なんだかダイエットに似てませんか

 

あなたは、痩身ダイエットに興味ありますか?

わたしは、興味津々です。興味津々だし、「どうすればいいのか」も知ってます。いちおうちゃんとわかっている。でも、それが実行できません。

 ――もっと痩せてスタイルよくなりたい、ならなきゃ、と思っているのに、食べすぎてしまう。食べるべきでないもの(お菓子や、ジャンクフード、偏ったこのみ、お酒、へんな時間のちょっとしたツマミ食い)を我慢できない。運動不足だとわかっているのに、ちゃんとからだを動かそうとしない。

朝から晩までなんだか忙しく、いつも用事におわれていて、しじゅうどこかが痛かったり疲れていたり眠かったりします。とてもじゃないけれど、余分な運動をするエネルギーも時間も捻出できないし、ともするとストレスを、食べることでごまかしてしまう。毎日何度も冷蔵庫をあけて、大好きなチョコレートを「ちょっとひとつまみ」してしまう……。

これ、全部、いまのわたしのことです。

生活を大きく変えたつもりはないのに、若い頃はなにも意識しなくてもそれなりに痩せていたのに、トシをとるにしたがってじわじわと太りました。好きな服や着たい服がはいらなくなり、かつ、似合わなくなってガッカリです。もともとは陽気で元気で活力にあふれているタイプでしたが、最近は、なんだかいつもヘトヘトで、しじゅう溜め息をついたり「ヨッコラショ」といったりしてしまいます。たまにほんのちょっと時間の余裕があると、とにかく座って(あるいは横になって)、なにするでもなく、ぼうっとしてしまいます。

基礎代謝が落ちてるんですね。

こんなんでは痩せるわけがありません。

 

「こんなはずじゃない!」と思うのです。

自分で自分というのはこうだと思っていた感じ……セルフイメージ……と、現状が、まるであわなくなってしまいました。

こんな自分でいるのは気分が悪いし、落ち着かない。居心地が悪い。はやく「もとの自分」「本来の自分」に戻りたい。だから、「これは効く!」というダイエット法があると、あやしいなぁと理性では思いながらも、つい飛びついてしまいます。「たった一週間で〇キロも痩せた!」とか「一日五分で、ウエストが〇センチもサイズダウン!」とか聞くと、すぐさまやってみたくなります。成分がなんなのかよくわからないクスリも買って飲んでみましたし、置き換えダイエットも何種類もやってみました。

そうしてあの手この手をつくしてみても、なかなか思うような結果がでないのです。というか、望ましい結果がでるよりも先に、すぐにイヤになってしまうんですね。

「一週間いわれたとおりにがんばったけど、だめだ。ちっとも痩せない」

「毎日続けてみたけれど、三日やっても、なにもかわらないじゃない」

雑誌の記事で見たヨガや体操など、オススメの動作をたった一回やってみて「ウーン、思ったよりむずかしいなぁ。あたしには向かないかも」と、投げ出してしまうこともよくあります。

これでは痩せるわけがありません。

 

 

痩身の理屈は単純です。

とりいれるエネルギーより、つかうエネルギーが多かったら、痩せる。

つかうより、多くをもちこんだら、太る。

これだけです。

 

 

痩せたいならば、入力を絞る(あるいは、種類を考える)か、出力をふやすか。どちらか、あるいは、両方する。これしか、ないわけです。

そしてまた、何年もかかってじわじわ太った分は、それなりに時間をかけてしか落とせない。魔法のように一挙に落としたりできるわけがないんですね。

 

そんなことよーくわかってる。

わかってはいるんですけど、

「でも、そこをなんとか!」

 と思うんですね。

「こんなに科学や医学が発達した世の中なんだもの、ちょっと食べすぎてもすぐにどうにかすることができるようなクスリぐらい、あるでしょう。ないわけないよ。必要だもの。もう誰か発明してくれてるんじゃないの?」

「ラクして痩せられる道具かエステサロンが、きっとどこかにある。見つけてないだけ。セレブが独占しているのかも」

「努力や根性でどうにかしようなんて、無理。気分よく、快適に、痩せられるような方法が、なにかがあるはず。ちょっと高価かもしれないけど」

 

そこで、あまりにも結果を急ぐひとは、「断食道場」とか「脂肪吸引」とか「秘密の痩せ薬」など、極端なものに手をだしてしまったりするのです。雑誌にのっていた宣伝をウノミにして。

もちろん、そういう施設や薬の中に、信頼できるもの、ちゃんとしたものもあるでしょう! わたしも、ぜひいってみたい「道場」かあります(笑)。でも、信頼するにたるものほど、「確実な成果」「急激な効果」は、うたいません。じっくりゆっくり効かせるしかない……と当然のことをいいます。

また、手術で脂肪を除去するなどの極端な手段は、ほうっておくと生命にかかわるほどの肥満(日本人にはめったにありませんが……おすもうさんよりおデブさんになっちゃうようなひと、よその国とかにはときどきいますよね?)を、とりあえず解消するための緊急避難的な措置法だったりします。

もともと、そんなにものすごく太りすぎだというわけではなく、ただ、美容的に許せないとか、若いころにくらべたらイマイチだとか、モデル業をつづけるにはこれじゃマズイとか、食事制限とか体操とかするのがめんどくさいとか、そういう理由でイッキに痩せたい場合に、ほんものの病的肥満のひとのために開発された方法をつかってはいけません。

50キロのひとが40キロになりたくて、400キロのひとを200キロにするために開発された特別な強力痩身薬を、分量を「二十分の一」にして、つかう……これ、正しいと思いますか?

うわあ、アブナイ! 危険すぎる! そう思いませんか? でも、

なにがなんでも痩せたい……!

痩せないと、未来がない……!

一刻もはやく痩せなくっちゃ……!

などなどとひどく思い詰めると、「はた」からみると信じられないような行動をとってしまったり、「なんでそんなへんなもの信じるの?」なモノにすがりついてしまったりするんです。

(不妊治療においてもこれと近似あるいは同等なことがおこっている・おこなわれているのではないかとわたしはうたがっています。つまり、……たとえば……重篤な機能障害を解決するために開発された高リスクな治療を、軽微な症状のひとに、さらには「原因不明だが、一刻もはやく解決したいという」ひとにまで、つかってしまったりとかです)

 

 世の中には、「これでわたしも痩せました」みたいな広告があふれています。

 タレントさんや女優さん、モデルさんたちは、嘘みたいにスタイルがいい! あのひとたちだって人間なのに。そりゃあ努力しているんだろうけど、あのひとたちにできることは、同じ人間であるじぶんにもがんばればできるんじゃないか? そう思いたくなってしまいます。彼女たちが「こうすると、痩せました」なんていっているのをみると、「よーし、やってみよう!」と思うのですが……けっこう地道に、コツコツ続けなきゃならないことだったりする。

 このひとの方法はわたしにはむいてなかった。やっぱり彼女たちはまだ若いし、もともと痩せやすい体質なのよ。じゃあ、別のひとが推薦している方法にしてみよう。

そうして、なにかはじめて、それもまた、一週間もしないうちに、ギブアップ……。

 使いかたが身につかなかった痩身器具とか、「これを食べれば痩せられる」食品のあまったのとかが、どんどん家にたまっていく。からだに贅肉がつくのと同じく、家に、ムダなモノが増えていく……。

 

 

 よく、ダイエットは、宣言すると実現しやすい、といいます。

「わたし、痩せる。こんどこそ、本気!」

 周囲のひとたちにきっぱり告げるのは、勇気のいることです。

 なにしろ、痩せたがっているにしては、へんなこと、首をひねりたくなるようなことばかりしているんですから。

家族やともだちは、あなたのためを思えばこそ、きびしいことを言ってくれてしまうかもしれません。

「はやく痩せたいなら、そのアイスはやめといたら」

「痩せるって決めたんでしょ、コタツでごろごろしてないで、ちょっとおつかいにいってきて」

「もうじき痩せるんだったら、いまのサイズにぴったりの洋服なんて買ったらムダにならない?」

 ああ、耳が痛い!

 言われると恥ずかしくなるようなことを言われたくないばっかりに、あなたは、ダイエットを秘密にしたくなります。

 そりゃあ、誰にも知られないうちにこっそり実行できたらいいです。

 ひさしぶりにあった誰かに「まぁ、どうしたの、なんだか見違えるほどキレイになっちゃって!」と言われたいです。

 だからこそ、……少しずつコツコツではなくて、一気にドーンと変化して欲しいんですよね。

 「いっき」に解決したいんですよね。

痩せたい痩せたいとこだわるあまり、ストレスから甘いものなどを貪り食べ、ひとしきり食べるとものすごく落ち込んでしまう。喉に手をつっこんでいま食べたものを吐いて「なかったこと」にしようとしてしまうひともいます。「ものを食べること」全般に嫌悪感や罪悪感を抱くようになってしまうひともいます。過食症と拒食症は、実行していることは間反対なようですが、実は「摂食障害」という同じひとつの病気のふたつの症状にすぎません。

 なぜ、摂食障害はおきるんでしょうか?

  それは、「人間の基本設計」のせいです。

食欲は生存に密接に結びついています。誰も、空腹には勝てません。食べたいのに食べなかったら死んでしまいます。文明がじゅうぶんに発達するまでは食料はいつでも好きなだけ豊富に手にはいるものではありませんでした。たまに幸運にもたっぷりある時には、余分に食べたくなります。脂肪という余剰を身体にたくわえます。急な飢饉や異変がきても、なるべく生き残れるようにそなえるために。現代は(アフリカなどの貧困で苦しんでいる国々はともかく)飽食の時代。いつだって食べ物はある。ありすぎる。なのに、まだチューニングが変わっていない。

 どんなに痩せたくとも、人間、まったく何も食べないわけにはいきません。

 ぜんぜん食べなかったら死んでしまいます。

むずかしいのは、「うまく」「ちょうどよく」「賢く」食べること。

現実に合っていないチューニングをじょうずにごまかして、食べること。

かくて、ダイエットは「終りのない戦い」になる……。  

 

 

どうです。

 あなたは上のような気持ちに思い当たりませんか。

 もしかすると、無意識のうちに、“不妊”問題……赤ちゃんが欲しいということ……に対しても、ダイエットの時についついそうしてしまうようなのと、まったく同じような傾向のアプローチや取り組みかたをしようとしてしまっていませんか?

 

 ・不妊を解決する秘密のクスリや特別の技術などがどこかにあるはず。それを使えば、赤ちゃんなんて、かんたんに手にはいる。自分にぴったりの方法をみつけるのにちょっと手間取っているだけ。

 

 ・ぜひとも赤ちゃんが欲しいという気持ちにはまったく嘘はないけれど、こんなに必死に欲しがっていることは、あまり認めたくないしおおっぴらにしたくない。ひとに知られたくない。できれば病院などにもいかず、家でこっそり、自分ひとりでできることで、なんとかなればいいのにと思う。

 

・一刻もはやくなんとかしたい。もう待てない。時間をかけて少しずつなんて悠長なことはいっていられない。だから、とにかくいますぐ、現在あるうちで、もっとも「高度なこと」に挑戦する覚悟はある。

 

…読んでいただけばすぐ気付いていただけると思いますが、人間の気持ちはひとすじなわではいきません。たしかに本気で強く思っているのに、矛盾するようなことも同時についつい思っているし、やってしまう。理屈にあわないことを、してしまうのです。

 

 

基本設計・妊娠の場合

では、人間は、赤ちゃんをつくることに関して、どうできているでしょう?

 

 意外に思うかたもあるかもしれませんが、人間の女性のからだは、そもそも、「そうかんたんにこどもができないように」作られているそうです……!

 

多くの動物には発情期があり、いつ発情しているかは、自分にもパートナーにもとてもわかりやすくなっています。そして、発情期に交尾すれば、たいがい受胎が成功する。

人間はちがいます。

イヴがアダムに智恵の実を食べさせたせいだかなんだか、なにしろハダカをむやみにひとまえに晒すと犯罪になりますからね。性器や、性的なニュアンスの強い乳房は、ふつうは性関係のパートナーにしか見せない。おかげで、婦人科的な部分や泌尿器に多少不具合がしょうじてもなかなかお医者さまにいけない、という弊害まで出てしまいます。

さらに。文明社会では、たいがい、女性たちは自分の生理状態をオープンにするのは恥ずかしいことだと教えられます。「月経の最中」であることは、うまくごまかして隠しておかないと、はしたないと言われます。

ミクロレベルでも同じ。女性の膣の分泌物は、精子をじゃまし、なるべく殺すような働きをもっているそうです。あまたの障害を乗り越えて、それでも「針の穴をくぐるような」確率を乗り越えてやってこれるような、圧倒的に優秀で、ケンカにつよく、運もいい精子でないならば、「およびじゃない!」のです。

ぜひともコダネを仕込みたいと企んでいるほうにしたら、ほんとうに冗談じゃないような、熾烈な生存競争です。もうちょっとお手柔らかにしてもらえないの、と言いたくなります。いわば地図や補給物資のまったくない状態でパリダカに出場するようなもの。戦いに参加してはみたものの、破れて途中でへばってしまったおおぜいが、不毛な砂漠にばたばた倒れているような光景です。

 

なんだってこんなことになっているんでしょう?

 

 「いま性交してくれたら、バッチリあなたのこどもができるわよ!」という時期が、人間にもたしかにちゃんとあるはずなのに、なぜか人間は、それを、パートナーにも、自分にさえ(敵をだますにはまず味方から)なるべくウヤムヤに、あいまいに、わからなくする方向に発達してきたようです。

(なぜそうなったか。竹内久美子さんの本を読むと、どうやら、人間の子育てや社会性の確立にはあまりにもコストと時間がかかるため、メスひとりあるいは女系親族のみでは背負いきれない。オスにも生活をささえてもらいたい。かくて、やり逃げは基本的には断固阻止、ただし、特別いい男からはコダネだけもらい、生活のほうは別の家庭的な男に背負ってもらうという戦略もあり、みたいなことのようです、たぶん。誤読だったらすみません)

 そのうえ、たいがいの人間は「妊娠目的じゃないエッチ」をします。するでしょう? ひとりの人間が経験するあまたの性的関係のうち、純粋に妊娠のためであるのが、いったい全体の何パーセントあるでしょうか。妊娠のためじゃないセックスのほうが、圧倒的に多いでしょう。そういうほうがだんぜんふつうでしょう。ちがいますか? 

 いまどき、特別箱入りで育てられたひとか、なにか特別な宗教を信じておられるかたでもない限り、「一生、妊娠のためにだけしか、セックスしません!」なんてひとは、そうそうおられないでしょう。

 かくて、個々の人間もいつのまにか、ともすると錯覚してしまっているのです。

「セックスはセックスそのものを愉しむためとか、ふたりのLOVEを確認するためとかにするので、妊娠のためなんかじゃない」と。

 あまつさえ、避妊のための知識やら道具やらを工夫し、発達させ、せっせと「妊娠しないでセックスする方法」を模索してきました。ただただ繁殖のためにだけ命を使うような生きもの……たとえば、成虫になったらほんの何時間かだけ空を舞いエッチしてタマゴをうんで、とっとと死んでしまうウスバカゲロウ……からしたら、さぞかし、不思議な生物に見えるでしょうね、人間は。

 

 

 これこのように基本設計としては「妊娠だんこ阻止」であるひとが、ある時とつぜん、態度をかえる。

「妊娠したい」「赤ちゃん欲しいな」「ママになろう!」と。

 そのきっかけは、「結婚した・入籍した」だったり、「とっても好きなひとができた」だったり、「経済的にこどもを持っても大丈夫そうになったから」だったり、さまざま、ひとそれぞれです。本人にしてみれば、ようやく自然とそういう気分になれたから、そう思うだけで、いきなりコロッと態度を変えたことを意識もしていなければ、不思議に思ってもいません。この段階でうまく妊娠できればこんなに幸福なことはありません。

 ところが、これは、「身体的・生理的・生物的・医学的な変化」じゃなくて、しょせん「個人的な都合」なんですね……!

 残念ながら、あなたの身体は、あなたの気持ちや個人的な都合を、そんなに真剣に配慮してくれません。脳の指令に応じて、じょうずに変化してくれればいいのに、そういうふうにできていないのです。

 

反対に「初潮がきた」とか「はじめて精通があった」とか「背が高くなった」「声がわりした」「おっぱいがふくらんできてブラジャーが必要になってきた」などなど、身体のほうの都合でおこる変化は、待ったなしで激烈です。あなたの都合がどうであれ、頓着しません。からだがいったん変わりはじめたら、「心の準備ができてないー!」とあわてても、待ってくれません。なんとかかんとか追いついて対応する他ない。変わっちゃうんですから。ホルモンってそういうものですから。

こういう種類の変化は、幼虫が成虫になるような、サナギが蝶になるようなもので、圧倒的で不可逆的で、ぜったいです。たとえイヤだ変化したくないこのままでいたい! といっても、許してくれません。とどめようがない。

残念ながら「個人的な都合」や「心境の変化」には、ホルモンのような強い変身能力はないんですね。

よほど自分を制御するのが得意なひとでも、すばらしく根性があっても、身体という物質のおのおのの個性、「自然とそうなってしまいがちなことがら」には、そうかんたんに勝てません。たとえば、……髪の毛の生まれつきのクセひとつ、  根治できないでしょ? パーマかけて、ブラシかけて、スプレーかけて、やっときれいにセットしても、ちょっと雨に降られたら台無しになりませんか?

(もっとも、中には、個人的な都合つまり気持ちの問題と、身体的生理的な都合がうまいこと寄り添うタイプのひともいます。もともと、からだの要求にこころがあまり逆らわないひとたち。自分のもっているものに満足し、それ以上に激しくあこがれないひとたち。生き物としての自分の必然に正直だというか。このかたがたは、理想だとか、夢だとか、あわよくばの将来計画やらにとらわれません。あるがままに生きていく。だから、ガチガチに自分を束縛したり、たえず叱咤激励して、無理めなことをさせたりしない。いわば「なるようになれ」タイプですね。生まれつき、受容することに適している。うらやましいですね)

 

あなたはどうですか。

もしかすると、これまでの人生、つねに自分で仕切ろうとしてきませんでしたか。本能より頭脳、感情より理性、安逸より挑戦、をモットーにしてきませんでしたか。

なぜか自然とそうなってしまうことに逆らってでも、「個人的な都合」を通そうとしてきませんでしたか?

 

たとえば、容姿について。どこでも好きなようにかえられる、なんでも望むままにできるとしたら、どうします? 妖精さんがあらわれて、三つのお願いをきいてくれるとしたら?

「二重まぶたにしたい」「鼻を高くしたい」「胸をおおきくしたい」「いまより5キロ痩せたい」「ウエストをしめたい」「毛穴がみえないような肌にしたい」「もっと色がしろくなりたい」「髪をツヤツヤにしたい」etcetc……わあ、言い出すとキリも限りもない。

「お願いのひとつめ。三じゃ足りない。百個にして!」

あなたは、自分自身をふくめたさまざまなことがらにせっせとダメダシをするほうでしょう?

ダメダシ項目はほとんど無限大、その要求はともすると「……なにもそこまで欲張らなくったって!」レベルに苛烈です。

ほかのひとは、そんなこまかなところまでチェックしてやしないよ! という部分でも、容赦しない。ちょっとでもいやなところがなくなって、全部が完璧に理想どおりになることを、あなたは心中ひそかに望んでいる。自分のかかわるあらゆることがらに。

でも、……神さまでもないかぎり、「完璧」なんてありえない。

ハタからみればどんなに恵まれているようにみえるひとだって、きっと、ほんとうに気持ちを聞いてみたら、不満だらけです。

 

 身体にさからわないひと、自然にさからわないひとは、生物としての人間の時間割にしたがって暮らします。生物的にちょうどいい時期にいつの間にかなんとなく相手をみつけ、生物としてもっとも妥当な時期にさかんにセックスをなさる。その結果、とても順調に妊娠なさいます。あるいは、もしかすると一生一度も妊娠なさらないかもしれませんが、このかたは運命に逆らわないタイプ。ご自分にあたえられたサダメを「そういうことなら、そうなのね」と受け入れます。なるようになる。ならないようにはならない。これがわたしの人生〜♪、と、受け入れる。受容する。けっして悩まないとはいいませんが、悩んでもしかたのないことをいつまでもクヨクヨ悩んで時間を無駄にしたりしない。うらやましいほど、たくましいかたがたですね……!

 

 これに反して、生物としてのふつうに逆らってもあくまで自分の計画自分の都合にこだわるかたは、どうしたって、なにかと悩ましい、苦悩の多い、無駄やら無理やら遠回りやらが頻発する種類の人生をおくることになってしまう。

たてる都合や、生きた時代の要請が(たとえば、戦争になったりすると、個人の計画なんていうのはふっとんでしまいますから)比較的穏当で無理のないものであるなら、そんなに害はありません。計画の範囲内でも、ちゃんと妊娠できます。

ところが、「個人的な都合」にこだわるひとというのは、ともすると、昔ながらの「あたりまえ」をはみだしがち。

さらに二十世紀、人間の文明はググッと発達しました。それまでありえなかったようなことが、いろいろと可能になりました。日進月歩、かつて常識だったことがらが、さまざまに塗り替えられました。

 

(そもそも個人主義そのものがちょっと前まで「ごうごうたる非難」をうける種類のものでした。ほら、太平洋戦争のころとか。あるいは、スポ根マンガがはやったころとか。みんなのために犠牲になるのは賛美されることで、ワガママをいうのはいけないことでした。いつの間にか、個人の権利とか個性とかは、とりあえずなにをおいても大事にしなきゃならないことみたいになりましたが……もしかすると、ゆきすぎ? 最近、ファッションとか、ドラマとか、なにかとレトロなのがはやるのは、また、ゆりもどしがきてるのかも?)

 

いまどき、おかあさんやおばあちゃんの時代の常識に縛られるのは「まっぴらごめん」。センセーやトシヨリのいうことなんか聞く耳ナッシング。「あたしに窮屈なワクをはめないでよ!」と、自由闊達・不羈奔放にふるまうと、快感を覚えてしまいます。他人がびっくりして目を丸くしたりすると、気持ちがいい。「はしたない」とメクジラをたてられたり、「めだちたがり」とうわさされたり、「あなたには驚かされるわ!」と溜め息をつかれると、「やったね!」と感じる。……みたいなひと、もしかして、増えてる?

そんなこんなで晩婚になるかたが、あきらかにどんどこ増え、日本はいわゆる少子高齢化社会に突入したわけです。夫や姑舅の理不尽をジッと辛抱するのは美徳ではなく「バカみたいなこと」になってしまったため、離婚も再婚もおおいに増えました。そもそも結婚せずに異性と活発につきあうということがそんなに難しくなくなった。好奇心が首をもたげるローティーン世代から、渡辺淳一先生ぐらいのご年輩のかたがたまで、「性的な活動」をおこなう年齢範囲もとても広くなりましたし、雑誌やネットでエッチ関係の情報はいくらでも手にはいります。セックスのタブーも神聖さも両方薄れました。

かくて、結婚というものがいまひとつ魅力がないものになってしまった。いわゆる適齢期のお年頃になっても、「なにがなんでも結婚したい、できるだけはやく結婚したい! どんなひととでもいいから、結婚しないと生きていけない、マズイ、ヤバイ、恥ずかしい!」というような気持ちになるひとが、とても少なくなってしまった。

へんな結婚をするぐらいなら、しないほうがマシですもんね。恋愛関係がかならず結婚に結びつくわけではないし、婚約するまではけっこう長い。何人かのボーイフレンドを比較検討しているかもしれないし、不倫や危険な情事を愉しんでいるかもしれない。

かくて……もっとも妊娠しやすい年齢ごろ、多数の異性とせっせとセックスしてみる年頃、生物のヒトのメスとしてどうしてもある適齢期に、……できるだけ妊娠しないように過ごしてしまう。妊娠なんかしたくない、いましちゃうと困る、あとまわしにしておこう! という境遇で過ごしてしまうひとが、けっして珍しくもなく、少なくもなくなったわけです。

(最近また揺りもどしがきているような気もしますけれど。つまり、好きなひとができたらセックスも我慢しないし、いっしょにいたい気持ちも我慢しない、さっさと結婚して家庭もってこどもも生もう、だいじょうぶ、なんとかなるよ、みたいなカルチャーの層が出てきたような。土屋アンナちゃんとか、三船ミカさんとか……これ系の圧倒的先駆者は安室奈美恵さんで、いうまでもなく沖縄のひとなんですよね。沖縄といったら「なんくるないさー(なんとかなるでしょー)」。タヒチの「アイダペアペア」やメキシコの「アシタマニャーナ」とか「ケセラセラ」と、ようはまったく同じ思想。さからわない。悩まない。落ち込まない(笑)! なるようになれ。めんどうなことはあとまわし! 地球全体が温暖化で、これまで文明の牽引役だった「北半球のどちらかというと寒帯にちかい温帯」地域がのきなみ「亜熱帯」とか「熱帯」みたいな気候になっていくと、地球人類全体がラテンとか南洋カルチャーにどっぷりになるのかも。「世界じゅうが、スーダラ節」(笑)。それはそれでいいかもー?)

 

もしやあなたは、長年「ああ、どうか妊娠なんてしませんように!」と自分に呪文をかけつづけてきてはいませんか。そして、その呪文を、無効にするのをすっかり忘れていませんか?    いらない呪文の祓いかた