 いつもやさしくて賢くてきれいな素敵な那智くん、ほんとうは、いやなやつだったくせに、怪物だったくせに。愚鈍で残忍で獰猛な、話なんか通じない相手だったくせに。その腕は血まみれで、毛皮は獲物の内臓まみれで、髪の毛から足の爪までなにもかも、みんな悪いものでできているんだ、細胞の最後のいっこまで、みんな、殺戮で奪ったものからできている。

 犠牲にした者たちからできている。

 

 

――だったらなんだっていうの。

 おまえは?

 おまえはちがうの?

 おまえだって、なにかをたべる。

 なにかをころす。

 なにかからうばって、うばって、うばっていきている)

 

 

 

 いやだ。

 むり。

 なしだ。

 耐えられない。

 マハネはよろけ、顔を両手で隠す。

 だめ、こんなのだめ。こんなのなし、こんなことは起こっちゃいけなかったんだ。だから、やりなおそう。お願い。やめにして。取り消して。ちょっと前にもどって。これは夢。悪夢だから。そうして。悪夢だったことにして。

 夢にして。

 こんなことは、現実には、起こらなかったことにして

 

 

(そうよ、みんな夢。ただの幻想)

 ぎゅっと目をとじ、祈った。

(きっと出口がある。ぜったいある。ぜったい。

 悪夢は、醒める。

 あきらめないで。抵抗していれば。

 夢から

 ――出る)

 

 

 

 

 

                                                     ゆらいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ひっくりかえり、放り出された。マハネはいきなり窒息しそうになった。ごぼごぼと音をたててあぶくが口から外に暴れ出していく。髪がゆらめき、顔をなで、さかだち、服がからだにへばりついた。上も下も右も左もわからない。息ができない。水だ。水の中だ。冷たい、塩辛い、

 

 ――海?

 

 

 海の、中?

 

 

                                          わたしは、海に、いる。

 

 

 目をあけても真っ暗でなにも見えない。もうじきに息がつづかなくなりそうだ。空気は? 空気はどこ? 水の中、ものすごい力で押し流されている。からだを持っていかれ、人形のように振り回されている。ぐるぐるまわされ、運ばれ、ひきずりこまれる。たくさんのなんだかわからないものがいっしょに動いている。どこか明るいほうはない? まるで超特大の洗濯機の中にいるみたいだ。宇宙の誕生直後の星の大爆発に巻き込まれたみたいだ。圧倒的なちから。なんの抵抗もできない。なんのちからもない。

 自分なんて、あまりにもちっぽけで。

 

 

                                            (そうか。

                                            これ)

 

 

 思い出した。

 いつか、学校に行こうとして電車を乗り過ごして知らない駅についてしまって……

 

                                            (そうだ。

                                           あのとき)

 

 はじめて、海を、見たんだ。

  

 

 

 

 ああ。

 どこまでも沈む。

 

 

 

 

 

 ――おかあさん。

 

 

 

                                         あれ、夢じゃなかったんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        kirikiri

 

 

 

 

 

 

 プレハブの仮設住宅の立ち並んだ高台の端、女がひとりたっている。くわえ煙草に目を細めている。

 眼下では重機が何台も並んでせっせと工事中だ。赤茶けた土を盛り上げている。そのむこうは海だ。

 海はきらきらと輝いている。

 青くて、まったいら。

 美しい。

 寡黙だ。

 静かだ。

 偉大だ。

 海だけを見ている分には、とてもよい景色だ。まるで、あんなことなんかなにも、信じられないほどおそろしいことなんかなにも、なにひとつ、起こらなかったかのようだ。

 女の唇がちょっとだけ笑みのかたちをとる。頬に、ほんの少しだけ皺が寄る。

「あ、ここサいたの」

 振り向く。ふっくらおかめ顔の初老の女だ。手拭いを姉さんかぶりしている。

「新里さんが探してらっけよ、ヒロさん」

「ああ、すみません。いかなきゃ」

 彼女は向きをかえた。

 歩きだす。

 ひとりで。

 やたら強い日差しの中を。

 くっきりと影を刻んで。

 

 かたわらのプレハブ住宅の軒先の物干し竿に、白い水中眼鏡がかかっている。眼鏡のガラスが陽光を反射して、キラッと光る。

 

                       END