受胎告知

  フラ・アンジェリコ 

左の画像はWikipediaの「受胎告知」項目よりいただきました

 

 

ルカによる福音書1−28〜38

28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶はなんのことかと考え込んだ。

30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。

33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

36 あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。

37 神にできないことは何一つない。」

38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。

(日本聖書教会 新約聖書 より)

 

キリスト教を信じるかどうか、好きかどうかは、ちょっと脇においてください。ちなみにわたしは信者ではありません。以下は、あくまで、聖書というテキストを読んで感じたことについてかいております。信仰の深いかたから見ると、間違っていたり、不敬にあたる記述などがあるかもしれませんことを、あらかじめ、お詫びします。

『受胎告知』は、「受容」……なにかを受け入れる……とはどういうことなのかを示す、わかりやすい例だと思います。それがまた、ちょうど「妊娠する」こととひとつなのです。

さすがのマリアさまも、最初から「わたしはどうなってもいいの、エブリシングウエルカム!」だったわけではない。29ではとまどっているし、34では、天使に反論さえしています。なにしろ処女だったので、いきなりこんなこと言われても、そりゃあ、「ちょっと待ってよ!」と思いますよね?

けれども、わりとあっさり説得されます。

その説得に持ち出されたのが、「親戚のエリザベト」の例と、「神にできないことは何一つない」というコトバです。

ご高齢のエリザベトさんは、いったい何歳だったのか。気になりますが、古代イスラエルのこの地方の平均寿命とか、適齢期とか、初婚年齢とか、現代日本と比較してもしょうがない。マリアさまの常識からして「ふつうはもう無理」なぐらいだった、と考えればいいでしょう。その無理な妊娠が、実は「神のめぐみ」だったのだということが、暗にあかされています(もしかすると、マリアさまに、イエス受胎を納得させその精神を安らかにするためだけにわざわざ高齢妊娠させてもらったとすると、エリザベトさん、超役得?)

そして「神にできないことは何一つない」

そりゃそうです! できないことが何一つない存在のことを神というのです!

しかも、なにしろ、目の前に天使の実物。

そりゃあ説得力ありますよねぇ!

『受胎告知』の場面を描いたものというと、フラ・アンジェリコとダヴィンチのが超有名ですが、どちらも「わりと穏当」な、おだやかな天使さんを描いています。天使学のほうからいうと、ガブリエルさんは、たしか、翼が36枚だかあるおっかない姿でなきゃいけなかったような気もするんですが(後光と混同しているという説もありますが)まぁ、なにしろ天使です。ふつうの人間じゃないことは、ひと目みたらわかるに違いありません。その天使が、断言するんです。きっと、天使らしく、とても確信に満ちて、きっぱりと、美しい声でおっしゃったでしょう。ファンファーレもなっていたかもしれてい。

 

「神にできないことは何一つない」

 

最近話題のAha!体験ではありませんが、若き処女のマリアさまもこれには、「ああ、そうなんだ。そうなのね」と、こころの底から思うことができた。そして、すぐに、かの名セリフがその花のようなくちびるからこぼれ出ることになります。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」

はしため=身分の卑しい下働き女。下女、奴婢、メイドさん(おい)。

自分のことをそんなふうに感じる、語る、表現する、ことに、抵抗を感じるかたもあると思います。いまどき、そこらの平凡な誰かにこんなこと言ったら、マゾヒストかだめんずウォーカーです。

「神」直属のはしためというのは(なにしろ、できないことは何一つない神さまですから)、そうでないものよりも、よほど「めぐまれている」かもしれません。メイドさんはメイドさんでも、たとえば「皇居につとめてます」とか「バッキンガム宮殿が職場です」だったら、おお、そりゃあ、すごい! と思いませんか? しかも、世継ぎの王子さま(神の子)担当なんですよ! 

なぜかはともかく、そのようなものにしてあげると言われたら、そりゃあ、光栄です。もしかして他になりたいものがあったり、ちがう人生設計があったりしても、「そうまでいわれるなら、おつとめしよう」と思うのではないでしょうか。そして、「こんなわたしを選んでくれるなんて、ありがたいことです」と、感謝の気持ちもわいてくるかもしれません(そのほうが、らくです。他の人生設計や今後の予定に永遠に決別するには)。

そして、「お言葉どおりになりますように」。

ようするに、もうどうにでもしてください宣言ですね。

心の底からそれが言えたら、幸福だと思いませんか? ある意味究極の解放です。もう自分ではなにも判断しなくていい。いつでもなんでも誰かにいわれるとおりにすればいい。まよったり悩んだりする必要がない。なんてラクチン!

どうせ(しつこいですが)できないことは何一つない神さまなのですから、彼女がイヤがろうが、必死に抵抗しようが、妨害しようとしようが、いったん神さまが「こうしよう」と決めたり「こうするから」と通達なさったりしたら、そりゃあ、そのとおりになります。ならないわけありません。なのに、天使さんがわざわざ知らせにきてくれたのは、ものすごく親切ですね。こころの準備をさせてあげたかったのでしょう。マリアさんが若くてきれいで処女だから、「やっぱ、あんまりいきなりだったらさぞかしショックだろうから」と、やさしく思いやってあげたのでしょう。そのお気遣いを、マリアさまも感じたんじゃないでしょうか。

そのマリアさまでも、「神の子イエスのおかあさんになる」などという、史上空前に光栄なことがらであっても、「はい、わかりました。おひきうけします」というのは、けっして簡単なことではなかったのではないでしょうか。聖書のこの部分を読むと、しみじみそう思います。(ちなみにマルコやマタイはこのへんほとんど書いておいてくれないんですよね。ルカさま、エライ。女性の気持ちのわかるひとだったのかなぁ。)

2000年以上前に、遠い遠い国にいたのだろうひとりの女性の、とまどいや不安、それらを乗り越えて運命に身をゆだねようと決意したしなやかな強さに、わたしはこころをうたれます。

いつも人任せで受動的で流されてばかりに見えるひとも、こっそり、葛藤したり、泣いたり、我慢したり、闘ったりしているのかもしれないよ?