おんなのしごと

 

 その店は、営業しているのやらいないのやら、パッと見にはいたってわかりにくかった。

理髪店のしるしである赤と青の渦巻きポールは路上に出しっぱなしだ。埃まみれになって回っているが、定休日でも電源を落とさず、ほったらかしなのかもしれない。レースのカーテンのかかった窓ごしに中をうかがう。かがんだり爪先立ちになったりすると、どうにか見えた。鏡前に客の姿はないようだが、灯りは一応ついている。

大塚はひとつ深呼吸をすると、扉を押した。

予想していた以上に軽かったので、ちょっと押しただけで大きく開いてしまった。ノブをつかんだままの手が勢いにひっぱられたような格好で、前のめりに転びかかった。

 あわてて、「ぉうぃぃぃす」挨拶になるつもりの声を発する。

 なんとか転ばずに起きなおり、目をあげた。

 

 男が三人、待合所のような黒い椅子のあたりに散らばって隙をつかれたような顔でこちらを見ている。

 ひとりは水色がかったぱりぱりの上っ張りを来た痩せぎすな男で、たぶん店主だろう。あとのふたりは、ベージュのカーディガンをまとった首の長いのと、おんぼろなジャージをはおった柔道家かなにかのように体格のいいの。真ん中にすり減った碁盤がでていた。

三人とも、れっきとした老人である。大塚叡がそうであるような退職したての初老……いわば老人入門中……ではなく、おそらく七十代も半ば以上、すでにベテランの老人たちだ。

 たったいままで何か楽しげに話していたのを中断したところらしい。ジャージやカーディガンの薄い頭のぱやぱやと寝癖のついた様子をみれば、整髪したてにはとうてい見えない。暇な店を根城にして、連日巣くっているのだろう。

その安全な塒に、見知らぬよそものがいきなり踏み込んだ。いったい何の用だ? と言わんばかりに睨まれてすこし閉口する。

「やってもらえんかね」大塚は自分の頭に手をやってみせた。ごついゴマシオが指の間からはみだす感触。二週に一度きちんきちんと刈り込んでいた頃にくらべると、いやにだらしなく長く感じるが、それでも長髪とはとてもいえない。「ここは床屋さんだよな?」

「客だよ」驚いたようにジャージが言い、水色の上っ張りの男の貧相な尻をぺしーんと叩いた。「ほい源さん、稼ぎどきだ」

「どうぞ」あわてた水色が腰を浮かし、喘息っぽく喉にからんだ声を出した。「そのスリッパをはいてください」

 

 詰め物のはみだしかけた赤いレザーの椅子に座らされ、ぱりぱりとやたらに糊のきいた布を首まわりからかけられた。正面にある鏡は端のほうが錆びて赤く、中央の下のほうに金色のステンシルがしてあった工務店の名前はなかば読めなくなっている。

サッパリ清潔な感じにしてほしいという大塚の希望を聞くと、源さんというらしい店主は心得顔でうなずき、すこし考えこんでから、どうしましょうお髭もあたりますか、と聞いた。

大塚はきゅっと唇を結んだ。錆びた鏡にぼんやり映るこわばった顔はたるんで醜い。けして本来濃いほうではないのだが、口の周囲や顎のあたりがうっすら黴びでも生えたようになりつつある。

やってくれ。

小さく笑ってみせはしたが、笑顔はゆがんでいたかもしれない。

 

整髪も髭剃も、長いこと、死んだ妻の映子のつとめだった。

若い頃はむろん理容店に行っていたのだが、ある時、喉を切られて怖くなったのだ。切られたといっても一センチにみたないかすり傷で、大塚の喉裏の皮膚に面皰だか黒子だか脂肪のかたまりだかへんな突起があり、そこにかすかに剃刀がひっかかってしまっただけの話であった。

あわててあてがわれたホットタオルが赤く染まるのを見た大塚は気が遠くなった。あとから冷静に考えるに、傷の大きさからして「血がほとばしり出た」「タオルがみるみる真っ赤になってしまった」のはたぶん大げさな錯覚なのだが、「やられた」「もうだめだ」と思った瞬間の恐怖は忘れられない。

事故など滅多にありはしないだろう。急な地震だろうとクシャミだろうと停電だろうと、プロはとっさに客に迷惑をかけぬようにするはずだ。だが、たとえばもし、たまたま客がどこか急にかゆくなってなにげなく手をあげたその時そこになんとも運悪く床屋の肘があり、しかも彼が剃刀をもっていたとしたら? 

万万が一、故意にしかけられたなら、避けようもない。大塚はひとにともすると恨まれかねない自分を知っていた。不愉快なことがあればすぐに顔にでてしまううし、ことばもきつい。有象無象に好かれるよりは敬して遠ざけられるほうがましだぐらいにふだんから言い張っている。

床屋とて人間だ。なんらかの理由でいきなり世をすね、もうどうにでもなれと捨て鉢な気持ちで剃刀を握らないとは限らないではないか。そんな時に、かねて腹に据えかねていた不愉快な男の喉をバサッとやってお縄になろうと思いつかないとも限らないではないか。

そんなこんな思うと、見知らぬ他人に無防備に、いかにも切ってくださいとばかりに喉をさらすなどということがどうしてもできなくなった。

 

霧吹きで軽く濡らした髪に櫛を通す。濡れた髪はうねうねと蛇行して光を反射した。

「旦那はご近所なんで?」と亭主が聞いた。

「ああ」大塚は短くこたえた。

実際には踏み切りのむこうだ。近所の理髪店はみょうにぴかぴかで軽薄そうで、うじゃじゃけた若造がやっていて、入りたいと思わなかったのだった。

「いや、おぐし、みごとなもんですね。ふさふさだ。白髪もほとんどおありにならない」

「やれやれ。いいねぇ、若いってのは」

「ほんとに羨ましい」

 カーディガンとジャージーもわざとのように明るくいった。

大塚は表情も崩さぬまま無愛想な唸り声でこたえた。

どうやらおしゃべりをたのしみたい客ではないのだと察してくれたらしく店主はすぐに黙りこみ、あと二名もぴたっと口をつぐんだ。

それでいい。と大塚は思う。ぴーちく世間話などされたくない。世辞などきかされるのはまっぴらだ。

お若いですねだと? 聞いてあきれる。

ほんとうに若いものには誰も若いですねなどと猫なで声を出さない。

こいつはおれが若づくりをしたがっているとでも思うのか。若いとほめてやればそれで喜ぶとでも思うのか。

ちくしょうめ。見ためを気にするなんざ、腹立たしい。もともとはオレの流儀ではない。

 

髪などどうだっていい、短いほうが清潔でいいから、バリカンでガーッと刈ってしまえばそれでいい。自分で刈ればそれですむかと思いきや、癖の強い剛毛に意外にてこずった。学生時代のように坊主にしてしまえれば良いのだが、顔つきがいかつく目の炯々とした大塚が背広姿で地肌の透けるような丸刈りだとまるで政治犯である。上司に「社会人として良識のあるかっこうを」と言われて困惑した。見える範囲はなんとかなるが、後ろのほうはうまくできない。たごまってやたらに立ちあがるかと思えば、切りすぎてところどころがハゲになる。左右の均衡もうまくとれず、意に反して、まるでわざと芸術家を気取ったような個性的な頭になってしまうのだった。

しょうがないので命じて妻にさせた。新婚早々、おとなしい、なにごともすなおに言いつけ通りにする妻である。不器用な映子はとても無理ですかんべんしてくださいといったんは固辞したが、強く言われておそるおそる応じた。でもバリカンは使いかたがよくわからないから、せめてはさみでやらせてくださいと言い、知らぬうちにどこやらからそれ専用のびかびかしたはさみを手にいれてきた。はじめはやたらに時間ばかり食い、刃先をひっかけては大塚にオレをハゲにする気かと怒鳴られてばかりだったが、次第に腕をあげた。なにしろ二十歳そこそこから五十すぎで胃ガンであっけなく死ぬまで、三十年以上も勤めたのだから、最後の頃にはもうかなりみごとな腕前であった。

大塚の髪と髭しか刈ったことはなく、他の誰にもその腕をふるってみせるチャンスはなかったわけだが。

大昔、三人の娘たちの頭もおまえがしてやればたいそう節約になるではないかと言ってみたこともある。だが、娘たちは大塚に似て強い癖毛で、シンプルな断髪やオカッパではかたちにならない。いまどき美容院にいかない子なんていないわ、パーマだってかけたいし、かわいくカットしてもらいたいわ。娘に泣かれれば、大塚はそっぽをむきながらも容認した。

もしも息子たちだったなら全員問答無用でくりくり坊主にしておけたのに。

娘なぞ、ぞろぞろいたってなんの役にもたたん。

いまどきの三十六歳は、親に感謝をするどころか、あたしにだって仕事も家庭もあるのよなどと、だれのおかげで大きくなったのやら平気ですましかえりゃがって、婆あの面倒ひとつ見ようとはしない。

 

頭を振ると、ぱらりと眉に切り屑がかかった。

へたくそめ。なにしやがる。

無意識のうちににらみつけると、痩せた店主が飛び出した喉仏をごくりとさせ、愛想笑いを浮かべた。

「ひととおり短くしてみましたが、こういった感じでどうでしょうか」

「ああ」大塚はうなずいた。鏡にまともに目をやれない。「いい」

「はぁ……あの、もみあげはどのように。まえがみは、おろし加減なのでしょうか、それとも整髪料で」

うるせぇ、四の五の言うな、なんだってかまわんからさっさとやれ、と短気に怒鳴ろうとして、あわてて、ことばを飲んだ。よくわからんから適当に、いいと思うようにしてくれ、と半ば口の中でつぶやく。

大塚はあがっている。

ふつうではない。

そのことがやっといまごろになって自覚できた。

 鏡に映っている自分の目が赤かったのをみてしまった。知らぬまに涙ぐんでしまっていたらしい。冗談じゃない。みっともない。知らない店で、知らないやつらの前で、べそべそしてしまっていたとは。

 カーディガンとジャージーは碁をうちはじめたようだ。時おり、ぱちりと碁石を盤にあてる音がする。いやいやそれは……などと小声のやりとりもかすかに聞こえる。

うっかり怒鳴らなくてよかった、三人も相手にしなくてよかった、と思っている。

 おれもほんとうにヤキがまわってきたな。

冗談じゃないわよ。長女の英美子のケンツク言う声が耳にこだまする。おとうさんはいつもそうよ。邪魔されたくないとすぐ怒鳴る。聞かれたくないことを言われるとすぐ怒鳴る。都合が悪くなるとすぐ怒鳴る。怒鳴ればなんでも解決するとでも思ってるわけ? 

そういうきさまはオレにそっくりだろうがよ。

 

映子が死んでかれこれ五年。

家には英美子夫婦もいたし、八十五歳になる大塚の母親もずっと同居していた。妻ひとりいなくなってもとくに問題はない。誰もたいした痛痒を感じない。家事はとどこおりなく交代され、家計は運営され続ける。

多寡をくくった検査入院からドタバタと思いがけぬ方向に事態が進み嘆く間もなく深刻化しアッという間に葬儀に至るまでの短期間の非日常は、前後のとるにたりない日常のゆったりとしたリズムに飲み込まれ、かき消されて、いまとなっては細かな記憶もはっきりしない。遠い夢のようだ。

あまりに急のことだったものだから、その場しのぎでやりとおして、おかげで影響があまり広がらなかった。家は、まるでなにごともなかったかのようだ。

そんな中で、妻の不在をかすかに思い知らせてくれる現実のひとつが大塚にとっては髪の問題であった。二月ほどほったらかしにしたあげく、会社のあるビルの地下の商店街にある安価自慢の店にゆくことを思いつき、やっと重い腰をあげた。五百円の最速コースはカットだけだ。洗いもひげそりもつかない。この値段なら二週に一度マメに通うのもなんでもなかった。髭は風呂の際に自分であたった。

そうこうするうちに定年の日を迎え、長年通ったビル街に通勤する必要がなくなり、毎日家でごろごろするようになって、思えばもうじき三年。

先月、桜の散る頃になって、唐突に、気づいた。定期もなくなったもとの勤務先のビルまで、わざわざ出かけて行って整髪してもらうのは馬鹿馬鹿しい限りなのではないかと。いくら近所のどこよりも安いといっても交通費がかかる。第一、もとの部下などにバッタリ出くわすと気まずいではないか。まるで他にろくにすることもなくてわざわざこんなところまで暇をつぶしにきているかのようで。

先にサラリーマン社会を生ききって退職していった男たちが、現役の人間がしのぎを削っている戦場のどまんなかに姿をあらわし、もしそんな気楽な様子をみせたりなどしたら、オレならはげしく憎むだろう、と大塚は思った。

それでまたゆく場所がひとつなくなった。

 

 首のまわりがひやっとしたかと思ったら緑色のゴム引きのエプロンをかけられている。

「すいませんが、洗面のほうへ」

 店主が言い、椅子をおろした。大塚はすなおに立ち上がり、店主のあとについていった。ともすると脱げかかるスリッパをぺたこんぺたこんと鳴らしながら。歩くと店のタイル床がたいらでないことがよくわかった。しょぼくれたカーテンの影になった低い洗面台に、うつむきに屈んだだけでも微妙に食い違う。膝もやや曲げてようやくに高さをあわせて頭を流した。店主は大塚のセーターの袖がおちないように後ろにたって持っていてくれる。ふいに鼻の奥がつんとして泣きたいような気持ちになっていることがわかる。いまどきの理髪店ではこうではない。鏡前に洗面台がちゃんとそなえつけになっているはずだ。さぞかしはやらない店なんだろうなぁ。

 

 いったいこれはなんなのよ。

 父親そっくりに気にくわないことがあるといきなり喧嘩腰でものをいう英美子の手には、結婚案内センターの封筒があった。

 ゆく場所がまたひとつなくなった時に、通りすがりにもらってきたものである。

「そういうものだよ」父親は目をそらす。おとなげないこの娘も、こういう恥ずかしいつきつけられたくないものからはさりげなく目をそらしてくれるべきだという知恵をいくらなんでもそろそろ身につけてくれないものかと思いながら。

「だから、どういうことよ! まさか、結婚したいの。かあさんを裏切る気?」

「したい」大塚は手で顔をぬぐった。いやなあぶらが手についた。「したがるのが悪いか」

「悪いかって……そんな開き直らないでよ!」

「食事の支度もトイレの掃除も億劫だ。おまえは忙しがって居つかないし、婆さんはからだがきかない。もう八十五だ。いつ倒れてもおかしくないだろう? もしこんなうちにでも来てくれるひとがいたらいいんじゃないかと思ったんだ」

 英美子は絶句し、なにか喚きだしそうな顔をしたかと思うと、大塚の手をひいて腰掛けさせ、膝詰めをした。

「いくら払ったの」

こたえると、ため息をついた。

「それで……女のひと、もう紹介してもらった? どんなひと?」

「まだだ。来週あたり連絡がくることになっている」

「連絡がきたら?」

「そのビルにいって、あってみるんだそうだ。二十分ぐらい一対一で話をするらしい」

「とうさんはだまされてるのよ」英美子は床を蹴るようにしてたちあがる。

「なにがだ」

「とうさんみたいなひとと結婚したがる女なんているわけない。そんなうまい話があるわけない。あるとしたら金めあてだわ。生活に困って、誰でもいいからっていうひとだけよ」

 

 シャンプーを泡立てて流した。店主の指が耳の後ろや首根っこを丹念にこすってくれた。

もとの椅子に戻って、タオルでざっと拭き、ドライヤーをあてられる。

肩をもんでくれる手は意外に力強かった。

 

 英美子がああまでイヤミを言わなければ、釣り書きに目を通したところで弱気になっていたかもしれない。あってみたいと言わなかったかもしれないし、ドタンバになって気後れがして適当ないいわけをつけてキャンセルしてしまったかもしれない。

 娘が反対したからこそ……それと、会費を払い込んでしまってここでひるんでいたのではモトがとれないと思ったからこそ……いやいやながら出かけてみたのである。

 見知らぬ婦人と狭いブースにふたりきりになって、なにを話してもかまわないのだと思ったとたん、愚痴が炸裂してしまった。

 大事に育てた娘が三人もいるのに誰も面倒をみてくれない。

 逆にこのままでは自分のほうが年寄りの世話をしなければならなくなりそうだ。

  スーパーに買い物だの、風呂に水をはるだの、おんなのしごとをやらなきゃならないはめになって、自分が情けなくてかなわない。

 みんな早死にした妻が悪い。退職したら、長年の恩返しに、旅行でもしようと思っていたのに。あいつが好きだった『ローマの休日』の舞台になったあの階段とか、ヘップバーンの墓とかにいってみようと思って、その分こつこつ溜めていたのに。恩知らずにもとっとと死にやがって。

 飲む打つ買うもなんにもせずに愚直にまじめにただただ働いてきた自分がなぜこんなひどい目にあうのか。

 こぼしたいことはいくらでもあり、聞いてくれる相手がいると次々にあふれだしてきた。

 持ち時間がすぎ、相手がひきつった笑顔でさようならを言った時、失敗を悟った。あまりにも自分の都合をしゃべりすぎた。相手がどんなひとでなにを求めているのかなにひとつ聞き出さなかった。

 この次は失敗するまいと、いつも思うのだが、積極的に求めた見合い数えて十回のどのときも、終わったとたんに「しまった。また不面目をしでかした」と思うありさま。どうも相手がおんなであるのがいけないらしい。おんなとふたりきりになって、相手がなんでもおとなしく聞いてくれる用意があるのだと思うと、ついとめどがなくなってしまうのである。

カウンセラーにも言われた。

「大塚さんに必要なのは奥さんではなく家政婦さんなのではありませんか。おんなは炊事洗濯をさせるためにあるものだと思っておられるようにみえますよ。いまどきそんな考えかたではついてきてくれるかたはまずありません」

「しかも急死なさった奥さんの面影をいまだに追いかけていらっしゃる。一生忘れられないんではないか、くらべられるのではないかと思ったら、嫁ぐ決心なんてつきません」

「せめてもうすこし身ぎれいになさらないと。あまりかまわれないので、年齢よりずっと老けてみえてしまって損です」

 

熟年向けのマナーセミナーだの着こなし勉強会だのを勧められて、最初はそれはそれは困惑した。ひとをバカにするな、そんなこっぱずかしいこと、大の男がどの面さげてできるか。なんども怒鳴りたくなったが、英美子の高飛車なバカ顔を思い出して奥歯を食い縛ってこらえたのだから、結局は長女のおかげかもしれない。

ようはプレゼンテーション能力です、とあるセミナーの講師が言った。

どんなに優れた企画や良い商品でも、真摯で誠実な営業がなければ売れはしない。顧客にわかってもらうためには、アピールとフォローがぜったいに必要なのです。

あなたはあなたという商品を、これはと思うひと相手に、せいいっぱいプレゼンしなければならないのです。 

そういう説明のされかたで急に目の前がひらけた。

ようするに自分はおんなごとき相手にいじましい努力をしたりへいこらしたりするのがどうしても不愉快で気づまりだったのだと気がついた。

おんなだと思うから腹が立つ。

売り込み先だと思えばいい。

それならば、TPOにふさわしい身だしなみを整えなければならないことも理解できるし、自分勝手な都合をおしつけるのではなく相手のニーズに耳を傾ける必要があるのだということも納得がいく。

こんど懇親会場にいったなら、飲み物のボトルを手につぎながら会場をまず一周し、せめてひとことずつでいいから、全員と話をしてみること。どの顧客になら真剣に売り込みたくなるかを自分で決めて、そのターゲットを落とすことに全力を注ぐのだ。

 

阿久津貴子に出会ったのはそんなパーティーのひとつだった。

 明るくさっぱりした気性で、長年教師をしてきたというだけに話題が豊富、話していると楽しかった。女性の電話番号を聞き出すのがこんなに胸ときめくものだとは知らなかった。自分から進んで送り迎えをし、彼女の喜びそうな店喜びそうなデートスポットをせっせと情報収集さえした。

 実は結婚したいひとができた。彼女は仕事に忙殺されて独身のまま過ごしてきてしまったひとで、せめて老後は気の合う相手といっしょに暮らしていけないだろうかと思ったんだそうだ。けっして財産めあてではないと思う。わたしよりよほど蓄えがあるぐらいだから。

そう告白すると、母は涙を流して喜んだ。おまえのようなもののところにいまさら来てくれるひとがいるなんてありがたい。わたしのことはいいから。いざとなったら老人ホームでいいんだから。

 長女と次女と三女は複雑な心境だっただろうに話し合って、反対はしないと言い出した。でも入籍だけは待って。おかあさんのお墓に知らないひとにはいってほしくない。おばあちゃんのことはわたしたちも手伝ってなんとかするから。おとうさんにはちゃんと幸福になってもらいたい。

 

ほかほかと蒸気をあげるタオルを乗せられると、顔の皮膚が蒸れてじわりと潤んだ。そっと椅子を倒される動きに、大塚は思わずひじ掛けを握りしめる。

剃刀だ。剃刀がくる。

覚悟してきたとはいえ……やはり怖い。

 

家にはむろん理髪用の椅子などはなかったから、映子にあたってもらう時にはクッションとバスタオルを使った。台所のあのいつもの椅子で、尻を前にずらして背中をもたせ掛けた。真剣な顔つきで石鹸を泡立てる若き日の妻の横顔。大切なしごとをなしとげようとするものの覚悟に満ちた目の光。こちらは大の男が赤ん坊がおムツでもかえられるような無防備な姿勢になっているのである。なんだか悔しくて腹立たしくて、近寄った刹那、妻のスカートの中にいたずらに手をすべりこませると、危ないからそういうことはやめてください、と固くるしく言われた。まったく物がたい女だった。

赤ん坊を背負ったままの妻に髭をあたられたこともある。三女の成美はひどい甘ったれで、おろせばぴーぎゃー泣いて泣いてうるさかったからだ。泣かすな、と大塚は怒鳴った。当然のことのように。すみません、と妻はほつれおちてくる髪をかきあげながら謝った。

赤紫色のビロートのおぶい紐が、ブラウスとセーターをかさねた胸元にエックス型にくいこんで、妻の乳房を際立たせていたことを思い出す。もとは洗濯板にレーズンをのせたような乳の女だったが、子育て中にはあきれるほど豊満になった。うつむくと、絞りきれなかった乳が、液体自身の重さでさがり、あふれてくる。服を着けていれば何枚でも貫いてじわじわとにじみだし、ブラジャーをはずせばぴゅうぴゅうと水鉄砲のように飛び出した。

おんなだった。

妻はひとりのおんなだった。

オレの、オレだけの、おんなだったんだ。

タオルに隠れたままの大塚の目がどうしようもなく熱くなった。

うっかり声をもらさぬよう、大塚はひじ掛けを固く握りしめる。

 

やがてタオルをはがされ、冷たいクリームを頬や喉にまぶしつけられた。大塚は目を閉じ続けている。

剃刀があたる。

剃られる。

他人の手におのれをゆだねる。

 

こんなオレが、もし許せないなら、映子よ、オレを殺せ。

大塚は思う。

いま殺せ。

この男の手を滑らせて、オレの喉をかっさばけ。

かまわないよ。

おまえに殺されるなら本望だよ。

許してもらえないなら死にたいよ。

 

大塚は肘掛けを握りしめる。

 

剃刀が動く。

静かに。すべらかに。

無防備にさらけだされた六十二歳の顎と喉の皮膚の上を。

 

「おっと、こうしちゃいられねぇ。源さん、おれはそろそろ帰るよ」嗄れた声がした。

「なんだい。スガちゃん。もうちょっとだから、待っててよ」店主が剃刀を使いながら言う。「もう一局うっていきなよ」

「それがだめなんだ。頼まれててさ。孫を迎えにいかないと」

「ヒロキちゃんかい。嫁さんは?」

「ダンスだかエアロビだかなんだか知らないが、とにかく手が足りないらしい。保育園がしまる前にいっとかないとどやされる」

 しょうがねぇなぁ、などとひとしきり遣り取りがあって、扉が開いて風が動き、またしまった。

「ほんじゃあ、おれもそろそろ行こうかな」もうひとりがしゃべっている。

「なんだい、つめたいね」店主は剃刀を動かしながらこたえた。

「だって夕飯の材料買ってこいってカカアに言われてよ。そらこうしてメモまでもたされてる。晩飯の用意なら晩飯前に戻らにゃまずいだろ」

「おたく今晩献立なに?」

「さぁなんだか。豆腐と魚と野菜いろいろと。なんかそんなもんがあーだこーだかいてあるよ」

「しけてんなぁ」

「ほっといてくれ。粗食のほうが、血液サラサラだかダイエットだかにいいんだよ。んじゃあ、行くわ。またな」

 バイよ、と手をふった店主は、今日はじめてやってきた客が手をあげてタオルで目のあたりを拭いているのに気づいてギョッとした。

「どうしました、どこか痛くしましたか?」

「そうじゃない。どちらさんもみんな奥さんがたの天下なんだなぁと思ったら、妙におかしくって、なんだか泣けちゃってさ」

 

  おんなのしごとは炊事洗濯ではない。

  おとこどもをその気にさせることだ。

 

  大塚はすうすうする喉を手でさわる。

 

「なぁご亭主。 実は、下手の横好きだが、わたしもちっと碁をやるんだよ。邪魔をしておともだちを帰らせちまった面目に、一局うたせてもらっちゃいけないかな」大塚はいかつい顔を和らげてにかんだように笑った。「みなさんなんだかずいぶん楽しそうで、ひさしぶりに、やってみたくなっちまった」

「あら、そうですかい」痩せた店主は目を輝かせ腕まくりをする。「それじゃあ、急いで仕上げをしてしまいましょう。それからいっちょお手合わせを願いましょうか」