余裕、あります?

 

「赤ちゃんができない」そのことそのものがつらいだけでなく、それ以外にも、あなたを苛立たせたりひどく苦しめたりしていることがらが、なにかあるのではありませんか? 「ストレス」は妊娠の大敵です。なのに、もしかして、「赤ちゃんさえできれば」「妊婦にさえなれば」すべてが解決する、この境遇から脱することができる、と、思ってしまっていませんか?

 

家族の問題について

コウノトリのモビールをお送りしていたとき、お申し込みくださったかたがたからメールやお手紙で、事情をうかがうこともありました。その時思ったのは、ひとはいろいろだなぁ、ということ。

自分も旦那さんもひとりっこで、もし赤ちゃんができないと、どっちの親にとっても孫がただのひとりもいなくなってしまう。それはかわいそうだし、申し訳ない、さびしい、というかた。

旦那さんのきょうだいやそのお嫁さんたちには、それぞれ、二人とか、三人とかこどもがいて、盆暮れに「本家」にあつまるととてもにぎやかだ。自分にだけこどもがいなくて、仲間にはいれなくてつらいし、同じヨメとして、ひとりだけダメみたいで、とても落ち込む、というかた。

オシュウトメさんがとてもいいひとで、大好きで、そのひとの喜ぶ顔がみたいから、ぜひ孫を抱かせてあげたくて……っていうかたがいたかと思うと、オシュウトメさんとうまくいかない、きらわれていてつらい、彼女はヨメの自分がまだあそびたいからこどもをつくらないんだろうとうたがっているみたいだ、そうじゃないんだけど、いってもきっといいわけだと思ってきいてくれない……というかたもあり。

 

「幸福な家族はみな似たようなものだが、 不幸な家族はそれぞれ独自の形で不幸である」 (トルストイ 『アンナ・カレーニナ』)

 

不和のタネは、どんなところにでもあります。

もしも、家族がどうもあまりうまくいっていなかったとしても、あなたにこどもができない、その点だけが、悪いのではない。けっしてそんなはずはない。もともとうまくいかない原因や理由がさまざまあり、いろんなひとに少しずつ、相性のわるさや、譲歩すればいいのにできないところなど、問題があるにちがいない。さまざまたくさんいろいろある中の、それは、ひとつにすぎない。

まして、こどもができないことそのものだって、けっしてあなたの咎ではないでしょう?

家族ぜんたいの問題を、ぜんぶ、「あなたの(不妊傾向の)せい」にして、ひとりで背負いこんではいけません。そんなプレッシャーは、不妊の原因になるばかりか、あなたの健康をそこね、人生を真っ暗にしてしまいます。

 

☆☆☆

質問の2のところで、「仲のいい夫婦にかぎって、こどもができない」に関する話をちょっとしました。それは、仲のいい夫婦というのは、「家族」というミウチであって、お互いにもうあまり「異性」ではないからでした。“利己的な”遺伝子は、人間の幸福より、遺伝子がより効率よくバラまかれてほろびないことを優先するからでした。

コトがもし、旦那さんとあなたとふたりだけの問題なら、「仲のよい夫婦」でいることで、ある意味、完結してしまいます。じゅうぶん幸福で、その幸福を大事にしたい。

「このままふたりだけでいたいから、こどもをつくらない」ってひとも、いらっしゃいますからねぇ。それは無理もないんで、互いによく理解しあっているオトナの男女だけなら、いっしょに過ごすのは快適ですし、生活ものんびりゆっくりします。

日本の文化は戦後からこれまでは、どっちかというと、「モーレツサラリーマン」と、「その奥さんとこどもたち」というカタチに分割可能なものでした。おとうさんたちはおとうさんたち同士だけで交流するもので、そこには奥さんとこどもたちはふつう混ざりませんでした。こどもは小さいうちはおかあさんの付属物で、ちょっとおおきくなると、こども同士であそびました。それが、奥さんがはたらきに出たり、こどもの数がすくなくなったり、いわゆる「ニューファミリー」ってやつがでてきて、休日には、おとうさんふくめて一家でアミューズメント施設にでかけるのが「幸福だ!」って風潮になってきから、かわってきた。いまは、さらに、こどもはあずけて、おとうさんとおかあさんがカップルでパーティーとかに出没したりする層もでてきた。いわゆる「セレブ」は欧米化したんですね。それと同時に、ファミレスなど、こどもつれで出掛けることに対応したところもとても増えていますけれども(むかしは、子連れででかけられる先ってのはデパートの屋上と食堂ぐらいしかなかったでしょう?)。

でも、「親」とか、「親戚」のことを考えると……そして人間、トシをとってくると(どういう時点でトシをとったことになるかはひとそれぞれですが)若いころにはなにげなく無視していたようなことが意識にのぼったり目にはいってきたりして、だんだんいやおうなく、じぶんの問題として考えるようになるんですが……そんなこんなのときにふと、

「このまま夫婦ふたりだけで幸福でいていいんだろうか?」ってな疑問が生じてしまったりするんですね。

 

 

 

あらためて考えてみると、夫婦なんてのは実はただの赤の他人です。

婚姻届って紙切れ一枚を提出しただけのことなので。

 

 

自分のことを申しますと、ちょっと前まで、わたしは自他ともにみとめる「覆水」ムスメでした。

フクスイは、盆にかえらない。

正月にもかえらない。親族の法事にも、慶事にもかえらない。

自分の都合でたまたまかえりたくなった時にしかかえらない。

「盆暮れなんて、電車も道路もこんでる時にかえるなんてマッピラごめんよ!」

もー、超自分勝手。常識なんて聞く耳もたず。

親に電話とかすることもめったになかった。

夫の両親にも、さんざん失礼なことばかり、していましたねぇ。

 

 

しかし、コドモができたら、かわりました。

コロッと。

デジカメ画像をおくりまくり、しょっちゅう電話もしまくり。

コドモをみせに、新幹線をのりついで実家にいきますからねぇ。

我ながら、ほんとにひどい豹変っぷりです。

 

 

ある日、天気がよかったので、

夫の両親と、夫と、コドモと、みんなで庭でゴハンをしました。

笑いあっている家族をながめて、ふと、

ハッとしました。

コドモは、その場にいる全員と血のつながりがある。

と、思い当たったので。

 

 

この子ができて、はじめて、夫や、夫の親たちと「他人」でなくなった……

「血族」になった、

そう思いました。

結婚してから、かれこれ、十六年だか七年だかたってました。

 

そして……白状すると、わたしは、いまのほうがラクです。

「自分流儀」を頑健に主張していたときには、どこか、無理していた。

いわゆる「つっぱり」でした。ウツでくすりをのんでた時期もありますからねぇ。

まあ、シゴト柄、ぜんぜん全くつっぱるところがなかったら、それもそれでダメなんですけど……。

 

ブキヨウなわたしは、「こどものママ」というモノに変身してみてはじめて、

幼稚でアホなつっぱり人生をやめることができたのかもしれません。

 

経済の問題について

わたし自身は高度不妊治療にまったく手をだしていません。そんな時間的精神的余裕がなかったし、経済的にもとても無理でした。東京の病院までセッセと通うとすると、新幹線代金だけでも、一往復に一万円以上かかりますからねぇ……。

不妊治療にはなにかとおカネがかかります。保険適応外になるものもたくさんあります。

これも、プレッシャーになります。

投下した費用に見合う効果があればいいですけど、そうじゃないと……意味のないことにおカネをつかってしまった、という気分は、重圧になります。

少子高齢化社会が緊急の問題だというなら、妊娠をのぞんでいるのになかなかかなわないひとのそれをなんとかするための医療費は、全額クニがもってくれたらいいのにねぇ。

ちなみに

こどもひとり成人まで育てると、教育費だなんだでかかる費用は約1000万円だとか!!

もしも、

治療のために、たくわえをつかいきってしまったりすると、

妊娠してから、気のやすまることのない日々がつづくことにもなりかねません。

 

 

 

そういう意味でも、高度治療をはじめる時は、旦那さんや、同居などで家計をひとつにする家族のかたがいらしたらそのかたがたにも、ちゃんとうちあけて、相談をしておいたほうがいいと思います。「いくらまでかけるか」「どこまでやってみるか」。そもそも、「それにつかえそうなおカネがどのくらいあるか」。なんだかセチガライ話ですけれど、最初に実情を見極めて、予定をきめておくほうが、気がらくになるんじゃないでしょうか。

治療が一種の「賭け」になってしまって、もう一回、もう一回だけ……こんどこそ、アタリが出るはず……と、ギャンブル中毒のようになってしまうと、治療をやめることにしたあとの人生がたいへんなことになってしまいます。

だから……もしかしてあなたに独身時代にたくわえたヘソクリがけっこういっぱいあったり、実家のご両親が「そういうことなら」だしてあげるといってくださる分があったりしたとしても、こっそり通院せず、

すくなくとも、まず旦那さんには、「こういうことをしようと思うんだけど」と、正直にうちあけたほうがいいと思います。

「あれだけのカネがあったら、こんなこともできたのに、あんなこともできたのに」

あとになってから、蒸し返して、悔しがるようなことになったら、ほんとうにたいへんですから。