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Mahane 9
真崎黄菜はマスカラを持ったまま、鏡に向かって「いー」をしてみた。だいじょうぶ。歯はきれいだ。まつげもしっかり上がったし、目尻に描いたさりげなくハート型なほくろも自然。オッケー。じょうでき。 長い髪をふたつ団子にまとめてミッキーマウスの耳みたいにするやりかたは2組の阿南祥智に教わった。サチは器用で助かる。メイクアップアーチストになるんだって。こんど、ジェルネイルもやってくれるって。研究で練習だから、材料費をもらえればこっちも助かるっていってくれた。ほんといい子。 頬紅を高い位置にもうひと刷毛ぽんぽんする。ママは「あんた、それ、なんかすごい熱あるみたいよ」っていうけど、ぜったい可愛いのに。なんでわかんないんだろ? 刺激性のリップでくちびるをちょっと腫れぎみにプックリさせたら、かんぺき。 化粧道具をポーチにしまい、カーディガンの袖をおろしていると、どやどやひとがはいってきた。 「おはよ」 「おはー」 早川小桃と、そのおともーズだ。きょろきょろして、なんか、さがしてるっぽい。案の定、訊かれた。 「真崎さん、星野さん見なかった?」 「マハネ? 見てないけど」 「そう」 「なんで?」 小桃は、おともーズと顔をみあわせる。三人とも勉強ができて、化粧とかしないタイプ。地味でまじめな連中。 あたしともマハネとも、接点、あんましないんだけどなー、と黄菜は思う。 「マハネがどうかしたの?」 「通り魔が出たんだって」と、金城沙枝がいう。「鹿流駅に。今朝。トマミが見たの。そこに星野さんがいたんだってさ」 「へー」 「怒鳴り合ってるみたいだったんだよね」と、トマミこと、花里真美。「星野さん。その刺されたおばさんと」 げ。 「なにそれ。どゆこと? 怒鳴りあって、頭きて、おばはん、刺したわけ? …ええっ、あのマハネが?」 「ちがうって」 「したら通り魔っていわない」 「あそか」 「無差別だよね、通り魔は」 「待って! 話ずれてね?」 「だから」トマミが強調する。「それ、槙野くんちのおばさんだったわけ」 「は? まきの?」 黄菜はますます面食らう。 なんか覚えがあるような気がする。すっごいいやな記憶に関係ありそう。でも、とっさに思い出せない。なんか頭が空転している。 「って、なんだっけ」 「いたじゃない。小学校のとき。下級生の女の子に興味ありすぎで、授業中も全然じっとしてらんなくて、ふらふら出歩いちゃったりする子がさ。背がすごくでっかくて、パッと見おとなみたいだから、ときどき先生と間違われてたやつ。あれ、あいつんちの母親だったと思うんだよね」 黄菜は、腸がひくんとのたうつのを感じた。 うわ。 思い出したよ。 まきのはるひこ。 地元じゃ有名なバカ。 ヘンタイの迷惑少年。 黄菜も壁におしつけられ、スカートをまくられたことがある。それは、黄菜が小学校にあがったばかりのころで、まぁびっくりしたったらなかった。上級生のおにいさんは大きくてちからが強くて、さからうなんてとうてい考えられなかったし、自分はこのひとに好きになられたんだ、特別選ばれたと思ったらなんだかドキドキして、正直、最初はかなり嬉しかった。 きっとイケナイことだろうなとは思ったけど、でも、それだけにいっそう得意な気もして、しばらくは、まきのくんのことを好きだと思っていた。大好きって思ってた。だって、上級生の中でも特別いちだんと大きいし、おとなみたいで、男らしいんだもの。それに、わたしのこと、好きだっていってくれた。すっごい熱あるみたいなキラキラした目で、おまえ、いいこだな、可愛いな、可愛いなって、何度も本気っぽくいってくれた。 そう、人生最初にあたしのことをほかの大勢から選んでくれて、可愛いってきっぱりいってくれたのは、あのしょうもないどスケベ槙野なんだよね。 けど。 「槙野さんちってば、どっかよそに越したんじゃないっけ?」 「うん。そう」 「だよね。中学のときは、いなかった」 「離婚したんでしょ」 「おかあさん、新興宗教にはまっちゃったとかって聞いた」 「だから、その離婚とか宗教とかの原因が星野さんなんだってば」花里真美は声をひそめた。「星野さん、晴彦くんに、怪我させられたことがあるんだ。それでさすがに問題になって、彼、ひそかに、よそにやられたの。退学っていうか、学校にいられなくなったから。知らなかった?」 「うそ」 そんなことがあったんだ? 黄菜は呆然とした。 がっかりした。 槙野くんが追っかけまわしてたのが、あたしだけじゃないってことぐらい、わかっていたけど。知ってたけど。 そりゃたしかにマハネは可愛い。 ちっちゃいころから目立ちまくりで、このあたりでは誰知らないひとのない有名人だった。ほんと嘘みたいに顔だちがととのってて天使みたいだから、一目見たら誰だって覚える。おじいちゃんおばあちゃんなんか、拝んじゃうぐらいだ。 あたしがマハネだったら、ぜったい雑誌とかに写真おくって、読モとか女優とかになると思う。 そーか。マハネにまで手ぇだしていたのか。あのバカは。そりゃ、無理だって。高望みすぎ。無謀にきまってんじゃん。ほんと節操ないなー。少しは考えろっつーの。 あー。まー。まともに頭がつかえるようだったら、槙野くんはあーゆーひとじゃないよね。 廊下のスピーカーが、ぶつんと乱暴な音をたてた。 校内放送がはいる。 ――時谷くん。二年二組の、時谷那智くん。至急、校長談話室にきてください。くりかえします……。 「うお」 「なっち呼ばれた」 女子たちはサッと顔を見合わせた。小桃が眉をひそめ、キュッとくちびるを噛む。 「緊急事態だな」 「やっぱ、その事件?」 「星野さん、巻き込まれたのかな」 「どうする?」 「どうしよう」 そういえばこの間もこんなことがあったよな、黄菜はぼんやり思い出した。マハネが急に休んだら、なんか行方不明とか拉致とかなんとかいって先生がたが大騒ぎして、ばたばたして、激しく動揺してた。 那智くんは、呼び出されて、なにか心当たりがないかとか、知ってることがないかとか、問い質されたりとかしてたらしい。 なんのことはない、あのときは、マハネはただ具合が悪くなって寝こんでただけだったっていうのに。 他の子がちょっと連絡なしに遅刻しても休んでも、べつだん、大騒ぎなんてしないのに、何週間も登校拒否とかしちゃったとかならいざしらず、一日二日サボッたからって、だーれも気にしないのに。 なんでだよ。 そんなに特別なわけ? マハネは。 ちょーっと、不愉快かも。 行ってみようかな、と、小桃がもじもじ気弱そうに言いだし、おともーズは、そうだね、そうしよう、それがいいよ、とか、かばう系なぐさめモードでとりかこんで、早足に去っていった。 あー。なるほど。 小桃は、那智くんが中学で生徒会長やっていたとき、副会長か書記かなんかだった。好きなんだろうなあ。あこがれてるっていうか。まだちょっと部下みたいな気分のままなのかも。おとりまきーズっていうか。部下でもなんでも、ちょっとでもつながってられるだけでシアワセ、みたいな気分だったりして。 那智くんは、顔は可愛いし。家はエリートだし。とにかく誰にでもメチャクチャ優しくて、ちょーいいひとだ。カノジョになるのは無理としても、細い糸ででも、つながっていたいよね。知り合いだって言い張りたいよね。 いーよねー。先生がたもヘンタイも、みんなが好きな那智くんも、ぜ〜んぶ、 マハネは、もらえちゃって。 べつに、いいけど。 あたし、嫉妬とか、しないけど。 黄菜はクリスプを口に放りこむ。がりっがりっと奥歯で噛む。 「もういっぺん聞いて。ほんとに、警察にいるんじゃないの?」 「何度も確認しました。残念ながらいません。事実です」 「おうちは? まだ連絡つかない?」 「すみません、ずっと保留で」 「誰かちょっとここ代わってくれませんか!」 いつも静かな校長談話室に殺気だって尖った声が飛び交っている。スマホとノートパソコンを何台も並べて打鍵しているもの。受話器に耳をつけて深刻そうに話しているもの。うろうろと歩き回っているもの。立ったまましきりに揉み手をしているもの。ペンをどこかにぶつけて、こつん、こつん、と音をたてているもの。 涙ぐむ女性の発言をノートにつけているものもあった。ハンカチを握りしめて嗚咽しているのは事務室の職員で、マハネからうけた電話のやりとりをなんとか正確に思い出そうとしている。自分の対応にまずい点があったのではないかと心配で、しばしば発言を訂正する。いや、こうかもしれない、こうだったかもしれない。どうでもいいような微細な点を、言い直し続けている。 時谷那智は少し息を吸って吐いて、力まずにこぶしをあげた。指関節をつかって、あいたままのドアの枠をノックする。 二回。 部屋の内側のほぼ全員がギクッと動作をとめ、目をあげ、音源をさがし、道着姿の少年を発見して、ああ、と安堵したように表情をやわらげた。 「はいります」 一礼。 廊下にあふれる野次馬連中をふりかえって、ごめん、と黙礼をして、那智は戸口をくぐり、ドアを閉めた。 ちょうどその時。 「槙野嘉文§まきのよしふみ§氏が到着したそうです。誠快病院です」 教頭が受話器を耳につけたまま言ったので、那智の到着からみんなの意識がすぐにはがれた。 「槙野氏が、元の奥さんを確認。なお意識はもどっていませんが、容体は安定。いのちに別状なし。執刀医到着をまって手術開始の予定」 「麻酔からさめたら何ていうのかしら」 応接セットの三人がけのソファの端に前のめりに座っていた養護教諭は、ひとりごとのようにつぶやいて、ちいさく脚をくみかえた。 「きっといやがるんじゃないかしら? 星海誠快病院には、彼女はいい思い出がない。知り合いも多すぎる」 「旦那さんは、いまどちらにご勤務なんですか?」誰かがたずねた。 「ひので総合だそうです」電話を切った教頭がこたえた。「埼玉県のどこだかにある個人病院だとか。あの、ちなみに、彼は、重症の槙野美弥子さんの旦那さんではなく、もと旦那さんです。念のため」 那智はあたりを見回して、校長をみつけた。パイプ椅子に、開いた膝についた両手で額を支えるようにしてうずくまっている。そばにすすみ、床に膝をつけて、そっと手をかけた。 校長は気配で顔をあげ、うつろにほほえんだ。 「おお、時谷くん! 来てくれたのか。ありがとう」 「すみません。遅くなりました。朝練中だったので、放送が聞こえなくて」 那智は口角をあげた。頬にもくっきりと笑窪が浮かぶ。 「だから、まだよくわからないんですが……いったい、どうしたんですか? なにがあったんですって?」 校長は少しばかりくちごもりながら説明した。 星海線鹿流駅前で、中年女性がひとり、血を流して倒れているところを発見された。腰の後ろ側をナイフのような刃物で刺されていた。女性の名前は槙野美弥子。持っていたかばんの中の運転免許証で確認されている。 この女性は、倒れる直前、星海高校の制服を着た女子高校生となにか言い争っているところを目撃されていた。女子高校生は駅員や警察に自分から進んで近づき、星野磨翼と名乗り、怪我人は知り合いの母親だと思うと告げるなどしたのだが、現場が混乱し、ひとが錯綜しているうちに,どこかへ消えてしまった。それきり、行方がわかっていない。 星野磨翼が、いなくなった。 「なんだか妙な話ですね。その女の人は、いつ刺されたんですか?」那智は聞いた。「いったい、どの時点で? いまの感じだと、星野さんと話すよりも前に、もう刺されていたように思えてしまうんですが……そんなひどい怪我をしているのに、なぜ、助けをもとめなかったんでしょう?」 「息子をかばったのではないかと考えています」 教頭が言った。 「息子」 「だから。時間かせぎです。逃がしたかったんじゃないのかと。通報したら、警察につきだすことになるじゃないですか。できなかったんですよ、母親だから」 教頭は自分で自分の発言に泣きだしそうになって、あわてて言葉を切り、息をついだ。 「かわいそうじゃないですか。息子が、罪に問われるかもしれないと思ったので、とっさに、ひどい怪我じゃないふりをしたんですよ。いいから、大丈夫だから、私は自分でなんとかするから、はやくどこかに行けと。あるいは、逆に、怒鳴りつけるとかなんとかでもして、追い払ったんでしょうよ。だが、そうしてみたものの、すぐ、心配になった。暴走する彼がなにをするかわからない以上、まず、星野さんに警告をしなければならないと気がついたんです。それで、駅に行き、星野さんを待った。幸い星野さんを見つけたので、話しかけた。晴彦くんに気をつけろと忠告をした。そうして、責任を果たして安心して、気を失った。ひとをひとり――自分のことですが――刺してしまった息子が、自暴自棄になって犯行を重ねないよう、これ以上、罪が重くならないよう、身を挺したというわけです」 「待ってください。……槙野晴彦くんが、おかあさんを刺したんですか?」 那智は顔をしかめた。 「ほんとうに? 彼女が、そう言ったんですか?」 教頭と校長はきょとんと顔を見合わせた。 「じゃないのか?」 「だと思ったが」 部屋じゅうのひとを順繰りに見回してこたえをさがす。みんな、いえ、わかりません、知りません、と、それぞれ横に顔を振った。 校長は、大きく吐息をつき、汗ばんだ顔をてのひらでぬるりと撫でた。 「すまん。確かに、そう言われてみれば、断定はできないかもしれない。誰にいつ何をきいたのか、わからなくなってしまった。……だが、我々はてっきり」 「彼じゃありません」那智は言った。「槙野くんはそんなことはしない。第一、できません。不可能です」 「しかし」 「なぜ」 「連絡してみます」那智はスマホを出した。「すぐつかまるかどうかわかりませんが、きっと証明できます。完全なアリバイを」 校長も教頭も驚いた顔をする。 「どういうことだ?」 「時谷くん、知っているのかね? 彼が、いま、どこにいるのかを!」 「たぶん」。那智は話しながら片手で素早くフリックして、メールをうちこみつづけた。「知ってるつもりです。ごく最近、居場所を確かめたんです。ちょっと気になったものですから……槙野くんは、思いがけないところにいました。いまもまだ、そこにいるんじゃないかと思うんです」 うわー。 来ちゃった。 と、マハネは思った。 とうとう来た。 まじ。 ほんもの。 もうちょっと緊迫感をもって対応したほうがいいような気はするのだけれど、「ついに」とか「ようやく」とかといった種類のへんな感慨がふつふつと立ちのぼってきて、いまひとつ現実感がない。おかげで、真剣味にまで欠けてしまう。 待ち焦がれていたはずはないのだが。 まるで、そうだったような気さえする。 なにしろ、小さいころからずっと心配されつづけていた。 不測の事態に陥ること。 具体的には、誘拐されること。誰かにかどわかされて、連れ去られることを。 「いつ、そういう目にあってもおかしくない」と言われ、どんなものにどう気をつけなければならないか逐一説かれつづけ、何度も何度も繰り返し注意された。 されていた。 星海町の九割は原野山林。オーベルジュ・ル・ヴェルジェの周辺は、半径3キロほど自分たち以外ほぼ無人の領域である。 あまりに茫漠と山麓で森なので、不審な変質者が待ち伏せなどする可能性は、かぎりなくゼロにちかい。真夏であろうと夜明け前は急に冷えこんでうっかり外で寝こむと凍死しかねないほどだ。眠らない都会の一角ならいざしらず、大自然の奥懐で、好みの獲物がたまたま偶然とおりかかる億にひとつの幸運をじっと忍耐し手ぐすねひいて待ちつづける覚悟と根性があるのは、野鳥研究者ぐらいである。 だが、ドライバーとなると話は別だ。 一帯は車通りも少ないが皆無ではない。どこからか来てビュンと飛ばして通りすぎていく車が一日に数台、ときによっては十数台もある。ナビがあれば、見知らぬ道でもそう迷いはしない。そこに道があるなら通り抜けてみようと思うものがあっても、不思議はない。 そのようにしてたまたま通りかかったどこかの誰かが、たまたま、ひとりで歩いている可愛らしい子どもを見かけたら? 「ちょっともらっていこうかな、幸い、誰も見てないし」とっさに決めてしまったら? 衝動的な行動に抑止力は働かない。子どもは掻き消えたようにいなくなり、いつどこでなにがおこったのか、永久にわからないことになるだろう。 雪道でもないかぎり、走ってきて停車して短時間そこにいてやがてまたすぐ走り去っただけでしかない車は、たいした痕跡も残さないから、追跡できない。山の中には、監視カメラもなく、目撃者もいない。 だから、 ぜったいに、ひとりになっちゃだめ。 知ってる道でも、たったひとりぼっちで、歩いちゃだめ。 マハネはさんざん言われたのだった。 おとなしく、おうちにいなさい。屋根の下に。お庭もだめ。畑もだめ。そばだからって油断しちゃだめ。とにかく大人に黙って何かしないこと。出かけるときは、パパかママといっしょ。かならず。ぜったい。 思えば保育園に行くようになるまで、よそのひとには近づいたことがなく、話をかわしたこともほぼなかった。スーパーやコンビニで母にともなわれてレジの前にたつだけでも、緊張のあまり震えてしまったぐらいだ。 園で、とてもおおぜいのこどもやおとな(といっても合計で三十人ぐらいだったのだ)が目の前にずらりといるのを見たときには心臓がとまりそうになったし、これからこの子たちといっしょに遊んだり歌ったりして時間を過ごすことになるのだといわれたときにはなにかの罰か悪夢かと思ったぐらいだ。もちろん、保育園だって、勝手に抜け出してはいけない。パパかママがお迎えにいくまではおとなしくじっと待つよう、さらに厳重にいいつけられた。 ほかの子はそんなことを、あまりうるさくいわれていないようだった。 ふしぎなことに。 そして、不公平で、不愉快なことに。 よの子は、こどもだけで、おたがいのおうちにでかけたり、公園にいったりコンビニにいったりすることだってある。ひんぱんにそういうことをしているようだ。 ああ! なんという自由! 放任! 信頼。 それはそれは、うらやましかった。互いに手をつないで、はじけそうな笑顔を浮かべて、いかにも仲よさそうに連れ立って駆けだしていく子たちは、ほんとうに楽しそうで、のびのびしていた。なんの心配もしていないようだった。 どうして自分にあれが許されないのか、どういう理屈なのか、そこがマハネにはわからなかった。 だが父も母もぜったいに首を縦にふらなかった。 いいえ。よそのかたがたがどうだろうと、あなたはだめ。こどもたちだけじゃだめ。ふたりでも三人でもだめ。十人でもだめ。もしも悪いひとがきて力づくで何かをしようとしたら、こどもたちでは防ぎきれない。何人いたってごまかされちゃうし、やっつけられちゃう。おそってきた敵がどこのどんなやつだったのか、あとからうまく説明できるはずがない。だから、おいかけて取り戻すことができない。 わたしたちはあなたを失うわけにいかない。 そんな危険を犯したくないのよ、マハネちゃん! ほんとうに悪いひとは、こどもだから手加減しようとか、悪いことだからしちゃいけないとか、今日のところはやめておこうとか、乱暴するのはよそうとか、そんなことを思ったりしない。ただ、自分が好むことをするだけ。したいことをするだけ。しなくてはならないと思いこんだことをするだけ。邪魔ものは、ためらいなく取り除く。だから、用心して、注意して、ぜったいに油断をしてはならない。わかってちょうだい。お願い! これだけきっぱりいわれて、それでもいやだとごねることができるほどマハネは強くなかった。黙ってこっそり言いつけを破るなんてことができるほど、ずるくも器用でもなかった。そもそも、そんなことをしてほんとうにとりかえしがつかなくなってしまうのではないかと思うと、怖くてたまらない。 よそのひとはみんな、悪いひと。なのかもしれないひとたちだ。 優しそうな先生だって、おともだちのおとうさんやおかあさんだって。ただ、うまく外面をごまかしているだけで、ほんとうは怖い、ずるい、恐ろしいひとたち、かもしれないひとたちなんだ。誰がどんな薄気味の悪いことを考えているかわかったもんじゃない。 だから、 疑って。身構えて。 気配を読んで。 凶事には必ず前兆がある。ポカーンとしてると気付けない。 リスクは死角から近づいてくる。だから四方八方に注意を怠らない。最悪のパターンを想像し、それに対応する逃げ道を探せ。 園の先生やよその親に話しかけられても、マハネは、かわいげのない、無口でぶっきらぼうな子どもだった。とりつくしまのない、打ち解けない子ども。なにを考えているのかわからない、愛想のよくない子ども。はい、いいえすら、まともに答えない。強いて反応をうながすと、怒ったようににらみかえし、かすかに首をふったりする。目と目をあわせようとすると、視線をはずし、顔を伏せる。笑っていれば可愛いらしいのに、笑顔なんかめったに作らない。ともすると、おどおどした、ぴりぴりした、なつかない野生生物みたいな、警戒心だらけの子ども。 何年もそばで過ごしてきた同じ園のほかの子どもたちとは、さすがになじんだ。それなりに不器用に関わり合った。小さな声で、短い会話をすることもできた。だが、ちょっと何かすると、すぐ緊張して、また石のように無表情になる。素性のよくわからない相手が無理に打ち解けようとすると、迷惑がって逃げだすか、その場でカチコチの石像みたいになった。 父も母もそれでいいのだという。むしろ、そのほうがいい、事態をなめてかかって油断して取り返しのつかないことを招くぐらいなら、扱いにくいいやな子でかまわない、警戒しているほうがいい、というのだった。 ずいぶんへんちくりんな子どもだった。星野さんちは、感じの悪い、ひとを疑ってばかりいる、へんな一家だと思われていたことだろう。 他人がみんな悪巧みをしているように見え、こわいことがいますぐ降りかかってくるのかもしれないなんてことばかりを考えていたから、当然のこととして、マハネは、眠れない子どもだった。 長い夜、ぽかんと目をあけたままでいると、あまりにひとりで、ひとりぼっちすぎて、胸の奥のどこか赤剥けてひりひりした。 あおむけで天井を見ていると、朝ははるかに遠くなる。どんなに必死に泳いでも永遠にたどりつけない対岸にあるように思えてくる。ぬいぐるみを抱いて、においをかいでみる。ちょっと泣いてみる。絵本をながめ、指で字をなぞってみる。オルゴールをかける。万華鏡をのぞく。ふとんにもぐって、じっとして、自分の吐く息であたりがじわじわ湿っぽくあたたかくぬくまっていくのを感じる。細いくびすじに手指をあてて、動脈がぷくんぷくんと孤独な戦いを戦いつづけているのをたしかめる。とまらないあたたかいいのちのしるし。自分のいのちに抱きしめられて、マハネはようやく眠くなる。 窓の外で、湖はいつも静かだ。 いつもいつも。 星空は水面でひっくりかえって二重に輝いていた。 そうして、ひとりあそびのうまい幼女は、へたれでこわがりな女の子になり、強がりで強情っぱりな少女になった。 たくさんの夜をひとり過ごした。たくさんの時間をこころに刻んだ。 本気なんて他人には見せない。そんなものどこにもない。だから、自分にも見せない。 物語の本を読み、トランプ占いをし、ゲームをし、日記や散文やスケッチを描いた。針と糸でなにかをつくり、木っ端とタイルでなにかをつくり、ウクレレやリコーダーを練習し、深夜ラジオを聞き、ネット社会を跳梁した。 すべての夜はかりそめの夜。架空の虚構の妄想の夜。こころは物質に所属せず、無限で永遠。時間も国境も物理法則も超越する。 そうして、 たいして悪いひとにもあうこともなく、ほんとうに怖い思いもせず、ただの一度も誰にも誘拐されることもなく、これまで育ってきたのだった。すくすく大きくなったのだった。 いまだに、ひとりで出かけるのは苦手だ。知らない場所や慣れないところ、人通りがすくない方面には近づきたくない。知らないひとや車が限界をこえて近づいてきたら、猛ダッシュで逃げる。 「そういう目にあってもおかしくないんだから」。 でも、 そうでもなかった。 十何年、そういうことは一度もなかった。こんなにびくびくしてなくったっていいのかも、ママたち、ちょっと心配しすぎ、自意識過剰なんじゃないかなぁと思うようになってきた。 だから、 今回、こうして、どうやらついに「知らないひとに車でつれていかれ」たことに、どういったらいいのだろう、面妖な感慨を覚えたのであった。 やっと、というか。 ついに、というか。 そーかそーか、そうきたか、というか。 ――待ち焦がれていたはずはないのだが。 まるで、そうだったような気さえする―― むろんけして歓迎なわけではないのだが、たとえば、いつかしなくてはならないときまっている当番がとうとう回ってきたのでちょっとホッとした部分もある、みたいな、イヤはイヤなのだけれどある意味「よし」でもあるような。なぜなら、それが当番であるかぎり永久に順番がこないはずはなく、一度クリアしてしまえばそれでパスできることになって、二度となしですませることができる、卒業できることになるからだ。 歯医者さんのチュイーンという音はこわいけれど、かといって永遠に待合室にいるわけにはいかないんで、はやくしてほしいです、さすがにもう飽きました、みたいな。 こらこら。いかん。だめだめ。にやにやなんかしてたら、おバカさんみたいでしょう。 ていうか、あたしって、ほんとにバカなのかも。 マハネは思う。 ないんだろうと思ってた。 もう小学生じゃあないんだし。怪しいひとぐらい見分けがつくし、本気で抵抗すれば、さらわれるなんてありえない、逃げられないわけがないじゃん、はははバカバカしい! とさえ思っていたというのに、まあ、あきれた。なんてことでしょう。こんなにまんまとさらわれちゃうなんて。 というわけで、 「星野さんでしょ」 と訊かれ、 「チャレンジャーって、聞いたことあるかな」 と言われるあたりまでのわずか数秒に、マハネが考えたのは、おおむねこういったことだったのだ。 相手の声は耳に届いてはいたが、さまざまな思いの波があまりに激しくざぶざぶ打ちつけてくるものだから、そちらに気をとられてしまって後回しになった。十数年の来し方についてのしょっぱい波がたたきつけおしよせるたび、まとまりかけた考えも砕けて飛び散ってはるかあっちのほうに追いやられた。なにもとうていきちんとすくいとることができず、反応がおくれた。 ひとしきり、考えと感慨をへめぐった。集約すれば うわー。 来ちゃった。 とうとう来た。 まじ。 ほんもの。 これは困ったなどうしようと目をぱちぱちさせると、グレイのフードを深々とかぶった姿が視野にはいって、ようやく、意識がもどってきた。 ひっかかった。 どきりとした。 誰だっけ? この感じ、わかる。知ってる。どこかで見た。 舌にざらりと、いやな味がした。 その記憶はずいぶん古い。埃まみれだ。長いこと、見ないようにしてきたもの。うっかり思い出さないように,がんじがらめに封印して、そのせいでかえって目立ってしまっていた。そう、どこにあるかはわかっている。でも、さわりたくないから、ないふりをしていた。 あらためて取り出すのには勇気が必要だった。冷蔵庫の中でいつから忘れられていたかわからないなにかを見つけてしまったときのように。 車はまだ走りつづけている。いつの間にか、どことも知れぬ山の中の道にいる。狭くてくねくねしていて、砂利道で、タイヤが滑る。ほんの少しでも運転をミスしたら、路肩を踏み外して、樹海にむかって転げ落ちていってしまいそう。 標識のようなものは見当たらない。あったら見ておかなくちゃいけないと思う。ここがいま星海の町内なのか他県なのかさえ、マハネには区別がつかなかった。肩紐がずりおちた通学かばんの中にはスマホがあったはずだ。電源を切ったおぼえがないからオンになったままなはずだが、圏外だろうか? GPSは効いてるか? 冷や汗。 確かめたい。 でも、いま、動いたりしないほうがいいかもしれない。何かにさわったりしないほうがいいかもしれない。スマホなんて見つかったら、きっと取り上げられる。捨てられてしまう。 まだ取り上げられてないのって、へんなんじゃない? こいつら、そんなにも愚かなの? 誘拐犯のくせに? それとも、スマホごとき気にしなくていいってこと? そのぐらい自信がある? 犯行計画に? ああ、そうだ。グレイのパーカー。フードでみえない顔。 あれは彼だ。あのひとだ。 すごくゴツくて、大きくて、乱暴な。やたら力の強い。 ちょっと混乱する。この彼は、あのひと? そうだっけ? こんな気配がするひとだっけ? チャレンジャー。そう名乗っていた。 それって、なんだっけ。 焦るあまり、思考がうまく留められない。手がやたらに震えて、うっかりものを落とすみたいに。 挑戦者§チャレンジャー§? なんだっけ。 とても重要なこと。 最近聞いた。ごく最近その単語を耳にした。そう、パパの長い長い話の中に出てきたんだ。そのときも違和感だった。それなに? そこでこのことばをそう使うの? みたいな。話の途中で邪魔をしたくなくて聞きそびれてしまったけど。 チャレンジャー? それ、敵なんだろうか。 チャレンジするのって悪い意味? 挑戦って、ふつう善玉側§ルビ・いいもん§がするものなんじゃない? ほら「巨悪に挑戦」とか。 ――巨悪―― と言う言葉を思い浮かべたとたんに、 大きな大きな樹が見えた。 星の王子さまの挿絵の、惑星に根をからませてはびこった三本のバオバブ。 ラピュタのエンディングで真空の宇宙空間に浮き上がっていったキノコみたいなブロッコリーのおばけみたいな、あの樹。 どこでもないどこかにある。 おおきな、おおきな、おおきな樹。 女の人がいる。 白いドレスが風にそよそよなびいている。 まるで、笑っているみたいに。 「どうしたお嬢ちゃん」 ドライバーがミラーごしにからかうような視線を投げてくる。 「なんだ、車に酔ったか?」 「いえ。大丈夫です!」 マハネは言った。 「なんともないです。ご心配、どうも、ありがとうございます」 身についた習慣でくるまに乗ってすぐ直後にきちんとシートベルトをしめている。マハネはその先端の留め金の部分にさりげなく手をかけた。 「あの……すみません。ちょっと聞きたいことができてしまったんですけれど。いま、いいでしょうか」 男たちは黙った。 目配せをしている。 「……なんだ?」 助手席の若いほうがフードをおろし、警戒気味に発言した。 きっとこの助手席のひとのほうが、白手袋のドライバーよりも、ポジションが高いのだろう。チャレンジャーとしての地位が。 「はい……あなたの名前は、……あの。サトリマル§五文字傍点§さん、ですか?」 はえっ、と、奇妙な声がした。 びっくりして思わず漏れてしまったような声だ。 正解だったのだと、白状したも同然だ。 「ああ、良かった」マハネはホッとした。「あってましたね。でも、どういう字を書くの? そこまではわかりません。孫悟空のゴじゃないですね。覚醒のカクでもないな。聞いたことのない苗字です」 奇妙な間ができた。 車は走り続けている。 どうやっておりようか。マハネは考えた。あまりえぐいものを見たくないし、痛いめにあうのもあわせるのもいやなんだけど。 「あの」言ってみる。「ちょっと、とめてもらえませんか?」 返事はない。 ええい。 ひとが下手に出てるのに。いまのうちに降参してくれれば、お互い、いいのに。 「お願いします。ただ、おろしてくれるだけでいいんで。そしたら、自分で帰れるんで」 「こら走れ!」フードの男はドライバーに怒鳴った。「なにしてる! とまるんじゃない!」 「で、で、でも、そういわれましても! ……うわあああ! なんだこれあ!」 風が巻き,木の葉の集合体をあやしい生き物の姿に似せてまた解け散る。フロントグラスは明るい緑に染まってしまう。行く手の枝という枝が次次に覆い被さってくるからだ。通りすぎるスターにさわろうとするファンのように。舞踏会の出席者がヒロイン登場を祝ってうやうやしく順番に会釈していくように。 地面だってじっとしていない。波うち、盛り上がり、泥の手をさしのべる。とじこめておけなくなった根っこたちが、鞭のように舞いおどる。 ドライバーは必死だ。制御を保とうとして。腕や肩の筋肉が限界まで盛り上がっている。ハンドルを握る手袋がしゅうしゅう湯気をたてはじめ、やがてポンと発火した。悲鳴。たまらず手をはなしたので、助手席の男が横からあわててハンドルをつかもうとし、ううああちっ、と顔をしかめる。 「……槙野くんちに、いったんですか?」 マハネの口調はとがめるようではなく、むしろ悲しげだ。 「脅したんですね。そんな格好をしてみせたりして」 グレイのフードを深々とかぶった何者かが、玄関のあがりがまちのうす暗がりに立っている。 美弥子さんはさぞかし驚いて、ショックで、心臓がとまりそうになったことだろう。 だめよ。きちゃだめ。おまえは、ここにはいてはいけない。 こない約束。 おかあさんは言う。説得しようとする。なのに、ぬうっと黙って立っている。 だめだったら。 おかあさんは半狂乱で、台所にとってかえす。どうしよう。どうしたら。どうするの。震える手がシンクの下の扉をあけて、愛用の包丁の柄をつかむ。にぎりしめる。そう。これだ。これならいい。これならわたしのもの。ずっとつかってきたわたしの右腕。きっとわたしの味方をしてくれる。わたしを裏切ることがない。 決意をかためて、玄関にもどる。ごらん。見えるわね。刃物です。ほんものよ。シンケンです。真剣です。 わたしはとても本気です。 だから 行きなさい。帰りなさい。おまえのいるべきところへ。 さもなければ、 こんどというこんどは、 おまえを殺してわたしも死にます。 「ひどい」 マハネの目が涙でいっぱいになる。 「やっとふさがっていた傷口をわざとこじあけるような真似をして!」 刃物を握ったままの手を思いきり突き出した。サッとすばやくしたはずなのに、手首をあっさりつかまれた。若いちからにはかなわない。男のちかちにはかなわない。こじられて、握りしめられて、とても痛い。握っていられない。落としてしまいそうだ。 はなせ。こら。はなしなさい。 母は母親の愛と権威をことばにこめて、叱りつける。いうことをききなさい。さからうんじゃない! その瞬間、遠い昔、そっくり同じことがあったのを思い出す。息子に困らされて、どうしようもなく追い詰められて、なんとかわかってほしくて、いや、つらくて、こらしめたくて、打ちかかった、なのに、届かなかった。サッ、と、避けられてしまった。息子は知らぬ間にずいぶん大きくなっていて、男子らしくたくましく成長していて、中年女にやられるほど愚鈍ではなかったのだった。母ののろまな不器用な手がどちらに伸びようとしているのか、なにをしようとしているのか、彼にはしないうちからわかるのだった。事前に読んで、ひょい、ひょい、と避けた。いとも簡単に。まるでからかっているかのように、避けられて、空転して、バカみたい、息がきれるばかり。 こら。このっ! 動くんじゃない。そこにじっとしていなさい! 母は怒鳴る。おとなしくして。すなおにぶたれなさい! 刃渡り二十センチをひらりひらりとぎりぎりで避けられてしまい、さらに踏み込んだその瞬間をねらって懐に飛び込まれた。肋骨がドンと押され息が詰まる。柄をつかんでいる手を上からぐっと遠慮もなしに握りつぶされた。痛い。こんな痛さ。関節がくだけたかもしれない。いやあっ! もがいた。はなせ。はなしなさい。暴れる。ちぢんではじけて頭をふる。ちからがゆるんだすきに、ようやくくるりとからだをまわした。と。熱い棒が腰にささっていた。 車はノッキングし、はげしく蛇行した。目に見えない大きな大きな猫にくわえられ、ふりまわされ、もてあそばれているかのようだ。男たちは他愛もなく浮き上がり、車内のあちらこちらに、がつんがつんとぶつかりまくって苦悶と憎悪の声をあげる。 シートベルト、しないからよ。 マハネはくちびるをとがらせる。 あんたたちには、あきれたわ。いっちゃなんだけど、そんだけのことをしたんじゃ、罰があたってもしかたないと思う。あの気の毒なおかあさんを、あんなふうにいじめて! 怪我までさせたりしたんだから! 車は暴れ、横滑りをし、立ち木に激突し、はじきかえされて、はずんだ。路肩からはみだしたところで、さかさ斜めになって、なんとか停った。 ひどく傾いたまま、かろうじてバランスを保っている。後輪が浮いてきゅるきゅる空転している。運転席と助手席はあちこちぶつかった痕跡で、ひどくつぶれてぺしゃんこだ。フロントグラスも割れてざくざくだ。ドライバーの顔が見える。どこか切れたようだ。額から目のあたりに血が流れている。だが助手席のほうがもっと損壊がひどい。熟れすぎたトマトのように真っ赤にふくれたサトリマルの顔。となりに靴の裏が見える。かなり窮屈で無理やりな姿勢。どこか折れたにちがいない。 くそ! サトリマルがわめく。く、苦しい。ひっぱってくれ! 出してくれ! 動けません。くそ。なんとかしろ。はやくそこをどけ。痛え。ちぎれそうだ。むりです。なにかにひっかかってて。はさまれてて。あ、だめ! だめです。揺すらないで! 崖なんですよ。落ちちまう! 「気をつけて」 マハネは言った。 すこぶる冷静に。 「ここに、いま、あるものが近づいている。やがて来るわ。もしできるなら、目をつぶっていたほうがいい。それは、もうすぐ死ぬひとにしか見えないものだから」 「ばかな!」 サトリマルの顔がぷつぷつと大量の汗の玉をうかべていく。とびだしそうになった両眼の黒目は左右でかなりずれている。 「くだらねえ。そんなもん、どうせ幻想だろうが! 悪夢だ。錯覚だ。てめえらのくそ幻術ごときに、やられてたまるか!」 「勇敢なのね。左部丸§サトリマル§さん。さすがチャレンジャー。あ。そうか。こういう字を書くんだ。やっとわかった」 マハネは、かちゃん、と、シートベルトをはずした。 「……あのね。ごめんなさいって、いうならいまですよ?」 少しだけ待った。 待ってあげたのに。 チャレンジャーたちは互いに言い争うのに気をとられていて返事をしなかった。マハネの温情で、特別のチャンスをもらったことに気がつきもしないようだった。 「さようなら。左部丸さん。それに琴平さん」 なんであいつ俺らの名前がわかるんですか? 上擦った声で運転手がわめいている。なんであいつ、どこもはさまれていないんですか!? なんで怪我してないんですか? マハネはそっとドアをぬけ、そこを閉じた。ばたん。そんなに乱暴にしめたわけではなかったが、それでも衝撃があったらしく、車がまた少し滑り、崖につきだし、閉じ込められたままのふたりが悲痛な苦悶の声をあげた。 しーらない。 もうおそいし。 もともと、じごうごとくですよーだ。 マハネはふりむかなかった。 自然な歩調で歩きだす。 熊笹の藪。いばらとかたばみときりんそうの藪。霧のたちこめはじめた林床、岩についたたくさんの苔。 どこからどこに行くでもない、道なき道だ。でも、立ち止まって耳をすますと――こころをすますと―― こっちだ。 わかる。 なにかがいる。 それがわたしを呼んでいる。 夢と幻影の違いは、それを見ているときに目をとじているかあけているかだそうだ。 夢は眠りの領域の産物であって必ずまぶたを閉じた状態で見ているもの。他者と共有できる現実にそうでないものが重なって見えてしまう幻影とは、まったく種類がちがう。夢の組成は純粋に夢である。夢の中ではもちろんいろいろなものを見る。だから自分としてはちゃんと目をあけて視覚をつかっているかのように錯覚する。ああこれは夢だなと自覚して、では目覚めてみようと決意して、まぶたを開けた……はずなのに実際にはまだ閉じていて、開くことができておらず、醒めたつもりなのにまだ夢の中、というのはよくある話。 ままならないのは夢も幻影も同じ、「こんな夢を見よう」「こういう幻影を見たい」決めてかかってそうできるわけではない。 夢を歩くにはコツがいるのよ――と、ママは言った。それは、どうってことない、ほんのちょっとしたことなんだけれど。 何も教わらなくても最初からうまくできる子もいる。走ったり、自転車に乗ったりするのと同じ。なかなか覚えられなくて、不器用で、練習に苦労したり、転んでけがしてしまう子もいる。こんなこととうてい無理って、投げ出したくなる子もいる。 けれど わたしたちには癒恵がある。 と、母は言った。 癒恵の果実の成分には、ふつうは使うことがない脳のどこかある部分に特殊な回路をつくりだす働きがあるんですって。ドラッグみたい? そうね。そういうものの一種なのかもしれない。真さんは、微細な寄生生物か酵素のようなものかもしれないと言ったことがある。わたしたちは、癒恵と呼ばれるものとこのからだを共有し共棲する生き物なのかもしれないと。 (わたしたちが人間じゃないとしたら、そこかもしれないと) いずれにしても、癒恵の効き目はけっして劇的なものではない。その与えてくれる能力は何年も何十年もの時間をかけて、じわじわ、少しずつ、向上させていくしかないものです。 もちろん、能力と名のつくものがなんでもそうであるように、天分とか、向き不向き、調子の善し悪し、はある。必要とされるかどうか、誰に求められるか、生かす場所を得られるかどうか、そういうこともある。 けれども、 種が苗になり、若木になり、やがて、太くなり高くなり見上げるばかりの大木になるように。 わたしたちは、菩提樹を育てる。 自分の、うちがわに。 そして、菩提樹とわたしたちは、ひとつのものになる。 途中のどこかで事故があったり、ひどくしくじったりすると、せっかくのちからが生かせなくなることもある。 幼い子どものうちから始めれば、それだけ、しっかりとした基盤ができる。スポーツでも、ピアノやバレエでも、囲碁とか将棋みたいな頭脳を働かせるものでも、そうでしょう? 好きな子はごく小さいうちに自分が大好きななにかを見つけるものだし、小さな子どものころから頑張りつづけてきたのでないと、なかなかものにならないことが多い。きっと、同じこと。 他のひとにとっては、理解できない苦労にしかみえないことでも、やらずにいられないことがある。 ただ、好きだ、というのとは、違うかもしれない。取り憑かれてしまうなにか。せずにいられないなにか。それをするために生まれてきたなにか。 とにかく、 菩提樹の子どもたちは、生まれたらすぐ癒恵のエキスを与えられるし、毎日癒恵の恩恵をうけて育つ。おかあさんのお乳にも、菩提樹でつかわれるすべての水に、それはふくまれている。 あの香りを嗅げば、ほっとするし。 癒恵のことを考えただけでも、心が澄んで、落ち着いてくる。 肝心なのはリラックス。りきまないこと。緊張しないこと。 できてあたりまえだと、これは自分にとってふつうなことだと信じること。 妖精の粉をかけてもらって空を飛ぶようなもの。 好きなことなんだから、嬉しいことなんだから、わくわくした楽しい気持ちにならなくちゃね。 母は、ママはことばで説明するのがあまり得意じゃないからといって、何度も何度もやってみせてくれた。わたしの夢を歩いたり、わたしにママの夢を歩かせたりした。 夢を歩くときは、身軽にかぎる。自分をなるべく小さく軽くする。薄くして、透明にして、シンプルにして、余分なものを脱いではがして削ぎおとしていく。雑念とか、痛みとか、緊張とか、心配事とか、まだはじまっていない遠い先のこととか、とりあえず用のない感覚をひとつずつ脱ぎ捨てて、わきにおいやる。なにかを儀式にしたり、特別の衣装やアクセサリーを補助にしてもいい。お香を焚くとか、音をならすとか、呪文をとなえるとか。なんでもかまわない。自分が好きで、気持ちがよくて、「これだ」と思えるものなら。「これが自分のスイッチ」だと、そう、自分で決めればいい。そのスイッチをオンにすれば、はだかのゼロの素の骨格の魂だけの自分になるように訓練する。 そこがスタート。 じゅうぶんにからっぽになった器には、いろんなものが殺到してくる。真空にびゅうびゅう勢いよくモノがなだれこんでくるように。あまり押し合いへし合いになってしまって、いちどにいっぱい吸い込んでしまうと、よりわけるのがたいへんで、きちんと並べなおしてみるだけで、へとへとになってしまう。だから、そのへんは自動で、ほったらかしでもいつの間にかどうにかなるようにしておかないといけない。選ぶとか、区別するとか、なにも頭をつかっているわけではないのだけれど。そう、こころをつかう。こころのどこかをつかう。直感がたより。勢いや分量に圧迫されて窒息しないよう、流れに打ち倒されて深みにさらわれてぽよう、しっかり踏ん張っておかなくちゃならない。 とてもからっぽなのに、からっぽな自分を、ちゃんとたもっておかないといけない。 座禅、ってやったことないけど、なにかはちょっと似てるかもしれない。 重心は低くする。地に足をつけておく。足の裏の感覚を敏感にする。「あがる」の反対だ。錨§アンカー§をうって安定させるからこそ、安心してこころを自由きままに飛ばしておくことができる。吹き流しておくことができる。たこいとをむすんだたこのように、どこまでものびやかに飛翔させることができる。 そうして、訓練どおり、できるかぎりからっぽになって、わたしは歩いた。 さっきこころで聞いた声に導かれるままに。 沢をたどり、木の間をのぼる。滑りやすい斜面で、たちまちふくらはぎが痛くなったけれど、文句はいわない。黙々と歩く。黙々と歩く。ただ黙々と歩く。もうどれだけ歩いたかわからない。なにも思わず、なにも迷わず、ただ歩く。 わたしはからっぽのうつわ。 満たされることを心待ちにしている。 ――と。 ふいに、目の前に大きな大きな樹があらわれたのだった。 明るく透き通る緑のはむら。光に満ちた若葉のいろ。生命の輝き。何枚も何枚も重ねられたレースのようなみどりのフリル。さわやかで清浄な深山の気配。 神域。 圧倒的に巨大な樹木そのものがご神体だ。 ――ああ、ここだ。 わたしは思う。 マハネは思う。 たどりついた。 ここがきっと、 海からいちばん遠い場所。 だとすればそこにあるのが菩提樹でなくてなんだろう? もちろん菩提樹という名で呼ばれるほんとうは菩提樹ではない菩提樹。ひとがみずからのうちに育てる、菩提樹。 大木の高枝を見上げれば、白いゆったりした服をまとったきれいな女のひとがすわっている。衣服の袖や裾が長く垂れさがり流れおち、ふわふわ風に揺れている。衣服のあちこちや髪の中にいくつもさまざまな種類の花が咲いている。大樹に抱かれそれとひとつにとけあった妖精の女王。彼女はみずみずしく若々しく美しいけれどほんとうは見た目よりずっと年をとっている。この樹とともに、この樹ができたときから、何世紀も何世紀も前からずっしりとあったのだから。永遠のように長いことあって、さまざまな時や世やひとびとのいとなみをながめてきたのだから。 ――サヨラ? (おばあさま) 目があうと歓迎するようにふんわり微笑んでくれた。くちびるは甘くハート型だ。恋人の接吻を待っているようだ。長くゆたかな髪が帯電でもしたようにふわふわと広がって舞う。天女のはごろも。しなやかな指は、すうっと気配もなくついの間にかもちあがる。その手の中に、なにかが生ずる。こちらへやさしく押しやって送ってよこす。 ……うけとる。 癒恵。 神のたべもの。 魂の供物。 またの名を、世俗に知られる名を、りんご という。 ただしこれは世にあまたあるりんごのどれとも違う、いわゆる品種改良をほどこされた末端のりんごではない、もっとも古く純粋で精妙なりんごの中のりんごである。もっとも原始的なりんごであり、もっとも源のりんごである。 ああ、なんておいしそう。そういえば、喉がかわいている。 マハネはがぶりと齧りついた。 神である主はひとに命じておおせられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」 (創世記2−16) その木はまことに食べるのによく、目に慕わしく、賢くするという木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にもあたえたので、夫も食べた。 (創世記3−6) 「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。いま、彼が、手をのばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように」 そこで神である主は人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。 (創世記4−22.23) おいしい。 甘くて、酸っぱくて、とてもみずみずしい。 ちからが満ちてくる。 あたたかな波のような、すがすがしい風のようなものが流れこんでくる。ハーブのシャワーのように清浄な潤いが鼻腔に肺に髪に肌にどこまでもやさしくしみとおってゆく。癒恵の――始原のりんごの――香りと露が全身をひたし、流れ、つつみ、ふりそそぎ、やさしく洗って整えていく。血の中に、細胞の中にとけこみ、脳と内臓のあらゆる器官をめぐりあるく。しらず溜まった不浄も、詰まっていた細かなゴミも、いらぬ雑音も、すべてとかし、流し去ってしまう。きれいにする。新しくする。 リフレッシュする。 リセットする。 リロードする。 Re−in−goする。 だからもう大丈夫、もうなにも怖くない。心配もない。不安もない。澄みきってすっきりクリアになった。 コンティニュー。 最適化した状態で仕切り直し。その斬新な心地よさは、思わずうっとり、目を細めてしまうほど。 わたしは生まれかわる。 なんどでも、まっさらになる。 目をひらく。 高い枝のそのひとを見上げる。 サヨラ。 ママのママ。おばあちゃん。わたしたちの長。 源。 サヨラはいる。消えない。消えてなどいなかった。彼女はいまここにいるし、ずっとずっといたのだった。ずっと前から知らないうちからわたしを守ってくれていたし、わたしに微笑みかけていた。わたしのうちにも彼女はもどっていた。小さくなって。種子のように眠っていた。 もっとも必要なとき、サヨラはめざめ、わたしを満たし、わたしをひっぱりあげる。 覚醒させる。 侵略? 感染? 憑依? もしかすると。ある面からみれば。そうかもしれない。そうとも言えるかもしれない。でもだったらなに? そうじゃないかもしれないし、そもそも少しもいやじゃない。 だってわたしはわたしで、わたしのままで、そしてサヨラで、サヨラの末裔で、サヨラの依代で、巫女なのだから。 わたしたちはとても古い種族のひめだ。 空と海とみどりと同じぐらい古い。 イブと同じぐらい古い。 わたしたちはどこまでも永遠に大きく、そして無限に小さい。ぜんたいとしてみれば世界に重なるぐらい。長い年月のすべてと同じほどの経緯と規模がある。けれど、独立したいっこのいのちは、小さくて、ささやかで、儚い。 ゆえに愛しい。 このゆたかな大樹の幹に無数のほとんど無限に見えるほどたくさんの枝があり、そこに、あまたの実が星の数ほどの実がみのっているのと、まったく同じこと。ひとつの実に、ぜんぶがある。たったいっこの実が、はるか遠くまで旅をして、別の地に根づいて芽吹くことだってある。たったいっこの種が、おおきなおおきな樹になる。世界になる。 そこに場所を、つくる。 みんなの居場所を。 わたしは、ひとつの種。 わたしたちは果実。 おおきなおおきな樹にみのる。 そのおおきさが、 ――巨悪――? 誰かをいらだたせる。 不愉快にさせ、 脅かす。 「あんたはいいわね」 いわれたことがある。 「住んでる世界がちがう」 「世が世なら、こんなふうにしゃべれない」 「お近づきになれるはずがない」 どうやら、「しきいが高い」というような意味らしい。 わたしたち家族を「お高くとまってる」と思うひともあるみたいだ。 そんなことないんだけど。 ていうか。1 わたしたちはこんなふうにしか生きていられないだけなんだけど。 だって、うちのお商売は、秘密の特別のかぎられたお客様むきの隠れ家レストランで。そういう内緒の居場所を必要とするひとに、家族みたいな気分とか、安心できる居心地とか、ぜったいのプライバシーとか、味わっていただかないといけないから。 そういうことを成り立たせることができるように、全力で頑張らないといけないから。 交流がぜんぜんないわけじゃない。たとえば参観日とか運動会には、パパやママが学校にちゃんと行った。よそのおとうさんやおかあさんとだって、ちゃんとおつきあいした。行事や、ご近所の集まりにも、そんなにうんと積極的じゃないみたいだけど、いちおう参加した。 表面的には、ふつうなはずだ。 わたしの部屋にクラスのおともだちがあそびにきたことだってある。地域のお祭りやちょっとしたお買い物に、待ち合わせておでかけしたことだってある。 そんなにあんまり何度もってわけじゃないけど。 親友とか、仲間とか、なんでも言い合えるおさななじみとか、考えてみれば、わたしには、たしかに、いない。 残念なことに。 できるなら 町の子になりたかった。みんなと同じがよかった。遠慮なく、ふつうに、つきあいたかった。うちとけて、秘密も話して、ほんとうのともだちになりたかった。なんでも自由で自然にふるまっているように見えるよそのうちの子たちが、ほかの子たちが、うらやましくってねたましくって、ならなかった。 家が近所とか親が親戚とか、ずっと同じクラスだったとか、そんな子がいたら、どんなにいいだろう。あいたいときすぐあえて、宿題もいっしょにやれて、いっぱいあそべて。もしかしたら、お泊まりだってできる。ひとつのおふとんにくるまって。朝まで女子トークするの。 でも、 できなかった。 それはたぶん、森と湖と星のせいで、パパとママとうちの商売のせいで、癒恵のせいで わたしが人間じゃないから。 ヴェルジェは、果樹園という意味。 うちのまわりには癒恵の樹木がとてもたくさん生えている。夏の終わりころ、ふちどりがあざやかな緑色をした白い花がたくさん咲き誇り、やがて、すずなりの果実になる。うっとりするような香りがする。 癒恵の花が咲くと、空気もかわる。実ると、森じゅうが、癒恵の気配で満ちる。収穫して、貯蔵して、どんどん食べる。ジャムやジュースにする。もちろん一部は苗木に。 ハーブや野菜だって自前の畑でそだてているし、ママは薔薇やほかの花もたいせつにしているし、りんごやブルーベリーや栗なんかもとれるけれど、やっぱり癒恵が、癒恵こそが、うちのレストランの肝心なところだと思う。 癒恵はその名のとおり、疲れたからだや弱ったこころを、元気にきれいにととのえる。 つまり、お客さまがたはその癒恵こそがめあてなのだ。湯治場に行くひとがいるように、ウチに食べて泊まって、癒恵の特別の恩恵をとことんあじわいにくるのだ。 さっき、車の中で、誘拐されて困っているはずのときに、圧倒的に巨大な一本の樹のイメージがあらわれてきて、それをながめているうちに、マハネは謎がとけた気がした。 菩提樹。 癒恵。 エデンの果実。 神さまの楽園に、すごくたいせつな樹がたった一本しかないなんてことがある? そんなずさんで不用心なことを、完璧で偉大な神さまがする? そりゃあ病虫害とか天災とか果実泥棒とかは心配しなくてもいいかもしれない。神様だけに。けど。でも。でもね。 素敵な樹がたった一本しかないところを、ふつう、楽園とは、いわないでしょ。 なにしろ、うち――オーベルジュ・ラ・ヴェルジェ――の庭にでさえ、何十本って癒恵があるんだもの。たくさんある、たっぷりある、ゆたかにある。見渡すかぎりある。 ほっと安心できるその景色も、楽園の条件だと思う。 だよね? そうなんでしょう、サヨラ? 「われわれのひとりのような」――楽園の住人のような――サヨラ。 ひめの中のひめ。 エデンの園は果樹園だ。りんご園だ。きっと見渡すかぎりたくさんのりんごの樹やほかのくだものの樹があったんだろう。 おいしい果実がたわわに実っていたんだろう。 人間は――聖書によると――知識の木からとって食べた。 男女それぞれがこっそりひとつずつ食べちゃって、ばれた。ごまかせなかった。なかったことにできなくなった。 そして追放された。 「いのちの木から食べることができないように。二度ともどってこれぬように」 もしかして知識の木§四文字傍点§といのちの木§五文字傍点§はそれぞれちがう木§四文字傍点§だったんじゃない? 両方神様の果樹園の中にあることあったけど、別々の種類だったか、同じ種類だけど幹がちがったか、役割がちがった。 だから、神さま、それぞれちがう呼び方で呼んだ。 アダムもイブもいのちの木からはどんどん食べたはずだ。だって「どの木から食べてもいい(ただし善悪の知識のはだめだけど)」っていわれるただけだもの。いのちの木からは、食べちゃだめっていわれてない。知恵の木から食べたから、いのちの木「も」禁じられた。その生えているところから追い出された。 そうして、永遠の生命を、失った。 わたしたちは、癒恵を食べる。 癒恵。癒し。恵み。 癒しは、いのちっぽいし、恵みは、知識っぽい。 もしかすると癒恵は、知識の木といのちの木のハイブリッド品種なのじゃないかしら? それ盗んできたの? アダム? イブ? こっそりエデンの外に持ってでちゃったの? あははは。神様相手に。やるじゃん。上出来じゃん。 わたしたちは地上にいる。 でも、わたしたちは、永遠に生きる。 肉体はほろんでも。 夢を歩くことができるから。 そうじゃないひとたちに薄気味悪がられたり、妬まれたりするのも無理はないかもしれない。 憎まれたり、嫉まれるのもしかたないかもしれない。 人間じゃなくなりたいのに、どうしても人間でしかいられないひとたちからは。
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