こどもなんて生みたくない……?

   「まだ生みたくない。もっとあそびたい」

      「めんどくさそう。責任おもそう」

      「親やっている自分を想像できない」

      「自分のことですら、せいいっぱい」

      「おカネかかるんでしょー?」

      「もうすぐ地球は滅亡するもん」

      いろんな気持ちが揺れてました。

            

実はわたしは、こどもなんてもともとぜんぜん好きじゃなかったです。

小さい子なんてどうやって相手していいかわからないし、偶然あう余所んちの子はこわいからなるべくさわらないようにして過ごしてきました。ワガママなので、ひとにあわせるってことがダイキライ。赤ちゃんとか小さい子なんて、こっちからあわせないとしょうがないでしょう? それを考えると、ヤダなー、というのが、本音です。

おかげさまで仕事が好きだし、わりとうまくいっていたし、そのまま一生働きまくって生きていくタイプだと確信していました。

けど……好きなひとと結婚して十年とかたつと、幸福は幸福なんだけど、いまいちかわりばえのない日常にちょびっと飽きてきた。「そろそろこどもがいてくれもいいような気がするんだけどなぁ」と思うようになり。旦那はひとりっこなので、彼とわたしの間にコドモができないと旦那ペアレンツは孫の顔をみることができないわけで、なんかそれは申し訳ないような気もしてきたり。おりしも仕事がゆきづまり、自分に自信もなくなって、どんどん年もとってきた。

「わき目もふらず頑張ってきたのに、たいしたものが残ってない。虚しい……」

みたいな気分になってしまう時がふえてきた。

わたしは小説家。製造業でサービス業ですが、工場経営とかとちがって、初期資本はほとんどかかりません。なにしろ、文章は、最低、最悪、紙とペンさえあったら書けますから(できたらパソコンと周辺機器などが欲しいですけど)。ようするにもっとも重要な資本は「自分」なのであります。くたびれてない、すりきれてない、やる気とアイディアに満ちあふれた自分。ピチピチで、イキがよくて、イケする自分でないと。

作家生活二十年、その自分に少々ガタがきた。賞味期限がきれてきた。よろしくない感じになってきた。こんな自分やだ。捨ててしまいたい。でも、そうもいかないんで、せめてちょっとメンテナンスしたい。タイヤ交換して、エンジンとか掃除して、外装ももうちょっとキレイにして。

こどもができるということは、そういう意味で、なんかとってもいいキッカケになるんじゃないか、なんて他力本願な期待を持ちました。妊娠中はどうしたって少しは休まなきゃならないだろうから、きっと否応なしにゆっくり休めるだろう。「ママ」という新しい自分になったら、さまざまな体験をコヤシにして、また別の小説がかけるかも! ぶじ産み落としちゃったら、一刻もはやく旦那にあずけて、なるべく彼に面倒をみてもらおう。自分はこれまでどおり仕事にいきていくんだもん!。

       なのに! 

  うまれてきた赤ん坊は、あまりに可愛いらしく、面白く、相手をしていると実に楽しいんですから驚きました。しじゅう目をはなせないと、そりゃあへとへとになりますが、次々にいろんなことしでかしてくれるから、飽きないとも言えます。

 もしも誰かが「こどもをかまう以外のこと」を全部してくれるならば、そうしてもらいたい。小説を書くなんて雲をつかむようなシゴトはもちろん、炊事とか掃除とか毎日まいにちやってもやってもきりのない家事も、できたら誰かよその人任せにして、「ただただ、子育てをしていたい。こどものことみつめて、こどもとあそんでいたい。ああ、ほんとうに、そうできたらいいのに!」なんてことを思ってしまうようになり、そんな自分にどびっくりしてしまうのでした。

(実際には、ずーっとこどもとマンツーマンでくっついていたりすると、そりゃあやっぱり疲れます。旦那とか、実家かえったら親とか、たまに彼女を引き受けてもらって、羽根を伸ばさないとキレてしまうと思います。なるべく娘をかまいながら、時間のスキマをぬって原稿かいたり、ルーティーンの家事をやったり、いろいろ他のこともやってるのが、結局はバランスいいのかもしれません)

 

こどもなんて欲しくないとおっしゃるかたもとっても多い昨今。結婚していても、彼氏がいても、それでも「こどもはなくていい」と思い、つくらない選択をして、幸福に過ごすかたもあられまする。

出会ってから何年たってもラブラブの、恋人同士みたいなご夫婦のところほど、なぜか、こどもさんがなかったりします。そういうご夫婦はそもそも籍をいれてなくて、いわゆる「夫婦」ではなかったりもするんですが。

はたまた、こういう言い方がひょっとして差別的になってしまったらゴメンナサイなんですけど、ひとよりめぐまれたお生まれでお育ちのかたほど、こども持ちたがらない率が多いような印象もあります。昔いうところの三高、つまり、高学歴・高所得・高ルックスのカップルとか。たぶん「二人でいれば完璧」で、「これ以上をのぞまない」というか、「このせっかくの良い関係をこわしたくない」とか、そんなことがあったりするのかなぁ、という気もしますし。ことに女性のキャリアが高いと、その能力をおもいきり使いきりたいと思うのかもしれない。はたまた、邪推ですが、たとえば「できちゃっ」ても、予定外のことがらだったら中絶するとか、自分で自分の人生をコントロールしたい意識が強かったりするかもしれない。

ものの本で読んだのですが、欧州の上流社会などでは、妊娠はさすがにしないと血が途絶えちゃいますからこばみませんが、授乳を拒絶する層があるそうです。フランス女性とか、いまだに「おっぱいをだすなんて、ウシみたい。そんな動物みたいなことを、このわたしがするなんてイヤ!」って考えをもってるほうがふつうだったりするとか。なにしろキリスト教は、「人間」を「動物」とは区別して、どんな動物より圧倒的に上のものだとしていますからね。生物として自然な、本能にしたがったようなことがらをするのは「おハイソじゃない」というか「人間としてみっともない」んですね。ちなみに出産そのものも、より人工的に、他力本願に、麻酔をつかって無痛で吸引で、とかってやりかたをしたがったりする層があるみたいです。

お伽話でも、王さまんちのこどもたちは乳母にそだてられる。お妃さまとか女王さまは「オッパイをだす」なんて下世話なことはしちゃいけない。サクセスを目指して驀進しているキャリア・ウーマンは、一国一城の主みたいなもんですから、子育てなんてしない・できない・してられない・んですね。

(二十代のわたしもそんな感じでした。自分がなりたい自分になるのにせいいっぱいで、自分をそだてるのにせいいっぱいで、他のものなんかそだてる余裕、ぜんぜんない! と思ってました)

 

持ってみてからわかってちょっとガクゼンとしたのは、「こどもなんて欲しくない」ってカタクナに思ってた時には、実は、こどものこと、ほとんど知らなかった、ってことでした。特に、ちいさなちいさな子。赤ちゃんのことを。

知らないのに「いらない」って決めつけてたんだすね。イメージで。

知らないからコワイ。コワイから知りたくもない。そんな堂々巡り。

それでもたまに「こどもを持ったわたし」を想像しようとした場合、自然と思い描くのは、三歳ぐらいの子とか、小学校低学年ぐらいの子とか、中学生ぐらいの子とかでした。「その年頃だった時の自分」のことを思い出して、そのころどんなやつだったか、どんなこと考えていたか、親にどんなことして欲しいと思ってたか、なんてことを、考えてみたりもしました。するってーと、「ああ、あんなむずかしいヤツの相手をするのはウンザリだ」なんて思うわけです。

けど、うんと赤ちゃんの時のこと、まして新生児時代のことは、いくら自分のことでも、ぜんぜんおぼえてないし!

よその子のそういう時のことも知らないし!

なにしろ、あまり身近に赤ちゃんってものをみたことがなかった。弟のとこに甥っこが生まれたのはわたしが娘を生むほんのちょっと前だった。

「欲しい」と思いはじめたのになかなか出来なかった時期にも、事実はさっぱりわかってませんでした。なにしろよその赤ちゃんを見ると、「なんでわたしにはできないの」とヒガミの気持ちばかりが募ってしまいそうで。なるべく目を背けていた。

 

そもそも、偶然目にする「よそんちのお子さん」というのは、そんなには小さくありません。スーパーマーケットなんかで走り回っているのは、すくなくとも「ひとりで立って歩ける時期」になってからのお子さんです。ママにオンブされてる赤ちゃんや、ベビーカーにのっている赤ちゃんは、外からはそんなによく見えません。わざわざ近づいてのぞきこまないと見えません。新幹線などでそばの席にいる赤ちゃんも、声はすれども姿は見えず状態で、たいがいの場合、そんなにものすごく小さくはないと思います。なにしろあまり小さい子をつれてでかけるのはたいへんですから。特に、おかあさんひとりだと。

新生児ちゃんは、産院以外の場所にはあまり出没しません。そしてまた産院は、妊婦さんとその家族以外にはあまり用のないところです。ようするに実際妊娠に直面するまで、隠されているというか、一般大衆から、離されてる。隔離されてる。生後すぐは、オムツも授乳もたいへんだし、お産の疲労回復もしなきゃならないしで、おかあさんはいっぱいいっぱいです。そうそうノンキにおでかけなんてできやしません。だから、そういう、ほんとうに小さな生まれたばかりの時期の赤ちゃんは……一緒に暮らしている家族の誰かが生んだとか、お互いの家を自分の家のようにいったりきたりしている超大親友が生んだとかでもないかぎり……しげしげ間近に詳しくわかる目にするチャンスなんて、なかなかない! 畢竟、まったく見たことがなく、なにも知らないまま、自分が生んで、はじめて知ることになったりするわけです。

そうか、これが赤ちゃんってものなのか。

というのを。

なにしろ驚きです。新鮮です。

予測つくだろって思うかもしれませんが、事実の重みってやつはすごいですから。でもってそれが、次々にジャブのように畳みかけてきますから。

 

でもって、

もちろんひとによるかもしれませんが、

人間、

珍しいものは大切に思う

ようにできています。

はじめての体験は大事にする

ものです。

だから、多くのひとは、つい、のめりこみます。いっしょけんめいになります。はじめて授かった赤ちゃんに。

こんな面白いオモチャだったんだ〜! と。 

 

 

少子化は多くの点で困ったことでいかんことなわけですが、ものごとなんでもウラオモテ、ちょっとぐらいは良い点もある。ひとりのおかあさんが十代のおわりぐらいから死ぬまでに七人とか十人とかこどもを生んで生んでうみまくっていた時代には、こどもは、そんなに珍しいものじゃなく、子育ては、ぜんぜん目新しいものじゃなかった。でも、いまや、日本の女性の生む数は、ひとりとかふたりとか、せいぜい三人ぐらいであることが多い。寿命のほうはグングン伸びていて、こどもが手を離れてからも人生は続く。

いまは、「子育てする時期」って、人生のうちで、特別なシーズンみたい。

ほら昔のひとは、初潮から生理があがっちゃうまで、しょっちゅう妊娠しては、こどもを育てていたわけですけど。ていうか、生物としてのニンゲンにはそのほうがあたりまえで、文明人は、いってみれば、動物としてちょっと間違ってる、わけですけども。

めったにできない貴重な体験だからこそ、実際「その場」にほうりこまれてみると、ついつい無意識に全力でがんばっちゃうし、全身全霊で愉しんじゃう、のかもしれない。

 

ある種の愛情は、そのもののためについやした時間やエネルギーの量に左右されます。たくさん手をかければかけただけ、大切になるし、執着します。

新生児ちゃんってば、自分ではほとんどなんにもできません。だから、とにかくセッセと世話してやらなくてはなりません。ほとんど一日じゅう、四六時中、観察して、様子を見て、対応しなければなりません。この否応なしの「密着」が、知らぬまにどんどん愛をそだてます。そしてまた、赤ちゃんの発達ははやい! 日進月歩というか、毎日変化します。「ほんとにぜんぜんなにもできなかった」状態から、ものすごいイキオイでいろんなことができるようになっていきます。そんなにたいしたことじゃないですよ。ささやかな、小さなことです。目をあけるとか。手を握ると、握りかえすとか。あんよを持ち上げるとか。あんよをつかむとか。

「そんなつまんないことをやってみせてくれたからって、なにが嬉しい!?」

と、あなたはいま思ったかもしれません。けど、実際、生きて動くちっこいイキモノを目にするとですね、そんなほんとにつまんないことでも、メッチャ嬉しいんですよ(笑)。動物園とか水族館とかにいって、好きな動物のオリの前でじーっと眺めてたら、どうです。レッサーパンダがちょっと直立しただけで、あんなにみんな夢中になったじゃないですか。タマちゃんなんてアザラシなんか、「出現してくれただけ」でそうとう嬉しかったでしょう?

動物好きなひとだったらわかると思うんですけど、動物を眺める時って、とにかく、なにをしててくれても嬉しいわけです。「おいしそうにエサを食べてみせてくれたら」かなり嬉しいです。(猛獣さんのエサ食べシーンは殺戮だったりするので、そういうのはちょっと……とおっしゃるかたもあるかもしれませんが)。あまりに嬉しいので、動物園のおサル山の手すりとかには「おなかをこわすのでお菓子などをあげないでください」なんてかいてあったりします。みんな、つい、なにかあげたくなるんですね。なにかあげて、それをおいしそうに食べてくれてるところをみて満足感をあじわいたくなるんですね。

子育てすると、毎日いくらでもみれますよー、動物(=べいべー)がもの食うところ。っていうか、せっせと食べさせないといけないですよ〜!

イキモノがなにか食べてるのをみると嬉しいというのは、あれは、たぶん、本能ですね。こどもがオッパイを上手に飲んだり、離乳食をちゃんと食べたりしてくれると、そりゃあもう、とんでもなく嬉しい。たぶんその「代償」というか、「象徴」みたいに、好きな動物がエサ食べると嬉しくなっちゃうんだと思います。

セッセと食べてくれる子は、死なないです。すくなくともいますぐは。そう簡単には。死なないです。だんだん育ちます、生き延びます。だから、食べる子はかわいい。食べる姿はかわいい。元気よくもぐもぐたくさん食べる子は、エライ子だと思う。食べない子にはハラハラさせられるんです。

かくて、新生児ちゃんは、一日に何度もオッパイをもらう。哺乳瓶なら、飲むとミルクが減っていくのがひと目でわかります。母乳なら、吸われると吸われる感触がして、張っていたオッパイがだんだんタルーンと柔らかくなっていくのが感じられます。「んく、んく、んく」と赤ちゃんのちいさなほっぺやくちびるが動くと、ミルクがへっていったり、ぱんぱんだった乳房がらくちんになったりするんですよ〜! これは嬉しいです。たのしいです。「おおー、のんでる!」って感激します。「よくできてる」「なんてうまいしくみだろう」と思います。赤ちゃんはくちびるをドーナツ型にひろげ、力をこめたベロをチクビの下にあてがって、しごくようにしてのみます。ただ、ストローを吸うように飲むのではないんです。その飲むすがたの上手さや力強さに、わたしなんかほんとホレボレしました。こんな小さなからだなのに、誰も教えなくても、ちゃんとこんなことができるんだぁ、と、イキモノってもののすごさとか、自然の巧みさとか感じて、ジーンと感動しました。

こどもって、こういうささやかながらワンダフルでビューティフルな日常とその変化をいろいろと見せてくれるイキモノなんですよ。でもって、毎日一日ずつ積み重なってどんどん変わる。這えば立て、立てば歩めといいますが、そんなにあせったり急かしたりしたくないぐらい、むしろ「待ってー、もっとゆっくりでいいよ〜!」といいたいぐらい、どんどこ変化し、どんどこ育ちます。親のほうも、ママやパパの初心者だと、あらゆることをはじめて経験するわけで、こどもの成長に対応してどんどん変化していかないといかんです。

 

最初赤ちゃんはほとんどずっと「仰向け」です。新生児ちゃんなんて、そのまま一日じゅう、ほぼ、じーっとしています。抱き上げたら、おろす時には、ちゃんと仰向け姿勢になるようにそーっと大事に用心深くおろさないといけません。床におふとんとか敷いてあってそこにおろすとしたら、かなり慎重にやらないとダメです。立ってる姿勢だったら、膝をつくとか、なんかしないと。そうして、腰とか背中とかを充分につかって、ゆっくりゆっくり、確実に、おっことさないようにおろします。アオムケ赤ちゃんを一日なんどもあげおろししていると、そりゃあう、背中がぱんぱんになります。そんな赤ちゃんもやがて、あんよをバタバタさせるようになり、ねがえりをうつようになります。お座りができるようになったら、大変化がおきます。なにしろ、おろす時、これまでほど「したまで」おろさなくてよくなるんです。おすわりのカッコができますから。さらに、たっちができるようになると、こちらはほとんどかがむ必要もなくなります。ついこないだ床までおろしていた時のようには、背中がいたんだり、筋肉がぱんぱんに腫れたりしなくなります。

こういうダイナミックな変化がおこってしばらくは、無意識に、「もっとしたまで」かがもうとしてしまう。そして、そのたびに、「ああ、もう、平気だったんだっけ。ここまで気をつけてあげなくても大丈夫になったんだ! 成長したなぁ」と思います。

 

 

赤ちゃんの小さなからだと脳みそは、めまぐるしいイキオイで発達します。生まれた直後ほど成長度合いが大きく、変化が大きい(それをいうなら、妊娠中のほうがもっと大きいわけですが。なにしろゼロからはじまって、お産の時までにはだいたい3キロぐらいにまでなっているんですからね)。生後一カ月になるまでがもっとも大切で、最初の一年が重要で……って、「小さなとき」ほど、うんとうんと気をつけて、ちゃんとまちがいなくそだってくれるようにしなきゃならない! みたいな注意をうけますです。

マジメで几帳面な性格のママさんほど、ビビッちゃうかもしれない。なにしろ自分がお産で弱ってる時こそが「肝心」なんて、そんなのヒドイ! きびしすぎる! って思うかもしれない。

でもですね、

人間、なまじヒマをもてあますほどウジウジ考えこんだり悩んでしまったりするものなのであって、あまりに忙しすぎ、めまぐるしすぎ、限界スピードで走っているとね、いっちゃなんですがどうせ、ほとんどなにも考えられません。

ただ、もう、オッパイあげて、ねんねさして、オムツとりかえて、家事とか最低限度自分のことをする、それだけで、日々がすぎていきます。そうして、「はっ」と気がつくと、赤ちゃんがあなたに笑いかけている。赤ちゃんはあなたをママと認めている。もう絆ができている。

赤ちゃんのそういう時の笑い顔のパワーたるや、おそろしいものがあります(笑)

目と目があったとたんににこーっと笑ってくれたりすると、ズキュン! と心臓を射抜かれるようなもので、「♪うわわわわ、♪きゃわわわわゆゆゆゆゆゆいいいいいい!」思考停止します。「ああ、あなたのためならなんでもします」と、すっかり奴隷になってしまうのです。

かくて、「こどもなんていらない」「欲しくない」といっていたアイツはどこにいったんだ? 状態になります。

滅私奉公とはどういうもののことなのか、身をもって思い知らされるのです。

もちろん、ある日ふと我にかえってそんな自分に途方にくれることもあります。なんだかドンヨリ疲れてしまって、やる気がでないときも。赤ちゃんが泣いて泣いてどうやっても泣き止んでくれなかったりするとたいへんです。一刻もはやくなんとかしろとはげしく攻められてるみたいで、ものすごくつらくなります。そんな日が続くとこんな生活耐えられないと思うかもしれません。中にはものすっごく扱いにくい赤ちゃんもいるらしいです。フォローするのにへとへとになるようなことばっかりやらかしてくれるような赤ちゃんとか。

しかし

無理、とてもダメ、不可能! 限界! だれか助けて!

と思うような日々も、そう長くは続きません。「あれっ?」というほど、あっけなくすぎます。なんだか知らない間にどんどこ積み重なって、過ぎてゆく。過ぎてしまうと「うわー、耐えられないことなんてなかったんだー」と思う。「あれー、あたしやってきたんじゃん。やっちゃえたんじゃん」そんな感じです。

そうして、

こどもがいない時には知らなかった「こどもってどういうものなのか」ということを、ただただ思い知らされる。それは「こういうものだ」というデータが、日々更新されつづけるという状態です。ついこないだまで「あー」だったことが、今日はもうすこし違うし、あしたとか来週になったら、もうぜんぜん違う。

無限に変化していく存在、それがこどもです。

毎日育っていく存在、それがこどもです。

油断もスキもありません。

(ちなみにこの文章をかいているまさにその真っ最中に、わたしはムスメにいきなり、パソコン本体のリセットボタンを押されました……。おしてはいけないものをおせるような状態でほっといたわたしが悪い! のです。ついおしてみたくならないように、なんとかしないと。そして、ボタンとみるとおしてみる、リモコンとかいじって捜査してみたがる、そんなところまで成長したことを、喜ばないとね。)

だから、おもしろくってならない。目がはなせない。

そしてまた、その「とっぴょうしもなくかけがえのないこども」の親、という新しい自分が、これまた、日々更新し、変化し、育っていく。かならずしも良い方向に成長していくばかりとは限らないけれど。自分の知らなかった自分をたくさん見れる。みつけることができる。知らずはりめぐらしていた壁がたたきこわされて、自分もまた無限にひろがっていくみたいです。

二十代のころ、自分で「自分てやつはこうだ」と思い込んでいた自分も、まだ、いまのこの自分の中にいます。そいつはそいつです。でも、そいつには、わたしの知らなかった可能性も、あったみたいです。