yumenooto uminoiro

 

                                                                      Mahane 

 

 

 ここ数日、放課後家に帰ってからはもっぱら父の話を聞いている。きのう、父は、サヨラに夢を歩いてもらった時のことを話してくれた。

 なんだか不思議で抽象的な話だったけど、そういうことがほんとうにあるのかもしれないとは思った。

このごろ、眠ると、夢に毎晩スミカやレイラが現れる。レイラ、って呼ぶと他人みたいだけど、つまり、幼いころの母たちだ。海のそばの家で夏を過ごしている。ただの夢にしてはどうもリアルすぎる。もしかすると、わたしが見ているのは、ふつうに言うところの夢ではないのかもしれない。夢を見るかわりに、母の記憶かなにかを見せられてしまっているのかもしれない。

そこには、自分よりぐんと幼い母がいて、いろんなことに、動揺したり、苦しんだり、困ったり泣いたりしている。そんな母を感じると、どうも気恥ずかしい。みてはいけないものを覗き見しているようで、落ち着かない。

たくさんの情報をもらいすぎ、あまりにいろんなことがありすぎて、ちょっと消化不良になっている。だいいち、いくら寝てもちっとも寝た気がしない。眠って起きて朝になっていても、なにか重たいものをどっさり抱えたままな感じ。

正直、疲れる。

なんだか日に日に自分がすり減ってうすっぺらになっていくようだ。このままいくと、どんどん存在感がなくなって、それこそ、この世から消失してしまうのじゃないだろうか。レイラが、ときどき「点滅」していたという感じが、なんかとってもわかる。あたしはもらいっ子でママの遺伝子をついでないはずなんだけど、菩提樹の血だろうか。そういう性質が、DNAに書いてあるんだろうか。

おかげで、いまこの瞬間が夢なのかリアルなのか、ときどき、わからなくなる。自分が所属しているのは、現実のほうではないような気がする。

夢のほうが、ちかしいような。

わたしは“ひめ”に近づいているのか。

もうなっているのか。なりそうなのか。なってしまったら引き返せないのだろうか?

この迷いも、思えばなんだかまったく母と同じだ。母は十歳でもう迷っていたわけだけど。……おませさんだ! ていうか、わたしがばかなのか。年齢のわりに幼いのか。昔のほうが、こどもが早熟で、はやく成長したってこと?

なりたいかなりたくないのかを聞かれることがあるとしたら、わたしはどうこたえるのだろう? そのための儀式とか試験とか、なんかあるのかな。ちょっとうっとおしい。あたしは、勉強あんまり得意じゃないし、小学生のレイラちゃんみたいに真面目でもない。わたしなんかもしかすると“ひめ”失格なのかも。

なりたいかどうか決められないけど“失格”はやだな。情けなさすぎる。

そんなこんな考えてると――考えずにいられないし――、毎朝、父や母と顔をあわせるのがなんか気まずい。

ドキドキしながら部屋から食堂へ降りて行ったりする。

とりあえず、「おはよう」って、朝はふたりともいたってふつうで、「気をつけていってらっしゃい」って学校に追いやられる。いつものとおりだ。

なんか拍子抜けする。日常の生活と、「実は」の打ち明け話と、ずっと二重になってて、二重生活しているみたい。うまく擦りあわない。とりつくろってやりすごしている表面の下に、どこまで潜れるのかわからないほどの深いところがあって、底は見えない、みたいな。

第一、あんなへんちくりんな過去があったのに何食わぬ顔してやってくって、あのひとたち、すごくない? ごくふつうのひとのふりして世間にまぎれてきたわけだよね。パパも。ママも。いや厳密にいうと微妙にふつうじゃなくて、星海町でも、あのひとたちは変わってるって、言われてて、ちょこっとは浮いちゃってたりはするわけだけど。でも、菩提樹のひとたちとかみたいにアカラサマに毛嫌いされてるわけじゃないし、わたしだっていちおーつきだけど、みんなとうまくやれてますよ? それ、経験にのっとって、うまくごまかすようになったってこと?

おとなって、タフだなぁ。

っていうか、もしかして鈍感なの? 

なんか、わたしは心配でたまらないよ。わたしたちだって、いつ、菩提樹がそうだったみたいにここから追い出されないともかぎらないんじゃないの? そうなったら、どうするんだろう。

首をひねりながら歩いてきたので、駅で待ち伏せされていたのに気がつかなかった。隙を突かれた。

「星野さん。あなた星野磨翼さんよね?」

 改札の手前でいきなり肩をこじいれるようにしてぶつかってきて、わたしを止めて話しかけてきたのはよそのおばさんで、でも、しげしげ見るとかすかに見覚えがあった。ぽっちゃり丸い顔、かなり体格がいい。肩のあたりで切り揃えて片方耳にひっかけた髪。紺色のパンツスーツ、ベージュのトレンチコートをはおってる。なんとコートだ。この季節に! 今日って、雨とか降るんだっけ? 

「そうですけど……なにか」

「槙野です。晴彦の母です」

 ああ! まきのはるひこくん。昔、わたしに、執着していたあの大柄で力持ちの彼のママか。そうなんだ。だったら、なるほど。参観日とかに、偶然、廊下とかで、見かけたことがあったかもしれない。

 そのひとが、急に、どうしたんだろう?

 おばさんの顔は血の気がひいて真っ青で、せっぱつまった目をしている。なんか、ぶるぶる震えてるようだ。寒いの?

「あの子を、晴彦を見てない?」ぎゅうっと、コートのあわせめを握ってる。手の関節が真っ白くなるぐらい。

「いえ、見てませんけど」

「じゃあ、いいわ。ごめんなさい」

さっさと歩きだしたかと思うと、おばさんは、くるっとふりむいた。

「わたしのせいじゃないから!」

 え?

「これでも、できることはした! がんばったの!」

 いいけど。なんでわたしにそんなこと怒鳴るの? あなたいわゆるへんなひと? それとも……

 なんかものすごくせっぱつまってる?

「あ、待ってください。ちょっと!」

 呼び止めようとしたけれど、おばさんは顔をゆがめて、通勤のひとたちの流れに突っ込んでいった。ベージュのコートの背中、脇腹のあたりが汚れている。チョコレート色のしみがある。なんだろう、あのしみ? と。がくん、って、急におばさんの頭の位置がさがった。膝がカクンってなったみたいに。そして、ぐずぐずっと、床に落ちる。

「なんだ?」

「おい、誰か倒れたぞ!」

「駅員を呼べ!」

 やっかいごとから逃げようとするひとと、困ってるひとを助けてあげようとするひとが交錯した。様子をみようとしゃがんだひとが、うわっ、ってのけぞる。きゃあああっ、と悲鳴があがる。血よ。すごい血よ。このひと、刺されてる!

 

 

 

 灰色のフードをかぶった人影を見て、ああ、そうか、これが三度めの正直だ、と思う。

 槙野美弥子は、これまでの人生で二度、死のうと考えたことがあった。

最初は晴彦が三歳になったころだ。あまりに手を焼かされ、ほとほと疲れ果てた。

こどもには反抗期があり、育てるのがむずかしい子もたまにいる。ママがストレスを感じて不機嫌になると、こどもは凸レンズのようにその感情を増幅させ、余計にしまつにおえなくなる。まじめで完璧主義のおかあさんほど、追い詰められてつらくなる。だから、できるだけ手抜きをして、のんびりかまえなさいよ。親切にアドバイスされればされるほど、グチもこぼせなくなった。

槙野美弥子の夫は病院の職員で、勤務先は星海誠快病院、地域でもいちばん設備が整った総合病院だった。親子は職場のすぐ裏手にある社宅アパートに住んでいた。となり近所は病院関係者ばかり。赤ん坊をおぶって出かける先でも、まちがいなく知り合いにあう。徒歩でいける範囲には、誰にも見られずひとりになる場所などどこにもなかった。きついお母さん、あれじゃこどもがかわいそうね、と、ささやかれていたと思う。

みんな晴彦がむずかしい子なのは認めたが、よくあることで、たいして特別ではない、深刻になるな、と言った。こどもが思い通りにならないのなんてあたりまえ。しかたない。誰もが通ってきた道なんだから。もう少しがんばってみて。そのうち、きっとなんとかなる。

そうなのか? 世の母親たちは、みんな、こんな拷問のような日々に平気で耐えてきたのか?

宇宙人かと思うような意味不明なことばをひとりでしゃべり続けるのも、おもちゃや食事が気にいらないと壁に投げつけるのも、言い聞かせれば「うん、わかった」と殊勝にうなずいてみせるけれども少しも反省はしておらず、ただウザイなはやく説教やめろと思っているだけ、わかったと言えば終わるスイッチがはいるはず、そう思っているだけ。そういうことを、全部、美弥子はずっとひとりで耐えている。この上さらにもっと耐えろというのか。

中でも困ったのは性的な関心の高さだ。晴彦はふと気がつくと手をパンツに入れている。性器をいじっているのだ。実のところ、そうしてくれているとおとなしくて、手がかからなくて助かるのだが、ほうっておけばいつまででも、もぞもぞ手を動かしつづけている。ぽっかりうつろな顔で。よだれを垂らさんばかりに。その顔を見ると、美弥子はゾーッと背筋が寒くなって、がまんできなかった。なんとかやめさせようとした。夢中になっているところを腕をつかんで無理にやめさせると、癇癪をおこしてキーキーいう。高くぶらさげて揺さぶった。恥ずかしい。みっともない。そんなこと、もうぜったいやっちゃだめ。こんど見つけたら、おちんちん、はさみで切っちゃうから! 言ったとたんしまったと思う。実行できない脅しはしてはいけない、逆効果だと育児本に書いてあった。親が率先して平気で嘘をつきその結果を誤魔化してみせることになるのだからと。だが、じゃあ、いったいどうすればいいのか。なにを言ってきかせても、聞きゃしない。またいつの間にか同じことをしている。叩いたぐらいでは懲りないので、ものさしでぶった。痛い目にあわせれば治るかと思ったのだが、だめだった。ただ隠れてするようになっただけ。うそをつき、ごまかし、親の目を盗むのがうまくなるばかりだ。

しかたがないので、晴彦の手を紐で縛って自由にならないようにした。怒り狂って暴れ、隣近所に聞こえる声でわめくので、これではまるで虐待しているように思われてしまうではないかと冷や汗が出る。しかたがないので、声をもらさないよう、さるぐつわをかませ風呂場にとじこめた。懲りてやめてくれればと祈るばかりだった。なのに、その状態を、ある時、たまたま何か家に取りに戻った夫に見つかった。夫は仰天し、美弥子を罵倒した。口封じや呪縛をほどいてやり、泣きべそをかいてみせる息子を抱いてよしよしとなぐさめてやり、おお、かわいそうにかわいそうに、なんてひどいおかあちゃんなんだといった。おまえは鬼か、こんな小さい子が、ちょっとぐらいいうことをきかなかったからって、なんでこんなひどい目にあわせなきゃならないんだ。この子のこころに、消えない傷がついてしまうじゃないか! 怒鳴る夫の背後で、自由になった息子は、さっそくパンツに手をいれてさわりたいところを好きなだけもぞもぞしてホ〜ッと和んだ顔をする。

もういい。わかった、なら、死んでやる、と思った。

あんなこと、わたしだって、したくてしてるんじゃないのに。どうにもならないからそこまで追い詰められてしまっただけなのに。そうまでせっぱつまっているということを、どうしてわかってくれないの? それなのにわたしを責めるのなら、こんなわたしのほうが悪いというのなら、消えてやる。いなくなってやる。あんたひとりでそのヘンタイな子を抱えて途方にくれるがいい。わたしがどんなに恥ずかしかったか、がまんしていたか、いっぱいいっぱいだったか、打ちのめされていたか、なのに、必死に必死に戦って、ぎりぎりまでがんばっていたか。それでわかればいい。はじめてわかって、後悔すればいい。 

病院の屋上から飛び下りるつもりだった。

むろん、夫の勤務先だ。

かけあがった屋上には洗濯物がへんぽんとひるがえっていた。ぴんとはったロープに真っ白なシーツが何枚も何枚もかかっていて、空はよく晴れて真っ青だった。シーツが風に揺れると、洗剤のよい香りがした。この世界はなんて整っていて、きちんとしていて、清潔できれいなんだろうと思ったらとめどなく涙が出てきた。わあわあ声をだして泣き、しゃがみこんで泣きつづけた。夫も息子もこなかった。きやしなかった。誰もさがしにきてくれなかった。誰にも、必要とされていないのだ。

そう思うとなおさら動けない。

もうどこにもいけない。

夕方、寒くなりかけたころ、洗濯物をとりこみにきたよその奥さんが発見してくれた。こわばり冷えきったからだをお陽さまをたっぷり浴びてほかほかになった毛布にくるんでもらい、なにがあったの、良かったら愚痴ってみない、やさしくほぐされるように話をきいてもらい、いっしょに泣いてもらった。

現実的に役にたつようなことはなかったけれど、それでせめても少しはなぐさめられ、いますぐ死ぬのはとりあえずやめることにした。

その奥さんの息子さんは、晴彦と同年代で、なにかの事故にあって、集中治療室からずっと出られないのだという。余命何日といわれたが、とりあえず、何週間か、そのまま生きているのだという。意識は一度ももどらないそうだ。突然そういうふうになられることを考えてみれば、性器をいじるぐらい、ぜんぜん大したことじゃないかもしれない。槙野美弥子はそう思った。はじめてそういう観点にたった。なまじうるさく禁じるからかえって愛着して、したがるのかもしれない。そもそも、あの子の性器で、わたしの性器ではない。自分のものなんだ。好きにしてどこがわるい。ほうっておこう。好きにさせよう。見なかったことにしよう。きっとそのうち飽きるだろう。

美弥子はこころに頑丈な蓋をかぶせた。見れば不愉快になることや、文句をいいたくなるようなことは、そもそも見なければいい。気にくわないことは考えない。ないことにする。そうでなければとうてい耐えられない。自分がなんとかしなければならないかのように思うから、責任を感じて苦しくなる。どうせどうにもならないんだから、気にするのをやめてしまおう。暇をもてあますから余計なことを考えるのだ。美弥子はパートに出ることにした。

求人の出ていた近所の飲食店の厨房にはいり、やがて、接客も担当するようになった。その場かぎり見知らぬお他人さまに笑顔で愛想をふりまくのは簡単なことだった。そういうときは、感じのいい自分でいられる。給料をもらったので服やアクセサリーを買った。平日は午前中から夜遅くまで働きに出た。狭い家であの息子とふたりきりでなどいたくない。そういう時間は、できるかぎり少なくするにかぎる。幸い社宅にはさまざまなシフトの職員たちに対応して、こどもを預かってくれる制度があった。おじいちゃんおばあちゃん世代が見守り役をし、小学生は宿題をすませ、ちいさな子たちを遊ばせる。晴彦がそこでどうやって過ごしていたか美弥子は知らない。関心をもたなかった。なにも耳にも目にもいれないようにしてきた。文句を言われないなら、ほうっておけばいい。問題がおこらないならそれでよかった。

やがて晴彦は小学校にあがる。知能はそれなりに高いほうだったが、クラスメイトとはあまりうまくいかなかった。ものごとの加減がわからず、しじゅう他の子と衝突し、自分の思い通りにならないとすぐに焦れて癇癪をおこす。いじめられなかったのは、からだが大きくて、力がつよかったからだ。クラスの子や上級生と何度も揉み合いになり、多少の怪我もした。相手の親に呼び出され詰問されたこともある。どっちもどっちじゃないんですか、うちの子だって骨折しかかったんですよ。喧嘩は両成敗でしょう、愚鈍なふりをして、のらりくらり対応していれば、相手が根負けした。

ほらやっぱり。困ったことがあっても、そんなものがないふりをするのがいちばんなのよ。悪いことがあるかもしれないってなまが考えるとそれを引き寄せるんだわ。もっとポジティブに考えよう。大丈夫、大丈夫。わたしは幸福。

学校は遠回しに支援学級に籍をうつすことを提案してきたが、問題はけっして直面しないことに決めた美弥子にはそれこそ全くありえない選択だった。まあ、そんなとんでもない。特別扱いなんかしていただかなくてけっこうです。うちの子はちょっとぶきっちょですけれども、大丈夫、いい子ですし、なんとか自分で自分のめんどうをみることができますから。

ほどなく、看過できぬ事件がおこった。晴彦は、あんな体つきなのに、可愛いらしいものが好きで、ロマンチックなものが好きで、ピンク色のものやリボンやハートや女の子が好みそうなものが好きで、なかでも、きゃしゃで美人で内気な女の子が好きで、好きなものは欲しがる。強引にでも、自分のものにしたがった。気にいる子を見つけると夢中になった。授業そっちのけで追いかけた。いやがられてもしつこくつきまとい、話しかけ、やたらにべたべたさわりたがった。とうとうある日、下級生の女の子をトイレにおしこんだ。誰にもじゃまされないところで、キスをし、抱きしめ、自分の性器を出してさわらせようとした。内気でおとなしい相手の女の子もさすがにいやがって、抵抗したらしい。さからわれると、晴彦は逆上する。思い通りにならないと、暴力をつかってでも、なんとかしようとする。拘束したり、殴ったり叩いたりすれば、こちらのいうことをきくにちがいないと思う(まさに美弥子が、気にいらないことをするのをやめさせようとしてそうしてきたことの忠実な再現だ)。悲鳴を聞いて駆けつけた教師がやっとのことで引き剥がした。

女の子は怪我をした上、ショックで熱を出した。どうしてくれるんです。うちの子のこころの傷は一生消えませんよ。男の人に恐怖心を持つようになってしまったかもしれない。ふつうの恋愛とか、結婚とか、できなくなったかもしれない。あなたに責任とれますか。校長室の床、わめきちらす女の子の母親の足元に無言でただただ平伏し、土下座しながら、美弥子は、ああもうこんどこそ本当に死ぬしかないと思った。

無視しているだけでは、だめだった。問題がないふりをしても、通用しなかった。晴彦はいずれ犯罪者になる。手のつけようガなくなる。その前に、殺して、わたしも死のう。

カウンセラーがはいり、病院が紹介され、検査をして診断がついた。脳にちょっとひととは違ったくせがあるらしい。ほらやっぱり。と、美弥子は思った。わたしのせいじゃなかったんじゃないの。育てかたをまちがったからじゃないわ。生まれつきなんだわ。

ですから、彼の特徴をよく理解して、こちらがうまく対応しないといけません。カウンセラーはなんでもないことのようにいった。彼独自のものごとの受け止めかたを予測して、きちんとわかるように、社会生活に適応できるように、こちらからさまざまな働きかけをし、理解をうながす工夫をしていく必要があります。美弥子は気が遠くなるような気がした。ここまでくるのもやっとだったのに、まだなのか。さらに新しい努力を要求されるのか。

アドバイスされるままに、支援学級にうつった。それがよかったのか、処方された薬がきいたのか、晴彦は目にみえて落ち着き、扱いやすくなった。

それでも、美弥子の胸の底にはぬぐえぬ不信感があった。これで解決? ひと安心? そんな簡単なことなはずがない。甘い考えをもっていればいずれ足をすくわれる。そう思うのだった。

晴彦は治ったのではなく、変わったのでもなく、ただ、ごまかすのがうまくなっただけなのではないか。隠しておいたほうがいいものを無理に抑えこんでいるだけではないか。皮膚一枚はがしてみれば、下には、きっと、怪物がいる。どろどろのマグマが煮えたぎっている。それは死なない。消えているように見えていても、その間中、エネルギーを溜め込んでいる。

いつか噴出する。

晴彦はこのころから、ヨットパーカーを好んで着るようになった。父親のおふるのグレイの一着をなるげなくはおってみて、とても気にいったのだった。気にいると、飽きるまで延々と執着するのはいつものとおり。

父親のものだったから、サイズは体格に対してずいぶん大きかった。その大きなパーカーのフードを深々とかぶってテレビの前でうつむいていると、むくむくした灰色の布のかたまりのようだった。パッと見にはそこにひとがいるとわからないぐらい気配がない。顎先しかのぞかないので、表情がまったくうかがえない。両手を深々とポケットにいれ、猫背になって、そうしてただ座っている。何時間でも。

ポケットの中に、いつのころからか、なにかがはいっているらしかった。そのなにかを息子はいつもいつも指先でさわっているのだった。性器いじりのかわりだ、と美弥子は思った。禁じられたことを諦めたかわりに、やめたかわりに、別の愛着を見つけたのだ。まぁ、しかたがない。ポケットの中になにかをいれて指先で常にいじっているからといって、とがめることができようか? 誰に迷惑をかけるでもなし。どうでもいい。でも、そこにはいったいなにがあるんだろう。いったいなんだろう? なにをさわっているの? ほんの少し気になった。

パーカーは何日も何日もずっと着つづけられた。洗濯をする必要があった。脱いでちょうだいというと晴彦はよせやめろいらねえじゃますんなほっとけと暴れた。とりあげられることを恐れるあまりだろうか、昼も夜も就寝中もそれをまったく脱がなくなった。そのまま風呂にもはいらない。さすがに垢じみて匂ってきた。

美弥子はそっくりな灰色のパーカーを買ってきた。わざと、いまのと同じぐらいの、ぶかぶかのサイズのものだ。お願い、一度、こっちに着替えてちょうだい。洗って乾かしたら、すぐにかえすから。フードの下の暗がりからよどんだ片目をのぞかせた息子は、なんだよそれ、と、シシシと笑った。ふうん。いいじゃん。そしてポケットからそうっと手をだした。なにかをこぶしの中にしっかりと握りしめたまま。顔の前につきだし、ためすように母親の顔を見上げる。見たいんだろ? というように。美弥子が顔をしかめると、晴彦はぱっと手をひらいた。開いたてのひらに、石があった。ただの路傍の石。

母がほうっと息をつくと、晴彦はもう一度シシシと笑った。そう、彼は鋭い。彼はばかではない。彼はわかっているのだ。母がなにをしたがっているのか。なにを疑問に思うのか。そして、それをからかうのが、嬉しくてたまらない。母の魂を揺すぶるのが、平穏な気持ちのじゃますることができるのが、得意でたまらないのだ。

注意を惹くことは支配することだから。

いいよ。どうぞ。洗って。古いパーカーを脱いで床におとして足でこっちに蹴る。洗濯していいよ。俺はそれ、もういらねーから。捨てちゃってもいいよ。

そうして、突然、裏切る。

こちらの思い込みを、突き放す。

だが、おずおずと洗濯をしてもどすと、やはり愛着があったのか、また着こんでいる。

晴彦は学校が好きだ。学校にはちゃんと行く。熱心に行く。授業中は、自分の席で、あのフードをかぶってじっとしている。ポケットの中のなにかを指でさわりながら、長い時間をつぶしている。

そんなふうに殻に閉じ籠もって、いったいなにを考えているのか。

やがて思春期になり、おとなになる。こころがどうであれ、からだは、おとなの男になる。このままおとなになっていいのか。だいじょうぶなのか。

美弥子は不安を訴えたが、夫には通じなかった。なにいってんだ。前とはちがうじゃないか。よくやってるじゃないか。がんばってせいいっぱい努力してる。信じてやれよ。そもそもあいつが精神的に不安定なのは、母親がおかしいからだろ。おまえが冷たくて批判的で、ちゃんと愛された実感がないからじゃないのか?

そういう夫は考えてみれば息子とそっくりだ。他人と協力しあうのが苦手で、自分の考えに固執する。否定されたり、じゃまされたり、からかわれたりするとすぐカッとなる。ささいなことを根にもち、復讐を企てる。自分はけして悪くない。自分はかならず正しく、間違っておらず、悪いのはいつも周囲の誰か。あるいはこの時代。あるいはこの社会。程度はともかく、傾向はいっしょだ。つまりジコチュー。

美弥子は言いたいことを飲み込んだ。ご近所に夫婦喧嘩の声などきかせるわけにいかない。他人から好奇や哀れみの目でみられるなんてごめんだ。ぜったいにいやだ。

日に日に大きくなってゆく息子も、なにもかも自分に押しかぶせて知らん顔の夫も、美弥子にはすでに他人以上にうっとおしい、どうでもいい存在だった。家庭は心休まる場所ではなく、家族はこころから大切に思う存在ではなかった。なのに、どちらも、日用のこまごまとした世話をいつも美弥子に負う。なんでも彼女にしてもらおうとする。どうしてこのふたりを、食べさせ、眠らせ、居心地よくさせてやらなくてはならないのか。一年三百六十五日、延々と接待しつづけなくてはならないのか? 外で同じようなことをしたら、それは仕事なのに。お手伝いさんだって、料理人だって、掃除婦さんだって、それなりの時給がもらえるだろうものなのに。

ああ、もういや。なにもかもいや。なにもいらない。なにもかも捨てて、ひとりになりたい、と、美弥子は思った。

晴彦の手が離れたら、わたしはきっと自由になろう。

離婚届けは何年も前にぜんぶ記入済で、タオルのひきだしの底にしまってあった。

晴彦が六年生の時。おもちゃ屋に行きたいというので連れていくと、女の子のおもちゃのコーナーにむかう。なんだろうと思ったら着せかえ人形の棚を熱心にさがす。あった! とうとうみつけた。長いまっすぐな黒髪のかわいらしい人形だ。制服のようなものを着ている。

これ買って。

めずらしくストレートに頼みごとをする。

そのお人形でなにをするの?

チラッとひっかかるものを感じたが、抵抗しなかった。言い争いになれば、めんどくさい。たいした金額のものでもなし。これで息子が喜び満足するならそれでいいではないか。黙って財布をだし、レジに並んだ。

それでなにをするのか。こたえはすぐに出た。翌日には晴彦の勉強机の横のくずかごから人形の裸足の脚がつきだしていた。特に隠そうとする様子もなく、無造作に、さかさまににつっこんであった。ひっぱりだして、美弥子はその場にへたりこんだ。人形は裸で、片腕だった。ひっこぬかれた肩の穴から、プラスティックの胴体のうつろな内側が見えている。人形の肌色の背中に、へたくそな字で、油性のペンで、MAHANEとかきなぐってある。

そういえば、少し前に担任から電話で連絡があった。晴彦が下級生の女の子の肘関節を抜いたと。わざとではなく、あくまでふざけすぎてのことで、まちがって、もののはずみだとは思いますが。ねんのため、お知らせはしておこうと。いえ、その子は、もう大丈夫です、すぐよくなりました。治療費とかそういうこともご心配いりません。でも、まあ、いちおう、そういうことがあったということだけは知っておいていただくほうが。

お詫びにいくべきなんでしょうかと訊ねて、いえいえ、それより晴彦くんもこんどのことではきっと傷ついたと思うので、よくなぐさめてあげてくださいといわれたのだった。悪気はなくても、小さな子は弱くて、こわれてしまう、だから、可愛がるのにも、うんと気をつけなくてはいけない。うっかり乱暴になんかしてはいけない。そんなつもりはないのに、痛い思いをさせてしまうからと。

すみません、そのお嬢さんのお名前をきかせていただいていいでしょうか。

マハネちゃんといいます。みがく、つばさ、と書きます。星野磨翼。二年生の子ですね。

ほしのまはね?

ああ、星野さん。

それは、あの、有名な、庶民にはまったく手のでないお高くとまったレストランの子だってことね。

みがく、はね。翼があるわけね。それをみがいているわけね。なんというキラビヤカな名前だろう。いったいどんな子なのやら。星野さんちの奥さんは、たいそうな美人だそうだから、きっと、そのお嬢さんも、ものすごくかわいらしい、天使のような子なのだろう。

ああ、きっと、晴彦は、きっとその子で。

――味をしめたに違いない――

 美弥子は立ち上がれなかった。

着せかえ人形の愛くるしく笑ったままの顔が脳裏にうかんでいる。きっとマハネちゃんという子は、このお人形みたいな、なんとも魅力的な可愛らしい顔をしているのだろう。

晴彦が執着するのも無理はない。目をつけたら、目がはなせなくなるのも無理はない。その子をかまってみたら、楽しかったのだろう。楽しすぎて、夢中になりすぎて、ちょっとやりすぎた。偶然、痛い思いをさせた。小さな華奢な女の子だ。腕を握られるぐらいのことでも、びっくりして、そのあまりに泣いてしまうかもしれない。思いきりギュッとつかまれたりしたら、きっととても痛かっただろう。抵抗できなくて、こわくて、わんわん泣いただろう。

好きな子が泣いた。

自分に屈して泣くのを見た。

可愛い顔をゆがめ、苦痛に身悶えして。

ああ、あの子は、歓びに目覚めてしまったのにちがいない、と美弥子はおもった。それを、もしかすると、恋と、いうことができるかもしれないけれども。

歴代のグレイのパーカーを洗濯するたび、ポケットから美弥子はおりおりさまざまなものをひっぱりだした。どんぐり。クリップ。アイスクリームの棒。ギターのピック。ねじとナット。タイルのかけら。晴彦が指でもてあそび、四六時中さわっていたもの。どうということのない、価値のなさそうなものばかりだ。他人が見ても、意味はわかるまい。ただのこどもがなにげなく拾ってしばらくポケットにいれていて、いかにもこどもらしいガラクタの宝物。

だが母は知っていた。それは想いだ。恋の象徴だ。ガラクタは、それぞれ誰かに――好きな女の子に――直結している。晴彦は誰かを愛撫しつづけているのだった。その象徴を通じて。かつて、おのれの性器を弄びつづけたように。そうしていれば心地よくて、そうしていないと落ち着かない。

そうしていないと生きていられない。

決まってる。

グレイのパーカーの右のポケットには肌色のプチスチックがはいっている。おりきった、人形の腕が、はいっているのだろう……。

あのときも、そう思った。

そう思ったものだったな、と美弥子は考える。あれは何年前? あれから何年たったのだろう?

いま、おそろしくひさしぶりに我が家に――自分のテリトリーに。それは、家族のいない、めんどうをみなければならない対象がいないひとりの彼女だけの場所という意味――灰色のフードをかぶった人影がたたずんでいるのを見つけ、長い隔たった時が瓦解し、間にあったはずのさまざまなことを一瞬のうちに回想する。

とめなきゃ。

母だもの。

あの子を殺して、わたしも。

 

だから、包丁はいつだってキレキレに研いである。

 

 

 

 槙野美弥子が倒れた地点は通勤通学客でごったがえしていた。救急隊員が到着し怪我人を担架に乗せて運び出す前後には、通り魔が出たらしいという間違った情報も流れ、あたりは騒然となった。駅員や警察が何人も出てひとびとを落ち着かせようとした。証拠の保全をはかろうにも、あたりは乱雑にメチャクチャに踏み荒らされていたし、居合わせながら面倒をきらって素早く立ち去ったものも少なくない。

 どうしようかなあ。

マハネは、正直、ためらった。このまま知らん顔をしてさっさと学校にいってしまったっていいかもしれない、とも思った。だがあの瞬間も、いまも、周囲にはおおぜいのひとたちがいる。

「被害者は、倒れる寸前、女子高生に話しかけていた」ということを、証言するひとがいるかもしれない。ここで逃げ隠れするとかえって困ったことになるかもしれない。そう思ったから、自分から申し出ることにした。

駅員をみつけて話してみると、そういうことは警察に言ってくれと頼まれた。制服警官を見つけて説明しかけると、自分ではわからないから上司がくるまで、ちょっとここでこのまま待っていてくれと言われた。しかたないから待った。だが、あまりにも長いこと、そのままほうっておかれた。その途中で、やっと、あっそうだと思いついて、携帯電話から学校に連絡をいれた。

すみません一年二組の星野です。いま鹿流の駅のへんなんですけど、ちょっと事故に巻き込まれてしまいました。ええと……いえ、電車の事故じゃなくて。ひとが刺されたんです。通り魔? いえ、たぶん、そうじゃないです。ちがうんじゃないかと思うんですけど、ごめんなさい、詳しいことはちょっとわかりません。わたし、警察のひとに事情をきかれないといけないんで、まだ動けないんです。ごめんなさい、遅刻しちゃうと思います。

事務室のひとが、大丈夫なの、気をつけてね、と言っているところで肩をたたかれて、電話を閉じた。こちらへ、と腕をつかまれ、白黒のパトカーではない車の後部座席にすわるようにうながされる。すぐに車が出る。

運転席と助手席にぱりっとした背広姿の男たち。どちらも無駄口をたたかない。車は駅前通りを抜け、バイパス方向へ飛ばす。あれ。へんだな。警察署はこっちじゃないのに。

「あの……すみません」

 助手席の若い男が、なにが、というように首を後ろに振り向けた。

「道、これであってます?」

 男たちは、前歯を見せて笑った。いやな感じだった。

「星野さんでしょ」

「磨翼さんだよね?」

 はい。

 その声のどこかが、なにか、へんだった。違和感だった。

 マハネのこころに警戒信号がともった。だが、車はもう走り出している。

しかめそうになる顔をこらえて、かすかに、うなずく。

「そう……ですけど」

「ふうん。さすがに可愛いね。夢見る女子高生」

「そんな顔で、あんなことができるなんてねえ。すごいね」

「きみも、あの海にいったんでしょ? もう一人前なんだ」

「ひめ、なんだ」

 やばい。やばい。これはやばい。どう考えてもやばい。

 でも、そう思っていること、そう気付いたことを、顔にだしちゃだめ。油断させておかないと、チャンスがなくなる。

「チャレンジャーって、聞いたことあるかな」

ああ、だめだ。心臓がドクドクいいはじめた。

運転席の男は両手にはめた白いドライバー手袋を、きゅっ、きゅっ、とひっぱりなおす。

「ごめんね。ぼくたち、それなんだわ」

 助手席の若い男がふりかえる。グレイのパーカーのフードをかぶっている。