マミたんのこと

 

 以前、そういう犬を貰った(いや、正確に言えば、ほとんど預っただけなんだが)ことがあるんですよ。

 チラッと出しました。マミーと言う子のことです。

 彼女は、ウチに来た時、もう十歳だったわけです。人間で言えば、立派な中年。定年間近といってもいい年頃のオバサン犬。

 とあるご家庭で、どーしてもどーしても飼い続けられなくなって、引き取ってくれる人間を探されたわけです。この「どーしても」というのが、まったくお気の毒なの。

 なんでも、マミーを誰より可愛がっておられたおとうさんが病気で亡くなって、もともとカラダの弱いおかあさんとシゴトの忙しい息子さんのふたりでは、とてもそれまでのようには面倒みきれないし、既に犬猫おことわりのマンションに引っ越してしまっていて「ほんのシバラクだから」って言い訳して、チョット勘弁してもらってるだけなので、新入りとしては、ご近所の手前、とにかく一刻も早くコイツをどっかにやらないと非常にヤバい、立つ瀬がない、という切羽詰った状態だったらしいんです。

 ……ったく! 犬猫おことわりのマンションなんて、言語道断だよねッ! という話もしたいけど、ここですると、ますますややこしくなるから、この件に関しては後のページにとっておきます。

 で。マミーちゃんの元の飼い主さんがたは。

 ウチに到達するまでに、既にあちこちの知人友人のかたがたに聞いて回ってみられたそうです。三四軒ダメで。どんどんアテがなくなる、既に、クタクタのヘトヘトのタライマワシ状態だったらしい。

 と、いうあたりで、話が聞こえてきてしまった。

 なんせ夫は「可哀相な動物」の話にとっても弱いし、妻はと言えば「イントクを心掛けるように」偉いひとにクギを刺されちゃってるわけですから。エニシさまには、逆らえません。

「そんなご事情ならば、譲ってもらってもいいけどォ……」

 ボソボソ呟いてしまうわけです。

「でもサ、ウチにはもうチビ犬が二匹もいるからね。そいつらと仲良くできない子だったら、ちょっと貰うわけにはいかないんですよネ」

 はかない抵抗も試みたりして。

 そこで、両方の犬の立場が対等になる、どっちもそれまでに全く見知らぬ場所である、とあるおウチ(元飼い主さんの知人のお宅)に、それぞれを連れていって、引き合せてみたわけです。

 まず庭の樹にマミーを繋いでもらって、飼い主さんに離れててもらい、ウチの旦那が近づきました。マミーは警戒してワンワン言いましたが、食べ物を出してみせると、すぐに寄ってきて食べました。次にアタシが、できるだけ脅かさないようにそーっとそばに行き、やっぱりゴハンをやってみます。アタシでも別に、大丈夫みたいです。

 なんでワザワザこういう手順を踏んだのかとゆーと。

 雌犬さんで、しかも、おとうさんに一番懐いていた、と聞いていたので、男のひととは良い関係が作れても、女のひとには馴染みが悪いかもしれないと予測されたからなわけです。

 犬は階級や家族間の力関係にとても敏感ですからね、普通、一家の大黒柱であるおとうさんを一番エライと思っています。そして、エディプス・コンプレックスじゃありませんが、雄犬は女のひとに、雌犬は男のひとに、やっぱり、より寛容であったり、馴染みやすかったりするのが一般的だったりするわけです。

 すんごく気難しい犬さんだと、自分よりエライと思える人間は、世界じゅうにたったひとりだけだったりする。これは、犬というものがそもそも、群れで生活をする動物であることの名残りでありますね。生まれながら根っからのアルファ・フィメール(つまり、ある群れのリーダーのオカミサン)型の雌犬さんの場合、人間の男のひとを、自らのアルファ・メイル(つまり、旦那さん、イコール、その群れのトップ)として認識し、このひとに従順になることは、本能的に抵抗がないことがらなわけですが、自らの他に、その人間の男の妻なんつー、いわば、アルファ・フィメールの地位を争うことになる相手が存在してるっつーと、精神的にややこしい。超喧嘩ごしにならないとも、限らないわけです。

 で。

 我が家のアルファ・メイルであるところのウチの旦那は、次に、小犬のチャイ&プー兄妹(便宜的にカラダのでかいチャイくんのほうをおにいちゃん扱いしていますが、ほんとうのところ、こいつらはひと腹で生まれたのではないかと思われますから、人間でいえば、双子みたいなもんです)を連れてきて、マミーちゃんに近づけてみました。

 どっちも盛んに吠えますが、でも、すぐに血で血を洗う喧嘩をはじめそうだ、というほどではない。今度は、マミーの飼い主さんにもきてもらっておいて、ワタシと旦那が犬たちの綱を持った状態で、近くを散歩してみました。ワタシがチャイ&プー、旦那がマミーちゃんです。双方ともに非常に強く意識してますが、でも、怒り狂っているというほどではない。

「これなら、なんとかなるかもしれないな」

 旦那が(嬉しそうに)言いました。

 すると。

 マミーは、その時その瞬間、そのまますぐに、ウチの子になってしまったのでございます。元飼い主さんは、マミーの小屋とか毛布とかゴハンの皿とか愛用のドッグフードとかそういったもんを、既に全部クルマに積んでもってきておられたのです。よっぽどダメじゃなかったら、そのまんま、置いてくおつもりだったわけですね。それだけせっぱ詰まっておられたのだということはわかりますが……。

「うひゃー、こころの準備が」

 妻は焦りました。なんだか、イヤです。いずれそうなることはわかっていたけど、でも、もう少しは時間の余裕が欲しい。これじゃ、まるで、お見合いしたその日その途端に、イキナリ「では、よろしくお願いします」家財道具みんな背負っておしかけ女房されちゃった、みたいじゃないですか! 姑は困る。姑はむくれたい。でも(ああ、イントク)むくれたりしたら、動物大好きの優しい旦那さんに、冷たいオンナだと思われてしまいそうで……グッスン!

 でもねー。

 その直後、ウチは旅行に出かける予定があったのです。チャイ&プーは目白の彼の両親に預ってもらう約束でしたが、ちょっと連絡がうまくいかなくて、まず一泊だけ、お馴染みの動物病院に預ってもらうことになっていたのですよ。

 かくて。

 マミーは、十年暮らした家を離れたその途端、まず一泊は軽井沢の山の家に、次の一泊は動物病院に泊り、かつてただの一度も見たこともないオバサン(主人の母)に迎えに来られて、ただの一度も入ったことのないマンションの十二階に連行される、……という苛酷な目に合うことになってしまいました。また、この間じゅうずっと、まだ気心の知れない、二匹でとっても関係の完結している、とりすましたチビ犬二匹と一緒くたなのです。

 マミーだって、大変だったと思うの。いったい、どんな気持ちだったでしょう。コトバで説明してやることなんてできませんから、ただ、じっと耐えていてもらう他なかったわけだけれど……。でも、もし、あたしがあの時のマミーだったらと思うと、ゾッとしちゃうよ。

 一見優しそうな(?)山の家の夫婦にちょっと安心して、ああ、これからはこのひとたちを頼りにしなければ、と心を固めたかと思うと、消毒薬臭い、悲鳴臭い(犬の鼻は、そこにかつていたことのあるヨソの犬が、どんな感情を持っていたかを敏感に嗅ぎわけると思う。別にイジワルをしたわけじゃないとしても、注射されたり、手術されたり、大好きな飼い主さんと引き離されたりした数多の犬たちの気配の残滓が、病院には、どうしたって濃厚に漂っているハズである)場所にウムを言わさずつれてゆかれ、狭いケージに突然おしこめられ、ひと晩するってーと、また、全然しらないヒトがやってきて……気の休まる間がないではないか。明日をも知れぬ我が身を憂いて、お星さまのバカ、なんて泣きベソをかいたに違いない。

 でも。

 マミーは、ほんとにほんとに、ほんとに、おとなしくって、お利口で、辛抱強くて、とってもいい犬だったです。手塚治虫さんの描くところの、少し幸せの薄い女のひとみたいな目をしていました。ツブラで大きくて真黒で、でも、とても悲しそうなのです。ムダ吠えもしないし、ゴハンにがっつきもしないし、とにかく、遠慮深いのです。

 そんなに、そんなに、いい犬だったのに。

 でも、きっと、つらかったでしょう。寂しかったでしょう。

 彼女は、うちの暮らしには、あんまり、馴染めなかったんじゃないと思うのです。

 例えば。

 マミーはずっと、犬小屋で、お庭で、繋がれて飼われてたのでしょう。彼女にとって、人間の暮らしている家の中は、ずっと、タブー・ゾーンだったわけです。だから、入っていいんだよ、どこでも好きなとこで寝ていいんだよ、って言っても、なかなか玄関から中に入れない。入ってもモジモジ落ち着かない。『やっちゃいけない』ってずーっと、十年も(人間だったら、四十年とか五十年に相当するくらいの間)禁止され続けていたことを、今度は、強要されちゃうわけ。ストレスがかかんないわけがない。かといって。

 チャイ&プーだけ家の中で、マミーは外で、なんてことはできません。ややこしくって大変だし、第一、ウチの周りは、強力な野良ギツネや野良ネコのテリトリーなのです。夜中に彼らと闘ったりすることになったら、都会育ちのマミーは、殺されないまでも、大怪我をさせられてしまうに違いありません。

 で。しょうがないので。しばらくの間、居間の片隅に、彼女の犬小屋をセッティングして(!)暮らしました。邪魔臭かったことは言うまでもありません。

 やがて、マミーも、たぶん、不承不承なんだろうけど、チビたち同様、家の中で暮らすことを納得するようになりました。他の犬たちと一緒に、ベッドにあがって眠るようにもなりました。ジャンプはあんまり得意じゃないので、ベッドに乗るのがひと苦労って感じでした。ほんといって、あそこで、落ち着いていたのかどうか、よくわからない。他の犬がそうしてるから、そうしないとイケナイと思って、そうしていたのかもしれない。

 ゴハンも違ってました。「この子は何が好物ですか?」尋ねたら、元飼い主さまは、「なんでも喜んで食べますよ。でも、トウフはあんまり好きじゃないな」とおっしゃいました。それでピンときましたが、この元飼い主さまのお宅では、人間のゴハンの余りをけっこう食べさせていたらしい。たとえば、スキヤキをやった残りのナベをこそいで食べさせる、なんてこともなさってたらしい。

 ということは。……あのう、ひとのなさったことをクサすわけじゃないんですけど。でも。スミマセン。はっきり言って、それはあんまり犬にはよい食生活ではなかったのではないかと思います。長年に渡って、塩分の取りすぎであり、カルシウムなどの必要栄養が充分に取れてない可能性が高い、ということなのであります。

 お散歩のしかたにも差がありました。はじめ、ウチでは、マミーが、あまりお散歩にゆきたがらないのは、めんどくさがりなのか、さもなかったら、家から出されるとまたどっかにやられちゃうのが怖いのかと思っていましたが……どうも、そうではない。正真正銘、運動そのものが苦手でキライらしいのです。おそらく。たぶん。これまで、あんまり、しょっちゅう散歩をしてもらっていないのではないか。小さい頃から、そんなに運動をしなければ、骨も筋肉も発達しません。カラダが運動向きにできてなければ、運動はメンドウです。好きにはなりません。

 ……うーん……どうしても責める口調になってしまうな。いや、あのね、よその犬だったら、ウチが文句を言う筋合じゃないです。よその犬はよそのお宅のやりかたで飼われてるのが当然なんだ。でも。この子は、ウチの子になっちゃったでしょう。

 テトテトと、ヨチヨチと、あまり上手に歩けないマミーを見るとねー。……犬ってのは、やっぱり、走るのが生命、みたいな動物ですから。そりゃ、血統的に、ヌイグルミみたいに、家でじーっとしてるほうが好きな犬種もありますけど。彼女の場合、由緒ただしい雑種なんですから。もっと歩けて、歩くのが好きでいいはずだ、とどうしても思っちゃうというのに。

(そもそも、わんこを庭で繋いで飼うというのに、わたしは賛成できません。すみません。それがタタミや障子をしょっちゅう取り替えてキレイに暮らす日本で長いこと常識だったのはわかってます。でも、繋がれっぱなしでめったにかまわってもらえない、かまわれるというと何かして叱られる時だけ……みたいなのだと、どうしても凶暴な性格になりやすいと思います。番犬としてはそのほうがいいのかもしれないけど、可愛がるっていうのとは違うよね。最近は、洋式のおうちが増えていたせいもあってか、おうちの中で家族として人間と一緒に暮らしてるわんこ、クルマに乗っけてもらってどこでも連れてってもらえてるわんこが増えてきて、とても嬉しい)

 でマミた。どうもイヤそーなんですよね、歩くのが。ちょっと坂道を登りおりさせると、すぐにヘバッてしまう。けど、うちの周りってのは、これがまた全面的に傾斜地だし。

 歩くのに慣れてない、歩く筋肉や歩く脳味噌を鍛えてこなかったんだなぁって感じ。歩く喜びを知らない。わんこなら当然の喜びを……。

 何をかくそう、ウチは親バカで、可愛いチャイ&プーの喜ぶ顔見たさに、雨の日でも雪の日でも必ず毎日、三回から四回(朝起きてすぐ、昼御飯の頃、夕御飯の頃、夜寝る前。以前は、昼御飯と夕御飯の間に一回、にしていたんだが……それだと、我慢できなくなっちゃうヤツがいるもんで。いまは、よほどのことがないかぎり、四回ですね)時間にして合計二時間程度、距離でいうなら、たぶん最低でも五六キロは歩かせる習慣だったりするわけです。

 月に一度や二度は、クルマのこない、できれば他のひととも滅多に出くわさないような深い山の中に連れていって、綱を離して、自由にダーッと走らせたりもします。チャイ&プーはまだ小犬の時に拾ったので、最初はほとんど走れませんでしたけど、このスパルタ(?)教育の成果あって、全力疾走なんかウサギなみに速いし、持久力もそこそこあるし、切り立った崖みたいなとこでもピョピョーンと駆けあがれちゃう、実に頑丈で健康で、遊び好きのわんこたちなのです。

 アシコシや心肺機能を鍛えていない中年のオバサン犬、おまけに、ずっと一匹飼いだから、遊び相手ととっくみあいなんてこともあんまりやったことがないだろうマミーちゃんが、ウチの元気の溢れたチビたちと同じことをイキナリやらされたら、そりゃヘバりますよ。

 でも。それにしても。

 彼女の歩きかたは、なんかとってもヘンでした。すぐよろけます。ヨタつきます。ちょっと歩くと息があがる。いやに疲れやすい。いくら洗ってやっても毛ツヤが悪い。

 で。

 動物病院で検査してもらったみたところ、彼女は、既に全身にいろいろと不具合を生じておりました。腎臓が悪く、ふとりすぎで、糖尿の気があり、おまけにフィラリアが心臓にまで達していたのです……。

 悲しいよう。

 あたしは悲しかったです。

 元飼い主さんは、マミーを、ほんとにほんとに可愛がっておられました。大事に大事にしておられました。愛情、いっぱい、そそいでおられました。できることなら、けして手放したりしなかったでしょう。それはよくわかります。でなきゃ、あんなに必死に、貰ってくれる人間を探したりなさらないだろうし。うちにも、たいへんに気を使ってくださり、しょっちゅう宅急便で、マミーの好物と、わたしども夫婦の食べるものとかを送ってくださったりもしました。アタシがマミーの写真を撮っておくると、元気そうでうれしい、子犬のオトモダチができて幸せだ、ととってもとっても喜んでくださいました。

 ……ううう、責める口調をお許しください。でも、そんなにそんなに愛しているのに、どうして? って思いました。だったらなんでもっとわんこの喜ぶようなことしてあげなかったの? こんなにカラダが悪くなってちゃってるのに、どうして全然気づいてあげられなかったの? それって、やっぱり、ちょっと、身勝手だし、気配り不足、お勉強不足じゃなかったの、と思ったりしちゃいます。

 ウチでは、大慌てで、病気犬用ドッグフードを買ってきました。ヒルズのサイエンス・ダイエットには、そういうドライがちゃいとあります。でも、これまでの人生(いや、犬生)でずーっと食べてきたものと、あまりにも違うゴハンを、マミーが喜ぶはずはありません。一匹飼いだったら、たとえば二・三日絶食させてでも、無理やりそいつを、そいつだけを食べるようにさせることもできなくはないけど、なにせウチでは、三匹同じ条件で家の中で放し飼い、でしたから、他のわんこたちにだけゴハンやってマミーにやらない、なんて器用なことはできません。

 お散歩もね、マミーにあわせた程度の軽い運動では、チビたちが満足しません。せいぜいできるのは、アタシと旦那が両方ついていって、旦那はチビたちと遠くまでゆく、あたしはマミーが疲れたら、そこでユーターンして、ゆっくりゆっくり家まで戻る、そのくらいのことです。それでも(何せ、毎日三・四回ですから)ふたりとも暇を作れるとはかぎらない。ひとりで三匹連れてかなきゃならない時は、どっちにも妥協させざるを得ませんでした。

 で。

 やっぱりね……元の飼い主さんも、ウチの夫婦も、それぞれに善意で、どっちも、そのひとたちにできるかぎりのことをやったとはいえ……とっても残念なことですけど……十年もある一定の環境で生きてきた犬をそれからヨソにやるというのは、ひどく残酷なことだったのではないかと、いまは、反省しちゃうのです。

 その証拠のように。

 ウチにきて、僅か二ケ月。たった二ケ月で、マミーは死んでしまうのです。

 

 楽しい時もありました。みんなで雪解け道をピクニックに出かけた、ある晴れた早春の一日。すぐにくたびれちゃって立ち止まるマミーをゆっくり待ちながら歩きました。小犬たちはあたりを激しく駆け回り、旦那とアタシは暑くなって、セーターを腰に結わえました。森の中のぽっかり開いた場所で、タータン・チェックのマットを広げて、マミーとアタシは残ってのんびりお昼寝をし、旦那とチビたちは、もっと奥まで、キジとかがいないか探検しにゆきました。そんな日もあった。

 何度か、何度も、そんな日を過ごしていたら、きっと丈夫になって、長生きしてくれるだろうと楽観していたのに。

 いい具合に痩せてきたな、これで筋肉がつけば、丈夫になるんだけどな、と思っていた矢先。マミーは突然、食事を止めてしまったのです。

 吐き気が激しく、ゴハンが食べられないのです。水さえ、ろくに飲みません。血液検査をしてみると、白血球がものすごく多く、糖尿がいよいよ厳しくなっていました。ひと晩、動物病院でテンテキをしてもらって、少し元気になりましたけれど、人間なら、もう人口透セキの装置にかけなくちゃ、ぐらいの状態になっていました。犬用人口透セキ装置はまだこの世にありません。

 せっせと水を飲ませ、どんどんオシッコをさせるぐらいしか、してあげられることがありません。なのに……マミーは、とにかくオシッコを我慢してしまう犬なんです。家の中では、けして、けして沮喪をしませんでした。でも、もう体力がなくてフラフラなので、お散歩になんて、前よりもっと、行きたがらないんです。

 行きたがらないけど、でも、家の中では、オシッコをしないわけだから、無理やり抱っこして、外に連れてってやって、オシッコをさせるしかありません。抱っこをすると、グッタリ重たいからだのどこかがひっぱられたりでもして痛いのでしょうか、それとも、ただ宙に浮かされるのが怖いのでしょうか。ひーい、ひーい、って、すごい声で鳴くんです。でも、抱っこしないと、外にいけないし、外にいけないと、オシッコができないから。ごめんねごめんねって言いながら、無理やりに抱っこをして、連れだしました。毎日。何度も。

 この頃には、もう、とてもベッドにあがることなどできませんから、寝室のアタシたちが寝てるそばにタオルを敷いてやって、そこで寝かせるようにしました。すると、ある晩……何か異様な気配がしてアタシが目をさますと、マミーがいないのです。どうしたのかと寝室のドアを一歩出たとたんに、すさまじい匂いがしました。

 マミーは、寝室から、一番遠い居間の隅でへたりこんでいました。あたしがそーっと近づくと、ひーい、ひーい、と鼻を鳴らしました。彼女のまわりじゅうに、直径一メートルくらい、赤黒い、まるで血みたいな、水っぽいウンチがでろでろにこぼれて散っていました。

 たぶん、マミーは、夜中に突然苦しくなって、それでも、なんとか、いちばん迷惑のかからなさそうなところまで這っていって、そこで力が抜けてしまったのです。マミーの悲鳴は、「ごめんなさーい、ごめんなさーい」と聞こえました。こんなになっちゃった自分を「やだー、やだー、恥かしいー」って言っているみたいでした。

 そういうことが、もうあと、二回ほど、あったかな。

 旦那は獣医さんに、テンテキのやりかたを教わってきました。留置針という、人間でも使いますよね、あの、蝶ちょみたいなのがついた針を毛刈りした前肢の静脈にさしておいてもらって、そこにテンテキの管を繋げればいいのですが。犬ですから、どうしても、もがいて、いやがって、ジャマな管を取ってしまいます。犬の皮膚というのは、人間の皮膚より、もっとグニャグニャしていますよね。だから、ちょっと動いただけで、すぐに針が抜けてしまうんです。

 一日に八時間とか、十時間とか、テンテキをしました。栄養というよりは、もう、ただ、最低必要な水分を取らせるためです。テンテキをすると、カラダの中を水がまわって、老廃物を流します。すると、もう一刻も我慢できないマミーは、不本意ながら、すぐに洩してしまいます。だから、バスルームの洗い場のところに、タオルを敷いて、そこに寝かして、テンテキしました。

 そうやってテンテキをしてる時、たまたま旦那のいない時に、マミーの針が外れてしまったことがありました。血がいっぱい出て、焦ったアタシは、なんとかしようとしたのですが……。怖いのと、不器用なのと、ひーいひーいって言われてパニックしちゃうのとで、なかなかうまく針をさし直してあげることができません。何度も何度も、針をさしかえたマミーの静脈は、腫れて弱くなっていて、素直に針がはいっていかないのです。最初、生き物のカラダに針をさすなんて、イヤでイヤで力が入らなかったけれど、でも、そうしてあげないと、水が足りなくなってしまうんだから。思い切ってやってあげるのが、マミーのためなんだから。アタシができないと、いつもいつも旦那がやってあげなくっちゃいけなくって、そうすると、不便だから。だいじょうぶ、きっと、できる! そう思って、何度も何度もトライしました。やっとうまくいったかなと思うと、ちゃんと先が血管に入ってないらしくって、マミーの足がぱんぱんに膨れてしまったりするんです。あわてて、テンテキをとめて、もう一度やりなおし。……またぱんぱん。もう一度やりなおし……。

 結局、旦那が帰ってくるまで、二時間だかそこら、テンテキとマミーと、闘い続けました。へんに挑戦心起こさないで、旦那をまってれば良かったんですよね。

 かくして。

 一日の大半をテンテキに使うようになっても、まだ何日かは、テンテキをしてなくていい時間もありました。長い長いテンテキが終わると、マミーは、ああ、やれやれドッコイショ、って感じにたちあがり、よろめきながら、自分の好きなところまでいって、そこで、倒れ込むようにして座り、ウツラウツラ眠ったりしていました。

 けれど、やがて、とうとう、ほんとうに腰があがらなくなりました。どんなに努力しても、全く立つことができないのです。

 この頃には、もうほんとうに痩せていて、バス・ルームの硬いタイルの床では、タオル敷いたぐらいじゃ、なんだかあんまり痛そうでした。持ち上げて姿勢をかえてやろうとすると、痛いのか、またひーいひーいと鳴くのです。でも、ずーっと、同じ姿勢で横たわりっぱなしじゃ、下になったほうばかりウッケツしてしまいます。圧迫されて、痛くなってしまいます。そっと、手をあてがって、顔をもちあげてやると、ちょっと楽になるみたいでした。そうしてあげると、あのツブラな目をあけて、ありがとう、って言うみたいにニッコリしてくれるんです。あたしは、マミーの顔の下に片手を敷き、片手で、背中のへんを、そーっとそーっと撫でながら、小さな声で話し掛けたり、じーっとマミーを見てたりしました。すると、安心するのか、穏やかな顔になって、時々、すうっと眠りました。眠っている時が、いちばん幸せみたいだった。だから、ほんとうに、いよいよダメに違いなかったのです。

 そんな時、うちのチビ犬たちは、嫉妬もしないのです。おかあさんが、ほかの子にかかりきりだからといって、ふくれることもないのです。じゃれて来ることもないし、二匹であんまりはしゃいだりもしないのです。なにか、重大なことが起こるらしいというのを敏感に感じて、邪魔をしないよう、静かにしていてくれました。

 旦那はまた病院にいって、安楽死用のお薬をもらってきました。テンテキに、それをいれると、ものの数秒で、痛くも苦しくもなく、すうっと永遠に眠ってしまえる薬です。

 最後の二日間、マミーは四六時中、バスルームに横たわったままでした。アタシたちは、グッタリと辛そうな彼女のそばで、そーっと、彼女に水がかからないようにお風呂にはいったりしました。

 もうすぐ週末で、おツトメの元飼い主さんも、来ることができる日になるはずでした。それまで、なんとか保たそうとしたのですが、なんだかそれも、可哀相です。そして、いよいよ、意識があやしくなってきました。目がドンヨリして、よく見えていないみたいです。息もカラダも、変な匂いがしました。きっと、死臭っていう奴なんじゃなかったでしょうか。

 残念だが、週末までは保たないかもしれないと連絡すると、翌日、元飼い主さんたちが、おツトメを休んで、飛んできてくれました。

 まだ、ちゃんと、わかったみたいです。大好きなおかあさんとおにいさんに逢えて、マミーは嬉しそうにしっぽをふりました。甘えた鼻声もだしました。あのテンテキと犬の匂いのいっぱいになったバス・ルームで、どのくらい、元家族だけにしておいてあげたでしょう。おにいさんが、お願いしますって言って、うちの旦那が、例の薬をテンテキに入れました。すると……ほんとうに、十まで数えるまでもなく、マミーは動かなくなったのです。

 元飼い主さんたちは、マミーを連れてかえりました。動物のお墓にいれてあげるって言ってました。

 アタシは……。

 アタシは……。

 そのひとたちがいなくなってから、少し泣きました。いいえ、ほんとうは、たっぷり大声で泣きじゃくりました。

 死んじゃうなんてかわいそうだって思ったっていうより、なんか、やたら腹がたってしょうがない、みたいな気分で。胸が沸騰して、頭が煮立って、なんか、旦那に、わめきちらしたりもしたような気がします。彼は、泣きませんでした。少なくとも、アタシの見ているところでは。とても静かで、無口でした。淡々と、いつものように過ごしていました。そういうひとなんです。

 いま思いかえすと、そんなに怒る理由なんてないんじゃないかと思います。つまり、醜い嫉妬だったのかもしれません。ずっと、心をこめて面倒をみてやってたのに、最後の最後に、マミーがまた、あの元飼い主さんの犬になっちゃった、みたいな感じが、悔しくて。

 わたしのほうがちゃんと可愛がってあげたのに、みたいな。

 でも、それは違うよね。マミーは、マミー自身は、自分のこと、最初から最後まで、ずっと、あのかたがたの犬だと思ってたみたいだから。ウチのことは、ちょっと長いこと預ってくれてるヒトタチ、ぐらいに思っていたんじゃないかな。

 だから、あの子は、最後の瞬間、大好きな家族がきてくれて、うんと抱っこしてもらえて、幸せだったと思う。もっと言っちゃえば……ウンチ洩したり、ひーんひーんって痛がって泣いたりの哀れっぽい自分の姿を、そのひとたちにあんまり見せずにすんだことを、マミー自身も、喜んでたかもしれないと思う。その、幸せの、お手伝いができたことを、アタシたちは、喜びと誇りに思いましょう。

 それに。いくら、楽にしてやるためとはいえ……がんばってテンテキしてれば、もう少し保ったかもしれないものを、まるで、スイッチでも切るように、いま、死なせよう、って決断をするのは大変なことです。その決定を、辛い覚悟を、元飼い主さんは、しっかりと請け負ってくれました。実際に薬を入れたのは、ウチの旦那だったかもしれないけど……あの時、彼氏は、お医者さんみたいなものでしたから。獣医さんの資格は持ってませんから、いわば、動物界のブラック・ジャックだったんだけど。そして彼は……ほかの誰かに託すのでなく、そういうことは、自分自身ですることを選択するタイプの人間ですけれども。

 ほんといって、彼は、ウチの敷地になきがらを埋める穴を掘ろうかとも思っていたので、連れてかえってくださったのも、シゴトの手間が省けたって言えば、言えないこともないんですけど。

 うちに残ったのは、使うもののいなくなった小屋と、ネームタッグだけでした。ネームタッグは、ペット用のはいいのがないので、池袋西武の表札コーナーで、金属のプレートに、MAMIE HATANO、と、もしか迷子になった時用のうちの電話番号、とを彫ってもらっていたものなのです。これを、ウチにくる時とに新しく買ってもらったらしい、素敵なピンク色の首輪に、しっかり括りつけてあったんですけど……旦那は、元飼い主さんたちが来る前に、外しておいたのです。そういうひとなんです。

 小屋は、犬さんのいる知合にあげました。タッグは……彼は捨てたんです。ただ、もう、無雑作に捨てたのを。実は、アタシ、こっそり拾ってしまってあります。

 

 ……で。

 ふう。

 なんだかすっかり暗くなってしまいました……スミマセン。ルイの話に戻ります。