トコちゃんinピンク
はろー、トコ元気? ご無沙汰しちゃいました。あたしはとっても元気です。 今日ねー、あたし、すごーく久しぶりにヨットに乗ったの。そう、前に写真見せたよね、あの『エンチラーダ』っていう大きな舟。久しぶりになっちゃったわけは、受験とか寒かったからとかいろいろあるんだけれど、一番大きい原因はうちの父問題だったのでした。それがとりあえずなんとかなってね。……どうしてそうなったかは、ほんとうに長い話だから、逢った時までのおあずけにさせてちょうだい。 それで、ヨットなんだけど。 つくづく考えてしまったわ。 あの今はなき『ミッキー』号と『エンチラーダ』とを同じヨットってことばで表現するのは、明らかに間違っているわね。正確な区別は知らないけれど、今の舟のほうは、たぶんヨットはヨットでもクルーザーの範疇に入るんじゃないかな。センター・ボードがあがらないし……って言ってもわからないかもしれないけれど、とにかく、陸にあげてある時の背の高さといったらとんでもなくて、艇庫から海面まで降ろすのが大変。 みんながまだ慣れないせいもあって、葉山マリーナのスタッフのかたがたの手をさんざんお借りしなければ、とても艤装などできないの。あ、艤装っていうのは、マスト立てたりいろんなロープをくっつけたりして、走らせるための準備をすることね。ヨットって優雅なようで、けっこう煩雑なのよ。 えーと。煩雑なのはしかたないけれど、それが自力でできないほどだっていうのは、ちょっと問題なんじゃないかと思う。 乗りたい時、いちいち、係のかたのお手をわずらわさなきゃいけないなんて、偉そうで傲岸不遜で、あんまり嬉しくないなぁ、と思ってしまったのでした。たかが高校生のお遊びに、それは少しゼの字じゃございませんこと? ヨットに乗れるってことだけで、もう充分以上おゼイタクなんだものね。 今更言ってもしかたないけれど、『ミッキー』のほうが良かったな。名前のせいじゃないかなんていじめないでね。 新しいヨットもハーバーも、ゴージャスでリッチで素敵だけれど、あんまりすごすぎて、なんだか落ち着けないの。あたしやっぱり、お育ちが悪いんだわ。ほんもののお嬢さまなら、きっと気にしないわよね。 あたしが見栄っぱりで、だからコンプレックス感じてるんだってわかってるけど、トコにくらい言わせて。 だってマリーナってねぇ、『エンチラーダ』でこえ最低ランクに見えるほどおリッチな舟がたーくさんあるのに、なんだかやけに閑散としてるのよ。お手入れがいいだけなのかもしれないけど、まるで展示場みたい。使いこんでるって感じがしないの。 そんなの悲しいじゃない。ずーっと陸に置きっぱなしの舟、なんて。 お金持ちで、お忙しくて、ヨットも多数ある趣味のうちのひとつってかんがたがいらっしゃるのは、よくわかる。イザでかける時は長いお休みをずっと外洋クルーズで過ごされたりとか、思い切った使いかたをなさるのかもしれない。 けどねぇ。ほんとうのヨットのおもしろさは、ディンギーのほうが上じゃないかな、なんて。うちのオンボロ・ハーバーで小さなヨットで乗れてた時のほうが、アット・ホームで冒険っぽくて、ずーっと素敵だったなぁなんてつい思ってちゃって……みんなには内緒よ。 これはもう確実にわがままだけれど、できるなら、古くてもいいから、ニ三人いれば充分艤装できるような小さなヨットを手に入れて、またうちのハーバーで乗りたいなぁ。そういうのなら経費もそうかからないし、ほんとうに気軽に乗れるし。きっと、楽しいと思うの。 もちろん、『エンチラーダ』で葉山マリーナのほうが、ずーっと安全なのだけれど。古き良き『ミッキー』のこと考えると、懐かしくて、愛しくて、涙が出ちゃう。 思えばこのところそんなにヨット乗りたくないって思ってたのも、『ミッキー』じゃないからってことだったのかも。 やぁね。ほんのちょっと前のことなのに、こんなにしみじみ懐かしく思っちゃうなんて、あたしトシなのかな。それか、貧乏性。 あたしはやっぱり普通の子なのね。お金持ち文化が身になじまない。ひとを使ってどうのこうのって、全然ダメ。マリーナのスタッフのかたがたとかに話し掛けられても、どんな口のききかたしたらいいかわからなくて、ついこそこそひとの背中に隠れたり、ただそこらを歩くのとかでもつい気取っちゃったり、たっぷり意識しちゃって。 うららなんてたいしたもんよ。堂々としてて普段通りで、ぜんぜん気後れしてないみたいだったもの。お育ちというものは、隠していても、本人意識していなくても、おのずと匂いたつものなのよねぇ。ああ。 ……おっと。すっかりヨットの話ばっかりになっちゃったわね。 手紙書いた理由を忘れるところだったわ。 実は、カズホさんに、やっぱりすごーく久しぶりにあって、『逆井さんはどうしてるかな』って聞かれたの。そう言えばトコともあんまり話してないなぁと思って。こないだ杉丸や笙子とは逢ったんだけど。 ごめんね。忘れてたわけじゃないのよ。トコとはしばらく離れていても、心配ないじゃない。昨日までずーっといっしょだったみたいに、すぐ話が合っちゃうじゃない? そういうのってトコしかいないし、そんなおともだちって素敵だと思うの。 でも、そろそろあったしくなって来たから、海が見たくなったら泊まりに来てよ。泳げるくらいになっちゃうと、思い切りこみます。あ、そうそう、いろんなお花を見に、鎌倉あたりあちこちそぞろ歩きしに行ってもいいわね。もちろんあたしがトコんちに泊まりに行くってんいうのもありよ。そちらと違って、こっちはテストとかそんなに大変じゃないから、トコの都合のいい時を教えてくれると嬉しい。 それじゃあ。 なんだか関係ない話で枚数取っちゃって、肝心の用事がついでみたいに見えちゃいそうだけど。あたしの愛は変わってなくてよ! さっそく少し陽に灼けてしまった 未来より LOVE YOU♪ ……おお。 おお、ミシェール。 あたしだって愛してるわ。せつないほど愛してるわ。あんたが楽しそうにしててくれると、ほんとうにわがこと以上に嬉しい。 でも、あんたはちょっぴりあたしを泣かせる。あんたのその無邪気さが、今のあたしには、少し……ほんの少しだけど……。 「琴子さま……琴子さま?」 はっと目をあげると、すぐそばに一学年下の久保なよ子さんのお雛さまめいたみやびなお顔がある。そしてその背後に、かすかにこちらをかすめては遠ざかっていくいくつかの視線。 華雅会館7F芙蓉の間。今日は特別のお集まりじゃなくて、ソロリティー会員同士の親睦のために解放してある。あちらではまろやかな湯気をたてるカップをかこんで午後のお茶を楽しみ、こちらではまだぎごちない新入生(中学一年)がフランス刺繍を教えてくださるおねえさまがたの白い指先に真剣な目を注いでる、って感じ。 「何かしら」 「どうされましたの。もしや、お加減でも」 「あら。なんでもなくてよ」 あたしはあわてて、本を閉じた。 今月のソロリティー推薦図書『ラテンアメリカ文学全集 巻のニ』。ミシェールおなじみの無印良品便箋をコッソリ挟みこんで読むのに、実にちょうどいい大きさだったりしたのよね。 でも、考えてみれば、話し掛けられたからといってサッサと本を閉じたのは変だったかしら。ちょっと気になったけれども、なよ子さんは、特に気にとめた様子もなく、おっとりと首をかしげたりする。 「それならようございますが」 まるで平安のお姫さまがわざとやってたみたいにぼうっとした眉を、少ししかめて。 「ちかごろの琴子おねえさまは、いつもの快活な琴子さまではないようにお見受けして。なよ子、心配ですの。もしや何かお気病みなことがおありでしたら……あのう……わたくしなどはなんのお力にもなれませんでしょうけれども……」 これだけ言うのに、あたしの三倍くらいの時間がかかる。それを補うためか、ぎゅーっと真綿を絞るように、手なんて握ってくれちゃう。その手は赤ちゃんみたいにぷくぷくしてて、真っ白で、力仕事なんて生まれてから一度もしたことがないみたい。もちろん、学園のお掃除当番等はするだろうけれど、なよ子さん独特の、あくまで悠揚迫らざるご所作で、に違いないものね。誰もこのひとに、迅速火急の仕事なんて割り当てない。タッタッターッ、と雑巾掛けするとこなんか期待しない。 こういうひとを見ると、ほんとうに高貴なひとの血は、今でもちゃんと続いているんだなって確認できちゃうわよね。 「あら、ありがと。でも、ほんとうになんでもないのよ」 ギュッと短く握り返すと、なよ子さんは、ポッと頬を赤くしてあたしを見つめながら、するりと手を外す。 頬を赤くして……。 うー。なんちゅーか……。 あたしも、ソロリティー生活四年め。確かに、慕ってくれる下級生のひとりやふたり、いなきゃおかしいけどね。こんなスッゴイお姫さまに、思慕されちゃうほどのタマじゃないわよ。まー、つまり、この子にしてみりゃ自分にないもの求めてるってことなのかもしれないけれど。本性知ってガッカリしても知らないからね。 そうよ。だいたい。 ほんとうは、なよ子さんの言う通り。 お気病みよっ! ゆーうつなのよっ、あたしは!! ああ、まったく。こんな茫洋とした下級生にまでそれと知られるなんて。あたしとしたことが。 あー。もう、やだっ! うわ、加納さんも高瀬さんも目くばせしあってるじゃないの。そんなに汚らわしそうに目を背けなくたっていいじゃないのっ! ふん。あんたたちなんか、あんたたちなんか、なんにもわかってないくせにーっ! ああ、ミシェール。 あたしもう、耐える自信がないわ。立派すぎるヨットがどーのこーのだなんて、うかれた話ができるあんたがうらやましい。 この胸の中身、これまであったこと諸々、一切がっさい、ぶちまけてしまいたい……! けれど。 けれど。 そんなことしたら、あたしきっと、自分を嫌いになる。 がんばろう。あたしは強い、肝っ玉トコちゃんよ。どんな荒波も、あんたのとこまで行かせない。ここで食い止めてみせるって、そうこころに誓ったはずじゃないの。 ミシェール。 あんたがどんなにあたしを愛してくれてるつもりだったとしたって、あたしがあんたを愛してるほうが絶対に強いと断定してしまうわ。 ああ、ミシェール。 何故にあんたは葉山にいるの。森戸の町はそれほどいいの。 いったいぜんたいなんだって、このあたしのもとに、帰って来てくれないのよぉぉぉ??? 四年生(高校一年)の初めは、長い学園生活の中ではめずらしい、不穏で不安な時期だわ。いつもの落ち着いた雰囲気が、ほんの少しだけどかき乱されてしまう。 なんたって、ひとクラスぶんもの見知らぬひとびと……外部中学から、華雅高校を受験して成功したひとたち……が入って来るんですからね。外部クラスは外部クラスでまとまってて、あたしたち内部生からはワン・クッション隔離されるから、みんな情報に飢えてしまう。新しいスターが誕生するかもしれないし、成績順位の変動も当然あり得るというのに、気にしないではいらないわ。ことさら超然とした態度を取るひともいないではないけれど、完全に無関心なのは、ほんとうにひと握りのひとだけなんじゃないかな。 来るひとがあれば、去るひともある。 新しいクラス分け表をつらつら眺めれば、思いもかけぬ誰かれが急に姿を消していたりする。理由があって転校などするひとは、内緒で行っちゃったりしないから、この時いなくなるのははっきり言って、追い出され組。お成績が芳しくなかったり、素行が良くなかったりしてクビになっちゃったかたがたなんだろうけれど。普段あたしたちの目に余るようなひとは、学年の途中だろうとなんだろうと構わずにとっくに退学させられているから、ここで対象になるのは、まさかというようなひとなの。 例えば今回は、白倉利恵が、意外のひとナンバー・ワンだった。理数系の上位グループだったし、おしとやかでおとなしくて、とても校則違反などするようなひとに見えなかったんだけれど。 諜報部の浩子によると、なんとかいう新進歌手グループに夢中になって、ファン・クラブに入って、父兄同伴なしで何度もコンサートにでかけたりしたらしい。所持品検査の時に、定期入れにその歌手グループの写真が隠してあるのが発見されたところからアシがついたというのだから恐ろしい。なんでも、その場でのお咎めはなく、うかつにも事態を甘く見た利恵は、他校の生徒といっしょにどこかの県民会館の一番前の席できゃーのきゃーと言ってる現場を、私服で尾行なさっておられたシスター小峰に押えられたのだとか。こたれじゃ逃れようないよなー。 しかし。 てことは、シスターは『ぴあ』かなんかでその歌手のコンサートを逐一チェックしていらしたはずで。チケットとかもちゃんと手にいれられていらしたわけでしょ。でもって、毎回利恵検挙のチャンスを作るために、マメにでかけてらっしゃったとしか思えないじゃない。その結果、シスターまで思わずファンになって連帯してしまうほどの大歌手でなかったところが、彼女の不幸ね。 ともかく。 利恵と仲良しだった本田多喜子ちゃんなんか、ショックのあまりまる三日も休んだね。出てきた時には、憔悴のあまりダイエットに成功した……かと思いきや、ヤケ食いしたらしくまるまると小錦しちゃっていて、よわりめにあたりめ(あら、たたりめ、だったかしら?)。そのころころしい後ろ姿に、みな思わず諸行無常とつぶやいたわ。 でも。 本田さんなんて、いいほうよ。あたしのほうがずっと悲惨よっっ! あたしなんか。 あたしなんかね。小さなグチはいちいちこぼさないけどね。 せんだって。後からよく見たらなんと『友引』の昼休み。とうとう、放課後生徒会質に来るように、とまで言われちゃったんだからね。それも、あの手塚二三子さん直々のお達しで! 手塚さん。 東大・お茶大・津田塾あたりを受験なさるかたがたばかりの三年A組の、クラス委員で。ソロリティー会員でこめそないけれど、もと生徒会副会長であらせられ、昨年の文化祭では名誉ある十二使徒のおひとりにすら選ばれた、あの手塚さんよ。 午後いっぱいを恐怖と自分への叱咤で費やしたあげく、おそるおそる生徒会質の扉をあけたとたん飛んできたあの、かなり皮肉なお声。 「逆井さんね。浅葉さんのご親友の」 もちろん、そういう用事に違いないとは知っていた。覚悟は決まっていたはずなのに早鐘を打ってしまう軟弱な胸を押えながら、あたしはせいいっぱいまっすぐに手塚さんの顔を見たわ。はっきり言って、虚勢だったけど。 「はい。逆井琴子です」 「今でもともだち?」 試すように、問い掛けられたことば。 ずんぐりと丸い肩の上に、あまり長くない首が乗ってる。眼鏡の奥の手塚さんの目は、極度の近視のかた特有のきついすぼまりかたをしている。 けっして整わないご容貌じゃないのだけれど少し太めでいらっしゃるし、あまりお構いにならないらしく、髪などザンギリ。金属的な特徴のあるお声でつっぱなしたような言い方などされると、さっさと尻尾を巻いて逃げてしまいたくなるわ。 けれどあたしは。 言ったわ。ちゃんと。両足を踏みしめて。 「そうです。かけがえのない友人です!」 「じゃあ……」 ぱし。 机にぶつけられたものはと見れば、お裁縫室から持ってらしたらしい和裁用の物差し。あれでひっぱたかれたら痛いだろうなぁなんて、つい思って、思わず首をひっこめたとこに、すかさず鋭い声がつきささって来た。 「聞くけどね! 浅葉未来はなんで出てこないの。どうして華雅に戻ってこないのっ!!」 「…………」 「あんなひと騒がせな発言をしといて、フォローひとつなしにトンズラついたのはどういうわけなのっ!? ひとバカにするにもほどがあるじゃないよ。さーあ、ご親友ならば、あの子に代わって言ってもらおうじゃない。言えるもんなら言ったんさい。どう申し開きをするつもりっ!?」 「……それは……」 ずっと口の中で練習しておいた言い訳を、あたしはなるべくさりげなく口にしようと思う。 「彼女は彼女なりに、責任を取ったのじゃないでしうょか。あの差し出がましい所業の責任を取るため、天下の華雅をあきらめたのですよ。長く苦しい受験生活をまるごと棒に振ったのですよ。我が身を省みて、もうとても学園に相応しい人間ではないと、潔く身をひいたと思ってはいただけませんか?」 「つまり、逃げたんじゃないよっ!」 手塚さんの小さな目がギラッと光った。 「ふん。全校生徒を前にしてたんねうなことを言ったくせに、ありゃ正気じゃなかったんだね。あたしはこれでも感激したんだ。あの子に生徒会に来てくれってさんざん勧誘までしたのにっ。裏切られたよっ! まったく、おめでたいよ。もう少し根性が座ってるかと思っていたよっ」 「……手塚さん……?」 ことばはとげとげしかったけれど、声のどこかに、あたしの喉の奥をグッと詰まらせるものがあった。気がつけば、手塚さんは眼鏡の奥でぱちぱちと激しく瞬いている。 ……泣いてらっしゃる……? あの子のために? そんなに……そんなに、あの子を信じて、期待してくださったの……? それなのに。 あの子はわかってないのよ。 自分がどんなにすごいことをしたか。みんながあの子のことを、ジャンヌ・ダルクのように、シモーヌ・ヴェイユのように思って、熱い視線を注いだのに。 あいつったら、まったくわかってない! だって、学園始まって以来じゃない? あんなに正面切って校長さまにタテついたおバカは。それも、普段から異端っぽかったひとじゃなくて、かつての優等生、憧れのソロリティーの中堅と謳われたあの子が、なんだからね。先生がたのおぼえめでたく、下級生にも渋いながら多少の人気のあった、あの浅葉・ミシェール・未来さんが。何故か(何故なのかあたしは知ってるけど)衝撃的にもシュミーズ姿で、の発言なのよ。 みんなショックだった。賛成したひとも、ただびっくりしただけのひとも、とにかくみんな、その後あの子がどうするかには注目していたのよ! なのにあの子ったら、あんなにいきなりで、しかもそれっきりだなんて……。 ああ、もうどうして、ああいつもいつも、ひと騒がせなんだろう、あの子はっ! 「……申し訳ありません……」 言うつもりじゃなかったことばがぽろりとこぼれちゃって、気がついたらあたしも泣きそうな声を必死にごまかしてるんだ。 「けれど、どうか、わかってやってください。浅葉はもともと、臆病者です。真面目そうだけど、実はかなりなりゆきまかせ。出たとこ勝負な子なんです。あの直後だって、偉そうなことを言ってしまった、どうしよう、って、すっかりパニックになってたくらいです。生徒会執行部のかたがたが力になってやると励ましてくださったことも聞いています。退学されちゃったりしないように、署名運動をしようとまで言ってやってくださったことも。それをあっさり蹴ったような不届きには、恩知らずとお考えになるのも無理ありません。けれど、あの子の気持ちとしては、ただでさえご迷惑だった自分に対して、そんなにまで、そんなもったいないことをしていただくわけにはいかなかったのです!!」 「何も恩着せようなんて」 「ああ、もちろん、それはわかります、けれど」 「わかったわかった。まぁ、ちょっと落ち着いてよ。こっち来て、座んない?」 招かれるまま、あたしは手塚さんからふたつみっつ置いたとなりのパイプ椅子に、なんとか腰を落ち着ける。 ふう。 「なんか、あんたも苦労みたいね」 座るところを見届けて、手塚さんがおっしゃる。今度はだいぶ、おやさしい声で。 「はぁ……い、いえ、そんな」 「ごめんよ。つい、本人に言えばいいこと、ぶつけちゃって。けどね。なんたって、本人がいないのがまずいのよ。もうちょっとほっとけないと思わない? あんただって聞いてるでしょ。あのひどい噂」 ……ううう! それよ。 「知ってます。浅葉は受験に失敗してて、だから悔しまぎれに学校を侮辱してみせたんだ、とか。いい加減なことを言うひとがいますね。テストの成績は悪くなかったんだけれど、あっちで過ごしてるうちにすっかり不良になってて、校長さまに入学を断わられたのを逆恨みしただなんて、ひどい誤解まで」 「もっと傑作なのがあったよ。実は浅葉さん宅は財政難で、三番町のお家を売ってもまだ立ち直れなくて、せめて入学試験にだけは意地をかけて合格してみせたけれど、学費を収めることができないから……っての」 「そんなっ! なんの根拠があってっ!」 「根拠なんていらんて。あの演説がなまじドラマチックだったからね。みんな想像かくましくしちゃうの、無理ないでしょ?」 ああ、もう、ほんとにっ! これが名門校の実体よっ。 ひとの不幸をあれこれ言うなんて、まったく美しくないじゃないのっ! 華雅エンヌの誇りはどこに行ったのよ? みんな、なんにも知らないくせに。ミシェールのことなんて、ちっともわかってないくせに。 同情している口振りで、、せいいっぱい深刻ぶって。でもきっぱり美味しいものを食べてる時の顔で、コソコソ囁きあっちゃうひとたち。『……じゃないか』ってニュアンスではじまった憶測が、いつの間にか『……に違いないわ』になって。いかにもの話をでっちあげることができると、まるでクイズでも解いたみたいに満足しちゃうのよね。 「今、浅葉のことを悪くいうやつに限って、あの時、あの場では、感激のあまり涙ぐんでたりしてねー」 「でもっ。くだらないことを言うひとたちは、相手にしなければいいのでは? ひとりひとりにあたしたら言い訳して回るのもおかしいし」 いやらしい理由を思いつくのは、もし自分だったらこうなんじゃないかって考えたってこと。つまり、ひどい邪推をすることができるひとは、それだけ自分のくだらなさをさらけだしてしまってるってことよっ! 「ウン……。でもさ。ひとつだけ。あながちくだらない噂とも言い切れないのがあるでしょ。知らない?」 「は?」 「あの。文化祭の時の彼の話」 え……? 「浅葉は、法定年齢に達するないなや、お家元夫人になることが決まってる、もう花嫁修業をはじめてる、って。高校生結婚なんて、華雅にいたんじゃ無理だもんねぇ。こないだまで浅葉と同じ学校だった子が、外部生クラスにいるでしょ。なんでもその子が、みんな応援してあげてほしいって言い触らしたらしいんだけど」 す……杉丸ぅ……ううう。 あのおバカっ!! 「誤解ですっ! それは杉丸の願望であって、まるで事実に反してますっ!」 「そうじゃないかとは思った」 「そうですともっ!」 ああ、でも。 それとも。 やだわ。 ああ。まさか。まさか。 しばらくあたし、ミシェールとまともに話してないから、あたしが知らないうちに、あの子ったら、そんなことにしちゃったんじゃないでしょね? このあたしに内緒で? 「けどさぁ」 頭がクラクラして、手塚さんの顔もよく見えない。 「あたしゃ、チラッとしか見なかったけど。なかなか良さげな彼氏だったじゃない? ああいうひとがいたら、葉山離れたくないって気にもなるかもしれないよねぇ」 ! じょーおだんじゃないわよっ! じゃなに? ミシェールは……あたしや、ソロリティーの仲間や、華雅生活そのものよりも、あのヒョーロク玉を選んだとでも言うの? ●●●! ……そりゃね。そりゃあの子は、西在家さんに何かと恩義を感じずにいられない立場にはあるわ。多少の……多少よ! ……慕情も、まぁ、あのくらい美形でヒーローしてるひとで、あの大馬鹿者の面倒をそつなく見てくれる辛抱強いひとだったりするから、抱いても無理はないかもしれないわよっ。 けど。けどねぇっ! 言わせてもらえば [大きな文字で]あたしたちの友情はもっと深いっっ![戻る] オトコなんかに横入りされるような、そんなヤワなチャチなものじゃないはずよ!! そうでしょう? ねぇ、ちょっと。そうじゃないの、ミシェール?? 「まぁねー。弁解は見苦しいとは言え、ひどい誤解は解いておいたほうがいいね」 とかなんとか、手塚さんがおっしゃっていたけれと、はっきりいって、あたしはカーッとしてて、あんまり聞いてなかった。 まさかだけど。 もしも万一。 西在家さんのせいで、華雅に来ないのを選ぶのもそんなに苦痛じゃなかったんだとしたら……? あの田舎に残ることがいっそ『楽し』かったりしたら……そんな、そんなミシェールだったら……あたし、あたし……。 絶対に絶対に、許せないっ! 「彼女も幼稚園からずっと華雅でしょう。ここまで、十年以上でしょ。ずっと仲良くして来たともだちに、憶測で嫌われっぱなしじゃあミジメじゃない? 将来、クラス会や華雅会にでられないようなことになったら、あんまりだからねぇ……」 ふん。そのくらい、当然よ。 いくら長い友情だって、あっちがそう簡単に裏切るっていうなら、こっちにだって考えがあるわよっ! 「でね。ねぇ。もしもさ。浅葉さんにその気があるなら。転校手続きがとれるように執行部から働きかけてもいいのよ」 ……えっ? 「……て……転校?」 思わず見上げると、手塚さんは眼鏡を外してハンカチで拭いてらっしゃった。 「ウン。ちょっと異例だけど」 あくまでそっぽを向いたまま、何気なくおっしゃるのよ。 「やってやれないことはないと思う。ミス日向はじめ味方してくださりそうなシスターもいらっしゃるからね」 ……転校……? 転入? で、でも。転出ならともかく、新学期はじまっちゃったばっかりだし。途中から転入したひとなんて、ここ数年なかった。おとうさまの転勤などで地方の学校にちょっとだけ行かなきゃならなかったひとたちだって、みんな学年の変わり目まで待ったのよ。 「五年となると……ちょっと遠いですね」 「ウン。そうなんだ。だから、穏当なのはそのへんだろうけど、あたしたちとしては、二学期からってことで推したいと、思ってるわけ」 「に、二学期!?」 あたしの頭の中で、ピンクのライトがちかちかしたわ。 二学期! 二学期には、あたしたち、またいっしょになれるかもしれない?? きゃあー! 「そーよ。なにしろトップで受かってたのに、どう対処するかはっきりしないうちに、本人からサッサと身をひいてくれちゃったわけでしょ。学園側も当惑してるのよ。校長さまも、怒ったっていうより、茫然となさったの。引き止める間もなく、あんまり過酷な結果になりすぎちゃったって焦ってるわけ。あの子の発言で、学園側に疑問や不信感を持っちゃった子もいないわけじゃないじゃない? このまま、まるで流罪にしたみたいな状態でいくの、不安らしくてね。当人を寛容に迎え入れることで、もう一度華雅の威信を取り戻すことができるならって感じなのよ」 「ああ、手塚さん!」 あたし思わずひざまずいちゃって、手塚さんの手を握り締めちゃった。 「なんてご聡明、なんてご親切なんでしょう。素晴らしい! ああ、あたしも、できる限りのことはしますから。どうか、どうか、何とぞよしなにお願いいたしますわ!」 「う、うん。まぁ、できるだけのことはするけど」 ははは、と手塚さんは唇の端でお笑いになる。なんだか、あたしがあんまり手放しで喜んでいるのに、とまどわれたかのように。 どこかが、ちょっとだけひっかかった。 なんだろう? 「まだ、計画の段階じゃあるし。もちろん、甘く見てもらっちゃ困る。本人がやる気充分で、華雅レベルにちゃんとついて来れるならってのが最低条件だしね」 「それはご懸念なく。おまかせください!」 やる気なんて、そんなもの。 無理やりにだって、あたしが起こさせてやるわっ! 「きっと、きっと、ご恩に報います。ご尽力を無駄にはしません。では、さっそくにも本人に連絡して、手塚さまにもきちんとお礼を言わせるようにいたします!」 「ああ、それはダメなの」 思わず走り出そうとした時に、釘を刺された。 「は? ダメ?」 「この件に執行部がからんでるってことは、内緒だからね」 「え」 「浅葉本人にも、言わないように」 「???」 どうして? つまんなーい。せっかくミッちゃんやみんなに話してキャア♪ って喜びあおうと思ったのにぃ。 思わずふくれっツラになりかかると、手塚さんの目がまた、怖い感じになった。 「特に、ソロリティーのやつらになんか洩らしたら、ただじゃすまさないから。わかったわね……?」 これは試練だ。 と、あたしは思ったわ。 試されている。あたしの賢さと、友情と、学園やソロリティーに対する忠誠心が。 それにしても、なんという孤独だっただろう。 教室に戻った時には、みんなもう帰ったあとだった。鞄をぶらさげて校庭を渡っていく時も、知った顔には逢わなかった。 もともと、ミシェールがいなくなってから、誰といっしょに帰るって決めてたわけじゃなくて、時々はひとりで帰ることになっちゃったことがなくはなかったけれども。この日の道はなんともいえないくらい遠く、寂しかったわ。 もしもこれせが別の誰かに関することだったならば、少なくともミシェールにだけは、こころおきなく相談することができたはずだ。そしてもし、加奈子さまや麗美さまが在学あそばしていらっしゃったならば、自分が情けなくなってしまうことをさえ我慢すれば、素直におすがりし、ご両人の判断に安心しておまかせしてしまうことだってできたかもしれない。 けれど、今のあたしには、誰もいない。 駅前の交差点、立ち止まれば、警戒の赤信号はちりちりと胸の奥にも反響する。 執行部がミシェールを手にいれたいわけ。転入のための根回しを,内緒に、とくにソロリティーに秘密におきたいわけ。 手塚さんは、恩を着せる気なんてないっておっしゃっていたけれど。間違いない、転入したら、あの子は生徒会に入れられることになるだろう。 そして。 たぶん手塚さんたちは、やる気なんだ。 ……学園改革……! あまりに恐ろしい四文字に、グラッとしたとたん、ピーッと甲高い音を立てて電車が入って来た。無意識のうちに、ちゃんとホームまで歩いて来てる自分が、やけにいじらしくなってしまう。 学園改革。 結果として華雅がどこまで変われるかはともかく、少なくとも、ソロリティーと執行部の間でほぼ均衡していた勢力が崩れることは間違いない。 このところソロリティーはただでさえ旗色が悪いわ。なんたって、民主的じゃないし。時代後れって言われると返すことばがない。激しい憧れの対象であるのだけれども、だからこそ、どんなに努力しても会員になれないひとの何人かからははっきり憎悪されている。 そして。 今の会長の山本さんは、お成績こそ最高だけれど、某中小企業のたかが専務のお嬢さま、シビアな言いかたをすればお育ちはあまり良くない。なんたって華雅の場合、卒業生には、皇太子さまの御妹ぎみはじめ皇族・華族のかたがひしめいているわけで、なまじのお家柄なんかお家柄のうちに入らない。それなのに、会長からしてそんな具合では……。 今年のソロリティーには、人材がないと言われてもしかたがないわ! ああ。去年は良かった。 なんと言っても、加奈子さま麗美さまおふたりが、ふたご星のように燦然と輝きを放っておられた。その艶やかさ、華々しさ、冒しがたい気品には、在野の才人を集めた執行部ごとき、いくつ束になってもかないはしなかった。もともと、そのふたつを比べることなどみんな思いもよらなかったと思う。 けれど。 改めて考えてみれば、執行部のひとって、ソロリティーのこと、あんまりよく思っていなかったのかもしれない。学園祭だなんだ生徒中心の行事でも、いつも実務ばっかりやらされて、カッコいいとこみんなソロリティーがさらっちゃってるって感じがしないこともないし。 普通の学校だったら、生徒会会長とか言えばそうとう偉いひとなはずだけれど、華雅の象徴と言えば、みんな、やっぱりソロリティー会長のほうだって思うだろうし。 言わば、ソロリティーは王家、生徒会は内閣……?? うわー。怖い! 今華雅が迎えようとしているのは、明治維新、またはフランス革命にも匹敵する大変革なんじゃないだろうか?? きゃあー! そんなとこでミシェールは矢おもてに立たされることになるわけ? あの子に矢を放つのは、ほかでもないあたしたち、ソロリティー……? そう。思えば、あの日ミシェールが弾劾したのは、華雅の最も華雅らしい部分。言い換えれば、ソロリティーによって象徴される部分だったのだから。 わぁーん! そんなのってないじゃないよぉ! やだー、やだーっ! 堪忍してよぉ。あたし、どうすればいいのよ? そりゃ、あの子に帰ってきて欲しいわ。だけど、それで戦争になるのなんて、わたしたち敵味方に別れなきゃならなくなるなんてごめんよぉー! だいたいね。だいたい。 ゆかこや前島さんや。安達圭子とか。広田一代とか。ミシェールの演説のあと、目ェきらきらさせて『そうよっ、今こそ革命の時なのよっ』『あたしたちがあたしたちの学園を作るんだ!』なーんて思いきり盛り上がってたけど。 実際、何した? なんにも! なんにもしてないわよっ。 あたりまえに四月は来て、あたしたちは四年生になって。そして、そこにミシェールはいなかった。 そーしたら、なんのことはない。あの子が言ったことなんてもう、誰ひとり覚えていなかのように、いつもの華雅らしい日常が繰り広げられるんだもんね。始業式の校長さまの注意だってさ、ちゃーんといつもの通り。『よその生徒とはみだりに交際しないように』『選ばれたものであることを自覚して、規律正しく生活するように』って。 そうして、『革命だー!』とか言ってた子たちは、『裏切りもの』『なぜ戻ってこない』って、あの子を責める。あの子が来て、みんなのために、また何かしてくれるのを待っていたから。 ひどいじゃない! どうしてそんなに、あの子にばっかり期待するの? 学校をなんとかしようって本当に思ってるんだったら、どうして自分たちでやんないのよ? 言わせてもらえばね。あたしは最初からクールだったわよ。 万一あの子がみんなの英雄に祭り上げられそうになったら、絶対止めようって思ってたし。あの子ってばおバカでオッチョコチョイだから、うまいこと言われると何にも考えずにホイホイ出てっちゃって、大怪我するに決まってるもの。駆け出す前にブレーキかけようって、思ってた。みんなの思惑の犠牲になんかならないように、守ってあげなきゃって思っていた。 けれど。 ああ、ミシェール。これは運命なの? あたしたち、このまま、この荒くれた時代の渦中に放り出されてしまうの? ……こころ乱れて、それで足はいつの間にかちゃんと家までたどりついてしまっていて、ついつい目は本棚の『ベルばら』になんか向いてしまったりして。 あの子がオスカルだとしたら、あたしはアンドレよねー。なんかきっぱり脇役っぽいとこが気にいらないなー。 なんて思っていたら。 「琴子―っ。お客さーん!」 下から呼ばれる声がしたの。 「はーい」 お客さん?? こんな時に? まさか。まさか。急にミシェールが来たとか……? そんな偶然、きっとありっこないけれど。 ドキドキしながら階段降りて、店との境目の暖簾をかきわけたとたん。 「や、やぁ」 あたし、とっさにご挨拶のことばも出てこなかった。゛ 五木田一穂くんの、パイナップルみたいな頭が、ひょこっと会釈したから。 まだあまりこみあってないお店の雑音を背景に、たっぷり一分間、どっちも黙りこくってたと思う。 あたしはあんぐり口あけてた。あんまりわけがわからなくて。 前に、ハガキを二回、手紙を一回もらったことがある。あちこちの消印があって、あれこれつなぎあわせて考えてみると、どうもどもだちと自転車旅行に出てて、その旅先から絵ハガキなんかを送ってくれるみたいだった。マメなひとだと思ったけれど、何しろ、さっぱりわけがわからなかった。 だって、一番長かった手紙の文面でさえ、こんな感じだったのよ。 『元気ですか。(改行)ぼくは元気です。(改行)毎日走っています。(改行)今、信州にいます。(改行)ちょっと寒いです。(改行)そば食ったら、うまかったです。(改行)それじゃさようなら』 思えば、なんのお返事もしなかった。だって、旅行中じゃ手紙出しても届かないと思ったから。 でも、こうして逢っちゃったからには、ちょっと謝ったほうがいいかなぁと思いながら、どういったらいいかわかんないでいたら、一穂くんが口を開いた。 「あの、ち、近くまで来たから。ほ、本買いに。それで、ちょっと寄ってみたんだ」 ほとんど、手紙と同じ感じのしゃべりかたなの。 あたし、笑っちゃった。 そして、クスッとしたとたん、胸のどこかがキューッて言ったの。 むずかしいことなんか、何ひとつ言わないのね。 戦争とか革命とか、転校して来てほしい、でもそうしてもらっちゃうと困るとか、許すとか許さないとか、そんなややこしいこと、何にもない。 あたしは、ついさっきまで、ひとりぼっちだった。何が一番大切なのか、どうするのが正しいのか、いろいろ考えて、迷って、わけわかんなくなって、すごく怖かった。 けれど、世の中って、毎日って、もっとさりげなく、なんでもなくってもいいはずじゃあないかしら。 「め、迷惑だったかな点で」 一穂くんが気弱そうにつぶやいた。 見ると、テーブル席のほうのカップルのお客さんにタコを作ってる、カウンターの中のお父さんのこと、チラチラ気にしてるみたい。 あ、そうか。 お父さんって、一見かなり怖いんだ。頭なんて地肌透けて見えるほどに刈ってあるし、よほどのことがないと愛想のいい顔なんてしないから。調理用の白い上っぱり着てない時は、あのスジのかたと間違われないとも限らない容貌なのよねぇ。 気がつくとあたしは、うううん、とんでもない、って、思い切り首を振ってた。 せっかく来てくれたのに、このまま帰しちゃ悪いなって思ったし。正直言って、もう少しイヤなこと忘れて、平和な気分でいたかったの。 ともだちっていいな。 そう思った。 それも、なんの利害関係もないともだち。 ほんの、一、ニ回しか逢ったことないし、ろくに話もしたことがないけど。ややこしいこと何にも考えずにいられるひとを、もっと見ていたい気がして。すごく大切なともだちが訪ねて来てくれたみたいに、じーんと感動しちゃってたりして。 「ね、お寿司食べない?」 「え」 「食べてってよ。遠いんだもん。そうしょっちゅうは来れないじゃない? うちのお父さんのお寿司、おそばなんかより、絶対美味しいからっ!」 手紙のこと気になってたから、そんなこと言っちゃったんだけど。 「そんな……いや、悪いから」 当惑ぎみの一穂くん見たら、かえってひっこみがつかなくなっちゃった。 「やーね。男でしょ。遠慮するんじゃないわよっ。ほらほら。座ってっ!」 あたしは一穂くんの背中を押して、お父さんのすぐ前に座らせちゃった。 「父です。こちら、五木田一穂くん。ミシェールわかるでしょ? あの子のヨットともだちなの」 「ど……どうも……」 「らっしゃい」 チラリッ、と目をあげながら、低く短く、お父さんがつぶやいた。 なんだか、普段よりなお、地獄の底から響いてくるような声、演出しちゃってるような気がした。 「さぁさぁ、何から行く? どんどん注文しちゃって。あ、うちは葱トロが絶品よ」 「そ、それじゃ……えっと……」 「適当に作りましょうか」 あくまで低いお父さん。 「お願いします」 「苦手はない?」 「あ。だいじょぶ。俺、食えないものない。寿司、大好物だし」 はははは、って一穂くんは、なんだか引きつったみたいな笑い顔をした。 お父さんの眉が、ぴくんとあがった。 あれは微笑。 良かった。 お父さん、気にいらないお客さんには、思い切りワサビいれるからなぁ。好きなお客さんのためには、食べたいってお魚探して走りまわっちゃって、ろくにお代もいただかなかったりして。ソロバン合わせるのに、お母さんいつも悩んでるのよね。 早速出てきたコハダや蟹子やトリガイを美味しい美味しいってパクついてる一穂くん見てるうちに、あたしなんだか涙が出そうになった。 だって、あんまり単純で。 あんまり幸せそうに食べるんだもの。 そうだよね。人間、元気で、美味しいものが食べられて、ともだちがいたら、あとはもうほとんど何にもいらないよね。 ややこしくちゃ、いけない。 ややこしくなるのは、ほんとはいらない部分をあーだこーだ考えすぎるから。考えないほうがいいことを、抱えこみすぎるから。 おもしろがって噂にしてるひとたちも、心配してる口調で抱きこもうとしてるひとたちも、ほんもののミシェールのことなんかどうでもよくて、ただ自分たちの知ってるミシェールらしきものを、うまくオモチャにしようとしてるだけ。 あたしは。 あたしは違うよね? あたしはただのともだち。 あたしはただ、あの子が好きなだけ。ほんとうは、どこで何をしていてもいいのよ。そのままのミシェールが好き。大切なの。 一穂くんは、葱トロ三本を含めてほほぼ五人前に相当するくらいのお寿司を食べて帰って行った。お金、払おうかどうか(そもそも、払えるほど持ってるかどうかも怪しかったと思うけど)困ってるみたいだったから、この次にはうーんと散財してってよね、って送り出しちゃった。 一穂くんが、あのあと、いる間に発したセリフの一番長いのと言えば、 「逆井さんチがお寿司屋さんだったなんて、俺、知らなかった」 だった。 しゃべる以外の用事で、口が忙しかったのかもしれないけど。 華雅のともだちから言われると、自分でもやなんだけどついちょっと恥ずかしくなっちゃうこの指摘が、一穂くんに言われたら、素直に嬉しく得意に思えた。なんたって、あんなにうらやましそうに「知らなかった」って言われたことなかったもの。 それで。 それで。三日ほどしたら、お見せあてにお礼状が届いた。 『うまかったです。(改行)ほんとうにありがとうございました。(改行)今度はオヤジも行くと言ってます。(改行)よろしく』 あたしはヤッさん(お店の若いひと)に、 「あのー、こないだのこんなアタマのひとはお嬢さんの………………」 と、やたら『……』の長い質問をされてしまって、ひょっとしてもしかすると、これが有名なあの『家族ぐるみの交際』ってことになるんだろうか、なんてどんより考えこんでしまった。 で、ちょっとヤッさんのこと恨んでる。 そんなことまるで意識してなかったのに。せっかくややこしいことはなんにも考えないに限るって思ってたのに。 でも。 おかげでミシェール関係のややこしいこと、忘れてたの。 ……忘れてたのに。 泊まりに来いですって? ウチに来てもいいですって? ああ、どうしよう。 ひと晩いっしょにたいりしたら、あたし、何もかもすっかりしゃべってしまいそう。 無責任な噂や、転校の可能性なんて言ったら、あの子きっとびっくりするし、すごく悩んじゃうかもしれない。言うとしたら、あたしはきっと、執行部の陰謀のことも喋っちゃうに違いないわ。そしたらあの子は、戻って来てくれるだろうか、それとも……。 華雅に来なかったことが、自分への罰だったのか、それともむしろ易きに流れた結果なのかなんてこと、今となっては知るのが怖いわ。 それに。 そうよ。あの子、西在家さんのこと、ほんとにいったいどうするつもりなんだろう? あのひとのこと、ほんとにそんなに好きなのかしら。男のひとを好きになるって、どんな気分なのかしら……?? あああああ! いったい何を話して何を黙ってればいいの? 大親友に秘密なんて作りたくないけれど、言わなくてもいいことまで言って、友情にひびが入ったら??? おお、ミシェール。 あたしたち、昔は、お互いに、何ひとつ隠しておけることなんてなかったのに。知らないうちに、そんな日は、すっかり遠くなってしまったのね。 覚えていて、ミシェール? ふたりして四谷の土手の桜のトンネルの下、舞い落ちた花びらを集めて、いくつもいくつも首飾りを作ったこと。腕輪も、花冠も、たくさんたくさん作ったこと。不器用なあんたはすぐに花びら破っちゃって、手に針さして、癇癪をおこしたわね。あたしが作ったきれいなヤツを片っぱしから身につけて、似合うからちょうだいって言ったわね。 それでもあたし、憎らしいとかやだとか思わなかった。他の子だったら怒ったかもしれないけど、あんたのことはしようがないって思ってた。 あたしにとってあんたはあの時のままよ。からだ中に桜を飾って、得意そうに笑うちょっと困った天使。 このまま、もっともっとおとなになって、どんなに季節が変わっても、あたしたちまだ桜色のともだちでいるかしら。 そうならいい。 ほんとうに、そうだったらいいね。 見にいくのなら、桜にしましょう。 さぁ。あんたの手紙に、返事をかかなくっちゃ。 おわり [作品ノート] 短編『トコちゃんinピンク』は、一九八七年十二月発刊の集英社文庫コバルトシリーズ88のY『ミッキーのおしゃれ読本』のために書き下ろしたもの。『稲子さま』同様、本編の「6」と「7」の間に当たる時期ですね。ちなみにおかみき発表当時「回転ずし」などはまだあまりポピュラーではなく、お寿司屋さんといったら、かなりシキイの高いところでした。 ちなみにオンライン版では、文字化けしそうなものは適宜変更しました。ビックラゲーションやブッタマゲーション(!
や?を半角にしてヒトマスの中につっこんだアレのこと)は標準的なものに、ハートのマークは(なぜかこいつは登録がないので)音符のマークで代行しています。トコのせりふで●●●になっているのはドクロマークでした。また、ごく一部ですが、単行本になお残っていた誤植や文意の通らない部分を直してあります。 |