yumenooto uminoiro 2016.7.11 |
Mahane 1 わたしが住んでるこの町は日本でいちばん海から遠い。 星海町§ほしうみまち§というのに。 町の面積のほとんどが山で、山の中に湖があって、晴れた晩には満天の星がうつりこむ。星海湖だ。大昔、火山が噴火してできたもので、ほんとの海じゃない。だから、なめてもしょっぱくないし、潮の満干§みちひ§もない。 わたしの部屋の窓から、この湖がよく見える。 景色は水と空の境目でおりかえし、お天気や季節でまるでちがった顔をみせる。わきたつ雲、横切る鳥。どんな瞬間も、その時かぎり。 同じことは二度と起こらない。 窓辺に座って外を眺めていると、時間を忘れる。壁も屋根もベッドも消えて、ふわふわ宙に漂いはじめる。わたしはゆったり空に浮かび、星を泳ぎ、湖をくぐり、月の光に導かれて夢をさまよう。 万華鏡のような世界の中で、ぜんぶとひとつになる。 このロケーションと、パパの作る料理のおかげで、うちはけっこう繁盛している、らしい。 オーベルジュ・ル・ヴェルジェ。オーベルジュというのは、料理が美味しいホテルのことだ。客室は三つ。たった三つだけど、どれもゆったりしたスイートタイプ。 お客さまはいろいろ。ゆっくり何日も滞在していくかた。イースターやハロウィーンに必ずいらっしゃるかた。カップルでおいでのかた、お伴のかたをつれたお年寄り。有名なひとも珍しくない。テレビで怖い悪役を演じていたおじさまが、ある日突然、くだけた服装でそこいらにいて、パパの料理を食べたり、うちの犬を抱いていたり、ママと話しこんでいたりする。 でも、うちは、ぜんぜんまったく、少しも有名じゃあない。 看板も、広告も出してない。テレビや雑誌に紹介されたことも一度もない。知るひとぞ知る? 秘密の隠れ家? 家がこうで、ものごころついたころにはもうそうで、ずっとそうだったから、わたしはずっとぜんぜん別に何とも思っていなかったのだけれど、中学ぐらいになるとさすがにじわじわ感じてきた。 うちって、変わってる。 ふつうの家族じゃないし、ふつうの家じゃないし、ふつうの商売じゃないし、ふつうのパパやママじゃない。 わたしはただのふつうの高校生一年生な…はずなのですけれど。 時々、水の中の一滴の油のような自分を感じる。 この年頃なら、みんなそうなのかもしれないけど。 ドレッシングみたいに、ちょっとの間なら、うまく混ざって知らん顔しておくことができる。みんなと一体化して、楽しくやれる。どこもへんじゃありませんよー、みたいな顔をしていられる。 でも、やがてはじかれて、ぽつんと分離してしまう。 分離しないようにしようと思うと、せっせとシャカシャカ振っておかないといけない。 ちなみに、パパとママがここで、こんなふうに暮らしているのは、たぶんここなら癒恵§いえめぐ§がじゅうぶんよく育つからだ。あと……そう、そう、そうだった。そもそも、その話をしていたんだった! きっと、
海から遠いから、
……じゃないかと思う。 だって、わたしは、海に行ったことがないから。 行ってみたいって、もうずっと前から思っているのに。 ☆ この四月から、わたしは地元の公立高校に通ってる。四分の一ぐらいは星海南中学校のときにいっしょだったひとたちだから顔も名前もわかるけれど、進学してはじめて知り合った子のほうが多い。 誰と仲良くなれそうか、誰には近づかないほうがいいか。みんな、ひそかにさぐりあう。 春の学校は混ぜたばかりのサラダ・ドレッシング。おかげで、わたしみたいな子も、いつになく他人と近い。 きのうも、居合わせた数人で机をよせあってお弁当を囲んでいた。たまたま、海の話になった。 新潟とか伊豆とか、千葉とか湘南とか、グアムとかシンガポールとか、みんな、いろんな海のことを話してた。行ったことがあるところ、思い出のじまん、テレビで見て、いつかぜひいってみたいと思ってるとこ。わたしは耳をダンボにして、胸をどきどきさせていた。だって、海! すると。 新田優ちゃんという子がふとこちらを見て、あれ? という顔をしたのだった。わたしが、ぜんぜんまったく発言していない、ということに気がついてしまったらしい。 「星野さんは?」名前のとおり、こころやさしいひとである優ちゃんは、にこにこしながらたずねた。「どこが好き? どんな海に、行ったことがある?」 わたしは優ちゃんのくったくのない笑顔をみつめたまま、二度ばかりまばたきをしたと思う。 ああ。そうか。優ちゃんは知らないのだ。わたしが「ちょっとへん」なうちの子で、一滴の油だということ。 いや、もしかすると、正義感のつよい優ちゃんは、そんないじめられっ子みたいなのがそばにいることが許せなくて、さりげなく、抗議してくれているのかも。わたしをちゃんとみんなの仲間にいれようとして。 テキトーにごまかす手もあった。そのほうが良かったかもと、あとで思った。でも、わたしは春ののんきな気分ですっかり油断していて、彼女の質問はあまりに鋭かったので痛いとすぐには気づかなかった。だから 「ない」 うっかり、正直に、言ってしまったのだ。 「わたし海に行ったこと、ないわ。一度も」 えええええっ! と、女子集団は、ぜんいん叫んだ。何年か前までやっていたお昼の長寿番組でめがねのおじさんがそれじゃああしたのゲストを紹介してくださいといつものお約束の発言をしたときみたいに。 「マジ?」 「いちども?」 「海水浴じゃなく、ただ、砂浜を歩いたとかも、ないの?」 「ええ、ないわ」 わたしはこたえた。もしかして、とてもまずいことを言ってしまったのかもしれないとそろそろ思いはじめながら。 「もちろん海がどんなものかは知ってるわよ。でも、行ったことない」 クラスメイトのみなさんは、まさかというように目をむいて、あきれたようにあんぐり口をあけて、それから、口々にいった。 「うっそー!」 「ありえない」 「ちっちゃいころにも、つれてってもらわなかったの?」 「ディズニーシーだって、海だよね」 「お台場とか、水族館とかは?」 「うちらの小学校は、修学旅行、沖縄だったけど」 あんまり言われるので、わたしのほうがびっくりした。 海にいったことがないって、そんなに、へん? ありえないほど、ふしぎなことだったの? ……知らなかった! もしかして、それって、はずかしくて、口にしちゃいけないようなことだったんだろうか。なんだかどぎまぎしてきた。顔が赤くなったかもしれない。 「へんなの。星野さんちって、すごくお金持ちっぽいのに……ウッ」真崎黄菜ちゃんがいいかけて、となりの須和野静香ちゃん(←星海南中出身)に机の下で蹴られるか靴をふまれるかした。ばか、黙ってなさいよ、って。でも、ほかの子がつづけた。 「ほんと。星野さんち、海外旅行とかばんばんいってそう」 「羽田とか成田とか関空とかみんな海沿いだし」 「Hawaiiなんて毎年いってますわー、なひとかと思ってた」 ねーっ、ねーっ。と顔を見合わせてるひとたち。 そんなことない、わたしはぶんぶん首を振る。 「……へえ、そうなんだ。みんな、あるんだ……海にいったこと。いいなあ」 なんだか、どんどん悲しくなってきた。みじめになってきた。 みんな、ある。 わたしだけ、ない。 油だ。 日本でいちばん海から遠い星海町に住んでいたって、ふつうの子は、海にぐらい、せめて一度はつれてってもらったことがある。 「……きっと、母のせいだ」 わたしが言うと、中学や小学校がいっしょだった子たちが、ぎくっ、とだまりこんだ。優ちゃんや黄菜ちゃんたち、知り合って間もないひとは、ぽかんとして、わたしを見た。 そういうのみんなこまかく感じていたけど、気にしなきゃいけないってわかっていたけど、かまっていられなかった。言いたくて言えなかったことが、どんどんこぼれてしまった。 「ちっちゃいころ、わたし、母は、人間じゃないと思ってた。もしかしたら人魚姫なんじゃないかしらって。だから、きっと、海にいけないんだ。だって、海に行ったら、ママはほんとうの姿にもどっちゃうから」 気がつくと、涙声になりそうになっていたから、あわてて話をしめくくった。 「だから、海に行きたいなんて、言えなかった」 みんな、うんうん、そうだね、わかるわかる、とうなずいてくれた。 母は、めだつ。 このあたりで、彼女を知らないひとなんていない。 だって、母は――レイラは――ものすごく§五文字傍点§きれいだから。 娘のわたしから見ても、彼女のきれいさは、ふつうのレベルじゃない。人間ばなれしてる。 真っ暗な夜のどこかに灯がともっていたら、ひとはそこを見る。どうしたってそこに惹かれる。母の美貌はそういう種類だ。あきらかにちがっていて、めだつ。魅力がある。さからいようがない。ひとをつかまえ、たぐりよせる。 誰かが、母を「鬼のように美しい」と言ったことがある。なんだかへんなたとえだけど、みょうにピッタリくる。 そんなひとが身近にいて、毎日顔をあわせているわたしの身にもなって欲しい。その顔に、にこにこされたり、叱られたり、ムッとされたりしながら育ってきたのだ。 「星野さんのおかあさんって、ソウゼツにきれいだもんね」やさしい優ちゃんがため息まじりにいった。「わかる。あれじゃあ、人魚姫かもとか思っちゃうの無理ない。しかも……ごめんね、ちょっと、こないだ聞きかじったんだけど、……あのひと、星野さんの、ほんとのおかあさんじゃないんだって? だとしたら、遠慮とか、そりゃあ、あるよね」 「……ん……」 わたしは、食べかけのお弁当に目をおとした。 この肉団子や玉子焼きをつくって、ここにつめてくれたひとの話をしている。 遠慮? どうなんだろう。よくわからない。ものごころついた時から、パパとママと三人だった。ずっと三人で暮らしてきた。これがわたしの家族だ。ほかにはない。ほかのありかたを知らない。 ほんものだとか、にせものだとか、だからどうこうって気持ちがあるのかどうか。じぶんでもよくわからない。 それより、わたしが養女だってこと、まさか町じゅうに知れ渡っているの? 「ちょっと、ねえ、もうこの話よさない?」吉田真紀ちゃんが、言った。「星野さん、こまってるし」 「じゃ、行こう!」 とうとつに、優ちゃんが宣言した。 なに、どこに? と、みんな、優ちゃんを見た。 「だから、海」 みんなが驚くので、優ちゃんはますます得意そうににやっとした。 「それには、まず、放課後、アーケードに行く! ほら、旅行代理店があるでしょ。パンフレットなら、タダでもらえるじゃない。みんなで、どの海がいいか、行きたい海をえらぼうよ!」 「わー、それいい!」 「行く先を決めて、貯金しよっか」 「バイトっしょー!」 「夏休みに、みんなで行こうか」 「んだんだ。星野マハネを、海につれていくべし!」 ☆ もうじき、誕生日がくる。 わたしは十六歳になる。 こないだパパが言った。なんでも欲しいものを言ってごらん、プレゼントするよ、って。 遠慮しなくていいのよ、って、ママも言った。高すぎるとか、無理かもと思っても、いうだけいってみて。マハネちゃんのためなら、パパもママも、うんとがんばっちゃうから。 それで、つい、油断した。 優ちゃんたちとみんなでキャイキャイ大騒ぎしながら選んだパンフレットを、わたしは、家に持ってかえってしまったのだ。ハワイにグアム、サイパン、パラオ。ロタ、ココス、済州島。セイシェル、モルジブ。 ありったけ、ずらっと並べた。 食卓にあふれる、なんてすてきな海。きれいな色。 おまけに、はしゃいだ感じで、言ってしまった。 「あのね、お誕生祝い、海に、つれていって欲しいんだ」 ひゅうっ、と、へんな笛のような音がした。 ママの、のどがたてた音だった。 お夕飯のキャセロールを持ってきて、立ち止まった。両手にはめた鍋つかみのあいだに、盛大に湯気があがってた。そんなふうに動かないでいると、彼女はやっぱり、よく出来たつくりものみたいだ。 人間そっくりだけど、そうじゃないもの。 海にかえれない人魚姫。 しまった、って気持ちが、背骨の中をつめたい水になってはいあがる。 浮かれてた気持ちから空気がぬけて、みるみるしぼんで、しわしわになる。 「……ごめん! うそ! いまのなし! 調子にのった。ぜいたくすぎるね。だめだよね!」 わたしは忌ま忌ましいパンフたちを重ねてまとめて、背中にかくした。 「ごめん。ほんとごめん。ちょっと思いついたから、言ってみただけなの。お願い。もう気にしないで。忘れて」 ああ、どうしよう。ママまだ黙ってる。やっと動きだしてくれたけど。食卓にキャセロール置いてくれたけど。そのまま、なにもいわない。わたしと目をあわそうとしてくれない。蝋人形みたいな顔色。 追い詰めてしまった。 後悔がざらざらのやすりになって胸をこする。 あー、ほんとにもう、なんでこんなことしてしまったんだろう? してしまったら、そのあとどうなるか、なんできちんと考えてみなかったんだろう。わたしのばかばか。 やつあたりだと思うけど、優ちゃんやほかの子たちのことを、ちょっとうらんだ。あんたたちがあんなこと言わなきゃ、思いつきもしなかった。こんなひどいことに、ならなかったのに。 ともだちに焚きつけられて、なに浮かれてたんだろう、わたし。よそのうちがどうだろうと、うちはうちで、わたしはここんちの子。ここんちにしか、居場所がないのに。 わたしには、パパとママしかいないのに。 海になんか、一生いかなくていいのに。 ☆
おはようをいって、ごはんを食べて、歯磨きして、髪をとかして、制服をチェックして。いつものとおり、いつもの朝。いってきます! って玄関を出た。 もより駅は、鹿流§かる§という。静かなほとんどなにもないところだ。そうだった。ついこないだまでは。 由緒正しい酒造会社と、製材所と、山のほうに何軒かのペンションがあるぐらい(うちもその範疇)だったのだけど、二年ぐらい前に、道路がやけに広くてきれいになったなと思ったら道の駅ができた。野菜や花やお菓子を売っていて、週末なんかは他県ナンバーの自動車がたくさん集まる。展示場、イベントスペース、お蕎麦やおだんごを食べさせてくれるフードコートもある。フリーマーケットには、古道具や手作り品がならんでいる。 丘がひとつきれいに整えられ、芝生と花でかざられて遊歩道やアスレチックもできて、あたり一帯が明るくなった。お年寄りや、小さなこども連れのおかあさんがのんびりすごせる。 もちろん朝早くは、どこもあいていないけれど、通り抜けるひとがおおぜいいる。山側からだと、ここを通り抜ければ駅がぐんと近くなった。それまで、三角形の二辺を大きく直角にたどって歩くしかなかったところを斜めに横切れるにようになったから、ずいぶん得だ。 いつものとおり、すたすた歩きすぎようとしたところで、ふと、目がとまった。 謎のエスニック屋さんの店先に、飾られたポスター。 ずっとそこにあったんだろうに、はじめて気付いた。 海だ。どこだかわからない海。とくべつに透明なブルーグリーン。宝石みたい。 すごくきれいだ。 海の色って、どうしてこんなに胸をきゅんとさせるんだろう? まるで、子猫を抱っこさせてもらったときみたいな気持ち。嬉しいのに、ハッピーなのに、たまらない、なぜかせつない、こわいような、さびしいような気持ちになる。 肩に誰かがあたって、すみません、って声が緒をひいて遠ざかってから、自分がその場に立ち止まってしまっていることに気付いた。 動けない。 きのう、パンフをくずかごにおしこんだとき。手にあたった角の、意外なかたさ。。放課後、みんなと出かけていく楽しさ。ふたつむこうの星海の駅前アーケードの小さな旅行代理店。軒先で、きゃあきゃあはしゃぐわたしたち。眺めた、たくさんの海たち。 グアム、サイパン、タヒチ、フィリピン、ハワイ。 あまりに有名すぎて、あたりまえすぎて、ちょっと俗っぽいぐらいに思ってる、いまさら気恥ずかしいようなそんな海でも、すなおな気持ちで眺めればわくわくつぎつぎにページをめくれば、なんてきれいで、なんて素敵で、なんて遠い。 海は、あるんだ。 ここからはとても遠いけれど、でも、いけなくはないんだ。この地球の上に、たしかにあるんだから。 海まででかける方法は、具体的な金額になって、ラックにならべて提示してある。どなたでも、どうぞ好きなだけおとりください。さあ、えらんで。でかけてください。あなたはまだこの幸福を知らないのだから。 でかけていけば、このきれいな海に、さわれるんですよ? このすてきな色を、あなたのその目で、実際に、見ることができるんですよ。 この海に、ひたれるんです。 青くて、みどりで、キラキラ透明な宝石みたいな海が、あなたのものです。 目の前いっぱいが、海の色にそまる。どうしたらいい。どういったらいいんだろう。こんな気持ちを。くやしいような。幸福なような。 電車の時間が近くなって、ひとがふえてきて、そんなとこにつっ立っていたら邪魔になる。 だから、なにくわぬ顔で歩きだして。歩きつづけて、電車にのった。 とびらの横の、壁によりかかっていられるところに陣取って、車内のみなさまに背中をむけた。どうか、知ってるひとが誰も乗ってきませんように。祈りながら、ごとんごとん揺られていると、なにかがのどにつっかえた。大きすぎる飴玉みたいなもの。息が苦しくて、少し目をつぶって休んだつもりだったけど、ちょっと気を失ったかもしれない。 気がつくと、電車は、知らない場所を走っていた。 すごい山の中。 線路の両側から木がおおいかぶさって、みどりのトンネルみたいになっている。その葉っぱに日差しが透けて、明るくて、すごくきれい。そうかと思ってるうちに、ほんもののトンネルにさしかかった。ゴトンゴトンって入っていくと、あきれるほど狭くて真っ暗。手をのばしたらさわれそうな小さな窮屈なトンネル。電車の先頭の窓から、真っ暗闇の黒一面に、出口のかまぼこみたいなかたちが、ちいさく明るくくっきりくりぬかれていて、ぐんぐん大きくなっていく。 いつもの電車は、こんな山奥までつづいていたのか。どうやったらかえれるんだろう。大遅刻だ。車内に路線案内をさがしたけど、みつからない。そのうち電車が速度を落としはじめた。どこかにつくらしい。おりなきゃ! 駅にとまった。大急でドアをぬけた。 ちっちゃな駅だった。古くて、さびれてて、がらんとしてる。無人駅で、駅舎もない。あたりには、ひとっこひとりいない。 電車は、もう、走りさってしまった。 やたらに明るかった。ひかりが強すぎて、景色が白飛びするぐらい。かんかん照りのお陽さまが、頭のてっぺんをじりじり焼いた。じーわじーわじーわって虫の声。このあたりは、星海町のわたしの家より、もうだいぶ夏らしくなっている。 空気がもやもやゆらいで見える草ぼうぼうの線路におりた。浮いたじゃりによろけながら、ちょっと歩いて、ふと、顔をあげたら、
――海が見えた。
よそのおうちの屋根のかさなりのむこうに。 あれは海よ。きっと海よ。だって、あざやかなブルーグリーン。 夢中で走った。ひとけのない道を。ぼうっと眠りこんだような真昼の道を駆けて。 海にたどりついた。 生まれてはじめての海。 浜辺の砂を走ろうとしたら、たちまち足がうまって、ころびそうになった。わたしは靴をけりぬぐ。 潮風が髪をまきあげる。 波がおいでおいでとまねいている。 そのままざぶざぶはいっていくと、ふくらはぎを、つめたさが洗った。 わたしは、海に、いる。 誰もいない。静かで、とてもきれいだ。水も浜も、見渡すかぎり、ひろびろとしている。つきぬけて明るい。ほのかにあたたかくて気持ちがいい。なのに、 ……どうして怖いの? なにかがわたしに警告を発している。ひたひたと脚を洗う波のように、不安がだんだんせりあがってくる。ここにいてはだめ。ここにいると危ない。はやく逃げて。逃げて。だって…… わたしはふりかえり、首をまわし、おなじ場所で、ぐるりとひとまわりする。自分をこわがらせているなにかを見つけようとして。 すると、 音もなく、とつぜん、はるかかなたで水が高さを増しはじめた。 それまでじっとうつ伏せて眠っていた巨人が、ゆっくりと手をつき膝をつき立ち上がっていくように。 そして、大きな大きな、信じられないほど大きな波が、
「……マハネ! マハネちゃん!」
わたしは目をあける。なにか叫んでいたらしい。耳が、もういなくなってしまったその音の残響にふるえている。のども痛い。 母の顔が見える。 母は寝間着姿で、ひどく青ざめた顔をしている。そこはわたしの寝室だ。視線があうと、母はほうっと長く長く息を吐きだしながら、ちからをぬいた。おずおずと、こわれそうなものにさわるようにわたしの手をとって、自分の頬にあてた。くちびるにも。温度か、やわらかさを、たしかめるように。 母の手はひんやりしている。 「良かった。ぶじで」母は言う。「もどってきてくれて……良かった」 「おかあさん」胸がまだドキドキしていて、不安の名残りなのか、すこしむかむかする。「……わたし……海にいったわ」 「そうなの」 「知らない海だった。でも、知ってた。すごくよく知ってる海だった」 「そうなの」 指をのばして、わたしのおでこや頬から、そこにかかっている髪をそっとはらいのけながら、母はさびしそうに笑った。 「それはきっと吉里吉里よ」 「きりきり?」 その名前は聞いたことがあるような気がする。少し前にあった、あのひどい災害のときに。 「わたしの海」 母の指がわたしの頬のまるみをなぞり、ひたいの汗をぬぐう。 「たいせつな、忘れられない海。あなたが歩いたのは、わたしの夢」 母の目は真っ黒で満天の星が輝いている。 水と空のさかいめで折り返しながら。
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