yumenooto uminoiro

 

 

Layla 5

 

翌朝、空が充分に明るくなった頃、レイラは寝床から起き上がって庭に出た。フクちゃんが来るより早く、小学校でラジオたいそうのテーマソングが聞こえるより早く、用を足してしまいたかったので。

 

 あまりよく眠れなかった。というか、からだは確かに眠っていたが、こころは警戒のあまり、ぴりぴりしていて、半分以上起きていたような気がする。そうして、いつの間にか体からはみだして、ほっつきあるいていた。

 夢の中を。

 そこで母の呼ぶ声を聞いた。だから、母を探した。母のサヨラは、なかなか見つからなかった。夢は本来混乱で、慣れぬレイラは歩きかたをまだ学んでいる途中だ。確かに母を探していたはずなのに、気がつくと、いつの間にかまったく別なことをしはじめてしまっていたりする。

おもしろいこと、興味をひかれることに、つい、ひっぱられてしまう。歩くレイラの道筋には、眠る誰かの夢が幾重にもひろがっている。それを飛び石のようにつかって、次々にジャンプしてたどっていける。

 逢ったこともないひとびと、見知らぬ場所、わけのわからない知識、覚えのない感情。雑誌をめくるように、テレビのチャンネルをかえるように、次々たくさんの夢をつまみ食いしてみた。

 楽しかった。

美味しそうな食べ物は味見をし、目を奪う景色は堪能した。ゴージャスな場面は腰を据えて芝居のように見物し、冒険隊にまぎれこんではらはらどきどきをいっしょに楽しんだ。欲しいところだけ掠めとるさまは、生まれついての泥棒だ。夢を見ている本人が必ずそこに居合わせているから、空き巣というよりむしろ掏摸だろうか。主役つまり夢を見ている本人にときによりそい、ときにとけこみ、ときに影の中にしずんで、レイラは巧みに盗み見をした。本人に近づけないときは、通行人やたまたま居合わせた誰かなどあまり重要ではない脇役を演じた。森や雑踏に溶け込み、建物の壁に隠れた。そのうち、だんだん大胆になって、誰かに声援を送るセリフを口にしたり、明らかにうなされているだろうひとの手をそっと握ってなぐさめさえした。握りかえされ、訴えるような目で見つめかえされて、ハッとした。

 ああ、水! 水がいるのに。わたし、持ってない。持ってきてない。

 夢に注ぐ水。濃すぎるものを薄め、乾いたところを潤す水。

 まだほんもののひめになっていないレイラは、あいにく水を携えてくるのを忘れてしまったのだった。うかつだった。どこから汲んでくればいいのか、どうやって持ち運ぶのか、何も知らない。おそわっていない。まだ、そのときがきていないのだ。

そのことにいまさらながら気付いたとたん、覗き見させてもらっていたことが、急にひどく申し訳なくなった。対価をはらわずに盗むだけ盗んだ。ズルをした。

 ごめんなさい。異国のことばで必死に話しかける相手から手をほどき大急ぎで逃げ出すと、イルカたちの飛び交う南国で人買いの小舟に担ぎこまれた。百歳の老婆になって関節のきしみを罵り、スラムの少年になって空腹にうめいた。どりあえず、跳ぶ先、跳ぶ先、さまざまな場面で水がなかった。水が必要だった。夢見るひとびとにだけでなく、この自分にも。喉が渇いて、疲れて、めまいと頭痛がしてきた。もうだめ。許して、ちょっと休ませて。もうここまでにしよう。やめよう。してはいけないこと、分不相応なことをしていることに、罪の意識を覚えた。自分の居場所に戻ろうと思うと、ひゅるひゅると折り畳まれるように他人の夢絵巻が収束していく。

どこかにたどりつく。

 着地したのはどこだろう?

 自分の夢すら、――夢であるから――とりとめがないのだ。

 海の果て水平線を彩るまばゆい光の線を追いかけて、どこまでもどこまでも沖へ、波の上を走っている。少し後ろをレディとトランプがひたひたとついてきてくれている。ああ、よかった、ここならだいじょうぶ。これは知らない誰かの夢じゃない、自分自身の夢だ。そう思って、最初はそれで安心していたのだが、やがて、二匹の犬のさらに後ろを、誰かがすごい勢いで飛んで来るのが見えた。待って、ちょっと止まって、と叫んでいるようだ。遠すぎてよくわからない。見知らぬ男だ。いや少年だろうか。二匹の犬が気づかわしげに振り返る。胸騒ぎがする。誰なの? そのひとは。どうしてあたしを追いかけてくるんだろう。

 どうすればいい?

おとなしく言うことをきいたほうがいいのかもしれない、待っていたほうがいいのかもしれないと思ったが、こわくて、とまれなかった。つかまりたくない。

 夢特有の、走ろうとしているのに妙にふわふわして足がちゃんと動かない感覚に焦れながら、レイラははげしく走った。こころは迷い、後悔している。疲れた。もう走れない。でも、隠れ場所なんてどこにもないのだ。いちめんの海。きらきらの青。

あまりに美しくてあざやかな青。

助けて。助けて。だれかきて。お願い、おしえて。どうしたらいいか。こんなことはじめるんじゃなかった。ちゃんと準備ができていないのに他人の夢を歩いたりしたから、きっと、お仕置きをされている。

 夢だ。ふつうは、こういうのを夢という。悪夢という。こういうものこそ夢という。どうせ夢なんじゃないか。つじつまがあわなくったっていい。つかまりたくない。あたしは夢を跳べたはず、そう開き直ったとたんに、見えないどこかでページがめくれ、別の夢へとするりと逃げ込んだ。

 コバヤシくんがスミカのペデュキュアをした裸足の足の上で線香花火をしている。小さな太陽のようにふくらんでいく玉を、ふたり、息を殺してみつめている。そのふたりを、スミカの肩のあたりから無言で見つめている視線、ただ視線のみであるなにかが、自分なのだった。……これは、なに? スミカの、夢? それとも、記憶?

 どきどきした。知らない誰かの夢にいるよりも、百倍申し訳ない気がした。しかし花火がいまにも危ない。はらはらする。見せ過ごせない。ほうってはおけない。

 だめよ。スミカ。なんとか伝えようとした。やめて。もう危ない。

 落ちるよ。

火が落ちる。はやく逃げないと。足に穴が開くよ。

 レイラは言うのだが、言おうとしているし、言っているつもりなのだが、ことばにならない。通じない。口も舌もないから声を届けることができない。緊張と期待を孕んだ甘い沈黙に鎖されていて、他のものなど目にはいらない。スミカの肩をつかんで揺すろうとするのに、手が届かない。

 滴るように太っていく線香花火の先端の黄オレンジに発熱している部分をこわごわ凝視しながら、ああ熱いよ、危ないよ、ダメだよ、逃げてスミカ、逃げればいい、ほんのちょっとそらせばいいだけじゃない、そう思うのだが、スミカは裸足の足をあえてその場に踏みとどめている。ふんばっている。それどころか、新しい線香花火をとり出して前の花火にくっつけて、もっと玉を大きくする。

 じじじ。

玉は言い、チラチラと金色の線を飛ばしながらむずかるように震えている。もう一本。熱玉がさらにふくれあがる。ああ、ほんとうに、いまにも落ちそうだ。ぽとりと離れて滴りそうだ。いや。こわいよ。やめて。そんなことしないで。足の指を死にかけの蜘蛛のようにキュッと縮めたくなる。もうだめだ。スミカは頑として足を動かさない。スミカは強い。なにもこわがらない。それどころか、待ち受けている、愉しんでいる。その時がくるのを。たとえ、火が落ちたとしても、熱くても、痛くても、やけどをしたとしても、穴があいたとしても。だったらどうなの。たいしたことじゃない。スミカはそう思っている。わたしはへいき。そんなことに負けるものですか。

 気合を張ったスミカはいつにもましてさらに美しい。

 花火から伸びる火花の松葉がスミカの決然と踏み出したままの裸足の足をマネキンの足のように見せている。とてもすべすべ。とてもきれいで、とてもはかなげだ。なぜ損なおうとするの。なぜそのままでいないの。

 玉はふくらみ、ふくらみ、ふくらんで、こんどこそ、ポトリ。落ちる。

 だめ!

 火の玉は思わず伸ばしたレイラのありもしない手をすり抜けて、焼け付くような痛みをもたらし、スミカの美しい白い素足に丸い窪みをつくる。足の甲のど真ん中。火は減ぜず、独楽のようにくるくるまわりながら、さらに潜る。深く潜る。貫通する。スミカは平気だ。わらっている。微笑んでいる。くすぐったそうに、足の指をキュッと曲げてみせさえする。コバヤシくんが、ぜったいはずれないはずの十字架のペンダントを歯で噛み切ってはずし、スミカの足の穴に通してしまう。細い細い、水の流れのような金の鎖が、あいたばかりの穴の中を落ちていく。向こう側から出てきて、どういう手段によってか、ちゃんともとどおりにくっついてしまうのだ。スミカの素足に、小さな金色の十字架が通った。疵ひとつない素足にとてもステキなアクセサリー。熱と苦痛の代償のそれは信頼と勇気のしるし。美しい宝物。

 聖痕。

 とレイラは思う、というより、そのコトバが唐突に脳裏に浮かぶ。それって何? と思い、ああ、まただ、と思う。まったく覚えのないことがらや、知っているはずのない名前が頭に浮かんでくる。確かにそうだという確信と共に。

でも、聖痕、って、なに?

 ――それは磔刑にされたキリストのその手や足の痕跡のこと。

 教えてくれたのは母である。

 サヨラは白い服を着て大きな樹の枝にゆるやかに腰をおろし、頬杖をついている。いつものことながら、おおきい。美しい。まるで、空から舞い降りてきた天女のようだ。手に持った小枝から、癒恵の淡黄色の花を無造作に千切っては、散らしている。次々に千切っても花はけっしてなくならず、あたりはだんだんに、花びらの淡い色の黄金の霧靄に染まっていく。

 ――ほんとうは人間の体重を支えるためには掌なんかに釘を打ったってダメなのだがな。それでは体重や苦痛で暴れる動きのせいで皮が裂けて骨が見え、はずれてしまうことになるだけだ。処刑の間中、罪人をちゃんと支えておくことなんてできはしない。手首の下、脈拍を取るときに握る部分の横のあたりに頑丈な骨があろう、尺骨、というのだが、その骨と骨の合間に釘を打つのが正しい。そこに打たねばならぬ。見た目が審美眼にかなっているかどうかはともかくとして。だから、多くの磔刑像、中世近世に描かれたほとんどの聖画や宗教本の挿し絵などなどは、のきなみ間違っている。なのに、長い信仰の歴史の間じゅう、世界のあちこちにポツポツ現れた「奇跡」つまり信者の信仰のあかしである「聖痕」は、ほぼ例外なくみんな掌の真ん中にあるのだ。ということは、やはり明らかに間違っている。

それはほんもののイエス・キリストが処刑された時にあいた穴と「同じ」ものであるはずがなく、彼等がそれまでの人生で目にしたことのある十字架像などのほうと「同じ」なものにすぎない。要するにあやまった情報を純朴に何度もコピーしつづけてしまっている。それでもなんらかの超自然的な理由でそこにそのように傷口ができ、血を流す。そのことにはいつわりはない。嘘はない。そして、百パーセントではないとしても、かなりの割合で、誰もがまず思いつくような単純な欺瞞……たとえば、釘とか目打ちとかなにかとがったもので自分で穴をあけたのだというようなこと……なしに、そういうことをまったく必要とせずに、その現象は起こる。起きてしまう。らしい。

まったく不可解だとしかいいようがない。

「ママ!」

 レイラは呼んだ。

「ママ! あたし、あたしね……!」

 夢を歩いたの。水はもってなかったから、あげられなかったけど。あたし、もうひめなの。それとも、ただ、なりそこなってるだけ? ひめに、なりかけて、中途半端になってるだけ?

 訊ねたくてあふれてくる言葉が、母の静かなまなざしに押しとどめられて喉を圧迫する。聞かなくたって同じだ、とレイラは思う。おかあさんはきっともう知っている。だって夢はおかあさんの領土。領域なんだから。

 ――ほんとうに不思議だろう?

 母はうっすら笑う。

 ――思念の力はまことに、はかりしれない。神に近づきたい、天主さまに選ばれた特別な存在であるということをみんなに認知して欲しい、といった、まぁ、言ってしまえばかなり自己中心的§エゴイスティック§な気持ちですら、かのような奇跡を起こすのだ。まして、おのれを極限まで虚しうして、なにかしらより大きなものに使われるはかない小さな道具となりたいとひたすら謙虚に願うとき、そのちからは、真実、人間の肉体や現世のあたりまえのものごとの法則の限界を越えるものとなる。聖痕を体現するのは、ほとんどが幼子か女性だ。けして逞しい壮年の男性ではなく。おさなきもの。よわきもの。よるべなき、たよりなきもの。無垢で無邪気な仔羊。彼等はけっしてわざと犠牲になってみせるのではない。わざと血を流すのではない。目立とうとしておおげさにふるまうのではない。自分の信仰がひとよりも篤いはずと、傲慢に考えるあまり、そしてそのことを他人に見せびらかしたいと思うあまり、偽の傷を作りだすのでは「ない」。ないのだ。そこから血が流れ出すのは論理的に「間違っている」ことだともし聞かされれば、かれらはたぶん、驚き、傷つくだろう。自分がそんな欺瞞の共犯であると、まさかに認めはしないだろう。

 ひとはたびたび間違った信じかたをする。

 いけない神に身を捧げる。

「ママ!」レイラはたまらず訊ねる。「教えて。じゃあ、あたしは、いったいどうすればいいの?」

 ――教えてやりたいが。

 サヨラはさびしく笑う。

 ――できない。聞かされてすむことではない。なにもかも、自ら見いださねばならぬ。そうせぬかぎり、意味がない。

 ……そんな。無理だよ。

 せめてヒントぐらい教わらなかったら。

 これを勉強しなさいって、教科書をみせてもらえなかったら。

 自分でみつけるなんて無理。

 そうしなきゃならないのだとしたら……

 わたしなんかには、一生、なんにも、わからない。

 当惑に大きく目を見開くレイラから、サヨラはゆっくりと目をそらす。

 その視線の先に、知らない少年がいる。レイラと同じぐらい当惑し、愕然とした顔をして。とぼとぼと歩いている。さっき、犬たちのあとを、追いかけてきたあのひとだろうか? ひとというか、あの子? まだ中学生ぐらいだろうか。

 めがねをかけてる。

 背はそんなに高くない。

 でも、目が、とてもきれいだ。

「だれ?」

 

 大声に目をあけたが、実際には声はだしていなかったらしい。すべてがぼんやりと滲んでいった。まざまざと鮮やかに浮かんだ景色も、胸を焼いた感情も、みんな、みんなあっと言う間におぼろげになっていく。

 ……へんな夢……。

 つかれた。

 うちのめされたようで、胸が痛かった。

 とっくにできていなければならないことが、できないことを思い知らされたような。わかっていなければならないことが、ちっともわかっていないのが、はっきりしてしまったような。

 屈辱、というより、自責、いや、劣等感?

 なんの手掛かりもなく、ひとりぼっち取り残されてしまった。 

 そんな感じで。

 ほんとうに眠ったのかそうでないのか、夢を見たのか、そうではないのか。夢を歩いてみたのか、そうではないのか。母がきたのか。そうでないのか。

 なにもわからない。

 〈洗濯しておかなくては〉。

 こういうときのために、かねて「こつ」として教わっていた通り、青空のもと、真っ白いシャツやシーツが洗濯紐にかかっていくつもいくつも並んで風にそよいでいる姿を思い浮かべる。

 はた。はた。はた。はた。

 光のめぐみ。

 風のめぐみ。

 すぎていく時間のめぐみ。

 ゆっくりと世界は脈打ち、順調に、正常に、日々のリズムにかえっていく。

 汗と涙と泥にまみれてくしゃくしゃに汚れた衣類さえ、きれいさっぱり洗われて、まっさらの新品のように蘇る。おひさまのちから、空気のちから、世界のちから。そうして、シャッキリと乾いて、また、つかえるようになる。

 戦えるようになる。

 そうしてシャツがはためくのを思い浮かべているうちに、ゆっくりとじんわりと、自分が自分の「現実」に戻ってくるのをレイラは感じた。感じていることを確認していた。

 海の家の二階だ。

 こどもたちが寝かされている部屋。

 部屋の天井の壁の影を、朝日の照り返しなのだろう周囲のオレンジ色が淡くなって、白くなって、やがて、蛍光灯のパイロットランプなんかついていてもいなくても関係ないぐらいの明るさになってくる。その変遷を、展開を、溶明を、ずっと長いこと、瞬きもせずに見ていた。ような気がする。時間は伸び縮みしながら大急ぎで巻き取られる。瞳をあけっぱなしにした自分の顔の上を、事象は早送りでうつっていく。鳥の声がする。鳥の声がしだしたのを耳が感じている、と意識した。いいえあれは雲雀ではありません。夜鳴鳥§ルビ・ナイチンゲール§。ううん、ちがうわ、ただのスズメ。それとも海鳥? ……ここは海。朝だ。

 もう夜ではない。

 夢の刻ではない。

 やっと硬直が溶け、頭の中でゴチャゴチャしているものが抜け落ちけ、顔を動かすことができた。

 スミカがいる。すぐ隣で眠っている。なにも知らぬげに。穏やかに。

 ふとんからかすかにはみだしているすべらかな足には異状はない。もちろん、彼女のあしに、聖痕なんかないし、金色の鎖なんかとおっていない。

 ほっとした。

 目をやると、あの窓もがらりと一変していた。あんなにいっぱいへばりついていたはずの蛾たちは大半いなくなっている。ぼんやりものなのか、それとも、寿命で、そこにしがみついたまま死んでしまったのか。小鳥に嫌われたのか啄ばまれずにすんだのか。そんなものだけが、いくつかぽつんぽつんと居残っているだけだ。そこには、もう何の気配も漂っていない。悪意にしろ、好奇心にしろ、ユメミにしろ、他のなにかにしろ。

 ああもう。

 わけがわからないことばかり!

 そっとまばたきをして、枕から離れた。

 わずかな身動きの気配を察して犬たちが起き出した。顔をあげた二匹の犬たちの毛むくじゃらの顔を見れば、やはり、いつもどおり、ふだんどおりである。夢の中でいっしょに走ってくれたのは、ほんとうに彼ら自身だったのだろうか。彼らも覚えているのだろうか。あんなにがんばって走ったのを。

 夢に過ぎなかったのか。彼らにとっても、ほんとうにあったことなのか。どちらにしろ、レイラにも犬たちにもどうしようもないことだし、話してきかせてもらうこともできない。

 両手で、二頭の頭をよしよしと撫でてやる。レイラが立ち上がると、レディもトランプもむくりと起き上がって、いっしょに一階まで降りた。勝手口をあけてやると、二頭、競い合うようにとびだして、さっそく庭先でしゃがみこむ。犬はいいなぁ、とレイラは思う。らくちんで。

 用をすませた犬たちは、ブランコの横のそこだけ陽光があたっているところにいって座り込んだから、そのままほうっておくことにした。どこにも逃げたりはしないだろうし、たとえどこかまで探検にいったとしてもちゃんと自分たちで戻ってくるだろう。

 朝の涼しい空気が吹いて、レイラのからだを震わせた。大きくブルッときた。大きすぎる大人用のツッカケをコトコト鳴らしながら風呂場に行き、戸をあけて、スノコのあげてある剥き出しのコンクリートのつめたさにつま先立ちになりながらしゃがみこんだ。からだをゆるめると、あたたかな液体が勢いよく出ていく。それはここちよい感触だ。出ていけ。流れてゆけ。いらないもの。へんな夢も臆病な自分も、なにもかも。湯船に残っていた冷めたお湯で、排出したものをざあざあ流した。うるさく音をたててしまったし、たてつけの悪い戸もずいぶんガタガタ揺すってしまったから、誰かにわかっちゃったかもしれない。それはちょっと恥ずかしいけれど。

 勝手口に戻ると、案の定、キッチンにマツエさんが立っていた。まだパジャマで、頭にカーラーをいくつかくっつけている。

「なにしてたんですお風呂場で」

 非難するように言うから、小声で、正直に、秘密を教えた。

「なるほど! それはうまい考えです。いいことを聞きました」マツエさんは皺クチャな顔を少し緩めて、じゃあ、わたしも次からそうしましょう、と言った。いまレイラの入ってきた勝手口から、生ゴミらしいものを持って、いまレイラの脱いだツッカケを履いて出ていこうとする刹那、マツエさんがちょっと振り返った。

「市場まで行きませんか」

「いちば?」

 それはまた思い切って現実的な提案である。

「烏賊を買いにいこうと思うのです。ゆうべ漁火を見たでしょう。あの烏賊釣り船が朝になったら、漁港に戻ってくるでしょう。新鮮な烏賊があると思うんです」

「ああ。そうだったわね」おもしろそうだ。めったにできない経験。「いってみたいな。行きます」

「じゃあ、早く着替えてください」ドアを抜けかけて、もう一度振り向く。「手は、どうです? まだ痛みますか?」

 そうだ。あれからまた傷が増えたんだった。レイラはあわてて手を背中に隠した。

「ちょっとだけ。でも、だいじょうぶです。あたし、スミカ、起こしてみますね。あの子もいきたがるかもしれないから」

 レイラは二階に上がり、横たわるスミカの肩をちょっと揺すってみた。

「うーん」スミカがふとんから大きく足をはみださせた。やはり確かに穴はあいていない。十字架など飾っていない。

「ねえ、マツエさんがね、みなとまでいこうって。烏賊買いに行くんだって、わたし、いきたい。いこうと思う。いっしょにいかない?」

「イカかいにイカない」スミカは眠そうにつぶやき、それから、自分のダシャレに気付いてクスクス笑いながらふとんに鼻までもぐりこんだ。

「ヒトシは?」

 ヒトシはくぐもった鼾で答えた。パジャマのズボンを脱いでしまっている。カエル泳ぎの途中のようなかっこうをした脚がところどころ蚊に食われている。双子には訊ねなかった。スミカもヒトシも行かないというのに、チビたちだけを連れていかされては、面倒でたまらない。

 旅行鞄を隣の部屋にもっていって、冷たい畳の上で静かに着替えた。ちょっと可愛らしくてきちんとした格好がいいだろう。裾のところに小さなリボンのついた黄色いバミューダパンツと、ちいさなパフ・スリーブがついていて、胸元がシャーリングになっているブラウスを選んだ。どちらもスミカにもらった服だ。おさがりだ。特にブラウスのほうはお気にいりだったらしい。でも、あたしはもうダメなの。だってこれ、ブラの肩紐が見えちゃうんだもん。あんたはまだブラなんてしないでしょ。しなくったっていいのって、うらやましいよ。そんな時期は、ほんのちょっぴりですぐにすぎてしまうのよ。だから、あんたが着ればいい。いっぱい着てやって。もしかすると、あんただって、ほんとにちょっとだけのいまのうちなんだから。

 うっかりすると動きにつれて左手が痛んだが、痛みの質が刺し傷のそれではない。打撲の痛みだった。犬の牙は刃物というよりも鈍器であるらしい。もう血はとまっている。

 麦わらで編んで花の刺繍をさしたバッグを取り出す。持ち手が長く、肩からさげることができるものだ。うんと遠くまで歩くことになるのかしら、ゴム草履でいいかしら。バッグには、ハンカチとちりがみと……サイフをいれていこうかどうしようか。でも、お魚の市場であたしが買うものがあるかしら? 迷って、やめた。下着の奥の深くにまたサイフをもどす。

 コーヒーのいい匂いがするなと思いながら、降りていくと、驚いたことにヒロさんがすっかり支度をすませたかっこうでキッチンの椅子に座っていた。キモノ姿だ。芭蕉布の一重。髪には珊瑚のかんざし。頬や目にお化粧もバッチリ。

 ここまでするのにはがんばって早起きしなきゃならないだろう。ヒロさんとマツエさんは、きっと、ゆうべのうちから市場にいく約束をしていたんだな、とレイラは思った。

「まぁ、すてき」ヒロさんが誉めてくれた。「かわいいヒッピーさんみたい。よく似合うわ」

「ありがとうございます」

「その包帯も、ファッションの一部?」

 一瞬迷ったが、事実だけは正直に言っておくことにした。「昨日、レディに噛まれました」

「まぁ、どうして?」

「よくわからないんです……」包帯の手をそうでない手で支える。「ちょっとはしゃぎすぎちゃって。たいしたことないです。おふとんを、血で汚してしまうといけないと思ったので。いちおう、こうしておいたんですけど。なんか大袈裟なんですけれど。もうほとんど痛くないし」

「海に入ったら、しみるんじゃないかしらね」

 それは考えていなかった。

「……そうかもしれません」

 ヒロさんは眉をしかめ、それから、ふうっと溜め息をつくように微笑んでみせた。

「レイラ、レイラ」両手を伸ばしてくれるので、レイラも自然に、包帯をしていないほうの手を預けた。「いったいどうしたの。最近。こっちに来てから、なんだかずっと怪我ばかりじゃないの」

 まったくそのとおりだ。タンコブに火傷。だんだんひどくなるみたい。

 幸い、最初のふたつはどちらもめだった痣にも痕にもならぬまま、いつの間にか消えてしまったが。

「まぁ、そういう時もあるのかしらね」ヒロさんはレイラの手を両手で包み、ゆっくりとさする。「嬉しすぎてちょっとはしゃいでしまったりしてね。おてんばぐらい、まぁいいけれど、でも、女の子なんだから。傷が残ったりするといけないわ。サヨラにわたし、申し訳がたたない。だから、これからは、よく気をつけてくださいよ」

「……はい」

「コーヒーをいれました」マツエさんが流し台の前か羅振り向いて、言われなくてもわかっていることを言った。「飲みますか?」

「ください」

「牛乳をいっぱいで、お砂糖もいれる?」毎度のことなのに、ちゃんと確認してくれる。

「はい、お願いします」

「じき、クルマが来ます」ヒロさんが言った。「いっしょに行くのは、レイラだけ?」

「ええ、みんな起きる気がなくて。……髪、梳かしてきますね」

 レイラは洗面所に走って、そこにあるブラシでざっと髪を撫でてみた。ハネている。上から押さえたぐらいではダメだ。水で濡らしてぺしゃんこにしてみた。なんだか余計になさけなくなった。せっかく可愛と言ってもらったのに。あわてたせいで、包帯まで濡らしてしまった。バカだ。

 もう一度二階にあがって、ヘアゴムやヘアバンドの中になにか使えそうなものがなかったかどうか見てみたかったが、バタバタするとせっかく寝ている連中にうるさがられるかもしれない、と思った。スミカがいてくれたら、相談にのってもらえるのにな。

 まぁいいや。どうせイカ買いにいくだけだもの。

 しょんぼり戻って、椅子に腰掛け、キッチン・テーブルの例のビニールカバーの上に置かれていたミルクコーヒーに口をつけた。ヒロさんがそんなレイラの顔を妙にじっと見つめていたかと思うと、不意に、立って、足音を忍ばせて二階にいった。他の子たちもいちおうもう一回呼んでみることにしたんだろうか、とレイラは思った。せっかくなのに、ちゃんと誘わなくて悪かったかな……。だが、ヒロさんは手に布を持っておりてきただけだった。細長くて、てれてれした布。色はピンクと黄色と緑。どことなくアジアっぽい模様。

「ちょっといいかしら」

 ヒロさんはレイラの後ろにたったかと思うと、長くて薄い、向こうが透けてみえるような布をシュッと広げた。手品をするみたいに。レイラがかたまっているうちに、ヒロさんは、布をレイラの頭に髪にのせ、ターバンみたいにぐるりと巻いて被せ、裾を長くたらして結んだ。

「おやおや、エキゾチックですこと」

 コーヒーのしたくを片付け終わったマツエさんが言う。

「見てきて」

 洗面所に走った。鏡の中に、見知らぬ女の子がいた。少し陽に灼けた顔に、サイケなスカーフがぴったりだ。ひらひらしている裾のところにくっついた黒いタグに、Made in Indiaとか pure  silkとか書いてあった。

 なんだかおとなっぽくて、バッチリ決まっていて、芸能人のひとみたいだ。

「あげる」と、ヒロさん。

「でも」

「いいの。それ、誰かにお土産にもらったものなの。海なら使うことがあるかと思って持ってきたんだけど、べつにいらないし。わたしよりあなたのほうが似合うわ」

「ありがとうございます。でも、なんだか不思議です。こんなかっこうすると、わたしじゃないみたい」

 そうでしょうとも、と、ヒロさんが笑った。

 写真、撮って欲しいな。

 そうすればママに見せることができる。そうしたら、ママからもきちんとお礼を言ってもらえるし。このプレゼントを、あたしがほんとうに喜んでるってことがヒロさんにも伝わるんじゃないかしら。

 写真機を持ってきていたのはヒトシで、起きてないヒトシの荷物を勝手に捜したりしたらドロボウみたいだ。迷っているうちに、ヒロさんが溜め息まじりに言い出した。

「ああ、いいわねぇ、若いひとは。白粉ひとついらないんですものねぇ……」

 ミルクコーヒーの残りをこぼさずに飲んでしまえるようにレイラが椅子に座ると、ヒロさんは白い腕を着物の袖からにゅっと突き出したかっこうで頬杖をついている。

「レイラはきれいよ。とてもきれい。特に睫が素敵ね。思い出すわ。わたしだって、昔むかしは、べつにマスカラなんかしなくても、ほんとうに可愛くてきれいだったのよ。祖父が、よく、あぐらをかいた中にわたしを抱っこして、おまえのような睫の長い少女をスミレにたとえた詩があった、って言ったわ。でも、その詩の本編のほうは一度も暗唱してみせてくれなかった。教えてくれさえしていたらきっと覚えられたのに。祖父ももしかすると正確には覚えていなかったのかしら。それとも、ただの嘘だったのかしら。祖父はたいそう上手な嘘吐きだったから……」

 ぷっ、とクラクションの音がした。

「来ましたね」マツエさんがエプロンをはずした。

 

 家の山側の狭い路地に停まっていたのは、あちこち錆びの出た白くて小さな車だ。横腹に紺色がかった青い小さな字で店商村木、と書いてある。右から読むのだった。木村商店。何屋さんなのかまったくわからない。

 運転してきたのはフクちゃんだ。たぶんそうではないかと思ったとおりに。

 レイラたち三人が近づいていくのをバックミラーで見ると、びっくりしたように振り向いてくれたので、はっきりわかった。フクちゃんはたまたまそこにちょうどあった木立がジャマで二十センチぐらいしか開かないドアから苦労して這い出して来て、あわてたように反対側に走り、運転席側よりはもう少しは大きく開けることのできる助手席側のドアを開けた。ギイ、とひどい音がした。見送りに出てきて、こもごも首をかしげていた犬たちが、この音に、ぶたれたように顔をしかめ、後退った。ゆうべのリンカーンと比べると、まさに雲泥の差というやつだ。

 道とも言えないこの道をギリギリまでつけるには、どこかで切り替えしてバックで突っ込んでこなければならなかっただろう。フクちゃんって、けっこう気がきくんだな、いいとこある、とレイラは思った。

 ドアはふたつしかなくて、後部座席に乗り込むには、助手席側の椅子を前に倒さなくてはならなかった。狭苦しいその後部には、紙袋だの、誰かのジャンパーだの、ぼろぼろになった地図帳だの、ブリキのジョウロだの、エンゼルキャラメルだの、ぎゅっと捻じってある煙草のパックだの、なにやかにやが散らばっている。フクちゃんは、それらをザッと手で除け、床に落としたり、つかみだして道端に放り投げたりした。首にかけておいたタオルで座席を拭いて、それでもあまりきれいにならないものだから、ぼんやり困ったような途方にくれたような顔をした。

「乗って、乗って」ヒロさんが、マツエさんとレイラを急かした。「あたくしは、助手席がいいわ」

 レイラは急いでドアの横を摺り抜けた。運転席の後ろはキツキツで、膝が前の座席にくっついた。

「バスタオルでもとってきましょうか」マツエさんが行った。「せめて、奥さまの分だけでも。このシートでは、お着物が汚れてしまいますよ」

「いいわよ、べつにこんなの」

 ヒロさんが笑っていうので、マツエさんもそうですかとかたをすくめて、ヨッコイショとからだをかがめて乗り込んできた。フクちゃんが助手席を倒し、どこかがうまくはまらなかったのか、一度手で殴って、バチン、と言わせた。

 ヒロさんは涼しい顔で乗り込んで、椅子を前にずらそうとしたが、うまくいかなかったらしい。ごめんなさいね、狭いけど、と振り向いて言う。フクちゃんはまたからだをくねらせながら乗り込んできて(ドアにこすれてシャツがめくりあがって、黒人のように陽に灼けた脇腹がチラリと見えた)すぐに発車した。

 振り向くと、トランプがあわてた様子で十歩ばかり追いかけてきていた。レディは四肢をつっぱったままこっちを見てる。わたしたちがさらわれるかとでも思うのだろうか。だいじょうぶよ、と手を振ると、トランプもピタッと立ち止まり、ふりかえり、ふりかえり、とことこ戻っていった。

 

 ガタガタ坂を、車は下った。ドアやミラーであたりの草や枝をピシパシ折りながら。あまりはずむので、レイラは天井で頭をうちそうになった。マツエさんの痩せて骨張ってシミの浮いた手が、ヒロさんの座っている席にひしとしがみついている。生まれてはじめてジェットコースターに乗ってみて、たちまち後悔しているこどものようだ。乾いた唇をすぼめて、ギュッと奥歯を噛みしめている。だがヒロさんはてんで平気で、今日もいいお天気ね、とか、イカはいっぱい取れたのかしらとか、すこぶる機嫌よさそうにおしゃべりをしている。フクちゃんの返事は、うう、とか、ああ、とか、ただの無言のうなずきである。

 やがて道幅が少し広がり、おんぼろではあるが一応舗装してある道路に出た。村から、山ひとつ、奥まったところだ。海辺の町や村を繋いでいる古い峠道なのだろう。もとから車のために作った道ではない証拠に、ものすごく幅が狭く、路肩は草ぼうぼうで、ところどころ欠け落ちている。それなのにフクちゃんがたちまちスピードをあげたものだから、ますますからだが揺れた。レイラは壁に手をつっぱり、座席の縫い目に猫みたいに爪をたてた。もらったばかりのインドシルクのスカーフの長い裾がひらひら揺れるのが、猫のしっぽ。マツエさんはとうとう祈るように目をつぶった。どうせ見るべきものはなにもない。空と山だけ。木々だけ。見通しがきかない。おまけにセンターラインもガードレイルも、対向車も、同じ方向にいく車も、何ひとつも見えない。

 運転、じょうずなのねぇ。

 甘くやさしい声でヒロさんが言ったのが、たぶん、いけなかったのだと思う。フクちゃんはむっつり黙ったままだったが、嬉しくなりでもしたのか、ますますスピードをあげた。思わず乗り出してフクちゃんの肩越しにメーターを見たらせいぜい六十キロかそこらではあったが、こんな道だとものすごく速く感じる。なにしろ目のすぐ横の開いたままの(たぶん閉まらないか、閉めるのがすごく大変かどっちかなのだろう)窓の向こうを大きく枝を張った樹がびゅんびゅん通りすぎていくし、いまさっき気付いたのだが、床の右足を置くあたりに金属が腐って落ちたかのような層状の穴が開いていて、ところどころ地面が見えるのである。万が一、踏み破ってしまったら、六十キロの速さで擦られることになる。レイラはバミューダーの脚をそろそろひきあげ、膝を抱えた。

 胃が握りこぶしになってきた。口の中に酸っぱいものが涌いたので、レイラはあわてて風を吸った。木々がそんなに近くないところでは、思い切って窓から顔を出した。おでこを冷やしておくと、車に酔いにくいはず。

 そんなレイラの必死の工夫にもたぶんまったく気付いていないだろう、小砂利の浮いた道路をさかんにタイヤを滑らせながらフクちゃんは走った。自分の限界をためしていたのかもしれないし、ひそかになにかの記録に挑戦していたのかもしれない。次第に明るく青みを増していく空の下、緩い登り下りをいくつか繰り返していくと、やがて、潮の香りが強くなってきた。小さな峠をひとつ越えると、斜面がひとつ同じ種類の木で埋め尽くされているところに出た。ひねこびてねじまげられてわざと低く抑えてある木々は、りんごか、かりんか、あんずか、いずれ果樹畑だろう。花の咲くシーズンにはきっときれいだろうな、とレイラは思った。それから先はようやく人里らしくなった。民家やビニールハウスや小さな工場のような建物が続く。山が右手に遠のくのと入れ替わりに、左側に海が見えてきた。にょきにょき立ち並んでいる電柱のようなものは、漁船のマストだろうか。やがて道は見るからに新しいもっと立派な道と交差した。その交差点でさえ、信号機がない。どうせ見通しが利くから、フクちゃんは一旦停止をする気配をまったく見せずに左に折れた。おかげでみんな大きく横揺れした。マツエさんが、喉のおくで、ぐう、とか、ぶう、とかいう音をたて、すぐに頬を赤くして、失敬、と言った。

 短い直線の行き止まりが港で、おおぜいのひとたちが働いていた。木箱をトラックに積みこんだり、大きな木箱からちいさな木箱にイカを選り分けたり、びしょびしょに濡れたコンクリートの上をデッキブラシのようなもので擦ったり、たくさんの木箱の乗ったトラクターで走ったり、たぷたぷと揺れる漁船の上と下とでなにかの機械を受け渡したりしている。古タイヤに腰をおろして煙草を吸っているひとたちの前で、いま、クレーンが一艘の船から、網いっぱいのイカを吊り下げて、ざぁざぁ水をこぼしているところだ。

 フクちゃんは倉庫と倉庫の隙間の暗がりにクルマを留めた。

 ヒロさんが自分でドアをあけて降りようとすると、

「足元が!」マツエさんが叫んだ。「奥さま、お気をつけになって。濡れております!」

「はいはい」

 ヒロさんは着物の裾を少しまくりあげておいて、足袋をはかない草履の足先をそっと地面におろした。そのまま、芝居がかったヌキアシサシアシで乾いた地面のほうに行く。ほおら、平気だったわよ、といわんばかりに得意そうな笑顔になって着物の裾をおろすので、レイラは思わず笑ってしまった。

 マツエさんがなんとか起こそうとして苦労している助手席を、まわってきたフクちゃんが、ガチャン、バシン、と力任せに立ちあげた。

「すいませんね」

 マツエさんは感謝のことばを口にし、そそくさと降りた。胸のあたりをおさえて青い顔をしているところをみると、車に酔ったらしい。

 幸いレイラは、寸前でなんとか回復していた。それでもこの車を降りられるのは嬉しい。気をつけたつもりだったのだが、つい勢いがついて、泥水を撥ねてバミューダを汚してしまった。

 市場というから、時々ニュースに出てくるような活気のある魚河岸を想像していたのだが、ここにはそれほどきちんとしたものではないようだ。雑にコンクリートを敷いてあるところに、長い柱をたて、トタンかなにかの屋根をのせてあるだけ。魚のはいった箱がいくつか山になっていて、地味な服装のひとびとが互いにだけ通じ合うようななにかを言い合い、行き交っている。重そうな荷物を満載にしたトラックが次々に発進していくのを見ると、ここはただの集積場で、競り売りなどの商売は、別の、もっと大きな港でよその漁港の水揚げとあわせてするのかもしれない。この朝もどってきた船の分の収穫はもうおおかた運び出してしまったあとのようにみえる。働いているひとびとの顔も和らいでのんびりしている。大あくびをしているひとたちもいる。全体に、ひとしごとやりとげた後の雰囲気が漂っている。

 きっと、一晩分としては充分の獲物が取れたのだろう。夜通し働く烏賊釣り漁船のひとたちにとっては、朝はいつも、一日のはじまりではなく終わりなのだな、とレイラは思った。このひとたちはきっとみんな、これから家にかえってひと眠りするのだ。

 ってことは、漁師さんちのこどもたちは、学校にいってきまーす、の時に、ほとんど同時に、おとうさんおかえんなさーい、だったりするんだろうか。おとうさんだけじゃない。おかあさんだって働いている。長靴をはいて。手拭いで髪をまとめて。おじいさんも、おばあさんも、ちょっと見には見分けがつかない。真っ黒になって働いている。

 毎日、おとうさんや旦那さんが遠い沖にしごとに出かけていくのって、どんな気分がするのだろう? たっぷりたくさんのイカやお魚を捕まえて無事に帰ってきてくれたらいい。そのたびに、きっと、すごくホッとするだろうな。でも、海が荒れたり、台風が来たりして、出かけられないときだってあるだろう。出かけてから急に天気が変わったりもするかもしれない。せっかく出ていったのに、ちっとも獲物がみつからなかったりだってするかもしれない。たいへんだなぁ。

 網を出せば出しただけいくらでも獲物がかかるというのなら、しんどい仕事も苦ではないが、すべては天の采配にかかっている。いくら智恵を絞っても体力の限りをつくしてもどうにも獲れないときというのはあるもので、誰もが等しく幸運をお恵みいただけるとは限らない。

 魚群探知機の示す大群を大資本でかっさらっていくのもひとつの選択、誰も知らない秘密の漁場で一本釣りの名人芸を磨くのも選択。ひとは食べてゆかねばならず、漁りの技は天与の才だ。人生六十年として一日三食で一生に六万五千食、その六万五千分の一に奉仕するいのち。ああ美味しかったね、ほっぺたおちそうだった、またこんなの食べたいと言ってもらえたら、ひとのいのちは生きるだろうか。魚のいのちは生きるだろうか。

「……こっちよ!」

 ヒロさんが袖を振っているのを見て、レイラはハッと我に返る。ああ、あたしったら、また。よそのひとの考えを考えてた。

 烏賊は、虹かネオンサインの色をしていた。濡れた道路に落ちた油がヘッドライトで光る時の色。

 烏賊たちがぎっしり詰め込まれた木箱の中で身をよじると、角度によっては真っ黒に、あるいは暗い赤紫に、見えるそのぬめぬめした肌が端から順番にきらめいた。まるで小さな小さなスパンコールを縫いとめた布を振った時のように。おしあいへしあい、おもてになりたがっているのか、それとも内側に隠れたがっているのか、一瞬たりともじっとしていない。

 イキがいい、なんてものではない、生きている。完璧に。まだ完全に。海に放したら、そのまま泳いで逃げていくだろう。

 えっ、これを、食べる、の? 

 ほんとうに?

 ちょっと戸惑う。

 鍵穴型の瞳の開いたギョロ目がじろじろと居丈高にレイラを見つめ、吸盤だらけの脚がのたうってあたりを打ち、箱やコンクリートにくっついてははがれる。そうしてそうしながら非難がましいブウブウいう声をたてっぱなし。なんということだろう、烏賊は鳴くのだ。キュウとか、ブウとか。フシュウ、とか。体内から海水が押し出されていく音にすぎないのかもしれないが。時々、墨も吐きながら。

 そりゃあ、不満だろう。自由な海からこんなところに詰め込まれて。殺されたくもないだろう。食べられるのはましてごめんだろう。

 双子をつれてこなかったのは正解だ、とレイラは思った。これを見たら、一生烏賊は食べない、と言い出しかねない。

「え、じっぱい? たった? だら、カネなんぞいらんわ、もってってけさい!」

 手拭いをかぶったおばさんがケラケラ笑って、マツエさんの出したガマグチを押しのけている。

「いいっていいって、そんくらい、ただでいいの。きょうばりでねくて、いつでも。もらいさきて。いくらでも、あげっから!」

 おばさんの声は甲高く、キンキンとあたり一面に響いた。気前のいいところを見せたいのか。フクちゃんと知り合いなのか。松橋さんと言っただろうか、あの家の持ち主さんの関係者さんなのかもしれない。

 フクちゃんが真っ黒な目尻を皺だらけにして、なにやらもぐもぐ、ありがとう、とかそんなことを言ったらしい。おばさんは片手で口元を隠し、片手でフクちゃんの腕を叩きながら、ロクちゃんあんたこんなきれいなおくさんのとこに毎日通ってたらいまにうわさになるだよ、芝居がかった作り声でいって、またキンキン笑う。

 ロクちゃん?

 前裾にお抹茶色でハマナスの花を染め抜いた着物をピシリと着こなしたヒロさんは、気高く品よく垢抜けている。ざっくばらんにまとめた髪も、頬骨のあたりが少し陽に灼けているのも、なにより足袋なし裸足で紅型鼻緒の藺草草履をつっかけているのも、ふだんのヒロさんから比べればおそろしく砕けた装いなのだが。そもそも、ヒロさんは、フクちゃんから見れば、お姉さんというよりはお母さん、ひょっとすると若めのお婆さんにあたる年ごろなのだが。

 からかわれたフクちゃんは(それともロクちゃん? いったい本名はなんなのかしら。これはぜひスミカに教えないと)いつもよりさらに仏頂面になって、両手を短パンのポケットにつっこんだままうつむいて、からだをゆらゆら揺らした。ヒロさんは、にこにこ愛想よく笑って、ほんとうによくしていただいて、と横目でフクちゃんを見る。フクちゃんの揺れがますます大きくなる。

 キンキン声のおばさんがそこらのビニール袋に無造作にどんどんイカをつっこんでくれはじめると、マツエさんが、しゃがみこんで、料理のしかたについてなんだかんだと専門的な質問をした。おばさんは、めんどうなことなんてなんにもないよ、といいながら、知ってると思うけどサシミにする時は切る方向が大事で、とかなんとかかんとか、両手を振りまわすので、赤くずんぐりしたその手から、イカから剥がれた肌やら吸盤やらがあたりじゅうに飛び散った。それがわかったのは、飛んできた生臭い何かが頬にピシャッとくっついたからだ。

 レイラの目はさいぜんから木箱の中、烏賊の間にたまたま紛れ込んでしまっていた小さなカニに吸い寄せられている。それはほとんど透明といっていいくらい白いやつで、甲羅の大きさがせいぜいレイラの小指の爪ぐらいだ。もつれたたくさんの吸盤脚の間から、ぬらぬらと光って輝く黒虹色の間から、柄のついた目玉をひとつあるいはふたつにゅっと突き出してあたりをうかがっていたかと思うと、またそそくさとひっこみ、戻りこみ、またちょっと違う場所から現れて、立ちどまって泡をぶくぶく吐いたりしている。ちいさなハサミをあげたりおろしたり。さかんに出たり入ったりしながら、まるでわざとのように巧みに、オバサンに掴み出される烏賊を避けながら、木箱の中に留まっている。

 いつまでそうしていられるだろう。なにせ小さな小さなカニだ。どうしてこの子だけ一匹だけ紛れてしまったのか、家族や仲間と離されて、途方にくれているのではないだろうか。

 拾って、海に投げてやろうか。レイラは思う。烏賊を逃がしたりしたら失礼だけど、カニなら、かまわないのではないか。飼ってみるのはどうだろう。こんなチビちゃんなら、牛乳瓶の中で飼えるかもしれない。新鮮な塩水を汲んで、ソーセージの端っこのさらにきれっぱしとかでもあげたら、育ちやしないだろうか?

 でも、もし、それで生き続けたら。海から帰る日には、どうする? それから、もう一度、離してやる……?

「お嬢ちゃん、ワタ、食べれる?」

 小さなカニの運命に夢中になっていたので、いきなり話しかけられたのが、自分に向けてだということを意識するのにワンテンポ余計にかかった。

「わた、ですか……?」

 なんのことだろう? 近くでワタアメでも売ってるのかしら。困ってしまって目を泳がせる。

「どうかしら」かわりにヒロさんが引き取ってくれた。「わたし、ちょっと苦手よ。あたりそうで恐いんですもの」

「そりゃ奥さん、町で買ってもだぁめ」オバサンはおおげさに顔をしかめた。「これは甘いよぉ。うんとからだにいいんだから、残さず食べてけて」

「しおからにしたらようございましょうか」と、マツエさん。

「なあに。ほぐしてさ、キュウリ揉んだのとあえるとか、イカの身とあえるとか、タマゴの黄身とあわせて海苔でくるりんと、ほれ」

 どうやらハラワタのことだったらしい、とレイラが見当をつけた頃には、すこぶる専門的な話がまたはじまってしまった。レイラは目を木箱に戻したが、あのカニはどこに隠れてしまったのか、もう見えなかった。

 じっと見詰める中、カニの眼枝が見えたような気がして、思わず指を伸ばしてめくろうとした烏賊の脚がレイラの掌に巻き付いてひっついて、ひっこめようとしたらそのまま持ち上がってしまった。吸盤のくっついた部分がキュウッと引き攣れる。ネオンサインがとんがり頭から脚のほうへうねうねと流れ、金色の鍵型の目が冷たい怒りをこめてレイラを睨んだ。

 

 十パイどころではなく小さな発砲スチロール箱ひとつの烏賊を無料でもらい、またあのとんでもないクルマに乗り込み、山越えのドライブをして、高台の家に帰りつくと、キッチン・テーブルのところでヒトシとミキヲが睨み合っていた。ミキヲの丸い頬にはさんざん泣いた痕がある。真っ赤な顔を泣き疲れたかっこうにひどく腫らしたミキヲは、両手をからだの両側にたらし、椅子の座面を握り締めて、唇を結び、頑固な決意を秘めたまなざしで床のどこかをみつめている。

 足元に伏せをしたトランプが心配そうに見上げて、時おり鼻面で裸足の足先をつつくが――小さなミキヲの足は座っていると床まで届かない――ミキヲはふてくされたような表情のまま、反応しない。

「どうしたのいったい」

 ミキヲの隣の椅子に座りながら、ヒロさんが聞く。ミキヲは両目をつぶってゴクリと喉を動かした。涙がこみあげてきた時そうなるように一瞬顔がゆるんだが、すぐに、もう一度あらためて口を引き結び、イヤイヤするように頭を振る。

 レイラは、マツエさんが生きたままの烏賊をさっそく「処理」しはじめた流しのほうをできればミキヲが見ないですむようからだでブロックして立った。烏賊はまだきゅうきゅう鳴いているが、水道の水の流れる音も高いからきっとよほど気にして耳をすませていないとわからないだろう。ヒロさんが、問い質すような顔でヒトシを見る。ヒトシはうんざりしたようなしぐさで、椅子の背に預けた片手をちょっとあげた。

「ウンコできないの、こいつ」

 ヒロさんは眉をあげた。

「したいはずなのに、ずっとがまんしてんの。あのトイレでは、踏ん張れないっつって。……だから、だったらいいから、庭の隅のほうでしろっていってたとこ。わんこらだってやるんだしさ、なんなら、あとでちゃんと埋めといてやるからっていってんのに、やなんだって、こいつ」

 ミキヲはぶんぶん首を振り、涙をもりあがらせ、耳まで真っ赤になり、ますます唇を噛みしめた。

 そうか、この苦しそうな顔はがまんをしている顔だったのか。

「……ノリヲは?」

 小声でヒトシに訊ねると、顎をしゃくられた。縁側のほうで、スミカとパズルかなにかをやって遊んでいる。かたくなに振り向かぬ背中はこちらの様子にじっと耳をそだだてていることを物語っているようだ。そばの日だまりでレディがじっと見張り番をしている。ナルミちゃんとアキコはまだ寝ているのだろう。

「ノリはいいんだ。きのう、海でやったから」ヒトシはちょっと肩をすくめた。「ほら、ジャガイモ食ったあとで」

「ああ、うん」

 思い出した。ヒトシが物陰につれてってあげていたっけ。

「ミキはそん時、クサイだのウンコタレだのってさんざんノリをからかったからさ。こんど自分の番になっちまって、困ってんのさ」

 かわいそうに。

「どこかにちゃんと座れるお手洗い、ないのかしら」レイラは言った。「駅……にはないよねぇ……」

「隣町にレストランがあるんだそうですよ」

 炊事の手を止めぬままマツエさんが言った。知らんぷりで聞いていたらしい。

「海鮮らーめんが名物なんですって。けっこう新しくてきれいだそうだから、ひょっとするとそこになら水洗のお手洗いがあるかもしれないけど……でも、いまからそこまで揺られていく間、ミキヲちゃん、もちますかしらね」

 きれいなお手洗いの幻想が、スイッチを押してしまったのではないだろうか。必死に気をそらそうとしていたミキヲがぶるんとひと震え、真顔になったかと思うと、両手でお腹をおさえた。なんだかみるみる青ざめてくる。

「ほら」ヒトシが立ち上がった。「よし。もういい。それでいいから、もうあきらめろ。ほら、こい。ほらったら!」

 ミキヲは涙でいっぱいの顔を、ぶんぶんと横に振る。

「んーな、おまえ、それはさ、ぜったい、永久にがまんなんてことは、できっこねーんだからさ。いまにパンツん中にもらすぞ。そのほうがいいっていうのか」

「ちょっと待って」いきなりヒロさんが立ち上がった。「すぐよ。いますぐ来るから。ちょっとだけ待っていて!」

 そうしていつも優雅なヒロさんにしてはありえないようなスピードで廊下を走って玄関を出て、どこかに行ってしまう。みんなあっけにとられた。断末魔のように苦しがっていたミキヲまで、一瞬、ぽかんと弛緩した。と、マツエさんが、流し台の前の窓のほうに目をこらす。レイラも覗いた。

 ヒロさんは離れの風呂場の外にくっついた細い鉄骨の階段をカンカン鳴らしながら、てすりを握った手ではずみをつけるようにして駆け上がっていくところだった。着物の裾がおおきくからげて、ふくらはぎまで見える勢いで。風呂場の上の、二階というか屋根裏というか、水道タンクの横の物置みたいなところに繋がっている階段だ。ちょうどタンクのところでバケツをひっくりかえして買い出しのために遅れてしまった今日の分の水汲みをセッセとやっていたフクちゃんが、きょとんとした顔で手をとめた。ヒロさんの姿が一瞬消えたかと思ったら、なにかを抱えてあらわれて、身をひるがえし、すぐにカンカン降りてきた。なにか、水色の、プラスチックっぽい、大きなもの。

 ひと抱えあるもの。

 開けっぱなしだったドアを抜けてキッチンまで駆け戻ってきたヒロさんは、少し息を切らしながらそれを床におろし、笑った。

「さぁ、ミキヲちゃん」ヒロさんはいった。「どうです。これならいいでしょ!」

 アヒルのかたちをしたオマルだった。

 

 どうしてそういうカタチのものをお「丸」というのか、アヒルちゃんの首からは左右に棒が突き出していた。しっかり握れるようになっているわけだ。おかげで、それは、フランケンシュタインの怪物のアヒル・バージョンみたいに見えた。色も突飛である。使い込んで色褪せてところどころ黄ばんだ水色はじつに物悲しく、アニメ風にやたらにかわいらしく書いてある睫の長い目玉が意味不明だった。しかし、すこぶる役に立った。

 ミキヲの窮地を救った瞬間から、水色のアヒルちゃんは風呂場の脱衣所の端のほうにさりげなく置かれることになった。隣に、山ほどのチリガミを盛られて。

 不思議なのは、なぜヒロさんが、そこにそれがあることを知っていたのか、である。ヒロさんはこの家に以前に来たことがあるのだろうか。それとも誰も知らないうちに、離れの二階のあんなところまで全部探検してみて、点検してみて、なにがどこにあるのか把握し察知していたということなのだろうか。

 みんなそのへんに気付いているのかいないのか、ともかくその場では、ミキヲのめんどうをみるのにおおわらわで、やっと一段落するとホッとして笑いあうのに忙しくて、それからほどなく朝ごはんになった。さばきたての烏賊のお刺し身は透明で甘くてつるんとして舌の上で涼しくとろけるようでさすがにとんでもなく美味しかったし、ゲソをショウガ醤油で焼いたのも素晴らしかった。烏賊なんてキライだ食べたくないトーストがいいと、おなかが楽になったとたんにさっそくワガママを言ってみたミキヲも、ついいまさっき言ったことばをなんでもないようにひるがえしてどんどん食べたし、みんな競うようにゴハンをおかわりした。すると、ノリヲがさっそく双子の片割れが使ったばかりのそれを使いたいと主張し、また割れんばかりの大笑いになって、なんだかんだすったもんだで、些細な問題にかかずらわうどころではなかったのである。

 

 もちろんその日も準備ができるとすぐに海に行った。パラソルを立てるやたちまち羽織っていたものを放り出して波打ち際に走っていく子供たち。レイラはヒロさんの隣のデッキチェアに腰を据え、読みかけの本を取り出した。

 包帯が目にはいる。もうそれほど痛むわけではない。直接傷のあたりを押すか、ある角度で親指をグイっと開かない限り、ほとんど痛まない。忘れていることができる。でも、ひょっとすると海水はしみるかもしれない。しみるのはイヤだ。清潔にしておけないと、治りも遅くなるかもしれない。だから、今日は泳がないことにする。

 もし海に滞在するのが二泊三泊の短さなら、多少しみるぐらいは我慢して遊んだかもしれないが、夏はまだまだ続くのだ。なにも無理をしてがんばる必要などない。へたにこじらせて長引かせるよりも、おとなしくしておくほうが得策だ。

 ならば家に残っていてもよさそうなものだったが、ひとり仲間外れになるのはいやだった。厳密にはひとりではない。マツエさんは留守番と食事の支度その他のために居残るし、ナルミちゃんも、赤ん坊のアキコの機嫌によっては、出掛けないかもしれない。この三人とでは楽しくいっしょに遊ぶというわけにもいかないが、その間に宿題をどんどん片づけてしまえば後あと楽ができるかもしれない。

 でも……

 ひとりにはなりたくない。

 うっかりひとりになったら、ぽっかり時間ができたら、またユメミが来るかもしれない。ゆうべはいったいどうしたんだろう。スミカに教えようとしたのがいけなかったんだろうか。だとしても、悪気はなかったのに。仲直りするチャンスをくれないないまま行ってしまうなんてひどいと思う。

 これっきり金輪際来て欲しくないわけではない。もっとちゃんと打ち解けて、いろいろ教えてもらえたらいいと思う。だが、すぐでなくても良かった。わけのわからないことが多すぎる。突き止める気力がまだ湧いてこない。ちょっとぐらい時間をおいてからのほうがいい。

 なにも考えず、楽しいことばかりしていたい。

 あの子っていったい誰なんだろう。怒ってるのかな。わたしを許してくれるだろうか……。

 ほんの一晩つけていただけでなんだかすでに薄汚れて黒ずんでしまった包帯を見つめながら迷っていた時、通りがかったスミカが、あ、それ、巻き直そう、と言ってくれた。

「どうなってるか、ちょっと見てみたほうがいいんじゃない」

 レイラにはとても勇気のでない、できれば避けてとおりたいようなことを、スミカは当然のように提案した。

 包帯をはずしたらカサブタが取れてしまって、またちょっと出血した。幸い、ひどく膿んではいないようだ。傷口よりも、内出血と腫れのほうがめだつ。親指を開く時の鈍い痛みは、切り傷の痛みというより、むしろ、打撲か捻挫に近い。なにかの動作をすると筋がつっぱって、傷とは関係のないはずの腕のなかほど、ちょうど手首と肘の真ん中のおもて側の緑色の血管がかすかに透けて見えているのが消えていくあたりに妙な圧迫感を覚えたりする。

 傷を見て、あるいは、無残な青紫色に変色してしまった肌を見て、一瞬鼻と目をみんな真ん中に寄せるようにキュッと顔をしかめたくせに、

「ぜーんぜんなんでもないじゃん」

 スミカはわざと明るく言い、陽光に薄い色の瞳を細めて笑ってみせた。

「もう一回包帯、しとく? それとも、バンドエイド?」

「その中間がいい」レイラは答えた。「衛生コットンあてて、テープで貼ってくれない?」

 かすり傷用のバンソウコだけではさすがに心もとない気がしたのだ。白いコットンがあててあれば、しじゅうそれが目に止まる。そのたびに、もうぜったいにバカな怪我なんてするんじゃないぞ、と、自分に言い聞かせることができる。

 それでそのようにしてもらいながら、やっぱりみんなと海に行くだけは行っておこう、と思った。泳いだりはしないで、浜辺でごろごろしていればいい。ヒロさんだって泳がないもの。ちょっとぐらいは砂になっちゃうかもしれないけど。塩水につけなければいい。

 ヨーチンで染めなおした傷の上に四角いガーゼをあてがって、油紙でできたテープをたっぷりつかってぐるぐる巻きのようにすると、親指があまりあかなくなったが、まぁそのほうが余計に気をつけておくことができるだろう。さぁできた、といわれて、みんなはもう着替えも完了しかけているので、ゆうべ洗濯をした水着がちゃんと乾いているかどうか、確かめなければと思った。洗濯物は、ブランコの奥のほうに干してある。縁側の向こうに目をやると、

「あ、水着?」スミカが言ったのだ。

「うん」

「まだだめでしょう。湿ってるんじゃないの」

 じゃあ、スクール水着のほう着ることにするからいいけど。

 なんだかスミカの言い方は意地悪だ。湿ってるものを着るなんて悪趣味、と言いたがっているように聞こえる。

 そうだ、しまった、ホルターネックの長すぎるところを縫い縮めておくのをすっかり忘れてた! おまけに、ああ、水中メガネ。ちゃんと洗わないといけなかったのに。まったく、昨日から今日まであれだけたくさん時間があったのに、必要なことは何にもしていない。

 でも、どうしてスミカはニヤニヤしているんだろう。あたしのこと、やっぱりバカだって思っているのかしら。

 チクリと胸にささる思いに目を逸らして、立ち上がりかけた。

 その時だ。

「はい」スミカが手品のように、目の前に、黒っぽいものをぶらん、とぶらさげてみせてくれたのは。「今日は、これ、着て」

 小さな赤い花模様の。あんまり小さいのでそれが水玉のように見える。セパレーツの。

 あきらめたはずの。

「……うそ!」

「買っておいたんだよーんだ」スミカは女優さんのようにモデルさんのようにきれいに整った顔をわざと鬼がわらのようにして、イーダ、みたいに歯をむきだしてみせた。「だってあんた、内心ものすっごく欲しそうなのに、ぜったい似合うのに、わざとイラナイって言ったでしょ。なに遠慮してんだか知らないけど、いったん言い出したら強情でぜったいきかないんだからね。知らん顔して、こっそり、レジにもってく中に、紛れこましておきましたとさ。ふっふっふ!」

「…………」

 全身からすとんと力が抜けてしまった。レイラはその場にぺたんとすわりこんだまま、セパレーツの水着を両手で受け取った。そのまま抱きしめて、握り締めて、丸くなる。

 泣いたりしたらあんまりだと思った。こんなことで。このぐらいのことで。でも、胸からなにかがこぼれてしまいそうだ。この震えがとまらないと、ちゃんと、ありがとう、も言えない。

「スミカちゃんって、ほんと偉いと思わな〜い?」スミカはけらけら笑った。「感謝しな。ねぇ、わかってる? そういうあんたってば、さっきのミキヲとそっくりなんだよ」

 吐胸を突かれた。

 そうか。そうなのか。

 内心欲しがっているものを無理にがまんするのは、排泄をがまんするぐらい、バカみたいなことなのか。無理なことなのか。世界の端っこがたちあがって、くるりとなにかがひとつめくれた。こういうのをきっと、目からウロコが落ちたというのだ。

「スミカ、ありがと」抱きついた。「大好き! ありがと、ありがと!」キスした。

「はいはい。わかったから。あー、くすぐったいってばぁ!」

 

 美しい白砂の浜の豪華なパラソルの下にだらりと楽にぱら寝そべって、頬の横からあたる陽射しのぬくもりをしみじみ味わいながら、レイラはそういったことを埒もなくつまぐった。優しいスミカ。理解あふれるおねえさん。スミカにこんなに大事にしてもらって、あたしはなんて果報者なんだろう。

 オトナになれば、スミカのようになれるだろうか。ヒロさんぐらいの年齢になったなら、いろんなつまらないことにいちいちひっかかって、クズクズ悩んだり困ったりしなくてすむようになるんだろうか。そう思い至ってふと隣のヒロさんを眺めやっているうちに、こそこそ戻ってきた。疑問が。

 なぜ、おまるがあそこにあることを、知っていたのか。

 かたわらの寝椅子の上のほうをほんの少しだけ起こしたのにゆったり優雅に寝そべって、気怠く物憂いどうでもいいような姿勢で『花椿』を眺めている年長の女性。サングラスを支えた鼻のかたちは、外人のように堂々とそびえ立ってこそいなかったが、段も反り返りもなしにゆるゆると癖なく立ち上がっていて、とても美しい。鼈甲縁でキツネ型のサングラスのレンズの色は濃い緑だ。バービー人形が持っていそうなメガネ。まとっているのは黒地に朱オレンジ色で縦横無尽に刷毛をふるったような大胆な模様の水着で、腹から大腿部にかけてふわりとかけられている黄色とオレンジのタオルとちゃんと色あわせもできている。そう、腹から脚にかけて、からだの線の崩れやすい部分はさりげなく隠されているから、知らないひとがみたならヒロさんはきっと実際の年齢より二十も三十も若く見えるだろう。痩せ気味のおばあさんたちによくあるように、首や二の腕がしわしわにしぼんでたるんでいたりもしないし。グラマラスな胸は、濃い色と模様のおかげであまり強調されすぎてはいない。

 眺めるともなく眺めているうちに、なんだか例の謎は少しも不思議でなどないような気がしてきた。ヒロさんは完璧だ。なんでもできる。どんなことにも準備ができている。きっと、松橋さんか誰かに、あそこの二階にいろいろとガラクタがしまってあると聞いていたのだろう。ひょっとすると、あの家をついこの間まで使っていた家族の中に、ちいさな赤ちゃんがいることを知っていて、だったらその子のためのおまるがあるはずで、あるとしたらあそこにあるだろうと見当をつけて行ってみた、単にそれが大当たりだった、それだけのことかもしれない。

 訊ねるのはへんだ。そもそもこんな素敵な雰囲気の中で、いきなり、あのう、おまるのことなんですけど、なんて口にする気にもなれない。

 レイラはもぞもぞと姿勢をなおし、海のほうを見遣った。

 海はあいかわらず大きく、美しく、果てもなく、どっしり青くそこにあった。今朝夢の中で走ったのは、あの沖のほうだろうか? ぶつくさつぶやくような、なにかの秘密を囁くような音をたてながら波を寄せ、ぱしゃんと意外に軽く砕けては、静かに深くたゆたっている。波打ち際では、二匹の犬がたがいにたがいを追いかけながら走っている。赤ん坊のアキコを背負ったナルミちゃんがふくらはぎのあたりまで波に濡らしながら、童謡と子守歌を得手勝手にごちゃ混ぜにしたのをハミングしながら、のんびりと行ったり来たりしている。フクちゃんとヒトシがさっき交代で足踏みポンプでふくらませたカヌー型のビニールボートは双子を乗せて浮かんでいる。逆光でよく見えないが、ボートの上でも、浮き輪をしっかりと填めたままでいるのはたぶんミキヲのほうだろう。用意がいいのか、恐がりなのか。ノリヲはいまにも水に落ちそうに乗り出して、あっちだ、こっちだと命令を発しているのに。フクちゃんが、たぶんいわれるままにだろう、せっせと押してやっている。そう、フクちゃんも、今日は水着になって海に入っているのだった。スミカとヒトシはそれぞれ水中メガネやアシヒレをつけて、あたりを泳ぎまわっている。四人の跳ね散らかす水がきらきらする。スミカの顔にくっついた真っ白い水中メガネがきらきらする。泳ぐつもりのないレイラが感謝の気持ちをあらわすために自分のものをあえてお貸しもうしあげたので。波が砂の上で海草の切れっぱしを転がしている。夜の闇の奥で烏賊釣り船の光の弧となっていた水平線には、いまはまったくなんにもない。そこはぼんやり白く輝いていて、にじんでいる。空とお互いの境界線を譲り合っているかのようだ。空は海の青を吸い上げて青く、砂浜には今日もよその誰か他のひとの気配はない。空気は澄んでいる。波の上を転がされる茶色い海草は、やっと少し上ってきたかと思うと、また大きな引き波にさらわれて戻される。

 デッキチェアからぽとりと落とした手が、砂にふれた。あたたかく、さらさらの砂。指にすくい、落とす。すくい、落とす。砂の乾いたくすぐりが指先にやさしい。

 素敵に可愛らしい黒い水着。

 かんぺきだ。

 なにも足りなくない。なにも余分じゃない。心配なことはないし、急いでしなければならないこともない。このままゆったりしていていい。この最高の時をあじわいながら。

 ああ、こんな時が永遠に続けばいい。

 レイラはそっと目を閉じる。

 

 昼食はマツエさんのおにぎりだった。前日できなかった分を取り戻そうとでもするかのように、シャケにオカカにタラコにウメ、海苔巻きにシソ巻きにゴマまぶし、俵型と丸と三角、種類もたくさん、かたちもいろいろ、つけあわせも唐揚げとタマゴとお漬物と、そりゃあ豪華で盛りだくさんなのだった。

 焚き火はもちろんしていたがジャガイモは今日はなしだ。それは昨日あまりにもたくさん食べすぎたからではないかとレイラは思った。しまいには疎んじられて潰されて遊ばれていたのを見て、あるいはそのジャガイモを育てたひとを知っているかもしれないフクちゃんは、食べ物を粗末にされてムッときたのではないか。しかし、なしだと知ると、双子は、どうしてどうして食べたかったのに、とキーキー声をステレオにしてごねた。ありならありで、たぶん、もうジャガイモなんて飽きた、いらない、とワガママに文句をつけたのだろう。

「あした、あしたきっとね」

 あ。フクちゃんが喋った。

 レイラはびっくりして、おにぎりを食べかけた顔を少しあげた。

 案外、高い声をしてる。

「ねぇ、さかなとってよ。さかな」

 ミキヲはフクちゃんの手を取ってひっぱってぶらぶら揺すっている。フクちゃんがまだ食事中なのも、おかまいなしだ。ノリヲも甘えて背中におぶさったり、反対向きに寄り掛かって、キツツキが木を啄くようにごん、ごん、と頭をぶつけたりしている。フクちゃんは平気だ。あぐらをかいたまま、ぐらつかされても動かない。返事もなく、うっすら笑ったまま、またひとつ無造作におにぎりを取る。

 フクちゃんの肩や胸や背中はたっぷりと陽に干されて真っ黒で、内から発光でもしているかのようにつややかだ。過不足なくついた筋肉の上にごくうっすらと脂肪がのっている。異性が幻惑され同性が妬むべき類の肉体だ。

 レイラはまだ、若い男性の裸体に詳しくなどない。しげしげながめたことがある裸といえばテレビ中継の相撲取りぐらいだ。それでも、フクちゃんのからだが、むかし器械体操のかなり優秀な選手だったという学校の体操教師の誇張された体躯や、テレビで見る歌手やアイドルグループの髪の長い男たちのなよなよと腰高で骨の細そうなプロポーションとは違う、日々のたゆまぬ労働でゆっくりと捏ね上げられたものであることはわかる。これ見よがしなところは微塵もなくて、目をとめなければごく平凡であたりまえの中肉中背としか思えない。服を着ていればなおのこと。幅のわりに厚みがあるせいで、着痩せしてむしろ、すこし貧相になる。

 五分刈りの頭から拭き残しの海水がつーっと垂れて、眉の横から、頬を伝い、顎を離れ、食べているおにぎりに落ちた。レイラが五口か六口かけて、いちいちゆっくりしっかりよく噛んで食べるおにぎりが、フクちゃんの手に取られると、ばくばくん、と素早い二口で、押し込まれるというか飲み込まれるというか、まるで掃除機の吸い込み口にわた埃が近づいた時のように、一瞬のうちにスイッと消えてしまう。 

「さかなぁ……」

「はやくう」

「だーめだって」あ、また喋った。「食休み。すこし座ってな。食べてすぐ水入ったら、腹こわすでしょ。だめなの」

 ノリヲはフクちゃんの肩に後ろから乗せた顎をガクンとさせ、鼻を鳴らして不満を表明した。ミキヲが仰向いて、つまんない、つまんないよう、うめきながらジタバタ足を蹴あげたから、砂が舞いあがる。フクちゃんの手元にかかる。砂だらけになってしまったおにぎりを持った手を止めて、フクちゃんが静かな顔でミキヲをじっと見る。ミキヲはハッとして、ゴクリと唾を飲む。ノリヲがおんぶのかっこうのまま固まる。叱られる前に泣かなくちゃ。ミキヲの顔がたちまちわざとらしくゆがみはじめる。

 フクちゃんはクシャッと顔をしかめると、海に向けて砂おにぎりを投げた。レディとトランプが走り出す。

 それで呪文でも溶けたように、ミキヲも逃げ出し、ノリヲも続き、だめだといわれたはずなのに、きゃっほー、と波打ち際にダイブする。

 フクちゃんが重々しくため息をつく。

 フキダシにことばをいれるとしたら、やれやれ、だ。

 身内じゃないのに。すっかり打ち解けてる。

 それとも、フクちゃんも、もう菩提樹のひとになったらいいのに。癒恵たっぷりのごはんをたくさん食べて。どんどん身内に、「こっちのにんげん」になっちゃえばいいのに。

 コバヤシくんより、いいひとかもしれない。あたしはそう思うよ、スミカ?

 魔法瓶のほうじ茶を飲んで、ヒロさんが煙草を吸って、ナルミちゃんがアキコに哺乳瓶でおっぱいを飲ませて、双子と犬がずぶ濡れのからだで戻って来て、うー、さぶさぶ、と焚き火にあたる。

 なにも変えないで。変わらないで。どうか、このかんぺきな時を、壊さないで。