yumenooto uminoiro   2016.7.11  

 

 

 

                                    Layla1

 海に行きますよ、とヒロさんが言ったのは、夏のはじめ。終業式の日のことだった。

 こどもたちは放課後、いつものようにヒロさんの家に集まって、渡された紙きれを見せあった。六年生のスミカは算数が3で、あとは4と5。三年のヒトシの5は体育だけで、4と3が同数ぐらい。レイラは図工で生まれてはじめて3を取ってしまった。

 ミキヲとノリヲの双子はまだ学校にあがっていない。通信簿の意味などわからない。それでもお兄さんやお姉さんが真剣な顔をしているから仲間に混ざりたがって、積み木遊びの手を止めて野次馬になった。レイラの手元を覗き見ると、双子は、うわぁ5ばっかり、ゴーゴーゴーゴー、ぜんぶゴー、とへんなダンスを踊った。確かに図工以外は文句のつけようがない。けれど、レイラには、たったひとつの3が悪夢だった。

 どうしてだろう。なぜせめて4にしてもらえなかったんだろう。悔しくて悲しくて、胸が張り裂けそうだ。

 その年、図工の担当教師が新しくなった。吉備野という、浅黒い肌をした若い男性教諭になった。彼は、前にいたオジイサン先生とは、ちょっと違った授業をした。

 『魔笛』のレコードをかけ、あらすじを話して聞かせ、音楽から浮かぶイメージを描いてみろ、と言った。校庭に出て、砂の上に自由に画面を作り、葉っぱや枝や石を並べて作品にしてごらん、と言った。

 レイラは彼にひとめで惹かれていた。ひいき目に見ればアラビアンナイトの王子のようでないこともない顔や、いつも着ている脇に三本線のある紺色のジャージの上下を、とてもカッコいいと思っていた。風変わりな課題も、挑戦心を刺激されて面白い。先生はきっと、ほんものの芸術家なのだ!

 児童には教科書と毎度おなじみの作業をあてがっておけばいい、それでおとなしく言うことを聞くのがよい子だ、と言わんばかりの教師も多い。退屈させないために工夫をしたり、個性の発揮しがいのある要求をしてくれるのは、たった十歳かそこらの生徒たちを、こども扱いせず、いちにんまえの人間だと思ってくれている証拠だ、とレイラは感じた。素敵な、立派なひとだ! だから、これまでよりずっと張り切って授業を受け、課題をこなした。

 『魔笛』の時には、ありったけの絵の具を使って、さまざまな色の線や面をたたきつけるように描いた。その微妙な混ざり具合で「燃えているのに冷たい感じ」を表わそうとした。それが『魔笛』序曲を耳にした時、とっさに浮かんだイメージだったから。

校庭では、砂を集めてカルデラ火山のかたちにして、裸足で踏んだ。足跡のスタンプに、選りに選った石――ぴかぴか光る結晶が混ざっているのとか、ひどくすべらかで平らなのとか、真っ黒な中に花のようにみえる白い斑が散ったのとか――を乗せた。互いによりかからせたり積み重ねたりしながら。異国の民の特別の祭礼のためのトーテムのようになった。

 先生も、なるほど、おもしろいね、と、笑って、感心してくれたと思っていたのだが。

 他の子のように、人物や山や森などといった、具体的な情景を描いたほうが良かったのか。砂絵も単純に平面的につくるべきだったのか。ひょっとして、あまりに奔放に楽しみすぎたか。ふざけていると思われたのか。

 同級生たちの中には、有名中学に進学するための塾に通いはじめている子もあった。そんな子たちは、図工なんてどうでもいい、と時々はっきり口に出して言う。こんな無駄なもののために頑張るなんて疲れるしダサい、とも。かといって目にみえる反抗はしない。授業時間いっぱいダラダラと手を動かし続け、隣の子や後ろの子と、あまり違わない絵や作品を提出するのだ。

 そういう子たちは、たとえば給食当番の時も、グズグズ歩いていって、一番軽いパンのケースをわざわざ二人がかりで持ってきたりする。遅れて重いのしか残ってないと、あーあイヤだ損した、と言う。からだの大きな、力の強い、頭のいい男の子でも。

 レイラは華奢でどちらかというと小柄だが、当番になったら、誰より早く配給センターに駆けていく。シチューのお鍋とか、スプーンの詰まった籠とか、いちばん大変そうなものを選んで、運ぶ。重かったけれど、なんとかひとりで持つことができるし、がんばれば持てるギリギリのものを進んで選ぶ自分が好きだった。自分がそれを避けたら、誰かもっと小さくて弱い子が負担しなくてはならなくなってしまうかもしれないから。

 しかし。

 そういうことを褒めたり喜んだりしてくれるひとばかりでないことに、うすうす気付いてはいた。でしゃばり、目立ちたがり、いい子ぶりっこ。何様のつもり? 勘違いしてるんじゃないの。

 “菩提樹”の子のくせに。

 ……3。

 目と歯の白さばかりが目立つ図工教師の屈託のない笑い顔を思い出す。いつも横分けでペタッと撫で付けてある髪の艶やかさや、そばに寄ったときにフッと薫る煙草の匂い。チョークを握る長い指。味方だと思っていたのに。なにものであるかではなく、なにをするのかを、ちゃんと見てくれる先生だと思っていたのに。

「なに泣いてんだ?」ヒトシはレイラの通信簿を取り上げた。「こんだけいい成績とって。めそめそすることなんかひとつもないだろ」

「だって、すごく、がんばったのに」レイラの頬を、こらえきれなかった涙が伝った。認めてもらえなかった。ほんとうの気持ちに、気付いてもらえなかった。「あたしもうダメ。悔しい。死にたい」

「死にたいだァ?」レイラの通信簿を改めてみたヒトシは、もう一度口を縦にし舌をつきだして吐き気を表現しておいてから、ふん、と鼻を鳴らした。「ああ。図工のことか。ばーか。んなもん、どうだっていいじゃん。たまたまセンコーの趣味にあわなかっただけだろ」

「3で死ななきゃならないなら、学校じゅう死体だらけになるわ」スミカも言った。「3は平均的、ふつうだけど、できればもうちょっとがんばりなさい、ってことなんだから」

 スミカの声の氷のような冷たさに、レイラはやっと気がついた。

 ふつうが一番。めだたないのが一番。

 持っているものを、ひけらかしてはいけない。

 それは、ここの子供たちが、いつもヒロさんやお城のおとなたちに言われていることなのだった。

「あんたは3だったけど、クラスには、4や5の子が何人かいるのよね」スミカはつけつけと言った。「あんたはその子たちが、それほど良くはなかったはずだと思ってる。彼等は、あんたよりずっとつまんないくだらないことしかやらなかったし、態度も不真面目だった。なのに、そういう子たちに差をつけられた。負かされたのが悔しいのよ。違う?」

 そうだ。

 あきらかに素晴らしい作品を作った子がいたなら、こんなどす黒い気持ちにはならない。ちゃんと努力を評価されたのなら、それでいい。

図工という教科にいちばん真剣にとりくんだはずの自分が、そうでなかったものたちより劣ると判断されたのかと思うと、目の前が真っ暗になってくるのだ。

 すごい。

スミカはなんてよくわかるんだろう。

「レイラはまじめだから」ヒトシが言った。「手えぬいたことなんかなくて、3△なんて生まれてはじめてでショックなのかもしれないけど。気にすることないって。こんな紙切れ。なにもジンカクを否定されたわけじゃない。たかが小学校のセンコーに、なに言われたって気にすんなよ」

「あいつらはね」スミカがおとなっぽく言った。「自分が何をしているか、それを子供たちがどう感じるのか、そのことがその子の未来にどう影響するか、ひいては世界をどうかえていくか……なんて、いちいち考えたりしないのよ。そんなに敏感だったら、教師なんて苛酷な職業、やってらんない。ただ、おそわってきたことをくりかえすだけ。世の中に適応しているものを、なぞってさしだすだけ。自分たちのように、他人とぶつからず、うまく生きていける大人を再生産するだけ。あたしたちのこと、わからなくてとうぜん。あたりまえ。しょうがない。なまじ、へんに関心もたれて、追求されても困るんだから」

 スミカはじっとレイラを見た。

「見抜かれちゃいけない」

「……ごめんなさい……」

 スミカはハンカチを出して、渡してくれた。レイラは急いで頬を拭う。

「図工って、だれ? 吉備野?」

 うなずく。

 スミカはちょっと唇を噛み、眉を寄せてすこしの間考え、なるほどね、とつぶやいた。「あんた、おびやかしたのよ、やつを」

「オビヤカシタ?」

「恐がらせた。びびらせたの。これはあたしの勘だけど。きっと内心は正反対だったと思うよ。あんたのこと、すごいと思った。天才かもって。気にいりすぎちゃったの。もしかして彼、ほんとうは教師じゃなくて、画家になりたかったひとなんじゃないかな。だから、どこか鋭いところがあって、感じるんだわ。なんとなく。あんたがタダモノじゃないこと。ふつうじゃないこと。なにか特別なすごいものを持ってるってこと。なんでこんな子がここにいるんだ、まだ小学生なのに? って。そう思っちゃって、……ぞっとした。恐くなったんだわ」

「……こわい? わたしが? どうして?」

「だあって! ほら、あんたはそんなに可愛いし、おまけに、すごく良い子じゃないの」スミカは皮肉っぽく笑って、肩をすくめた。「きっと吉備野が授業でなにか喋ったりする時、そのでっかい目で、じーっと熱心に見詰めてあげたんでしょう? 他の子が幼稚なバカやってる時に、ひとりだけ、きちんと座って、集中して、先生の言うこと、なにひとつ聞き逃さないように、耳をすませてた。ううん、ひょっとすると、あんたなら、彼が口にだしていないことまでも、つかまえる。ありえないほど望ましい生徒だわ。教師の願望そのもの。しかも彼の専門分野である芸術に、とてつもない才能を秘めていそう」

 レイラは頬が熱くなるのを感じた。授業中の態度のことはまったく言われたとおりだ。クラスじゅうがざわついて、まるで、先生とレイラと、ふたりきりみたいに感じられたときが何度もあった。どうしてスミカにはこうなんでもお見通しなんだろう。

 吉備野先生を好きだと思って、気にいられたい一心で、有望な生徒だと思ってもらいたい一心で、もしかすると、わたし、やりすぎちゃったの? 

「たぶんそういう態度が、吉備野をよろこばせて、ドキドキさせて……それから、不安にさせたんだよ。若いから、自信、持てないんだ。興奮すればするほど、せるんだ。コントロールできるかどうか。教師たるもの、小学生に、魅力とか神秘を感じたり、オンナを感じたりすると、とってもまずいもんね」スミカは皮肉っぽく笑った。「だから、吉備野としては、可愛い可愛いあんたから、目を背けずにいられなかったんだ。ひいきだって言われてしまったら困るし、心を見透かされたら恥ずかしい。油断したら、特別扱いしそう、教師として正しい態度をとれなくなりそうだ。だから、こばむことにした。否定することにしたんだ。思い切り強くブレーキをふんで。こんなのはみんな錯覚だ、勘違いだ、あの子はぜんぜん良くない、そんなに優れてなんかいない、そうだとも、ただ、かわいそうな“菩提樹”の子だから、ついつい色眼鏡で見てしまうだけだ!」

「……ああ……そうか……」

 すとん、と何かが胸に落ちた。

「よくわかった。ありがとう、スミカ」

 レイラはハンカチをきちんと折り畳みなおして返した。

「だから、もう気にしない。それに」スミカは無造作にハンカチをポケットにつっこみ、レイラの胸を肘で小突いた。「外のオトナをあんまり信用しないことね」

「わかったわ」

 レイラはうなずいた。

 スミカは、きっと、ほんとうは算数なんかぜんぜん苦手じゃないんだわ。ただ、苦手なふりをしようって決めて、いったん決めたら変えない。ぜったいに踏み外さない。

 わたしのように、幼稚な憧れや、虚栄心に突き動かされたりしない。ほかの(ふつうの)子供たちと競ったりしない。

 スミカは強くて、賢い。

たった二学年上なだけなのに、すごくおとなっぽい。

六年生になった時、自分に、ここまでハッキリものごとを見つめることができるようになるのかどうか、レイラには自信がなかった。

 

 ヒロさんの家に集まるのは、みな“菩提樹”の子だ。

 きょうだいではない。だが近い親族だ。レイラの母とスミカの母は姉妹だし、ヒトシや双子のママ、赤ん坊のアキコのおかあさんも、いとこにあたる。

母親たちは、みな“ひめ”だ。

“菩提樹”の“ひめ”としての特別のちからがあり、やくめがあるから、他のことはしない。家事はしない。幼い子供の面倒はみないし、炊事も洗濯もしない。そんなふうに、こころを疲弊させるようなこと、手をよごすようなこと、美しさをそこなうようなこと――夢の中を歩くちからを弱めるようなこと――を、彼女たちは、しない。いっさい、免除される。

そういった俗っほくて瑣末なことがらは、誰かほかのものたちがかたづける。“ひめ”に生まれつかなかった女たちや、特別のちからに恵まれることはない男たちが負担する。

 “ひめ”はほぼすべての時間を“菩提樹”の城で暮らす。慎重に整えられた特別の温度帯でなければ生息できない熱帯魚のように、献身的なみうちになにくれとなく世話をやかれながら、日ごと夜ごと、賓客を迎え、ちからをつかい、やくめを果たす。夢の中を歩く。たまに、おおきなつとめを終えたあとなどだけ、この別邸にやってくる。子供たちとふれあい、なにか楽しいことをして遊び、夢をみない眠りをこんこんと貪る。そうしてこころとからだからよどむ残滓をふりおとして、また、出かけていく。城へ。他人の夢の中へ。

 放課後になると子供たちはいつもこの別邸に帰ってくる。おなじ敷地の中ではあるのだが、“ひめ”たちの戦場であり職場である“菩提樹”の城からはちいさな丘ひとつへだてたこちらがわだ。慎重に距離をおいて、隔離してある。互いの建物から、相手方は、けっして目にはいらない配置。

邪魔にならないよう、やくめの妨げにならないよう、子供たちは、“ひめ”である母たちと、きっぱり離されている。

 別邸つまりヒロさんの屋敷は、淡いピンク色の大理石でできた三階建ての洋館だ。子供たちに解放されている部屋は、幅広の大階段を登った先にあった。天井が高く、大きな窓があり、フラミンゴみたいなピンク色の絨毯が敷き詰められた居心地のいい部屋だ。ここで、宿題をしたり、遊んだり、おやつを食べたりする。三階には“ひめ”である母がかえってきたときのための個室があり、ベッドがあり、服や小物も置いてあり、おのおのの子供もそこをつかってかまわないことになってはいたが、遊んでいるうちに眠くなったら居間の片隅やソファでそのまま寝てしまってもいい。居間には、大きなテレビもあるし、本や映画もたくさん備わっている。夏は涼しく冬暖かく、いつもみんながいて、まわりにも誰かがいて、世話をやいてもらえる。どうでもいいことをうるさく言われたりはけっしてしない。

 別邸には二頭の犬もいた。白銀色の狼犬レディと、赤い毛並みが美しいアイリッシュ・セッターのトランプだ。レディは賢く強く、トランプはいたずら好きで陽気な性格だ。どちらも大型で逞しい。子供たちのことは自分たちが責任をもって見張り庇護するべき対象と考えている。敷地内をおりおり偵察しては、小さな野生の獲物を狩る。招かれずに侵入しようとするものがあれば、真っ先に相手にしなくてはならないのは、この二頭だ。

 子供たちには、父はない。どの子にも。

 ほんとうのところ、レイラには、父親というもののことがよくわからない。小学校に通うようになってはじめて、外の子供たちにはたいがいひとりにひとりずつ父親というものがいるものらしいとわかった時には、ちょっと面食らったぐらいだ。

 外のひとたちは「家族」という、小さな単位に所属しているのだそうだ。ひとつひとつの小さな「家庭」が小さな家をもっていて、それぞれに父親と母親がひとりずついる。多くの場合、外の「家庭」にいるこどもたちは、すべて同じ一組の男と女から生まれてきたきょうだいなのだそうだ。

 そして、父親というのは、母親よりも、たいがいの場合、偉いらしい。

 このことも、レイラには意外であった。

 別邸で一番偉いのは、ヒロさんだ。ヒロさんは女性で、かつては“ひめ”のひとりだった。歴代の“ひめ”の中でももっとも色濃く偉大なる王女アテーの血を顕現したひとりなのだそうだ。みんなのママと比べれば少しお年をめしているけれども、とてもきれいで、威厳がある。いつもステキなドレスか着物を着ていて、宝石や金やプラチナを身につけて、香水のいい匂いをさせている。だらしないかっこうや寝間着姿はしたことがない。

 “菩提樹”の“ひめ”たちは、みな夢のように美しい。美しさはちからだから、美しくない“ひめ”はいない。存在しない。だから、“菩提樹”の子供たちも、ひとり残らず美しく、可愛らしい。

 スミカの外見は、おとぎばなしのお姫さまそのものだ。絵本の挿絵のいちばん美しい少女のような目鼻だち。かんぺきな骨格に、ミルク色の肌。クルンとしたまつげの長い色の薄い瞳はほんの少しだけ斜視がかっている。髪色は明るく、ところどころ金髪になりかかっている。おとなっぽいスミカには気だるい表情と咥えタバコが似合うのだが、ヒロさんがこまったような悲しい顔をするから、ひとに見られるところではめったに吸わない。

 ヒトシはかすかに切れ上がった目とふっくらした唇の持ち主だ。自分の顔が可愛らしく女の子っぽいのを気にして、いつも眉間に皺をよせて怒ったような顔をしているし、髪はわざとザンバラに伸ばしている。こんど切るときは、思い切り剃りあげてボウズにするのだそうだ。はやく髭が生えるようになればいい、とよく言っている。

 双子はまだ幼くて頬も顎も手もぽちゃぽちゃしているけれど、だから余計に、つくりもののお人形さんのようだ。セーラー服とか、蝶ネクタイと別珍のベストとか、古風できちんとした服がよく似合う。くるくる巻き毛も天使のようだ。

 赤ん坊のアキコはおさなすぎてまだ将来どうなるのかわからなかったが、乳幼児にしてはとてもはっきりした顔立ちをしていた。

 レイラは、自分のことを、みんなほどきれいではないと思っている。肩や腕は痩せ過ぎだし、鼻のかたちがよくないし、髪はうねって、うまくまとまらない。できれば大きくなる頃までには、なんとかもっときれいになって、あでやかに美しく魅力的になって、“菩提樹”の“ひめ”として恥ずかしくない女性になりたいと思う。

 外のひとたちは“菩提樹”のことをあまり良く思っていない。そこの子供だということがわかると、ギョッとしたり、イヤな顔をしたり、動物でも観察するようにジロジロ見たり、かわいそうがって、さげすんだりする。

 嫉妬よ、ヒロさんは言い、無視すりゃいいの、とスミカも言う。

 だって考えてごらんなさい。あのひとたちの誰がお城にすんでいて? ひがんでいるのよ。きれいじゃなくて、ちからもなくて、“ひめ”になんか、ぜったいなれないから。憎らしく思うのも無理はない。もしかすると、自分の男を取られそうだと思うのかもしれない。小さな家の偉い父親を永遠に奪われてしまうんじゃないかって、心配で心配で、だから意地悪をせずにいられなくなるの。お城に招かれることのない男たちだって同じだわ。“ひめ”をみたことがなければ、夢を歩いてもらったことがなければ、それがどんなことなのか、ほんとうのところ、わからないはずでしょう? なのに、知らないくせに、拒絶する。軽蔑する。邪悪で、おぞましいものだって、言い張るのよ。それも、しかたないことかもしれないけどね。だって一生手の届かないものに焦がれてしまったら、悲劇でから。だから、そんなもの欲しくないって言い張ってるんだわ。縁がないから、きっと悪いものだ、善くないものだ、自分には必要ない、いらないものだって決めておきたくなる。無意識かもしれないけど、そう思いこんで、なんとか安心しようとする。でも、ほんとうは憧れている。ほんとうは興味津々。だから、……そこに無理があるから……苦しくて、こころがねじけてしまう。イソップの、酸っぱい葡萄の譬えのキツネみたいに。

 

 吉備野先生も、キツネだったのか。

 レイラはがっかりした。

 そんなひとを信じようとして……素敵だなんて思って……バカだったわ。

 でも、もしかしたら。わたしが将来“ひめ”になったら、先生の夢の中を歩きにいってあげてもいいわ。

先生はその時までわたしのことを覚えているだろうか。水を注いであげたら、感激するだろうか。わたしに、かつて、3をつけるなんてひどいことをしたことを思い出して、ああすまなかったなって、思ってくれるかしら。そうだったらいいけれど……。

「……ちょっとヒトシ、なにやってんのよ!」スミカが叫んだ。

 見ると、ヒトシは通信簿を紙飛行機にして飛ばしている。

「……やだ。やめて! そんなことしないで!」

 通信簿は夏休みが終わったらまた担任に返さなければならない。折った痕がついていたりしたら、恥ずかしい。

 あわてて飛びつくと、ヒトシは鼻を擦って、へへーんだ、と笑った。

「レイラのじゃねーよ。俺の」

 なぁんだ、びっくりした。

 ヒトシはレイラの通信簿を、無事なまま差し出してくれた。だが、うけ取ろうとすると、さっとひっこめる。

「返して」

「じゃ、夏休みのドリル、やって」

「だめよ、そんなの。自分でやりなさいよ」

「いいじゃん、ケチ!」ヒトシは吠えた。「どうせ去年やったのと似たようなもんだろ。レイラなら、サササーッてすぐできちゃうだろ? なあ、やってよ。やってくれよぉ」

 犬のレディがむくりと起き上がり、巨体をレイラに摺り寄せた。それまでは、ソファのそばの床にうつ伏せになって、白い毛皮の敷物そっくりになっていたのに。諍いが起こりそうな気配を知って、すかさず仲裁に来たのだ。無言のまま、かすかに唇をめくりあげ、するどい牙をのぞかせてヒトシをにらみつける。選択しなければならない時、レディはいつも女の子の味方だ。“ひめ”と、将来そうなるその候補である女の子の味方だ。

 頭のまわりのふかふかの毛を開いた掌で味わいながら、レイラは溜め息をついた。

「宿題はじぶんでやらなきゃだめよ。わからないところがあったら、手伝ってあげるから。だいいち、あたしの字で書いたりしたらすぐバレちゃうでしょ」

「じゃあ、写す。なんか適当なノートにやっといてよ。それ、あとで、うつすから。なあ、頼むよ。いいだろ?」

 ヒトシはレイラの通信簿をひらひらさせて、脅迫する。睫の濃い、気の強い、きれいな女の子みたいな顔で。

 レディがくちびるをめくりあげて低く唸っても、まったく気にしない。どうせレディも、館の子を本気で噛んだりはしない。

 なあ、なあ。くーんくーん。ヒトシは犬よりももっと犬みたいだ。仔犬だ。鼻を鳴らして甘えられると、抵抗できない。

 しょうがないな。レイラはもうひとつ溜め息をついた。

「わかった」

「やりい! バンザーイ! これで心置きなく遊べるぞぉ」

「わかんないところだけよ」

「ってことは全部だ。俺、ばかだから。どーせ全部わかんねーから」

 ずるいなぁ。

「自分でやんなさい」スミカはヒトシを睨んだ。「あんたも、ちょっとぐらいは勉強しとかないと」

「やなこった」

「あんたのママが困るんだよ。あたしたちは、いい子になって、きちんと目立たなくしとかないといけないんだよ」

「ちぇっ。なんだよそれ。ああならないようにってか?」

 ヒトシが目線でナルミちゃんを示したので、スミカは、低い声でこら、といって、とっさに顔をしかめたが、その口元は思わず笑みのかたちにくずれてしまっている。レイラも釣られて、うっかり笑ってしまった。

 えー、なに、なんで笑ってるの、どうしたの。双子が寄ってくるから、いいの、おとなの話、あんたたちにはまだわかんないの、冷たく言っておっぱらう。双子はぶうぶう言いながら、積み木遊びに戻る。双子のそばで、犬のトランプがピアノの埃を払う道具のようなしっぽをパタパタさせている。

 ねえやのナルミちゃんはすこし頭が弱い。それはみんなが知っていることで、でも、ざんこくだから、はっきりと口に出してはいけないことだ。

 ナルミちゃんは部屋のあっち側で、赤ん坊のアキコのおしめを取り替えている。楽しそうに歌を歌いながら。

 のろのろした不器用な手つきで、伸ばして畳んであてがうのだが、アキコがふざけて足をバタバタさせるから、最初に折ったところがズレてしまう。それを直さないまま先を続けるから、もちろん失敗する。できた、と思ってアキコを立たせると、ズルズル脱げてきてしまう。それでようやくナルミちゃんにも何かがうまくいっていないことがわかる。ナルミちゃんは、頬に指を一本あてがったかわいらしいポーズで、あれえ、へんですねぇ、おかしいですよお、と大きく首をかしげ(ヒトシとスミカとレイラは顔を見合わせ、ニヤニヤ突つきあう)またゆっくりゆっくりおしめを解いて、はじめから全部やり直す。

 そのあいだじゅうずうっと歌を歌いながら。

 手を動かしている限り、ナルミちゃんはいつも、何かの歌を歌い続けている。なかなかきれいなかわいい声だ。でも、オンチで、たいがいウロ覚えで、おまけに、時々、歌詞がほんとにめちゃくちゃだ。

   あーきのゆーうーひーに、てーるーやーまー、もーみーじー、

   こーいもうーすーいーも、かーずーあーるなーかに、

   あーきをいーろーどーる、かーえーでーやーつーたーはー、

   おーなじへいがっこーおーの、にーわーにーさーくー……

 途中からまったく別の歌になってしまう。

 長調が短調になってしまったりする。

それでもナルミちゃんは、てんで平気だ。

 自分でこうと思いこんでいる歌詞をガンとして譲らず、何度でも繰り返す。本人は気持ちよさそうだけど、聞かされているこちらはたまらない。

 だからレイラたちはみんな、ナルミちゃんの歌がはじまっても耳を貸さないようにしている。それはついているだけのテレビと同じだ。気にしなきゃいい。時には、わざとみんなで注目して、よく聞いて、拍手したり笑い転げたり、ナルミちゃんの手を取って歌にあわせて踊ったりもするのだけれど。

 笑われても、からかわれても、ナルミちゃんはぜんぜん気にしない。恥かしいとか、バカにされて悔しいとか、いまに見ていろみたいな気持ちは、ナルミちゃんの脳みその中には存在しない。みんなが笑い声をたてると、きゃっきゃとはしゃいで、とても喜ぶ。嬉しがるあまり、興奮しすぎて、はあはあ息を忙しくして、顔を真っ赤にして、からだが破裂してしまいそうなぐらい笑ったりもする。はれつしそうになるほど笑って、いっそう得意がって、ますます声を張り上げて歌う。

 頭が弱いかもしれないけれど、ナルミちゃんはとてもいいひとだ、とレイラは思う。からだはオトナなのに、こころはちいさな赤ちゃんなままなのだ。“ひめ”になるように生まれつくことができなかったのは気の毒だけれど、もともとの顔だちはとてもととのっていて、美しいのだと思う。ただ、それがぜんぜんわからなくなってしまうぐらい、とってもとってもおでぶさんなだけだ。手首とか足首なんか、輪ゴムでもはめているみたいに、お肉にくっきり線がはいっている。暑いときはたいへんだ。だから、素敵なドレスなんて着られなくて、いつもがばがばの、ただかぶるテントみたいな服を着てる。そうでないと、自分で脱ぎ着ができないのだろう。でも、ナルミちゃんはいまのナルミちゃんのままで幸せそうだから、きっとそれでいいのかもしれない。

 ナルミちゃんが実際何歳なのか、レイラたちは知らなかった。表情はぴかぴかで無垢な幼児そのものだし、オカッパに切り揃えた髪も子供っぽいが、目や口のまわりにはよく見るとこまかな皺がある。たぶん、二十歳よりは上だと思うけれど、四十歳にはなっていないだろう、といつかスミカが言った。スミカが言うのだからあたっているのだろうとは思うが、よくわからない。

 ナルミちゃんがなぜここにいるのか、どういう出自なのか、レイラたちは知らなかった。もうここにいない誰かの娘なのだろうか。ひょっとして、なにか特別な理由で外から拾われた子なのかもしれない(だとするとちょっと安心だ)。ほかのみんなと違う、かわいそうなナルミちゃん。でもナルミちゃんは子供の世話係にはぴったりだ。オトナ風を吹かしたりしないし、いつもニコニコ機嫌がいい。やらなければならないことはちゃんとやる。不器用だし、のろまだけど、いつかは確実にやりとげる。毎日毎日、ふつうのオトナならとても耐えられなくなりそうなぐらい単調でつまらないことをやらされていても、文句ひとつ言わない。そもそも、愚痴や不満というものは、ナルミちゃんの頭の中には生まれてくることもないのかもしれない。

 ナルミちゃんはいまは赤ん坊のアキコの係で、ちょっと前までは双子の係だった。双子が赤ちゃんがえりしてグズる時には、彼等の面倒もみる。そのぐらいなら、ナルミちゃんにでもじゅうぶん対応できる。レイラたちも必要なら手伝った。

レイラとスミカとヒトシの三人には、もう子守りはいらない。三人でうまくやれる。時々、さっきみたいに、ちょっとした口喧嘩はするけれど、イザという時には一致団結して助け合う。どうしてもオトナにかかわってもらわなきゃならないときには――学校にお金を持っていかなきゃならないときとか、参観日で保護者に来てもらわなきゃならないときとか――ヒロさんに直接たのむ。

 レイラが小さかった頃には、別の係のひとがいた。シゲさんというお婆さんだったが、いつの間にかいなくなった。死んだのかもしれないし、引退したのかもしれない。どこかに帰っていったのかもしれない。とにかく、いなくなったのだ。

 スミカより上にはしばらく子供はいなかった。次に年が近いのはハナエさんという一番若い“ひめ”だ。だから、子守はしばらくはいらなかったことになる。

 ごはんの支度は、ずっと前から、マツエさんというひとがしてくれている。マツエさんはヒロさんよりもっと年上かもしれないぐらいのお婆さんなのに、和風なものばかりじゃなくて、中華も西洋料理も得意だ。ヒロさんが旅行に出かける時は、マツエさんもついていく。そうしてマツエさんが別邸にいない時には、“菩提樹”本館から、料理人の制服をきてノッポな帽子を被った男のひとが交代で来てめんどうみてくれる。それはそれで楽しい。

 レイラは時々想像する。もし、外の子供に生まれていたらどうだったのだろう、と。だが、よく知らないわからないことが多すぎて細部を想像で埋めることができないし、そもそも、スミカやヒトシや双子と離れ離れになるのかと思うと、寂しくて、不安で、ゾッとしてしまって、それ以上もう考えつづけられない。

ママが“ひめ”じゃなかったら、ヒロさんがいなかったら、“菩提樹”がなかったら?

 自分の将来が、ちゃんと決まっていなかったら(“ひめ”以外のなんにでもなれるけど、なにになるのか、まったくわからないとしたら)?

 そんなの、とても我慢できそうにない。

 だいじょうぶ。わたしはわたしで、“菩提樹”の子で、ママの娘で、スミカやヒトシとずっといっしょ。なにも心配することなんかない。バカでキツネな図工教師にわざと意地悪されたって、ぜんぜん平気だ。

 

 お夕飯ですよ、子供たち。

 マツエさんが声をかけてくれたので、みんなで立ち上がった。みんなと言ってもナルミちゃんとアキコはいつもの通り二階に残ったけれど。

 食堂は厨房の隣のこぢんまりと窓のない一室だ。テーブルは十二人が座れるほど細長い。“ひめ”であるママたちが戻ってきている時には、いっしょに座れるようにそうなっているのだ。だが、離れて座ると話ができないから、子供たちだけの時はいつも、その片方の端の部分だけを使う。今日は淡い緑色のクロスが敷いてある。ひとりひとりのお皿の下には白い地に赤いイチゴ模様の入ったランチョンマット、お皿の上にはテーブルクロスと同じ色のナプキンがあり、銀色でぴかぴかなナイフとフォークとスプーンがきちんと並べて置いてあるから、今夜の献立は洋風なんだなということがわかる。天井まで高さのある食器棚の中途にあいた窓から漂ってくる匂いでも、見当ぐらいはつくけれども。

 子供たちはあちこちのトイレに分散して用を足したり手を洗ったりしてきて、それぞれの席についた。席は決まっている。レイラはマントルピースを背中にする左側、右隣がヒトシで、向かいがスミカ。双子はスミカから見て左隣の、ベンチのようになった椅子に座る。双子はまだ小さいけれど、ベンチ椅子には分厚いクッションが敷いてあるから、ちゃんと背が届く。

 全員がきちんといつもの位置に座るまでに、マツエさんがひとりひとりのグラスに青いきれいな瓶から水を注いでくれた。子供たちには、落としても簡単には割れないグラス。ヒロさんのだけが、ワイングラスの大きいやつだ。

 甘酸っぱく、ほんの少し苦味のある水だ。癒恵§いえめぐ§の実の汁をしぼりこんである。それは“ひめ”たちが夢で注いで歩く水、渇きを癒し、濃すぎるものを薄めて洗い清める水。こうして幼い頃から毎日それを飲むことで、レイラたちは“ひめ”になる準備をすすめるのだ。

 水が行き渡る頃、ヒロさんがやって来る。今日は涼しげな薄手のシフォンの草色のドレスで、喉元にルビーと真珠を飾っている。髪は緩いウェーブをつけたショートカットで、左耳の上のひと房だけが真っ白にちかい銀色に染まっている。

 テーブルの細い側の端の主賓席に腰をおろすまでもなく、緑のクロスとイチゴのマットにちゃんと合せたかっこうであることがわかる。いや、違う、ヒロさんの装いにあうように、マツエさんが気を配って、テーブル・コーディネイトしたのだ。

 ヒロさんが歩くと、踵の高い華奢なスリッパに刺繍された黒猫の首のところの小さな鈴がちりちりと鳴る。ヒロさんの足はとても小さくて、歩き方はとてもゆっくりだ。スリッパが脱げないようにそうっとそうっと歩いているのかもしれない。

 ヒロさんが腰を下ろした。

「奥さま?」マツエさんが訊ねる。

「お願い」

 ヒロさんがうなずくのを合図に、子供たちはそれぞれ、自分のお皿の上のナプキンを取って、膝に置く。双子でさえそうする。

「こんばんは、みなさん。今日は、どんな良いことがあって?」

 ヒロさんはきれいに整えた左右の眉をちょっと段違いにし、物憂い微笑みを浮かべて、ひとわたり、子供たちを眺めやる。

 ヒロさんは毎日同じセリフで同じことを訊ねる。ヒロさんは良いことを聞きたがるが、これは良いことしか聞きたくない、という意味ではない。たとえあまり良くないことでも、聞いておかなければならないことはちゃんと聞かせなさい、という意味だ。聞いておけば何か対応できるかもしれないけれど、隠されて知らずにいると知った頃には取り替えしがつかなくなっているかもしれないから。

 良いことがあって?

 ヒロさんに訊ねられる時、レイラは少し緊張する。ヒロさんの少し色の淡い瞳が自分にまっすぐ向けられた時、胸をはってその目を見詰め返すことができるように、レイラは、一日に少なくともひとつぐらいは、なにか良いことを見つけておくよう心がけている。

 うまくいく時もあるし、いかない時もあるけれど。

 でも、なんとしてでも見つけるつもりになっていれば、毎日、なにかしらヒロさんの耳にいれてヒロさんの頬を緩めることができるようなことがみつからなくもないものなのだ。

「今日は終業式でした。成績表をもらいました」はきはきと、スミカが答えた。「あとで、お見せします」

「ええ、お願い」ヒロさんはスープを注ぐマツエさんの邪魔をしないように両手をあげる。「楽しみね」

「レイラはすごいよ。ほとんど5だったんだ」ヒトシが言った。「なのに、たったひとつの3のことで、グズグズ言ったよ」

 まるまる、まるまる、にじゅーまる! 双子が椅子の上で腰を揺すり、スミカに、だめ、と睨まれて、そろってそっくりの顔をしかめる。

「そう」ヒロさんはちょっと眉をしかめた。「レイラ、そのことを、話したい?」

「……いえ」

 レイラは首をすくめてうなだれた。それで、こめかみの両側で耳にかけておいた髪がはずれてサラリと落ち、顔を半ば隠すカーテンのように垂れさがった。

「わたしが悪かったんです。ちょっと自分にガッカリはしましたけれど、もういいです。こんどからは、もっとうまくやります」

「そう」ヒロさんは喉の宝石をちょっといじった。「じゃあ、お食事にいたしましょうか」

 これがヒロさん流のいただきます、だ。

 とろっと飴色のコンソメスープ。黒くて丸いパンとあたためて切ってあるフランスパン。帆立貝の貝殻に入ったコキーユと、エビの剥き身を飾った小さなサラダが来て、それから、なにかをパセリ入りの溶き卵で包むようにして香ばしくバタ焼きにしたものが出た。つけあわせは人参を混ぜた繊切りキャベツだ。

 マツエさんが水を足しにきてくれたチャンスを利用して、これなんて言うお料理? レイラが肩ごしに見上げるようにして訊ねると、ポーク・ピカタでございます、マツエさんは小声で答えた。

 とても美味しいわ、レイラが言うと、マツエさんは、たいして嬉しそうでもない顔のまま、ありがとうございます、と言った。

「ポーク? ぶたにくぅ!」ミキヲがウエッという顔をする。

「くさい! きらい! まずい!」ノリヲはいったん口にいれたものを出そうとした。

「わがまま言わないで、ちゃんと食べなさい。美味しいわよ。脂身もスジもないし」スミカが諭す。「ぜんぜん臭くなんかない。とっても柔らかいわ」

 双子はふくれっ面をして、皿のキツネ色の塊を睨んでいる。

「手どけな。切ってやる」

 ヒトシが立ち上がり、フォークとナイフをたくみに使って双子の皿のポークピカタを全部小さ目のひと口大に切りそろえた。

「食え」

 ヒトシがナイフをつきつけながら睨むと、双子は揃って哀れっぽい泣きべそ顔を作り、この世にこんな不幸なことはないと言わんばかりに溜め息をついた。

「食わないなら、明日の朝飯もそれだぞ」ヒトシは言った。「食うまで、ずーっと、出すからな。腐って悪くなっても出すからな」

 双子はショックを受けた顔つきでヒロさんを見るが、ヒロさんは知らん顔で食べつづけている。双子はすがるようなまなざしになって、スミカを見、レイラを見た。

 思わずほだされてしまいそうな、傷ついた天使さながらの愛らしい顔だ。双子はいつだって芝居ッ気たっぷりなのだ。ちょっと気にいらないことがあると、泣きまねをしたり、苦しそうな表情をつくったり、可愛い顔を巧みに操って同情を引いて、ひとを思い通りにしようとする。たいしてイヤなことでなくても、あえてイヤだと言ってみて、反応をうかがう。いつでも好きな時に拒めるのをまるでしじゅう確認したがっているようだ、とスミカは言う。

 そんな癖をつけてしまったら、ためにならない。スミカはレイラにも、絶対に甘やかしちゃだめよ、と念を押していた。芝居がヘタすぎたら、乗ってやる必要なんか、ナシ! だから、どちらも慎重になにげない顔つきを作り、あくまで口をつぐんでいる。マツエさんはというと、もうとっくに、厨房のほうにひっこんでしまっている。

 双子はいよいよ追いつめられて、そっと互いに見詰め合った。諦めたのはノリヲが先だ。

 また深々とオーバーに溜め息をつき、いかにも強いられてしかたなくやっているんですと言わんばかりのイヤそうな様子でポークをひときれフォークでさし、おそるおそる口に運んだ。まるで毛虫でも食べろといわれたかのよう。ごぼっ、と喉から音をたて、肩を揺すって、吐き気をもよおしたかのようなふりをしたのが、最後の抵抗。それでも、誰ひとり、そんなにイヤならやめてかまわないと言ってくれなかったものだから、ついに、折れた。あくまでいかにも気がすすまなさそうな顔は崩さず、そっと噛んでみた。

 ノリヲは驚いたように目を開き、その目をぱちぱちさせて、ごくん、と飲み込んだ。

「おいし」ノリヲは言った。「おいし。ミキヲ。ほんと」

「ほんと?」

 ミキヲはまだ疑わしそうだったが、ノリヲが次のひときれも、さらに次のひときれもむしゃむしゃ食べるのを見て、やっと手を出した。たちまちミキヲも納得がいったらしい。おかわりしそうな勢いで平らげる。

 やれやれだ。

 食事が片付くと、銀色の冷たい容器に乗ったウェハースのついたバニラ・アイスが運ばれてきた。ヒロさんはちいさなカップで濃いコーヒーを、こどもたちはミルクをたっぷり入れた紅茶を飲む。

「さて、みなさん。ちょっと聞いてくださいな。わたくしたちは、海に行きますよ」金の飾りのついたデミタスカップを爪の長い手で優雅に操りながら、ヒロさんは言った。「明後日のお昼には出発しますから、したくをしておいてちょうだい」

「海!」

 レイラはあまりにも嬉しくて、あやうく紅茶をこぼしてしまうところだった。海にはまだ一度も行ったことがない。絵本や映画で知っていただけ。つれていってもらえるなんて!

 なんてステキな夏休みだろう。

「どこの?」と慎重に、ヒトシ。

「きりきりというところよ」ヒロさんが答える。「いわて県の太平洋側。わたくしも実はまだ行ったことがないんですけれど、とてもいいところらしいわ。そこに、とあるかたの別荘があって、今年はそれをわたくしどもでお借りすることができたということなの」

 借りる、というのは、もしかすると、永遠にもらった、譲られた、ということかもしれない、とレイラは思った。

 “菩提樹”に出入りする外のひとの中には、時々、自分のいのちや家や財産を譲ってくれるひとがいる。中には全部放り出さずにいられなくなるひともある。“ひめ”たちの誰かをあまりにも好きになりすぎて、この世で自分が所有しているものをなにからなにまで全部捧げずにいられなくなることがあるらしい。過去には、“ひめ”をここからさらってどこかへ連れていこうとして、大騒動になったこともあったらしい。そんなことは不可能なのに。“ひめ”は誰のものにもなりはしない。だいいち“菩提樹”の外にでてしまったら“ひめ”でいられなくなってしまう。

 どんな供物を捧げようとも、血族ではない外のものを身内にすることはありえないが、親しくなることはある。うんと近くなって、特別なみかたになってもらうことはある。けっして誰のものにもならない“ひめ”たちと、その“ひめ”たちを守り育む“菩提樹”を、そのまま、あるがまま、未来に存続させるために助けてくれる外のひとたちを、実際、“菩提樹”は必要としているのだから。“菩提樹”もまた、この世のこの国のこの時代のうちに、世間のことわりの中に、うまく溶け込まなくてはならないのだから。

「そこ、泳げんの?」ヒトシがまた聞く。

「そりゃあそうでしょう。海ですもの」

「やりぃ!」ヒトシはぱちんと指を鳴らそうとしたが、うまく鳴らなかった。「俺、今年はちゃんと泳げるようになりたかったんだ。夏休み終わるまでに、クロール、マスターするぞ。プールなんか端から端まで猛スピードで行っちゃうんだ。やったぜ。かっけー!」

「長くでかけることになるんですか」スミカも聞いた。「何泊ぐらい? 宿題やなんか、みんな持ってったほうがいいのかしら」

「八月の終わりまで、行っていようと思うの」ヒロさんが答えた。「実は、この屋敷に、ちょっと手をいれることになりましてね。古くて痛んでいるところがあるものだから。壁や床を剥しての大掛かりな工事に少なくとも四週間は見て欲しいって言われたんですけど、お天気次第ではそれよりかかるかもしれないでしょう。どんどんガンガンしている時、中にいるなんて、イヤだし」

「ということは」

「そう。お部屋は、なるべく空にして出かけたいの。冬物や、とりあえずいらないものは、全部、お城に預けるか、蔵にしまってしまいましょう」

 八月の末まで?

 じゃあ、一ヶ月以上だ。

 レイラは華やいだ気持ちにほんの少しの不安が混じるのを感じた。海に行けるのは嬉しいが、大好きなこの屋敷をそんなに長く離れるなんて。その別荘というところが、もし、あまり好きになれないような家だったらどうしよう。

「……行ったら、そのまま、ずっと行ったきり、なのですか」レイラはそっと訊ねた。「絶対、戻ってきちゃだめなの?」

 戻りたくなっても。帰りたくなっても。帰れる場所がなかったら……?

「……あらまぁ、レイラったら」

 ヒロさんは手を伸ばして、レイラの手にさわった。さわられてみてはじめて気付いたが、指はつめたくなって、こまかく震えていた。

「そんなに怖がらないで。だいじょうぶ。みんないっしょですから」

「ごめんなさい……あたし……」レイラは自分の気持ちの正体を、なんとか自分でわかろうとした。「なんだか突然、不安になっちゃったんです。海になんて、行ったことがないから。わたし、そこを、好きになれるかしら」

「なれますとも」とヒロさん。「海は素敵よ。きらうひとなんていないわ」

「でも、プールとは違うんでしょう、うまく泳げないかもしれないし」

「教えてやるよ」ヒトシが言った。「任せろ。バッチリだ」

「かわりに宿題やらせる気でしょ」と鼻に皺をよせるスミカ。

 だったら悪いかよ、とヒトシが舌を出す。

「寂しいのね、レイラは」ヒロさんは優しくレイラの頬に触れた。「よくわかります。わたくしもよ。この屋敷を離れるのは、とても寂しいし、不安です」

「ヒロさんも?」

「ええ、もちろん。だって、ここが大好きだし、慣れていますからね。でも、しかたないの。ごめんなさいね、勝手ですけれど、もう決めてしまったの。それが一番いいと思って。だから、せめて、こんど行くところでも、うんと楽しく過ごしましょうね」

 レイラがやっとの思いでうなずくと、ヒロさんは手を離した。

「あなたがたのママたちにも、そのうちに遊びに来てもらいましょうね。みんなそろってお休みがとれるかどうかは、わかりませんけれども、ずっと逢えないなんて悲しいですものね」

 母。母のサヨラのことは特に考えていなかった。あまり会えないし、別邸にきても、ぼうっと放心しているか、ひとり遊びをしているか、うたた寝をしてばかりいる母である。

 だが言われてみれば、そんなに長いこと完全に引き離されてしまうのははじめてのことだ。たとえ、学校に行く支度をしに部屋に寄った時にチラリと寝顔を見るだけでも、優雅で美しい母が安らかにそこにいてくれることが確かめられると、ほっとした。安心だった。どうしても逢いたくなったり特に話したいことができたりしたら、そう頼むこともできた。たいがい二、三日のうちには、かなえてもらえた。

 母はレイラの根底であり、自慢であった。母の娘でいられることを、幸福だと思っている。

 おかあさんは、あたしとそんなに長く、遠く離れたら、寂しいのかしら?

 答えられないでまごまごしているうちに、ヒトシが口を挟んだ。

「かあちゃんたちのことなんてどーでもいいよ。それよか、ねえ、ヒロさん、金くれない? 俺、水着買わなきゃ。去年のやつ、もうキツキツなんだ。チンコはみでそう」

「ヒトシ!」スミカが低く言う。

「ほんとだもん」

「そんなこと口にする必要ないでしょっ」

「それは確かに切実に必要だわね」ヒロさんはウィンクをしてスミカをなだめた。「そうねぇ、じゃあ、あしたは、みんなでデパートに行きましょうか。 水着とか、浮き輪とか、サンダルとか、麦藁帽子とか。必要になりそうなものは、全部ちゃんと買っていきましょう。そのほうがいいと思うわ。きりきりはとても静かなところだそうだから、そんなにステキなお店はないかもしれないもの」

「つまりクソ田舎だ」ヒトシは肩をすくめた。「そりゃあよぉく考えて準備してったほうがいいな。花火ぐらい、あんのかな、そのド田舎」

「はなび! はなび!」

「やりたい!」

 双子が揃って声をあげる。

「こいつらに使わせる昆虫採集セットとかもいるぜ、きっと」

「あんたが欲しいんでしょ」決め付けるスミカ。

「あのう……レディと、トランプは?」レイラは言った。「一緒に、いけるんですか?」

「あら、まぁ、そうだったわねぇ」ヒロさんは困ったように眉をひかめた。「あの子たちをどうするか、決めないとね」

「電車じゃ、犬は連れてけないですよね」スミカが言った。「でも、いわて県までずっと車で行くっていうのは、すごく時間かかりそう。双子なんか、グズっちゃうわ、きっと」

「犬を運ぶのは貨物列車なのかしら」レイラは言ってみた。「もし、そうなら、わたしも、レディたちといっしょにそっちに乗ってもいいわ」

「困ったわね」

 ヒロさんはちょっと考えこんだ。

「……そうね。こうしましょう。わたしたちだけで先に電車でいって、犬たちとアキコちゃんは、あとから車でつれてきてもらいましょう。長旅でむずかられたら困るなとは思っていたの。小林か誰か、手のあいてるひとが引き受けてくれるでしょう」

 みんなうなずいた。確かに、それがいい。

「俺、サングラスも買ってもらおう。すっごくかっちょいーやつ」

「はなび買う! ロケットはなび買う!」

「うんこはなびも!」

「ボートもいいな。仮面ライダーのついたやつ」

「らいだー、らいだー!」

「ぼく、ウルトラマンの!」

「うーたーまん!」

「ノリヲはさっき、ライダーだっていったじゃないか」

「うーたーまんなのー!」

 ヒトシと双子たちは興奮にどんどん声を張り上げている。

 スミカはヒロさんのほうを向き、日焼け止めには化粧品がいいか、パラソルのほうがいいか、相談しはじめた。

 レイラも笑顔を作ってはしゃいだ。今年の夏は、特別なのだ!