ルイルイルータタタッタ

      

 六月のとある昼下がり。庭で、例によって、何か大工しごとのようなモノをやっていた旦那が、アタシを呼んだんです。

「知らないわんこがきてるんだ。どうもお腹すかしてるらしい」

 猫缶一ケをコキコキと開けて持ってゆくと、ナルホド、茂りかけの草っぱの向う側に、けっこうデッカイ犬がいる。可愛い、というのとちょっと違った感想を、少なくともアタシは持ちましてね。

 ズングリムックリ、ガニ股で、首が太く頭でっかち。全身は薄汚れた茶色、目から口の周りにかけてが墨でも塗ったように真黒なのが、なんだか松竹新喜劇のドロボーみたい。マヌケというか、ブスというか。

 でも、旦那は、ひと目見た時から、「まー可愛い♪」と思ったみたいです。そういうひとなんです。

 ごはんを出してやりますとゆーと、コソ泥顔の犬コロは、首を伸ばして頭をさげ、喉をゴクッと鳴らすような顔をしてみせました。確かに空腹。とてもとても食べたそうなのに、素直にそばに来はしない。ひどく警戒してるんですね。

 猫缶のお皿から五メートルほど下がり、夫婦してしゃがみこんで(立っていると、犬さんは余計に怖がりますからね)じっと待つことしばし。やがて、草っぱの間からノソノソ這いだしてきて、むしゃむしゃ喰う。うわ目づかいにこっちを眺めながら、大急ぎみたいに必死に喰う。そーっと近づこうとすると、たちまちパッと身をひるがえし、距離をおくんです。

「また迷い犬かなぁ」

「ひょっとして大工さんの誰かが連れてきたんじゃあ?」

 夫婦はボソボソと囁きあうのでありました。

 

 何をかくそう。

 その二週間ばかり前、近所で迷子のわんちゃん事件があったばっかりだったのでございます。

 なにせゴールデンウィークでしたからね。普段は人口密度の少ないウチの周りにもギョウサンひとがお出でになりまして。やっと静かになったかなと思った頃、ゴミ捨て場に『この犬を探しています』写真つきのコピーが出たんです。行方不明のわんこの名前はヒナちゃん。特徴がいろいろ書いてあります。もしも見かけたかたはコレコレにご連絡ください、って必死の文面も載っていたりする。

 他人ごとながら、(いや、むしろ、他犬ごとながら)心配です。

 さっそく、電話をして事情をききました。なんでも、別荘を持ってるひとの犬ではなく、遊びにきていたオトモダチのわんこなのだそうで。必死に探すうちに一度はみつけたのだが、コーフンしていてダーッと走り去ってしまったんだとか。シゴトがあるのでしかたなく家にかえったけれど、次の週末にはまた行って探すつもりだ、とおっしゃられる。諦めてない。

 ワザと捨てるひともあるものを、なんともいっしょうけんめいなご様子に心を打たれたうちの旦那は、その日から、さっそく、近場の山をほっつき歩きだしました。そろそろお腹がすいて、ひと恋しくなっているいる頃かもしれない。つかまえやすいかもしれない。冬じゅうオオタカの訓練で雪深き山を歩きまわっていた彼には、半日あるくぐらいなんでもありません。犬用ジャーキー犬用ドライ・フードと、もしもうまく見つけられた時用の犬紐を持って、数日(自分の用事もタナにあげ)せっせと出かけた。いや、そう、確かに体力的には別になんでもないことだとはいえ、飼い主本人を別にすれば、何の関係もないわんこを、仕事も用事も放り出してこれほど熱心に探す人間もそういませんよね。そういうひとなんです。

 また。家に残った妻も、耳はすませていました。ひょっとして、聞覚えのないわんこの声がしないかと。前述のとおり、うちには、いろんな動物がいますからね。当然、いろんな匂いがする。野良ネコ一家もお散歩コースの一部にウチの動物どもの様子をうかがう(ひょっとして弱ってる鳥とかがいたら、喰うつもりであろう)ぐらいで、お腹をすかした犬ちゃんがついつい吸い寄せられてくる可能性は、ヨソのうちより、ちょっと高いかもしれない。

 実は、以前、実際にそういうことがあったんですよ。凄じい吠え声とニワトリの悲鳴に、どーしたのかと見に行くと、知らないワンコが捕れてたんです。苦労して張り巡らしておいたニワトリネット(ゴルフ練習用のあのミドリ色のやつ。ニワトリが道路等に出てヒトサマにご迷惑をかけないように、と張ったのだが。少しでもスキマがあると無理やり通るので、非常に繊細なセッティングを必要とする)にぐるぐる巻きの地引き網状態になって、パニック起こして、もがいていたんだ。

 そりゃもうとんでもない絡まりかたで、怒り狂ったワンコをなだめながらでは、うまく解けるわけがない。しかたなくハサミで切ってやって、ズタズタのギタギタの中からやっと助けだし、幼児用チーズ(塩分が少ないのでワンコにも向いている)など食べさせて気を鎮めさせてやっていたちょうどその時。

「メリィちゃーん、メリィちゃんどこぉ?」

 探しながら歩く声が近づいてきて。あっ、きっと、このワンコを探しているんだと出てゆくと、案の定。

「うんまぁ、メリィちゃん! 良かったわぁ。どうもありがとうございました」

 見知らぬオバサンは即座に大喜びでメリィちゃんを連れてゆきました。めでたしめでたし。実は、ウチには、二度と使い物にならなくなったミドリのネットが残ってたんですけど……ニワトリさんも一羽行方不明になっちゃったんですけど……あんな嬉しそうな顔みちゃったら、文句なんか言えませんもんね。

 で。

 くだんのヒナちゃんも、何とか旨く保護できればと考えたわけですが。

 うまくいかなかったです。

 旦那は、何度かそれらしい犬を遠くに見かけはしたらしい。ケド、犬本人(?)が人間に近づくまいと心を決めていたんじゃあ、どんな犬捕り名人でも、なかなか成功はおぼつきません。そろそろ少し意地になり、明日こそきっと、なんて拳固をかためていた矢先、電話がありました。無事発見保護しました、お騒がせしました、と。

 やっぱり、飼い主さまにはかなわないです。

 ほんとうに良かった。うちでも、とてもとてもホッとしたです。

 

 そんなことがあったので。

 そのドロボー顔の犬を見た時にも、とっさに「また迷い犬」という考えが浮かんだんでございます。

 ついでに、もうひとつの『大工さんが』というほうを説明すると。

 さっきチラッと書いたとおり、うちでは、去年の秋から建設工事をやってます。敷地内にいまある家とは別に、ワタシの仕事場兼書庫兼リラクゼーション施設(これは主に、LD観賞のための部屋と、ジャクージ&サウナのお風呂コーナーを言う)をブチたてようというわけです。

 それいうのも、築三十年だったもとの夏別荘を通年向きに建て直した時、旦那は、飼おうと思う動物のための設備には懲りましたが、ヨメを貰う予定なんか、まーったくなかったのね。まして、その相手が彼同様売文業で、つまり、おツトメに出るわけではないから毎日ずっと家にいて、仕事がら本だの資料だのも多いし、集中力がないので、誰かがそばにいるとゲンコが書けない、ひとり閉じこもって世俗とつながりを断ってはじめてワープロを叩く手が弾む、というタイプであるかもしれないことなんか、想像だにしなかったわけだ。

 臨時の措置として、彼女は彼の新しい仕事場をのっとり(彼は台所のテーブルでもゲンコの書けるタイプですから)、彼女のお洋服やなんかは、もったいないので解約した東京のマンションから、敷地内の使ってないオンボロ別荘に運び込まれ、彼女用アネックスが完成するまで、梱包を解くこともできなかったりするわけだ。

 以前、大工さんの誰かが、凛々しくも高貴なジャアマンポインターを連れてきて仕事の間そこらに繋いでおられたことがありました。前述のチャイ&プー(これは約二年前、当時まだ空き地だった向かいの三菱の地所に捨てられていたのを見つけたのです。たぶん兄妹であるところの雑種犬二匹。可愛い♪)がその独ポを怖がってキャウキャウ言ったせいか、この頃には、もうお連れになっておられなかった。けど、また誰か別のひとが別の犬を連れてきているかもしれない。そういう可能性も考えたわけです。

 

 さて。

 猫缶一ケを食べ終わると、ドロボー顔の彼は(遠めでも男の子であることはハッキリわかった)そそくさと、ノソノソといなくなってしまった。

「どこの子なんだろうねぇ」

「ひょっとして、けっこう遠くからさまよってきたのかもしれないね」

 さっそく大工さんたちに聞いてみたけれど、誰もそんな犬には心当りがないとおっしゃいます。

「うーん……捨て子かなぁ……」

「捨て子じゃないといいねぇ」

「捨て子だったら、どうする?」

「……どうもこうも。そばに来ないからね。どうにもしようがないよ」

「そうだね」

「そうだよね」

 夫はひどく心配し、妻は、ちょっぴりホッとしてた。だって。あの犬、あんまり欲しくないもん。あんまり可愛くないもん。これ以上、ワンコはいらない。妻は、実は、そう思っていたのでありました。

 さて翌日はなにごともありませんでした。

 そしてその次の日。

 それはちょうど日曜日で、工事が休みの日でもありました。いつものチャイ&プーの朝サンポを終えたわたしは、大工さんたちのジャマにならないこういう時にこそ、着々進んでゆく工事の具合を写真にとろうと、玄関を出たのね。

 すると。

 道路の上のほうから、なにか巨大な毛むくじゃら物体が、マッハの速度でやってくるんだ。センプーキのように尾っぽを振りながら走ってくるのである。

 なにか。ムロン、あのドロボー顔の犬ですって。

 たぶん、チャイ&プーの散歩の時から、ジッと見ていたんだと思う。今度はわたしが、ジャマなチビたちを連れていないので、安心して出てきたってことなんじゃないかな。

「ごはんごはんごはん!」

 と、そいつは飛びついてきたのです。

「ごはんごはんごはん、ああ、お願い、ごはんをちょうだい!」 

 あまりの空腹に、警戒心もなにもブッとんでしまった様子。

 慕われれば、情も湧きます。でも、改めてごくそばで見たら、いやはや、汚い! 顔もカラダも泥だらけ、目ヤニはついてるし、耳の中はホコリで真黒だし、後ろ足には乾いたウンチらしいものまでヘバリついている。おまけに、首から耳がなんだかやけにボッコボコなのだ。ハッと見れば、四・五十匹のダニがへばりついて、ぱんぱんにふくれあがっているんだ! 

 首輪をしていないから、落ち着かせるには、しょうがない、その不潔なのを、しっかと抱きかかえるしかない。アタシはそうした。そうしました。そうして、きゃつをズルズル引きずりながら、大声で旦那を呼んだわけです。

 旦那が予備の首輪(そういうものがいつでもあるあたり……)を取ってくる間、気になって気になってほうっておけない数多のダニを指で直接ひんむしりながら(指はもうムシの汁と犬の血だらけ)、アタシの頭の中には「コウミョウ」という単語と「イントク」という単語が浮かんでしまうのでありました。巧名でも巧妙でもないよ。光明皇后ね。施薬院をつくって、病気でくるしんでるひとたちを助けてあげたエライひとね。後のほうも隠匿ではない。陰徳。

 知合の占いの先生(時々悪霊祓いなどもする、エライひと)に、言われたことがあるんです。『すすんで陰徳を積むように』と。

「久美ちゃんは、運が強い。とても恵まれた星のもとに生まれているので、ほうっておくと、ひどくワガママなイヤな奴になってしまう。だから、キミは、与えられた能力や時間の少なくとも半分を、自分ではないもののために使うように気をつけなければならない。それは、ひとのためじゃない、自分のためになることなんだよ。わかりますね?」

 聖母の騎士幼稚園(というところを卒園したんですよ、アタシは)の優しい女の先生も、いつも「神さまがみてますからね」って言ってたなぁ。「いいことをする時には、誰にもわからないようにするんですよ。右手がいいことをしてるのに、左手が気付かないぐらいにね」

 そして見ず知らずのわんこのダニーを、せっせと取ってるこのアタシ。きゅうん、と痛がる恩知らずを、シッ、おとなしくするんだバカもの! 力いっぱい押え込み。

 ああ、コウミョウ。ああ、イントク(ゲンコにしちゃったんじゃあ、もうコウミョウでもイントクでもないなぁ……)。

 神さま、どうか、誰かを迎えに寄越してください。この犬さんを引き取ってください。せっかくなんですけど、正直言って、こんなデッカイ犬は欲しくありません。うちにはもう二匹もいるんです。

 でも、このダニーの数からして、たぶん、二・三日じゃない、もう一週間近くは野良をさまよっていたんじゃないだろうか、この子は……。

 

 旦那はすぐに警察に連絡し、迷い犬の届けが出ていないかを尋ねました。

 出てない。

 妻のこころは、いよいよシーンと冷たくなってしまいました。

 これはもう間違いない。やっぱり捨て子だ。そうじゃなきゃいいな、そうじゃなきゃいいなと思っているってーと、必ずそうなるんだ。そういうものだ。

 とにかく。新参の犬が、うちの愛犬チャイ&プーに伝染るビョウキを持っていると困るので、取り急ぎいつも親切な動物病院の土屋先生に連れていった。わんこは(二歳のチャイと同じくらいでかく、同じくらい重かったが)クルマに乗せられたことはあまりないらしい。助手席のあたしの膝で、心細そうに震えていました。

 あいにくながら、土屋先生も、見覚えのないわんこだとおっしゃる。近所から逃げたわんこじゃない可能性がますます高まります。どこか、遠くから連れてきて、こんなに自然の豊かな軽井沢の山ン中ならなんとか生きていけるかもしれない、とかなんとか、非常に無責任なことを考えられて、放り出されたちゃった奴なのかもしれない。

 首輪がないから、鑑札を取ってない犬かもしれないわけで、とにかく飼犬の義務であるところの年に一度の注射をしてもらい(ちょうどそういう季節でもあった)、登録を申請しました。

 けっこうデカく見えたこいつが、歯を調べた結果、一歳ソコソコらしいということがわかったりもしました。名前はルーイとつけました。チャイ、プーイ(プーの場合、フルネームで呼ばれることは少ないんだが)と「○○イ」が続いているので、伝統に乗っ取ったわけです。

 

 でも、ルーはルーと呼ばれる前に、なにか全く別の名前で呼ばれていた犬だもの。

 

 妻はとっても不安なのでありました。

 ルーはけして根っからの野良ではありえない。だったら、いくら困り果てた時だとはいえ、あんなにベッタリと人間にすがって甘えて頼ったりするわけがない。つまり、こいつは、小犬がその一生の性格を決める重要な一年を、別の誰かの流儀で育てられているわけよね。のちに平気で捨てるような誰かの流儀にさ。

 それは、こいつと、うちの可愛いチャイ&プーとの間に、容易には乗り越えられないかもしれない文化的ギャップが存在するかもしれない、ということを暗示するじゃないですか!

 

 実は……。

 スミマセン。また、話が入り組みます。

 ここから、しばらく、他の犬のことを語らせていただくことをお許しください。