マスオさんの御両親
改札を抜け、駅構内から一歩足を踏み出すと、身を切るような冷たい風がおもいきり吹き寄せてきた。コートの襟を掻き合せながら、いつものバス停方面に歩きだそうとした小林慶子夫人の袖を、夫の小林正二氏が捕らえてつまんで、ちょいちょい、とひっぱった。
「なんですか」こどもみたいに。いいウールがのびちゃうじゃないの。「用なら口でいってください」
「ん。……あれな」
手袋をはめた指でさししめしているのは、少し先の、ほとんどシャッターのおりたアーケードの出口のあたりに、ぽつんと一軒ともっている灯。おでんの屋台である。
「ちょっと」小林氏はコップを口元にかたむけるしぐさした。「やってかんか」小さくすり減った前歯の間から、発せられたことばよりも潤沢な白い息があふれ流れる。
夫人は、見慣れたふさふさ眉や皺だらけの頬から視線をはなし、遠くの赤提灯を眺めてみた。少しは客がいるようだ。のれんの陰からほかほかと湯気がたちのぼっている。そうこうするうちに風向きがかわって、なるほど、食欲をそそるいい匂いがただよってきた。
このひとったら、ああいうところに、よく寄ってるのかしら。
不衛生だとか、ヤクザかもしれないとか、知人にみられたらみっともないとか、もう疲れたから早くうちに帰りたいとかといったさまざまなことがらが夫人の頭をかけめぐった。だが、夫の、実年齢よりさらに年寄りじみた顔が、いつになく、真剣にみえた。本気で「たのむよ」「ぜひ」と言っているようにみえたのだった。
「そうね。じゃあ、ちょっとあったまっていきましょうか」
「うん」
夫人が宜うと、夫は一瞬破顔した。そしてすぐにくるりと背を向けて歩きだした。そうと決まったら急がねば、誰かに席をとられてしまったらたいへんだとばかりに、大股にどんどん行ってしまうのだった。いっしょに歩く誰かと歩調をあわせようなんてことは、考えもしない。
まったく、男ッてのは。
どうしてこう、どいつもこいつも、いくつになっても子どもっぽいのかしら。欲しいものが見つかりゃあ、一目散なんだから。
重苦しいため息をひとつ漏らすと、夫人は撫で肩から滑り落ちるショルダーバッグを担ぎなおし、急いであとをおいかけた。
夫は鍵も財布も持っていないだろう。もしも自分とはぐれたら、家まで戻るにも途方にくれるしかないのだ。
さっさと陣取った亭主の左隣に腰をおろす。思ったよりも若い感じの店主はちょっと首をかがめて、低く無愛想に、らっしゃい、と言った。
目の前の四角く枠どられた中にさまざまな具が煮えている。あたたかく湿った空気に、呼吸が楽になる。
あまり空腹ではなかった。むしろ胸がいっぱいだった。次男の雄大と、カノジョと、はじめて夕食をともにしてきたところなのだから。
「まずビールな」と夫が言った。「それと、スジな。こんにゃくと、たまごと。袋も」
そんなに食べるの?
夫人があきれて横目で見ると、夫は苦笑した。
「どうも洋食はあんまり食べた気がしなくてな。お茶漬けだなんだほしがってあんたを煩わせるよりいいだろ? あー、大将、お酒もちょうだいね。いつものね」
いつものですって?
「おくさんは」
「わたしは」お茶を、といいかけて、やっぱりやめた。「お燗つけてください」
「あいよ」
カノジョは城田美佳子さんといって、息子よりひとつ年上の三十歳ちょうどなんだそうだ。
派手で華やかな雰囲気の持ち主だ。母の目には、眉は太すぎ、アイラインは濃すぎ、唇は鮮やかすぎるようにみえた。小柄ながらグラマーな体格をよけいにむっちりとみせるピンクのミニスーツや、水商売っぽい白いハンドバッグは、たぶん高価なブランドものなのだろう。大口をあけてがはがは笑い、料理も酒も遠慮ひとつせず率先して注文し、どんどんたいらげた。勝気であけっぴろげで、自由奔放、自信とバイタリティにあふれたタイプだ。
おっとりものの雄大は、きっと最初から圧倒されて鼻面引き回されているのだろう。
「ほんとはわたし、すっごい面食いなんですよ」フレンチのコースがメインディッシュにたどりついた頃、カノジョは重大な秘密を漏らすように芝居がかって言ったのだった。「『パールハーバー』のベン・アフレックとか、イングランド代表のベッカムとか、金城武とか椎名桔平とか、ああいう背が高くて弩ハンサムってタイプのひとに出会えるまで、意地でもがんばり続けるつもりだったんです。でも、十二人目で、雄大さんに会えて、はっとしたんです。そうだ、こういうひとじゃなきゃって、考えが変わりました」
「はぁ……」
なにかいってくださいよ。
母は必死に目配せをするが夫は黙って食事に熱中しているふりをしている。
母の気持ちは千々に乱れている。たしかに息子はとてもじゃないが美形といえるようなつらがまえではないかもしれない。だがそんなことをなぜアンタにいまここで指摘されなけばならないのか。
「それによく考えてみると」カノジョはいけしゃあしゃあとしゃべりつづけた。へたにハンサムだと競争率高いし、浮気されそうでしょ。人間、理想と現実の差には目をつぶらないとね」ウィンク。「なにより、雄大さんも、たまさか中武産業さんにおつとめで、つまり同じギョーカイじゃないですか。建築関係の事情とか、いちいち説明しなくても、もうよくわかってるじゃないですか。うちの親たちなんかもう、すっかり感激しちゃって。だって同居してくれて、跡継ぎにもなってくれて、わたしにいまさら専業主婦になれとかぜったいいわないでしょ。そんなひと金の草鞋をはいてでも見つかりっこない、こいつをぜったい逃すな、って、ひと脅すんですよぉ」
唖然呆然。驚天動地。急転直下。失神寸前。
女性となかなか縁のないことを気にして息子が結婚案内センターの会員になったということは一応は知っていた。だが、婿養子でもかまわないなどと言っていたなんてのは初耳だ。
いくら男ばかり三人きょうだいの真ん中だからといって。
養子だなんて。婿にはいるだなんて。
そんな重大なこと。親に事前になんの相談もしないで。
「……どういうつもりなのかしら」
温燗の酒でゆるんだ舌がほろりと苦いことばを漏らしてしまう。
「うん?」夫は、なかなか掴めないたまごに苦労している。「なんだ」
「ゆうちゃんですよ。うちの……小林の籍から抜けるっていうんですよ。うちよりもあのひとんちのほうが大事なの」
「そうは言ってないだろう」とうとう箸を突き刺した。「まぁ、言われたって、無理もないが。うちにゃあまだ、康祐も光雄もいるんだし。城田さんちにはいって、うまく気にいられれば、雄大はいずれ社長さんだろ。ラッキーじゃないか!」
亭主はもしゃもしゃの眉の間からこちらをみた。
「おまえ、これまでの人生では、社長夫人にも社長令嬢にもまったくぜんぜんなれなかったが、いきなりここにきて息子の手柄で、社長の母親になれるんだぞ」
「そんな」
顔が熱くなる。
「わたしは息子を質にいれてまで社長夫人になんてなりたくありません!」
「夫人じゃないってば」夫はうまそうにたまごを食べた。「社長の母上だって。まぁ、なんだ、それにしたってすごいじゃないか。普通にいったら、うちのような平凡な家族にはまずありえないめでたい話だ」
「それはそうかもしれませんけど……」
カノジョはほんの三十歳だというのに年商ウン千万円の城田工務店の経理担当常務なのだとか。
生まれおちたその日から、乳母日傘のお姫さま。なに不自由なく恵まれて、裕福な家庭と順調な稼業の跡継ぎにふさわしく育てられたのだろう。プライドも高かろう、鼻っ柱も強かろう。
好条件のわりに遅めな婚期は、隠れた欠点のせいにみえてくる。ひょっとしてあのオンナ、恋人に暴力でもふるうんじゃないか。
「どうしてわたしの大事な息子が、よりによってイケニエにならなきゃならないんですか!」
「イケニエ?」夫は笑った。「美佳子さんは鬼か悪魔か八岐大蛇か」
「あなただって見たでしょ。あの強気。情け容赦もなく押しまくられて、いいたい放題やり放題されて、なのにゆうちゃんったら、なにひとつ言い返しもしないで、にこにこ笑ってるばっかりで」
「あいつはもともと平和主義だろう。大将、大根ちょうだい。それと、タコと、ゴボ天ね」
「あいよ」
「ええ。あの子はやさしい子でした。聞き分けがよくて、思いやりがあって。小さい頃からそうでした。それをカノジョはいいひとっていうんです。きっと都合がいい、牛耳れるって意味なんだわ」
「おくさんは、おでんのほうは」
いらない、といいかけた時に、汁の中でひときわまっしろい三角がめをひいた。
「はんぺんください」
「すいません、はんぺんはいまさっきいれたばっかりで。かわりにちくわぶなんかいかがでしょう」
「じゃそれでいいわ」
「なんだおまえ」小林氏は、アルコールに少し赤くなった目を横目使いにして、からかうように夫人を見た。「そんなに反対なのか。本人たち同士が好きあってるっていうんだから、いいじゃないか。もうこどもでもあるまいし。いろいろ考えての上だろう」
「けどね。釣り合いってもんが。いくらお金持ちだからってあんまりごうまんなのは」
「ひょっとして、ひけめか? うちがあちらさんと比べてビンボーで、気が重いのか? これからつきあってくのに肩身が狭いか?」
うっかり、そうだ、ようするにそうなのだとうなずいてしまいそうになって、夫人はあわてて箸を手にした。それでは長年我が家の大黒柱を努めてくれた夫に失礼もいいところである。
「別にそんなふうには思いませんけど……」
「あいよ、ちくわぶ」
「まぁ確かになんでもズケズケはっきりと物を言うヨメハンだが、いいんじゃないか、かえって。陰にこもって恨まれるより。サバサバしてるほうが、あんたも結局は楽だぞ」
「………」
もらったちくわぶを箸で半分に切る。よく煮えていてかんたんに切れる。小さな皿にじんわりとつゆがしみだしてくる。その、ひとくちぶんになったところを、夫がサッととっていく。もらうよ、とことわりもせず、あたりまえのように。
「あのなぁ。湯川秀樹博士もな」
「…………」
長年夫婦でいても、そうやって「もらうよ」をいわれずに目の前から奪われても泥棒とも思わないほど一心同体になっていても、それでも考えかたに違いがあるのだ。ものの感じかたに違いがあるのだ。
寂しかった。背中が寒かった。男の子ばかり三人も育ててきたが、家庭の中でたったひとりの女である孤独がこんなときには身にしみる。
どんな気持ちでもすなおに語らいあえるような親密な女同士のつきあいが、自分には欠けている。いずれ息子たちにヨメがくればムスメがふえるのだと思っていた。生まなかったムスメを手にいれられると思っていた。三人も。
まさか息子のほうをよそのうちにとられるとは。
「……婿養子だったんだよ」
「はい?」夫人はあわてて聞き直した。ぼうっとして、きいていなかった。「なんですって?」
「湯川秀樹博士。日本人のノーベル賞第一号」
夫人はしげしげと小林氏の顔を見た。なにか頬張ったところだ。ふしゃふしゃの眉毛の下の両目がうまそうな垂れ目になっている。飲み込むまですこしの間がある。
「奥さんのおとうさんが開業医でな、すこぶる立派なひとだったようだな。たとえば湯川博士が洋書をたくさん買ってきて、払いに困っていると、黙って娘に金を渡してやるような。若い頃の博士は研究に夢中になっちゃあ食事もろくにとらなかったらしい。そんなのは健康に悪い。医者のおやじさんは、犬猫だって決まった時間に食べるように躾ければその時間帯になると胃液が分泌してきて消化によいのだからと説得して科学者を納得させた。そういうことが、こないだ読んだ週刊誌にかいてあった」
「……そう」
話がどこにいくか見えない。夫がなにを言おうとしているのかわからない。
「それで?」
「それで……ああ、そうだ。こんな話もあった。湯川博士がな。ヨイショなんかできるひとじゃなくて、お世辞なんかぜんぜんいわないひとだったが、亡くなってから出てきたメモに『湯川の家でなかったら、きっとノーベル賞は取れなかっただろう』と書いてあったんだと」
夫人は夫の表情を読もうとした。
だが不意に視野がひどくゆがんできて、ぶよぶよにゆがんでしまって、うまく見えなかった。そのうちに鼻の奥がつんとしてきて、ますます見えなくなった。
泣きたい気持ちがした。
なぜだかわからないけれど。
「ひょっとすると、奥さんのおやじさん、はじめは、自分の医院を継いでくれるような婿取りをしたいと思っていたのかもしれないな。けど、もらってみたらそれ以上の、身代つぶしても応援してやりたいような婿さんだったんだろう。がんばって支えてやった婿さんが、日本人第一号のノーベル賞とったらそりゃあ嬉しいよ。鼻が高いよなぁ」
たぶん罪悪感なのだ、と夫人は思った。
癇癪持ちの長男とは嵐のようなけんかをしてばっかりだったし、年の離れた末っ子はべたべたにかわいがった。生まれつき穏やかで面倒ごとを起こさない次男の雄大は、このふたりの間で、なにかのついでで育ってしまったような具合だった。手がかからないとは、手をかけないことである。手をかけないと愛情もあまりかけたような記憶がないということになる。
だからこうしでいまになって背かれ裏切られてもしかたがないと内心では納得がいっているのかもしれず、ここでなんの反対もしないとまるで最初からいらなかったようにたいして愛していなかったように思われるのではないかという気後れもあるのだ。
「ゆうちゃん……幸福になるかしら?」
「そう思う」夫は大根を半分切って、こちらの皿にいれてくれた。「やつはあれでけっこうしたたかだよ。あんたの思ってる以上に。けっしてやられっぱなしじゃない。わたしも最初は、どうもこの分じゃあ美佳子さんがああしたいこうしたいというのに振りまわされっぱなしなのかなと心配に思った。でも、ちょっと探りをいれてみると、どうも違うんだな。ひいきのチームのナイターを観につれてかれたり、いつもいつも外食じゃなくてたまには家でのんびりビールでも飲もうと提案されたりして、けっこう彼のペースに巻き込まれちまったそうだ。自分の言いなりになってくれるだけの男にはもうアキアキしたのだというとった。いうたらなんだがあれは雄大にホレとるぞ。ぞっこんだ。なにしろノロける時にじつに幸福そうに顔がとろけとった」
夫人は大根をひとくちぶん箸で口にはこんだ。ふくめば意外にまだ熱く、ハフハフと舌と上顎でパスをしあい、やっとなんとか飲み込んで、それから尋ねた。
「美佳子さんとそんな話を?」
「ああ」
「いつの間に」
「あんたが勘定を払ってくれとる間にな」
「…………」夫人はお銚子をかたむけた。「ないわ」
「ないな」小林氏はうなずき、自分のコップを持ち上げた。「飲むか?」
夫人がうなずいたので、コップを手渡す。
「ずるい」
「すまん。なにが?」
「美味しいじゃないの」
「だろ?」
小林氏は指をあげて、ヒヤ酒のおかわりをたのんだ。
「おでんもうまいだろ。ここの大将は、材料に凝るから。練り物も野菜も選りによった一流どころのばっかりだし、こないだなんかごろんと松茸がはいってたもんな。それが隠し味だってんだ」
店主は聞こえていないふりで「久保田」の一升瓶を差し出し傾けた。
「もったいない!」
「でもさ、だからうまいんだ。ボールもちくわも大根もはんぺんも、じぶんの味をだして、他のぜんぶの味をもらって、そうしてこういうおでんになんだなぁ」
夫人はしげしげと夫を眺めた。
「結婚もそうだろうっておっしゃりたいのね? 新しく家族にくわわるものも、がんばっていい味ださなきゃいけないけど、もとからあった伝統の味だって、しっかり受け継いで吸いこませてもらうんだから恩にきてもいいぐらいだって?」
「ああ、なるほど。それはそうかもしれないね」夫はふしゃふしゃの眉を上下させた。「あんたは賢いなぁ」
ええ、そうですとも。
夫人は思った。
賢いわたしは、あのみるからに賢いヨメと、たぶんきっとうまくやっていくわ。
賢いマスオさんの母として。
それにしても亭主ときたら。虫も殺さない顔をして、いつの間にこんな店を開拓して懇意になって、しかも自分に内緒にしていたのやら。そんなところが他にいくつあるのやら。
油断も隙なもい。
これからはよく見張らないと。
これから息子たちが巣立っていって、年寄り夫婦ふたりきりふたりだけになっていくのだから、なおのこと。
「ねぇ大将さん、あたしにももう一杯お酒ちょうだい。お燗のじゃなくて、そっちのね」
「あいよ」
こっちがうまいってちゃんとわかったね。
寡黙な店主がはじめてまっすぐ自分をみて、にっこり笑ってくれたので、夫人はちょっとかなりいい気分になった。