愛のあかし [某M嬢の告白] ……そう。もう十年以上も前のことになるけれど、ハムスターを一匹飼っていたことがある。 飼ってたって言ってもね、ハムがいたのは、彼の家。 デートの途中に、見つけてね。あんまり可愛くって、ずっとずっと見つめていたら、買ってくれた。そんな風に何かを突然買ってくれたりすることはあんまりなくって、とても驚いて、とても嬉しかった。でも、わたしの家に持って返ることはできなかった。彼のアパートに、置いといてもらったの。でも、あれは、あたしのハムだったの。彼もあたしも、そう思っていた。 ハムスターのおうちもあったけど、彼は気楽なひとりぐらしだし、ハムをアパートの部屋じゅう、好きなように走り回らせていたわ。ハムは、ひとなつっこい奴で、時々何かに掴まっては後足で立ち上がって、ちいちゃな手であれやこれや、そりゃあ独特な、真剣な顔つきで触ってた。かと思うと、ぼーっとしてる時には、ほんとうに心底からぼーっとしてるの。ぼーっとするあまり、どっからか落ちたとして、落ちたら落ちたその恰好のまんま、やっぱりぼーっとしているの。 『赤いきつね』が、好きだったなぁ。あたしと彼と、夜中に、お腹がすいて、作って食べてたら、なんかワサワサとにじりよって来るでしょ。マサカ、食べないよねぇっていいながら、まぁ試しにって一本渡してみたらね。こう……後足で立って、両手を顔の前に出して、しゅしゅしゅしゅしゅるっ! っと。アッと言う間にたいらげちゃったのよ。うまいの。上手。みごとなの。ほら、赤いきつねって、麺がちょっとふとめで、きしめんみたいにぺったんこになってるでしょ。あの、幅の広いほうにぴったり合わせた幅で、こう、両手を使って、しゅしゅしゅしゅっ! なのよ。 あんまりみごとなしゅるしゅるで、あたしも彼も、一瞬、何が起こったやら、アッケに取られてしまったわ。それから、おそるおそるもう一本渡してみたら、また、しゅしゅしゅしゅしゅしゅしゅ、しゅるりんっ! もう、こっちの空腹も忘れて、次から次へとしゅるしゅるさせちゃったわよ。食べてねぇ。そうして、食べたらとたんに、ハムのお腹、ぽんぽこりんに膨らんでくの。あからさまに露骨に目に見えて、ずんずん膨らんでくの。なにしろ、小さなハムスターでしょう、あれ一本でも、そうとうに多いわけよ。そんで、しゅるしゅるしゅるの、ぽんぽこぽーん、よ。もうこれ以上食べたら破裂するって時にも、やめさせるの、大変だったぁ。 それから、あたしは、彼のアパートに行く時には、ハムへのお土産に、必ず『赤いきつね』を買っていったわ。 うん。『赤いきつね』でなきゃだめなの。他のも、いろいろ、試してみたんだけどね。あれには何か、ハムスターにとっての、猫にまたたび、みたいなモノが入ってるんじゃないかしらねぇ。他のはちっとも、欲しがらないの。『緑のたぬき』もね。とにかく『赤いきつね』以外は、どんな麺でも……インスタントじゃない、ほんものの讃岐うどんとかも試してみたんだけど、それが、端っこをかじってみもしないのよ。ねぇ。驚いちゃうわよねぇ。どこが気に入ったのかしらねぇ。うううん、もちろん、りんごとか、ペレットとか、そういうものは食べたわよ。けど、人間の食べ物で欲しがったのは、例の『赤いきつね』あれだけだったなぁ。 可愛かったなぁ。 ハムのこと大好きだった。ハムを買ってくれた彼のことも、大好きだった。あたしたち、ちょっと家族みたいだったかもしれない。ハムがいて、彼とあたしがいて、『赤いきつね』があって、あの子がしゅるしゅるぽんぽこすると、もう、これ以上の幸せはないって感じでね。そのまんま、ずーっと、幸せなまんま、続いてゆきそうだったんだけど。 今はもうよく覚えてないけど。外で逢ってる時に、彼と喧嘩をしたの。いつもみたいに彼のアパートに行かずに、あたし、帰っちゃったのね。でも……なんか様子が変だったんだ、彼。で、ちょっと悔しかったけど、ごめんねって……だって、好きだったから、そんなわけのわかんない喧嘩なんかして、仲直りできないなんて思わなかったから……電話してみたの。そしたら、ぼそぼそ白状したんだ。ハムを殺してしまったこと。わざとじゃなくて。ハムがスリッパの中で眠ってて、そんなこと知らずに足を……。そんなとこで、けして寝てたことのない子だったし。彼も彼で、普段は、注意深いひとなのよ。ふとんの中に潜りこんで来るハムのために、寝返りうちたいの、我慢できちゃうようなひとなのよ。どうして、その時に限って、そうだったのか。寝不足かなんかだったのか。それとも、何か、神経がささくれてでもいたのかしら。ハムがどこにいるか確かめもしなかったなんて。信じられないんだけど。ほんとうに、優しい、素敵なひとだったんだけど。 けどさぁ。 聞いた時、あたし、実感しちゃったんだよね。スリッパの中で突然潰されてしまったハムの感じと。そのハムを殺してしまった彼の足の、指先の、その感触と。両方、なんだか、いやにリアルに感じられてしまって……それって、どうしても、許せなかったの。 彼を責めるって言うより、自分を責めた。 あの小さなハムスターを守ることもできないようじゃ、あたしたち、ダメだなって、ずっと一緒に暮してけたらいいなって思ってたけど、そんなこと、できないんだなって、確信したんだよね。 彼も、そう思ったんだろうと思う。 どっちからってわけでもなく、離れて行ったわ。少しも嫌いじゃなかったけど、未練はなかった。一緒にいたら、いる間中、けして忘れられないもの。あの、奇妙に伝わってしまったリアルな感触を。ま、一緒にいなくなったってね。今でも思い出すよ。『赤いきつね』のコマーシャルとか見ると。ハムのこと。幸せだった、あたしたちのこと。優しかった彼のこと。はじめて、ペットショップでハムを見た時、黙ってずーっと見つめてたら、欲しいの? って、買ってくれた時のこと。あの、わぁっと胸がいっぱいになるような感じ。指輪より、クリスマスのお洒落なディナーより、どんな約束よりも、素敵なプレゼントだった。 『赤いきつね』もう一生食べられないかもしれないと思ったけど、ははは、食べちゃったわよ、もちろん。サッサとね。次の彼氏と一緒の時に。なんか、お払いでもするみたいな気持ちがしたなぁ。 『赤いきつね』を食べる時、あたし、かならず、麺何本かだけだけど、残す。ダイエットかぁ? って、笑われたことあるけど。あれは、実は、ハムの分なんだ。もしさ、あんなことがなくったって、とっくに寿命で死んじゃってるだろうなとは思うんだけど。 こんな話、内緒だよ。 ひとに聞かせちゃ、だめだよ?
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