観賞的熱帯魚購入希望

 

 ある時、作家編集者で予定していたツアーに欠員が出たということで誘われて急遽香港に行くことになりました。フェリー乗り場にわりと近いホテルは、新しくってぴかぴかで素敵でした。特に、お風呂がおシャレで広々で、嬉しかったなぁ。

 落ち着く間もなく、波多野氏は手にいれた香港地図を片手にホテルのコンシェルジェに電話をかけはじめました。彼はブロークンながら、わりと英語できます。喋りもさることながら、聞き取りがグーなので、ほとんどの用は足ります。

「助けて欲しいことある。わたしは求める、見ること、いくらかの店、熱帯魚売ってる。ただし、食用にあらず。観賞用」

「おそれながら、少しの猶予必要」コンシェルジェのひとは言ったらしい。「わたし問い合せる、観賞的熱帯魚店のありか。調べつく、わたし、あなたさまにすぐさま連絡する。よしか」

「あいにくながら、われわれ、じき出かけてゆくであろう夕食。わたし出かけるであろう、観賞的熱帯魚店、明日、昼間。可能ならば、わたし明日朝、コンシェルジェ訪ねる。その時、結果、知る。可能か?」

「可能。調べておく」

「ありがとう」

 翌朝、彼の地図には、ふたつのマルがつきました。ひとつは、ネイザンの裏手。もうひとつは、ファッユン街(花なんとか街だったと思う。その地図、とっとけば良かったんだけどなぁ)。

  さて、自由時間。

 われわれ夫婦は、いよいよ、お魚捜しにでかけました。

 地図を見せると、タクシーの運転手さんは、心得顔にひとつうなづき、ぐんぐん車を飛ばします。香港って、メインストリートは、すごく広い。片側三車線ぐらいあるんじゃないだろーか。道にはみだしてくっつけられた看板。はりめぐらされた電線。いろんな店の並んでる感じは、ちょっと銀座の大通りに似ています。車通りやひと通りがだんだん少なくなる方角に、どんどん走って、Y字を右にそれて、おっきな角でぐるーんと回った……ら。

 ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと! 市場がたってて、道路いっぱい、ひとで埋ってる。ホコテンだって、こんなに大勢のひとが集ってたりしない。ばあちゃん、おじさん、こどもたち。顔は日本人とほとんど区別つかないけど、服装がちょっと違うかな。より、派手。より、ラフ。タクシーは、そのわんさかのひとごみを、かきわけかきわけ、進みます。そんなとこに車乗り入れるのが、間違いなのかもしれない。じろじろ、中をのぞきこむひとたち。ちょっと迷惑そうな顔。

 ……ひょっとして、ここで、はいっ、て、いきなりドア開けられて、降ろされたら。

 波多野さんとわたしは顔を見合せました。

 何がどうだっていうんじゃないけど、心細い。いきなりフクロダタキにされそうな気がする。

どきどき不穏にとどろく胸を抱えながら、黙りこくっていると、車はやがて、ひとの渦を抜け、うら寂しい通りに出ました。

 通ってきた商店街ほどじゃないけど、大きな通りの片隅で、車が止り。

 ドアが開きます。ここだよ、と言わんばかりに、運転手さんが地図をしめし、地図を返してくれました。波多野さんが、地図をしまいます。

 しかし……ほんとに、ここ? 熱帯魚店なんて、影もかたちもない!

 わたしはお金を払い、お釣りをうけとりました。

「とーちぇ。ろーふぁんさいらー」

 ありがとう、お疲れさま、の意味であるはずのコトバをもごもごつぶやくと、ちょっと吃驚してた。ああ、やっぱり、もうちょっと真面目に、広東語をやっとけば良かったなぁ(香港映画フェチになりかけていたわたしは、その頃、ようやく手にいれたリンガフォンでベンキョウをはじめたところでした)。

 ほんのちょっと歩けばみつかるんじゃないか。そういう希望的観測のもと、わたしたちは、ぐるぐる歩き回りました。熱帯魚店らしきものは、見当りません。大きな通りの角に、犬猫ペット・ショップがあるばかり。

「あそこで、きいてみようか」

 と、わたし。

「何語で聞くの?」

「英語」

「通じるかな」

「通じるかもしれないよ」

「通じないかもしれない」

 波多野さんは、緊張で顔をまっ白にしています。

「じゃ、地図見せて、顔とみぶりてぶりで尋ねる」

「いかん! いかにも不案内な観光客っぽく見えてしまうではないか」

 だって、わたしたち、不案内な観光……じゃないかもしれないけど、とにかく、旅行者じゃないかぁ。

 角に、花なんとか街、の看板が出てます。確かに、このへんにあるはずです。

 さっき、わんさとひとのいた市場のほうにも行ってみました。動物を売ってるお店はありました。ヤマドリや鶏の類、真黒な兎、アナグマみたいなやつ、犬も。でも、その隣は乾物屋さんで、その通りは魚屋さんです。魚屋さんでは、悲しそうな顔をしたオジサンが、でっかい包丁で、発泡スチロールひと箱ぶんのカエルをヒラキにしてるまっ最中。ひょっとすると……ひょっとしなくても……このへんは、食料品街では? あれは、ペットではなくって、イキのいいごはんのモトなのでは?

 キッチュなこども服屋さん、露天いっぱいのブラジャー屋さん、サングラス屋さんに、お菓子屋さん。お花屋さんに、玩具屋さん。けっこう面白くって、あたしはすっかり嬉しくなっちゃったけど、なにしろ混雑してますから、いちおう、ベルト・ポーチにだけはしっかり手をかけてました。とうとう、市場の奥に辿りつきます。お寺みたいなのがあって、行き止まりでした。波多野さんは、襟首にかけたタオルでしきりに顔を拭っています。暑いです。トイレがあります。

 これがRPGゲームだったら、ふと目に止ったところは、全部尋ねてみたほうがいい。

「あたし、トイレに行くから、見張ってて」

 香港のみなさん、ごめんなさい。でもさぁ、ヨーロッパなんかじゃ、女の子は絶対ひとりでトイレ行っちゃだめって言うじゃない? 手足切られて落ち着く先って悪名高いのが、他ならぬこの香港じゃないか。

 市場のトイレは、観光地のトイレよりずーっとキレイで、ちゃんとドアもありました。おろすべき荷物をおろしてしまうと、あたしはなんだかますます気分が楽になっちゃって、あの、漠然とした怖さ、どっか行ってしまった。

 もしも、もしも。

 もしも、万一、何かされそうになったら。

 ジャッキー・チェン財布を見せよう

 そう。その頃のわたしの愛用のお財布はジャッキー・チェン・ブランド、JとCと竜のからんだマークつき。あのお目出度い中国的赤のだったんだよーん。

 それでもダメだったら、CDで覚えた広東語の歌を歌おう。きっと、こいつはおともだちだってわかってくれるさ!?

 もう一度市場を戻り。ぐるぐる歩き。

 ふと、輸入タバコを並べた屋台が目に入りました。おばあちゃんと、小さな孫の男の子、ふたり。目があうと、ニコニコ笑ってくれる。

 決心しました。

「道を聞くぞ。地図をかしてちょうだい」

「お、おいおいッ!」

「だいじょうぶ。見てて」

 考えたことは、こうです。タバコの名称なら、間違いなく通じるだろう。ひとことでも、通じたら、もっと喋ろうかなって気になる。輸入モン扱っているんだから、あのばあちゃん、簡単な英語ぐらいわかるかもしれない。それで、ダメだったら、地図と、ボディーアクションだ!

「ダンヒル、キングサイズ、いー」

 『いー』は、『2』です。北京語は、麻雀をやるひとならしってるとおり、『いーあるさんすー……』ですが、広東語は『やっいーさぁーん……』です。久美は3までしかしりません。なにしろ、レッスン3までしかやってないから。でも、Vサイン出しながらの『いー』は、通じました! 

 黒い目のきらきらした男の子が、ニコニコしながら、ダンヒル・キングサイズ(波多野さんの愛飲名柄)を、ちゃんと2ツ差し出してくれてる。香港ドルを渡します。おつりくれます。これで勇気百倍。

「といむちゅー(スミマセン)、アイムルッキングフォアラショップ。ショップオブトロピカルフィッシュ。ノット・トゥーイート。トゥーキープアンドシー」

 こどもたちが怪訝そうに身をのりだすところに、地図を出し。ホテルのコンシェルジェのひとの書いてくれたマルのあたりを指差します。おばあちゃんが何かいい、こどもが何か答え、わたしに向かって、なにか言い。香港人ってば、機関銃のように早口。わからない。顔で示すと、あっちだよ、あっちだよ! 指さして教えてくれました。

「サンキュー、多謝多謝!」

 

 ありました、ありました。観賞的熱帯魚店が、まぁ、三十軒も並んでたかしらん。グッピーやテトラなど小型の魚の店、日本の鯉の店、そして、大型魚の店、お目当てのアロワナちゃんばっかりのお店まで! 

 なにしろ、専門店街ですから、一軒一軒に顕著な特徴があります。

 みつかってみれば、なんで気がつかなかったんだろうというくらい、どーっとまとまってあったんです。……いや、しらない町を彷徨うというのは、なかなか難しいものですねぇ。

 龍魚。 

 中国のひとは、アロワナのことを、龍魚と言います。

 そして、アジアアロワナの真っ赤っかなやつを、ことのほか、珍重します。金色がかった赤(久美のコバルトの文庫本の背と、まぁ、だいたい同じ色)は、中国文化では、とにかくおめでたい色だということになっており、その色をして、しかも名前に龍がついちゃったりするようなアロワナは、金運招福のお守りとして、特に、お金持ちに愛されているらしいのです。

 例のワシントン条約の制約もあり、日本では、この、まっかっかっかっ空のくも〜的なアロちゃんは、滅多にお目にかかれません。ただ大きくなっただけの、あんまり赤くないアロちゃんでも、何百万円という値段でトリヒキされてたりします。そんなスーパーレッドの巨大なやつが、ここには、何匹も何匹もいる!

 波多野さんはすっかり興奮して、長い時間をかけ、得に好みのお魚のいるお店を充填的に、かたっぱしからのぞきました。

 それは、わたしが、新宿丸井ヤング館やら、伊勢丹シンデレラ・シティやら、小田急ハルクやらに出かけた時のようなものでありました。見るだけでも嬉しい。いちいちが、わくわくドキドキ。でも、ほんとは、……ほんとは、欲しい! あれもこれもそれもどれも、みーんな、欲しいッッッ・

 アロちゃんの稚魚が、日本円にしてわずか二万円ぐらいで売ってるのを見た時、波多野さんは、わたしがPINK HOUSEのあまりにも素敵なニュー・プリントのワンピースなど(たいがい、目の玉が飛び出る)を発見してしまった時のように、紅潮し、瞳をキラキラさせ、激しく、唸ったり身を揉んだりしてました。

 必死で視線をもぎ離し、カチンコチンにこわ張った脚に力をこめて、決然と、別のほーを見にいくんだけど、ふと気がつくと、まるでフェロモンに引かれる蝶々のように、ふらふらぁーっとまた、そこに戻ってってしまうのね。

 じーっと見る。そっとガラスに触れる。ガラスが吐息で曇る。曇ったガラスの向こう側を、かわいいアロちゃんが、悠然と泳いでゆく……。

 可哀想な波多野さん。

 そんな赤ちゃん魚でも、日本だと、少なくとも二十万円はしちゃうんです。いいえ、二十万円払っても、買えるんならいいです。でも、アロちゃんはサイテスの1、すなわち、商取り引きが禁止されているヤツなので、許可証がないヤツを所持するだけで罪になっちゃうの。許可証つきの売物なんて、滅多に出ません。もちろん、香港で買ったとしても、持って帰ることはできません。日本の熱帯魚屋さんの中には、我慢しきれず、持って帰って税関に掴まって牢屋に入っちゃったひとが何人もいます。

 波多野さんは、頭を振って、歩き出し。ハッとしたように目をあげて、じーっと見てたわたしに気がつくと、すんごく寂しそうに、ニコッとしました。

「行こう」

 わたしの頭のかたすみを、この間、悩みに悩んでやっぱりやめた(たまにはそういうこともあるんだ!)五万円のペチコートが、ひらひらっと泳いで、通り過ぎてゆきました。

 

 帰る日の朝、わたしがひとりで、ホテルの近くで買物などして遊んでる間に(広東語で、漢字をどう発音するかの辞典を捜したんだけど、いいのがなかった。捜しかたが下手だったのだろうとは思うけど。残念であった)、波多野さんは、ひとりで、もう一度、あのお魚通りにでかけ、シクリッドの類を二種類、合計七匹、買って来ました。もちろん、これは、サイテスにはぜんぜん関係ない、日本に持ってかえってもかまわないヤツばかりです。ただ、波多野さんの普段のテリトリーでは、売ってるとこを見たことない、珍しいヤツらでありました。

 楽しかったみたいです。嬉しかったみたいです。

 すっかりヤッホーって感じでした。

「不思議だよなぁ。俺は広東語なんてぜんぜんわかんないし、あそこのひとたちも、ほとんど、英語は喋れないんだけど。魚のハナシだけは、なぜかスラスラと通じるんだ。温度管理とか、なに食べさせるとか、ま、聞きたい内容がお互いよく知ってる分野だったからなんだろうけど、ふふふふっ」

 わたしのサムソナイト・オイスターは、ビニール袋で満杯になりました。水洩れ対策に、タオルをしきつめ。着ちゃったあとのTシャツ、パジャマなど、濡れたって別にいいやってやつを緩衝材につめ。お魚をいれた何重ものビニール(空気にはたぶん、酸素を充填しておいただろう)の途中に、寒さ防止のために新聞紙をいれるやりかたは、日本のソレにそっくり。

 飛行機や輸送途中で乱暴に扱われないように、『LIVE TROPICAL』『CAUTION!』『FRAGILE』『DON’T THROUGH』『天地無用』『手渡厳守』思いつく限りのありとあらゆる注意がきを、べたべたと張りました。

 オイスターにいれて持ってきたわたしの大事なお洋服の類は、ガイドさんが無理やりくれたウーロン茶屋さんのオマケの約八百円のお買物カートみたいなヤツにぎゅうぎゅうに押し込まれました。

 

 でもって。

 厳しいので有名な(?)成田空港税関は、その注意がきベタベタの真っ赤なオイスターを、開けろとさえ言いませんでした。わたしたちが見るからにビンボーそうで、ブランドのなんてぜったいに持ってなさそうだったからでしょう。

「そのとき、俺のこころに、悪い囁きが起こらなかったといったら嘘になる」

 のち、波多野さんは告白しました。

「見もしないってわかってたら、ああっ、ちくしょう、なんであんなに安いんだ! あの二万円の稚魚を……おおお、買って来たかったぞぉぉ!」

 でも、きっと。

 波多野さんはやらないでしょう。そんなことで、もし、何ケ月も刑務所にはいらなきゃならなくなったら、軽井沢で待ってる他のコドモタチの面倒、見られませんし。こと動物のことに関しては、彼は、きちんと真面目にルール厳守の原則を貫いています。所属してる数多の団体に迷惑かけるのは男として恥かしいって思ってるみたい。

 それに。

 だいいち。彼はモノカキ。絶対、黙ってられませんから。そんな素敵なお魚を持ってたりしたら、ついつい、ぽろりと白状してしまいたくなるにきまってますから。

「じゃっ。俺は、行く」

 わたしたちは、成田空港で別れました。彼は、一刻も早く、お魚ちゃんたちをうちの水槽に入れるために、軽井沢へ。わたしは、……なんだったか忘れたけど、用事があったので、代々木へ。

 

[後記]

 この次香港に行く時は水槽の用意をしてから行こう……といっていましたが、それ以来ふたりそろっての長い旅行にはまだただの一度もイケてません。預けなきゃならない動物の総数がおおすぎますもん……。

  その後、鷹匠関係で外国のおともだちが大勢できた波多野さんの英語はそうとうにブラッシュアップされました。それがなにより証拠には彼のサイトはバイリンガル。わたしの広東語はレッスン3で中断したままです……。