yumenooto uminoiro 2016.7.11 |
Layla 7
それはこどもたちが高台の家に来てから初めての、まとまった雨だった。 雷が鳴って激しく叩きつけるような夕立ちが早足に通っていったり、朝型に靄と霧といったいどっちの名前で呼ぶのが正しいのか迷うようなお湿りが来たりしたことはそれまでにもあったのだが。きっぱり朝からしとしと雨が降った。そういうのは、珍しかった。 フクちゃんは傘をさしてふだんより遅めにやってきて、びしょぬれになりながら水汲みをした。それは時刻としてはみんなが朝ゴハンに顔をそろえたあたりだった。フクちゃんは台所の窓から顔を覗かせて、今日は、どうしましょうか、と聞いた。 どうせ泳げば濡れるんだから雨だろうとなんだろうと関係ないじゃないか行こういこうとヒトシは言ったが、雨は冷たくて、海は寒そうだった。たまにはどこにもいかず家でゴロゴロするほうがいい、というのが他のみんなの気持ちだった。 「第一、あんた、宿題たまってるでしょう」スミカはヒトシに言った。「このチャンスに、やっちゃえば?」 ちぇっ、とヒトシは顔をしかめた。思い出したくないことを思い出させられてしまったのだろう。 じゃあ、とさっそく帰りかけるフクちゃんに、あがってよ、うちでいっしょに遊ぼうよ、と双子が甘えた。ミキヲもノリヲも大好きな人生ゲームに、「家族」はもうすっかりうんざりしていたからである。なにせ双子はルールというものは都合が悪い時には無視してごまかしていいものと心得ているし、いかなるゲームでもかならず、自分(たち)が勝つまでやめないのだ。油断しているとこっそり、コマをずらしたり、ひとの手持ちのコマや札を盗んだりさえする。ふたりのどちらもがそうで、時には共謀してそうする。ふたりともが納得し、満足し、もうやめてもいい気になるほど勝つなんて結果になることはけっして多くはないから、ようするに、いったん人生ゲームなりなんなりをはじまると、とにかくやたらと延々と長時間ゲームをすることになってしまい、双子以外のみんながすっかりうんざりしてしまっても、やめることができないのである。 テレビの部屋の横で、双子とフクちゃんとヒトシがゲームをはじめた。ヒロさんは本とカクテルを持って二階の自分の部屋に篭もってしまい、マツエさんとアキコを抱いたナルミちゃんは映りの悪いテレビを見ている。 レイラはみんなから少し離れたところで畳にはらばいになって、もう三回も読んでしまった本(『チョコレート工場のひみつ』)をまためくりはじめたのだが、少しするとスミカがやってきて、ひそひそ声で、ねぇ、ちょっと、こない、といった。 「どこへ?」 し。スミカは指を唇にあてた。はなれ。声に出さずに、口を大きく動かした。 風呂場の二階の、いつかヒロさんがオマルを見つけ出す時に登っていった鉄階段をふたりはなるべく音をさせないように登った。階段は屋上に続き、水道タンクの乗っていないほうにドアがあった。鍵はかかっていなかった。 小さな、天井がななめになった空間だ。きっと物置なのだろうと思っていたが……たしかにいまは納戸というか物入れというか、ものの置き場につかわれていたが……少なくとももともとの用途はそうではなかった。違っていたようだ。ドアの内側にはちいさな上がり框があり、そこから十センチほど高くなった床には赤黒い色のカーペットが敷いてある。黒い毛や白い毛が混じっていて、踏むと足の裏にチクチクする絨毯だ。 屋根が傾いて低くなっていった側にだけ窓があり、やはり赤系統の布のあまり趣味のよくない柄のカーテンがさがっている。窓に向って左側に壁に寄せて寝台列車のような二段ベッドがあった。上のほうの段天井までは全部を埋めるように包みや箱がギッシリ乗せてあるが、下のほうはベッドメイクがしてある。毛糸でできたへんなオレンジ色のベッドカバーには、誰かが寝て起きたようなくしゃっとくぼんだ痕があった。ベッドの反対側の壁から床にかけては、荷物が山積み。箪笥や引き出し、リンゴ箱にお茶箱、ダンボール箱、あずき色の蒲団袋。着物を入れる長くて薄っぺたい箱が、いくつもいくつもまとめて縛ってある。足の折れる卓袱台、布の傘が少し焼けている卓上ランプ。航空会社のマークのついたショルダーバッグ、古そうなチェック柄のトランクにスーツケース、ギターケースのように見えるものもあった。こんもりと被せてあるシミのついた古シーツから、ぬいぐるみの足らしいのがチラッとのぞいている。よく見ると荷物の山の下のほうには古めかしい木製の書き物机があり、同じぐらい古そうな椅子もおしこんである。座面の布張りの角がすりきれて、藁がはみだしている。机にくっついた塗りのはげかけた引き出しからは何かの書類の端っこがはみだしている。机の上には、本がたくさん積んである。やたらにたくさん。何束かは雑誌らしく、ぞんざいにくくってある。 「……ここ、誰かの部屋だったんだね」 レイラは言った。 「そうね。たぶん、わりと若い男のひとのね」 スミカは遠慮なしにあがりこんで、あの皺のあるベッドにポンと飛び乗った。 「ほら、こんなの張ってあるでしょ」 ベッドのほうの壁際の暗がりに、小さなポスターが何枚か陽に焼けてめくれかけていた。ひとつは、どこかで見たことがありそうな女のひとだ。白いブーツでミニスカートで、バイクにでも乗るようなヘルメットをかぶって、ふわふわの水色のマフラーをなびかせている。お尻のほうをカメラに向けていて、上半身をひねってふりむいて、すこぶる不自然な笑い顔を作っている。その隣は黒髪のガイジンのヌードだった。くしゃくしゃになったサテンのシーツのようなものの上に尻を落とし、信じられないほど巨大な乳房を両手でつかんで真ん中に寄せ、目をうつろにし唇を開いて、クシャミをこらえてでもいるかのような顔でこっちを見ている。いや、顔よりなにより、問題は。 「……うそ、なにこれ」 大きく開いて裏側を見せた彼女の太股の付け根には、もじゃもじゃの髭が生えているのだった。髭は途中で大きく左右に分かれ、下がるにつれて薄まっていくのだが、その真ん中に、確かけっして写真に撮ってはいけないことになっているはずの女性にしかないたいせつな部分がはっきりとさらけ出されているのであった。レイラにとっては生まれてはじめて直視したものであった。見た目は、ほとんど生肉、だった。すきやき用の上等の牛肉。ちょっとよじれてくっついたところが少し灰色がかっているあたりなど、とくに似ていた。 すきやき肉ふたきれが箸でつまみやすくでもするかのように広げられている間には、チラリときれいなピンク色がのぞいている。そこは潤っていて、濡れていて、すごく柔らかそうで、確かにそこにあるのだから確かにそれはそのやたらに大きなおっぱいをした女のひとのからだの一部なのだろうが、むしろ、そこだけまったく別の生き物であるかのように見えた。まるで海の底に隠れてるなにか。ちょっと突ついたら、あわててキュッとひっこむ種類の生き物。 ヒロさんの家で、去年のクリスマス、生ハムを咲いた薔薇の花の型になるよう並べて飾りつけた大皿を見たことがあった。それにも似ているかもしれない。ちょうど花の真ん中がなんだか不自然にぽっかり丸く開いていて……というよりも……待てよ、とレイラは思った。ひょっとすると、あれは、あっちのほうが、これを模したものだったのではないのか。 たっぷりの生ハムを使って作った薔薇の外側には、ローストビーフで楕円形の土手が作ってあって、その外側は海草サラダだった。あたりじゅうにサバイヨンソースがたっぷりたらしてあった。生ハムの真ん中のくぼみからはじまって広がっていったかのようにかけられた白いソース。そういえは、そうだ、生ハムの途中、ちょうどローストビーフ楕円の頂点の片方に近い側にひとつだけ小さなパールオニオンが置いてあって、どうしてたった一個だけこんなものが飾ってあるんだろう、余っちゃったのかな、ひょっとして、どこか他でつかうものをまちがえて落としちゃったのだろうか、と、レイラは思ったのだった。それにしては、妙にきっかりと左右の「まんなか」で、なんというか、まちがいなく、完璧に意識的に置いたにちがいないという感じの位置だったのだが。 その銀の大皿は“菩提樹”から、おすそわけ、といって、ミチナリくんが届けてくれたもので、持ってきてアルミホイルをはずす時、ミチナリくんは、なにやらクスクス笑いを堪えているかのような顔をしていたのだった。こどもたちは、わぁ、おいしそうだぁ、すごいね、とみんな喜んだし、ヒロさんも、……まぁ、みごとですことね、と平気で微笑んでみせたのだが、そういえば、マツエさんひとり、いきなり鼻でもぶたれたかのように顔を真っ赤にして、なんでこんなものを、と、不愉快そうに黙り込んでしまったのだった。 あのときは、“菩提樹”のシェフに、同じ料理人として「負けた」と思って気落ちしたのだろうかとレイラは思っていたのだが、ひょっとすると、まったくぜんぜん違う理由だったかもしれない。下品なしかたで、からかわれたと思って、不機嫌になったのだったのかも。 「なに絶句してんのよ」スミカが笑った。「ショック? ひょっとして、あんた、こういうの、はじめて見たの?」 もちろんだ。はじめてだ。まったくはじめてだった。おとなの女のひとって、こうなんだ……。 レイラはうなずいた。うなずいたらその勢いで、知らぬ間に溜まっていた唾が喉に流れこんだ。 「おやまあ。そうなの。じゃ、この際ちゃんと近くにきてよく見とくといいわ。これだと、わかりやすいし。あんただって、多かれ少なかれ、こんなふうになっているんだから」 ほら、いらっしゃいよ、とポンポン隣を叩かれてあわててつっかけてきた靴を脱ぎ、チクチク絨毯にチクチク足裏をさされながら、ベッドのスミカの隣にそろそろと這いあがった。 あらためてしげしげ近くで眺めているうちに、生肉やら薔薇やらの下のほうにシワシワにすぼまった部分があるのも目に入ってきた。それがなんであるかを頭が理解したとたんに脳みそにチカッと電気が走った。まさか。こうしてしっかりと見たのははじめてだったが、いちおうの知識はあるから予想はつく。位置からして、また、他にそれらしいものがないことからして、これは間違いなく、ひとめをはばかって排泄をするためにあるあの最も秘めておくべき場所であろう。そういえばオシッコのほうはどこから出てくるのだろう? これだけあからさまにさらけだされていてもそれらしいところが見当たらないのが不思議だ。見分けがつかなくて、わからないのだろうか。スミカに尋ねるのも恥かしい。無知をさらすのもいやだし、そんなところに興味をもっているということがバレるのもいやだ。なんだかへんにドキドキして、気分が悪くなってきた。耳の中に栓が生じて、胸がむかむかした。 これはようするにつまり、典型的な嫌らしい写真というものなのだろう。男のひとが、エッチな気分になりたいときに見るものなのだろう。これを見ると、男のひとはウットリして、さぁ、恋人に逢いにいこうと思ったりするのかもしれない。しかし……なんというか、ちょっと驚きではないか。これは? あまりにも生々しくて、グロテスクすぎないか? こういうものをわざわざ眺めたがるひとがあり、こういうのが素敵だと思うのか。 おとなになって、大好きなひとができて、そのひとに身をまかせることになったなら、……自分のからだのこのようなふうになっているあたりのものをすべてつまびらかにしなければならないということか。 それはなんというか、ちょっとひどくないだろうか。 目と目の間にガツンと拳骨を食らったようなショックだった。いやだ、いやだ、大声で叫びたくなった。なんというか、こんなのひどすぎる。あってはならないことで、とうてい耐えがたいことだと思った。自分もまた、ひとりの女であるからには、そのあたりがどうにかなっているのだろうが。おおむねこのようになっているのだとは、信じたくなかった。認めたくなかった。こんなすがたは誰にも、自分にも、みせたくなかった。まして愛するひとに、このような姿をさらすことがあるかもしれないとは。 こんな恥ずかしい目にあうぐらいならば、死んだほうがましだ。愛されるためには、望まるためには、しかたがないのか。でも、いくらなんでも、これは。 当惑のあまり、口走ってしまった。 「でも……これ、へんじゃない? みんなこうなの? だってこんなに……ううん、ちがうよ。ちがうと思う! こんなじゃないもん! ぜったい……たぶん」レイラは言った。「あたし……あのう、あんまり……ちゃんと、っていうか、知らないけど。ぜんぜん見たことないけど……きっと違うと思うの」 あとのほうは我ながら言い訳くさいのでもごもごと口の中に沈んでしまう。 「あらまあ」 スミカは眉をあげた。 「ふうん。そうね。そう思っておきたい気持ちもわからなくもないけど。あんたって、そう。まだそうとうにお子ちゃまだったのね。まぁ、毛もはえてないし。胸もないし。でもね、いずれ、まぁ、こんな感じになるわけよ。いちど、鏡でよく見ておくことね」 スミカはあっさり言い放ち、それからひとりごとのように、この程度でそんなにショックうけちゃうんだったらこっちはまだレイラには見せないほうがいいのかなぁ、などという。 「な、なんのこと?」 「他にもまだいろいろあるんだけどぉ」 スミカは舌なめずりするような顔つきになった。 「どうする? あんた、どう? 見たい? 見てもだいじょうぶ?」 「えっ……ええと……」 あまり平気じゃあないかもしれない。 レイラは困った。 いったい何を見せられようとしているのか。首筋がざわざわする。期待なのか不安なのか。どちらかというと恐くて尻込みしたいような気がする。だが、スミカがもう見てしまっていて、それでおもしろがっていて、平気なんだったら、自分にも見せてくれようと思って連れてきてくれたというのに断るのは失礼だし、勇気がないと思われる。ひるんでしまうのは悔しい。そんな機会がそうそうあるとは思われないし、なにも見たからといって目が潰れるようなことはないはずだ。そりゃあスミカはじぶんよりはオトナだが、たった二歳しか違わないではないか。 「見る」レイラは言った。「なんだかわからないけど。見てみる。見せて」 するとスミカはニヤリと笑い、ベッドの頭の向こうから、十何冊もの雑誌をひっぱりだしたのであった。 ずるい、とレイラは思った。スミカはこの山を先に発見し、ひとりでながめたのだ。こころゆくまで、見たのだ。ひとりなら、こころの準備をしてページをめくることができただろう。あまりに動揺がはげしくなったら、少し時間をおいて、落ち着いてから次をみるということだってできただろう。できればレイラもひとりで、誰にも知られず、自分のペースで検分したかった。それを眺めたり読んだりしている自分の姿を、誰にも、たとえスミカにも、ぜったいに見られない知られない状態で、見たり読んだりすることができればよかったのに、と思った。思わずにいられなかった。 もろもろ眺めているうちに、なにしろだんだん顔が熱くなってきて、動悸が激しくなってきて、喉がからからになってきて、おまけに困ったことに、突然、ものすごくオシッコがしたくなってきた。 しかしスミカはレイラの頬に頬をくっつけて、雑誌のページをめくっては、さまざまなあからさまな写真を指さして、いちいち、ほらこうでしょう、ああでしょう、これ、なにがどうなってるのかわかる? などと言うのだった。レイラが混乱しているのがわかると、楽しげに指摘し解説し確認のための質問した。ああ、とか、うう、とか、うわ、とか、レイラはうめくのがせいいっぱいだった。しかもスミカはどんどん先を急いだ。写真の載っていないページはどんどん飛ばしてしまう。レイラは文字を読みたかった。ちゃんと読んで理解してみたかった。読むところはいくらでもある。だが、こんなにせかされては目が追いつかない。 いつかひとりで読みにこようか。レイラは思った。誰にもじゃまされずに、こっそり、こもって。 こんなものは他に知らなかったから、文字も書いてあるだけ全部読めるかぎり読みたかったし、写真も、もっとじっくり見たかった。ただ眺めるだけではなく、何がどうなっているところなのかをただ知るだけではなく、そこに書いてある説明とか、そういうものを読んでみたかった。これがどういうものなのかを把握してから、もう一回改めて見てみたかった。そうでなければ、とても理解できないし、納得がいかない。 そんなチャンスがあるのだろうか? たとえば別の雨の日が? そもそもスミカはいったいなんだってここにこんなものがあるってことを見つけたんだろう? いつの間に探ったのかしら。ヒロさんは、知っているんだろうか? 考えているひまなんてありゃしない。 たくさんの雑誌があり、さまざまな種類の写真があった。ファッション風の、ドラマ風の、ドキュメント風の。あまりにもたくさん見たし、とにかく大急ぎだったので、どれがどんなふうだったのかひとつひとつ覚えておくことなどできなかった。しかし中にはあまりに印象がすごくて目玉に焼き付いてしまうものもあった。 ある雑誌の巻頭のモノクロのページに、ほとんど裸には近いのだけれどよその星のお姫さまかなにかみたいな格好をした大柄な女のひと(ひょっとしてガイジン?)に、チビでハゲでみっともない格好をした男のひとが、伸されて踏まれて助けてぇ、みたいになっている一連の写真があった。女のひとは「こっち」を見て得意そうにニヤッと笑い、腕をまげて力瘤を出してみせている。大急ぎで目を走らせたキャプションには、ストリップ、という文字があった。それはたぶんどこかの舞台で、なにかの出し物を続けて写真に撮ったものだっただろう。女のひとが自分の力をそんなふうに誇示しているのが威張っているようでイヤだったが、男のひとのほうがてんでふにゃふにゃで、ニヤけてだらしがないのももっとイヤだった。不快だった。 そう、たいがいの場合、女のひとはかなり美人であるか、顔はオヘチャでも、とてつもなくみごとなおっぱいをしているか、少なくとも、よく見えるようにいっしょうけんめいお化粧をしている。なのに、その女のひとを掴んだり抱えたり押しつぶしたりなんだかんだ好きなようにしているように見える男のひとたちの大半が、ステキでもカッコよくもなく、へたすると、じゅうぶん若くすらない。ひどく狂暴そうな顔つきだったり、病人みたいなぬめっとした顔をしていたり、汚くて下品だったりする男ばかりだ。 そんなイヤな感じの男たちにじろじろ眺められたり、無遠慮にさわられれば、そりゃあ、こんな顔をするだろう、という顔を、女たちはみんなしていた。ふてくされたような、泣くのを我慢しているような、どこか他のところにいたいのにここにいなきゃならないのにウンザリしているような、そんな顔。大声で悲鳴をあげているとしか見えない顔もあった。笑っているのもある、でも、にっこり笑っているのはほとんどみんな女のひとがひとりだけで写っているもので、自分の自慢の裸をさぁ見てちょうだいとばかりに開いているようなやつで、だからそれは誘い掛けるための、だいじょうぶよ安心してわたしは平気よあなたをちゃんと受け入れるわオーケーよという笑いなのだ。 ってことは。 女は、ひとりぼっちでいたくない時には笑い、男のひとにかまわれている間じゅうは、こんどはひたすらイヤがっているものなのだろうか? なんだか……それってすごく奇妙だ。へんだっていうか、間違っているような気がするんだけど。 すっかり動揺し、混乱し、もしかすると失望し、すっかりなにも言えなくなってしまったレイラの目の前に、スミカは次々に新しい雑誌を持ってきては、なんだかんだ早口で喋りながらどんどんめくってみせた。 中には横文字がびっしり書いてあるのもあって、スミカに言わせると、それは英語やドイツ語だそうだ。日本はダメだけどよその国にはポルノを解禁しているところもあるのよ。外国人の女のひとたちは日本の雑誌に出てるひとたちより平均的にいってずっときれいで元気そうで、どっちかというと年齢はよけいにいっているように見えたが、おっぱいもお尻もものすごく発育がよかった。ドイツの雑誌のどれかひとつではある女のひとは順番にふたりのボーイフレンドとなにやらくんずほぐれつ、さんざんさわりっこをしたり繋がったり舐めたり咥えたり抱き着いたりしていたが、はっきりいって男のひとたちはどちらも、最初から最後まで疲れきって退屈した顔をしていた。ひとりのほうなど、けっこうハンサムなのに頭のてっぺんがとても薄くてそれがなんだかひどく貧相で、いやらしいよりなによりも、その薄ら禿げの部分のほうに目がいってしまって、ああ気の毒に、と思った。そんなところがそんなに目立つように写真に撮られたりしたら、きっとイヤだっただろうに。その雑誌の残り半分は顔の長い特に鼻の長いぜんぜんきれいじゃない女のひとと、まるで天使のようなすばらしい顔をした愛くるしい女のひとのふたりが、いろとりどりの蝋燭みたいなものをお互いの例の足の間の生肉近辺にいろんなかっこうでさしこみあっている話のようだったが、天使のような女のひとはその日レイラが見た中では一番ちいさく萎びたまるで干ブドウがノシイカにはりついただけみたいな乳房をしていた。 スミカがたぶん最後のトドメのとっておきにしておいたのだろう一冊は中では分厚くて雑誌というよりほとんど一冊の本のようなもので、それはほとんどまるごと全部、女のひとをヒモで縛ったり天井から吊るしたり狭いところにギュウギュウに詰め込んだりすることに関しての研究の本であるらしかった。その一冊に使われている写真はどれもこれも、それまでのどれとも比べ物にならないほど質が高く濃密だった。裸ならなんでもいいだろうといわんばかりにまるでスナップ撮影をするように撮ったものではない。構図やライティングや印刷に凝りにこって、高い技術でお金をかけて、しっかりと作り込んであるものだった。その時そういうコトバで考えたわけではないが、レイラにとってさえ、「プロのシゴト」だということがはっきりとわかった。中に、着物を着たまま縄で縛られて胸をはだけ裾を大きくめくりあげられもっとも見せてはならないことになっているはずのところだけを逆にむきだしにされているひとの写真があって、その日のたくさんのそういったもののなかで最高に圧倒的に美しく、同時になんとも背徳的で衝撃だった。最悪に恥ずかしくて残酷でいやらしいのに、途方もなく美しい。そんなことがありうるのだった。なにしろモデルさんになっているのが顔もからだも肌艶も飛びぬけてきれいで上品で清楚きわまりない、いくら頼まれてたって絶対にそんなことをしそうにはないひとだったし、よく見ればその着物はとても豪奢な大振り袖で、たぶん花嫁衣裳だった。唇にくわえさせられたシゴキには、紅がべっとりと滲んでいた。黒っぽいキモノと、なめらかな白い肌の対比の鮮やかなことといったら! 別のページでは、妊娠中の、それもいまにも生まれそうなぐらいおおきくつきだしたお腹をした女のひとまでが、すっ裸でぐるぐる巻きに縛られて猿轡を噛まされていろんなポーズをとらされていた。はたまた別のところでは、服を着たままの男のひとたちふたりの間で痩せたからだが寒そうなやはり丸裸の女のひとが、棒のようなものでひっぱたかれたり、床に置いた皿から水を舐めさせられたり、首輪につながれて檻におしこめられたりしている。ページのどこかにM女歓喜のわんちゃんごっこ、と書いてあるのが読めた。 息が苦しく、胸が苦しく、頭が苦しかった。 途方もない量の、途方もない写真。まるで知らなかった思いもよらなかったさまざまなことがら。しかし紛れもなく人間の、おとなたちの、どうやら世界じゅうでおこなわれているだろうふるまい。用いられているあまたの道具や不可思議な衣装などなどは、そういうことに熱中することが少しも特別なことでも異常なことでもないらしいことをはっきりと物語っていた。そもそも、こんなにたくさんの本が、こんなにたくさんの写真があり、それに関わりそれに登場さえするひとびとがいるのだ。欲しがって買うひとたちがいて、それを商売にするひとたちがいる限り、この営みは続くだろう。写真になど撮られはしないもっとおおぜいのひとたちが、誰も知らないところでひそかにこういうことをしているかもしれない。 レイラの脳みそはジンジン痺れた。胃のあたりに火花がくすぶっていて、油断するといきなり爆発しそうだった。血の気のひいた手でそっとあばらのあたりをさすってなだめていると、突然涙が出た。 「……あらま!」スミカが気付いて、あわてて、ごめんごめん、と言った。「なによ。泣くことないじゃないのよぉ」 「……ごめん……」 「そっか。強烈すぎたかなぁ。あんたには。あんまりいきなりだったかしら」 うん……とレイラはつぶやき、ふらつく頭を両手で支えた。 「どうして……出られるの?」 「なに?」 「あんな写真、どうして撮られて平気なの? 逮捕されないの?」 「されるかも」スミカは笑った。「けど、別に死刑にはならないよ」 「でも……だってあんな……売ってるわけでしょう。本とか雑誌になっているってことは。だったら、親とか、親戚とか、ともだちとかが、偶然見ちゃうかもしれないんだよね。あの子こんなことしていたって、後ろ指さされるでしょう。そんなの、だめでしょう。生きてけないよ。とてもじゃないけど平気な顔なんかして生きていられないよ。怒って、怒りすぎて、憤慨して、頭爆発して死んじゃうよ、たとえばうちのママならきっと」 スミカは黙り込み、それから、そこらに散らばっていた本をみんな避けて、レイラの肩をしっかりと抱いた。 「そうね。あんたは、そう思うのねぇ」 だって、女のひとたちはみんな身も世もなく哀れそうな顔をしていた。こんなことをさせられるくらいなら死んだほうがましだ、みたいな顔を。中にはこれはぜったいにお芝居じゃなくて本気だろうと思うのもあった。きっと騙されて、さらわれて、まさかそんなことされるとは思ってないのに、ひどい写真をとられてしまったんだ。 それとも……お金、だろうか? 一生なんでも欲しいものを買って楽に食べていけるぐらい莫大なお金をもらえるんだとしたら? それなら、できるだろうか? 家族も誰も知らないところ、たとえば、外国とかに逃げてしまうのだったら? いや。そうじゃなく。あれが実は意外にも、それなりに楽しいことだとしたら。オトナになったら、みんなみんな、実は、ああして欲しいと思うようになるはずで、なるべきで、ならないほうがへんなのだとしたら。 涙がまたどんどんあふれてきた。やるせなかった。途方もなく不安で、細くて、恐ろしくなってきた。 だったらオトナになんかなりたくない。 ぜったいになりたくない。 このまま生きているといずれあんなふうになってしまって、あんなことをしなくてはならないのなら、いっそここでこのままのあたしのまま、いまのなにも知らないあたしのまま、死んでしまいたい。このまま消えてなくなってしまったほうがマシだ。 こんど点滅して消えちゃいそうになったなら、そのまま行ってしまおうかしら? ああ、ユメミと喧嘩別れなんてするんじゃなかった。あの子にあったら、頼もう。あたしもはやくそっちに連れていってと。あの子の棲んでるあの、どこだか知らないどこかのほうへ。 レイラは両手で目を覆った。しゃくりあげてしまって、涙ばかりでなく、鼻水まで出て来てしまった。赤ん坊のようだ。じぶんでもわかっているが、どうにもならない。 「レイラ、レイラ」スミカはレイラを抱きしめたまま、やさしくゆらゆらからだを揺らした。「あのね。あたしね、初潮、来たんだ」 「……え……」 それのことは知っている。漠然となんとなくだけど。クラスの武田さんも佐藤さんもそれになった。そう聞いた。なんだかめんどうくさいものらしい。ウワサだけど。来年、五年生になったら、女子だけ集められて保健の先生から詳しい説明と注意事項を聞かされるんだそうだ。そうしたら、いろいろなことがわかるらしい。わかっておかなきゃ、なきゃならないらしい。 「だからね、あたしはもうじき“ひめ”になる」スミカはやさしい声で歌うように言う。「そう遠くないことかもしれない」 「……」 「“ひめ”は、夢の中を歩くでしょ。ひとのこころの中を歩くんだよ。しごとだから、お役目だから、必要になったら、どんなとこにだって行かなきゃならない」 レイラはぼうっとしてスミカを見つめた。 「こころの中は写真に撮れない。あんたがいま見てショックうけたものより、もっと恐ろしい、もっと信じられない、もっと醜いものとかだって、いっぱいいっぱいあるんだよ。ぜったい、いっぱい、あると思うよ」 なるほど。それはそうかもしれない、とレイラは思った。 「わたしたちね、ほんとうに、すごいことしなきゃならないのよ」 レイラは涙と鼻水を拭くための紙かなんかがそこらにないか目をさ迷わせていたので、一瞬、スミカの話を見失った。スミカはあれに……ええと、なんていうんだっけ、まだしも口にできることばで……そう、アンネだ。アンネになった。そこまではいい。でも、それと、“ひめ”がどうつながるの? ひょっとして、アンネになるって、おとなになること? ならないと、ほんものの“ひめ”にはなれない。 でも、あたしはもう夢の中を歩いたよ。歩いたと思うんだけど。違うのかな? 泣き過ぎで酔ったようで、当惑もあって、ぼうっとしてスミカを見つめていると、 「ほら」 スミカがどこからともなくチリガミを取り出して渡してくれた。ありがたい。 無事に洟が拭けて息ができるようになったので、やっというべきことを思いついた。 「わかったわ。あたしも、そのうちにはいつか“ひめ”になるから。大急ぎでなるようにするから! お願い、置いていかないで。ひとりはイヤ。ひとりぼっちはこわい。スミカといっしょのほうがいい!」 スミカはしげしげとレイラの顔を見詰めると、鼻の穴をふくらまして息を吸い、また、吐いた。それから、とびきりやさしい声になって……なぜかレイラはそれを、悪い継母が白雪姫に毒りんごをすすめる時の声にぴったりだと思ったのだが……レイラの頬をなでながら、言った。 「……だったら、それより、いっしょに逃げない?」と。
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