yumenooto uminoiro   2016.7.11  

                                                                                Layla 8

 ヒロさんの部屋の扉は閉まっていた。

 しばらく、なんとなくその扉をじっと見つめてから、レイラはぶるっと震えた。向きを変え、そのまま、右手奥に歩いた。琴のある部屋。みんなで寝る部屋。最初にユメミと話をした部屋。

 誰もいない。ふとんもみんなちゃんとあげてあったから、がらんとしている。ひどく古くはないが新しくもない畳が、足裏にこまかな筋目の感触をもたらす。

 壁にさわる。漆喰の壁は冷たい。いつか蛾のいた窓に今日は雨だれが透明な抽象画を描いている。部屋の隅、壁と押し入れのあわせ目に近いあたりで、レイラは背中を壁にもたせかけた。壁はほんとうに冷たい。また涙が涌いてくる。なにも考えていないのに。なにも思っていないのに。レイラはタオルで目を押さえ、声を殺した。ずるずると壁を伝って座りこむ。

 背中にぴったりくっついた壁は、冷たい。

 だらりと垂らした両手の触れている、畳は、冷たい。

 窓越しに空が見えた。雨模様の暗く低い空。空の下には海があるはずだった。冷たい雨を受け止めている冷たい海。深い深い海……。

 知らず知らずのうちにまた涙が出てきて、顎まで伝い落ちた。

 レイラは頭を壁にもたせかけ、目を閉じる。

 

 なにが悪いの? とスミカは言った。

 ふつうになりたいと思うこと。自分の運命を自分で決めること。

 “菩提樹”の外にも世界はあるんだよ。どこまでも広がってる。“ひめ”なのは生まれた時から決まっててぜったい動かせないことだと思ってない? そんなことないよ。吹き込まれただけ。

 あたしたちはなんにでもなれる。じぶんの自由に好きなものになれるんだよ。

 逃げさえすれば。

 ここから出ていきさえすれば。

 そんな顔しないで。ヒガイシャぶるのはやめてちょうだい。だってあたしたちはトウジシャなの。ねぇレイラ、こっちを見て。耳を塞がないで。よく聞いて。賢いあんたならわかるでしょうに。とっくにわかっているでしょうに。知りたくないことに目をつぶったってなんの解決にもならない。傷つくのがイヤだからって麻酔してさっさと塞いで傷なんて存在なしなかったふりしたって、傷は傷。ちゃんとかわかさないと中で腐る。痛くても、カサブタ剥がして、膿をしぼらないといけないんだよ。

 コトバは聞こえていたけれど、意味がこころに届かない。どうして、どうして、と、思うばかり。よく知っているはずの顔が初めてであった見知らぬひとみたい。スミカは、いちばんの仲良しで、大事なともだちで、いとこだけど、姉も同然だと思っていた。誰より親しく、なんでも話していると。ほんとうの気持ちをいつも打ち明けあっていると。でも、そんなふうに思ってたのはあたしだけだったの?

 スミカがそんなこと考えてたなんて、ぜんぜん知らなかったよ……ずっと黙っていたんだ?!

 いつもひそひそ声で囁かれる“菩提樹”の名前。お伽話に出てくるお姫さまたちとは違うあたしたちの“ひめ”。パパのいない「可哀相な」こどもたち。クラスの他の子とまったく違う暮らしぶり。町じゅう学校じゅうのひとたちの遠いまなざし。

 そういうたくさんのものと向かい合って、でも、「そんなんじゃないよね」って、あたしたちのほうが素敵なんだから、胸はって生きてればいいんだよね、そうしようねって、昔、スミカ、たしか、あんたが言ったんじゃなかったっけ?

 逆らいたくない。喧嘩なんかしたくない。でも、うなずくことも、黙って聞いていることもできなかった。だから、あのまま、あの部屋にはいられなかった。あんなスミカのそばにいられなかった。

 コバヤシくんの顔が浮かんだ。

 ひょっとすると、スミカは、コバヤシくんに何か言われたんじゃないだろうか。ふたりで外の世界に出ていって、“菩提樹”じゃないとこにいって、ふつうのひとたちみたいなふりをして暮らしてみないか、とかなんとか? それは刺激的で、魅力的な提案で、でも、やっぱり怖い。ためらいがある。だから、あたしも誘ってみたんじゃ。

 直感としかいいようがなかった。だが、ふと、そう感じて……もし、そんなことなのだとしたら、金輪際知りたくないと思った。

 だから、急いで靴をはいて、雨を突っ切って、母屋にもどった。

 もどりはしたけれど……誰にも逢いたくない。顔を見られたくない。一番好きなスミカのそばにいられなくなって、どこに居場所があるだろう?

 しかたなく、そっと階段をあがって二階にきた。ヒロさんの部屋がしまっていたので、琴の部屋に行き、隅っこに座り込んだ。

 わからない。どうして“菩提樹”がいやなの? “ひめ”になりたくないの? どこがいけないの? ずっと、そうなるもんだと思ってた。いつかなれるんだと思ってて、嬉しかった。憧れてた。

 それに……あたし、もう、……なっちゃったかもしれない。なりかかってるかもしれないんだ。いまさら、なかったことにはできない。もとには戻れないかもしれない。手遅れだ。なのに、それが、とりかえしがつかない、いやなことなんだとしたら……?

 こわい目にあいたくないのに。

 “菩提樹”の外にいくらでも広い世界はある、スミカはそう言った。それはそうかもしれない。“外部”のことはよく知らない。きっと圧倒的に広い。すくなくとも、外にいるひとたちのほうが圧倒的に多い。最大多数の最大幸福。どちらが良いか正しいか数で決めるのが多数決。

 だからそのひとたちに溶けこまないといけないの? 数がとっても少ないものは希少価値って、大切にされて、ゼツメツしないように保護してもらったって、いいはずなんじゃ?

 邪魔だ、目障りだってだけで、いやがられるの? 毒や害があるわけでもないのに、ただ、見た目が気持ち悪いだけで、いやがられて、追い払われて、駆除される虫みたいに?

 悪いお妃が白雪姫を殺そうとするのは、白雪姫が可愛くて優しくてみんなが白雪姫のほうを好きになるからだ。負けちゃって悔しいお妃は、姫が憎らしくてならなくなってしまう。“菩提樹”はそうだと思ってた。なんにも悪くない。悪くないけど、素敵すぎるから嫉妬される。ねたましくて我慢できなくて、排除したくなる。目の前からどかすだけじゃなく、殺して、なくして、しまいたくなる。

 無理だよ。無駄だよ。どんなにがんばったって、そういうものとは戦えない。白雪姫がどんなにおとなしくしたって、いい子でいたって、悪いお妃は許さない。生きてることががまんできないんだもの。静かに隠れて棲んでるとこまでわざわざ探して追っかけてきて、殺そうとする。

 だから、あたしたちは、まとまっている。

 だから、あたしたちは、外部となるべく接触しない。

 できるだけ静かに、こっそり、目立たないようにして、いじめないでください、このまま、そっとここにいさせてくださいと願っている。

 あたしは、あたしでいたい。別のなにかになりたくない。このあたしのままでいたい。“菩提樹”のレイラでいたい。まさかとしをとらないわけにはいかないから、将来“ひめ”になるのが当然なら、“ひめ”になって、やくめを果たしたい。夢を歩いて水をそそぎたい。それ以外のことなんて考えてみたこともなかった。他になにができるのか。どうやって生きていけばいいのか、まるで知らない。

 冷たい。

 壁は冷たい。冷たすぎる。壁を離れよう。

 ああ、でも、離れると恐い。頼りない背中がすうすうする。薄着のしすぎなのかもしれない。夏なのに、このあたりは寒いから。まして雨の日は。なにか着よう。着て隠れよう。たくさんのヴェールのなかに、おりかさなる花びらの中に、閉ざされたままの扉の中に……隠れたい。もぐりこみたい。いじわるされないように。悪いひとにみつからないように。

 いつの間に持ちだしたのだろう、部屋の真ん中に蓋のあいた行李があって、樟脳臭い着物が何枚も何枚も広げられているのだった。広げたのは間違いなくレイラ自身の手だ。松村さんのおうちのひとの着物なのだろうか、悪戯してはいけないとわかっていたはずなのに。銘仙、絣、茜に黄八丈。ちょっと昔に娘さんだったひとのふだん着らしい和装の数々。何枚も何枚も重ねて羽織れば胸元にたちまち重なる色いろいろ。撫でる手指の感触が、こころをなぐさめた。ひとのつむいだ糸、ひとの拵えたかたち、だれかが過去に羽織ったぬくもり、すべての名残り。この一枚の布にかかわっただろう顔も知らないどこかの女性たち、大勢のそのひとの手の痕跡、他の誰でもないそのひとらしさのかたちのない積み重なりに、そっと支えてもらっているような気がする。よるべないひとりひとりのいのちのふしぎのかけがえのなさが、そっと、寄り添ってくれるような気がする。

 黒びろうどの掛け襟が首筋にあごにひんやりして、たたんでしまっておいた名残りのぺちゃんこさ加減は、いくらひろげてもふっくらしない。ほんのりあたたかかったが、いくら着ても着ても重ねても芯を凍えさせる悪寒は去らなかった。きっと素足がいけないのだ。裸足でいるから寒いのだ。レイラはキュッと曲がった指を丸め縮めこむようにしてからだの下に折り敷いた。

 畳の上に琴があって、既に弦もきちんと張られている。巾着袋の中からざらざらと掌に取り出したのは東京タワーの模型のようなかたちをした白っぽいものだ。琴柱[ことじ]、と、知らないはずの名前が脳裏に浮かぶ。弦を支えてたちあげて、音階にあわせて調節するものだ。指はなにをか心得て、馴染まぬものをひとつずつあるべき場所に嵌めてゆく。ツメは緩い。もっとおおきな、おとなの手にあわせてある。レイラのまだこどもっぽいちいさな指先から滑りおちてしまわないように、よくよくぎゅうっと押し込まなければならない。

 びん。

 弦をはじいた。

 びん……。びん……。

 一本一本、正しい音程になっているかどうか確かめる。

 これはハ長調でいうと何の音だろう、とレイラは思う。「ミ」かな? 絶対音感はあいにく、ない。

 だが何番目の弦がどのぐらいの音で鳴るべきなのか、どうやら指は知っているらしい。あるいは耳が。左手がそっと琴柱の位置を直す。

 奏でる音は思いがけないほど懐かしく、耳にやさしい。ふっくらと柔らかく、それでいて重く、ちょうど小さめの波が静かに寄せて重ねる白い泡のように、ある部分では濃くある部分では淡い。

 びん…………。

 強く弾けばふくらんだ余韻が長く嫋嫋と空に漂う。強まったり弱まったりしながらやがて減衰して消えていく音のその波のひとつひとつに耳をすまし目を閉じていると、音があたりに染みとおっていくのを感じる。広がる波形のその中心にかこわれて守られている自分を感じ、広がる波形のその裾野にかけてなにかが祓われ押しのけられていくように感じる。なにかイヤなもの。まがまがしいものが。

 ひとつ鳴らすたび、すうっ、とする。こころではっか飴をなめたみたい。なにかが清浄になっていく。なにかが正常になっていく。その昔、弓弦を鳴して怨魔を退散したことなど、知っているわけもないのだが。

 びぃぃぃぃん…………。

 すべての弦の音程を確かめ終える頃には、動揺も、スミカの張りつめた顔も、すっかりどこかにいってしまった。レイラはこんどは左手を正しい位置に添えて、やや前屈みになって構えた。どうするべきなのか、ちゃんと知っているかのように、指がしぜんとつまぐりだした。ゆっくりとしたメロディ。

 ろばさん。ろばさん。とことっと。

「……その曲……」

 顔をあげるとヒロさんがいた。廊下に立っていた。

 琴の響きを聞いて、びっくりして出てきたのだろう。

「ごめんなさい!」

 レイラはあわてて跳ね起きた。いったいなにをしているんだろう自分は。ああ、琴やら着物やら、こんなにやたらに部屋じゅうに広げてしまった。よその家のひとの大事にしまってあったものを勝手に持ち出して、こんなにさんざん散らかして。

「すぐ……すぐ片づけます……!」

 あわてて立ち上がろうとして、纏っていた着物の裾に躓いた。慣れぬ正座に足も痺れていたのだろう。ガクリと前のめりに倒れかかり、右手に嵌めたままのツメが琴の弦をざぁっと撫でて、からくり箱をあけた時のような、こんけれれん、と乾いた音階を作った。余韻が消えれば、あとにはざぁっとただ降りしきる雨の音。

「ごめんなさい」レイラは重ねて言った。「こんなことして……ちゃんともとに戻しますから」

 ヒロさんは怪訝そうにちょっと眉をしかめたが、やがて、べつにいいわ、と笑った。

「壊したわけじゃないし。いいのよ。かまわないわ」

 その婉然と悪戯っぽい優しい微笑を、まともに見ているのがつらかった。胸がひどく高鳴って、顔が赤らんでくるようだ。どんな顔をしていればいいのかわからなくて、レイラはそっと目をそらす。どうしよう。言ってみようか。スミカのこと。“ひめ”になりたくないだなんて。“菩提樹”を裏切るような、家出の誘いみたいなこと言われたなんて。でも信用して打ち明けてくれたかもしれないことを喋ってしまうなんていやだ。……スミカは本気じゃないのかもしれない、ただちょっとあたしをためすつもりでからかうつもりで言ってみたのかもしれない。それを真に受けてさも重大そうに言いつけたりしたらオオゴトになっちゃう。ああ、そうよ。きっとそうだわ。スミカは案外皮肉屋だから、ちょっとひっかけて言ってみただけなのよ……オクテのあたしにあきれて、もっと怖がらせようとして、わざと、こころにもないことを。

「まぁまぁ、久しぶりだこと」

 ヒロさんはすたすたと足さばきよく入ってくると、少しもギクシャクしない優雅な所作で、さっきまでレイラのいたあたりにすとんと座った。山なす着物を大急ぎで脱いでせめて別々に仕分けていたレイラがまだはめていたツメをはずして手渡すと、かすかにうなずいて、ひとつひとつキュッキュッと指先に滑りこませながら、そっとじっと琴を見下ろす。

 ぽん。

 ヒロさんの手がいとを弾く。さらに美しい音が出た。

 一音、二音、たしかめるように鳴らすと、ヒロさんは静かに前のめりになり、何かの曲を弾きはじめた。とぎれがちに囁くような、つぶやくような、ほんの少し恐ろしい物語を語る時の、お話のおねえさんの朗読の声のような。

 峰の嵐か松風か、訊ぬるひとの琴の音か……。

 たちまちレイラの頭のどこかをここではないいまの、過去の未来のなにかの記憶がかすめて通る。平家物語。こごうのつぼね。外は雨。

 琴は鳴き、琴は歌う。ゆったりと胸に染み込むようなその調べ。息も殺すようにして聞いていると、やがて曲が終わり、沈黙が落ちる。沈黙に雨が降り込み、ひたひたとなにかが潤ってくる。レイラはかすかに我にかえる。それでまた、バカみたいに放心しきって、ぼうっとしてしまっていたことがわかる。あ、着物。ちゃんともと通りにしたいのだが、和服の畳みかたがわからない。折り目のついているところを辿ってなんとかなるだろうか。きちんと間違いなくやらないと、元のようなぺたんこにはできないのに……。

 また別の曲がはじまった。こんどは少し速い曲。さっきより少し難しそうな曲。ヒロさんの眉の間にキュッと力が入っているのは集中しているからだ。じゃまをしないように片付けてしまわなきゃ。自分にできるだろうか。もとのとおりにしまえるだろうか。ああでもちがう、わからない、こうではない、そうでもない。まごまごする手に、ふと手が重なり、見ればマツエさんが横に膝をついている。ハッとするレイラにひとつコクリと合図をするようにして、着物をあずかってくれた。

 背中心を向こうに、胸元も平らにきちんと伸ばしておいて、襟を整え、袖を揃え、重ねて折って、まず袖を折り、腰を折り……。ゆっくり、ひとつひとつ、確実に。見本をやってみせてくれた。

 なるほど! そうすればいいのね。レイラはうなずいた。

 どちらも口を結んだままだ。琴はまた別の旋律を奏ではじめている。レイラも真似をしてみることにした。一枚の着物を畳に伸ばす。こんなふうに置いたかしら? 見慣れないし、ちょっと難しい。こうだったかしら。うまくできない。わからなくて手をとめていると、マツエさんがちょっと振り向いて手を伸ばしてなおしてくれた。

 どうにか畳めた着物をひとつ行李に戻したところで、さらに次のものを手に取ろうとしたら、スミカがいるのに気付いた。ごめんね、とスミカの目が言う。ああ、良かった! なぁんだ。いつものスミカじゃないの。ちゃんとあたしを見てくれた。笑ってくれた。だったら、いいよ。もう。平気。なんとかがんばって笑い返す。こっちこそ、パニックしちゃってごめん。

「どこにもいかないで」

 囁き声というにも小さい、口の動きだけみたいな声でそういうと、スミカは、ちょっと笑って、それから、ギュッとレイラの手を握った。

 だいじょうぶ。

 あたしたちは、あたしたち。

 あたしたちのままだから。

 女たちは背中を並べ、畳の上に両手をついて、いくかさねも何色ももつれるようにして広がっている美しい布たちをひとつひとつきちんと畳んでゆく。三人で。ひとつずつ。樟脳が薫る。雨がまた強くなる。

 琴の音色に呼ばれたか、そのうちに、ヒトシも、双子も、ナルミちゃんも赤ん坊もやってきて、揃って静かに聞いた。そんなふうに集まってみんなで静かにしていられることがなんだかひどく嬉しくて、胸が詰まる。

 笑い声をあげてはしゃぐような喜びでなく、こんなしみじみとした幸福もあるのだ、とレイラは思った。床の間のある部屋にこうしてみんないて、満たされていた、こんな時間。いつか、思い出すことがあるだろうか。大好きなひとたちがみんないたことを。欠けなくそろっていたことを。ひとりひとりがここにいて、それが特別じゃなく、とってもふつうみたいだったことを。

 蛍が宵に輝いて光のことばでつぶやいていたのを思い出す。ちっぽけだけど、いるよ。ぼくは、ほら、ここにいるよ。ここにいるよ。ここにいるよ……。

 やがていつの間にか観客の増えたのに気付いて驚いたヒロさんがちょっと眉をあげて姿勢を正し、『荒城の月』を弾きはじめた。双子にはそれでも難しすぎたようだ。『ちょうちょ』なら一緒に歌えた。『さくらさくら』でも。

 曲の途中で、ハッとした。

 ヒロさんが弾いている。ユメミが覚えたがっていた、『さくらさくら』を。

 ねぇ、聞こえる? あのお琴で、弾いてるよ、ユメミ!

 思い出したとたんに、ユメミに気付いた。ユメミは、双子の前に座っている。体育の時みたいに三角座りをして、両手を膝に乗せて、じっと耳をすましている。いつになく神妙な顔付きでじっとヒロさんの琴を聞いている双子たちは、だがまったくそれを気にしていないようだ。スミカもヒトシも。誰も驚かない。騒がない。

 ひょっとすると……この子はやっぱり幽霊なのか。あたしにしか見えないんだろうか。こんなにくっきり見えているのに、ほんとうはここに居ないのか。ただの空想の産物なのか。あたしは目が……それとも頭が? ……どうかしちゃったのだろうか。

 『さくらさくら』が終わり、『なかよしこよしはどこの道』になった。ちょうど着物もみな仕舞い終わった。

 良かったね。『さくらさくら』聞けて。

 そっと隣に腰をおろして顔をうかがうと、ユメミは半透明な顔をこちらに向けて、ちょっと、照れたように顔をクシャッとさせた。

 こないだはごめん。

 うううん。こっちこそ。

 ユメミの手に手を重ねようとすると、ひやっとして、擦り抜けた。

 ――ウユルがね、よろしくって言ってたよ。びっくりさせて、ごめんって。またいつか逢おう、って。

 ふうん。そうなんだ。

 ――レイラはまだ、準備ができてないんだってさ。

 なんの準備?

 ――いろいろ。

 と、ユメミは言った。

 ――あたしたちがいつかわかること。たとえば、生きることと死なないこととは、かならずしも同じではないってこととか。

 ……なにそれ。へんなの。意味わからないよ。なにいってんだかぜんぜんわかんないよ。

 ――うん。そうだろうね。

 ユメミの指がレイラの前髪をそっとなでつける。ふうわり、風のような感触で。

 ――だから、まだなの。まだそれでいい。

 あんたはそのまんまでいいの。

 

 

 

 翌日にはその雨もあがった。

 午前九時すぎ、いつものように文房具屋でパラソルなどを受け取って浜に出ると、見知らぬ若者たちがいた。いつも“菩提樹”が陣取っていたあたりで、毎日つかっていた焚き火の痕をちゃっかり使って焚き火をして、コーラやビールをまわし飲みしながら笑っていた。大きなラジオから派手な音楽を大きな音で鳴らしていた。

 こどもたちは無言のままに立ち尽くした。双子など、はやくもべそをかきグズりはじめた顔で、相手を睨み付けている。フクちゃんが、担いできた荷物をその場におろし、どうしましょう、というようにヒロさんを見つめた。

 ヒロさんは黙って肩をすくめた。少し考えている。

 トランプが走っていって、わん、と吠えた。宣戦布告だ。

 笑い声をあげていた誰かがびっくりしてトランプを見て、それから、こっちを見て、あれ、というように目を瞬いた。

「あ、そっか。ここ、誰かが使ってるとこだったんだ」

「すみません」

「おい、立てよ、どこう」

 機敏に立ち上がった若者たちはみんな男で、六人いた。ほとんどがいま流行りの長い髪をしている。学生だろうか。

 アロハシャツや海水パンツの柄、Tシャツの袖を肩までめくりあげている感じ、女性用みたいな麦わら帽子をちょこんとはすかいに被ったところ、まだ新しい色をしたゴム草履などが、なかなかに洒脱で、裕福そうだった。ひとりは大きくて金色の水につけてもだいじょうぶそうな時計をしているし、ひとりはサングラスを頭にさしている。首にインディアンのように貝殻細工のネックレスをかけているひともあった。いなかの若者ではない。どこか大きな町からやってきた、よそのひとたちだ、とレイラは思った。

 みんな、よく陽にやけているから、ひょっとすると、あちこちの海水浴場でキャンプしながら旅行しているのかもしれない。そういえば、雑木林の横に見慣れない車が二台とめてあった。ナンバーまでは見なかったが。あのクルマの新しさときれいさは、ここらの地元のものではなさそうだった。

 大学生といえば、女の子と、グループをつくって、スキーをしたりテニスをしたり、遊びくらしている印象があった。男のひとばかりでなにをいるんだろう?

「かまいません、こちらこそ。よかったら、そのままどうぞ」ヒロさんは言い、すたすたと歩みよった。「どちらからいらっしたの?」

「俺は湘南のほう、こいつは東京で」言いかけた、いちばん髪の長い、金色の時計をはめたのひとが、あわてて口の端にくっついていたタバコをひっぱがして焚き火に放り込んだ。「俺たち栄泉大学のヨット部なんです。釜石市のほうで、元国体選手の先輩と強化合宿してたんですけど、やっと終わって。シゴキから解放されてそのままあわてて戻るっていうのももったいないので、ちょっとぐらい居残って遊んでいこうぜってことになって」

「ここ、とってもきれいですね」アロハの前をはだけたひとが、時計の彼の横にくっついた。「どうしてここだけ、こんなに砂が真っ白なんですか?」

「さぁ、そういえばどうしてなのかしら」

 ヒロさんは振り向いて、フクちゃんを見た。フクちゃんは答えず、別のことを言った。

「おまえら、ウニを獲ったろう」

 細く眇めた感情をこめない瞳でじっと見つめられて、六人はサッと緊張した。まずいな、とつぶやいたのが誰か。あわてて立ち位置をかえ、背中に何かを隠そうとしたものもあった。どうしたらいいか知ろうとするように、他の仲間たちの顔をのぞきこむひと。麦わら帽の細いのが、しゃがみこんで、音楽を留めた。

 なるほど焚き火の横に、中身を抉り出されたウニの殻の真っ黒なイガグリみたいな姿がいくつか落ちている。いくつかにはスプーンが、ひとつには殻を割るのに使ったのだろう銀色のナイフがまだ刺さっていて、明るい陽光のなかでイキイキと輝いていた。

「そっか。漁業権とかあるんだ。俺たち密猟……したことに、なるんですかね」金色の時計のひとがつぶやいた。

 フクちゃんはむっつりと黙ったままうなずいた。

「みつりょ、ってなに?」ひとをはばからぬトーンの声でミキヲが訊ね、

「とっちゃいけないとこで、とっちゃいけないものを、とること!」ヒトシがわざときっぱり答える。

「じゃあ、あのひとたち、どろぼう? わるいひとなの?」

 ノリヲもいとも無邪気そうに訊ねてみせたが、誰も答えなかった。レイラは半ばウンザリし、半ば舌をまいた。双子たちめ、無邪気なこどものふりをして、わざと焚き火占拠犯たちを、申し訳ない、いたたまれない気分にさせようとしている。

 ずっとひとりじめだった美しい白砂の浜を知らない連中と折半しなければならないのは確かにちょっと不快で、脅して追い返せるものなら、そのほうがいいが。

 興奮したトランプが周囲を丸く走り回ってさかんに砂を蹴たてる。レディは群れを統率するオオカミのメスそっくりにスクッと立ってじっと六人を見詰めている。

「……すみません。入漁権とかあるんでしょうか。いくら払えばいいですか」

 アロハのひとが問いかけ、フクちゃんのむっつり機嫌の悪そうな顔を見て、あわてて首をすくめる。

 六人は気まずそうに顔を見合わせた。

「ねぇ。よして。まぁ、いいじゃないの。あなたもそんなに怒らないでちょうだい」

 ヒロさんがフクちゃんの腕をそっと掴んだ。

「なにも根こそぎ獲ろうってわけじゃなし、商売にしようってわけでもないみたいよ。どうしても問題になるようだったら、わたくしが仲立ちをするわ。それでよろしくて?」

 フクちゃんは咎めるようにヒロさんを見た。背丈が違うから角度は見下ろすかたちになった。だが、逆らわなかった。

「それより」

 ヒロさんは若者たちに向き直った。

「そんなに美味しいのなら、それ、うちの子たちにも獲ってくださらないかしら?」

 若者たちはあんぐり口をあけ、それから、いきなり緊張を解いて、やっほー、と笑い声をあげた。

「オバサン、話、わかるじゃん!」

「なぁんだ」

「びびったなぁ……」

「だって、知らなかったんですもの」ヒロさんはフクちゃんの不愛想顔を斜めに見上げ、拗ねたように言った。「けちんぼねぇ。食べられる美味しいものがすぐそこにあるのに、フクちゃんたら、どうして教えてくれなかったの?」

 

 ヨット部の連中のおかげで、その日の昼食はすこぶるにぎやかにゴージャスなものになった。彼等は本格的なキャンプストーブを持ってきており、バーベキューをする用意を整えていたのだ。そこに、マツエさんのおにぎり各種と、獲りたて(盗みたて?)の生ウニまでが加わったのだから、ほとんどパーティーである。

 大学生のうち料理係にならなかったほうの四人は、自分たちが持ってきていたソフトボールとビニールのバットを快く貸してくれて、双子やヒトシや犬たちを誘って、たちまち一大ビーチ野球大会を繰り広げた。といっても、試合のようなものにはならない。ミットもグローブもないし、双子は野球はまったくやったことがなくて、最初、バットをふりまわすとその遠心力で転んでしまうぐらいだったから。それも、麦わら青年の辛抱強いコーチのおかげでみるみる上達。トスバッティングならちゃんとあてて、時にはそれなりに遠くまで飛ばせるようになった。海に向けて飛んでいくボールを、みんなで追いかけてまた投げ返す。またバッティング。また投げる。次第にバットから放たれるボールの軌跡が、ひょろひょろではなく、スコーン、になっていく。双子は交代に夢中でバッティングにはげんだ。おかげでキャッチ側も大忙しだ。トランプなどあまりに張り切りすぎて、途中でバテてへばってしまったほどだ。

 フクちゃんはいつもにましてむっつりと不機嫌な顔のまま、こちらは何が起ころうと太平楽にふだん通りのナルミちゃんといっしょに、赤ん坊のアキコのお砂遊びを見守った。

 ヒロさんは若者たちに商店街までお使いを頼み、大人向けの飲み物をさらに調達した。手にいれたばかりの赤いワインを使い捨てのコップに入れて飲みながら、せっせとバーベキューを焼いている二人と、なにやら楽しそうに話しこんでいる。

 スミカとレイラは沖に浮かべたビニール製のイカダの同じ側の縁につかまって泳ぎ、波打ち際のそんな様子を眺めながら、じっくりと六人の品定めをした。ちなみにこのイカダも彼等から借りたものだ。肘を張った腕をのせて頬杖をついて、からだは波のなかでゆらゆらさせておくと、らくちんである。

 金時計の彼氏が一番カッコいいね、という意見は簡単に一致した。スミカがいうには、あの時計はロレックス・オイスターという、とても高価なものなんだそうだ。とりあえず男は金持ちでハンサムじゃなきゃ、とスミカは断言した。しかしレイラが目をつけたのは、むしろ、彼が長い前髪の下に半ば隠している目つきの不可思議な色合いや、立っているポーズのちょっとしたニュアンスだった。リーダーっぽく、なんでも真っ先に率先してやるくせに、どんなに笑っている時でも、こころの半分で冷静に計算していそうだ。きっと、悪戯や悪いことをする時には、いざ逃げることになった時の手順を考え続けているだろう。慎重で油断のないひとだ。もしそのコトバを知っていたら、その割には去勢を張っている、と指摘することもできたかもしれない。彼の強さと弱さのアンバランスを、レイラはおもしろいと思ったのだった。

 そういう感じ、どう言えばいいんだろう。……そうだ。

「あのひとがいちばんセクシーだと思うわ」

 レイラが言うと、スミカはまじまじとレイラを見て、それから、バシャバシャ水をたたいて笑い、レイラの顔に海水を跳ねさせた。

「なんなのよ。どこで覚えたのよ、そんなことば」

「さあ? こないだのあの雑誌のどこかじゃない?」

 スミカは黙り、顔を海につけてぶくぶくと泡を吐き、それから、犬のようにぶるっと頭をふるって、さっ、次いこ、次、と言った。

 麦藁帽子のひとは目が細くて鼻も小さく、お公家さんみたいな、ヌルリと平たい顔をしている。やさしそうで、しゃべりかたもものごしも穏やかだが、常にうすら笑いを浮かべているのが、なんだか他人の顔色をうかがってばかりいるようで、あまりいい感じではない。へらへらしてる、とスミカは言った。

 サングラスを髪に挿していたひとが一番背が高く、脚も長い。エチオピアのマラソン選手みたいな引き締まった痩身。眉も睫も濃くて、鼻はちょっとつぶれぎみ。精悍な野生的な顔付きをしている。なのに、笑うと真っ黒な顔にニカッと歯が見えて、けっこうかわいい……とレイラが言ったら、あいつ、手の指に毛が生えてたわよ、とスミカが言った。きっと胸毛もあるわね。うわぁ、かんべん。

 アロハのひとは女の子っぽい。サラサラの髪を耳を隠すぐらいの長さでザク切りにしていて、しゃべる時、さかんに身振り手振りをするから、その髪がひょこひょこ揺れる。みょうにキラキラした目でひとをじっと見るくせがある。他のひとたちよりはちょっと小柄で、手足なんかすごく華奢で、ボーイッシュな少女のようだ。なんだかグループサウンズのメンバーみたい。ちょっと軽薄そう。でも、犬好きらしく、砂に膝をついて延々とトランプのことを撫でてやったりしてくれたところは好感触。

 ここまで四人が野球班。

 バーベキュー担当のあとのふたりは、なんだかオジサン臭い赤ら顔と、なんだか猿っぽい不細工なやつだから、問題外のソト。ヒロさんは博愛のひとだなぁ、とレイラは思う。彼等にちゃんと愛想よくしてあげているなんて。

「……ってことは」

 ふたりは顔を見合わせた。

「やっぱ断然ロレックスだね」

「コバヤシくんとあの彼なら、どっち?」

 スミカは急に黙った。こんどはこっちを見ようとしない。

 おや、赤くなった。レイラは思う。

「……なんでコバヤシくんがここに出てくるのよ」

 一瞬遅れて、やっと憎まれ口が帰ってきた。

「べつに」レイラは、ちゃぷん、と肩まで入り、立ち泳ぎをした。「あのひとたちと同じぐらいの年で知ってる男のひとって、他にいないんだもん。フクちゃんとどっち、って聞いたって、答え、最初からわかってるし」

「どっちなのよ」

「そりゃあフクちゃんじゃないほうでしょ?」

「そお?」

 スミカは両肘をべったりと広げ、イカダの表面に顎を乗せている。色の淡い瞳にかぶさったまつげが瞬かれる。海水が顎からひとしずくポトンと落ちた。筒状のふくらみをつなげたかっこうのビニールのイカダの、その筒と筒の間の溝にたまった海水がキラキラしている。

「……あたし、フクちゃん、けっこういいと思うな」

 そうなの? レイラはドキッとした。

 そう。フクちゃんはいいひとだ。

 もしや……。

 封印しようとした疑惑がそろっと鎌首をもたげた。

 スミカは、フクちゃんを好きになったの? だから、“ひめ”にならずに、いっしょに、逃げようかって考えてみたの?

 おーい、そろそろメシができるぞぉー!

 バーベキュー班が呼ぶ。レイラとスミカは、イカダにつかまったまま、ばしゃばしゃさかんにバタ足をして陸をめざした。

 

 真ん丸いウニがまんべんなくびっしり生やした紫色がかった黒いトゲは、先のほうはそんなにとがっていなくて、そうっとなら、手の上に乗せて持っていることもできる。ウニはもぞもぞ動き、トゲトゲの間から細いオレンジ色の細い舌のような触手のようなものを出して、掌にぴたぴた張り付いたり離れたりするからくすぐったい。

 ひっくりかえすと、裏側の真ん中は花のつぼみのようになっている。丸い中に、ケーキを切る時のような切れ目が入っていて、そこがウニの口なんだそうだ。その口を岩に生えてる海草とかにぴったりおしあてて、もぐもぐやるんだそうだ。

 その口のまわりをナイフでえぐってはずすと、内臓のてっぺんに、鮮やかなオレンジ色のベロのようなものが見える。じょうずにひっぱりだすと、鶏のササミの小さいののような塊がはずれて来る。表面はザラザラだが、中はとろりだ。最初潮水の味ばかり感じるが、噛むといきなり濃厚なバターのような味がひろがった。ただ、レイラはそれをそんなに美味しいとは思わなかった。イカのワタもそうだったが、オトナが美味しいというものは何かが激しすぎ、強烈すぎる。たぶんその何かのせいだと思うのだが、たくさんは食べられないし、食べてしばらくすると、かならず胸がムカムカして来る。せっかくの獲れたてのウニからも、少しだが、あとでムカムカするかもしれない味がした。

 たぶんそんなことになるだろうと思っていたので、最初から警戒して、きれいにほんのひと口、味見分だけもらって、あとは、ごめんなさい、と言ったのだが、なんだ遠慮するなよ、猿が怒ったような顔をした。

「どうせこれはもう死ぬんだ。しっかり食ってやんなきゃ、成仏できないだろ!」

 ナマだから、殺したてだから、まだ動いているから、だから食べられないわけではなかった。だがレイラはムネヤケという単語を知らなくて、まして、高脂肪高コレステロール食品という分類もわからなくて、ウニとかワタとかといった何かが「濃い」ものが苦手なこと、味はけっして嫌いではないが、食べると必ず後で消化がうまくできなくて気分が悪くなるから残念ながらやめておきたいんです、ということを、どう説明していいのかわからなかった。

 めんどくさいので、ごめんなさい、好きじゃないみたい、もう一度言って、オジギをして、そのままさっさと逃げた。

 生意気で贅沢なこどもだと思われたって、かまうもんか。どうせ猿だし。今日をおいて縁はない。

 食事の途中、レイラが新しいおにぎりを選びに立った隙に、ロレックスの彼がツイッとすれちがった。そのままスミカに近づいていく。持っていたバーベキューの串を、食う? と言って差し出して渡してしまったかと思うと、そのまま、いかにも何気なさそうに、さっきまでレイラが座っていたスミカの右隣に腰をおろして、なにか話しかけはじめてしまった。時々、コーラを瓶から直接飲みながら。

 戻れなくなってしまった。

 露骨だなぁ。

 いきなりひとを除け者にするようなやり方に、ちょっと不愉快な気持ちになったけれど、まぁいいか。スミカはチヤホヤされるの、まんざらでもなさそうだし。

 別に。あたしは興味ないもん。

 もうほとんどお腹がいっぱいだった。だが、あまりに手持ちぶさたなのも困るので、ぶらぶら歩いていって、焼きあがっていたトウモロコシひと切れを手で掴む。まだちょっと熱いが、バター醤油が香ばしい。

 スミカは焚き火の脇、雑木林を背に砂に直接腰をおろしている。今日の彼女の水着はショッキング・ピンクのシンプルなビキニだ。ビキニにおけるシンプルとは、つまり、布が少ないということである。胸のところはちいさな三角形で、同色同素材のヒモが首と背中にまわっているだけ。毎日同じように浜辺にいるのに、なぜかちっとも陽に焼けていない。レイラがダッコちゃん人形か歩く日光写真みたいに日に日にどんどん黒くなって皮がムケていくのに対し、スミカは頬や鼻先がほんのちょっと赤くなるかならないかだけで、一晩たつと、またもとのコザッパリと白い顔に戻ってしまっている。ほんとうに、まるで白雪姫だ。ただし髪の毛はふだんよりいっそう色が抜けてきていて、濡れて濃くなる分を相殺してもかなり金髪っぽく見える。つまりスミカはいつもに増してハーフっぽく日本人ばなれしていて、おまけに美人でグラマーだ。胸の谷間のあたりにかすかにソバカスが散っていたりするのが、ちょっと無防備で。そう、たった二歳しか年上じゃないのに、スミカには、ほんものの谷間がちゃんとある。

 セクシー、だ。

 健康な大学生ならお近付きになりたくもなるだろう。そんな女の子はここにはスミカしかいない。あとは、美しいけれどおばさまで見るからに手強そうなヒロさんと、どんなひとでも会ったとたんにわかるぐらいにふつうとはちょっと言えないナルミちゃんと、赤ん坊のアキコと、それに、ちびクロでスクール水着でダサイあたし。

 あーあ。なんだってまた、今日に限って、古いスクール水着なんて着てきちゃっていたんだろう? あのセパレーツの小花柄のでないとしても、せめて、例の偽胸のホルターネックだったら、もうちょっとはオトナっぽく見えたのにな。

 でも、スクール水着じゃないのを着ていて、それでもやっぱりぜんぜんモテなくて、あきらかに差をつけられちゃったら、かえってショックだったかな。

「えーっ、うそーっ」ロレックスの彼の頓狂な叫び声が、それから笑い声がする。「おい、聞いたかよ。この子まだ十二歳なんだって。小学生だよ。やべやべ」

 その声に、アロハの彼も、エチオピア人もどきの彼も、あのおせっかいな猿でさえ、げーっ、とか、信じられねぇ、ほんとかよ、などと言いながら寄ってきて、たちまちスミカは人垣に囲まれてしまった。ひとが集まったので、物見高い双子もさっそく潜り込んで、なにやらわいわいにぎやかだ。

 食べ終わってしまったトウモロコシの芯、どうしようか迷っていると、ふと、横から手が伸びた。ヒトシが取って、走って勢いをつけて海に投げる。たちまち犬たちがダッシュして追いかける。

 ヒロさんはワインを飲みすぎたのか、パラソルの下で、顔にもからだにもバスタオルをかけたかっこうで、だらりと横になっている。ナルミちゃんはアキコを抱いて、ねんねんよう、おころりよお、と、例の眠たくなるようなお経のような声で歌を歌っている。

 フクちゃんは無言で焚き火をいじっている。

 フクちゃんは長い枯れ枝で、無言で焚き火をいじりながら、油断ない目つきでスミカとそのまわりの若者たちを見つめている。そばに放り出されているウニの殻の山の中に、あの、銀色のナイフが光っている。

 手についたバター醤油のべとべとが、不意に気になった。波打ち際まで行けばすぐに洗えるから、海は便利だ。

 水はきれいで、波はあくまで静かだ。

 あまりたくさんは食べなかったので、特に食休みをしなくても大丈夫だと思った。泳がず、漂っているだけなら、浜で寝るのも、沖で寝るのも一緒だ。

 レイラは白い水中メガネを腕にひっかけ、ビニールイカダを拝借して海にはいった。

 メガネのガラスに唾をたらして、キュッキュとこすり、水でゆすいで、顔にあてる。イカダに腹ばいで漕いでいくのははかどらないから、両手で押して進む。水中メガネをしていれば、道すがら、海の中を見物していける。

 たちまち、浜辺のオトナたちのことなんてどうでもよくなった。

 海はきれいだ。

 とてもきれいで、楽しい。

 陸に近いところでは波のせいで砂がまいあがっているが、沖に向うとだんだんに水が澄んで、底まで見通しがきくようになっていく。小さな海草のきれっぱしが、ふわふわと流されて来て、顔の前でサッと避ける。

 時おり息継ぎのために顔をあげながら、どんどんイカダを押していった。

 シュノーケルがあれば、こんな息継ぎもいらないんだけどなぁ、と思う。波かはいっちゃって、いまいちうまく使えないんだけど。ヒトシの買ってもらったやつを借りてみたことがあるが、恐かった。シュノーケルがあるから大丈夫だと思っていると、いきなり息ができなくなってしまうのだ。潜らなくても、ちゃんと筒の先を外に出しておくように気をつけているつもりでも、いつの間にか、水が入ってきてしまっていて、溺れそうになる。いったん筒の中に水が入ってしまうと、それを押し出すのはとても大変だ。肺の中のありったけの空気をふうっと吹き込んで、これなら大丈夫かと思うと、まだ抜けきっていなくて、水を飲んでしまったりする。ダメだ。これは困る。いったんありったけ吐いたら、次はとうぜん思い切り吸いたいのに、そうできないから。ジュルジュル言って水がはいりこんできているのにちゃんと気がついている時はいいが、突然苦しくなって、うっかりあわてて吸い込むと、水が気管に入ってしまってひどくむせることになる。

ヒトシはちゃんとじょうずに、ピュッ、とやるのに。なんでも、ちょっとだけ顎をあげぎみにして筒を斜めにしておくのがコツなんだそうだ。レイラはクジラみたいに真上に吹き上げようとするからいけないんだそんなの無理なんだと言われた。しかしもともとの肺活量の差もあるのではないかと思う。あるいは運動神経というか、器用さの違いが。

 スキューバの道具があったらいいのに。やってみたいなぁ。スパイ映画みたいに。あれなら息のことなんか気にしないで、ずうっと潜っていられる。楽しそうだ。

 足先にさわる海水が冷たくなってきた。冷たい潮流が流れこむのは、充分に沖に出た証拠である。イカダを横向きにしておいて、這い上がる。いつもならスミカやヒトシに手伝ってもらうのに、ひとりであがるのはけっこう難しかった。なにしろ、足がプールの床などについていないから、踏み切って勢いをつけることができない。腕の力だけがたよりである。

 何度か失敗をしてから、思い切り力をこめて、空気がぱんぱんに入ったイカダを両手で下に押し下げるようにして、なんとかかんとかよじ登った。もし着ていたのがスクール水着ではなかったら、たとえばスミカのみたいなビキニだったりしたら、いまのでずれてとれて、どっかにいっちゃったかもしれない。危ない危ない。

 イカダ型のマットにうつぶせに乗り、白い水中メガネをはめた顔をすぐ横の海面に突き出すようにして水中をのぞいた。

 ちょうどごろんとした岩の上だった。てっぺんのあたりに、青い星型のヒトデがふたつ並んでいるのが、なにかのマークみたい。ちょっと下のほうでは、イソギンチャクがゆらゆらしている。カニが歩いていく。水は青い。薄青い。とてもきれいだ。透明な水の底を波形の光がゆっくりと一方向に流れてゆく。その光に撫でられて魚たちの背中がキラッとする。ちょっとだけ大きな魚が、下降して上昇するような動きで、海底の砂を舞い上げる。飛行機が着陸に失敗しておおあわてでまた離陸したみたい。

 レイラはゆっくりと手で水を手で掻く。海底の地形はさまざま変化して見飽きることがない。岩と岩の間には、しばらく砂ばかりの平らな部分が続く。砂のかすかな起伏の上を、光の波の帯が、変わらぬリズムでゆっくりと撫でていく。イカダの影が四角く落ちている。

 気球だ、と思う。わたしは気球に乗って、空を飛んでいるところ。ここは砂漠の上。

 ゆっくりと気球イカダは流れ、漂っていく。背中は太陽であたたかい。

 今日また背中が焼けるだろう。スクール水着のかたちに。セパレーツの水着のかたちと、このかたちが組み合わさると、腰のあたりに、上が平らで下が丸い大きなポケットみたいなかたちができる。レイラ、背中がドラえもんだよ!  ミキヲが大喜びをするかもしれない。

 とても幸福で気持ちがいい。

 このいま。このいまのいま。

 このいまのいまここにいて、あたたかくて、気持ちよく揺れていて、見えるものはとてもきれいで。

 切りとってしまえたらいいのに。

 冷凍して、永久保存しておけたらいいのに。

 昨日までのことも、明日からのことも、一切関係なく。誰がどう思ってるかとか、ひとからどう見えるかとかから、関係なしに。

 この永遠のいまの中に、ずっと、ここに、いることができたらいいのに。

 ちゃぷん。波が来てほんのちょっとだけイカダを押す。ちゃぷんちゃぷん。イカダは動く。動くということは時間が進んでいるということで、このいまはもうさっきのあのいまではないということだ。もう違う。また違う。また違う。

 眼下に広がる静かな世界もまた、刻々と変わり続けているのだと思うと、ちょっと悲しくなり、でも、それで余計にいとおしくなった。

 変ってはいる。過ぎてしまう。でも、ゆっくりだ。あくまでゆっくり。少なくとも、ここでは、昨日と明日にそんなに大きな違いはない。秋が来て冬が来たら、たぶん、またぜんぜん違ってしまうんだろう。だけど、いまは夏で、真夏の真っ盛りで、夏休みで、晴れた気持ちのいい午後でお腹はいっぱいだし、ちょっと眠たい。

 あんまり幸福で、息をするのを忘れてしまいそう。

 自分が溶けてなくなってしまいそう。

 あたしといっしょに、世界もとまってしまえばいい。いっしょに滅びてしまえばいいのに。

 こうしてあたりまえみたいに生きてるけど、当然のこととして、いつかあたしは死んで、いなくなる。……しばらくは誰かが覚えててくれるだろうけど。いつかは、あたしのこと知ってるひとたちが、だーれも、誰ひとり、いなくなっちゃうよね……。

 人類始まって以来生きてそれからお亡くなりになった何十億何百億何千億というひとの大半が、いままさに、もう誰にも覚えてもらっていなくなっているのだと思うと、悲しくて、めまいがしてきた。幽霊になってでも戻ってきたいと思うだろう。そりゃあ悔しいもの。自分がいなくなってからの世界がどんなふうになっていくか、知りたいのに。ぜったいにわからないんだと思ったら、悔しい。

 不安と腹立ちが捨て鉢な気持ちをつれてくる。

 いいや。どうせ。あたしごときがちょっと頭の中で思ったからって、それが、別に実現するわけじゃないんだし。

 祈っちゃおう。

 

 ――あたしがいなくなるときには、世界もいっしょに、壊れてしまいますように!

 

 そのとたん。

 ……え……?

 不意に、重心がグラリとかしいだ。と思ったら、どぶん、と音をたてて海面を潜った。いきなりからだが放り出され、その勢いのまま、一気に沈んでゆく、すがっていた体重を支えていたイカダが突如消えてなくなってしまったのだった。たちまちあがる大量の泡が、からだをごつごつと擦っていく。

 どうしよう。ちょっとふざけただけなのに。ほんとうになっちゃった。世界、壊れちゃった……!

 絶望が真っ黒なコールタールになって全身を包んだ。孤独。後悔。喪失の痛み。恐怖。ついさっき、圧倒的な安堵を覚えたばっかりだったおかげで、すっかりだまされた、裏切られたという気持ちがした。安心させておいて、悪魔に足をひっかけられたのだ。

 きっと、あたしは、なにかの大切なテストに失敗したんだ。

 レイラは抗議の悲鳴をあげかけ、肺の中の空気を少し無駄にした。だが、ゴボッと、まるで、内臓から飛び出したパンチのように口を内側から抉って外に逃げていったその空気の乱暴な感触が、赤信号を点した。

 待ってレイラ。落ち着いて。よく考えて、ほら、だってこれは海でしょう。確かに水だし、潮っぽい味がする。よしオーケー海だ。ってことは、海はまだあるのよ。苦しいってことは、からだもあるしね。世界が消えてなくなったわけじゃない。あんたもいなくなったわけじゃない。あんたは単に海に沈んじゃってるところなの。ちょっとばかり、溺れかけているだけ。

 だいじょうぶ。世界は壊れない。少なくとも、まだいまは。でも、あたしのほうは、うわあ、どうしよう、このままだと……すぐにも壊れちゃいそう!

 なんとかあたりを見ようとするのだが、目はひどく痛んでまったく見えない。手や皮膚にポコポコとふれるのは、砂か泡か。レイラのそうして暴れるのに振り回されて目をまわした魚やヤドカリたちなのか。そもそも自分がどんな姿勢でどっちを向いているのかわからない。確かめようとした時、鼻の奥に入った水が脳みそに錐を突き立て、耳がキインと鳴りだした。うわっ、気持ち悪い。くらくらする。吐きそう。ぜったいぜつめい、というコトバが頭に浮かんだ。

 レイラは唇をしっかり結び、頬をふくらましてひっこめて、かろうじて肺の中から絞り出した空気をなんとか口に戻しもう一回吸った。きっとこんなの空気っていえない。二酸化炭素が多すぎる。でも吸ったり吐いたりするもんがぜんぜんないよりは少しでもあるほうがいい。こんな呼吸のマネゴトでもやらないよりはやれるほうがいい。唇の端から空気が少しこぼれる。怖くて気が遠くなりそうだった。あきらめるのはまずい。このまま気絶してしまうのはぜったいにまずい。とにかく空気あるほうへいかないと。だがどっちが上でどっちが下か、いまからだがどっちを向いてどんなかっこうをしているのか。ぼうっと痺れたようでまるでわからない。とにかく、上、上よ、空は海より上にある。泡はのぼる。あがるのよ。上へ。そうよ上へ。どっちが上なのかをまず確かめるのよ。

 死んでたまるもんですか。

 もがいて、焦って、くるくる回っているうちに、膝がザリッとなにかに触った、岩だ、と思ったから、その瞬間に足を思い切り伸ばした。さわったものを蹴りつけて、その勢いで反対側に向かった。岩があるはずの海底の反対側が空だと信じて。ほんとうにあっちが上? そうだ、信じよう、塩水の中ではからだは力を抜けばほっといても浮き上がるはずなのだし、明るい。明るい。光がみえる。きっとあれは空だ。空なはず。天国でない限り。

 …………!

 突き破って空中に顔を出したのは、後から考えれば、あらためてもう一度この世界に生まれるのにも匹敵する貴重な瞬間だったのではないかと思うのだが、苦しくてせわしなくてそれどころではない。味わっていないしよく覚えてもいない。ただ吸って吐いて吸って吐いて、ごほごほ咳きこんで、力尽きてまた沈んでしまう前になにかつかまるところはないかと必死に探した。目はまだ、見えているんだかいないんだか、曇って歪んで真っ白になって眩んで、ものの役にたたなかったから、スミカを見つけたのは手のほうだった。というか、スミカの手のほうがレイラをみつけてひっぱりあげてくれたのかもしれない。

 スミカがごめん、ごめんね、ごめんね、と大声で言っていたのは聞いたような気がする。あんた、水、飲んじゃった? ああ、びっくりした。ごめんったら。やだ、もう。ちょっとふざけてつっついただけなのに。あんたったら、あれしきのことで、すごい勢いで沈んじゃうんだもの。

 それだけのこと?

 ただ、ちょっと、ふざけただけのこと?

 レイラは驚いた。ああ。そうなのか。

 バランスくずされて、落ちちゃった。イカダからはずれちゃったんだ。

 ひとはなんて簡単に意味もなく死にそうになるんだろう。

 やっとなんとかまともに目が見えてきた。信じがたいが、やはりスミカは笑っていた。イカダボートを横に使っていて、真中がスミカの体重でくぼんでいるから、両側が持ち上がったV字になっている、その真ん中でにやにや笑いながら、腕をレイラの腋の下に回して抱えてくれている。だいじょうぶ、とか言ってるけど、それほど本気で心配していたようではない。

 しかたがないことなのかもしれない。レイラは海に潜るのがすっかり気にいっていて、しじゅうひとりで潜水していた。もちろん、息が続く、せいぜい何十秒かの間のことなのだが、海の中に入ってしまえば、周囲のひとからは見えなくなる。

 でも、ちゃんと気持ちの準備をしておいて潜るのと、いきなり、つかまっていたところが消えたみたいになって、沈まされるのはぜんぜん違うことなのだった。

 突き落とされたのだ。ふざけ半分で。

 隙をついて。

 なによ。ひどいよ。少しして、ようやく、腹がたってきた。スミカのほうはびっくりしたですむかもしれないけど、こっちはほんとうに本気で死ぬかと思ったんだからね!

 イヤミを言ってやろうと思いながら、イカダボートによりかかって、ふうとひと息、顔を撫でた。

 ……ない。

 ショックがごつんと胃を突き上げた。

 あわてて手をうしろにやって肩や髪のほうをさぐったが、やはり、ない。

「……落としちゃった」

「なにを」

「水中メガネ」

 スミカはきょとんとして目をみはった。

「だから」レイラは言った。もう泣きそうだった。「あれよ。あの、スミカが買ってくれた。あの、白い、水中メガネ……! ない。どっかいっちゃった!」

 スミカはちょっと眉をしかめ、それから、無言でイカダボートから滑り下りると、足元の海に潜っていった。ピンクのビキニのパンツのお尻が、カエル脚をしながら底をめがけて素早く沈んでいくのを、レイラはぼんやり見つめていた。水面より上から見ても、ショッキング・ピンクはよく目立つ。白い肌がゆらゆら見える。だがスミカは潜るのはそんなに得意ではない。おまけに水中メガネもしていない。あんのじょう、息が続かなくて、すぐにあがって、はぁはぁ息をついてまたすぐに潜っていく。

 たぶん、あの感じじゃあ、ここらの深さの海底まではとどいてないだろうな、とレイラは思った。きっとみつけられないだろう。第一、水中メガネをしてないと、あたりがよく見えやしないんだし。

 それでも何も言わずにまたすぐに捜しにいってくれた。きっと、ふざけたこと、反省してるんだな、と思った。

 スミカはいつだってあたしの大事なおねえさんだ。

 ありがたい存在。

 あのメガネだって、もともとスミカが買ってくれたんだもんね……。

 自分で捜そう、できれば、ヒトシに別のやつを借りて戻ってきて、と身をひるがえしかけて、いきなりズキッと来た。左足だ。足の裏だ。なんだろう? 

 ボートにつかまっておいて、膝を曲げ、首を曲げ、片手で足を掴んだ。うわっ、なんなのこれ、すごく痛いじゃないの! なんとか目に見えるところまでひねりあげた。

 黒い丸点がふたつあった。

 そんなところに確かホクロはないはずだったが、なにせ足の裏のことだ、自分でもよく知らない。覚えていないだけかもしれない。だが、それは、ホクロにしてはやけに大きくて、おまけにやけにクッキリしている。

 さわるとかたい。なにか埋まっているようだ。

 ひょっとして、これ、怪我? 棘みたいなものでも刺さったの?

 改めてかかえなおし、少しでも目に近づけようとすると、白っぽく血の気のひいた足の裏に余分な溝がよって、謎のホクロ物体付近にビリリッと電気が走るような感触がした。おまけに、それが傷であるなによりの証拠のように、血がにじみ出しはじめた。じわじわ流れ出る赤い液体が、塩水に濡れてふやけた足裏にいやにきれいな色の糸を引いた。なにがなんだかわけがわからなかったが、こんなにずきんずきん痛いのはこれはもう間違いなく、なにかが刺さったままなのだとと察しがついた。小さな小さな棘が刺さったときの痛みと、なにかは似ていたから。そうっと指でさぐってみると、たしかに、なにかある。押し込んでしまいそうで怖くてあまり強くさわれないが、刺さっているのは、太い針みないな爪楊枝みたいなもので、ホクロに間違うぐらいだから黒い。こんなところにあるとしたら……

 ウニだ!

 理解はしたが、信じがたかった。ウニだ。これはウニの棘だ。刺さって折れたんだ。まるで釘をうちこんだみたいに入ってる。途中で折れてるのは確かだけど、いったいどのぐらいの長さ刺さっているんだ……レイラはゾッとして、こんどこそ気が遠くなりそうな気がした。

 密漁の罰? でも、なら、なんで、このあたしに罰があたるの? あの大学生のひとたちのうちの誰かとかにじゃなくて? 

 海にきてから、不意の怪我ばっかり痛い思いばっかり。ここしばらく、大丈夫だったのに……。

 足をおろそうとしたら、またビリリッときて、からだ全体に震えが走った。脳貧血のようにクラッと来て、なんだかどこもかしこも痺れてきて、ひょっとして、ウニってものには毒があるんじゃないのかしらとゾッとした。

 海底から手ぶらで戻り、すまなそうに何か言いかけたスミカを遮って、棘がささってしまったらしいと話すと、スミカは素早く身をひるがえした。レイラをその場に残したまま、それがもし水泳大会だったなら全校優勝間違いなしだっただろう速度のフォームも美しい完璧なクロールで息つぎもろくにせずに陸に向かった。

 レイラは見とれ感動したが、イカダにつかまったまま、痛みと出血の恐ろしさになすすべもなく震えてもいた。自殺する時、ひとは手首をちょっと切ってお風呂に浸かったりするらしい。だらだら血の出ている足で、こうしてずっと海の中になどいたら、どんどん血が出ていってしまうのではないか。いまにからだじゅうの血が出ていってしまうのではないか。おまけに、血の匂いにひかれて、恐ろしい人食いザメだって寄って来るかもしれない! でも、手にも肩にもぜんぜん力がはいらないし、こんなに痛くっちゃこれ以上なにかをがんばるなんてとうてい無理だ。とても這い上がれない。ああ、スミカのばかばか。なんでまず、あたしをイカダの上に上げておいてから助けを呼びに行ってくれなかったの?

 スミカは波打ち際の足が立つあたりまで来ると大急ぎで立ち上がった。その勢いのあまりにビキニのブラのほうが大きくはずれかかってヨット部の連中の目をただのひとこともものをいわないうちから釘付けにした。レイラが怪我した。誰か助けに行ってあげて! スミカが叫ぶ。ヨット部六人は、たぶん、スミカにいいところを見せたかったんだろう。かなりいいスタートを見せたが、フクちゃんにはかなわなかった。

 ブルドーザーが崖を削るような勢いで両手をぶんまわしてイカダに突進してきたフクちゃんは、青ざめ震えて力なくやっとしがみついていたレイラの尻のあたりを水着がよじれる勢いでむんずと遠慮なく捕まえると、ひょい、と軽々イカダの上に放り投げた。端のほうにくっついていたロープを腕にはめ、休む間もなく浜にとってかえす。気がつくと近くをレディが泳いでいた。海難救助犬にそっくりだった。撫でようとしたが手が届かなかった。足が立つところまで来ると、フクちゃんは素早くレイラを横抱きにした。それは、おひめさまがされるような憧れのポーズで、まるで映画のヒロインみたいだったが、喜んでいる間もない。急ぐあまり腕からはずしそこねたイカダを砂ごと引きずりながら、フクちゃんはレイラを焚き火の横まで運んでくれた。この間、くだんの六人は、なんとかフクちゃんに追いつこうと最初沖に向かい、次に陸に向かい、さかんに水飛沫をあげながら大勢でバタバタしていたのだから、よそから見ていたら喜劇的だったかもしれない。

 スミカが背中にタオルを被せて抱きしめて手を握って頭を撫でてはげましてくれた。ヒトシは、怖いような目をして、お茶を飲むか、牛乳を飲むか、とわめき声でせまった。ヒロさんが使い捨てコップのワインをつきだして、それよりこれを飲みなさい、ぐっと一気に、と言った。言われた通りにしたらたちまちむせてしまったので、ヒトシが蓋にとって少しさましておいてくれたお茶も一気に飲んだ。やがて、レイラの足の裏を検分していたヒロさんが立ち上がり、へとへとで砂だらけでちょうどよろよろ戻ってきた六人に、あんたたち、この子を押さえておいてちょだい、うつ伏せにして、しっかりとね、と命令したのである。

 棘を抜いてくれたのはヒロさんだったそうだ。

 レイラは見ていない。

 なにせ砂浜に倒され、おおぜいのひとに手や足や背中をガッチリと押さえこまれていたので。痛いことは痛くてはやくなんとかして欲しかったが、恐くて恐くてたまらなかった。ちょっと待って。なんでここなの。病院は? 救急車は? どうしてここでいま抜かなきゃならないの? やめて。お医者さんにたのみたい! 叫んだつもりだったが、どのぐらい声がだせていたのだろう。

 みんなレイラのことなどまるきり無視しているみたいだった。レイラがただの物体で、生きている人間でないようなふりをしているようだった。レイラの顔も見なければ、声も聞こえていないかのような顔をして、ただただ、釣られた魚を暴れなくするように、無闇に力をこめておさえつけた。

 ヨット部の連中のバカでかいからだに囲まれると、陽光が遮られて、深い穴の底に沈んでいるみたいで、なんだかそこらの温度がいきなりぐんぐんと低くなってしまったのようだった。そんなに力いっぱい掴まれなくたって、どうせたいして抵抗なんてできそうにもないのに、みんなぜんぜん容赦がない。そりゃあ、できれば、はやく棘をとってほしいし、それには、きちんと静かにじっとしているほうがいいんだろうし、動いちゃいけない時にうっかりビクッと動いてナイフの目標がずれたならそのほうがずっと危ないからだろうと理屈はちゃんとわかっているのだが、いやなものはいやだ。怖い。ナイフで抉られることがわかっている時にじっとおとなしくしてなんていられるものだろうか? 

 一刻も早く助けようとしてくれているひとたちをののしるなんて失礼だし、赤ん坊みたいにダダをこねるなんてみっともない、むしろ感謝すべきだ。わかっている。頭では重々よくわかっている。だが、やめて、お願い、助けて、もういや、許して、悲鳴が怒濤となって口からこぼれる。やめて。やめてください。やめてったら。いっそ気絶してしまいたかった。マナイタのコイというのはなんて偉いやつだろう。こんな時、ちゃんとじっと観念するなんて。

 あたし、魚類以下ってこと?

 患部が、自分の足の裏が、遥か宇宙のかなたのように遠く感じられた。脂汗がにじみ、全身がカーッとしたかと思うと、冷たくなった。手首や足首など、血がとまるほど強く握りしめられおさえつけられているので、からだじゅうが痺れて感覚がおかしくなっているのだった。その遠い遠い足の裏のほうで、いったい何がどう行われるのか、まったく見ることができないのが余計に不安を煽った。誰が何をどう使ってそこをどうするつもりなのか、誰も教えてくれなかったし、なにを聞いても答えてくれなかった。任せとけ。だいじょぶだ。誰かに無責任にも断定的にそう言われただけ。レイラはぴーぴー言った。さんざん泣きわめいた。幼稚な甘ったれのおバカさんになって、赤ちゃんがえりしてしまったみたいになって、大声で、いやだ、お願い、やめて、いたいいたい、助けて。ママ、ママーー! 

 ママ!

 あらんかぎり振り絞っていないと自分が破裂してしまいそうだった。滂沱の涙を流し喉が嗄れるほど叫んでいる間に施術は終わり、手首や足首を握りしめたり腰を抑えたり頭を横向きにして動かなくさせたりしいたおおぜいの手がだんだんに離れた。成功成功、と誰かがいったところをみると、棘二本はどうやら無事に抜けたらしかった。

 ウニたちを殺し、天然の缶詰めででもあるかのようにぱかぱかあけた、まさにその同じナイフを、砂でよく擦り、海で洗い、焚き火でじっくりよく炙ってから使ったのだそうだ。

 途中で折れたりすると余計にやっかいだから、思い切り深く切れ込んでおいて、ヒロさんの爪の長い指でしっかり掴んでひっこぬいたそうだ。

 焼けたナイフで抉られたりしたのはものすごく痛かったはずなのだが、正直、よくわからない。なにしろ最初から最後までずっとかわらずに痛かったので。浜にあがってから「はい、もうおしまい」と言われるまで、たぶん、せいぜい五分か十分か。思いの外短かかったのかもしれない。だがその一瞬一瞬の長さときたら。永遠の十回分ぐらいはゆうにあった、とレイラは思う。

「それにしてもきれいな海なのねぇ」とヒロさんが言う。「間違って踏んじゃうぐらい、たくさんウニがいるのねぇ」

 そんなことに感心されても。

 知らぬ間に砂が口や目にも入りこんでじゃりじゃりしていたし、鼻の頭の陽に焼けているところをうつ伏せでこすりまくっていた。だが、そんな痛みは、足裏のズキズキに比べるとかすり傷もいいとこ。それに、もちろんまだ痛いが、そうとうに痛いが、それでも棘をぬいてもらって、余計なものがなくなったおかげで、たしかに、少しは楽になったような気もする。

 どれほど奥まで刺さっていたのか抜けたものを見せてもらっていないから知らないが、いわゆるふつうの草花の棘とはケタが違っただろう。ふたつの丸い点は、ふつうのホクロよりだいぶ大きかった。とうぜん、今日は、レイラはもう海で遊べない。退場だ。

 寡黙なフクちゃんの背中に揺られて高台の家まで帰る間、レイラは、夢うつつだった。ホッとして、痛くて、全身が熱っぽい。ほとほと疲れきってしまった。ひょっとすると一気のみしたワインの酔いもまわってきたのかもしれない。ぼんやりとろとろ眠ったかと思うと、痛みにズキッときて、朦朧とする。麻酔でも効いているような状態だった。

 ごめんね、フクちゃん。ロレックスなんかより、フクちゃんのほうがずっとずっといい。

 唐突にそうするりと言ってしまった自分がいて、あっ、へんなこと言っちゃった、と思ったが、聞こえたのか、聞こえなかったのか、フクちゃんは返事をしなかった。恥ずかしくて、思わず顔をかくそうとしたら、鼻がフクちゃんの襟首にくっついてしまった。かすかに潮の匂いのする、ごわごわ陽に灼けた皮膚。くっついたついでに思わず摺り寄せてしまったのは、それが、なんともいい感じの、頼もしさそのものの手触り、いや、鼻触りだったからだ。

 ありがとう、フクちゃん。

 いつもありがとう。感謝してます。

大好き。

大好きだからね。

 一歩一歩大またにがっかりと踏みしめて歩くその足取りに揺さぶられて少しずり落ちてしまったレイラのからだを、フクちゃんが、ちょっと揺すり上げるようにして背負いなおしてくれたのは、ちゃんと聞こえたし、わかってるし、そう思ってもらって嬉しいよ、という意味だったのかもしれない。

 

「なんだってそう無闇に怪我ばっかりするんです」

 マツエさんは、見たとたんに呆れた声で言った。縁側におろされて、そのまま溶け落ちるようにぐったり横になると、フクちゃんは、じゃ俺は、と言って、またすぐにとって返そうとした。

「行っちゃうの? もう?」

 見捨てられるみたいで、悲しい。みんなあっちにいったきりで、ひとりぼっちで、寂しい。

「いや」

 怪我人の病人の哀れな子供の真っ最中にしかできない特別の甘え声で、レイラは言ったかもしれない。

「ここにいて。もう少しだけ、いて」

 あたしのそばにいてよ。

「すまん……けど、やつらのこと見張らないと。ああいうのを用心する、それが、そもそもの俺のやくめだから」

 フクちゃんがニコリともせずにそう言ったように聞いたように思うのも、はっきりしない記憶のうち。

 マツエさんが飲ませてくれた癒恵のジュースと錠剤の痛みどめのまどろみの中、そうか、フクちゃんって、用心棒だったんだ、と思った。みんなを敵から守ってくれるヒーロー。正義のみかた。でも、じゃあ、あの六人は、……ミキヲとノリヲが鋭く指摘したように……やっぱり、悪者だったのか。悪いひとだったのか。確かにやつらがこなければあたしはウニになんて刺されなかった。確かに、やつらにつかまれていた手首や足首は、赤くなっていて、ところどころ、あざになってしまいそうだ。ほんと凶悪だったよ。

 ずっと後になってから、レイラは、あるとても有名な本を読んでいて、ある登場人物にであい、いきなりフクちゃんの顔を……いや、厳密にいえば、レイラが自分の鼻で一度だけさわったことのあるフクちゃんの首筋の感触を……思い出して、ぽろぽろ泣いてしまったことがある。そのひとは無言のまま崖っぷちに座っていようとするのだ。ただ、そこで通せんぼをするために。無邪気に遊ぶこどもたちがうっかり崖から落ちないように。万が一の時に間に合う距離に、なにげなく、ただ黙って座っている。

 見張っている。

 こどもは知らなくていいのだった。そこにそんな思いを抱いて座っている彼のようなひとがいるということを。彼を見かけても、気にしなくていいのだった。いつもそっと守っていてくれているひとだなどと認識しなくてもよく、感謝もいらない。ただ、なんの心配もなく、こころおきなく遊んでいれば。

 それが俺のやくめだからな。

 

 

 

 足の裏を怪我したばかりでは風呂には入らないほうがいいかもしれなかった。はいろうとすれば只事でなく難儀なのはわかりきっていた。だが、どうしても入りたかった。髪からなにからすっかり潮まみれ、冷や汗まみれの砂まみれになってしまっている。からだじゅうを、そして、この不運を、よくよく洗い流したかった。

 よく知らない男たちに触れられた痕跡も。

 だから、台所でビニール袋を探し出して、包帯の上から二重にしてかぶせた。足首の部分を輪ゴムで留め、ぐるぐる巻き込んだ。これならあまり濡れないかもしれない。

 風呂の湯はぬるかった。なるべく湯がかからないようにしながら、丁寧に二度シャンプーをし、からだじゅうをできるだけ擦った。

 たてつけの悪い風呂場は薄ら寒く、半濡れの状態で洗い場にいると、だんだんに鳥肌がたち、歯の根があわなくなってきた。こうなると、是非とも……一瞬でもいいから湯船につからずにはいられない。怪我をしたほうの足を濡らさないようによくよく気をつけたいところだが、なにせもともと不便な五右衛門風呂だ。苦労をしても、どうせきっと、知らないうちに包帯にお湯がしみてくるだろう。

 片足を中途半端に跳ねあげた態勢はいかにも無理で、腰や背中が引き攣れるし、肩まで浸かることができない。ええい、めんどくさい、とビニール袋ごと湯船の中に引きこんだ。はじめは両手で袋の口の部分をできるだけ押さえていたが、そのうち湯が紛れ込んできた。じわじわと、ちょろちょろと。かかとや土踏まずの柔らかなあたりに遠慮がちにこしょこしょさわるその感触。目をつぶって、パッと手を放してみる。すると、ドッとお湯が入って、ビニールがふくらんで、包帯の下のどこかがジクッとした。だが、思っていたほどには痛くはない。最初のショックさえガマンしてしまえば、なんということはない。

 やれやれ。

 なんだか足の先が、夜店の金魚すくいの戦利品になったみたいだった。

 包帯も、こうなればどうせ捨てるか洗濯しなおさなくてはならないのだから、思い切り濡らしてしまったほうがいっそ剥す覚悟ができて良い。どうせそうして濡らしてしまうぐらいなら包帯なんて邪魔なものははじめから外してしまえばよかったのかもしれない。

 ようやくサッパリした気分になり、バスタオルを肩にかけ、もう一枚のバスタオルで髪を拭いながら台所に戻ると、マツエさんが流し台のところで、ジューサーで癒恵の実を絞っていた。たっぷり大量に。

 とたんにゴクリと喉が鳴った。まさに欲しかったのはそれだ!

「ありがとう」

 感激のあまり、ジューサーのバリバリ音に負けずに声をはりあげてレイラが言うと、マツエさんが振り向いて、首を振った。いつだって無愛想なマツエさんだがそれにしても白っぽく緊張してこわばった顔。唇が動くが、騒音のために聞こえない。

「え、なに? なんて言ったの?」

 ジューサーがとまった。

 とたんに、遠くから泣き声が聞こえてきた。甲高い、切羽詰った、ひきつったような声。必死に何かを訴える赤ん坊の声。

 レイラは目を見張る。

 そういえば……さっきも聞こえていたかもしれない。でも、アキコが泣くのはあたりまえだし。さっきは、自分の足をなんとかすることでいっぱいいっぱいで耳に入らなかった。

「どうしたの?」

「すごい熱なんです」マツエさんは不機嫌そうな顔のままガラスをかたむけて、ジュースのいくらかを哺乳瓶に移し、半分を洗面器にあけた。「突然のことで……新開先生に、なんとかご連絡をしようとしているんですが、電話にでてくださらなくて。なんでも、なにか厄介な手術中だとかで」

 はあ、と忌々しげに息をついて、マツエさんは腕をあげてほつれ髪を払った。

「ここは遠すぎます」

「そうね」

 レイラは両手を握り締めた。マツエさんはなにもレイラに腹をたてているわけではない。でも、心配のあまり、喧嘩腰になっている。いまにも癇癪を起こしそうだ。洗面器と哺乳瓶を抱えてサッサと行ってしまった。

 ジューサーもそのまま放り出したまま。ガラスに癒恵の滓。きれい好きのマツエさんが、あとで洗いにくくなることもかわまずほったらかし。ほんとにただごとじゃないんだ、と玲良は思った。

 足の裏がキュッと痛んだ。

 あたしのことなんか心配してられない。アキコが大変なんだ。

 もらえなかった一杯のかわりに冷蔵庫から麦茶を出してコップ一杯飲み干し、そのコップを洗いがてら、ジューサーのガラスもザッと水で流した。痛むほうの足をなるべく強く床につかないように壁やら家具やらを伝い歩きしながら、様子を見に行った。

 

 一階の一番南、回り廊下の突端にあたる小さな部屋で、アキコは火でもついたように泣きわめいている。哺乳瓶を口許に寄せてやっても、ちいさな握りこぶしを振り回して、いやいや、と反抗している。洗面器の癒恵ジュースでしぼったサラシで顎下や顔を拭い、口許にあてがうと、ようやく声を止め、ちゅうちゅう吸って、しゃっくりあげるように息をついた。マツエさんはアキコのおでこに手をあてて難しい顔をした。いそいで服を剥ぎ、新しいタオルでからだじゅうを拭ってやって、毛布でくるみなおした。

 なにか手伝えることはないかと、レイラは膝をついた。

「お熱なの。くるしいのね」

 たちまちナルミちゃんがしがみついてきた。こちらも真っ赤な、さんざん泣きはらしてむくんだような顔で、すごい力で。

「ゲェしたの。突然。それからウンチも。とってもくさいの。シャアシャアの、たくさん」

「……食中毒かしら?」

「冗談じゃありません」マツエさんがぶっきらぼうに言った。「へんなものは、食べさせていません」

「ごめんなさい。救急車は?」

 マツエさんはあきれたような顔をして横目でレイラを見上げた。

「こんな田舎の町医者に診せろっていうんですか?」

「…………」

「ごめんなさい! ごめんなさい。おこらないでね、けんかなしね!」

 ナルミちゃんはWのかたちに足の間に尻を落としてぺたりと畳に座り込み、エプロンを顔にあてて縮こまっている。マツエさんはそのナルミちゃんを無視し、アキコをあやし、汗を拭ってやり、なんとかしてジュースを飲ませようとしている。必死だ。

「あたし、電話してみるね」踵を返した瞬間にうっかり踏ん張ってしまった怪我をした足がズキリと痛んだ。「新開せんせいに相談します。番号は?」

「電話の横にメモがあります」

「わかった」

 ぴょんぴょん片足飛びで(なまじ庇うよりそのほうが速い)居間の電話機のところまで急いだ。緊急連絡先を列記した中に、新開医院、の文字を見つけ、受話器をとりあげ、ダイヤルする。

 白髯のお医者さま新開顕治先生は“菩提樹”のホームドクターだ。専門は産婦人科。

 “ひめ”たちをやたらな人の手に任せることはできない。癒恵の恩恵があるから滅多なことでは健康を損ねはしないが、たまには医者が必要になることもある。たとえばお産の時。そして死にそうになった時。死んでしまった時。

 “菩提樹”のこどもたちはみな新開先生の手でとりあげてもらったのだという。もちろんレイラは自分のその時のことはまったく覚えていないのだけれど、アキコが生まれてくる時の熱っぽく浮かれた騒ぎはよく覚えている。生まれたての赤ちゃんを見せてもらいにスミカとヒトシと手を繋いで“菩提樹”に行った時、客は通さないはずの奥まった部屋のひとつで、赤いお酒で乾杯しながらヒロさんと対等みたいににこにこおしゃべりをしているそのひとを見た。みんなが生まれてきた時にも面倒をみてくださった先生よ、と紹介された。どうもありがとうございました。三人が神妙に頭をさげると、サンタクロースが痩せすぎたみたいなそのひとは、おお、大きくなったなぁ、元気にしているかね、と言った。校長先生みたいに。

 世間のふつうの家庭にはたまにいるらしい「親戚のおじさん」とか「おじいさん」とかみたいな感じのひとだ、と怜良は思った。

 ヒロさんとあれだけ仲良しにしているんだから、いわゆる外部のひとの中では明らかに特別な、ほんとうに信頼していいひとなのに違いない。

 そんなこんな思い出しているうちに呼び出し音が続き、なかなか出ないので切ろうかとした頃、「ハイ、新開医院」少し年配の、婦人の声がした。

「こんにちは。あの」どう言えばいいのか少し迷ったが、あの新開先生のところのひとに対してなのだから、きっと、正直が一番だ。「“菩提樹”のものです。新開先生は……」

「ご連絡しようとしていたところでした」切り口上に、婦人は言った。「お屋敷のほうからご連絡いただいたのですが。たいへん申し訳ありませんが、新開は所要あってそちらにはまいれません。代わりのひとを送りだしました」

「代わりのひと?」

「女医ですが、優秀なひとです。新開の愛弟子のひとりで、おたくの事情も存じています。吉田さんといいます。もうとっくに向かっておりますから、夜までには着くと思います」

 婦人はあくまでテキパキと手短に必要最小限のことを並べ立てた。

 あまりのことにレイラは黙り込んだ。新開先生はだめなんだ。これないんだ。ぜんぜん知らないひとが来るんだ。いくら女の先生だからって。新開先生じゃないひとが。

 そんなの、そんなの、大丈夫なのかしら。

「では」

 電話を切られそうになってあわてて、礼を言った。

「あの、先生に、どうか……どうぞよろしくお伝えください」

「わかりました」

 受話器を置いたとたんに、弱弱しくグズるようになったアキコの声が耳についた。もう泣く元気もなくなったのか。それとも、危機を脱したのか。あとのほうならいいけれど……。

 汗ばんだ手を服でこすった。いつの間にか陽がかげりはじめ、風が吹いている。海風が湯上りの髪を梳いて通って潮の香りがした。レイラはブルッと震え、あわてて濡れタオルを肩から落とした。

 それで、まだ例の「夜店の金魚もどき」を足首にくっつけたままだったことに気づき、しゃがみこんではずしはじめた。

 熱と水分でぐしゃぐしゃになったビニールは、どこがどうなっているのやらみごとにメチャクチャに絡まっていて、とめたはずの輪ゴムがヒダの中にもぐりこんで見つからない。ムキになってあちこちひっぱっているうちに、いきなりパチンとはじけて指を打った。とたんにザァッとぬるま湯があふれる。

 畳にひろがる湯を咄嗟にタオルで押さえ、うっすら赤いのに気がついたとたん、怖さと痛みと気持ち悪さと心細さと自分を哀れむ気持ちがごたまぜの苦い涙の固まりになって喉につかえた。唇を噛んで押し戻した。

 アキコとナルミちゃんが泣いているだけでも耳ざわりで、なんだか空気がせっぱつまってしまっているのに、あたしまでめそめそするわけにはいかない。

 もう四年生なんだから。赤ちゃんじゃないんだから。

 ああ、でも、みんな早くかえってきて。

 誰かそばにいて。

 あたしを守って。

 

 後発隊が海からようやく戻ってホッとしたかと思うと、レイラがヒロさんに充分な説明をする間もなく、吉田という女性の医者がタクシーで到着した。大柄なからだに白衣をまとい、男のかけるような縁の太い眼鏡をかけた年配の女医は、ろくに挨拶もきかずにずかずかあがりこみ、診器を出してテキパキと診察をすると、やがて、ふん、とばかりに肩をすくめた。

「大丈夫。もう熱もさがりはじめている。欲しがるだけ水分を摂らせて、寝かしておけばいい。もしまだ吐くようなら、なるべく顔を横に向けさせておいて、喉がつまらないように気をつけて」

「どうもありがとうございました」ヒロさんが口を開いた。「わざわざ遠方までご足労いただいてすみません」

「こんなことはじめてで」マツエさんも言った。「あまりに突然で、どうして良いかよくわからなかったのです」

「突然?」

 女医は怖い顔をした。

「赤ん坊の病気に突然はない。必ず前駆症状があったはずだ。なんとなくふだんよりも元気がないとか、食欲がないとか、鼻をグスグスさせていたとか。いつもと少しでも様子が違ったら、母親なら敏感に気づくはず。これほどの症状が突然だなどというのは、なにかに気をとられて、こどもをよく見ていなかった証拠だ」

 なんともいえない沈黙が訪れた。

 女医は鋭い目つきのまま一同を見回した。母親を……この件の責任者は誰なのか、目で問いかけているのだ、とレイラは気付いた。

 だが母親はここにはいない。アキコのママは“菩提樹”にいる。遠く、遙かな、あの安全で聖別された場所に。

 ……ひょっとしてアキコの熱は、ずっと外部にいたせいなんじゃないかしら。ウチに……ヒロさんのうちに……“菩提樹”の領域に戻りさえすれば、なおってしまうんじゃないかしら。

 あたしたち、そろそろ、帰ったほうがいいんじゃ……

 レイラはそっとナルミちゃんを見た。ナルミちゃんはよほどホッとしたらしく、弛緩しきった笑顔のままだ。口の端から涎が糸をひいているのにも気づいていない。こんなナルミちゃんだ。自分が遠まわしに責められているかもしれないなんて思うわけがない。そもそもナルミちゃんはアキコの母親ではなく、ただのねえやだ。

 そんなナルミちゃんに赤ん坊のアキコをずっと任せきりにしてほっておいたあたしたちが悪いんだろうか? でも、これまではそれで大丈夫だった。平気だった。なにも問題はなかった。それとも。あたしたちは、海が楽しすぎて、見なきゃならないものを見ないようにしていたんだろうか。

「あのう……」

 マツエさんが顔をいかつくして、おそるおそるなにか言おうとしたところへ、

「もし、こんど」スミカが割って入った。「いきなり熱が出たら、どうしたらいいんですか?」

「着ぶくれしていたら、薄着にさせる。水枕があったらさせて、首と、両腋、足のつけねを冷やす。氷水でしぼったタオルやなにかで。三十八度や九度で、元気な様子ならあまり心配はいらないが、四十一度をこえたら必ず小児科につれていく」

「わかりました」

 スミカがうなずくと、女医はやっと少しだけ笑った。象が笑ったようだった。

 重たげなからだを手で膝を押すようにして立ち上がろうとして、レイラの足に気づいた。自分で巻いたぶきっちょでヘタクソな包帯の塊に。

「なんだ、それは?」

 レイラは思わず柱につかまった。真っ赤になるのを感じた。「ウニを踏みました」

 女医は一瞬むっと黙りこんだあと、大声をあげて爆笑した。そうして、ちょっと診せてごらん、と、ごつくてぶあつい手を伸ばした。レイラは、しかたなく素直に畳に座りなおし、足を差し出した。

「ああ、なるほど。これはいけない。このままほうっておくと腫れるね。ちょっといじるよ」

 抗議する間もあらばこそ。改めて切開され、悲鳴をあげたいほどしみる消毒をされ、あまつさえ、太いでっかい痛い注射を打たれた。

 レイラはそれまで病気らしい病気になどなったことはなかったから、注射なんて学校の集団検診の予防注射の時しか経験がない。みんな一緒なら強がって我慢もできるが、ひとりだけというのはどうも損で、なんだか理不尽だ。不安とショックと、後から思うにもしかすると安堵や甘えのせいもあって(だっていまここで倒れれば、ちゃんと医療の専門家に面倒を見てもらえるし、まわりのみんなにもそんなに悪かったんだねって優しくしてもらえるに違いないから)、胸がへんになって、頭がふわふわして吐き気がしてきて、かすれ声でそれを訴えたら、はい、貧血、だまって寝る寝る、と、手近な座布団を二つ折りにしたのを枕に差し出されて、横になったらほんとうにみるみる気が遠くなってきた。ひとの背中からこわごわ様子をみていた双子がそろって真っ青になっているのがぼんやり見えた。誰かが夏掛けをふわりとかけてくれた。

 小半時ほど、そうしてウツラウツラ、アキコと並んで横になっている間じゅう、足裏がズクズク疼いてはいたが、実はかなり満足でいい気持ちだったのだ。襖を開け放った隣の部屋では、みんながにぎやかに着替えだ、風呂だ、いやまずは先生にお茶だ、夕飯の支度だとわざとのように明るくはしゃいでいた。ナルミちゃんは番犬のようにアキコに張り付いているし、双子もヒトシもなにかとチラチラこっちを気にしてくれているのはわかっていて、もし何かあったらちょっと咳をするなり、タスケテと小さな声をあげさえすれば、きっと誰かが急いで駆けつけてくれるに決まってるのだった。

 ああ、ここに、みんながいる。

 ここはウチだ。

 “菩提樹”じゃないけど、ヒロさんのうちでないけど、ここもまた、おうち。

 いどころ。

 いばしょ。

 種が飛んでよその土地で芽吹くように。あたしたち、ここにも、おうちを作った。ここにいていい。ここに棲んでいていい。

 

 夕食には起き出したが、まだぼうっとしていて、あまり食欲も出なかった。ちゃんとふとんの中でぐっすり眠れるならそのほうがいいかもしれないと思った。それでも、二階にあがってしまうのは寂しくて、みんなのそばにいたくて、そのままその場にごろんと横になって、またいつの間にか眠ってしまった。犬のレディがいつの間にか守るように寄り添って背中を暖めていてくれた。半分眠りながら、ひとの笑い声や楽しげな気配を感じて、ああ、いつもいつもこうだったらこんなふうだったらいいのに、レイラはそう思った。

 気がつくとあたりが静かだった。

 夜更けらしい。

 ヒロさんがひとり卓袱台に肘をついて煙草を吸っている。物憂げな表情、すこしハゲたマニキュア。まぶたがカメレオンみたいで、唇のまわりの皮膚がざらついていて、いつもより、二十歳ぐらいも年をとって見えてしまったのは、蛍光灯のせいか、へんな角度から見上げたせいなのか。

 肘をついて半身を起こすと、あ、起きたの、と言われた。テーブルの上には、飲みかけのグラスが二つ、つまみになるものを少しずつ取り分けた皿と、チョコレートやナッツが出ていた。ヒロさんと誰かがまだ飲み明かしているのだ。

 見回すと、女医が聴診器を耳にくっつけて、アキコの様子を見ていた。しばらく耳をすまし、ひとりでうなずき、赤ん坊の着衣や布団をそっと直すと、診察鞄を抱え、大柄な背を丸めるようにして戻ってきた。まるでおおきなクマがこっそりハチミツを盗みに足を忍ばせて近づいてくるみたいに。

「足は?」

 目があうと、前置き抜きで聞かれた。

「えっと……」力をこめてみる。「動かすと、まだ少し痛いです」

「そら、そうだろう。あたりまえだ。あれだけの傷だもの。しょうがない」女医はどっかり胡坐をかいて座り、ウィスキーらしい酒をあおった。「ま、いちんちふつかだ。傷がちゃんとふさがるまでは、海には入らないほうがいい」

 そりゃそうだわ、とレイラは思った。潮水はしみるに決まってるもの。

「……あの……」

「なんだ?」

「ここ、残り……ますか、傷」

 女医は一瞬ギュッと顔をしかめ(ますます鬼瓦みたいになる)それから、グビリとまた酒をあおった。

「いいや。たぶん残らないよ。若いんだから。第一、そんな心配することないじゃないか、足の裏なんか」

「でも」

 レイラは、チラッとヒロさんを見た。

 あたしは“菩提樹”の“ひめ”になるんだもの。傷なんかあったらいけないと思う。たとえ足の裏でも。傷は傷。不良品は不良品。B級品になっちゃう。

 こんなやつ、いらない、って言われちゃったら?

 しかるべき年齢になっても“ひめ”になれないなら、“菩提樹”にいられない。おいてもらえないなら……どうやって生きていけばいいのかわからない。

 だから、お願いです。傷にしないで。もっと痛くてもいいから、なんでも我慢するから、ちゃんと治して。きれいに修理して。

 言いたいことばが胸の中で暴れて、目からあふれた。この日、何度もこらえてこらえて溜めていたものが、ぽろり零れると、もうこらえきれなかった。感情が爆発し、肩が痙攣し、肺がギュウッと収縮する。吸いきれない空気がひっくひっくと音をたてた。レイラは泣いた。赤ん坊みたいに、無防備に、とめどもなく泣いた。

「可哀想に」ヒロさんがティッシュをとって、渡してくれた。「ひどい目にあったわね。そう言えばレイラはここに来てから、怪我ばっかりしているのよねぇ」

 ひとしきり、泣いて泣いて、思い切り泣くのは気持ちがよかった。少しばかり落ち着いてくると、女医がじっと見つめているのに気づいて、急に恥ずかしくなった。くすん、と洟を啜って、目のまわりを拭く。

「大丈夫よ、レイラ」ヒロさんの手が肩を抱いてくれる。お酒の匂いのする唇が頬をかすめ、耳にあたたかな息を吹きかけた。「そんなのなんでもなくってよ。心配いらない。すぐ治るわ。癒恵をいっぱい飲みなさい」

「……はい……」

「眠れそう?」

 レイラは少し考えた。ほんとうはもう少しここにいたかった。ヒロさんのそばにいたかった。いて、守って欲しかった。もっと甘えて、慰めて欲しかった。だからいいえ眠れませんと首を振りたかったのだが、そうするとヒロさんは困るんじゃないだろうか。この女先生と、ふたりだけのオトナの話があるみたいなのに。あたしなんかがいたら、すごく邪魔。

「たぶん」結局、レイラはつぶやくのだ。「大丈夫です」

 女医がクスッと笑ったような気がした。不器用な強がりを見抜いているように。

 そして、案の定、ヒロさんはほっとしたように微笑むのだ。

「だったら、おやすみ。風邪ひいちゃうといけないから」

「……はい……」

 風呂場の隅に用を足しにいって、包帯を濡らさないように気をつけた。包帯の足をうっかりどこかにぶつけたりしないように、ゆっくりゆっくり二階に登る。誰かがレイラの分も布団を敷いておいてくれた。

 冷たい布団に潜りこむ。足にかかる重みが気になる。

 ほんとにちゃんと治るのかな。

 もし、これで、“ひめ”失格になっちゃって、“菩提樹”から出ていかなきゃならなくなったら、いったいどうやって生きていけばいいんだろう。誰かが助けてくれるだろうか。ヒロさんやおとなたちは同情して、なにか面倒を見てくれるだろうか。それとも、ただ見捨てられて、ほうりだされるのだろうか。

 もし、おとなになっても“ひめ”にならないとしたら、いったいなにになればいいんだろう?

 いったい、なにに、なれるんだろう?

 ナルミちゃんみたいに、ねえやになればいい? でも、それってちょっとつらい。惨めだ。ナルミちゃんは生まれつきああだから、自分がひとと違うってことを気にしないかもしれないけれど。“ひめ”になれなくて、スミカやヒトシから生まれてくるこどもたちの面倒をみるなんて、寂しすぎる。こどもたちにどうしてレイラちゃんはお姫さまになれなかったの? って尋ねられたら。

 ウニを踏んだからよ。

 ああ! 

 そんなのひどいわ。あんまりだ。

 もし、“ひめ”になれないなら、ここにはいられない。みんなといっしょにはいられない。どこかよそに出ていくほうがマシだ。

 だったら、どうせなら、それでどうにか幸福になる方法を考えてみない? たとえば……もしかしてお花屋さんは? 学校の先生はどうだろう。そうして、それから? それからどうなる? 誰かお嫁にもらってくれるのだろうか。外部のひとが? “菩提樹”のことを知ってるひと? 知らないひと? ぜんぶ知った上で、それでも受け入れてくれるのだろうか……それとも、一生いっしょに暮らすだろうひとに、秘密をもつのか。ずっとずっと、ほんとうのことを黙って隠しておくのか。

 きっと、うんと遠くにいけば……日本じゅうには“菩提樹”のことなんて全然知らないひとたちがいるだろう。きっと、紛れ込める……“ひめ”になれなかった残念な子じゃなくて、ただのあたりまえのふつうの女の子になれる……。

 あれこれ考えているうちに、また眠りに落ちた。