治療はまるでマラソンレース

 

不妊はつらいです。

赤ちゃんが欲しいのになかなかできないと、悲しいです。

苦しいです。

 

経験したことのないかたにはきっとわからないと思いますが、「地獄」です。毎日、針のむしろに座っているようで、煮え湯をのまされているようで、おそろしい鬼たちに金棒で脅されながらおろおろ逃げまどっているようです。

根がまじめで、がんばり屋さんなひとほど、「地獄」だと思います。

なぜなら、不妊のほとんどは、がんばりでは解決しないから。 

ええ。解決しません。しないんです。残念ながら。

 

 

最初に“不妊”を卒業する方法には、ふたつある、といいました。

めでたく妊娠し出産する以外のもうひとつは、受容、すなわち、「妊娠や出産を経験しないという運命を受け入れること」でした。

これはつまり、マラソンレースからおりることです。途中まで走ってみたけど、ごめんなさい、ここまでにします、と、ギブアップすること、です。

残念ですが、あなたはマラソンには向かないひとだった。どんなにあこがれても、マラソン選手にはなれなかった。市民マラソンに参加するのもムチャだった。他の趣味をみつけましょう……!

ところが……

一度走りはじめてしまうと、なかなか、やめられないんですね、これが。

 

つらいのに、苦しいのに、よせばいいのに、

なぜ、やめられないか。

たぶん、マラソンは、「がんばってこそナンボ」なものだと思っているからです。

持久力を鍛えるためのもの、で、つまり「つらいこと」が目的のひとつだと思っているからです。

がんばったら報いられるはず、がんばれば結果が出るはず、いっしょうけんめいがんばっているひとを見たら(たとえ順位がのろくても)見物のひとたちだって感動して拍手を惜しまないはず、……でも、やっぱりせめて、完走は、しなきゃあね。途中で棄権するなんて、だらしない。みっともない。しちゃだめだよね。

そう思っているからです。

 

あなたはがんばり屋さんだから。

 

 

がんばり屋さんは、「がんばってもうまくいかない」とき、まず真っ先に、「がんばりが足りない」と考えます。つまり「自分が悪いのだ」と思うのです。「もっとがんばらなきゃ!」とも思います。

そうして、もう既に十分にがんばっていて、とっくにがんばりすぎなのに、さらに無理をしてがんばりつづけ、限界をこえてがんばり、へとへとに疲れ果てます。

がんばり屋さんには気の毒ですが「この世にはがんばってもうまくいかないことがあります」。イヤでも、それを、思い知らなければなりません。この冷徹な事実を、受容する……受け入れる……必要があります。それができないと、がんばり屋さんは、けっして救われません。がんばってがんばってがんばりすぎて、空回りして、……そういうグルグルから、どうしても出られないからです。

 

がんばり屋さんの陥りがちな間違いのひとつに、「なにかを耐えたら、その努力を評価してもらえる」というものがあります。滝にうたれると修行になる、みたいな。誰にもわからないようにひそかにがんばっているひとがいちばんえらいんだ、みたいな。美しい精神論ですが……そういうふうに考えてしまうと、ともすると、ストレスがあればあるほど、よろこばしい、みたいなことになってしまいます。……これは危険! なぜか。 ⇒ 交感神経ばっかり鍛えてませんか?

 

そんなこんなで治療はまるでマラソンレースなのでした。

なんだかみんなが走っているからとりあえず走り出してみたものの、思っていた以上にたいへんで、自分はどうも走るのがヘタみたいだなぁ、と、いまごろになって気づいてしまったひともあるでしょう。

無事にゴールさえできるなら、それでもなんとかがんばれます。長い坂道も、寒い雨も、あとからご褒美にかわると思えば、なんとか耐えられます。

けれど、いくら力を振り絞っても、ひとのアドバイスをきいても、なかなかうまく走れません。ゴールはちっともみえません。

あとから来たひとに追い抜かれたり、自分より小さいひとや細いひと年をとっていそうなひと見るからに弱そうなひとなどが楽しそうに走っていたりするのをみると、なんだか不安になります。自分はものすごくダメなのではないかと。

もう成績なんかどんなでもいいから、順位なんか気にしないから、とにかくはやく走り終えたい。こんな苦しい走りから抜け出せるなら、なんでもいい。

レースを終えたい。

はやく終るには、より速く走るにかぎります。速ければはやいほど、短い時間でゴールに到達できるはず。だから、あなたは、キブアップ寸前の心臓や脚を叱咤激励して、さらにスピードをあげます。

 

ああ、こんなにつらいなら、走り出したりしなければよかった。

 

 

そう。

 

わかってるはずです。

 

「走らない」という選択もあるんですよ。

歩いてもいい。

ひきかえしてもいい。

立ち止まって、息をついていい。

「あーあ、もういや! つかれちゃった!」

弱音をはいて、その場にへたりこんでいい。

 

 

あなたは誰に命じられたのでもなく走っていたのですから。

 

いいえ、そうではありません。面とむかってこそ、なにもいわれていないけれど、実はこれはマラソンじゃなく駅伝なのです、血というタスキをうけつがなければならない。ここで途絶えさせるわけにはいかない。旧家の跡継ぎをうまなければならない、……というかたもあるかもしれません。……でも、レースはこれだけじゃないよ! いちどやめて、よくからだをやすめて、鍛えなおして、次の大会にもういっかい挑戦しようよ! それぐらい、許されるはずだよ。

 

いったん走り出してしまうと、なにもない途中でやめるのは勇気がいります。

ここまで走ってきた長い距離のことや、がんばりつづけた長い時間のことを考えると、途中でほうりだすのはとても口惜しいし、もったいなくなってしまいます。

弱音をはいたりすると、ずっと応援してくれたひとたち、協力してくれたひとたち、このレースに参加するための費用を助けてくれたひとにも申し訳ない。

そして、なにより、「次のかどをまがったらゴールがあるかもしれない」「あのほんの少しかもしれない」未練があるんですね。

 

 

そう、思えば、あなたはゴールがどこにあるのか、そもそもほんとうにゴールがあるのかどうかすら、ぜんぜん知らないまま走っていたのではないですか?

走ってさえいれば、どこかにいくだろうと、たぶんなんとかなるもんだと、思いこんではいませんでしたか。

もうあと何時間走りつづければいいのか、いまが全工程のどのへんなのか……半分ぐらいなのか、四分の一なのか、それとも、もう九割がんばったのか……ぜんぜんわからないのに、それでも走りますか。

ああ、ずいぶん遠くまできましたねぇ……。

もうあとほんのちょっとの努力ですむかもしれないのに、こんなところでやめるなんて口惜しいし、大損ですね。

最後のひとふんばりの根性をだせなかったばっかりに、してきたことのすべてが無駄になるかもしれないと思うと、怖くて、悲しい。

 

だから、倒れるまで走ってしまうんですね。

限界を越えて、無理をしてしまうんですね。

誰もとめてくれないし……とめてくれる声は、耳にはいらないし。

ぼろぼろになって、傷ついて。もう二度と立ち上がれないんじゃないかと思うほど、疲れきって……意識朦朧となって、足腰ふらふらになって、それで、ようやく、はじめて、レースからおりることができるようになるんですね。

 

あまりにも苦しみすぎ、身も心もぜんぶ惜しみなく捧げすぎ、あるかぎりのエネルギーを使い果たしてしまうと、あとがたいへんです。

∞ほんとうにあった怖くて悲しくて腹立たしい話∞

何年にもわたって、何度も何度も人工受精をしてもうまくいかず、そろそろ体外受精にチャレンジか、と思っていたA子さん(38歳)。ある日、いつもの検査のあとで、担当医師から、突然、思いもかけなかったことを言われました。

「あなたには、もう卵子がありません。お気の毒ですが、これでは、治療を中止せざるをえませんね」

ぽかんとして先生の顔を見返してしまったA子さん。

「あのう……卵子というのは、ゼロになってから、できるまでどのぐらいかかるんでしょうか。あせる気持ちはありますけれど、しょうがないですから、少しぐらい待ちますよ。いま、ひとつもないなら、また、よい卵子ができるまで、じっくり待ちますから」

「ご存知なかったんですか」先生は困った顔をしました。「卵子というのは、生まれつき備わっているものです。胎児のうちにできあがり、卵巣の中に蓄えられ、そこから使われる。それがすべてです」

胎児の時、卵子の数は、約500万個あります。たっぷりありますね! ところが、出生した時点で、もう半分以下に減ってしまいます。その後ゆっくり自然に減って、十歳になるころに100万個程度、十五歳で50万個程度になります。ちなみに、この減少は、本人にまったく自覚はありません。

初潮をむかえるころになると、上のような自然な減少はその速度をかなりゆっくりにおとします。そのかわり、排卵(月経)によって、すこしずつしかし確実に在庫を減らしていくようになります。

卵子たちはみな、ひとつひとつ、卵胞という薄膜に包まれて、大事にストックされています。排卵される時期がちかづくと、何十個かが同時に目覚めて、「準備段階」にはいります。卵胞がふくらんで、大きくなりはじめるのです。

このように目覚めた数十個の卵胞のうち、やがて、ひとつだけが、排卵されます。ふつうは、もっとも大きい、健康で成長のよい一個だけが、排卵されるのです(排卵されるには、卵胞の直径が20ミリを越していることが望ましい、最低でも18ミリないと、といわれます)。

この時、いったん準備段階にはいった数十個の卵のうち、排卵されなかったあまりは、みな、卵巣に吸収されます。もう一度倉庫にもどるということは、ありません。実際に排卵される卵はたった一個なのに、いっしょに準備にはいった数十個も、毎回、かならず、失われるのです。

12歳で初潮をむかえて50歳まで毎月きちんきちんと月経があったとすると、12回×38年→456。女性が一生の間に排卵する卵の数は、約500個です。その500個のひとつひとつが、排卵されるつど、すくなくとも「数十個」ずつ、成長競争に破れた卵が消費される。一回に50個が排卵もしないのに消えてしまうとして、500×50→25000です。2万5000個は、このようにして失われます。減少する程度をゆるめたとはいえ、胎児のころにはじまったもともとの自然な卵の減少も、ずっとつづいています。よって、閉経をむかえるころには、500万個もあった卵がゼロになるのです。

排卵誘発剤は、女性の身体がもっている自然なしくみを、ちからづくでねじまげます。いちばん大きな一個だけが排卵されるはずのところに介入して、「比較的成長のよい数個」を無理やり排卵させます。そうすることによって、受精や着床のチャンスをふやすわけです。

けれども、ホルモンや脳のはたらきはたいへん微妙です。体質や使用する薬品の性質などによって、治療のためにしていることが、いつの間にか「卵子のストックを激しく減らしてしまう」場合が、もしかすると、あるのかもしれません。

「ですから」

あまりのことに呆然としているA子さんを前にして、お医者は言いました。

「あなたの卵巣はからっぽなので、もうなにをしようと、妊娠は不可能なんですね。残念でした」

どうして……?

A子さんは思いました。

どうして、そんな残酷なことを、あたりまえのような、平気な顔でいうの? どうして、こういう治療をずっとつづけていたら、いずれ、そうなるかもしれないってことを、さきに教えておいてくれなかったの?

(実話をもとにして創作しています。このようなことが起こったひとがすくなくともおひとりおられることは事実ですが、「排卵誘発剤」をつかうと必ずこうなるということではありません)

A子さんの事例はほんとうに気の毒で、こんなひどい目にあわせた医者に話をきいただけのわたしまで怒りを覚えますが、……「からっぽ」そのものは、けっして無価値ではありません。穴があるから、風が通ります。水が流れます。生命は穴をくぐって生まれてきます。陰と陽のこと(女らしさについて)

 

 おわかりいただけましたでしょうか? とんでもないこともおこりうるんだと?

 

自分のからだだからといって、「この際だから」と目をつぶって、とことんまで突き進んではいけません。疑問は、どんな小さなものでも、感じたらすぐにぶつけてみること。なにか新しい治療などをはじめる時には、どういうことなのか、どんなリスクがあるのか、どういう経過をたどることが理想的なのか、理解できるまで、しつこく訊ねること。

患者の疑問や不安をうっとおしがったり、「しのごの言わずにオレに任せろ」的なふるまいをする医者は、信じてはいけません。

医師のなかには、女性の大半は理屈に弱く、どうせものごとを整然と考えることはできないものなのだ、と決めつけているひともいます。逆らっても時間の無駄なので、「夫が聞きたがっている」と書いたもの(あなた自身が書けばいい)を渡し、ひとつひとつの疑問にはっきり回答してもらうのも、有効な手段です。こうすれば、なにかあった時、動かぬ証拠が残ります。

 

 

不妊治療はマラソンレース「である必要はない」し、

あなたはまったく  走らなくたっていい

いまここで治療をおりても(走るのをやめても)、それは「負け」じゃないし、「降参」でも「逃げ」でもないです。あなたはぜんぜん「だらしなく」ないし、「身勝手」でもないし、「愚か」でもありません。

むしろ、あまりに長いこと結果のでない挑戦をいったん中止し、軌道修正するというのは、おおいなる「進歩」です。よりしなやかに強くなることです。あなたにとって、良いほうへの「変化」です。

受け入れなければならないことを、受け入れる勇気なのですから。

 

 

あなたは誰よりも勇敢なひとじゃないですか。

誰よりもがんばって闘ってきたじゃないですか。

こんどは、その勇気のかたちを、ちょっとだけ変えてみましょうよ。

……受容する……ことのほうに。   

 

 

 

あなたはがんばった。

がんばったけれど、がんばりきれなかったとしても、

ダメだったとしても、

それはあなたのせいじゃない。

 

うんとうんとがんばってた自分を、

「えらかったね!」と、HUGしてあげてください。

 

たくさんの時間や気持ち、費用など、ここまでに使ったものが「ムダだった」「もったいなかった」と後悔したくなるかもしれません。

でも、……やってみなければわからなかったでしょう? 

なにもしないで「やってみればよかった」と後悔するのと、やってみて「やってみたけど、だめだった」と思うのとでは、どっちがマシです?

どうか自分を責めないで。あるがままのあなたを受容して。