yumenooto uminoiro |
Mahane 7 イメージと感覚と物語が多重露光のように押し寄せた。カラーの、モノクロの、二次元の、三次元の、無音の、音ありの、さまざまな断片がごっちゃになって殺到する。せわし過ぎめまぐるし過ぎてとうていひとつひとつを見定めることはできないけれど、ときどきなにかがひっかかった。たくさんの活字の中で自分の名前の漢字だけはなぜか見えるように。たくさんのひ ポチにはわかった。 それは、夢の海だと。 そこにあったのはたくさんの夢のあつまりだった。生まれてこのかた見た夢がぜんぶあったのかもしれない。あるいは、世界じゅうのひとの見る夢がランダムに流れているのかもしれない。あらゆる夢は堆積し、折り重なって、つながったり切れたりし、交じり合ったりはがれたりしながら、お互いを通り抜けた。 海だから、泳ぐことができそうだ。前後上下左右、どちらにでも行ける。というか、どちらがどういう方向なのか、さだかではない。あらゆる方向が等価で、区別がつかない。両手をひとかきしてすすんでみる。潜りこんでみる。立ち上る夢の中をつきぬけていく。新しい夢が次々にいくつもいくつもあぶくになって生まれてくる。誰かが何度も何度も繰り返し見る夢なのか、がっちりとしたかたまりになって、漂っているものもある。ある夢にふれたときには、過去にさかのぼったのかと思った。小さなこどもの頃、よく熱をだした、そんな日に決まって見たアブストラクトな夢の感触が蘇ってきたから。良い思い出だったとはいいがたいが、あまりに久しぶりで、懐かしくて、胸がきゅうっとした。 夢は時間を越えている。いまはもうなくなってしまったものでも、反対に、いまはまだ実現していないものでも、実現しないものでも、そこにならある。等価に存在する。影のようにあるのではなく、サンプル画像のようにあるのではなく、どれも、リアルで、生き生きと息づいている。ずっと昔すれちがったきりの誰かにも、そこでなら逢えるし、孫の孫の孫にだって逢える。そのひとが、そして自分が、何歳のときにだろうと! 夢の海のどまんなかでふわふわと揺れながら、ポチは呆然と立ち尽くした。圧倒されている。広い広い倉庫の床にまぎれこんだはつかねずみ。はるか彼方まで、そして雲つく天井までつらなった途方もない棚の列とそこに詰まった在庫を見上げて、ぽかんとしている。こいつぁたまげた! なんてこった! お宝が多すぎる。選択肢が多すぎる! ここにある全部を吟味するなんて、一生かかったって無理だろう。この中からたったひとつの最上のものを、なんらかの問いへの正解をみつけるなんて誰にも不可能だ! きっとあるだろうに。かならずあるんだろうに。 なんでもいい、ランダムに、ひとつ夢をえらんでみようか。夢たちをかきあつめ、味見する。てのひらにすくい、ふくんでみる。舌にのせたとたん溶けてゆく綿あめのふわふわのようだ。夢はキラリと一瞬わきたち、もどってきて、それぞれの独特の感触を再現し、またとけていく。 なんてはかない、なんてせつない、なんて素敵な味! このままこの夢の海で遊んでいていいのだろうか、それとも何かを探したほうがいいのだろうか。自分にはなにか、するべきことがあるのだろうか? ポチは――こんな時でもまじめな性格だから――つい、そう考えてしまう。課題があるなら、解きたいと思う。役めがあるなら、果たしたいと思う。なにか理解のための手がかりはないだろうかとふと目をあけると、そこは、どこかの部屋だった。 いきなり急激な変化にポチはびっくりしてバランスを崩し、しりもちをついた。とっさに支えた両手に感じたのはひんやり湿った畳だ。小さくて固いものがさわったので、取り上げてみる。四角い青いプラスチック。四つ並んだ小さな円柱状の突起のおかげで、すぐわかった。レゴだ。 レゴブロックの、よくあるひとつ。 ハッとする。 ここは。 大阪の団地だ。ずっとずっと前、ものごころつくかつかないかぎりぎりのころに、住んでいたところ。小さい頃に暮らした部屋のあの独特の匂い。たちまちひゅうっと喉が鳴った。喘息の兆候だ。そうだった。この家にいたとき、発作がでちゃって、ひどかったんだった。あるとき、突然なにかへんだなと思ったら息ができなくなって、顔がふくれあがるように苦しくなった。そのまま救急にかつぎこまれた。そういうことが何度も繰り返された。 しばらく入院していた小児科で同じ部屋にいた男の子がレゴをうらやましがった。はじめて見たといっていた。その子の故郷ではそんなものを持っている子はひとりもいないといった。こんなにちゃんとできてて、ぴったりくっついて、すごいねすごいね、絶賛された。もし何十何百のレゴがあったら、欲しい部品や色を好きにそろえることができたら、どんなものだって作れるよね! 心臓だか肺だかが生まれつきちょっとまずいことになってるんだそうで、いつも鼻に透明な管――呼吸をたすけるための装置――をくっつけたままの男の子だった。すごく痩せていて、こぼれ落ちそうな大きな目をしていた。生きているうちからもう骸骨みたいだった。ポチのレゴブロックはずいぶん前からあって、母親に掃除機で吸われたり、引っ越すたびに少しずつなくしたりしていたから、ぜんぜん完全ではない。家のドアは半かけだし、窓もたりない。自動車の部品も半端だ。なのに、熱っぽいその瞳で、いいなぁ、いいなぁ、あんまり言うから、手術の日、黄色いブロックをたくさんつかって飛行機を作って握らせた。これ持ってけよ。いいよ。いいの。ほんとにいいの。にっこり笑った。味噌っ歯だった。うわ、すごい。プロペラがちゃんとまわるんだね! あの子は帰ってこなかった。飛行機も帰ってこなかった。暑い日だった。すごくすごく暑い、夏の日。 みいんみいんみいん。 窓の外に蝉時雨。立ち上がってカーテンをシャッとあける。動かしたカーテンのレースから、ほこりがたつ。外には見渡すかぎり水田が広がっている。あの土手のへんで、夢中でオタマジャクシをすくったことがある。地面はねちょねちょで、うっかりすると粘土みたいな泥がかたまって、ぜんぜん動けなくなる。長靴をとられちゃって、かあさんに叱られた。日傘をさしたかあさんといっしょに、どこまでも、どこまでも、歩いた坂道。ひなたとひかげが順番にくる、坂道。都会暮らしとちがって、日用の買い物ができる店までは、うんとうんと歩いていかなきゃならなかった。重たい荷物はぼくが持つってがんばった。雨が降るとそこらじゅうの道がぬかるんだ。同年代の男子はみんな坊主頭で、ひとりだけ、髪をすこしだけなめにしていたら、すかしてるってばかにされた。男おんなみてえだと笑われた。いじわるされた。田んぼにはよくアオサギがいて、じーっと黙って立っている。かと思うと、急に顔をふりおろして魚を獲る。びちびちはねる魚。鋭いクチバシ。 アオサギが飛び立つ。襲われそうな気がして、クチバシで突つかれそうな気がして、あわてて後ろをむいて逃げ出して走っているうちにいりくんだ廊下を歩いている。つやつやに磨かれた階段を登る。古い校舎か温泉旅館か、建て増しに建て増しをついだ風でどこまでいってもたどりつかない。たくさんの部屋をとおりすぎた。押し入れの柄、天井灯、ハト時計、蚊帳、こたつ、黒い電話機。記憶の断片にいまはもう実生活ではふれることがなくなった様々なものたちがひるがえり、なんともいえない気分になる。人間はいろんなものをつくり出して、捨ててきた。流行の最先端だったものが、もう誰も覚えていないものになるまでなんて、あっという間。生きることは動くことで、動くには荷物が多すぎてはいけない。モノなんかどんどん捨ててこなければならない。好きだったものも諦めた。未練を切って置きざりにした。忘れるように努力した。去っていったもののことは考えないようにした。そうしないと、前にすすめなかったから。 思い出なんていらない。未練なんてもたない。しがらみなんていらない。いまいらないものは、さようなら。じゃまなものはどんどんふりはらって身軽になればいい。 ぼくの手はなんてからっぽなんだろう。でも、だからこそ、いつでも、なんでも、すぐに掴むことができる。 いくたびも握りしめたドアノブ。「ただいま」といって毎日帰ってゆき、「おかえり」とあけてもらった玄関の扉。その屋根の下で暮らしたたくさんの家。でも、どこといって真に重要ではなかったのだ。すべてはかならず仮初めで、借り物だった。だから、どこも、あけることができない。ポケットに手をつっこめば鍵がある。でも、このドアにあわない。この鍵ではあかない。 だってこの鍵があう家は ここじゃないから。 ――しめだされた―― ああ、そうだ。 これだ。 この悪夢だ。 ぼくがいつもかえってくるのは。 いつもいつもとらわれているのは。 いれてもらえないことへの不安。安心できる居場所の欠如。どこにいって誰に助けをもとめればいいのか。なにもわからない。ひとりではなにもできない。 悪夢は迷路で、廃墟の回廊で、窓がなく天井が低く薄暗くて空気がよどんでいて、走っても走っても出口がみつからない。どこにもたどりつけないし、よそへ抜け出すこともできない。さがしても、さがしても、なにかほんとうに必要なものを肝心なものを見つけることができない。あれはなんだろう、あれは欲しいものではないか。思い切り走って、こんどこそと思ったって、そこじゃない。行き止まりの戸口、鍵があわない。だめか。がっかり。失望。徒労。くじけるな。がんばれ。もう一度やりなおすんだ。さっきとおった分岐を別の方向へ、角をまがればまたいくつもの分岐点、見分けのつかない通路。この階段はもう登ったことがあったっけ? 狭いくぐり戸を這いつくばってやっと通りぬけ、真一文字の廊下、走って走って、はいつくばって、膝をついて、息がきれる。どれだけ迷走しても、ぜったいにどこにもたどりつけっこないという気がしてくる。いったい、ほんとうにあるんだろうか、出口が? このいのちがつきる前にゆきつくことができるんだろうか? どこかに。そこになにがあるんだろう。なぜここじゃだめなんだ。ここを出たら、どうなるんだ。 「…………!」 誰かの声がする。誰かぼくを呼んでいる。 呼んでくれている。 誰? どこ? おーい。おーい。ここだよ。きみはどこ? ハッとしてふりあおぐとぽっかりと四角く切りとられた空に、ふしぎな月が見える。金色の斑のある緑色がかった球体。 なんだ? ギョッとして見上げているうちに、見知らぬ月がワイプされ、またみえるようになった。またたいたみたいに。いや、またたいたのだ。ゆっくりと。長いまつげが伏せられて、またあがる。 ああ、あれは月じゃない。眼球だ。Eye
in the sky 。
女神の瞳。 助けて! おねがい。見つけて。ぼくを救って。ここから出して! いっぱいに手を伸ばす。さしのべる。 もういやなんだ。 こんな徒労はいやなんだ。 ここじゃないどこかにいきたいんだ。ぼくの場所へ。ほんとうの居場所へ。 ずっとそこにいていいところへ。 月がまたたく。 涙の粒が降ってくる。両手をのばして受け止める。 とほうもなく巨大な丸い水滴! たちまち塩辛く透明な水のボールにつつまれる。ぷよぷよやさしいバリアーの中、脚をかかえて丸くなる。羊水の中の赤ん坊のように、球体をなしているこの水を吸い、水を吐き、水を呼吸する。 すがすがしい。 胸が満ちてくる。 ああ。 ここなの? ここだね。 そうだ。ここなら、いい。こうして憩える。たっぷり休んで、もう一度はじめよう。ゼロにもどって、やりなおそう。そう思える。 どうして、もうだめだなんて思ってしまったんだろう? どうして、ここじゃないなんて思ったんだろう。だめなところなんてないのに。どこだっていいのに。なんだって、できるのに。ただ、絶望さえしなければ。あきらめさえしなければ。何度だってやってみることができるのに。 そう、こうしていれば、静かで安全だ。世界のどこにいけなくても、誰に拒絶されても、ぼくはこうしてここにいる……。 このまま、こうして、しずかに憩って、いることができる……。 どれほどの間そうしていただろう? ほんの一瞬のようでもあり、ひと晩ほどのようでもあり、永遠のようでもあった。 水はやがてじわじわとかさを減らした。全身の皮膚からしみこんで、吸収されていった。最後に、ごく薄い殻のような膜のようなものだけが残って、パリパリとひきつるような感触をもたらす。 そっと身をおこし、眼をひらく。 「おかえり」 と、彼女が言った。
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