母子手帳について

 雑誌『婦人公論』で読んだのだが、85年ぐらいに母子手帳の全面改稿があったそうだ。それはこどもに関する意識の大変革を招いた。

以下、『婦人公論』2006年4月7日号掲載の、品田知美さん著、「育児マニュアルの変化が女同士のすれ違いを生んでいる」を読んで、知ったこと考えたことを記している。この部分を書いた時には当該雑誌が見当たらなくなっていたため、正確な引用などはできなかった。元ネタを明らかにしておく。おもしろい考察を披瀝してくださった品田さんに感謝する

 昭和の昔、日本は第二次世界大戦後の必死の復興→高度成長時代であり、平均的国民は、「猛烈サラリーマン家庭に専業主婦、ふたりか三人のこども」というイメージだった。ママは(忙しいパパをわずらわたりせずに)どんな時もひとりで頑張って子育てをしなければならなかった。また、こどもたちは将来、猛烈サラリーマン社会の兵士となかその妻となるのが当然と考えられていた。成績をあげ、良い大学に進学し、よい会社に就職すれば一生安泰と信じられたのである。「他人に遅れをとらないこと」つまり競争と、「敷かれたレールからそれないこと」つまり横ならび主義が併存していたのである。

 バブル崩壊とともに、この常識が崩れさる。少子高齢化が叫ばれ、リストラ・脱サラ・パートやフリーターが激増。「一生守ってくれる」会社に所属して忠誠を誓うことよりも、個性ある人間として等身大のスキルや生きがいを大切にする人生を選択するものが増えた。子育てはママだけのものではなくなった。家族全員地域社会までふくめてなるべく大勢でかかわってしてよい、むしろそうするべきものである、と認識されるようになった。

 母子手帳という名称は実はもう正しくない。いまは「親子手帳」というのである。いわゆる母子手帳の中に「父子手帳」というミニ冊子がはさまっていたりする。パパもまた、子育てに関心を持つべきだし、参加できる部分は積極的に参加すべきだ、と、「国レベルで」主張するようになったわけである。

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 さて。

 こないだまでママだったママは娘が出産するとオバアチャンになる。オバアチャンにしてみれば、孫も可愛いし、娘も可愛い。自分が妊婦だったり産婦だったりしたころのことも、懐かしく思い出すだろう。もしかすると、ずっとしまいこんでいた母子手帳や娘がちいさかったころのアルバムなどをひっぱりだして久しぶりに眺めてみたりするかもしれない。

 あーあのころはわたしも若かったね。まだ元気だった。オバアチャンはしみじみする。

 彼女の目には、娘のやることなすことが「あぶなっかしく」みえる。なにしろまだママ初心者だから、不慣れでぎこちない。それだけならまだいいが、どうも娘のいうことやら考えやらは「非常識」なようだ。わかっていない。これではいけない。

 いまこそ自分の出番である! オバアチャン張り切る。

「ちょっと貸してごらん」自分のやりかたを教えようとする。口出ししようとする。

すると。

「やめてよ!」娘の激怒にあうのである。「なにいってんの。メチャクチャじゃん」

「ママ、おかしい。へん」

「産院の先生に聞いてごらんよ」

「雑誌にもサイトにもこうしなさいって書いてあったもん」

「ああもう頼むから余計なことしないでったら!」

 なぜか?

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 ごく大雑把にいいますと。

 昔は、世間さまは、母親に対してもこどもに対しても(ついでにいうなら猛烈サラリーマンのパパにも)スパルタ式にきびしく自律することを要求した。

 ダメなものは許さず、叩いてでも鍛えなおせ、という感じ。勉強させろ、努力させろ、より高い目標にチャレンジさせろ、と叱咤激励した。しかも「平均」からはずれることにまったく寛容でない。「おちこぼれ」なこどもを作ってしまうようなおろかな女は「母親失格」と烙印を押される。

 バアチャン世代(のいちばんはじめのほう)が母親になったころというのは、なにしろアメリカにコテンパンにやられてすぐなんで。かの国のプラグマティズム(実利主義)的な思想や「消費文明」にあこがれの気持ちがまだ非常に強かった。『ブロンディ』の「ダグウッド・サンドイッチ」とか「ギブミー・チョコレート」といってもいまどきの若いひとにはイマイチわからないのではないかと危惧するが、ようするに、アメリカさんは豊かでゼイタクでカッコいい! と思われてた。マクドナルドのハンバーガーもコカコーラもなかったのよ。なかったんだから、はじめて見た時は「うわー」と思う。なにせこっちは「欲しがりません勝つまでは」だった。冷蔵庫とテレビとクルマを持ってるひとなんて、ちょーオカネモチのごく一部だけだった。みんな、そういうもんが欲しくてたまらなかった。そういうもんを持つことができるようになるまで、努力しよう! とがんばった。

 しかしまぁご存じのように、そういう欲望バリバリの生活が、南北問題とか人種差別とか公害とか地球温暖化とか原子力発電所チェルノブイリの事故とかと直結しているわけね。ってなことが、日本のひとびとにも、だんだん肌に感じられるようになってきた。はたまた、白人(おもにアメリカ人)をうらやましがる気持ちも、だんだん薄れた。黒人や、エスニック文明系の先住民族系だってカッコいいじゃん! 中国も韓国もナイスじゃん!と思うようになり、そういうところのスタアを愛し、ファッションや音楽を愛好するひとたちがぜんぜん珍しくなくなった。最近は、主婦雑誌ですら「エコでロハスな生活」のほうが流行だったりする。

 そしてまた、20世紀末を越えてインターネットでグローバルで人口爆発で世界のどこにも秘境なんかなくなってつまりすっかり先がみえてしまったいまは、ある意味、歴史上もっともキビシイ、生きにくい時代であるかもしれない。我が国でも、過労死や自殺、家庭内暴力、児童虐待、凶悪少年犯罪などの種々の問題がいつも新聞を賑わしてるし、うつ病やパニック障害、ストレス性のアトピーなどが「誰にでもありうること」と認識されるようになった。

 そんなふうだから、いまはひとが「弱さ」をふくめて自分の「素顔」をみつめることを許されるようになった時代でもある。その昔、まだイケイケドンドンだった時代が、暗黙のうちに痩せ我慢が奨励され、歯を食いしばってでも踏ん張らねばならず、弱音をはくものは脱落する、レールから落ちたらそれっきりだといわれていたころとは、隔世の感だ。

 いま現在の母子手帳や、産院や保健婦さんの指導は、これを反映している。

「がんばりすぎない」「個性を生かす」「その子のペースで」「つらい時は助けをもとめよう」「自然にできるようになるまで待っていい」といった具合。

 新米ママである娘には「至極とうぜん、あたりまえ」のこのへんの感覚が、新米オバアチャンである母には、わからなかい。わからないだけじゃなく、納得いかない。

「だらしない」「いいかげん」「なんて甘ったれてるんだろう?」と思えて、イラつきのもとになったりする。

 

「泣くんなら泣かしておけ。そのうち泣き止む」

「抱きぐせがつくから、ほうっておけ」

「粉ミルクのほうが飲んだ量がきっちりわかるし、栄養も考えられている」

「一歳すぎてオムツしてるなんて笑われる」

「まだしゃべれないの。この子バカなんじゃないの」

「保育園にやるなんて冗談じゃない。三歳になるまでは母親がしつけなきゃ」

「いまのおかあさんたちは、ずいぶんと優雅だねぇ」

などなど。

ちなみにいまどきは、泣いたらまず抱きしめて「共感」しこどもが落ち着くまでいっしょにいようというし、抱きぐせはついてもかまわないと言い切るし、どちらかといえばなるべく母乳で育てようというし、トイレットトレーニングは二歳すぎて「ちっち」が言えるようになってからでいいというし、発達はそれぞれでさまざまだから焦るなというし、ママとマンツーマンでいるより少しずつ他のこどもやよとのひととふれあうほうがよいというし、母親業はとんでもない大事業なのでうまく空気ぬきをしないと持たないのはあたりまえだというのである。

「えー? そんなはずないんだけどね。ママの時はそんなこと言わなかった」

そう、そこが問題なのである。ママのころは育児学の専門家にすらこのように考えるひとは少なかった!  ママが鵜呑みにして頑張ってしまった理論は、なんと、最近の考えかたからすると『間違っていた』のである。ここにさらに問題が発生する。

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たんに新米ママの神経にさわるような発言をするばかりではなく、オバアチャンはいまや、「間違った子育てをそうとは知らずに実践してしまったひと」であることが明らかになった。しかも、その子育てはすでにとっくの昔に終了している。そうして育てられた娘が他でもない、そこでいま新米ママになっているその子だからである。もうとりかえしがつかない。

新米ママであるところの娘はガクゼンとする。

ちょっと待ってよ。うそ。じゃあ、あたしってば、そんな最悪な育てられかたをしたってことなのー!?

泣きじゃくってもろくに抱っこもしてもらえなくて、オッパイはあまり吸わせてもらえなくて、オムツは無理やりはがされて、オモラシしたら叱られて、他の子とくらべてなんでもどんどんちゃんとできるように、ぜったい「発育が遅れ」たりしないように、がんばれがんばれって焦らされて、なにかっていうとお尻叩かれて……自分らしさなんてわかってもらえなくて、大事にしてもらえなくて。

まるで、ぜんぜん可愛がってもらってなかったみたい!

ああそうか。だから、わたしは、こんなやつになっちゃんたんだ……!

それもこれもみんなみんな、ママのせいよ!

……かくて、またひとり、自分を「典型的アダルト・チルドレン」「間違った子育て法の被害者」と自覚した新米ママが誕生してしまったりする。

 

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ここではモノゴトを少しばかり大袈裟に、誇張して書いた。

それぞれの母娘がどうだったかは、たんに世代のみならず、お住まいの地方の風習、家風、個人の性格、家族構成、経済事情、その他さまざまな要因が複雑にからみあって生じるものであって、ただ『母子手帳』がどうだったかに単純化しきれるものではない。

はたまた、「流行」というのはなぜか右へいったり左へいったり長くなったり短くなったりして「波動」するものだ。

たとえば「赤ちゃんはなるべくオンブなどでおかあさんに密着させて育てる」やりかたと「なるべくベビーベッドにおいておく」やりかたがあるわけだが、なぜか「その時のはやり」は一定の時間をおいてこの両極端の間をいったりきたりする。五世代の女性がいるご家庭で、各自がどういうのが適当だと思うかの言い分を聞いてみたら、みごとに「いっこ置き」に似ていた、という報告もある。つまり、ばあちゃんとまごは「同じ」思想にそまりがちで、「母」はこの両方と対立しがちなのだ。なんだか中学とか高校の時、一年生と三年生がナカヨシで、二年生がもてあまされていたのを思い出す。

ということは、子育てなんてものにはさまざまなやりかたがあり、なんでもいいし、どっちでもいいのだ。

「万民に通じるぜったいに正しいやりかた」なんてない。ないんだから「間違う」のがあたりまえである。試行錯誤で、手さぐりで、やってみるしかない。

その子にあうあわないはあるかもしれないし、育児担当者にとって、「これが自然だ」「気持ちいい」「ラクだ」「納得がいく」「ウチの生活ぶりとヒョウソクがあっている」とかはあるだろうと思う。

いずれにしろ、母子手帳にどう書いてあろうが、医者がどういおうが、妊婦雑誌にどう書いてあろうが、インターネットでたまたま行きあったサイト(たとえばココ)にどう書いてあろうが、あなたの大好きな(あるいは大嫌いな)ママがどういおうが、そんなにものすごく気にしなくていい。雑誌の占いの欄を見るように(?)もしかして「たまたま意識に残ったら」気にする、ぐらいでどうか。有益そうだったら取り入れればいいし、イヤだったら無視すればいい。

あとから「ああ、あの時あそこでちゃんと教えてくれてたのに。もっとマジメによめばよかった、聞く耳もってればよかった〜!」と反省するかもしれないが。

いかに素晴らしい種があろうとも、畑の準備ができ、天候気象季節などが「しかるべき時」になるまでは、芽はでない。親の小言となすびの花にゃ万にひとつの無駄もないというが、うんと時間がたってみないとわからないこともある。実際やってみないとわからないこともある。それはそれでいいのである。

 

お母上あるいはお嬢さまとの関係にゆきづまったら「もしかするとこれ、『母子手帳』のせいかも?」と思い出してほしい。その自覚あるいは意識が、のっぴきならない泥沼をうまいこと打破するきっかけになってくれたら、こんな嬉しいことはない。