yumenooto uminoiro

 

                                                                                                                  Mahane  6

 わたしは、海を、歩く。

 白い砂浜のおだやかな海。波が寄せ、また返す。

 朝はやくて、誰もいない。

 防風林のそばに、焚き火のあとが残っている。真っ黒に煤けて焦げたアルミホイルは、おにぎりの名残だろうか。

 腰をおろしてみる。

 レイラが、スミカが、ヒロさんが、いくども座っただろう場所。

 三角座りをして、風に目を細める。わたしの脚は海からあがったばかりのように濡れていて、さらさらした砂がまとわりついている。肩やうなじが火照るのは、きのう陽に灼けすぎたせい。日差しにあたったところから水着が乾いてきて、ごわごわする。

 ざざーん。ざざーん。

 海は静かに脈打っている。

 涙がこみあげて、景色がぼやける。

 こうしていられる幸福。

 誰も見たことがない太古の昔から海はこんなふうで、人間がいなくなった未来にも、海は何食わぬ顔でこのままなんだろう。しぶきの一滴一滴に、たくさんのいのちの記憶をとじこめながら。

世界はここからはじまり、ここで永遠にくりかえす。何度もめくられる本のページのように。どこもがこんなに静かなわけじゃないけれど、いつだってここにかえることができる。

――那智くんもいっしょだったらいいのに。

 わたしにもし充分なちからがあるのなら、そうしたいとのぞめば、那智くんの夢に行くことができるのだろうか。離れていても、いつでも? そこに、この海を連れていくことができるだろうか。あるいは、どこかよそにいる彼の手をひいて、ここに連れてくることが?

そんなこと、勝手にしてもいいのかな。

でも、もし、この波打ち際をふたりで歩くことができたなら、どんなに幸福だろう。

この海は、わたしの海。

わたしたちの、思い出の海。

その感覚はあまりに強烈で、まるでもう既にあったことみたいだ一生ぜったいに忘れない記憶みたいだ。

まだ、起きていないことなのに。

 

 

 

 ポチは学校の階段ですれちがいざま、手首のあたりを握られた。

「待てよ」砂山田洋は視線をぶちあててきた。「なんで無視するんだよ」

けもののような強い口臭を感じて、ハッと顔をあげた。目にかかるもじゃもじゃの髪、罵りのかたちにつきだされたぶあついくちびる、その周辺にぽちぽちと見え隠れする無精髭。ひょろっと背が高くて、猫背。肌が荒い。そしてその色はいやに濃く暗い。

こいつ、誰だったっけ? あまりの違和感に、ポチはとまどって、目を泳がせた。ほんとにヒロシ? ヒロシって、こんな顔だっけ? 

まぼろしの炎がせなかを焦がす。

ここは、いったい、いつのどこの革命だ。

「なんだよ、おまえ」ヒロシの肩からいらだちが,グレイのもやになってたちのぼる。「なにへんな顔してんだよ」

「放してください」マコトは静かにたのんだ。「ぼくに、なんの用があるのです」

「ふざけんな。きさま……なんなんだそのしゃべりかたは! ちくしょう、まんまとたぶらかされちまいやがって」つかまれている手がぎりぎりしまる。焼ける。じりじりと熱くなる。ヒロシの腹立ちが、念動力§サイコキネシス§野ように、物理的にはっきりと感じられるものとして伝わってくる。

「俺は言ったぞ。注意したよな。しただろ。もうよせってちゃんといっただろうが。あそこには近づくなって! なのに……なんだよ。この。こんなんなっちまいやがって。魔女どもが、そんなに好きか。そんなにいいのかよ!」 

 痛い。痛い。たのむ。ほっといてくれ。ぼくにはかまわないでくれ。つきまとわないで。もうやめてくれ。ああ、このままじゃ、焼けてしまう。

 煙や、ジュウジュウ焦げ臭い匂いがたちのぼる感覚すらあるというのに、つかまれている手には目にはなんの変化もないようにみえる。

 視覚は容易にだまされる。眩まされ、幻惑される。

かつて友だったこともあったかもしれない男がまき散らす悪意。はっきりとかたちをなして重くのしかかってくるこれは、この悪臭は、憎悪か、それとももしかして欲望なのだろうか? 許容範囲をこえたと悟って、目も耳も鼻も、みんな大急ぎで自動シャッターをおろした。それはそうだ。こんなもの、うけとりたくない。わかりたくない。こいつのこんな姿を、できることなら、なるべく記憶に残したくはない。

下卑たことばや、あふれてくる悪感情の身体表現が、矢になって飛んでくる。刺さりはしない。みえない楯でバリアーでからだじゅうを覆ってあるから。うわっぺりをかすめて滑りおちていくだけ。こんなものにはやられない。だいじょうぶ。ぼくは強い。耐えられる。こんなものいくらだって弾きとばせる。

でもいやだ。きみが悪い。気持ちが悪い。

彼は本気じゃない。ぼくを傷つけるのが真意じゃない。ことばに囚われてはいけない。ほんとうにそんなことを言いたいわけじゃないんだから。

ただ、彼は、腹をたてている。このことはどうしようもなくたしかだった。ぼくが拒絶したから。そう思っているから。せっかく注意してやったのに聞かなかったから。「こっち」側の人間だと思っていたのに、そうじゃなかったから。

だまされた、うらぎられた、くやしいと。彼はそう思ってる。彼の立場からはこの事実はそうなる。

だからこんな、まるで駄々をこねるこどもみたいになってしまうのだ。

そう思うと、それは愛とどこがちがうのか、もうわからない。

もしかするとうらやましさの反転か。ぼくは彼には出来ないことをした。よそものとしてやってきて、長年のあこがれの場所へまっすぐ飛び込んでいってしまった。抜け駆けをしたぼくへの、驚愕、羨望、くやしさ。嫉妬。怨嗟。

禁じられているものほど、強く熱望されるものはない。

でも、ヒロシ、きみは菩提樹のことなんかなんにも知らない。ほんとうのことは、なにもわかってない。ただ、妄想して、勘違いしているだけなんだよ!

実際そうでありもしないことを、なんの根拠もないことを、ああでもないそうでもないと空想し、それを、わざわざ軽蔑するなんて。人間の心ってものは、なんて不器用で、ねじくれて、ややこしくできているんだろう? 空中にガラスの城をせっせとつくってから、ひとつひとついちいちていねいにぶちこわしてみるみたいだ。あこがれているのに、大切に思っていたのに、美しいと思っているのにわざとバラバラにして、かけらを拾ってにぎりしめて、刺さる痛みを楽しむなんて。どういう趣味だよ。ゆがみすぎてるよ。あわれな変態め。

ひめたちはたしかに夢にかかわっている。夢に属し、夢をあやつる。でも夢の女って言ってしまうと、それはたぶんちがう。それだと曖昧すぎるし、なんだか下品だ。まるで奉仕するためだけに存在するセックスドリームの奴隷みたいだ。淑女で娼婦、かぎりなく優しく美しく、とても淫乱なのに貞節。卑しい最下層の存在にして至高の聖者? そんな「こうだったらいい」をぜんぶ無理やり体現したような、矛盾だらけの、無理すぎなキャラクターが実在なんかするわけないじゃないか。いくらサヨラだってそんなふうには特別じゃない。そんなキメラの怪物みたいなものじゃない。だってあのひとは生きている。あのひとは、あのひとだ。

ただすこし、ほんのすこしだけ、ふつうじゃない。ふつうのひとにはできないことが、ほんのすこしだけ、できる。みえる。知っている。そういう能力をもっている。もってしまった。

そういう種族があり、そっと生きている。

ただそれだけのことなのに。

ちょっとだけ違うものは、その違いが際立つ。均質のひとかたまりのなかでは、つきでた杭になる。異端に。部外者に。拒否するものに。

水の中の油に。

まつろわないなら、したがわないなら、自分のものにならないなら、許せないのか。

そんなのないだろ。こころが狭すぎる。そんなにいじわるしなくていいだろう。

なんでもうちょっと、やさしく、おだやかに、

寛容に

できないの?

見限りたくないのに。

さげすみたくないのに。

みんなと、きみたちとだって、手をたずさえて、うまくやっていきたいのに。

ポチは悲しい。

とてつもなく悲しい。

なにをどう考えようと自由だし、どんな意見をいうのも勝手だ。ああ、そうだ。そうだとも。でも、偏見は。妄信は。狂信は。なにかを「ぜったいに許せない」「認めるてやらない」と思う気持ち、こればかりは、こればっかりは。ほんとうに手がつけられないと思う。どうしようもない。信じこんでしまっているそのくだらない紛い物の虚飾をはげば、きみの世界は根底から崩れる。こわいだろう。それは革命だもの。突然の災害だもの。地面がぱっくりわれてしまう大地震だ。

よく知ってる場所が根底からくつがえされて、こっぱみじんに破壊されて、永遠にもどってこれなくなってしまう、せっかく積み上げ、つむぎあげ、つくりあげてきた地位や財産が、水びたしになり、雨ざらしになり、火を放たれる、消失してしまう、永遠にそこなわれる、どこにもなくなってしまう、そんなようなこと。

自分の魂がよってたつ基盤を一から失うなんてこと、誰だって、経験なんかしたくない。

だって、

なぜなら、

「……ここがきみの場所なんだものね……!」

彼は、優しかった。

賢くて、親身で、ひかえめで、親切だった。転校生に、なんでもおしえてくれた。やることなすことトンチンカンでも、しんぼう強く相手してくれた。いつだって進んで助けてくれて、手とり足とり教えてくれたんだった。ぼくたちはなかよしだった。いいコンビだった。打ち解けて、いろんな話をして、笑って、ふざけて、いっしょの時間をたくさんすごした。

楽しかったね。

でも、

過ぎ去った。

あの幸福な時間はもうもどってこない。

ぼくときみののっていた惑星は別々で、たまたまそばまできたけれど、いったん軌道がずれはじめたら、あとはもう物理法則が働くまま、どんどん大きく乖離してしまうばかり。

「居場所は、だいじだもんね。なくしたく、ないよね」

「なに泣いてんだ?」ヒロシの顔がねじくれる。学年トップの秀才なのに、マンガに出てくるチンピラみたいだ。ぼくはこの絵柄、好きじゃない。「なんだ、星野? てめー、ばっかじゃねえの? なんだよその目。おまえ、ぜったい、おかしいよ。へんだよ。いっぺん、あたま、みてもらえよ!」

 校舎のどこかで、チャイムがなった。とたんに、どやどやと足音がしたかと思うと、廊下も階段も多数の生徒の制服の流れに埋まってしまった。まるで川の中に立っているようだ。長いことじっとしてはいられない。

 だから。

 いま。

 ありがとう。

声にださずにいうと、ヒロシは「うぉあちっ!」と手を離した。テーザーガンででも感電させられたかのように。

「くそ、痛……なんだ。なにしやがったんだ。……こら、どけ、通せったら、おい、じゃまだぞてめーら!」

 ひとの流れが川波のようになって、おいかけてこようとするヒロシをせき止める。

 さよなら。

 さよなら。

 ともだち。

 ポチは大急ぎで隠れ蓑をかぶる。自分を消し、まわりにとけこむ。下級生たちの一群に身をしずめて昇降口を抜け、足早に校庭を横切った。自転車をとりにいこうとしてやめたのは、そっち方面の重力があきらかにぐにゃぐにゃおかしくなっていくのが見えたからだ。空気にへんな勾配ができている。黒いもやもやが渦巻いて、宙の一点に収束していく。喉がはりつき、息が苦しくなった。昨晩聞いた暴動の日の話を連想する。これ、もしかして、いわゆる不穏な気配ってやつ?

 大勢にまぎれて正門にまわると、メタルグリーンの巨大な車体が樹の下の光と影の迷彩模様の中に、ひっそりと隠れているのが見えた。面食らう間もなく、リンカーン・コンチネンタルのドア窓がさがり、セイがこくりとひとつうなずいてみせる。 

 

 

 

 好きだったオンラインゲームがうまくつながらなくなった。

あれ? と思ったら、それっきり、うんともすんとも動かない。ダウンロードしなおそうとしても、うまくいかない。やたら長いこと時間がかかって、しかも、途中でひっかかってとまってしまった。時間をおいて、場所をかえて、ためしてみたけれど、だめだった。

わたしの携帯は古くて安いモデルだし、星海町は何度も言うけど超のつくドイナカだ。通信環境は脆弱で、いまどきありえないほど電波が良くない。「ここならきっとつながる」場所だっていえるのは、せいぜいコンビニの中ぐらいだ。ちなみにそのコンビニも夜はしまる。イナカでは、二十四時間営業とか、していないんです。

問い合わせをしてみてわかった。わたしの好きだったものはサービスが終了することになったらしい。ユーザーの大半は発展バージョンの別のゲームに素直に移行したらしい。

 でも、その新しいのに対応するには、どうやらもうちょっと新しい機種で、もっといやうんと電波状況がよくないとこじゃないと、無理っぽい。

 しょうがない、この際やめちゃおう……と思ったら、呆然とした。

わたしの薄ぺたな胸にひろがったすうっとしたものに。

さびしさ?

当惑?

喪失感?

……いったい「なに感」といえばいいんだろう? だって、喪失なんてへんでしょう。もともと、なにも所有なんかしていたわけじゃなかったんだもの。持ってなかったんだから、奪われたわけじゃない。なくしてもいない。手のとどかないところにはまだそれはそのまま残っている。ただ、わたしにとって、事態がとまっただけ。動かなくなっただけ。更新できないだけ。アクセスができなくなっただけ。

つながらなくなっただけ。

ほんとうは持ってなんかいないものを持たせてもらってるような気になっていた、そのつもりだったけれど、考えてみれば、そっちが錯覚だったのだ。そういうことだと納得してしまえば、文句の持って行き場もない。もともと覚悟してあきらめておくべきだったことにすぎない。

そんなこんな、いきなり、思い知らされた。

 もともと、ひやかしだった。ほんのひまつぶしのつもりだった。心を奪われたりなんか、するはずじゃなかったのに。

 こうしてアクセス不能になって、二度とあえなくなったとあるキャラのことを思うと、胸がしめつけられる。

わたしは彼をそんなにも好きだったのだ。

あれはわたしの大切な子だった。課金こそしたことないけれど。ひとめで気にいって、欲しかったけどなかなか手にいれることができなくて、がんばってゲットして、だからひいきして、ほかの手持ちの子たちを犠牲にしても彼にばかりなんでもあたえて、できるかぎりのことをすべてしてやって、時間かけて育てて、だんだん少しずつ強くした。

 可愛がっていた。

 それは、現実の世界で、ペットや、こども(いっしょ扱いするとヒナンされるだろうか)にするのと、たぶん、同じ性質のこと。

 可愛いあの子は、ずっとわたしのそばにいると、そう思い込んでいたのに。

……ああ、どうしよう。いなくなっちゃった!

あえなくなっちゃった!

消えてしまった!

いやちがう。そうじゃないんだ。最初に考えたように。いる。まだいる。ほんとうはいる。単にサービスが終了することに決まったからさわれなくなっただけで、もしも終了とか決定とかってことをしないで細々とでもつづけていてくれるのなら、彼はまだいるのだし、これまでいたようにいるのだし、そのままいつづけることだってできるはずだった。システムが頑強ならば、永遠にいることだってできたはずだ。だってあの子はデータだから。機種変更したって、お引っ越しできる。

ここでわたしは途方にくれる。

ちょっと待って。データってなに? 

意味? 数字配列? ソフトウェア? なんでそれが「あの子」なの。なぜ、そんなものが、ちゃんとしたいのちみたいに思えるの。ひとりのキャラクターであるかのように、思えるの?

それ錯覚? それとも……そもそも現実にいろんなひとを「それぞれのキャラ」だと思っているほうも、同じように錯覚? 

データのやりとり世界では、たった一度でも可能だったことは永遠になる。データだから、コピーできるし、再現できる。やりとりが不可能になったり、データが迷子になったりすることはあるけど、正しいアドレスを見つければまたアクセスできる。

サービス終了は、世界の終焉?

そんなことを、誰かが決定できるなんて、思いもよらなかったな。

あらためて考えてみれば、まったく、無理からぬことだ。なにしろ、ゲーム会社は営利企業で、商売の判断が大事なんだろうし、どんなにいっしょうけんめい頑張ってたって整理とか倒産とかひとりの超越天才が急逝とか、非常事態になっちゃうことだってある。会社組織はおおぜいの人間が絡んだものなのだから、さまざまな意味で不測の事態だっておきるし、誕生したものはいずれ滅びる。

そんなこんなは、可能性としてはもともとあった。とうぜんのこととして推定できてなきゃいけなくて、こっちは覚悟をきめておくべきだったのだ。しょせん、ゲームなんだし、ただの遊びなんだから、いつ終わったっていいはずで、突然シャットダウンされてもしかたがないのだ。

わたしは楽しく遊んでいたけれど、知らないうちに人気がさがって、ユーザーがへって、損益分岐点を越えていたのかもしれない。閑古鳥がないた遊園地がいずれ遠からず閉園になるようなもの。データの世界で終了をきめれば、後始末はかんたん。ジェットコースターやスワンサイクルを撤去するには膨大な費用が必要だけど、システムはただ関係者に通達して「アクセスを停止」すればいいだけだ。

永久に続く保証なんてどんなものにだってできっこない。これまで楽しく遊ばせてもらったぶんを、むしろ、いままでありがとうねって気持ちになるべき? 

問い合わせ先の電話口に出てくれたおにいさんは、イケメン声で、「ほんとうにすみませんでした。ぼくたちも残念です。ごめんなさい、申し訳ない」ってなんどもていねいに言ってくれた。もしかしたらこのひとはこの声とこのしゃべりかたで、謝り係のおしごとをゲットしたのかもしれないなぁと思っちゃうぐらいに完璧だった。でも、どんなにこころをこめて謝ってもらっても、それがなにかになるわけでもない。そもそも、この彼が「サービス停止」を決定したわけじゃないんで、このひとを責めても虚しいもいいとこ。ただただ、そうか、こういうことがありうるんだってことをスッテンテンと忘れていたうかつな自分ってやつがいたんだな、って、いまさら思い知って、呆然とするばかり。後悔さきにたたず。

でも、なにかが、「いきなりある日終わっちゃうものかも」なんてふつうは思わないよね? 

いまあるものは、まあたぶんそのままずっとつづく。なんの根拠もなくそう思う。自分が飽きて投げ出すことはあっても、よそにいっちゃって省みなくなることはあっても。

壊れるなんて、うらぎりだ。

いきなり奪うなんて、ひどいよ。

データの世界での事実がどうであれ、わたしのあの子はもうここにいなくて、少なくともわたしにはさわれなくなって、だからわたしにとっては消えてしまっていて、もうあえない。さわれない。きのうまで、ついこないだまで、すぐそこのここにいたのに。

まるでこどもをとられたみたいだ。

わたしは怒らないけど、悲しい。

悲しくて、そして自分をずいぶんのんきなおばかさんだったんだなぁって情けなく思う。けど、でも、怒るひとだっているんじゃないの? キレちゃうひととか。

人気ゲームはおおぜいが遊んでいる。何万というひとたちが、それぞれのペースで。そのそれぞれがついやしただろう何万何十万という努力というか時間というかエネルギー?もしかして愛?みたいなものが、まったくただの穴に、ブラックホールみたいなとこにどぼどぼ注ぎこれているんだってことを、こうしてしみじみ考えてみると、なんだか、ぞうっとしてしまう。

ものすごい損失なのではないか、それは?

人的資源とか、時間とか。なんかこの国の将来に影響しそうなぐらいの巨大な「むだづかい」なのじゃないか?

まさに、いのちを、どぶに捨ててる。生産性ってもんがぜんぜんない。まったくなんて壮大なばかばかしさだ。もったいないったらありゃしない。だってそうでしょ? レアだとか、ミリオンレアだとか、特効だとか。あの高揚と価値観はいったいなんだったのか。でも、すべてはデータで、偶然の虚像で、つまりまぼろしで、ふつうにいうところの実在ってことをまったくしないものばかりだ。ガチャガチャのおもちゃだって、クレーンゲームの景品だって、どんだけくだらなくても、ちゃちくても、ともかくかたちのある「もの」だ。「もの」であるかぎり生産にたずさわる誰かがいたのだし、狩りの獲物だ。けど、データはなにしろデータ。どこまでいっても、架空存在。メーカー側にしてみれば最初のいっこイメージを作ればあといくらでも増産できる。イラストを発注してOKテイクをもらえば、あとは、実質、コスト、すんごく低く、いくらでも量産できる。特別コラボだったり期間限定だったりしてレアなのは、つまり「わざとそういう設定」にしてあるだけのことにすぎないのだ。そんなのあたりまえだ。そんなこと知ってる。わかっちゃいるけど、それでも、ほしくなる。猛烈にほしくなるようにできている。手にいれられたら、次の狩りがよりらくに、より楽しくなるようになっている。武器が「育つ」のは、自分が「強く」なるのは、このうえなく嬉しいことなのだ。狩りの本能が脳味噌に、貴重な獲物をゲットできた興奮や快感の麻薬を爆発させる。

そんなデータってなんだ? 情報? 記録? 記憶? 軌跡? 運動の痕跡? アバター? なんでそんなものにふりまわされるんだろう? キャラってなんだ。わたしが「あの子」だと思っていたものは、なんだ、誰だ? 「どこ」にあった? サーバーのスパコン? 世界じゅうに張りめぐらされたネットワーク? クラウドって雲だよね。誰がそんな名前をつけたの。うまいね。それつまり雲の世界ほとんど天国ってことじゃないの。

あの子は天国にいるんだ?

だったらいいよね。泣けてきちゃう。

ちがう。あの子がいるのはここだ。もしあの子というものがあってどこかにいたとするなら、そりゃあ、わたしのこころにいたのよ。それ以外なんだっちゅーの。画像とか数値はデータだったかもしれないけれど。あの子はデータじゃない。あの子っていうキャラは、人格は、わたしの

 

 

頭の中にいた。

 

 

待って。

だったら、なにも嘆くことないじゃない。そのままいさせればいいだけでしょ?

あえなくなっても残像は見える。記憶は残る。サービスが終了してもデータは残る。大事に保管して保存しておけば、どこか別のところにもちだすことだって、つかうことだってできるはずだ。一度でも存在したことがあるものは、失われたり消えたりしない。かならず再現できる。再生できる。消滅はしない。質量保存の法則ってやつがあるじゃない。輪廻っていうのも。

だから、だいじょうぶ。誰も死なない。

それでなにがいいたいのかというと、このへんは、ぜんぶ、メタファーなんじゃないのってこと。

世界は、現実は、あるいは「そう」だとわたしたちが思っているものは、それと同じで、実はまぽろしなんじゃないの、ってこと。

誰かが、すみませんごめんなさい悪いけどサービス終了しますって言ったら、一瞬で瓦解してしまうような、ものなんじゃないかってこと。

死とか。人生とか。いのちとか。愛とか。美とか。楽しさとか。ありがちの単語ばかり。誰だってみんなわかってる、こどもだって知ってることばばかり。理解してるし、把握してる。いまさら疑ったりしない。でも、つきつめて考えようとするとあっという間にすりぬけていく。どれひとつ、ちゃんとそれはこれだよね、こうこうこうだよねって説明できるものじゃない。

 ゲームっていうことばも、とびきり象徴的。それはもともとあそびであって、商売道具であって、絵師さんとか脚本家さんとかの作品であって、だから、生きていくのに最低限ぜったい欠かすことができないものってわけじゃない。余分なもの。おまけのもの。デザート。サービス。ああ、このことばも意味深。本来なかったけど、なくたっていいけど、どーでもいいけど、でも、あったらうれしい。よくできてる、みつけたらうれしい、もらえたらありがとう。そんなもの。

エンターテインメント。

ぜいたく品。

文句いってもはじまらないよね。天然自然に自生しないもの――人工物――誰かが考えて決めて作ってこの世にうみだして使ってみてみんなにひろめて発展してきたいろんなもの――は、そもそも、「にすぎない」ものなんだから。神さまがつくったものじゃないから、完全じゃない。万能じゃない。中途半端で不完全で、ちゃんとしてなくて、あたりまえ。無価値で無意味で醜悪だってしょうがない。

国家とか、宗教とか。ただ大勢がなんとなく「これはこういうもんだよね?」って了解しあっているだけ。ランクとか、人気とか、お金だってそうだ。「こういうものに価値があるんだ」ってことに取り敢えずなってるだけ。暗黙の了解をしあっているだけ。はるか昔にはじまってずっと長いこと続いてきて大勢がささえてきたものだから、かんたんにはかわらない。「すみません、これ、ちょっとよくないから、手直ししたいんですけど」とか「それ、もう、スッパリやめることにしませんか?」とかいいだすと、戦争になったりする。この「現実」ってまぼろしにはまるごとぜんぶをちゃんと統合できるCEOはいないし、システム全体を把握しててバグとりができるエンジニアはいないし、経営者も主催者もいないし、王さまもいないし、神さまもいないし、だから誰も保証しなくて責任とらない。

 リアルって、蜃気楼だ。

誰もが逃れられないほど影響が強いからといって、実在するとはかぎらない。単なるイメージに踊らされているだけかもしれない。最近のCGはなにしろほんとよくできてて、たんなる実物よりつくりもののほうが素敵だし、いっそほんとらしい。ちゃんと計画どおりなめらかに無駄なく速く確実に動く。現実と、そうでないものの区別をつけるのは簡単なことじゃない。

 二十一世紀、多くのことが解明されて、説明がついて、工業が発展して、いろいろ便利だったりおもしろくなったりした。

けど。「人間」については、まだまだろくにわかってない。確定できないことがたくさんある。心理学とか、脳科学とかが、どんなにさぐっても、まだちっとも手がとどいてないない部分が、ごっそり残ってる。 

たとえば、いのちってなんだろうとか。

こころだってふしぎだよね。犬や猫や馬にはこころがあるように見えるけど実際どうなんだろう。じゃあ金魚は。虫は? 人形やロボットにはこころはないの? つくれないの? 

わたしはわたしをわたしだと思う。思ってるわたしはどのわたし? どうしてわたしはわたしでほかのひとじゃないの?

このいのちはわたしか。このからだはわたしとイコールなんだろうか。それとも、ただの、居場所?

いまいるこの肉体以外のどこかにわたしのいのちやこころを宿らせることが、どうにかしてできない? だって肉体は限界があって、不滅ってわけにはいかないし、劣化していくし、いつかは突然サービス終了しちゃうんだもの。わたしになんのことわりもなしに。わたしはOKしていないのに。

この肉体がなくなったら、わたしはどこにもいられなくなるかもしれないってのに。

そんなことで消滅するのなんていやだ。納得できない。どうにかしたい。存続したい。

そもそもわたしは、このこころのデータは、どこに格納されているんだろう? からだを構成する物質のどこかにあるのだろうか。あるとすれば、たぶん脳味噌? なんとなく顔のあたりな気がするけど。指の先も、おなかの中だって、わたしの一部だ。けど、でも、「じぶん」を意識できるのはやっぱり顔だ。目と目の間、鼻や口の奥のへん。自分を手の指の先っちょのほうに持っていってみようとしてもうまくできない。指の先がもしかしてスパッと切りおとされてしまっても、わたしはいなくならない。

肉体が滅びて、居場所がなくなったら、天国にいくもんだって、なんとなく思ってるけど、思わされているけど、天国っていったら雲だよね、もしかしてクラウド? 似たようなものだとするなら、購入履歴がついたアプリは、不具合が起こったら×つけて一度消して最新バージョンを無料で再ダウンロードできて当然なんじゃないかしら? 

 これもまたメタファーだ、なにかに似てない? そう、眠りと目覚め。休眠と覚醒。そうだ。わたしたちは、眠りにしずむ。毎日眠って、ある程度の時間、うざい制御を手放して休眠し、充電し、再起動する。眠りはリセットか。終了か。ぐっすり眠っている時間、からだは休息を得る。こころは?

 休む。

 こころだって休む。

 でも、それだけじゃない。こころは、

 

 ――夢を見る。

 

 こころは保守点検のため定期システムダウンした肉体を離れて、どこかよそへさまよい出る。

 

 

 

 リンカーン・コンチネンタルの車内はまるで応接間だ。ふかふかの絨毯、シャンデリア風の車内灯。これは王さまの乗り物だなとポチは思う。いまを逃したら、きっと、もう一生乗るチャンスなんてないんだろうな。汚したらいけないと思うと尻がもぞもぞする。どんなひとが運転しているのか見たいと思うが、運転席との間には舞台の緞帳みたいな分厚いカーテンがおりている。

なにかの合図でもあったのか、車が走り出した。孔雀色の革座席の真ん中、セイとロクが左右からはさんできた。

「だいじょうぶ?」

「こわかったでしょう」

「けがしてない?」

 どうして知っているんだろう? ぼくが突然、怖い思いをしたこと。ヒロシや、みんなの様子がへんだったこと。

疑問はろこつに顔に出たろうに、セイもロクもそれには触れず、ただ、冷たい指でポチの頬にそっとふれたり、みだれた髪をとかしなおしてくれたりして、せっせと世話をやく。

「楽しかったね」

「もっと、きみとすごしたかったけど」

「おわかれを言いにきた」

「おうちまでおくるから」

「ごめんね。もう、きみは、きちゃだめなんだって」

「菩提樹に?」思わず、口をついて出た。「なんでですか? もういっちゃいけないんですか?」

 そんな。

そんなのないよ!

やっと見つけた居場所なのに。なんでだめなの。なんで僕だけ、のけものに? ああ、なんでだなんて、わかりきってるじゃないか。外の人間だから。よそもの§四文字傍点§だからだ。

緊急事態になって、余計なことを抱えていられなくなったのだ。

黙ると、セイとロクが両側から抱きしめてきた。

「そんな顔しないで。悲しまないで」

「きみのこと、大好きだった」

「弟みたいに思ってた」

「でも、さよなら」

「まきこむわけにはいかない」

 ふたりの声はいつものようにおだやかでしずかだったけど、どこかを一押しすると、あっけなく決壊して涙ぐずぐずになってしまいそうだった。

 ぼくはどうしてまだこんなにこどもなんだろう、とポチは思った。中学生なんかじゃなくて、せめて高校生なら。大学生なら。あと五歳ぐらい年上だったら。たとえばくるまの運転だってできたかもしれないし、空手とかでもならってて、なんかの役に立てたのに。

 ポチなんて。仔犬なんて。しょせん、無意味じゃないか。なんの助けにもなりゃしない。可愛がってもらったって、恩に報いることもできない。捨てられたってしょうがない。

 せめて、なにか、なにかできれば。

「なるべくはやく、出てったほうがいい」

「この町を出て、みんな忘れてしまったほうがいい」

「おとうさんやおかあさんにも、そういうんだよ」

「すでに警告がなされてるでしょう」

「待って。でも、まって」ポチは必死にいう。「ねえ、お願いです。このままなんてあんまりです。頼むから、もういちどサヨラにあわせてください」

 セイとロクはからだをはなし、しげしげとポチを見る。

「だってぼくは……ぼくはまだ、彼女の部屋を……二階を見たことがないんだ!」

 口にしてはじめて、本音を押し殺していたことに気がついた。

「あんなに何度もあのお屋敷に通っていたのに。あの階段をのぼらせてもらったことはない。登りたいって、登らせてって、言ったこともありませんでしたよね? いつか、ゆるされる時がくるって思ってました。そしたら、頼まなくても登らせてもらえるんだろうって信じてた。だから、おとなしく待っていたんだ」

 セイのめがねが光を反射して、内側がのぞけない。ロクは前髪のかげに隠れていて、やっぱりこころを見せてくれない。

「ちゃんと頼まないとだめだったんですか? よそものだから、二階には、どうせ、行っちゃだめだった? ああ、でも、ちがいますよね。お客ならいける。ぼくは、……お客にはなれませんか? 最後なら、そうしてもらうわけに、いきませんか」

 どちらも返事をしない。

「きっとお金がいるんですね。だいじょうぶ。払います! ぼくに払えるなら……もしかして、とても払えない金額なんだったら、すみません。いつかきっと。ああ、一生に一度のお願いです!」

 リンカーン・コンチネンタルはとても静かで、安定していて、ほんとうに道路を走ってるのかどこかに停ってるのかもよくわからないぐらいだったけど、この時はたまたま何かに乗り上げでもしたのか、ガクンと揺れた。

 たがいにそっくりのきれいな顔をきょとんとさせて――まるで、森の暗がりから出てきたらちょうどばったり鉄砲の銃口に出会ってあってしまった鹿だ――セイとロクは、一瞬のち、笑い崩れ、ポチを力任せにまた抱きしめて、ぐしゃぐしゃ遠慮もなしになでまわした。

 

 

 

 はじめて登る階段は、絶壁のようにそそり立っていた。脚が震えてつまづきそうになるので、手すりをしっかり握りしめた。ひとつ、ひとつ、踏みしめて登っていく。この階段を登り切ったら、世界がかわる。なにかが永久に不可逆に変わる。僕はもうこれまでの僕ではいられなくなるんだ、とポチは思った。

 すぐわかるだろう、まちがいようがない、と教えられていた。サヨラは、階段の登り口の真ん前にいると。そこが彼女の部屋で、執務室で、居場所だと。

 両開きの扉が歓迎するように大きくあいていて、黄金色の輝きがあふれだしていた。

ほとんど純白の部屋だ。あちらこちらに、あふれるほど花がかざられている。さっぱりとからっぽで、とても明るくて、すがすがしい、すっきりしている。

サヨラは奥の窓辺で椅子に腰を下ろしている。金と白でできた女王さまがすわるような椅子だ。と見えて、ふと見直すと、それはただの地味な木の椅子、幼稚園のこどもがすわるような椅子にすぎないものになる。それから黒革張りの、会社で重役さんとかのえらいひとがつかうような椅子になる。あまり多くない家具や調度がぜんぶこんな調子で、一瞬たりともじっとせずにぼやけたり、ちらついたりしている。まるでそれぞれが自分の正体をきめかねているかのように。選択画面をつぎつぎにザッピングしているかのように。まばたきする間にもみるみる変化してしまうので、どれひとつ見定めることができない。

かわらないのはサヨラだけ。

「きたのか」

 と、そのサヨラが言った。彼女の声をきいたとたん、ポチは泣きたくなってきた。来てはいけないと忠告されたのに、わざわざのこのこやって来るなんて、イヤミだし、さからってるし、感じが悪いと。彼女のせっかくの気持ちを踏みにじっているみたいだと、そう思ったのだ。

「すみません」だから謝ってしまう。「でも、ごめんなさい。だって……ぜんぜん納得できなくて。どうして、もう来ちゃだめなんですか? なにが起こってるんです。ぼくに、なにかできることはないんですか。なんでもいい。あなたの口から言ってもらいたい。じゃなきゃ、ぜったい、納得しない」

 サヨラはかすかに目をそらし、頬に手をあててふうっと大きく息をついた。吐息が、彼女の輪郭をゆったりととりかこんでいる美しい金色の光をつらぬいて、らっぱのかたちをなす。光はくるくるふわふわと揺れた。フリルのようになって浮かび上がり、ひげのように伸び上がり、たくさんの小さな渦を巻いてまた戻っていく。まるで、金色の粒が小さなふしぎな生き物で、それぞれのいのちのダンスを踊っているようだ。

 なんてきれいなんだろう。ポチは思い、胸をうたれる。

きれいなものは、なんでこんなに悲しいんだろう?

この妖精の女王みたいなひとを相手に、平気でずけずけものを言っている自分を意識すると、とてもへんな感じがした。これはほんとうに現実か。それとも夢か。

「掻き回すもの§アジテイター§が出たのだ」

 と、サヨラが言って、ポチは我にかえる。

「アジテイター?」アジるってなんだっけ、野次をとばすことだったっけ?

「昨日のことだ。そなたの父や母までもがおびやかされただろう。まことに申し訳ないことだった。かくなるうえは、猶予はなるまいと判断したのだ」

「うちの親たちって……なんでそんなこと」あなたが知ってるんですか?

 ほかのなにより、それが恐ろしいような気がして竦んでいると、サヨラは眠たげなまなざしのまま片手でポチをさしまねいた。

からだのどこにもちからがはいらない。ぎくしゃくと歩いていって、彼女のかたわらにあった長椅子の端に倒れこむように座をしめた。それは彼女のあたたかな放射の圏内だ。そこにいると、たとえようもなく幸福で、なんともゆったり安心な気持ちになる。

椅子は、ベンチになったり、ベッドになったり、ソファになったりとさっぱりじっとしていなかったけれど。

「もともと懸念はあった。この土地に根ざすことを決めるとき、われらはさんざん話し合った。扉を閉ざし、内にこもり、外部といっさい関係を断てば何世紀であろうと存続できよう。ひとの世になにが起ころうと、かかわらず、知らぬ顔をしておればよいと。もう少しで、そうすることになるところだった。さすれば、われらは、まったくひとめにたたなかっただろう。追手にみつかることもなかっただろう」

だったら、ぼくは、出会えなかった、とポチは思う。

このひとも、この場所も、知ることはできなかった。

「そんな時、こどもが出来た」

と、サヨラは言った。

「わたしと、妹が、相前後して娘を孕んだ。おかげで事態はまったくかわってしまった。貴重な赤ん坊をそこなうわけにいかない。里子にだしてしまえという説もあった。頼もしき心優しき養い親を選んでひそかに子を託し、育てさせ、年頃になったら引き取りに行けばよいと」

「――かぐや姫だ」

「その通り。かつてはそのような手段があたりまえだったこともあると聞く。が、あまりに強引で手前勝手ではないかえ? ユメミの教訓も棘となって刺さっていた。それにわたしは、生まれてくる娘が愛しうて、可愛ゆうてならかった。この手に抱いて、育てたかった。笑い声を聞き、ぬくもりを感じ、乳臭い匂いをかいでいたかった。そばにおいて、日に日に大きくなるさまを見届けたかった。そしてまた我が子には、できるだけ広い空を、境界線のない世界を、あたえたかった」

 ユメミってなんだ?

 サヨラの娘の“おとうさん”は、いったいどこの誰なんだ? 

 さまざまな疑問がちかちかする星になって脳裏をよぎったけれど、ポチに口ははさむ隙はあたえられなかった。

「乳幼児の母親業は悲観的ではやっていけない。わたしは多幸感と希望に満ちており、強硬な反対意見を退けた。このわたしが堂々とふるまいさえすれば、禍事§まがごと§はおのずから鎮まると信じた。敵は恐れて近づかず、すべて丸くおさまるだろうと」

菩提樹のこどもたちは、この町に暮らし、ふつうに学校に通っていた。

白い目で見られ、心ないことを言われながらも、そんなことは耐えられると、やりすごしていた。

警戒は怠らなかっただろう。知るべきことがおきたなら、すぐにわかるよう糸を張っておいただろう。畑をあらしにきた獣が知らず糸をひっかけて鳴子を鳴らす。そんなイメージ。ゆたかに実った作物は、誘惑になる。

滑り台の暗がり、たばこの炎にぼうっと浮かび上がったスミカの横顔。

「まさか」ポチは青ざめる。「ぼくですか? ぼくがいけなかったんですか?」

 誰も菩提樹に近づこうとしなかったのに、ぼくは、思い切ってはいりこんだ。おさない正義感と、好奇心で、突破してはならないところに、穴をあけてしまった?

 いやいや、というようにサヨラは首をふった。

「そなたのせいではない。特定の誰かのせいではない。いずれこの時はこなければならなかった」

「でも、ぼくが侵入しなければ。あなたがたに、関心をもたなければ!」

「聖域はもはやないのだ」と、サヨラは言った。「前世紀前々世紀にくらべれば、ひとはおそろしい勢いで増え、世々にはびこった。いまでは世界に未踏の場所はごくかぎられている。ひとの手がふれたことのないもの、ひとの目の見たことのないものは、どんどん減り、稀少になった。ひとりが見たなら、もはや、世界中にあばかれたも同然だ。小さななにげないうわさであろうとも、あっという間に拡散する。これから世の中は、残りものの奪い合いになるだろう。価値のあるもの珍しいもの興味を惹くもの美しいものは、けっしてそうっとしておいてもらえない。多くの秘宝が白日のもとにさらされ、値札をつけられて取引されよう。ひとが所有することを許されぬものが宇宙に存在しなくなる。他人の欲望や好奇心から完全に隠れていることなど、誰にも何者にも、けっしてできない」

 重たく濡れたものが肩に覆いかぶさってきたようで、ポチは黙り込んだ。そんなたいへんなことがらだとするなら、自分ごときがなにか関係があったとか、どうにかできるとか、そんなことは考えられない。

「ポチや、可愛いポチ」

 サヨラはポチの手をとると――すべらかですこし冷たい手だ――なぐさめるようにそっと撫でた。

「こころ清き小さなものよ。嘆かないでおくれ。預言者の昔からひとの世は動乱をくりかえしてきた。凪の海にやがて波がたち、ときに、高き潮となって押し寄せてくると同じこと。事が起こる前には予兆が走る。掻き回すもの§アジテイター§や扇動者は、波頭の白い泡だ。ぷちぷちとはじけて人心を興奮させ、動揺させる。次に来るのは殺し屋§キラー§だ。竜の首§ドラゴンヘッド§、先駆者§パイオニア§、挑戦者§チャレンジャー§。さまざまな名で呼ばれ、さまざまに名乗りをあげるが、その性質はひとつ。暴力だ。問答無用の怒りとちからづくで、すべてをかっさらい、飲み込み、粛清し、破壊する。巻き込まれればなにものも無事ではすまぬ。そなたを無残な目にはあわせたくない。だから……行きなさい。もう、ここに来てはいけない。我等のことは忘れてしまうがいい」

 イヤです、そんなの無理だ。

絶対にできません!

 言おうとして、手をひっこぬこうとして、サヨラの瞳にぶつかった。なんという静かな悲しみ。それとも、あきらめ?

「なんでですか。ひどいじゃないですか。気に入らないものに暴力をふるうって、それってテロリストでしょう。どうしてそんなのに負けちゃうんですか! やられちゃうんですか。反撃や、話し合いの余地はないんですか?」

「狩人と、彼らはおのれをなぞらえる。あちらにはあちらの是があり、理屈があるのだ。灰の王国§アッシュ§の時代から十何世紀というものきゃつらは我等のあとをおってきた。それを宿命として。残念だがいまこのときに話し合いで容易に解決できることであるとはとても思えない。われらを殲滅するは、彼らの悲願であるのだし」

「なぜ?」

 わけがわからなくて、ポチはたずねた。

「どうしてそんなに嫌われて、狙われるんです。しかも、そんなに長いこと?」

「因果だ」

 サヨラは笑った。

「テュルクの昔、灰の王国§アッシュ§は阿史那§あしな§王と戦闘し、美女三千人を奪ったそうな。もっともこれは彼らの言い分で、こちら側からすれば、奴隷同然に囚われていた娘たちを解放し受け入れて救った、ということになるのだが。この娘たちが、つまりは最初の“ひめ”だ。彼女たちのうちから、アテー王女が生まれ、われらの祖となった」

所有権の主張か! 盗まれたものを、返せというのか。

そもそも誰のものだったのかを言いだしたら、地上のほとんど全部の土地が国が誰かもとの持ち主から無理やりに強奪された場所になるだろう。正義を歴史をとことんさかのぼって適応しようとすると、誰だって無実ではいられない。罪なきもののみ石を持てといわれてなお石をはなさずにいられるのは、傲岸不遜の鉄面皮だけ。

「そんな大昔のことを根にもたれても!」

「彼らの言い分ではわれわれは邪教の信者だ。夢は怠惰な逃げ道であり、邪悪な幻術であり、現実に立ち向かう意識を削ぐ甘い害毒であるのだそうな。“ひめ”は戦士を誑かし精気をすすり、夢に耽溺させ、中毒させる、夢魔§インキュバス§の血族なのだそうだ」

「……それで……」

人間じゃない、なんていうのか。

思い当たって、ポチはぞっとした。

この町のひとびとは、すでにその敵の――狩人の?――影響下にあるのではないか。そいつらの主張を鵜呑みにして、こっちの言い分は聞く耳もたない。

「じゃあ、どうするんです? その狩人だか殺し屋だかがやって来るというのなら。なんとかしなくちゃ。迎え撃てないんですか。もし勝ち目がないなら、せめて逃げなくちゃ」

「だからそなたに逃げてくれといっている」サヨラは言った。「こどもたちも、疎開させることにした。スミカ、ヒトシ、わたしの娘レイラ。そのほか何人か。まもなく学校は夏休みにはいる。そうなったらすぐによそへやる」

「どこに?」

 サヨラは目を伏せて、ますます悲しげな顔つきになった。

「言わぬ。知らないほうがいいだろう」

「どうして? まさか、ぼくが裏切るとでも?」

「想像させないでくれ」

 サヨラがまっすぐみつめてくる。緑とも茶色とも、何色ともいいがたい瞳がまっすぐにのぞきこんでくる。

「そなたが敵に囚われ、拷問され、白状させられている図など考えてみたくない。わかるだろう、はじめから知らぬことはけっして言えはしない。無理に守りとおす苦痛もあじわわずにすむ。そもそもそなたには誰が敵で、誰がそうではないのか。誰を信じてよいか。区別つくまい」

「そんなことありません。ぼくには見える。あなたがまとっているものが。あなたはきれいな金色だ。赤ん坊のように金色だ。ひめたちはみんなそういうふうにきれいだ。敵はきっとそうじゃないんでしょう。いやな灰色だったり、不潔などぶ色だったりするはずだ」

「ああ、ポチよポチ。可愛い単純なポチ。残念ながら、そうとはかぎらないのだ」

 サヨラのくちびるがほほえみのかたちになる。でも、どうしてだろう、いっそう悲しげにみえるばかりだ。

「そなたのように純でまっすぐなものを欺くはなんと容易なことだろうな! 敵は、良いもので、すぐれたものたちなのだ。外見は、とても立派だし美しい。わたしよりもっとさんさんと輝いてみせることだってできよう。強い光で目をくらまされてしまえば、自分が見ているものの輪郭などわからぬ。真の姿など、どれがどうと、わかるものではない」

 そんな。まさか。

あなたより美しいものなんて、あるわけがない!

 敵にうまうまだまされるなんて、ありっこない!

ああ、なぜ、わかってもらえないんだろう。こんなに本気なのに。ちからになりたい。楯になりたい。武器になりたいのに。

ただの足手まといになんかなりたくない。なにもできないなんて、認めたくない。

 だだを捏ねていることはわかっていたけれど、やめられなかった。いま、いとまをつげ、この場を去ってしまえば、もうたぶんチャンスはない。きっとあえなくなるだろう。次はこの屋敷に、いや敷地にも、いれてくれないだろう。

 もしかすると、屋敷そのものがなくなってしまうかもしれない。

 まるで、すべてがはかない夢だったように。

 彼らならきっとそのぐらいのことはわけもなくできる、と思うと、くらくらした。

「サヨラ、あなたは夢を歩くんでしょう? だったら警察とか、国連軍とか、どっかの国の王さまとか総理大臣とか、うんとえらいひとを味方につければいいじゃないですか。そのひとたちに、悪いやつらをやっつけてもらえばいい!」

「そういうことを一度もしたことがないふりはしない」とサヨラは言った。「わたしでなくとも、先代たちのうちの誰かが。なにしろあまりに長い戦いで、諍いで、疲労困憊し、窮鼠猫を噛まざるをえなくなったことだってあるにはあるのだから。だがポチよ、聞いたことはないか? 占い師はみずからの運命を占ってはならないと。得難い尊いちからであればあるほど律してつかわねばならぬ。私利私欲に溺れてはならない。自棄っぱちで蛸が自分の足を食うような方策は、けっして、よい結果を招きはせぬものなのだ……さあ、よい子だから、もう聞き分けておくれ。この手をお放し。行くがいい。ずいぶん遅くなってしまった。そなたにはそなたの未来があろう。つつがなく、暮らすがよい」

「いいえ、まだです。お願いをきいてください。どうか、ぼくの夢を歩いてください」

 とうとう言った。

「ぼくの夢に、あなたの水を注いでください。一度でいいから!」

 そうしたら

 ぼくは強くなります。

たとえほんとうの身内になれなくても、あなたの、あなたがたの、最大の理解者に、味方になってみせる。いまはまだこんなにこどもで、たいして役に立たないかもしれないけど。ぼくにはまだこれからの一生がある。それをぜんぶ、費やしてかまわない。

「ここが居場所だった! 唯一の、最高の場所だった。ぼくだって、ぼくこそ、あなたがたを……この菩提樹を失いたくないんです!」

 サヨラは黙った。ポチの顔をみつめたまま、しばらく考えこんでいるようすだった。それから、そっと手をあげ、さしだした。サヨラの指がつんと肋骨のすきまを押すと、人形のようにあっけなく寝椅子に横たえられてしまった。

 あおむいて気がつけば、窓の外は夕暮れてほのかに暗くなりかけている。西の空、山々の稜線の端に雲があり、薔薇色と橙と紫色のえもいわれぬ美しい色の層をなしている。

 サヨラの顔が見下ろしてくる。覆いかぶさる。冷たい指が、かすかに頬をなぞる。

「後悔しないかえ?」

 くちびるがくちびるにふれそうなほど、近い。

 サヨラの瞳は、金の粉が散らばった緑だ。高貴な猫の瞳のようだ。

「しません。けっして」

 よし、とサヨラが笑う。

「目を閉じよ」

 サヨラは顔のすぐ前に手をかざす。熱と光が感じられる。あわててまぶたを伏せる。

りいいいいん、と、高いトーンの音が聞こえてきた。耳鳴りのようだが不快ではない。響きは波紋になってからだじゅうにひろがり、細胞のひとつひとつにとけていった。不要なもの、夾雑物を消していく。魂が塊になって叩かれたかのよう。サヨラという音叉に反応する。高く低く強く弱く長く余韻をひいていつまでも消えずにつづく音の中、あたたかな黄金色の輝きにつつまれて、ポチは自分がどこまでも上昇していくのを感じた。