yumenooto uminoiro

 

                                                                         Mahane 5

 

 那智くんに言ったとおりだ。

   口にしてみて、気がついた。

海は遠くなかった。すぐそばにあった。

 それが実感。

 ずっと、ここに、あった。

 

 お風呂上がり、髪をふきながら、空を見る。わたしの部屋のいつもの窓の、いつもの光景。

 ぎょっとするほど明るかった。ぴかぴかに磨いた銀貨みたいなお月さま。月って、こんなに大きかったっけ? そういえばニュースが、スーパームーンとかなんとか言っていた。

月と星と山々のシルエットは、湖の水面にさかさまになってうつっている。例によって、おりかえしてダブル。

なんてきれいなんだろう。

ほとんど黒と白の世界。

わたしのこころは走り出す。湖にむかって。海にむかって。

つまさきから生まれるV。波を蹴立て、かすかな水尾をひきながら、なめらかに、ぐんぐんとすべっていく。

白鳥のように。スワンを踊るバレリーナのように。フィギュアスケートの選手のように。まるで湖が固い氷で、その上にほんの少しだけとけかけた水が乗っているみたいに。

うつりこむ満月に、女の子が立っている。細巻きのシガレットをくゆらせながら。刃物のように輝く円盤の上に。

腕と脚が長い。外国の少女のようなプロポーションだ。ほそっこく骨ばった影絵は、まばゆい光に輪郭がぼやけて、髪は淡い紅茶色にやわらかくなびいている。

「レイラ?」

 と、その子が言う。じぶんのたばこの煙に両目をとんちんかんに細めながら、ふりかえりながら。

「あんたもきたの? ここ、素敵だもんね」

 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

――ごめんなさい。レイラじゃない。別人です。おじゃましてます。

 しどろもどろ、言い訳する。

 見かけは小さな女の子で、小学生みたいだけれど、うんと年下みたいだけれど、ほんとうはちがうんだ。このひとは、わたしよりずっとおとなだ。うちのおかあさんよりもおねえさんなぐらい。いろんなことを知っていて、とても長く生きている。だから、おもわず、ていねいな口調になってしまう。

 こんばんは。

はじめまして。わたし、マハネです。星野磨翼といいます。レイラは……

(言ってもいいだろうか?)

(わるいことはない)

(隠すことなんてできない)

――いま、この夢を見てる。わたしの母です。

「あらまぁ。そうなの!」

 女の子はきゃらきゃらと笑う。

「驚いた。レイラには、あんたみたいな大きな子がいるのね? いつの間にねぇ」

 きれいな顔だ。魅力的だ。吸血鬼みたいにとんがった犬歯が懐かしい§四文字傍点§。いとしい、たいせつな、頼れる、親友。あご先に、きゅん、と、ひるがえった光はペンダント。

「先、越されちゃったわけだ」

 そのペンダントが月光に輝く。まるで、小さなナイフのように。

「まあ、無理もないけど。あたしはおとなにならないって決めたから。ずっと変わらないことにしたから。そりゃあ、レイラにだって、先を越されるわけだよね」

 ――でも、母よりもっとずっとおとなっぽいです。スミカさんは。

「ふうん。あたしのこと、知ってるんだ?」

 ぷか。ぷか。ぷかり。

 こんなにたばこのにあう女のひとを見たことがない。

 片眉だけあげて、肩をそびやかして。骨ばったからだ、寒そうにまるめて、ちょっと姿勢が悪いほうがそれらしい。モノクロのフランス映画の不良少女みたい。

――知ってます。母にも、父にも、聞きましたから。

 あなたのこと。

 あなたたちのこと。

 あの夏の、おわりのはじまり。

 

        ☆

 

 ポチは菩提樹にいりびたった。

 可能なかぎり。放課後のほとんどを。休日はほとんど朝から晩まで。それでちっとも飽きなかった。だんだん、菩提樹のほうが自分の家で、すみかで、家族で、居場所のような気がしてきた。はじめからそうで、生まれたときからそうで、ただ、これまではたまたま知らなかっただけ。はぐれていただけ。ものごころつく前に預けっ子されたこどもが、偶然、ほんものの家をみつけて戻ってきた、そんな感じ。

 もしかして、ほんとうに、そうなんじゃ?

そんなこといったら、悪いだろうか。ずっと大切に育ててくれてきた両親にたいして、失礼で恩知らずもいいところだろうか。

 いっそ家出して、こっちの子になってしまいたい。

 何度考えたか知れない。

ほんとうは、家も、学校も、どうでもよかった。菩提樹を知ってしまうと、ほかのどこにいても落ち着かなかった。自分をさらけだせない、甘えられない、こころから安心してくつろげない。そんなところには、できればもう一分だっていたくなかった。いたいのは、帰りたいのは、

 

 

菩提樹だけ。

 

けれど、刻まれた習慣には強い持続力がある。これまでしてきたことを中断するには勇気がいり、抵抗するにはちからがいる。

それに、

もし、いきなり、家に帰らなくなったり、学校にいかなくなったりしたら?

きっと心配をかけるし、問題視されるだろう。叱られるのは怖いし、外出の自由を禁じられてしまうかもしれない。誰か、自分のせいで傷ついてしまうかもしれない。そんなこんな思うと、軽はずみなことはできなかった。

解かなければならない問題が、テストや問題集の中ではなく、自分のほうにあるのは憂鬱なことだった。この重苦しさにくらべれば、計算問題や英文和訳に没入するのは、むしろ、解放だといえた。とりあえず、誰にも追求されるようなことではないから、先送りして知らん顔している。靴底にいつの間にかへばりついたガムの噛みかすのように一足ごとに粘りついてイヤなのだがじゃまくさくてしかたがないのだが、立ち止まって靴裏に手をのばす、そのきっかけがつかめない。靴の裏側なんて誰にも見えないから、自分以外の誰にもわからないことだから、なんでもないふりができる。ほんとうは、はやくなんとかして、解決しなくてはならない。選択し決断し表明しなくてはならない。でも、動けない。どうしたらいいのかわからない。誰に相談すればいいかわからない。

幸福であればあるほど、気が重かった。

いつの間にか自然とここからいなくなれたらいいのに、と、ポチは思った。たとえば、なにかの事故にあうとか。神隠しにあった、というように。特定の誰かに罪をきせるのではなく、みんながふと気がついたときには、ただ、いなくなっていた、と。すうっと、まるで別の世界にはいってしまったみたいに、消えてしまったんだと。そうだったら、いいのに。ラクなのに。

だが。

いま、もし、自分が失踪したら、そんなのんびりした話にはならないだろうということはわかっていた。菩提樹を問題視して、目の敵みたいにしているひとたちが、ここぞとばかりに大騒ぎをするだろう。転校生がさらわれた、いなくなったと、警察沙汰にして、事件にするだろう。もしかすると消防団とか自警団とかそういったものがあって、捜索隊とかを組んで、菩提樹の敷地に突入を試みるかもしれない。

あのひとたちの美しく静かな世界を土足で踏み荒らして、乱暴をして、ことのついでに破壊しようとするのかも。

そんな理由をあたえてはいけない。

そんなことのヒキガネになってはいけない。

だから、ポチは、動けなかったのだった。

自分が薄汚い嘘つきになったようで、裏切り者のようで、あっちにもこっちにも不義理をしているようで、とても居心地が悪かったし、じれったかったのだが。うまく、とりつくろってしまった。家出もせず、遅刻も早退もせず、きちんと、それまでどおりの良い子の中学生の生活をしながら、その自分にゆるされる範囲内で、限度のうちがわで、菩提樹にでかけ、そこですごし、そうして、そこからきちんきちんと「家」に帰っていたのだった。

 

それが可能だったのは、星野さんち(これはいまのマハネのうちのことではなくて、パパがこどもだったころのそのパパと両親のことだ)が、そもそもそういう家庭だったからでもある。

三人三様それぞれ好きなことをしているのがふだんどおりであたりまえの放任主義ぎみの家族だったし、一人息子のマコトくんは、それまで、ほんとうに、なんの問題もおこしたことのない、聞き分けのいい良い子だった。

中学二年にもなっていたし、男子だし。多少はめをはずしたからって、どうってことない、と、星野さんのパパもママも――これまたうちのわたしのパパとママじゃなくてパパのパパとママのことです。ああまったくややこしい! ここから、パパのパパについてはシゲルさん、パパのママはユリコさんでいくことにします――気にしなかった。

彼らはこどもが、いつどこでだれとなにをしているか、いちいち確認したり、問い質したりしなかった。過干渉なタイプの親じゃなかったってこと。息子がしょっちゅうどこかにでかけていても、夜遅くになってから帰ってきても、せっかくの晩御飯を、もう食べたからいらないごめんねっていっても、追求しなかった。

 

 

 

立ち上がったのは、ご近所のほうだった。

シゲルさんは、コンサルタント業務をしにいっていた地元の食品会社でウマがあってランチをいっしょにすることがある同年代の課長さんに、ちょっと話があるから帰りにつきあえとお寿司屋さんにつれていかれた。ユリコさんは、いつも行くスーパーマーケットで、カートに買い物カゴをのせて、野菜とか果物とかを選んでいたところ、おなじクラスのママ友数人がドレッシング売り場で立ち話しているのに行き会い、「あら、どうも、こんにちは」軽く会釈をしてとおりすぎようとしたところをつかまった。星野さん、ちょっといまいい、あなたに大事なお話があったのよ、問答無用、フードコートのすみっこの席につれていかれて、座らされた。

それぞれの相手は、何度も口ごもっていいにくそうに、あるいは、目をギラギラさせてやけに熱心に、きりだした。おたくのぼっちゃんが、いけないものに近づいているのを、へんなものにたぶらかされているのを、知っているのか、と。

 ――へんなもの?

 ――いけないもの?

 シゲルさんも、ユリコさんも、さぞかしきょとんとしたことだろう。

 スポークスマンたちは、それぞれの力量で説明した。この町には、菩提樹という、いまわしいものがあるのだと。毒の花よ、ママ友はいった。悪の巣窟。とんでもない。こえだめよ。ち、ち、恥部です、と課長さんもいった。勇気をだして。舌をもつれさせながら。くちびるをふるわせながら。その単語を発するだけで自分が汚濁にまみれるのだとでもいうように。顔の筋肉をあっちへやったりこっちへやったり、たいそういいにくそうに。顔を真っ赤にしながら。

深い森に囲まれた悪魔のねぐらで、邪教の城で、ひめと呼ばれる女たちが夜な夜ないかがわしいことをしているそうです。おたくのひとつぶだねのマコトくんはこともあろうにその屋敷にひんぱんに出入りしている。自転車でそこらを走っているし、菩提樹の子どもたちが学校に通う車に乗せられるところもしばしば目撃された。いったいどうやってはいりこんだのか、あいつらと知り合いになって、親しくなってしまったらしい。

 危険なんです。ゆるしてはいけません。ああ、もっとはやく注意してあげるんだった。うちの子なら、ぜったいに、そんなことをしないのに! この町の子どもなら、菩提樹なんかには近づかないのに!

おたくは引っ越してきたばかりだから、あれがどんなにまずいものなのかピンとこないんでしょう。実感がないんです。どんなにやっかいで、汚らわしいものなのか、だって、ご存じないんでしょう? いままで知らなかったんだから、しかたないけど、こうして知ったからには、もうそのままというわけにはいくまい。一刻もはやく対処して。やめさせなさい。ええ、そうしてください。そのほうがいい。そうしなさい。

さもないと、取り返しのつかないことになる。

 

「まあ、それはどうも、ご親切に」ユリコさんは苛立ちにひきつりそうな頬を、笑顔のかたちにつりあげた。これはなに? 脅迫? 同調圧力? このひとたち、プライバシーってことばをきいたことないのかしら。

「よくわかりました。息子がもどりましたら、まずは、どういうことなのか、話をきいてみますわ」

「そんな悠長な」

「ぼやぼやしてちゃだめ」

「こどもを、とられちゃってもいいの?」

 ――とられるですって……!?

 まあ、ずいぶんと、おおごとなのね。

おせっかいされるのはすきじゃない。そもそも、自分たちは事実よそものだ。しかも、遠からずまたたぶん出ていく。ここのひとたちに無理にあわせる必要もない。

「がんばって。こわいだろうけど、負けちゃだめ、星野さん!」ふわふわカラーのニットのセーターを着ている奥さんが、手を握りしめてくる。たぶん手編みなのだろう。とてもロマンチックで少女趣味だ。何度かすれちがったとき、いつもこんな服装だった気がする。もしこのひとと仲良くなったら、何かプレゼントされるかもしれない。ぜったいに着たくないようなものを。他人のことなのに、こんなに心配して、純粋この上ないまなざしでみつめてくるこのひとは、ちょっと仲良くなったら、きっとまちがいなくそのひとのための特別のプレゼントを編んでくれてしまうだろう。

ユリコさんは、握られている手をふりはらわないように、心の奥歯をくいしばる。ぶるっ、とふるえそうになるのを、なんとかごまかした。その間に、おくさんたちは次々に話す。

「この年頃の男の子は、親のいうことなんかきかないものだわ。悪いってわかっていることをわざとやりたがるんですよ」

「ひとりで大きくなったような顔をしてねえ。ママがやめてっていうことほど、やりたがるの」

「禁止なんかすると、それこそ大喜びで隠れてつづける」

「ええ、ほんとうにそうですわね。気をつけます」おたくはそうなの? でも、うちのマコトはだいじょうぶよ。賢いし、わたしたちは理性的に話し合える。

「よく見ると意外とハンサムなのよね」ぜったいに視線をあわせようとしないどこかのママが冷たく言う。「眼鏡なんかかけてるからわかりにくいけど」

「背も小さいけど」と、誰かがいいつのる。

「いまいちパッとしないから、同級生の女の子とか気付いてない」

「若い子って、見る目ないから。ちゃらちゃらしてんのとか、ワルいほうがいいんだもの」

「おたくのまことくんみたいな誠実で信頼おけるタイプがいちばんいいんだけど。将来は、まちがいなくもてるわね」

「……どうも」ユリコさんはへどもどする。いったい、これ、なんの話?

「菩提樹の女はひとたらしだし、目が肥えてるのよ。だから、青田刈りっていうか、おたくの彼に、すばやく目をつけて、誘惑した」

「ゆうわく?」ユリコさんは眉をしかめる。「中学生を?」

「そうよ。なにポケッとしてるの。うかうかしていると、まんまと、とりこまれちゃうよ」

「でも、いったいなんのお話なのかよくわからないです……だって、なんのために? お金は持ってるはずがないし。男の子ですから、その、ひめですか? そういうものにはなれないし。それとも、ホストみたいなのに、スカウトされるってことですか? うちの、あのマコトが? はははは。ないない。それはないですよ」

 すると。

不意に、しいん、としたのだった。異様な静けさがあたりをおおった。

そのテーブルだけじゃない。フードコート全体が。いや、スーパーのそのフロアのそこら一帯が。まるで、打ち合わせでもしたかのようにぴたっと静まり返った。時間でもとまったかのように。そういう演出の芝居の一場面だったかのように。

場に居合わせたさまざまな風体の、多くはユリコさんにとって見知らぬひとたちが、みな一様に動作をとめ、だまりこみ、視線をさまよわせたまま、沈黙した。客も、スタッフも。全員。

遠くのどこかで、どこかの犬が不安そうにクィーンと鳴く声がした。

ユリコさんの腋の下に汗がにじんだ。なにこれ? なんでみんな揃うの? もしかして聞き耳をたててた? わたしの様子をうかがってたの? 

その毛糸の帽子のおじいさんも、乳母車にかがみこんでるひとも、まさか、みんな、グルなの?

さすがにあわてたユリコさんの緊張が目に見えると、ママ友たちは満足気にほほえんだ。ゆっくりと。してやったりとばかりにうなずきあう。ゆっくりと。たがいの顔をみあわせる。ゆっくりと。

口をへの字にして、だめだめ、と顔をふっているひとがある。この能天気なわからんちんに理解させるには、もう、はっきりズバリ、いうしかないよ。

「星野さん」

声はやさしくて、若くて、感じがよくて、ほとんど、可愛いといっていいくらいだ。

「笑ったりしちゃ、だめよ。まじめな話なんだから、まじめに、聞いて」

 

 男同士は女性陣ほど話がはずまない。

やめさせたほうがいいです、さもないと取り返しがつかないことになりますよ。ひとしきり言いたいことを言ってしまうと、課長さんは、これで大役を果たしたとばかりにため息をつき、何度も何度もおしぼりで顔をぬぐった。

シゲルさんはというと、どうしたらいいかわからなくて、しょうがないのでメニューを指差す。

「あの、これ、たのみませんか?」

「え? あ、はい。おねがいします」

 それっきりまた黙り込む。繁盛してにぎやかな寿司屋さん、カウンターのすみっこに横並び。ちらちら顔をうかがう気配だけは濃厚に感じる。

でも、いったいなにをどう返事したらいいんだろう? シゲルさんは困ってしまう。このひとをいじめたくないけれど、めったなことを言うわけにもいかない。

 と。

「わたしだってね、学生のころには、はめをはずしたこともあります」

課長さんは、魚偏の漢字だらけの湯飲みを両手でにぎりしめながら重大な秘密をうちあけるような口調で言う。

このひとはお酒はのまない。すすめても、すみませんだめなんです、あなたはどうぞなんでも自分の好きなものをやってくださいという。きっと、ほんとうの意味ではめをはずしたことなんてないのだろうとシゲルさんは思う。

深刻な「わたしだって」はきっと、熟慮のあげくの前降りで、言いたくない言いにくいことをなんとか口にするための助走だったのだ。課長さんは、滑り出した舌をもつれさせながら早口にいう。まるで、急斜面を直滑降しはじめたみたいに。

「悪い先輩にあちこちつれていってもらったりね。ちょっとヤバいこととか、マセた経験をするのが、楽しい時期ってあるじゃないですか。世間からは不良のツッパリグループってみられてたとしても、仲間は大事だし、いっしょになにかするっていうのが、うれしくてしょうがないっていうか。仲間がまるっきりいないより、どんなのだって、とりあえず、いるほうがいいですよ。それはそうですよ。だから、まちがった仲間とつるんじゃうってことは、そりゃあ、あると思うんです。でもね。あれはだめだ。そう、あれだけは。あそこはね。そういう通過儀礼みたいなもんじゃないんです。あそこにはまっちまったら、二度とぬけだすひとができない一生でられない。せっかくの人生を棒に振ることになる」

「よくわからないんですが……それはなにか暴力団のようなものなんですか?」シゲルさんはビールの泡にくちをつける。お酒を飲まないひととは飲みにくい。あまりはやくからにしないように、気をつけないといけない。「その菩提樹とやらは? つまり、一度親分子分の水杯を飲んじまったら、一生その関係からぬけられないみたいなところ?」

 いや、そんなんじゃないんです。でも、ただね。あそこは。なんといえばいいか。

課長さんはママたちのようには口がすべらない。なにか言おうとしては、すぐにしどろもどろになる。問いかけても、そうじゃなくて、うまくいえなくて、うーん、うーん、困りました、と、逡巡してばかりだ。

だがやがて、決意する。

 

課長さんも、ママ友たちも、周囲をはばかり、からだを前のめりにして、声をひそめる。

 

あそこはね、菩提樹の連中はね、だって

 

 

 

 

「人間じゃない」

 

 

 

 

 わたしの頭の中に映像が流れる。まるで、何度もよく見てよく知っている番組の、劇場版予告編のように。

 おおぜいの別々のひとの口がそれをいう。したり顔で、悲しそうに、にやにやしながら、美味しそうに。さまざまな表情で言う。人間じゃない。人間じゃない。人間じゃない。それが、ありえないほど恥ずかしいことであるかのように。この上ない罵倒であり、決定的なことばであるかのように。

 最大級のショック(であるはず)のセリフを言って、そのあと、彼らは、いちようにぴたっと黙る。聞かされたほうの反応をうかがうために。じっと待つ。期待に満ちて。息を飲んで。呼吸をとめて。さあ。さあ。さあさあさあ。どお? ビビッた? どう思う? どうする。あんた、どうするんだ。さぁ、はっきりしろよ! 敵か。味方か。みどころがあるやつか。惰弱なやつか。みせろ。正体をあらわせ! みきわめようとする、まちがいなく判断をくだそうとする、好奇心らんらんの目。

 シゲルさんもユリコさんも憮然としたことだろう。

あまりのことに、信じられなくて、冗談かと思ったにちがいない。。まさかと、そんなバカなと笑おうとした。でも、この目にぶちあたってしまった。ふざけたところなんか微塵もない、獲物をおいつめて舌なめずりするような、ナイフを突き刺すようならんらんとした目たちに。

だから、すぐに思いなおした。

 日本中あちこち点々と引っ越しをしながら生きてきたひとたちは、知っていた。地域には、そこならではの特色がある。

人間のいとなみが生み出したことがらのなかには、知らなければただもうびっくり仰天するほかないものがある。なんの意味があるのかさっぱりわからないものもある。いくらでもある。奇天烈な祭礼にも、不合理きわまりない風習にも、邪悪で悪趣味としか思えない土俗神の姿にも、とほうもないちからが秘められている。長年大まじめに守られてきたものには、そこにこめられた思い、かけられたエネルギーの分だけ、なにかが蓄えられている。ただの家財道具がつくも神になるほどのなにかが。そういうものは、(たとえどんなにいやで理解不能でも)ぜったいに、否定してはいけない。嘲笑ったり、批判したりしてはいけない。最悪の反応をすれば、どんな目にあわされるかわかったものではない。

それにしても。

「人間じゃない」とは……

なんて強い拒絶のことばだろう。

このご時世に、そんな旧弊ないいかたが残っているとは。

――まともな人間じゃない、はみだしたひとたちだ、って意味かしら?

 ――この地方の独特の言い回しなのか?

――菩提樹さんたちは、もしかして「よそもの」かしら。「新参者」ってこと? だとしたら、わたしたちだって、同じなのだけれど……。

シゲルさんとユリコさんが「厳重注意」されたのは、まったく同じ日だったらしい。そのこともひどく奇怪だ。まるでなにかが合図をしたかのよう。打ち合わせて、そうでもしたかのよう。あるいは、昆虫かなにかが、ホルモンかフェロモンが働くと「いっせいに」なんらかの行動を起こすみたいな?

いったいどちらが人間じゃないのやら。けんのんだったらありゃしない。

 

 

 

星空の下、自転車をこいだポチが我が家に帰りつくと、両親は深刻な顔つきで食卓に背筋をのばして座っていた。最低限の灯りのなかで。

「できることなら、出て行ったほうがいいのかもしれない」

 シゲルさんがいったところだった。

「なるべくはやく。距離をおけるものなら」

「そんな段階?」

「わからないよ。はっきり言えるようなことがあるわけじゃない。ただ、どうも、きな臭いんだ」

「逃がしてくれるかしら」ユリコさんはぞっとしたように腕をさすった。「わたしたち、もしかすると、もう、じゅうぶん、余計なことに首をつっこみすぎたんじゃない?」

「なんの話してるの?」

ポチが聞くと、両親は、ハッとしたように顔をあげた。隈が浮いている。

「ど、どうしたのふたりとも。めちゃくちゃ顔色が悪いじゃないか。おばけでも出た? なんか、……あったの? おっかないことでも?」

「マコト。おまえ、このごろよく出かけているようだが、菩提樹というところに行っているのか」

 ストレートな問いに、ごまかしはきかなかった。

「う、うん。行ってるけど」

「そうか」

「マコトは正直ね」ユリコさんは笑った。「隠したり、嘘ついたりしないで、ちゃんとこたえてくれて、どうもありがとう」

「うん……ていうか、あたりまえだよ」

「おまえは、そこが好きなのか?」

「まあ、そうだけど」

「よいひとたちなのか?」

 たたみかけられて、だんだんふつうに返事をかえすことができなくなってきたので、ポチはただこっくりと、見違えようがないように、うなずいた。

「なら、警告してあげたほうがいいかもしれん」シゲルさんは手をあげて目をごしごしこすった。「この空気にはおぼえがある。リンチや暴動の気配がする」

「なんだって?」

 ポチが目をむくと、シゲルさんは痛いような笑顔になった。

「若いころ、とある国でクーデターが勃発するのにに居合わせたことがあるんだ。そこは本土から船で一日ばかりかかる離島だったけど、国ぜんたいでひそかに動きがあって、それに呼応したんだ。ある夜中、突然、あちこちで火が燃えだした。ものが壊れる音や怒号がきこえたかと思ったら、軍服を着て武器をかかえた連中が殺気だってなだれこんできた。憎い白人領主たちをさがしにきたんだが、そこには白人はいなかった。実のところ、島じゅうから、ひとり残らずいなくなっていた。いつの間にか。まったく、みごとなものだったよ。まずいとわかってすぐ脱出したんだろう。血祭りにあげるはずの相手がちっとも見つからないんで、豪邸やプランテーションが腹いせに壊されて、ごうごう炎をあげた。もったいなかった」

「よく無事で」

「パパは現地の連中と仲がよかったからね。商社の代表と称して、たったひとり駐在して、ツナ缶とかパイナップル缶とかを輸入する手続きをしてたんだけど、収穫期とか、遠洋漁業の船団がもどってきたときとかでもなきゃ、ほんとうのところ、ほとんどすることがない。というか、重要なやくめがすなわち現地になじみ溶け込んで、なかよくなっておくことだった。そういう人間がせめてひとりいないとものごとがすすまない。信用がおける人間になるには、彼らの一員になるしかなくて、だからのんびり釣りしたり、ドライブしたり、こどもと遊んでばかりだった。そのときも、夜通しポーカーをやってたら、いきなり革命軍が突入してきたんだ。日本人ビジネスマンだなんて正体がバレたら捕虜にとられてたかもしれない。でも、ともだちは、知らん顔でかくまってくれた。島民の家族にまぎれこんで、そこんちのひとりみたいな顔して、安全に脱出できた。肌は真っ黒だし、着てるものも変わらない。現地語もそこそこ話した。こどもにも懐かれてた。だから、まあ、きっとなんとかなるだろうと思えてた。あとから考えれば、どうしてあんなにぜんぜんこわくなかったのかふしぎなくらいだ。まぁ、若かったからかもしれないけれど」

 そのシゲルさんが、いやだという。なんとなく、不穏で、逃げたほうがいいんじゃないかという。

 なめてかかっちゃだめだ、とポチも思った。

 

 

 

 

 

槙野美弥子は知っている。星野さんちのお嬢さんのことならば。ずっと前からよく知っている。

磨翼。

まはね、というんだそうだ。

ずいぶん難しい字をかく素敵なお名前だ。それだけ特別な、すごくきれいな女の子だけど。

天使みたいな、お人形みたいな、おひめさまみたいな、あの子。

彼女を見つけるとすぐ、晴彦は熱烈なファンになった。小学校に入学した日から目がはなせなくなった。だから美弥子も調べておいた。名前も、どこの子なのかも。わかっていないと、なにかあったときに対応できない。

マハネちゃんは数いる子のうちのひとりだった。

あのころあの子がとても好きだった子は十何人といた。中では、ハルミちゃんとキナちゃんが特別いちばんだったはずだ。杉本陽美ちゃんとはいずれ将来結婚すると豪語していた。なのに、よそに引っ越してしまった。晴彦はさびしがってさんざん泣いた。 

たぶん、ハルミちゃんは、いい子だったのだろう。都合のいい子。したいことを、なんでもさせてくれる子。誰かにいいつけたり、いやがって大声をあげたり、まともな抵抗ができない子。だから晴彦はおよめさんにしたいぐらい気に入っていたのだ。

けれど、だんだん智恵がついて、ものごころがついてきて、ものがわかってきて、少しずつ強くなってきて、だんだん思い通りにならなくなったのだろう。好きなことをさせてくれなくなり、かまわせてくれなくなり、さわらせてくれなくなったのだろう。やだよ。はるひこくんなんてきらい。あっちいって。そんなふうにいわれたら、あの子はきっととても傷ついただろう。そのあまり、憤慨して、怒ってしまっただろう。どうしてそんなひどいことをいうんだと、腹をたててしまうだろう。

カッとなって……なにかをしたのだろうか。

美弥子は考えない。罰されなかったのだから、杉本さんにも問い詰められなかったのだから、考えなくていいはずだ。

磨翼ちゃんの腕をぬいてしまったあと、学校からさすがに厳重注意をうけた。だから、晴彦にいってきかせた。おまえはもう大きくて力が強いのだから、これからは、好きだと思う子にけしてつきまとってはいけない。ふざけてでも、さわったり、抱きしめたりしてはいけないのだ。ひとがいやがられるようなことをすると、牢屋にいれられるんだ、と、おどしてみた。

晴彦は憮然として、「はい。よくわかりました。もうしません」といった。いうにはいった。が、かろうじておぼえた芝居のせりふみたいだった。ほんとうに、わかっているはずがない。

なにがいけないのか。

なぜいけないのか。

あの子には、わからない。

わかっていないのだ。

それはそうだ。

ほかの子だって、男子でも、女子でも、しゃべるし、さわる。ちょっと背中たたいたりとか。ものを手渡したりとかする。ふざけてじゃれあったり、おいかけっこしたりする。みんなやってる。とっくみあったり、けんかみたいなことをする子だって、するときだってあるだろう。ふざけて楽しそうにきゃあきゃあいうのと、どこがちがうのか。嬉しい悲鳴とほんとうにいやであげる悲鳴と、どこがちがうのかどうやって区別すればいいのか。

どうしてぼくだけだめなの?

晴彦にはわからない。

なんでぼくだけあれやっちゃだめこれやっちゃだめっていわれるの?

そりゃあ、わからないし、腹が立つ。

ともかく女子が「いやだ」ということはだめ。そういっても、ぽかんとしている。腑に落ちないのだ。わからないのだ。

いつか、晴彦は自分が思うことをなかなかうまく表現できないのをくやしがって、真っ赤になりながら、つっかえつっかえ、けんめいに話そうとしたことがある。

要点はこうだ。

おとなは、ぼくが「いや」なことをする。ああしろこうしろと命令する。ぼくだって、されたくないことをされる。どうして、女子がいやがることはしてはだめで、ぼくがいやがることをおとながするのはいいのか。へんじゃないか。不公平じゃないか。 

§なんでぼくのしたいことは、しちゃいけないことばかりなの?!§一行傍点§

叱られたくない。罰されたくない。ひとりぽっちでいたくない。学校が好きだ。学校にいきたい。いけなくなるのはいやだから、叱られないようにしなきゃいけないと思う。なるべく、そうするつもりでいる。できるかぎり、がまんする。したいことをちっともさせてもらえなくても、いっしょうけんめいがまんする。

でも、がまんしきれないことだってある。

好きなものは見たい。

かわいいものは、見ていたい。

そばで見たい。たくさん見たい。毎日みたい。ずっと見たい。

それぐらいはいいでしょう?

さわらないなら、痛くしないでしょう? なにもこわれないでしょう? 見ているぐらい、かまわないでしょう? 

休み時間や、体育の授業や、掃除の時間。

グレイのフードを目深にかぶって、影の中から観察する。

校庭じゅうをゆっくり見回す。執拗と形容せざるをえない熱心さで探索する。全身を見ることに集中するから、異様な気配を漂わせてしまうが、本人はただ無心にながめているだけ、好きなものをさがしているだけだ。気にいるものをみつけたら、うれしくなって、ついていく、おいかける。ずっとずっと見ていたいから。いろんなことをしてくれるのをぜんぶ見つめていたいから。見ているだけで胸がきゅうっとなって、こころがうきうきするような、誰か。

たとえばマハネちゃん。

見つけると嬉しい。チャイムがなっても、聞こえない。授業そっちのけでついていく。だってずっと見ていたいから。見えなくなるのがいやだから。目がはなせないから。よく見えるところに移動する。くっついて、つきまとって、いつまでもずっとおいかける。先生にみつかって連れ戻される。先生には晴彦がなにをおいかけていたのかわからない。たださからっているようにみえる。決められたことが守れないだけにみえる。ぼんやりふらふらしているだけにみえる。

ばかにみえる。

晴彦は正直なのだ。純粋すぎるのだ。こころのままに、ふるまっている。四六時中、大好きなもののことばかり考えている。

好きな子の踏んだ石を同じように踏む。好きな子のつかった給食の匙を持ってかえる。音楽室などに出かけているときの教室の机や、廊下の棚から、なにかを盗む。消しゴム。メモ帳のきれはし。マスク。女の子の持ち物はいかにも女の子らしく、可愛らしくて、たからものみたいだ。ほしくてたまらない。

晴彦のランドセルの中から、いかにも女子のものらしいプリントやイラストの小物が、いったい何度でてきたことか。

美弥子は深く考えなかった。もらったのではなくて、だまって持ってきたのだろうとは思う。それは盗むということなのかもしれないと、かすかに思うこともあったけれど。こんな安物のひとつやふたつ。問題にするほど暇なひともいないでしょうよ。どこかでちょっとなくしただけって、気にもしないにきまってる。

そもそも、これはラブだわ。。

純情なのよ。

ちょっと常軌を逸してるかもしれないけど、つまりちょっとした片思い。ほんのちょっとだけ重症な。

恋をしたら誰だって多かれ少なかれへんになるもの。