稲子さまinブルー     

                            


 拝啓。稲子おねえさま、お元気でいらっしゃいますか。
 桜のたよりもチラホラと聞こえてまいります今日このごろ、良いお陽気に誘われて、ふと散歩になど出てみましたれば、森戸の沖にたくさん並んだウィンド・サーフィンのセイルがとてもきれいで、たいへん楽し気でございました。私も、おおぜいでワイワイしたくなりました。早くこのお休みが終わればいいのになぁ。そしたら、おねえさまにも、みんなにも、また逢えるのですから。
 ああ、そうだ。
 まずこれを申し上げなくては。
 私は、この四月からも、おねえさまの後輩のままでいることになったのです。しかも今度は、同じ高等部です。おねえさまの美しいお姿を拝見できる機会も、きっと、これまでよりずっと多くなりますよね。廊下などですれちがうことができたら、お声をかけてもいいですよね? ああ、楽しみです。
 とても楽しみです。
 ほんとうに楽しみで……。
 うっ。すみません。字が乱れました。
 ああ、おねえさま。告白します。
 私、ほんとは不安なんです。また、少々とんでもないことをしでかしてしまいまして、またまた例によって、これで良かったのかしら、他になんとかできなかったんだろうか、なんてうだうだ悩んでしまってるんです。
 だから『稲子さまに逢える!』とかなんとか気分のひきたつようなことをひとつでも多くみつけて、必死にそこに心を集中させるようにしていないと、すぐに目の前が真っ暗になってしまうんです。
 だって。ばかなんです。私。
 くわしい事情は恥ずかしいので省かせていただきますが、とにかく、短気と考えなしが意地で二乗されてややこしくなりまして、今度という今度は思い知らされました。事後しばらくは興奮さめやらず、なぁに、どうせもうしようがないんだ、こうなっちゃったからにはこれでいいんだ、みたいに開き直ってたんですけども。落ち着いてあのころのことを考えてみると、思い出すだけで、顔がカーッとなって膝がガクガクしちゃうくらいです。
 思えば、程度の差はあっても、私っていつもそうです。気がつくと後戻りできない失態を演じてしまっているのです。それは、よーくわかってるので、いつも、次こそはきっとよく考えて、絶対うまくやろうって思ってるのに、イザそのときになると、あれよあれよという間に転がり落っこっちゃってるんですから。
 いい加減どうにかしなきゃいけない。
 なんとかしたいって思うんですけども。もう頭グシャグシャで、どうしたらいいのか全然わかんないです。落ち込んでます。ほんとに、私って、なんて情けないヤツなんだろう……くすん……。
 このまんまずるずる成り行きで生きてちゃいけないとは思うんですけども、こうなると、もう何かするのが怖くてしようがないです。
 なのに、春は来ちゃって、もうじき新学期は始まっちゃうわけだし、もうじき十五になっちゃうわけだし、朱海さんは毎日のように電話かけてくるし……。ああ、もう、なんだか、みんなに、何もかも、早く早くって急きたてられてるみたいで、悲しくなっちゃいます。
 なんで時間は、こんな飛ぶように過ぎてっちゃうんでしょう。
 『タイム!』って掛け声かけて、少し息を整えさせてほしいです。もちろん、多少悩んだところで、どうこうできるようなものじゃないんだろうけど……せめて、もう少しゆっくり、あたしの覚悟が決まるまで『待った』かけさせててほしいのに。ああ。だれに文句を言えばいいんだ。自分、かなぁ。暗いなぁ。
 あっ。すいません。変なこと書きました。
 でも、不思議。おねえさまには、こんな恥ずかしいことでも、素直な気持で話せちゃうんですよね。お人柄ですね。
 こういうの、どう思われます? おまえさまなら、こんなつまんない悩みかたはけっしてなさらないのでしょうかね。何かアドバイスがいただけたら嬉しいです。でも、こんなグチを聞いていただけただけでも、ありがたいことですね。すみません。感謝してます。
 お忙しくいらっしゃるでしょうから、お返事はけっこうです。その分お目にかかれる日の来るのを、ほんとにほんとに楽しみにしてます。
 どうか、ますます凛々しく美しくいらしてくださいませ。あでやかなおねえさまは私の心のはげみです。季節の変わり目ですから、風邪などお召しになりませぬよう。 
 では、また。
                                           あなたの
                                               浅葉未来


 あふれたため息が、唇でうなりになった。あわてて噛みしめると、たちまちプツッといって甘やかな鉄の匂いがし、わたしはくらくらする。
 無印良品のささくれだった便箋にくっきりつけられたまっすぐな折り目が目に痛い。
『お人柄』。
『心のはげみ』……?
『こんなつまんない悩みかたはけっしてなさらない』だと。『素直な気持で話せちゃう』だと。『朱海さんは毎日のように電話かけてくるし』だと……?
 こっ……こっ……
 この業突張りめが!
 それだけ恵まれておりながら、何が不安じゃ後悔じゃ。みじめな哀れなわたしから、この上、なにをむしり取ろうというのだ。
 そなたは十分幸福ではないか。自足ということを、知るがよい浅葉未来!
「……すね? ……隊長。……たいちょーお」
 おお。そうじゃ。いかん。
「なんだ」
 視線を上げるや、安原がテーブルの向こうでびくっ、と飛び上がった。
「に、にらまないでくださいよぉっ」
「にらんでなどおらぬが」
「えーっ。だって、にらんでますよぉ」
 ねぇ? と安原が目で尋ねると、列席の『朱海さま親衛隊』幹部一同は、一様にこくこくうなずきおった。
 ふん。雁首そろえて、張り子の虎でもあるまいに。
「三白眼は生まれつきだ。ほっとけ」
「あーっ。そんなんじゃないでしょー。今日の隊長、変ですよ。なんかひときわおっかないもん。ねー」
 ねー、と一同またも張り子化する。
「そっぽ向いちゃってさ。何か関係なさそーなの読んじゃって、あたしたちの話、ぜぇんぜん聞いてくれなくって。せっかくこうして集まってるのに。ひどいですったら」
 ふん。
 せっかく集まってるのに、ついさきほどまでとるに足らぬ無駄話ばかりしておったのはだれなのだ。聞くに耐えぬからによって、わずかな時間つぶしをしておれば、すぐこれだ。
 ひとにばかり過度の期待をするものではない。……が。まぁよい。ここで言ってもはじまらぬ。
「ああ。すまぬ。して、なんの話だ」
 何気なくたたみこんだ手紙を封筒に戻しながら、わたしは、きっちりみなに向き直った。
 たちまち、純喫茶『エルドラド』、逗子駅前商店街はずれ乾物屋地下一階の情けない黄金郷に、しん、と緊張がみなぎった。
「なんだ。言うてみい」
 安原も、丸山も児島も怯えた青い顔で、そっと目配せをしおる。
 これだ。
 どうも、今日のわたしはひときわ目付きが悪いらしい。
 しかたがない。
 髪でも撫でるふりをして、そっと眉根をもんだ。気が進まぬが、笑って見せるか。
「んもぉー。やっだぁ。みんなどーしたのよ。言ってごらんってばぁ」
 自分ではずいぶんとワザとらしいと思うのだが、みなの肩からは、はーあ、とみるみる空気が漏れた。
 こやつらは、自分たちと同じことばで話してやらねば安心できぬのだ。
「えーっと、あのね隊長」
 安原が口を開いた。
「次の月刊『みーくん』だけどぉ、読者の要望にお応えして、もっかい、Q&A、やりたいの。いーですか?」
「あー。で、何聞く」
「うーんとねー。まずは、来年から葉山が『字』に格下げになるかもしれないって話についての、朱海さまのご意見でしょー。それから、いよいよ三年生になるにあたっての、決意とか抱負とか。好きなタレント、好きな色などにその後変化はないか……」
「ふん」
 あいかわらず、どうでもいいようなことを申すな。肝心の『浅葉問題』についてなど、あえて聞きたくないということか。
 まぁよい。そんなこたぁ、わたしだって金輪際聞きたかないわ。いくらひそかに親衛隊を代表してかけておる電話だとて。
 まったく。
 もしもバレたら、彼がどう思うやら。
 単なる世間話のつもりでしゃべってることがしっかり録音され、その後数十名のファンに愛読されること。そうやって何気なく『みーくん』に電話できる幼なじみのわたしであるゆえ、このミーハー・クラブの隊長なんてものに祭りあげられてしまっているのだ、なんてこと。 
 親衛隊があること自体、わたしの冗談だと思い込んでいる彼なのに。
 いや。
 それは、そう思ってるふりをしてるだけかもしれぬ。つまり、彼得意のおとぼけというやつだ。ややこしい事態をあらかじめ回避する巧妙な手管。
 ふん。いかにもありそうな話だ。 
 しかし、それならそれで、わたしもつきあうしかないではないか。手管にはまったふりをして、なんにも気がつかないふりをして。
 ミーハー・ファンのひとりのように。
 ただの幼なじみで満足している、ものわかりのいい女のようにな。
 そうだ。もちろん。
 わたしは実際に、とてもものわかりのいい女なのだから。
「……と、お風呂ではどこから洗うのか、なんてことも。きゃっ。ねー、聞いてみたいよねー。あと噂の新型ヨットの乗りごこちとか」
「そーよ、そーよ。『エンチラーダ』って、めちゃかっこいーもん」
 いつの間にか、みな、てんでに騒いでおる。
「あ、そだ。今度葉山マリーナ行ってあれ、隠し撮りしてきて載せちゃわない?」
「それいい、いい! いーよー」
「できたら、朱海さまが乗ってるとこがほしいねー。無理か」
「だいたい前のヨットってば、名前が気にいらなかったもんね」
「いい気味だぜ。ギッタンギッタンにぶっこわれちまってよー」
「でも、朱海さまだって怪我しちゃったりして大変だったんじゃないよ。あれが壊れたことにだってすごーく悲しんだはずじゃん? それは言っちゃあいけないんでない?」
「そうだよ。あたしたち、心のやさしい女の子なんだから」
「そだそだ」
 阿呆ども。
 幸福なやつら。
 こやつらにはまだ、時間がある。
 こやつらにとって彼は、まだ先々何くれと可能性のある男なのだ。知りあいに、ともだちに、あるいはひょっとすると恋人になれるかもしれない可能性。今はまだ遠いけれど、いつか手の届くところに降りてきてくれるかもしれない可能性。
 だが。わたしは違う。
 わたしの時間は終わったのだ。
 髪に隠れてそっと目をそむけても、だれも気付きはしない。膝の上に隠した浅葉の手紙の封筒の角がちくりと指に応えてくれおる。
 ……なんで時間は、こんなに飛ぶように過ぎてっちゃうんでしょう……だれに文句を言えばいいんだ……なのに春は来て……。
 なのに春は来て。
 浅葉よ。
 わたしはもうじき十八になるのだ。十五なら、まだマシではないか。
 もう一度、十五歳に戻れるのなら、わたしはどんなに幸福であろう。
 十三のときに。
 あるいは、十一のわたしに戻れるなら。
 いやどうせのついでに、わたしたちが出会った、あの小学校にまだ戻れるものならば。
 わたしは。
 わたしは……。

                  ★

 もちろん、今でもよく覚えておる。
 担任の後ろに従って彼が入ってきたとたん、わたしの目は釘付けになったのだから。
 手足の長い痩せっぽちのからだ。目の大きいはっきりした顔立ち。茶色がかった柔らかそうな髪はたいそう豊かで、まつげにかかるあたりで絶妙なカールを見せながら、そっと途切れておったことよ。
 まことに、彼は美しかった。
 幼かった彼は、今よりずっと女性的な容貌だったのだ。だからこそ、息をのむほど、わたしが当時傾倒していた少女マンガのヒーローにそっくりだったりしたのである。
 さらに。
「西在家朱海くんだ」
 担任が黒板にその字を書き上げるや、わが幼き心の臓はピクリと震えた。
 そうではないか。いかな美少年であろうとも、よし山本政男だの佐藤正だのといったありふれた名で呼びうるものならば、そはわれらと同等にして平凡なる一介の男子生徒にすぎぬ。花のかんばせも、つまらぬ偶然の所産によってたまたま運良く恵まれたものとして解するようになる。
 かといって、隼人だの光だの丈だの巴衣音[ハイネ]だ慈音[ジオン]だ義童[ギドウ]だのといった、いかにも創作物めいた気障な名では、親の気取りがいやらしくまた女々しくも見えただろう。
 然るに、『西在家』である。『朱海』である。音といい文字といい、なんと美しく特異であることか。そしてその調和。
 完璧だ。
 と、わたしは思った。
 だが、みながみな、そう思ったわけではないであった。
「げぇー。へんな名前―」
「アケミだってー! 女みてー」
 お茶らけてぎゃあぎゃあわめき散らすクラスの坊主頭どもを、わたしは、何ハゲがと、心中ひそかにせせら笑った。
 嫉くんじゃない。と。
 やつらには、天地がひっくり返ったって似合いはしないのだった。名前も、おとなびたヘア・スタイルも。だからこその抵抗であるくらいのことは、幼少なれどもわかっていたのである。 
 だが、ふと見れば、美少年は、唇をキュッと結んだままかすかに目をふせているではないか。
 気がさした。
 おとなしそうな子だ。ひょっとするとトロくて、気が弱くて、おまけに病気がちだったりするかもしれない(わがマンガのヒーローはそうだったのだ)。第一、上品そうだし都会育ちだ。うちの組のワンパク・ハゲどもとは、対等に渡りあえないかもしれない。となれば、その顔もその名前も反感と嘲笑のかっこうの的となり、いじめられることにならないとも限らない。
 そんなことさせるもんか!
 カッとして、幼いわたしはひとり拳固を握りしめた。(よせばいいのに)わたしが守ってあげる。(よせったら)だれかがあんたをいじめたら、わたし、絶対にそいつを許さない。(こらー、よせー!)ぶって、蹴って、噛みついて、ギッタンギッタンにのしてやる!(…………)わたし、わたし、きっと、あんたを守ってあげるからね!(……ううう。そういうやつだったんだ、わたしは……)
「あー、こら、騒ぐな、西在家くんは、お家の事情で東京の尾山台東小学校から転校してきた。みんな、なかよくなるんだぞ」
 担任にうながされるや、美少年はすぐに、すっと顔をあげた。
 すでに『守ってあげる』心境に入っていたわたしは、思わず感動に胸を打たれた。
 この子勇気ある! ちゃんとみんなの顔をみた!(あたりまえだというのに)
 そして、彼は、わたしの勝手な心配と感動を知るよしもなく、キラキラ輝く目を無邪気に微笑ませてきっぱりと言ったのだ。
「西在家です。これから、よろしく」
 その声。その、ハキハキした男の子らしい言い方。
 たいへんよくできました!
 安心と誇りに、胸の奥でファンファーレが鳴った。今思うと、ほとんど参観日にやってきた母親のような気分であった。(その時点で、彼がかばってやらなきゃならないやつかどうかすぐさま検討すれば良かったんだが、阿呆のわたしには『守ってやりたい』インプリンティングを自覚して否定するだけの才覚がなかったのが悲劇なのである……)
「よし。じゃあ、席につきなさい。席はな。そうだ。目は悪くないか?」
「大丈夫です」
「それじゃあ、あそこ。窓際の後ろ、隣は菅原だ」
 頭の中でキラキラ星のメロディーが鳴った。天の川がライン・ダンスを踊った。
 そうじゃないかそうしうゃないかと思っていた隣の机。見知らぬ空席。この件にかける気持ちの大きさに比例して、スカだった場合の辛さをあらかじめ想定していたわたしは、そのことは最後の最後、確定するまで考えないようにしていたのだ。
 思うに、わたしは少々発狂しておった。
「わからないことはなんでも、菅原に聞きなさい」
「はい」
 かくして、彼は来た。わたしにだけ聞こえる荘厳かつ流麗かつ優美なBGMと、わたしにだけ見える絢爛豪華百花繚乱のバックをしょって。
「よろしくっ」
 ぺこっ、と振った首。真面目な表情に、ちょこっとだけこぼれた微笑み。
「こちらこそ」
 できるかぎり愛想のいい顔で見つめ返すわたしの目に、ハートのマークが浮かんでいたとしてもやぶさかではない。
 そして、彼は座ったのだった。
 わたしの隣に。
 しばらく、わたしは目を開けたまま失神していた。幸福のあまり。
 そこが、すぐ隣でありながら永遠に手の届かない『ともだち』の席であることを、まだ知りもしなかったので。
 
            ★

 ちなみに、一番後ろの席をわりあてられていたのは、わたしが九歳にしては異常に背が高く、教師から離れた席においても騒いだりさぼったりしない安心で責任感の強い児童であり、さらに、不幸にして視力までも正常だったからである。
 わたしの誕生日は四月四日だ。
 このことは、日本国内の学校制度で、普通の教育を受けるかぎりはまずは間違いなくいつでもクラスのだれよりも大人であることを意味する。小学校低学年においては、読む、書く、走る、理解する、などごく基本の能力においても、まずは間違いなくだれよりも発達していることをも意味しよう。
 かくして。ずいぶん長いこと、わたしは一番後ろの子供であった。それは少女が単純な恋に落ちるためには少々効きすぎるブレーキである。
 もともと低いほうでない彼ですら、わたしの背を明らかに追い越してくれるまでには、それから六年もの歳月を必要としたのであった。
 
             ★

 実際、彼は、まったく『守ってあげ』なくてはならない存在でなどなかった。
 例えば、最初の体育の時間は、マット運動と跳び箱で、すぐさまその運動神経がわたしが懸念したほど鈍くないことをさりげなく証明したのだが、それでもわたしは、例の母親的『たいへんよくできました』気分をますます強くするばかりだったのだから、阿呆である。
 授業の終わりが近づいたとき、教師が言った。
「よーし。それじゃ今日は、ひとつ、六段にしてみるぞ」
 神妙な三角座りをしていたみんなの間からえーっ、とも、あーっ、ともつかぬ声があがった。
「何が、えーっ、だ。五段なら楽々跳べるやつらがいるだろう。人生、挑戦が大事だぞ、挑戦が。そら、今日の係。だれだ。手伝え」
 跳び箱の最後の枠が運びこまれ、ガタゴトと組み立てられる。
「だれか。跳んでみないか」
 だれかと言いながら、先生の目はきっぱりわたしを呼んでいる。
 いつものことだ。
 だれかといってだれも進んで出ないときはいつでも、教師たちは、わたしを呼んだのだ。
 自分のことばを取り下げるみっともなさよりも、指名されればいやと言えないわたしの意地を利用することを選んで、その場をとりつくろうのだ。その結果わたしひとり『できる子』の烙印を押され、ますますみなから浮き上がり、次の『だれか』の機会にはまたきっと呼び出され、意地でもやってのけてしまう立場への細い道を、先へ先へと追いこまれたのだが。
 さしものわたしも、当時はそこまで読めはしなかった。ただなんとなく、いつも貧乏籤をひかされているような気がしていただけだ。不当にもその籤には、ある角度から見ると『ひいき』と読める金色のラベルが貼ってあった、というわけだ。
 というわけで。
「稲ちゃん、行きなさいよ」
 このときも、まわりの女の子たちは,しごく当然のようにわたしを促してみせる役目を全うするのだった。
「えーっ。やだよ」
「だって五段なら、軽々じゃない」
「あたしなんか四段も危ないのにー」
「稲子なら大丈夫よ。いきなさいよ。いきなさいったら」
「だってぇー」
 ほんとうは、必ずしもいやではなかった。
 何しろ、今日は彼がいる。かっこよく跳んでみせて、いいとこ見せたいのはもちろんなのだ。
 だが、このときばかりは、なぜ『わたし』なのだ、と思わずにはいられなかったのだ。なんでもできてしまう女の子なんて可愛気がないもいいとこではないか。男子も尻込みする六段に真先に挑戦するなんて、まるでいやらしいではないか。
 だいたい、ほんとうに跳べるかどうかもわからないのだ。わざわざ出ていって、みっともないことになるのは不安だった。
 だから、ぐずぐず抵抗していると。
「せんせーい。西在家くんが、やるんだってぇー」
 坊主頭どもの中でも最もハゲに近い佐竹のやつが立ち上がって、ダメダメ、と手を振る彼の腕をひっぱっているのを見て、わたしはさっ、と緊張した。
「お。ほんとか」
 教師はたちまち嬉々とした。
「東京では跳んでたんですってさー」
「でも、違うよ。違うんです」
 顔を赤くして教師に対峙する彼の凛々しさに、わたしは頭がくらくらした。
「こっちのほうが、段高いみたいだから。たぶん、無理です」
「いいじゃんか、やってみろよー」
「口だけかよぉ」
 安全圏の坊主どもは口々に野次るのだ。
「そうだぞ。転校生。言ったからにはやってみろ。男だろ」
「あっけみちゃーん♪ ほんとに男の子なのぉー」
「チンコついてんのかよー」
 彼は、とうとう立ち上がらされ、群れから押し出されてしまう。
 そんな……あれじゃ、ひっこみがつかないじゃないの。無責任教師!
 佐竹のバカどもが、西在家くんに恥をかかせようと思ってるだけなのがどうしてわかんないの!?
 思わず浮いた腰を、すかさず、当の無責任教師に見咎められてしまった。
「おっ。菅原もやるか。そうこなくっちゃ。他には? 佐竹おまえは」
「だぁー」
「なんだなんだ。母校の名誉を女子に任せていいのか。どうだ、児島、中村、おまけもいけるだろ」
「いけー、中村いけー」
「ドジったら恥だぞっ、ぶっ千切れっ」
「男の根性見せてやれー」
 みんながはしゃいでいるすきに、わたしは重たげな足取りでスタート・ラインに向う彼に、急いで追いついた。
「大丈夫? ほんとに跳べるの?」
「うん……たぶん」
 ふりむいて笑った彼の真新しい体操着は少し大きくて、細い首があまりにも華奢に見えた。当時彼は、わたしより優に五センチは小さかったのだ。
 うっ、喉が詰まった。
 こんな小さい子が。なんて勇気あるのだろう。
 ほんとは跳びたくなんかないんだ。だけどあんな風にいじわるにけしかけられたから、意地でも出てこないわけにはいかなかったんだ。
 偉いっっ!
 あつぼったくなってきたまぶたをパチパチごまかして、わたしは、キッと佐竹どもに向き直った。
「菅原いきますっ!」
「おっ……!」
 ふりかえった教師と、みんなの視線を振り切って、わたしは走り出す。
 ぐんぐん近づいてくる六段。踏み切り板がずいぶん遠い。あれはうまく使えば楽にきれいに跳べるけれども、へたな角度でつっこむと、床を滑ってとても危ないのだ。
 でも。跳べても跳べなくてもいい。
 わたしが派手に失敗すれば、彼が跳ぶのをやめても、だれにも責められないはずだ。わたしがうまく跳んでみせれば、彼も安心して跳べる……! 
 跳べる……!
 ぱぁん!
 跳び箱の上についた両手のバランスが悪くて、右の手首がグキッ、と言った。それでもスピードは死なず、思い切り開いた両足をきれいに戻す間もなくマットに落ち、そのまま前転してしまう。決めようと思ってそうしたわけではなかったので、ようやく勢いの納まったわたしは、マットの端のほうにぶざまに座りこんでしまっていた。
 それでも、跳べた。
 わぁっ、と歓声があがった。
「よーし! 次」
 あわてて、少しばかりわきに退いただけだったので、とてもよく見えた。
 真剣な表情で走ってくる彼。踏み切りが決まって、一瞬ニヤッとする彼。まっすぐ伸びた長い脚……すたっ、と、小気味いい音をさせた満点の着地。
 うまい。
 わたしより、ずっとうまい……!
 三角座りの女子の間から、思わず熱い拍手が漏れた。
 思えばそのときすでに、わたしは居場所を間違ったのだ。その子たちと同じところにいれば良かったのに。そうすることだって、できたのに。
 だが。
「ひゃー。おっかなかった」
 彼は、わたしにしか聞こえないくらいの声で言いながら、わたしの隣に座ったのだ。あっけにとられて、もとの列に戻るのを忘れていたわたしの隣に。まったくあたりまえのような顔をして。
 そう。
 みなからは、少しだけ離れて。
「菅原さん、すごいなぁ。先にやってみせてくれなきゃ、とても跳べなかった。勇気あるなぁ」
 頬がカッとした。
 あんたのほうが、よっぽどかっこ良かったじゃないの。そう続けられるほど、わたしの心は単純ではなかった。
 おろおろと揺れる目を向けたのだが。
「……わっ、危ない!」
 そのときにはもう、彼はわたしは見ていなかった。次に跳んだ中村くんが、たぶん踏み切りギリギリでびびったせいだろう、距離を稼げなくて、跳び箱のこっち側で背中を擦られる恐ろしい音が、体育館じゅうにとどろきわたっていたのだ。
「うへっ。あれは痛いぜ!」
 自分のことのように顔をしかめながら、思わず立ち上がってしまった彼を見上げながら、わたしはまだ混乱していた。
 尊敬。意外。他のだれからも離れて、ひとり、彼に近いところにいる感覚の心地よさ。そして初めてのくやしさ。このわたしを追い抜いてしまう人間が現われたことを象徴する、右の手首の鈍い痛み。
 何がいちばん強かったのか、よくわからない。
 ともかく、その日の体育が終わるまでのわずかな時間、六段の跳び箱をわたしと彼が独占した。中村くんの失敗を見てしまった他のみんなは、もう挑戦しようとしなかったのだから。
 わたしたちは無言で、何度も何度も代わる代わる跳び、先生のホイッスルの後、重たい用具をふたりだけで素早く片づけた。
 そして、無言のまま教室に戻った。
 そこでもわたしは、彼の隣なのだ。
 小学三年生では、男子も女子もいっしょに教室で着替えをする。白地に赤くグンゼのマークもまぶしいパンツを隠そうともせずに無造作に脱いで着る彼の横で、わたしは、奇妙な幸福感に震え続けていた。被ったスカートの陰でもぞもぞ短パンをおろしながら、少しもこっちを意識していないに決まってる彼と万一目が合ったりしたらと考えて、体を熱くして。
 それがセクシーな気分だなどとは、もちろん、まだ知らなかったけれど。

          ★

 次なる英雄伝説は、算数の時間に発した。
 授業の終わりの小テストで彼が五回連続満点を取ったことを、『みんなも負けずにがんばれ』という主題のもと、例によって無責任な教師が、あっさり明らかにしてしまったからである。
 わたしはおもしろくなかった。それまでは、それを知っているのはわたしだけだったのだから。
 そのころには、わたしたちは戻ってくるテストをみんなこっそり見せあっていた。計算は彼の得意で漢字の書き取りはわたしの天下だった。見せっこすると言っても、競争心ではない。ただ教師が黒板に書くより早く正解を知って、自分のミスった分をさっさと書き込んでしまうための方便だった。
 だが、それでクラスじゅうが『彼は勉強もできるらしい』と知ってしまったのだ。
 わたしはおもしろくなかった。
 案の定、ふたつのことが起こった。
「てめえ、なんなんだよ。少しめだちすぎだぞ。ガリ勉すんじゃねぇぞ」
 口を尖らせた佐竹が取り巻きの有象無象をひきつれて言いがかりをつけに来たのが、ひとつめだ。
 ここで威張るなり馬鹿にするなりしていれば、もめごとは必至だった。とすれば、わたしうには『守ってあげる』願望を発揮する絶好のチャンスだったのだけれど。
「うん。運が良かったんだ。前の学校で習ったのが出たから」
 彼はさらっ、と言ってのけた。そしてそのころ男子どもが燃えていたクラス対抗野球に積極的に参加しだしたおかげか、やがて彼の成績は、見苦しくない程度にまでしっかり下がってしまうのである。
 佐竹は簡単に戦意を喪失し、わたしのちっぽけな幸福を奪ってしまった。休み時間のたびに、彼を誘って、どこかへ連れていってしまうようになったのだ。
「おう、ザイケ(と、佐竹は彼を呼び、これはクラスじゅうの男子に広まった)、日曜あけとけよな。若宮小のやつらとの対戦だから、おまえファースト守れ。あいつら、きたねー走り方しやがるからな、よろしくたのむぜ」
 彼の肩を叩いて遠ざかっていく佐竹の後ろ姿を、わたしは茫然と見つめるしかなかった。
 そうだ。佐竹は阿呆だったが、認めるべき相手を認められないほどの馬鹿ではなかったのだ。そしてガキ大将の佐竹が一目置いたということは、男子全員が彼を信頼するに足る立派な仲間であると認めることである。
 雨が降って校庭に出られない日には、男子どもは彼の席のまわりに(つまりわたしのすぐ横に)集まってきた。野球だの、サッカーだの、虫捕りだの、洞窟探検だのといったスリルと冒険の相談と思い出を、つばを飛ばしながらしゃべり散らす彼らの輪に、女子であるというだけで加われない自分が苛立たしく悲しかった。
 もうひとつは、もちろん女子の変化である。
 モテる男子のパターンは四つある。ルックスが良いこと。スポーツができること。勉強ができること。ひょうきんであること。この四つをさらっと満たし、しかも降ってわいた転校生というドラマのおまけまでついている彼が、人気者にならないはずはなかった。
 いつでも彼を目で追いかけている子、口に出してはっきり好きだという子、ワザとらしく無視しているのでかえって強烈に意識してるらしいことを匂わせている子、表れかたはいろいろだが、クラスの女子の大多数が彼に惚れていた、と思うのは、あくまで『母親』であったわたしの親馬鹿ではなかろう。
 まったく『守ってあげる』どころではなかったのだ。
 だが、それでも。
 どろんこに大慌てで教室に駆けこんできてから『起立・礼』までの刹那に、退屈すぎる授業の途中に、六人ずつ机をくっつければ真向かいに彼がいる給食の時間に。わたしたちはよくおしゃべりをし、目と目でジョークを飛ばし、けらけら屈託なく笑いあったものだ。他のだれにも通じない話も、たくさんたくさん共有していた。
 意識するあまり彼をまっすぐ見つめることもできない女子たちの何人かには、そんな風に平気で話せることだけで、恨めしく思われもしただろう。でも、だいたいは『どうせ稲ちゃんは』といった空気だった。
 どうせ稲ちゃんは男女なんだから。女子の中では話しやすい子だってだけ。ただ、隣の席にいるってだけ。それに、稲子は、西在家くんのことすごく子供扱いしてる。西在家くんが好きになるわけがない。
 とかなんとか。
 女の子の直感はだいたいにおいて残酷なまでに的を射ているものだ。『母親』意識を知らず知らずのうちに汲み取られていたわたしは、ますます彼の保護者であるかのような顔をせねばならず、彼の彼女の立場を争う群れにすら、初めから、いれてもらえなかったのだ。
 こんなことがあった。
 なんの科目だったか忘れたが、授業中に、気分が悪くなったと言って、彼が保健室に行ってしまったのである。そんなことは初めてでわたしは胸が痛くなるほど心配したが、おおかた、男子どもと例によってくるくる走り回りすぎたのだろう。次の時間にはもう元気だった。
 問題は、彼の健康ではない。
 彼がいなくなって、五分か十分かほんの少したったとき、すみこというやつがいきなり立ち上がって、あたしもなんだか気分が悪いんです、などと言い出したのだ。
 すみこはあっけなく保険室に行く許可をもらい、わざとらしく胸を押さえながら教室を出ていった。授業は続いたが、わたしは煮えくりかえった。
 すみこはどこも悪いわけがない。だいたい、保健室に行かなきゃならないほど具合が悪くなる子など、めったにないのだ。同じ組の生徒が同じ時間内に保健室入りするなどという偶然は、まずありえない。
 そう思ったのは、わたしだけではなかった。すみこの退場に一瞬遅れて騒然となったクラスに、教師は不審そうな顔をした。阿呆な話だ。小学生だからといって、女は女なのだ。それを知らず(あるいは、忘れてしまっていて)すみこの嘘が見抜けなかった教師を、わたしたちははっきり軽蔑した。
 もちろん、このときもわたしたちの直感は正しかった。
 ずいぶん後になってから聞いたのだが、そのときすみこは、保健室の、彼の寝ていたベッドにもぐりこんで来たそうだ。わたしの記憶ではあの小学校の保健室にはベッドが二台あったはずだが、もう一台が埋まっていたのかどうかは聞きそびれた。
 とろとろまどろみかかっていた彼は、毛布のすき間を抜けていく風とひとの気配にびっくりして目をさました。しばらくそのまま様子をうかがっていると、やがて背中にぴったり寄り添ってくる感触がした。彼は当惑し、硬直したが、さすがにそれ以上のことは起こらなかった。チャイムが鳴ったときようやく彼は起き上がることができたので、口もきかず、すみこのほうも見ず、急いで靴下と上履きをはいて教室に戻った。
 ほんの少し恥知らずだったおかげで憧れの西在家くんとひととき同じ毛布にくるまることができたすみこは、その日のうちに、階段のところでクラスの女子どもに吊し上げられているのを彼に目撃されたのだが。
 わたしはそれを知らなかった。知っていたとしても、みんなといっしょになっていじめたりできたかどうかわからない。 
 その後ずいぶん長いこと、すみこは女子にも男子にも嫌われ、だれにもかまってもらえなかったけれども、このわたしよりはよっぽど幸せだったかもしれない。
 とにかくわたしは、すみこ以上に仲間外れだったのだ。そういうことから遠い場所に、ひとり隔離されていたのだ。
 だからまぁ、後々その話を直接彼から聞かせてもらったりすることもできたのだけれども。
「なんでさっさと追い出さなかったの。すみこのこと、少しは好きだったの?」
 わざとからかうように言ったわたしに、彼は、やめてくれよ、と笑ってみせた。
「稲ちゃんまで。おれ、そんなに賢くなかったってば。なんでそんなことされるのか、まるでわけわかんなかったもの」
「ほんとに?」
「ほんとに。ちっとでも動いたら大声で騒がれるんじゃないかって思っただけ。まぁ、でも、ひょっとするとおれってほんとにモテるんじゃないか、とは思ったな」
 その根拠として、階段のところの揉め事をあっけに取られて見ていたことがあげられたというわけだ。
「ふふん。それでも、まだ気づかなかったって言うの?」
「そうだよ。思えば、女の子のほうが圧倒的にマセてたんだよな、あのころは。驚いたよ。あんなに直接的で積極的だったの、初めてだしさ。その後もないなぁ」
「そりゃないわよ」
 残念ぶった顔をする彼を軽く叩きながら、その、永遠に失われてしまった季節を思って、わたしは胸が痛かった。
 あれは、危うい境界線のできごとだったのだ。それから間もなく、わたしたちはみな、『ベッド』とか『寝る』とかいうことばにことさら敏感になってしまうのだから。佐竹をはじめ男子のけたたましい連中はこぞって知ったかぶりになり、まだ見たこともない女性器官の名を連呼できることで豪胆さを競っているつもりで、かえって幼さを露呈しているありさまになるだから。
 その果敢なときをわたしは、自分で自分をがんじがらめにしたまま、歯軋りしながら見送ってしまったのだ。
 そして、逆に、彼は、いつまでも無邪気だった。みんなとなかよしで、特定の異性に熱中する気配など、微塵もなかった。おかげでみんな、彼のあまりの鈍さにヤキモキしながらも、実のところ少なからずホッとしていられたのだ。
 まったく、彼は見事なまでにスターなのだった。

           ★

 五年生になるときクラス替えがあった。わたしは、彼の、隣の席の女の子から、隣のクラスの女の子にまで格下げになってしまい、ひどくがっかりした。
 こんなに時間がたってしまえば、がっかりした、などとひとことで済んでしまうわけだが、それは、おそらく浅葉の『目の前が真っ暗な気分』と比べても遜色のない落ち込みだったはずだ。ショックのあまり(と、わたしは思った)初潮が訪れ、となればどうすればいいかまるで知らなかったものだから、経験豊かな母にあっさり言い負かされてしまった。あらがい続けていたあの布きれ……ゴワゴワして屈辱的に窮屈で白いもの……を渡され、とうとう、今後は毎日きちんと胸にあてがっておかなくてはならないことになってしまったのだ。
 それはみじめな革命だった。
 書きそびれていたが、かつてわたしは、実に喧嘩っ早いやつだった。もちろん強かったのである。
 小ニの頃、ひとりの女子をとり囲んで、何やら囃したてて涙ぐませている男子十人ほどを相手にとっくみ合って、勝利したこともある。今思えば、やつらはその子に多少気があったからちょっかいを出していたにすぎないのだろうが、勝ったほうが、すなわち正義の味方である。いさかいは力で捩じ伏せ得るもので理屈は二の次の、良い時代だった。これですめば、世界が単純なのである。
 だが、衆人環視の廊下の隅でとある小ボスと派手な立ち回りを演じた四年生の終わりに近いある日、わたしは、この手の世界から永遠に引退せざるを得ないことを予感した。
 やつは、偶然、わたしの胸をわしづかみにしてしまったのだ。わたしも打ちのめされたが、向こうも真っ青になった。わたしたちは大慌てで、二匹の犬のように飛びすさってにらみ合った。もはや、がっぷり四つに組むわけにはいかなかった。かすかでも、つかめるほどに、その手に柔らかさを感じさせる程度にふくらんでしまった胸の女を床に押し倒すのは、もはや喧嘩ではない、れっきとした性犯罪である。
 その上、今度は例のうっとうしい布きれをくっつけさせられるのだ。毎月毎月慣れないわずらわしさに混乱させられてしまうことになったのだ。それは、母たちの言うような喜ばしいできごとであるはずがなかった。うっかり汚してしまった下着を手の切れそうな冷たい水でこそこそ洗うたびに、わたしは自分が腐っていく陰気な匂いを嗅いで、憂鬱になった。
 わたしは寡黙になり、ノートに何冊もだらだらと詩のようなものを書き散らした。男子からも遠くなったが、女子たちとはもともとどこかしっくりなじめていなかった。ましてや、引退した正義の味方なんて、実に虚しいものだ。
 恵まれない環境であればあるほど、些細な希望が必要になる。とるに足らぬ偶然が虹色に輝いて見える。
 わたしは、彼の姿を追い求めた。
 彼は彼らとは違うはずだった。
 なぜなら、彼とは、かつて一度も喧嘩したことがなかったのだ。戦うという手段なしでも、ちゃんとともだちでいられたのだ。だから、わたしと彼との距離だけは(これ以上近づけはしないものだとしても)まだ初めから少しも変わっていないはずだった。
 理屈を言えばそうなる。だが、もちろん、いちいち理詰めで考えて彼を選んだりしたのではない。
 校庭であるいは階段で、通りすがりの彼をふと見つけたとき。わたしは、なんともいえない安らぎを覚える自分を知っていた。彼だけは、遠くからでも、すぐにわかった。背中でも、頭の先がちょっと見えただけでも、間違いなく見分けることかできた。たまにひとことでも話ができようものなら、幸福の絶頂だった。
 それが恋かもしれないことには、うすうす勘づいていた。だが、なんとか隠し通さなくてはならなかった。
 わたしがそんな気持ちでいることを知れば、彼はきっと当惑するだろう。迷惑がって、あるいは、わたしを傷つけることを恐れて、離れていってしまうかもしれない。これまで同様、あくまで、偉そうな大人ぶった態度でいなくてはならない。それが、彼を失わないための手段なんだと、そう思ったから。
 なんと臆病だったのだろう。
 心を告げて、それを彼が受け止めてくれるかもしれないと夢みるだけの無邪気さを、わたしは、なぜ持つことができなかったのだろう。だれよりも彼を理解し、愛しているつもりだったくせに、なぜ、それを一度も、冗談まじりにでも、彼に誇ってみなかったのだろう。
 ずいぶん失礼な話ではないか。
 彼が幸せなのならそれでいいなどと、いつでも偉そうに思いこもうとして。こちらから何かを期待することを頑固にこらえて。それは寛容で敬虔であるように見えて、実は、彼がちゃんとしたひとりの男であり、かばってやらなくてはならない子供などではないことを認めていなかったことになりはしないか。
 わたしは、無意識のうちに、彼をみくびっていたのだろうか。それとも、それほどすごかった彼よりも、自分のほうがもっと強いとでも思っていたのだろうか。
 たぶん。
 わたしは、彼を見つめることに夢中になりすぎて、強がりの限界近くまで追い詰められている自分のことなど、まったく、わかっていなかったのだろう。

            ★

 あれは、そんないつかのことだと思う。
 放課後の下駄箱のそばでばったり会った彼の首筋にキラッと光ったものを、わたしは見逃さなかった。
「あれ? みーくん、何してるの」
 彼を問い詰めるようなことばをさっと口にできたのは、あまりに咄嗟だったからだと思う。
 みーくん。いつくか、わたしは彼をそう呼ぶようになっていた。
 ニシザイケクンじゃ長すぎて言いにくいし、アケミクンではどうも照れくさかったので。面と向って自然にそう言えたのは、たぶんわたしだけだと思う。愛称としては『ザイケ』のほうが一般的でそれだけ無色透明だったが、女子向きじゃなかった。だから何人かは真似したけれど、本人がいない噂話のときに美味しそうに口にするのがせいいっぱいだった。
 そのころとなっては、その呼び方は数すくないわたしの特権であり、貴重な財産のひとつだった。
 みーくん。
 みーくん。
 どんな短いとりとめのない会話の中でもそう呼ぶことさえできれば嬉しかった。だから、そのときも、自分の質問の内容など、ほんとうはどうでも良かったのだ。
「ああ、これ。もらったんだ。見せよっか」
 みーくんは、いつまでも変わらない気軽さで細い銀色の鎖をひっぱりだした。指先につまみ出されたのは、小さな鍵の形のペンダントだった。
 頬の血が引いた。
 わたしは、それとよく似たものを見たことがあった。それも、彼の顔を思い浮かべながら、手にとってじっくりと見たのだった。
「……そんなの学校にしてきたりして。みーくん、不良だ」
 できるだけ何気なく、わたしは言った。
「あれ。いけないの?」
 例の呑気な顔を、彼はきょとんとさせた。
「いけないに決まってるでしょ」
「でも、ずっとしててねって言われちゃったんだもん。おまもりだから、って」
「だれに」
 だれにもらったのよ!
 せいいっぱい見つめたのに、彼は笑いながら首を振った。
「内緒なんだ」
「だって、隠すことないじゃない。隠すなんて変よ。みーくんらしくない。堂々と言うべきよ。だって、そのひと、みーくんの好きなひとなんでしょ?」
 わざとあっさり言ったわたしに、彼は目を丸くした。
「どうして? べつに、好きとか、そういうんじゃないよ。だって、おまもりだって」
「やあね。愛のおまもりよ。誓いよ」
 わめきだしそうになる口の手綱をせいいっぱい引き絞って、にこやかに、興味なさそうに、わたしは肩をすくめてみせた。
「ふたつ合わさってひとつになるペンダントの片割れだわ。だれだか知らないけど、それあげたひとは、ハートの形のをもってるはずよ。ハートに切れ目が入ってて、そこに、その鍵がぴったり合うわけ。つまり、わたしの心はあなたのもの、だから鍵を預けますって、そういう意味じゃないの」
 わたしが早口で言う間じゅう、彼は口をあけたままだった。
「知らなかったのぉ。呑気ねぇ。おまもりだなんて嘘、信じちゃったんだ。ははは」
 間抜け。お人好し。物知らず!
 女の子が何かくれたりしたら、当然下心があるぐらい、いい加減わかんなさいよ!
 でも……
 ああ、良かった!
 わたしは胸の中で万歳三唱した。
 好きなひとができちゃったわけじゃなかったんだ。みーくんはまだ、そういうこと、しないひとなんだ。そうよ。そのままでいて。いつまでも、そのまま、だれのものにもならないままで……。
 そのころになってようやく、彼は、真っ赤になって、あわあわ言い出したものだ。
「ど、どうしよう? まいったな。おれ、そんな気全然ないのに。どうしよう。困るよ。どうしたらいいと思う、これ?」
 ああ。やっぱりそうなのよ。
 この子はわたしが『守ってあげ』なきゃだめな子なんだ……!
 哀れにもわたしはほとんど天にも昇る心境だったのだが、頭のどこかが『ここが肝心! ここが勝負!』と警戒警報を発令していた。
「そうねぇ……」
 腕組みしながら、素早く考えた。
 嘘ついてまで、彼に鍵のペンダントをさせただれか。くだらないやつだけど、同情できなくもない。その子は、そんなことしかできなかったのだから。
 所詮『べつに好きとかそういうんじゃない』としか言ってもらえない子は、本気で対処しなければならない敵ではない。わたしはやはり、戦う女なのだ。ふさわしい敵でないならあえて傷つけるまでもない。
「うーんとね。みーくんは、おまもりとしてもらったんだから、おまもりのつもりで持ってればいいんじゃないかな」
 せいいっぱい優しい女の顔を作りながら、偽善者のわたしは言ってのけるのだ。
「そうもいかないよ。わかった。返すよ」
 彼は早くもそれを外してしまい、急いで手の中に握りこんで隠してしまう。
「だめよ」
「どうして」
「だって」
 誰かが通りかかり、わたしは口をつぐんで、さっ、と彼の陰に隠れた。そうすることがかえってひと目をひくことは十分知っていたのに。
「かわいそうじゃない。そのひと、そのくらいみーくんのこと好きなんだよ。知らない振りして、持っててあげなよ」
 わたしはそっと、彼の手を包みこむ。鍵のペンダントを『そのまま持ってなさい』と言っているふりで。ほんとうは、ただ、そうして触れていられることが嬉しくてしようがないので。
「してなくたっていいからさ。おまもりだって、もらったんだから、手放したら罰があたるかもしれないよ。黙って持っててあげればいいじゃない。ね、持っててあげなよ。いらないなんて言ったら、傷つくよ、そのひと」
 彼はまっすぐわたしは見たまま、しばらく黙って、何か考えていた。
 わたしも黙って立っていたけれど、頭はくらくらだった。
 何しろ、手まで握りしめてしまっているのだ。事情を知らないひとが見れば、恋人同士に見えるに違いない場面だ、と思った。誰か通りかかってくれればいいのに。そう思った。
 やがて、ゆっくりと、彼はわたしの手の中の手を動かした。
「持ってて」
 小さな声で、彼は、そう言った。
「おれ困るから。稲ちゃん、代わりに持ってて」
「えっ」
 わたしはそんなことを期待したのではないのだ。彼が、知らないだれかの心をあっさり捨てると言い切ってくれることを、漠然と考えていただけなのだ。
 そんなもの、押しつけられても困るではないか。
「そんな。変だよ。だって……」
「だっておれ、してないとなくすし。家においといたら間違いなく妹にみつかって、ぎゃあぎゃあ言われる。でも、捨てるわけにはいかないだろ。捨てたりしたら悪いだろ。だから、持っててくれよ、なっ、頼む!」
 ぼうっとしたわたしの手を、こんどは彼の手がぎゅっと握った。安っぽい鎖が指の隙間からこぼれてしゃらんと鳴るのを、あわてて押しこめるようにして、そのまま、もう一方の手も重ねられた。
 わたしは思わず喉を鳴らした。
「わかったわ……」
 自分が言っている声が聞こえた。
「預かる。だれにもみつかんないようにちゃんと預かっとくから、安心して」
「サンキュー」
 そして、彼は、さっぱりと重荷を降ろした顔で笑うと、さっさとどこかに行ってしまったのだ。
 わたしは見知らぬ女の子の心の鍵といっしょに取り残された。
 なんだかよくわからないが、大変なことをしでかしたような気もしないではなかった。
 なんでそんなことになったのかさっぱりわからなかったが、ぐるぐる渦を巻く気分の底がじわっと甘かった。それでも一応、彼から何かもらったことには変わりはないのだ。それがついさっきまで彼の肌に直に触れていたものであることには変わりはないのだ。その上、わたしがとうとう彼のために何か役にたったのも確かなのだ。
 実を言うとわたしは、感動のあまり、少しばかり泣いてしまった。
 その後のことを思えば、なんとも阿呆なまでに象徴的なできごとではあったのである。

            ★

 彼が御成学院中学に行くらしいという噂は、一部の女子をどん底の気分にさせた。
 やがてそれは、やるせない諦めに変わる。新たなる『同級生の女の子』が無限に輩出するより、男子校に隔離されていてもらったほうがまだマシではないか、という意見もあったろう。最後の女ともだちの座をかけて熾烈な争いがあったのかもしれないが、いずれにしろ、例によってわたしには関わりがなかった。
 畢竟、わたしの葛藤は、すでに終わっていたのだ。
 どうしても女子校に行かねばならぬという親に抗しきれなかった。やる気をやくしたわたしは、都内や横浜のお嬢さま学校を軒並み滑った。森戸南も落ちるはずだったのに、退屈な試験時間のヒマつぶしのつもりでうっかり半分ほど答案を埋めてしまったのが悪かった。合格してしまったのだ。
 だれよりも賢かったころのわたしを忘れられなかった親は茫然とした。掌を返したように公立にしてくれと言ったのは、森戸南などに通おうものなら、以後六年サボりつづけるに違いないことを見越していたのだろう。が、彼のいない場所などどこも同じことだった。わたしは楽になりたかった。もうとっくに、勉強など、大嫌いだった。だれかに何か聞かれても、いちいち考えて、丁寧に答えることが馬鹿らしくなっていた。
 だから、彼が男子校に行く知らせには思わず快哉を叫んだ。今度ばかりは天がわたしの味方をしてくれたのだとさえ思ったが、それほど大した幸運であるはずもなかった。
 女ばかりの学園は退屈で、授業はただのお経だった。それなのに、時間だけはたっぷり六年もあるのだ。
 まったくうんざりした。
 ともだちになりたいようなやつも特にいなかった。何か確かな目的を持って来ている人間は、ひとりも見当たらなかった。みんな、ただ漫然と時間を食いつぶすためにだけ、集められているようだった。
 わたしはひとの話を聞かず、こちらからもめったに口をきかなくなった。構わないでおいた髪は表情を隠した。おまけにからだの成長はちっとも止まらなかった。小六で百六十センチを超えたときにはずいぶんとぽちゃぽちゃしていたものだが、いつの間にか痩せぎすになり、上にばかり伸び続けた。
 それが、ふてぶてしく見えたのだろう。
 夏休み前のある日、三年生だという女どもに屋上に呼びつけられた。
「廊下で先輩に会ったら、挨拶ぐらいするもんだって教わらなかったのかよ。それを、ひとが話してるとこ、突っ切って通るバカがあるか」
 ああ。わたしはそんなことをしたのか。
 すごまれてからようやく、そう思った。とにかくわたしは、ありとあらゆるものに無関心だったのだ。
「どうも……」
 もごもご口の中で謝ったのだが、恐らく向こうには聞こえなかったのだろう。
「なんだいなんだい。返事はどうしたんだよ、返事は」
「あんまり派手な真似すんじゃないぜ。目障りだ」
「おまえ、化粧してんだろう。色気づくんじゃねぇや。ガキが!」
「化粧……?」
 そんなめんどうなことするものか。
 わたしの唇が赤かったとしたら、気がつくといつもきつく噛んでいたせいだ。ろくに日に当たらないせいで顔色が悪いから、それが多少目立って見えたりしたのかもしれない。
 つまらない誤解を受けたものだと思わず笑ってしまった。
 悪意のない表情をすればそれですむつもりだった。言い訳のために口を開くのは億劫だったし、それほどの事態だとは思っていなかったのだ。だが、敵はわたしの笑顔を反対の意味に取った。
「なめんじゃねぇ!」
 本能的に顔をかばってとっさにあげた腕に、とんでもない重みがぶつかった。骨でも折れたかと思ったが、敵があまりうまくなかったのが幸いした。
 黒いストッキングにくるまれていたのは、おそらく数十個のパチンコ玉か何かだったのだろう。わたしはよろけて尻をつき、ぽかんとした。そういった専門的な道具で撲られたのは初めてだった。世の中にはこんなものがあるんだ、こういう時のためにこういうものを工夫するひとがいるわけだ。なるほど。そう思った。
 次の瞬間、顔をめがけて降ってくる上履きの裏にくっついた汚らしいガムの噛み滓を目にしたとたん、わたしは理解した。
 めんどくさいなどと言ってられる場合ではない。
 とっさにつかんだ足首の主はバランスを失ってひっくり返り悲鳴をあげた。ヒマのあまり、伸ばした爪を毎日きれいに研ぎすましておいたのが偶然役に立ったというわけだ。素早く起ちあがりざまに掴んだもうひとりの胸倉を引き寄せて、ストッキング攻撃の盾にしてから、あわてて向ってきたもうひとりにぶつけてやった。だれかが、歯が欠けたと言ってぎゃあぎゃあ泣き出した。最初にひっくり返ったやつは、そこらをおろおろ這いずりながら、脱げて飛んだ上履きを拾おうとしていたので、誰かに踏まれてもう一度叫んだ。
 おとなしいわたしが、まさか歯向かってこようとは思っていなかったせいもあろうが、つまりそいつらは接近戦に慣れていなかったのだ。
 出会い頭にお手製のチャチな凶器で打ん殴れば、真っ青になって泣き出すやつらしか相手にしたことがなかったのだろう。人数の多さを有利に持っていくことさえできなかった。ひとり犠牲になってわたしの後ろに回りこめばそれで決着がついたのに、連中はみな、ストッキング女の陰に逃げこんでしまったのだ。
 これにはまったく笑ってしまった。
 わたしはクスクス言いながら、まっすぐにストッキング女の目をのぞきこんだ。はっきりいって、わくわくしていたのだ。
 わたしは喧嘩が大好きだった。全力を尽くして暴れるのが、何よりの楽しみだったのだ。
 なのに、あの忌まわしい布きれをさせられるようになってから、泣く泣く引退していたのである。
 でも、そうだ。相手も女なら、何はばかることなく喧嘩ができる。思う存分戦える。
 その気分が顔に出てしまったに違いない。
 ストッキング女の目が恐怖にひきつるのを見て、わたしは、自分がはっきりと攻撃側に回ったのを知った。
 それは、久しく忘れていた快感だった。自分がまだ他人とコミュニケートできることに、わたしは感動し、酔った。
 こうして、わたしは、退屈と孤独から脱出した。
 そして、やがて親だの一部の内気な生徒たちに、不良と囁かれ怖がられるようになったりもするのだが、その実わたしは不良らしいことなど何もしていないのだと言いたい。
 それほどひどく授業に出ないわけじゃないし、おとなしい生徒を脅して何やら巻き上げたこともない。マル暴のにーさんたちとも個人的なおつきあいはないし、酒もたばこもまだ知らぬ。ただ、そういうことをしないでもない連中にどうも一目置かれてしまっているらしいばっかりに、不良になってしまうのだから恐れ入る。
 今でもわたしが正義の味方であることを、ただその『正義』を安売りしなくなっただけであることを、ちゃんとわかってくれているのは、たぶん、彼だけなのかもしれぬ。

           ★

 ロマンチックな思い出は、もう、そんなに多くない。
 たぶん最後になるだろうそれを、わたしはことに大切にしている。そのときの情景も、気分も、このまま、きっと一生懐かしく反芻し続けるのだろうと思う。
 それは確か、例の稀なる幸運で偶然であった日曜日か何か(なぜなら、記憶の中のわたしも彼も、制服ではないからだが)で、冬の日の山道で、ときどき海の見える緩いカーブの続くあたりで……わたしは彼の自転車の後ろに乗せてもらったのだ。
 なぜそういうことになったのか、どっちが言い出したのか、忘れてしまった。たぶん、久しぶりに逢えた嬉しさに少しばかりはしゃいでしまったわたしが言ってみたのだと思う。まさか許してくれるとは思いもしないで。
 だが
「しっかりつかまって!」
 と言ってくれたのは、重たそうなリズムでペダルを踏んでいた彼のほうなのだ(それがこの記憶の甘いところなのだ)。
 それでも、わたしはガタガタ揺られながら、片手で買ったものの包みを抱え、片手でサドルの下にあるかないかの手掛かりにどうにかつかまった不安定な体勢でいた。すると、チラッと横顔を見せた彼が、
「つかまってってば。遠慮しないで」
 そう言ってくれたのだ。
 だから、わたしはおずおずと彼の腰につかまってみる。ジーンズの上から骨の硬さがわかったように思った瞬間、ガクンと大きな揺れがきて、彼の後頭部に鼻をぶつけてしまう。そして、そのときには、わたしの腕は、いとも自然に彼の胴をぐるりと抱いてしまっているのだった。
 すでに過去最大の幸運だった。
 だが、それを良いことに、そのまますっかり寄りかかることなどは、とてもできなかった。わたしはそういったベタベタ甘えたことが似合う女ではない。だいたい、背が高すぎてサマになりはしない。へたをすると彼の肩にあごを乗せてしまうことになりかねないのだ。
 でも、あまり遠ざかっていては避けているみたいだし、とっさにふたりのからだの間に挟むようにしていた包みが、落ちてしまいそうだった。
 だから、このくらいがちょうど良かった。 
 あまりにもちょうど良かった。
 このまま、こうしていてもいいんだ。だって、こうじゃないと安定しないし、みーくんのほうからつかまれって言ってくれたんだもの。
 せいいっぱい首をちぢめて、緩く組んだ腕にときおりゴツゴツ当たる彼のからだから肘も肩もけっしてはみ出さないように気をつけながら、わたしは、信じられなさと申し訳なさとありがたさに泣き出しそうだった。
 枯れ葉や落ち葉や、ドングリや何かが敷き詰められた道だった。わざと目をそむけて、はだかになった木立の間を見上げてみると、曇りガラス色の空がぼんやり見えた。自動車も、通りかかるひともほとんどなくて、とても静かだった。
 夢の中のような風景の間を、わたしたちは黙って走った。
 少し登り気味になると、彼はサドルの上に腰を浮かすようにして強く漕いだ。あんまりそれが続くようなら、降りるって言おう言おうと思いながら、いったんしっかりと握りしめた両手はもう離したくなくて、わたしはうつむいて唇を噛んだ。彼と比べてけっしてそう軽いほうではないはずの自分の体重のことは、なるべく考えたくなかった。
 やがて、目の前が急に開けて、長い下りの始まりが見えてきた。漕がなくても滑りだすようになって、彼のからだじゅうがひと安心するのを感じて、わたしもホッとした。
 そのときだ。
 ふわっ、と巻き上げた風に、そのころはもうずいぶん長くなっていたわたしの髪がたなびいて、彼の頬を打った。そんなに強くではなかったけれど、思わずハッとして動いたとたん、わたしの胸のあたりから何かが飛んだ。あの、挟んでおいた荷物だった。
 阿呆だった。
 とっさに、手が出てしまったのだ。
 そのままの体勢でも、宙でつかめるような気がしたのだ。
 もんどり打って落ちたわたしの耳に、彼の叫び声とブレーキと、自転車の倒れる音が飛びこんだ。
「だいじょうぶ!?」
 急いで駆け寄って自転車を引き起こすと、彼は、道端に座りこんだままの姿勢で、ぼんやりとわたしに顔を向けて、ふっ、と笑った。
「それはおれのせりふでしょうが。そっちこそ、だいじょうぶなの?」
「……うん……ごめん」
「あー。ほら。血が出てるじゃないか」
「え」
 しゃがみこんだ勢いでいつの間にかめくれあがったスカートから、膝が見えていた。裂けたストッキングについた土埃の間から、真っ赤なものがゆっくりとしみだして来るところだった。
「うっわー。懐かしい」
 こともあろうに、彼は、にやにや笑いながらそう言ったのだ。
「ガキんちょのころ、よくそういう怪我したよなぁ。痛くない痛くない。ツバつけときゃ治る」
「み、見るんじゃねぇ」
 あわてて向こうをむいて、ティッシュか何かがなかったかどうかポケットを探っていると、静かに聞かれた。
「いったい、どうしたのさ。さっき?」
「ん……ごめん。荷物が飛んじまって」
「……荷物? うんと大事なもの?」
「えっと。ノートとか……つまんねえもんばっかだけどさ」
 そうだ。そのころには、わたしは普段かなりひどい口の聞きかたをしていたのだ。彼の前だというのに、それが出てしまったことに気がついた。
 彼は黙った。
 そのまま、マゴマゴしていると、頭ごしに黄色いチェックのハンカチが降ってきた。
「使って」
「えーっ。血がつくぜ」
「いいから。あげるから」
 かすり傷だったけど、面積が大きくて、血はなかなか止まらなかった。黄色いチェックを汚したくなくて焦ったけれど、なかなか止まらなかった。
 その間、ずっと、彼は黙っていてくれた。
 ずいぶんしてから、ようやくわたしが顔をあげたとき、初めて口をきいた。笑いながら、でもどこか深いところがとても真面目な顔で。
「ちょっと止まって、って言えばいいのに。それから降りて取りにいけばいいのに。ノートはどっか行っちゃったってどうってことないけど、頭でもぶつけたら大変だったでしょう? 違う?」
 わたしは黙って、小さくうなずいた。
 いったん乱暴な口をきいてしまったものだから、もう、どういうしゃべりかたをしていいのか、わからなかったのだ。
 なのに。
 彼は言ったのだ。
「変わらないなー。稲ちゃんは」
「はっ? どうせ。トシばっか食っても阿呆のガキだからな」
 変わらない……?
 こんなになっちゃったのに、わたし、変わってない?
 嬉しかったのに、とっさに、まるで違うことを言ってしまうのだ。
 ほんとに? どこが。どうして?
 尋ねたいのに、流れ落ちる髪の陰で、傷口のようすを見ているふりなどしてしまうのだ。
「だって、小学校のときからだろ。なんでも自分ひとりでやっちゃおうとするのは……」
 思わず目をあげると、髪のすき間から、まっすぐにこっちを向いている彼の目とぶつかった。
 そんなにがんばらなくたっていいのに。
 わたしの愛した美しい瞳が、優しく笑って囁いた。
 そうだよ。
 ぼくにはちゃんとわかっている。きみは、いつもいつもひとりでがんばって、がんばって、がんばり続けていて、音をあげたこともないけれど、ほんとはとても重たかったんだってこと。だれかが代わってくれるか、せめて、よくやったね、って認めてくれるかするのを、ずっとずっと待っていたんだってこと。
 ぼくはちゃんと知ってたんだ……。
 …………。
 もちろん、それはわたしが勝手に聞いたことばである。
 彼はまるでそんなことは考えていなかったのかもしれないし、実際それっきり立ち上がって、
「行こうか」
 なんて、自転車を押しはじめてしまった。
 そうでなければ、わたしは、手もなくぽろぽろ泣き出してしまっていたと思う。
 だから、それは『武士の情け』だったのだと思いたい。彼はわたしを彼の胸で泣かせてもらえる女の子に選んではくれなかったけれど、小学生のときから変わらないともだちの椅子に、座らせておいてくれたのだから。
 そして、それからだいぶ先のことになるけれど、初めて好きな子ができたとき、その子をそれとなく守ってやってくれないかと、とても恥ずかしそうに、とても申し訳なさそうに、でも、きっぱりと、このわたしに頼んでくれたのだから。
 となれば、かの懐かしの正義の味方の衣装をひっぱりだして着ないわけにはいかないではないか。多少古くなって、あちこちツギがあたっていて、ほころびやすくなっているのだとしても。
 彼の自転車の後ろに乗ったことがある女の子が他にもいたかどうか、わたしは知らない。が、彼はその直後十六歳になって、すぐバイクを手にいれたから、たぶんわたしが最後であることは間違いあるまい。そして、そのバイクにも、阿呆のわたしがすっ転がったことが関係あるのかないのかわからぬが、めったにひとを乗せなかったことは確かだ。
 あの浅葉が現われるまでは。

              ★

 浅葉か。
 まったく……。
 あんな恩知らずの育ち損ないのどこがいいんだか。まぁ、どこかの阿呆どものようにミーハーしたやつでないのはさすがだが、それにしてもあの完璧のみーくんにふさわしい女ともなれば、もう少し違うタイプを想像してしまっていたではないか。ああいうのが好みなんだと知っておれば、作戦の立てようもあったものを。
 ……ん……?
 ややっ。
「こら、安原」
 知らぬ間にガシガシ噛んでいた髪のひと房を口からもぎはなしながらねめあげると、抜き足さし足で遠ざかりかけていた安原が、ひっ、と言って飛び上がった。はりつけたような作り笑い顔でふりかえる。
「あはっ。隊長。お目覚めで」
「少しも眠ってなどおらぬ。なんだ、どこへ行く」
「あ、あのっ。もう今日は、遅くなっちゃったしー、このへんでと思ったのでー」
「何」
 見れば、安原以外の隊員の姿もない。
「これは異な。みなはどこじゃ」
「わーん! だって隊長ってば、まるっきし身ぃ入れてくれないんだもんっ! もうみんな怒って帰っちゃいましたよっ」
 わたしはテーブルの上を見た。
 案の定、レシートが残してある。レシートの隣に何やら面妖な不変体少女文字とかいうものの類かと思われる暗号のならんだナプキンが、ところどころにチョコレートらしい染みをくっつけたまま広げてある。他には、十円玉ひとつありはせぬ。
「……おまえら……」
「あっ、あのっ、朱海さまに聞いてほしいことは、一覧表にしておきましたから、じゃ、よろしく、さよなら!」
 ちゃっ、とアイドル歌手風に敬礼の真似をするや、安原は脱兎のごとく駆け出して行った。いやな予感がしてレシートをひっくり返してみると、わたしが知らぬ間に、パフェだ、プリン・ア・ラ・モードだと注文が増えておった。
 思わず乱暴に髪を掻きあげると、二十本ほども抜けてきた。
 ……落ち着け。落ち着くのだ。 
 まぁ良い。
 良いではないか。
 こうして苦労を積んでおればこそ、いつかきっと、大いなる報いの日も来ようというもの。
 そうじゃ。
 いつの日か彼は必ずや目を覚まし、このわたしのけなげさいじらしさつけ入られやすさにこそ、救いが必要であることを悟ってくれよう。そして、阿呆なりにけんめいなわたしの彼への想いの深さに感激の涙を流し、手をさしのべてくれよう。
 どう考えてもかなわない女ができちゃったとでもいうのならともかく、浅葉ごときでは恐るるに足らぬ。わざわざ相手にするも滑稽じゃ。そうじゃ。あきらめるのは早い。
 今しばらく、ものわかりの良いともだちの座を楽しむもまた一興。ふふん。かれこれ九年待ったのだ。今さら急いでもはじまらぬではないか。
 ……ほんとに……?
 ほんとにそうかなー。ちゃんと将来幸せになれんのかなー。あたしってば。
 なんか、ときどき、とーっても虚しくゆーつになっちゃったりするんだけど。そう。あの、『なんで時間はこんなに早く過ぎて』って、あの気分。阿呆の浅葉なんかに言われちゃうのと同じこと考えてるってのも、なんか、情けないなー。でも、あの子ってば、ときどきやけに鋭かったりするからなー。
 うーん。 
 ……ま、いっか。
 悩んでもしょうがないし。あ、そだ。帰ったらみーくんに電話しよーっと。んでもって、うふ、浅葉にも早速お返事するんだー。なんたってあの子なら、そー簡単にAとかBとかCとかいうのに行きっこないもん。安心ってば、ほんっとに安心な良い子なのよねー♪ またうまいことおだてて、はげましちゃお。んでもって、ねこりってやっぱりすっごく優しい子なんだぁっって、後々みーくんにわかってもらうんだーい♪ きゃい♪ ほんとあたしって賢ぉい。
 そうよ。信じるのよ。
 いつの日か。
 いつか、まだ先のことだけど、とにかくいつかはきっと。きっと……!

                                                            おわり


[作品ノート]
 短編『稲子さまinブルー』は、一九八七年春に雑誌『別冊コバルト』のために書き下ろしたもので、これは本編の「6」と「7」の間に当たる時期でした。昭和バージョンの場合、中学篇と高校篇の間はまるまる一年あいていたわけで、そのちょうど真ん中へんに挟まったかっこうになります。後に、文庫『ミッキーのおしゃれ読本』に収録されましたが、平成版おかみきには、ページ数等の都合からうまくおさめることができませんでした。
 菅原稲子という強烈な?フルネームは旧姓当時の作者の本名そのままですが、ルックスも性格もまったくの別人なので、モデルにしたというよりは「変身願望」だと想います。
 ちなみにオンライン版では、文字化けしそうなものは適宜変更しました。ビックラゲーションやブッタマゲーション(! や?を半角にしてヒトマスの中につっこんだアレのこと)は標準的なものに、ハートのマークは(なぜかこいつは登録がないので)音符のマークで代行しています。また、ごく一部ですが、単行本になお残っていた誤植や文意の通らない部分を直してあります。