角川書店『ザ・スニーカー』より、メールでちょうだいしたいくつかのアンケート項目に対して、わたし久美沙織が返信したほぼ全文(業務連絡関連などは削除)。雑誌には、ここから取捨選択して、掲載してくださったわけです。
>つきでフォントの違う部分は、編集部の担当さまのご発言である。転載をご許可くださいました編集部に感謝いたします。
また、ドラゴンクエストは公式には「ドラクエ」とは省略してはいかん、どうしても略するときには「DQ」というように、と旧エニックス編集部からきつくお達しされていたのだが、ここでは、油断しています。『小説ドラゴンクエスト』に関してもドラクエといってたりしますが、文脈からわかってやってくたざい。何番目だったかに関しては、正式にはローマ数字で表示することになっているが、バケるといけないので算用数字で表記しています。この点はご容赦ください。
[以下返信本文]
まずはじめに、経過の説明を。
実はドラクエよりも『MOTHER』のほうが先なんですよ。
『MOTHER』を書いて、それを読んだエニックス(当時)のドラクエ担当者が「番外編をやってみないか?」とおっしゃってくださって、『精霊ルビス伝説』(全3巻)を書きました。
もっというと、ドラクエ3までがあまりにもおもしろくて感動で大好きだったので、わしらに同人誌のプロ版みたいな本を作らせてくれないかと、めるへんめーかーといっしょに陳情にいったんです(笑)。当時はネットとかなかったので、勝手にやっちゃうのはけっこうテマだったし、コミケとかあったけど、どうせやるならちゃんと許可とって大威張りで売れるものにしたかったんで。キャラの使用権などの問題がいろいろあってそれは断わられましたが、おかげで、「ああ、こいつはドラクエがそーとー好きなんだな」と認識はしていただいていたわけです。
で、ルビス。ゲームのドラクエの3までに登場する精霊ルビスさまの青春時代をかけといわれたのに世界がいっこ滅びる話を書いてしまった。それでも、一応テスト? に合格したのか、「4」から「6」まで、「天空三部作」をノベライズさせてもらいました。
わたしの前に「1」から「3」までを高屋敷英夫さんというかた(アニメ『ガンバの冒険』のシナリオをお書きになっておられたかたです)が書いておられ、ドラクエ「7」は土門弘幸さんが書いておられます。
『MOTHER2』は平成6年12月で、ドラクエ6は1996年4月です。
ちなみに『アンジェリーク』のノベライズもやっております。普通のノベライズではなく、舞台を江戸時代モドキにうつしたおふざけタッチのものですが。
>ザ・スニーカー10月号 「ゲームノベライズ特集」インタビュー
>
>● 「ドラゴンクエスト」について
>
>・ 「ドラゴンクエスト」はゲームのベライズの原点と位置づけられています。それまでなかったジャンルを書くにあたって、特に苦労した点、気を付けた点はありますか?
>
エッ原点なんですか? いやそれは光栄です(笑)。
気をつけたのは、キャラや世界観に深みを出すこと。 苦労したのは、わかりやすさとカッコ良さのバランスをとること、でしょうか。
そもそもRPG『ドラゴンクエスト』シリーズには、既存の小説や映画、御伽噺、民話や伝説など、世界じゅうのさまざまなファンタジー文化が投入され、色濃く反映されています。それらをふんだんに寄せ集め、次から次へと並べてストーリーを構成している。言ってみれば、とても贅沢なレトルト食品群のようなものです。複雑で手にはいりにくい調味料を多数使いこなさなけば味がまとまらないエスニックなごはん(それまでは、現地に旅行にいかないと食べられなかったようなもの)を、チンすればご家庭で味わえるようにしてしまった、みたいな。それまでマイナーで手にいれにくかったものを、誰でもお手軽に味わい「消費」できる方向にした。
むろんそれはとても偉大で意味のあることですが、そのレトルトを、そのまま盛り付けを変えておだしするだけではプロとして恥ずかしい。だから、いったん材料の段階まで戻って、ひとつひとつ自分で調理することを心がけました。
ゲームという新しいメディアになじんだひとたちに、古いメディアならではのよさも、知ってみて欲しかった。 『DQ』世界を好きになるあまり、生まれてはじめて「本」を自分のお小遣いで買って読んでみようと思う小学生(そういう読者が大勢いるに違いないと確信していました)に、小説なんてつまんない、本なんてキライだゲームさえあればいいや、と思わせてしまったら責任重大ですから。
わたしが『DQ』ノベライズにタッチしたのは『4』からです。ご存知のように、『4』はそれまでの三部作に比べて圧倒的にスケールが大きくなりました。ゲーム冒頭では、世界の各地に散らばった主人公たちが、順番にそれぞれの出自を披瀝します。それを描くことはとりもなおさず、さまざまに異なる民族の文化背景や架空史を描くことでした。また、わたし自身がこのゲームをプレイして一番好きだったのは他でもなく美形悪役キャラのピサロさまだった。彼を愛していたので、タニス・リー描くところの『闇の公子』アズュラーンさまや、マイクル・ムアコック描くところの『メルニボネの皇子』エルリックさまに匹敵する出色キャラにしてさしあげたかった。となれば魔界の事情も書かねばならない。そりゃもう書きたいことが目白押しで、それぞれの部分にふさわしい文体をみつけるだけでも四苦八苦、なんとか四冊で収まったのが不思議なぐらいですが、あれでも「長い、くどすぎる、難しい漢字が多すぎる、もっと簡単に単純に、こども向けにしろ!」とさんざんチェックを受けて変更を重ねてようやくあの程度になった、というあたりなんですよ。
>・ その「ドラゴンクエスト」が受け入れられた要因はどこにあると思いますか?
>また、ゲームノベライズが、ジャンルとして確立している現在の状況をどう捉えていますか?
>
原作が偉大だったから、というのが一番大きな要因だと思います。アニメを好きになったひとが、キャラクターグッズを買ってくれるのと基本は一緒。
それと……実は日本には頭脳明晰で優秀なお子さんが多いから、かもしれません。それまで学校の国語の教科書に載っていたり、読書感想文用に読まされたりした「小説」は、古臭くて、なんかどーでもいいことしか書いてなくて、ぜんぜん萌えられなかったけど、実は「小説」の中にもちゃんとおもしろいのがあるんじゃん! って思ってくれるようなひとが。自分にとって興味ある内容が書いてさえあれば、まるで見たことない漢字や単語がルビつきでダダダダーッと並んでいようと、読めちゃうもんです。少しがんばってでも歯ごたえのあるものをおいしく味わえたら快感だし、自信だと思いません?
ゲームノベライズは、ジャンルとして確立しているんですか? だとするとそれは、オトナ向けでも、テレビドラマがらみの本やテレビによく出るひとの書いた本、権威ある賞をとったものがベストセラーになるのとたぶん一緒です。
余暇をつぶすネタはあまりにもたくさんあり、本を読むのに使う時間と予算はかなり優先順位が低いひとが多いでしょう。とすると読む本も、ひとつひとつ丹念に検証して、自分にいちばんぴったりのものを見つけたりしない。なんらかのかたちで大々的に紹介され、既に「たぶんまぁまぁ好きだろう」と思えるような要因のあるものからトッツく、消費する、するとそれを読み終わる頃にはまた別なものが大々的に紹介されるので、それに飛びついていれば充分だと考える。わざわざ自分からホンヤさんのスミズミまで探しにいくほどのヒマも愛着もない……というのが、残念ながら多くのひとにとっての実情なのではないでしょうか。
>● 「MOTHER」について
>
>・
「ドラゴンクエスト」と「MOTHER」で、ご自身の中でゲームノベライズに対して、何か変化した部分はありますか?
>
『MOTHER』は新潮文庫でイラストなども入らないブッキラボーな作りなので、普段から文庫を読むひとが読むことを想定して書いています。『DQ』は、たぶん普段はまったく本を読まないだろう読者を覚悟して書いています。
>・
作業を通して感じ、以下のノベライズに反映させたことはありますか?
>
『MOTHER』は、なんでも好きなように自由に書いてくださいといわれました。
『DQ』は、すべてのページ、すべてのセリフ、戦闘場面で使ったワザが普通にプレイしていてそのエピソードの頃に達しているはずのレベルでできるものなのかどうかなどまで、細かくチェックが入りました。ゲームとの相違をなるべく少なくするよう、注意されました。
よって、『DQ』のほうは大筋は間違っていないはずですが、『MOTHER』のノベライズは攻略本がわりにはなりません(笑)。
DQシリーズを何本か書いてから『MOTHER2』のノベライズをしたのですが、文庫一冊のサイズに収めることが絶対条件だったので、エピソードをふくらませすぎないように、あれでも必死に気をつけました。でも、ジェフの境遇とか、ゲップーのとことか、「勝手に設定しちゃった部分」や「つい凝っちゃった部分」がやまほどあります。
>・ 「MOTHER」の読みどころ(特にここを読んで(感じて)ほしいなど)を教えてください。
>
文章です。あれを生み出すのは苦労でした。声に出して読んでみてください。意味はもちろんですが、リズム感や響き、おもしろい言い回しなどを、かなり重要視しています。日本語ってきれいだな、楽しいな と思ってもらえたら嬉しい。
>● ゲームノベライズについて
>
>・ 書き手として、オリジナルとゲームノベライズ、それぞれの面白さの違いは?
>また、苦労の違いは?
>
オリジナルはひとりぼっちでする地図のない旅。ゲームノベライズは、ガイドつきでテーマパークを探訪するようなものです。前者をおもしろく読むことができるかどうかは後者以上に読者おひとりおひとり次第。どこまで読めるか、どこまで味わえるかで同じ景色でもできごとでも強烈に感動できたりどーでもよかったりする。
苦労の違いは……そりゃ、地図がなきゃ迷います。効率も悪い。ひとりだと怖い時やつらい時、メゲちゃうかもしれない。怪我するかもしれないし、無事帰ってこれないかもしれない。ヨットで太平洋横断しようとするように、結局途中でダメになっちゃう旅だって多々あります。
テーマパークの場合は、そこが好きじゃないと……つまり、原作にあくまでゾッコンいれこめなければ、ぜったいに書けません。その世界にどっぷり浸かり、キャラになりきって楽しくないなら、そもそも志願するべきではないと思います。
ひとつひとつのアトラクションの演出などに、ふと、「これってなんか違う……」と感じてしまったらもう純粋にはハマれなくなる。ちょっと違うと感じてしまったところで、「わたしならこうするのに!」とかいうのを許される場合と許されない場合があり、あまり許されないと、もうそこでは遊べないです。
>・ ゲームと小説の関係をどうとらえていますか? また、ゲームにはない小説の役割は、どのようなものとお考えですか?
>
ゲームは徹頭徹尾デジタルですよね。キャラのスペック、敵のスペック、なにかのイベントがおこるためにフラッグをたてるかどうかなど、すべて数字によって決まり、数値で管理されている。成長や強弱も、正の整数というう世界共通ですこぶる単純なわかりやすいもので表される。戦闘で勝ったり謎がとければ、その瞬間ごとに爽快感や達成感を味わえる。
小説はもっとアナログで複雑系であいまいで行間なものです。いってみれば「人間の機微」です。それが「わかる」感性がどのぐらいあるかは、受け手ひとりひとりの能力やそれまでの人生経験によって左右されてしまう。ようは読者を選ぶ。小説の感動はゲームのそれと比べるともっとジワジワくるもので、ビミョーな感覚がないととらえられないし、しかも、受け手ごとに独自なものなので、ハードルが高いんです。
デシタルとアナログは、どっちがいいわるいではなく、どっちもなきゃアカン、どっちもその有効な部分で使えばヨロシ、なんだと思うんですけども、まぁ、集団というやつは、平均的レベルの構成員にとって負担の軽いものを選択しがちなので、どうしたってデジタル的管理に目がいっちゃう。
たとえば学校は生徒にしょっちゅう点数や順位をつけるし、企業は社員のひとたちの売り上げやスキルを人事評価する。つまり直線的な価値観で数値が上か下か上がるか下がるかばかりを気にしてしまう。そうして日本は戦後の高度成長ってやつを成し遂げた。でも「人間」的な成長や魅力は、けっしてそういうものだけではない、数字では計れない部分もかなりあるはずだ、そういう部分を評価し、育てないと、社会は明るくならないし、会社はやがて頭打ちになってしまう……って、最近反省されてますよね?
そういう意味からも、「スローフードに帰ろう」、と同じように、もっと大勢のひとが小説に帰ってもいいんじゃないかとわたしは思うんだけども。
>・ ゲームシナリオ出身の方が文章を書き、ゲーム出身ではないにしろ、その文体があきらかにゲームの影響を受けた作家が同時多発的に出てきたことについて、どうお考えですか?
>
うーん……どうなのかな。シナリオ作家と小説家って、必要とされる才能の質がぜんぜん違うんだよね。
シナリオは、どんなにシナリオとして完璧であっても、他のたくさんの才能(絵を描くひと、声優さん、音楽を作るひと、演出するひと、などなど)を必ず同時に必要とします。それぞれにプロなひとたちが各自の得意分野を分業してはじめて作り上げることができるモノに携わるべき種類の才能なのね。
コーラスをする場合を考えてみてください。ひとりやたら声がデカくて迫力があったりするときれいなコーラスにならないよね? 大勢で作るものには突出したひとりはいらない、ていうか、いるとジャマなのよ。
これに対して小説家は、たったひとりで世界をまるごとゼロから作ります。そりゃ挿絵とか編集さんには助けられますよ、すごく大きな力を借りるけど。中には、ブレーンを抱えてるひともいるかもしれないし、内容に関わる専門家に相談してチェックしてもらったりする作品もあるかもしれないけど、でも、基本的に小説家本人の強烈な創作意欲と個性がなにより重要なのね。そういう感性って、大勢の他人と互いに同等の立場でうまくやっていくことにはまったく不向きなのさ。ワガママで、勝手で、妥協しらず、協調性なんてぜんぜんない(笑)。でないと、船頭多くして……ってアレになる。
マンガはビミョーなとこです。基本は、漫画家さん本人のエゴなので、そういう点では小説にかなり近いんだけど、長期週刊連載を成立させるにはアシスタントを大勢抱えるシステムがどうしても不可欠でしょう。単行本何冊分もの作品を大勢のアシさんとずっとうまくやっていくことのできる「センセイ」っていうのは、あんまりワガママじゃない、個性がそんなに強烈じゃない、ちゃんとひとに譲ることができる、ひとを許すことができるひとなわけだから。経営者的な才覚もないと、やってけないよね。
筋肉に、ソッキン、チキンってあるでしょ。赤身と白身と。短距離ランナーが使う筋肉と、長距離ランナーが使うのと。脳みそにもたぶんそれに相当する部分があるんだと思う。「大勢よってたかって型」は即断即決短距離型で(じゃないと、意見が割れてしまって作品が完成しない)、「ひとりしんねりムッツリ型」はシメキリや生活費の心配がなきゃ、自分のコドモみたいな作品を永遠にいじってるだろう長距離型ね。
で……
時代はどうしたって短距離なのよ。結果を早く求める。
アニメとかCG実写とかゲームとかに、幼い頃からどっぷりハマってて、そういう「大勢が寄ってたかって成立させたアート」のスピード感や豊穣な情報量にしか感応しないような脳みそを育ててきたら、いわゆる典型的な小説は、ほんとうの意味では読めないんじゃないかな。それは「強烈な個人」に対して自分をいったん虚無にして白紙にして「どうにでもしてください」ってさらして料理してもらうようなものだから。アカの他人に対して絶対的な信頼感を抱かないと、そこまでこころなんて開けないよねぇ。
いまどきの若いひとはそもそも濃密な人間関係が苦手だよね。ひとりの誰かといいとこもわるいとこもみんなブチまけて深くつきあうっていうより、カラオケいくなら彼らと、合コンいくらならあの子たちと、ちょっとメシ食うならアイツと……って、広く浅くテキトーにつきあうほうが得意でしょう? そもそも……本読むのって、かなりジミでネクラなシュミだよね。ひとりで集中してじーっと長い時間読み続けたりするわけで。ケータイがしょっちゅうならないと人気ないみたいで仲間はずれみたいでさびしいとか、毎日誰かとつるんでいたいとか、そういうこと自然と思うひとにとっては、挿絵もろくにない活字の羅列を延々と読むなんて退屈じゃない? 誰かの小説に熱中してどっかにこもって何冊も真剣に本読んだりする自分にはなりたくない、そんなのダサくて、って思うかも。そういうひとでも、本来そういうひとに近い脳みそを持ったひとの活字の連ね方なら耐えられるんじゃないかと思う。共感できるんじゃないかと。
活字が並んでストーリーを構成していてそれが本のかたちになっていると、みんな同じ種類のメディアに見えるかもしれないけれど、実は、「シナリオ作家系のひとの書くもの(本来大勢が寄ってたかって型の脳みそに適合)」と「従来の小説(ひとりでいることが苦痛でないどころか実はみんなでワイワイやるより好きなやつに適合)」ってのは、本来、ぜんぜん別の分野なのかも。このどっちかをすごくすごく好きなひとからしてみると、そうじゃないほうは「自分にはピンとこない」ものなのかも。もちろん、どっちのひとが読んでもおもしろいものも、そりゃ中にはあるかもしれない。ほんとうに超絶天才級なものがね!
>・ これからのゲームノベライズに期待すること、まだまだ不満に思うところをお聞かせ下さい。
>
志は高くもっていただきたい。十年後二十年後五十年後にも読み続けられるような作品を書いて欲しい。……ってコバルト時代に氷室冴子先生がいつもいってたことなんだけどね。
>・ 生まれたときから、すでに家庭にゲーム機がある、ゲーム世代及びゲーム小説世代に若い読者にメッセージをお願いします。
>
食べてみてどうしてもイヤだったらしょうがないけど、せめて食わず嫌いはやめましょう。顎も脳みそも鍛えないと、やわらかいものしか受け入れられなくなる。もったいないです。
以上
[後記]
最近発刊した講談社の『ファウスト』誌のさまざまな記事・小説作品・作家インタビューなどを読んで、「ゲームノベライズ」や「最近の若い作家」に対する認識がそれまで足りなかったことを痛感した。特に「記号」に対するアプローチとか、どういうモラルをもっているかとかが。ただ、上で答えたことは基本的には変化しません。
上の用語でいうなら、主に「大勢でよってたかって作るもの」によって後天的に形作られてしまったけれど、本来先天的には「大勢でなにかするよりひとりでいるほうが好き」な脳みそをもったひとたちっていうのが、実は大勢おられるのではないか。(アニメ好きでひきこもってるかたなんて、まさにそうなんじゃないか?)そういうかたがプロを志向したとすると、自分の脳みその中に生じたいちばん好きなもの大切なもの実現させたいもの(自分から出して世間に見えるかたちにしたいもの)は「多勢のプロを必要としそう」なのだけど、あいにく自分はひとといっしょに作業をするのはあまり得意ではない、という矛盾に引き裂かれてしまうことになる。ひとりで大勢分をみんなやりとげるのはすっごい大変ですよ。エネルギーも時間もハンパなくかかる。生鮮食料品なみのスピードで消費されちゃあかなわない。なかなかできることじゃない。でも、テクノロジーがここまで進むと、『ほしのこえ』とか、ちゃんとできちゃったわけですよね。王城舞太郎さんは小説もイラストも描くし。若さっていいなぁ(笑)パワーあるんだなぁ。
読者さまがたとギョーカイがそこらへんをくっきり認識して、「ひとりで全部やりたい」けど「作り上げるもののレベルは大勢でやったものナミでなきゃ納得いかない」なひとたちを、もっとうまくサポートしていくと、すんごい作品がどんどん出てくるんじゃないかと思う。日本の未来は明るいなぁ!
すみませんこのハッパの壁紙どこからいただいてきたかわかんなくなっちゃいました。くららの「素材屋さんたち」の中のどれかなのは確かです。たぶん。ごめんなさい。