yumenooto uminoiro   2016.7.11  

                                                                                Layla 9

 アキコとナルミちゃんとマツエさんと、高台の家で過ごす時間は間延びして退屈で、宿題にもちっとも身が入らなかった。医師か看護婦になるのなら、サボらずしっかり勉強しなければならないはずだとは思うのだが、やる気がおきないのはしょうがない。こんな時こそ、物置の二階に忍び込んで例のいかがわしい本をじっくり眺めるチャンスかもしれないという気がしなくもなかったが、それも面倒臭かった。

 結局レイラは二階のいつも寝る部屋、琴のあるあの部屋に布団を出してごろごろして過ごすことにした。安静に。

 あの水中メガネはどうなったのかな、と考えた。

 なくなったといっても、ほんとうに消滅してしまったわけではない。この世のどこかにはまだあるはずなのだ。

海底に転がっているんだろうか。いつかは壊れて砕けてかたちがわからなくなってしまうかもしれないけれど、たぶんまだ、たいしてもとと違わない状態なはずだ。カニかタコかヤドカリがおうちの窓にするのにこりゃあ便利だと、ありがたく頂戴したかもしれない。

 海の底にはきっと、たくさんの宝が眠っているのだろうなと思う。

途方もない財宝や、どこにも行き着けなかった船や、誰かがとてもとても大切にしていたものが。ひとの手のとどかぬところにさらわれていって、二度と戻ってこないのだろう。

 海神の神殿か海賊の宝物倉か、サンゴや黄金に飾られた立派なところで、世界じゅうのもう誰も覚えていない財宝や宝石や真珠の中に、あの水中メガネが飾ってあったらいいな、と思う。乙姫さまが宴会のお料理を盛る風変わりな器にするとか? 海に帰った人魚姫が使ってくれていてもいい。ちょっと待って。人魚姫は水中メガネなんてなくてもちゃんと水の中でもものが見えるんじゃないのかしら。

 たくさんの想いのこもったたくさんの品々というかけがえのない宝物を隠しているから、きっと、海は、あんなに青くて、あんなにみどりで、透明で、余計に美しく見えるんだわ。

 そんなこんな考えているうちに、眠りこんだ。

 

 レイラは駅に立っている。プラットフォームだけの、小さな無人駅だ。この家からすぐ近くにあるあの駅だろうか? 看板がなくなっていて、わからない。

 そこはもう、何年も何年も使っていないところのように見える。コンクリートはひびわれて欠け落ちているし、錆ついた線路はぼうぼうと繁った夏草になかば埋もれている。日差しがとても強くて、影が濃い。まぶしすぎて目が痛い。

麦わら帽子を少しずらして、顎につたう汗を拭う。

 なにかを待っているような気がするけれど、なにを待っているのか思い出せない。この駅には列車はこないだろう。もしかすると誰かがくるのだろうか? こんなところに? 待ち合わせ?

 あちこち、見回してみる。

 誰もいない。とても静かだ。

 ……と。

 帽子のつばを持ちあげていた手になにかがさわった。白い蝶だ。

 ――レイラ!

 蝶が言う。ひらひら目の前を舞いながら。

 ――レイラ、気をつけて。

 あら、どうして? なんのこと。

なにに気をつけるの?

 蝶は、母のつかいであるような気がした。耳ではなくこころにとどいた声は、母のサヨラのなつかしい声であるような気がした。

 驚いて問い返そうとした、その時、列車がきた。

 怪物のように真っ黒で大きな汽車だ。ごうごう、しゅうしゅう、がっしゅがっしゅ、どごんどごん。あたりじゅうを震わせて、両耳を塞ぐ音をたてている。煙の匂い。目がしみる。駅舎だってふっとばしてしまいそうな迫力。風が蝶を吹き飛ばし、ワンピースを翻す。帽子を飛ばされないように、あわてて押さえなくてはならない。

 万が一にもフォームからこぼれおちて轢かれてしまわないように、うずくまってなにかにつかまる。停まらずごうごうと走り抜けていく汽車の連結器のところから、誰かがこちらに手をさしのべている。白いシャツと黒いズボンの男の子だ。まるで、こいと、はやくこいと、ぼくの手に捕まってこれに乗れと、いっているようだ。実際、そう言っているのだと気がついた。彼はなにかを叫んでいる。レイラの名を呼んでいるのかもしれない。汽車がうるさすぎて聞こえない。轟音。風。とおりすぎる。とおりすぎていく。

 いってしまう。

 ――マコト――

 彼の名を知っているような気がした。

 あわてて追いかけた。追いすがる。男の子が叫んでいる。いまにも追いつけそうだ。伸ばした指と指が、さわる。かすかに。ふれるのがせいいっぱい。つかめない。怖すぎる。もう一歩が出ない。その勇気がない。無理だ。帽子が飛んでいく。駅が尽きる。フォームが終わる。いってしまう。もう間に合わない。

 後悔が胸をさいなむ。

だって、だって突然だもの! とうてい無理だったもの! だってあんまりいきなりすぎじゃないの。それに、あれは知らないひとだった。いや違う。知っている。よく知っている。彼はマコト。

 

ホシノマコト。

 

 目を覚ました時、レイラの胸は、しくじってしまった悲しみに真っ黒にぬりつぶさされてぺしゃんこだった。たった一度きりのチャンスをつかめなかったのだと思った。心臓が窮屈そうに迷惑そうにごとごと非難をつぶやいている。

 でも。

 ホシノマコト?

 誰?

 レイラはぺたんとすわりこむ。

すっかり途方にくれてしまった。

 現実感覚がおかしかった。

 そこにいるのに、いないのである。

まるで夢の中に自分の大半をおいてきてしまったようだ。ここにあるこれは、用済みのからっぽな容器で、つまりもうゴミになってしまったもの。セミの脱け殻のような。

半分目を閉じ、いまさっきまでいた場所を思う。

そこはあまりに遠く、はるか遠く、いまはもうせいいっぱい手を伸ばしても、ぜったいにとどかない。でも、そこに、自分がいる。いた。その自分はこの自分と、細い細い紐帯一本でやっとつながっていた。ここからそこへ糸電話はかけられないんだろうか? 

やりなおせないだろうか?

 時間を巻き戻して対応したかった。もっと早く思い切って決心して、さっさとダッシュしはじめていたら、あのひとの手に届いたかもしれない。あの手につかまって、引っ張りあげてもらっていたら、あの列車に乗ることができたのかもしれない。

 乗っていたら……どうなっていたんだろう?

 急に、なんだか薄ら寒くなって、ひとりぼっちでいるのが怖くなって、レイラは階下に下りた。その階段がもしどこにもつながっていなかったらどうしようと思いながら。

高台の家はちゃんとしていた。いつものとおりに。眠るアキコを揺すりながら、例によってれいのごとくヘンテコな歌を歌うナルミちゃんの声を聞きながら、見たくもないテレビをつけてながめ、時の過ぎるのをぼんやり待つ。

みんなが帰ってきてくれるまで。

 

 

 

 

「おかえり」

よしよし。いとしそうに撫でられ、きゅっと抱き上げられ、頬をすりよせられて、わかる。犬になっている。仔犬になっている。もぞもぞ動いて抱き抱えかえてもらう。鼻面をつっこむと、やわらかな感触。ちぶさだ。お乳の匂い。おかあさんの匂い。やわらかさ。あたたかさ。

おかあさん。

はあい。

抱きしめるちからが返事だ。

ああよかった。仔犬はほっとする。安心。幸福でたまらない。シッポをふろう。

世界が動く。そのひとが歩くから。抱かれたまま、運ばれる。こんもりした緑の丘が幾重にもつらなっている。草原。牧場? 馬や羊や牛がいる。犬やうさぎや、なんだかよくわからない生き物もいる。ここはきっと天国。

たくさんのものがいっしょにいて、ほどよい距離をたもっていて、平和で、おだやかで、静かに落ち着いている。なんの不安もない。なんていいところだろう。

ああ、なんていいところ。

なんて素敵な居場所。

ここなの?

仔犬はそのひとを見る。

ここがあなたのおうち?

ぼくも、ここにいていい? ずっと、いてもいいの?

仔犬はたずね、ぎゅっと抱きしめられる。うなずいてもらったと感じる。全知全能の存在に全面的に肯定されたことを感じる。受け入れられたことを感じる。

ああ、よかった! これでだいじょうぶだ。

安心だ。

幸福でたまらない。

 どこからともなく小さな女の子が走ってくる。ごきげんこの上ない笑顔で、短い脚をうんとはやく動かして。あんまり一心不乱に走るので、肩のあたりで切り揃えた髪がふわふわはずむ。走りすぎて勢いあまってつんのめって、でんぐりがえしをして草まみれになって笑っている。とても元気だ。とても可愛らしい。

腕からおろしてもらったので、仔犬も走る。女の子といっしょになって走る。きみとぼくとどっちがはやいかな? ほーら競争だ。おいかけっこだ。おいでおいで! こっちこっち。笑い声がひびく。

女神は満足そうにゆったりと歩いている。とても背が高くて優雅だ。なんて脚が長いんだろう。地面すれすれから見上げる仔犬にすれば、まるできりんのようだ。やわらかな衣服が風になびき、風をはらむ。とても美しい。

このひとがいれば安心。世界はだいじょうぶ。

ごつごつした枝の果樹がそこらじゅうに立っている。白い花がたくさん咲いているのに、同時に果実も実っている。よい匂いがする。そこらに落ちてころがっていた実を、いっこ押さえ、齧ってみる。甘くて酸っぱい! 美味しい。

女神がつとたたずみ、す、と指差した場所から、こんこんと泉があふれだす。噴水が高々と水をまいあげる。どこもかしこもがたっぷりと潤っている。だから草はみずみずしく新鮮でやわらかな緑をひろげるし、霧がヴェールになって流れていく。

 女の子は走りやみ、しゃがみこんで熱心に草を摘む。束にして、冠にして、杖にしてふりまわす。果樹によじのぼって小鳥の巣をみつける。たまごを手にとる。太陽に透かしてみる。

 わたしの娘。自慢の娘、と、女神がいう。

 うふふふんっ! と、女の子が返事をする。

 うわあ。そうなんだ。この子はあなたの娘で、大切なたからものなんだね。なんて可愛いんだろう。なんて幸福そうなんだろう。

あなたのためになりたいな。仔犬は思う。この子のためになりたいな。居場所をもらったお礼に。ここに連れてきてもらったお礼に。ぼくはぼくにできるいちばん善いことをしよう。

この子を守ります。

いのちにかえても。

 こんにちは。お嬢さん。あなたは誰ですか?

 犬がちょこんと小首をかしげると、やわらかな耳がひよひよする。

 ――レイラ。

女の子が答える。

 

 

 

 

 そんな日を過ごすのは一度でたくさんだったから、翌日からもう海にいった。砂浜で、ヒロさんと並んでぼうっとした。

 三日めか四日めぐらいだったか、いよいようっとうしくなって包帯をはずした。棘の抜けたあとの穴に砂が入ったりしたらまたまたものすごく痛いのじゃないかと怯えたが、サビオを何枚も貼り付けておけば、なんてことはなかった。女医の手術がうまかったのか、若いレイラの回復力とが高いのか、それとも海の水に殺菌したり傷を治したりする力があるのか、傷はみるみるふさがって、あっけなく治ってしまったらしい。このまま死ぬのではないかと思うほどの痛みをこらえたことも、なんだか、もう夢みたいである。

 ほんとうにあったことだと知ってはいるが、過ぎてみればてんでどうということはなかった。あんなに大騒ぎをしたことが、とても恥かしかった。

 

 ――ラジオ体操の音楽に起こされて、フクちゃんが水汲みをする音を聞くともなく聞きながら着替えをして、たいがい献立のどこかに烏賊のまじった朝食を取って、一番よく乾いている水着を着て、昼間にはホタルの気配もない線路を渡って町を抜けて商店街でパラソルを受け取って浜に出て。

 海に入る。

 泳いだり、浮かんだり、陽にあたったり、砂遊びをしたり、うとうとしたり。

 日に日にうまくなる双子のトス・バッティングにつきあったり。

 そうして夕暮れになる前には高台の家に戻っていって、夕飯の支度をするマツエさんの後ろのテーブルの上でサヤインゲンの筋を剥いたり、宿題をやったりした。焚き火に使う薪割りをするフクちゃんをほんのちょっと手伝うこともあった。母に手紙を書き、洗濯物を畳み、ヒトシとチャンネル争いをする。

 そんなふうに、平穏のうちに、毎日が過ぎた。

 なにもない日。

 言うほどのことのなにもない日々。

 ありえないほど幸福な日々。

 ユメミとその不可思議な仲間たちはさっぱり現れなかった。お琴でさくらさくらを聞くことができたので、満足して成仏してしまったのかもしれない。やはりユメミは幽霊の一種だったのだろうか。あるいは、死に神?

 もしかすると、あの子は、ほんとうはあたしを連れていく予定だったのかもしれない、とレイラは思う。何度もやたらに怪我をしたのは、ほんとうはもっと危険なことになるところだったのを、あの子のお情けで、ぎりぎりでかわしてきたということなのかも。

 生きることと死なないこととは、かならずしも同じじゃない、とユメミは言った。

 準備ができていない、とも。

 なぞなぞみたいでよくわからないけれど、もしかすると、もう少し真剣に生きろ、と、言ってくれたのかもしれない。あんたにはまだ死ぬ資格がないんだから、生きていたらまだすることがあるはずだから、猶予をやるから、もっとちゃんと、しっかりまずはとりあえず、生きてみろ、と。

 生きるってどういうことなんだろう。

まだ十年そこそこしか生きたことがない。ふつうでいうなら、もうあと五十年かそこらは生きることができると期待をしていいはずだろう。うわあ、これまでの五倍もあるんだ! しかもその大半はおとなになってからの年月だ。

 これまでの十年は、成長の十年だった。赤ちゃんから幼児に、そして小学生になるのは芽が出てふくらんで草花のそれらしいかっこうになるまでみたいなもの。変わっていくことの連続で、獲得することの連続で、捨てることの連続で、教わることの連続だ。毎日のように、それまでしたことがない経験をしてきた。

 育ってきた。

 うんと幼いころのことはもうそんなによく覚えていないけれど、もっと時間が、ほんわかとして、たっぷりあったような気がする。一日も、一年も、いまよりもずっとずっと長くて、もっともっとたくさんのさまざまな(どうでもいい)ことができた。それに比べると、去年の夏から今年の夏まではなんて短かっただろう! ほんとうにアッという間だった。ついこのあいだ十歳になったばかりだというのに、うかうかしていると、気がつかないうちに、なんにもしないうちに、十一歳になってしまいそう。

 この夏はこの夏限り。

 十歳の夏はこのたった一回しかない。

 八月の、たとえばついたちは、このとしのそれは、たった一回しかなく、二十四時間しかない。そのある時刻の、ある一瞬は、その一瞬しかない。

 過ぎてしまえばいってしまって、取り返しがつかない。ひっぱりもどすことはできない。

これでいいんだろうか。

ほかにすることがあるんじゃないだろうか。

 夜、ふとんに入ってもなかなか寝つかれず、ほかの子たちの寝息を聞きながら考えた。なにかしなきゃならないことがあるような気がする。頑張って、実現しなくてはならないことが。それは、いったいなんだろう。ただこうしてぼうっとしていていいんだろうか。なになにをしろ、と指令みたいなものが来るのを、待っていても? それとも、自分から、なにか動く? 

 さがしにいく?

 まどろみはいつしか夢になる。夢の土地をどこまでも歩かせる。

 島、半島。大陸。

 まだ見たことのない場所が、どこまでも、どこまでも、ひろがっている。

 どこかに到達しようと必死になっていたこともあったような気がする。ひらたい石をある角度で水に投げると、水面で跳ねてぴょんぴょん飛ぶように。うまく投げると、七つ八つ、跳ねとびつづけながら、遠くまで届く。誰かの夢を足掛かりにして、そんなふうに、すぐには行けないどこかまで、行ってみようとしたこともある。何度か試しているうちには、たまたま、ぐうぜん、とてもうまく行くこともあった。ゆるやかな川の幅をこえて、流れる水をわたって、向こう岸までだって行ってしまえそうだった。だが、何度投げても、やがて失速して沈んでしまう石のように、夢飛びもまたそれなりに難しくて、そうそう巧みにできるものではないのだった。投げやすい石を選ぶように、足がかりにする夢をうまく選ばないといけないのもかもしれない。自分にはまだたどる足掛かりにする夢をうまく選択することができない。ほんものの“ひめ”ならば、もっと巧みに選ぶのだろうか。

 ひめになったら、うまくやれるようになるのだろうか。

 おぼつかなげな足どりで砂山を登り峡谷を渡り、ビルをさまよい城壁都市を散策した。たくさんの見知らぬ懐かしい場所、無原則にパッチワークされた光景のそこここに、ありとあらゆるひとがいる。町や草原で擦れ違い出会う、数えきれず、覚えきれないひとびと。どのひとも同じではなく、どのひともみな深く広い。誰にもすぎてきた時間があり、あまたの隠されたエピソードがある。立ち寄れば、さまざまなおしゃべりをきくことができた。いろんなことを教わって、おもしろがったり、すごくホッとしたり、なにかをとてもきちんとわかったようなつもりにもなった。遠い将来起こるはずの場面につれていってもらったり、はるか昔、生まれるよりもずっと前のどこかを覗かせてもらったりもした。そこには、この狭い小さな自分のわくにとらわれず、ひとというものにありうるかぎりのあらゆるものが……人生のすべてが……あるにちがいないのだった。

 とうていよみつくせない図書館の本のように。

 だが夢の中からは何かを持ってかえってくることができない。そこで知ったことですら、目覚めればとたんに希釈され、蒸発した。動いてる波のどのしずくも手の中に永遠に握りしめておくことはできない。おどる火焔のそのかたちはどんなに美しくとも永遠にとどめることができない。確かに捕まえたと思ったそのとたんに壊れて擦り抜ける。

 いのちは動きであり、変化であり、駆け抜けていくものであるから。

 ただこころが、想いだけが……悲しみや喜び、憤りや諦め、納得、感動……胸をくすぐり、うずかせる種々の感情だけが、目覚めてもなお、うっすらと残った。なにか強烈なことをじっさいに体験した残響のように、感情のこだまが、ありありとレイラの胸に刻まれるのだった。

 想いを負わされれば重たい。だから、夢を歩くと疲れた。こころがさまざまな感情であふれかえりそうになり、リキみすぎてからだじゅうの筋肉がパンパンになって、目が覚める。

 なんの仕事もなくてさえこうだ。役目が与えられていなくてこうなのだった。この先、“ひめ”になって、夢歩きがつとめとなったら、さぞかし大変なことだろう、とレイラは思った。それとも、習熟すれば、苦労もなくできるようになるのだろうか。

 すべきさだめを果たすことができるようになるのだろうか。

 そんなふうに、日々が過ぎた。

 

 

 

 七月も末に近づくとこの地方でもようやく本格的な夏休みがはじまったらしい。よその家族や地元のこどもたちが浜辺に顔をみせるようになった。お互い距離をたもって、せいぜい、すれちがうときに「こんにちは」などとおずおず言うだけの、遠慮がちなふれあいだが。

 ずっと自分たちだけの、専用の浜のようだったのに、こんなになってしまって、つまらないと思う。そしてそんなふうに思うなんてずうずうしい、と感じる。よく考えてみるほどのこともなく、もともと、よそものなのは、こちらのほうなのだ。

 カレンダーがひとつめくられて、いよいよ夏が熟れた。

 ニュースには、ヒロシマやナガサキの映像が何度も出た。東京の焼け野原の姿も。この前の戦争の話がまた蒸し返された。おとなたちが悲しそうにでもちょっと自慢そうに話をする。あやまちはくりかえさないでください。戦争は二度としないでください。こんな悲しい思いをするのはわたしたちだけでたくさんです。

 悲惨な戦争で死んだ兄の友の夫の分も次の世代のこどもたちには孫たちにはうんと幸福になって欲しい。そんな世の中をつくっていく、それがわたしたち残されたものの義務だと思うのです。

 ニムラさんで売っているアイスキャンディーは全種類制覇した。ハムカツはレイラが今日こそ買おうと思っている時にかぎって売り切れていた。

 離れにある雑誌にはだいたい目を通してしまった。部屋の持ち主の好きな女のひとのタイプがなんとなくわかってきた。猫みたいな目をして髪が長いひとを好んでいる。時々雑誌が切り取られていて、目次と残った記事を手がかりに考えると、なくなっているのはたいがい、そういう誰かの載っているグラビアだった。

 そんなふうにして毎日が過ぎているうちに、お盆というものが近づいてきた。マツエさんに言わせれば、終戦記念日が。

 ママたちが来ますよ。

 朝ごはんの時、ヒロさんが言った。夜のうちに『菩提樹』から電話連絡があったらしい。

 もうじき来てくれます。お盆には間に合うはず。幸いママたちは全員、ひとりのこらず来れることになったの。うれしいわね。にぎやかになるわね。

 けど、あんたたちを見たら、びっくりしちゃうんじゃないかしらねえ。このまっくろくろのくろすけさんは誰ですか、どこの子ですか、こんなのうちの子じゃありません、うちの子はどこ? って。ママたち、言うんじゃないかしらねぇ。

 みんなふざけて、ご機嫌で、きゃきゃきゃと笑う。

 パジャマを脱ぎ散らして着替えをしているミキヲもノリヲも、確かに裏も表もあまりにも真っ黒けで、水着の痕だけ真っ白けで、裸でも充分パンツを履いてるみたいに見える。

 

 

 

いつもの砂浜で、ひとりのおじいさんを見た。海に向って左側の端のほうでイーゼルをたてて、絵の具箱を広げていた。折り畳み式のちいさな椅子に腰をおろし、左手におおきな木のパレットをはめて。絵を描いていた。

 ノリヲがトス・バッティングに失敗したボールをレディとトランプがすぐさまビューンと追いかけていった。レイラはその犬たちをおいかけて砂を蹴立てた。

 はしゃぐ犬たちがいきなり構図の中を横切ったものだから、絵描きさんはびっくりして、筆をおとした。拾いあげながら、顔をあげて見回した。肩越しに振り向くようにしてレイラを見つけた。

 ああ、なるほど、という顔をする。まぶしかったのか、ちょっと目を細める。

優しそうな笑い皺がいっぱい寄った。鷹の嘴のような鼻。額には、ごましおで、かなり長めな髪がかかっている。

 あ。

 このひと。知ってる。逢ったことがある。

 誰だっけ?

 レイラはドキドキとした。

 もしかして菩提樹にきたことがあるひとかな。

 なぜだか知らない他人とは思えない顔だった。なんとかいう作家に似ているような気がする。確か、むずかしいことを考えすぎて、自分で自分を殺さずにいられなくなってしまったひとだ。外国の俳優にも似てる。たとえば大好きな映画『虹をつかむ男』の主演のあのひとに。

「ごめんなさい」

レイラはレディがくわえてはなそうとしないボールをなんとかごまかしてうまく取り上げて、遠くで待っている双子のほうに向けて放った。それで犬たちもボールを追いかけてすっ飛んでいってしまうかと思ったのだが、二匹とも老人をひたとみつめたまま、静かにお座りをしている。

「すみません。おじゃまじゃないですか」

「いい犬だ」老人は言った。

 言ったときには、もう両手の筆も画材も置いて、おいで、という顔をした。犬たちはたちまち走っていって、とりこになった。さかんに尻尾を振っている。レディの鼻面をかまい、トランプの耳のあたりを撫でてやる手つきが、彼がそうとうの犬好きで、間違いなく愛犬を何匹も飼っていたことがあるひとであることを雄弁に物語っていた。

「こっちはアイリッシュセッター。こっちは……狼の血がまじってる?」

「そうです」

「いい犬たちだ。うちに昔コリーがいた。たいそう利口だった」

「ひょっとして名前はラッシー?」

「平凡すぎたか」

「いいえ」レイラは犬たち二匹の間に座った。「おりこうなコリーなのに、ラッシーって名前をもらえなかったら、そのほうがよほどかわいそうだもの」

 その位置からだと、描きかけの絵がよく見えた。

 美術館にあるような大きな絵ではない。使っているのは、中学生のノートぐらいのサイズのキャンバスだ。浜が磯になりかけるあたりで海に裾野を洗われているピラミッド型の岩がぽつんとひとつ、画面の真ん中の少し下寄りに来るように配置されて、描かれている。その周囲に、ぼんやりと、磯の崖の木立ちや、打ち寄せる波飛沫や、遠くかすむ別の岬もみえる。手前には少しだけ砂浜。見たとおりだ。まんまだ。事実と違っているところはひとつもない。いわゆる写生だろう。

 絵の具箱の上に無造作に置かれたパレットはとても大きくて、四角かった。半分に折りたためるように金具がついている。親指をさしこむ穴のそばに銀色の小さな壷のようなものがクリップでくっついていて、老人がいまそれにネジ式の蓋をしめた。黄色と薔薇色と淡紫色。ニュアンスのある緑の濃淡いろいろ。鮮やかな青。十色ほどの絵の具が、いかにもチューブから出したそのまんまのかっこうでパレットの縁に並んでいる。パレットの中央の大きな部分は絵の具を広げた痕跡で少しだけ汚れている。昔そこで混ぜた別の絵の具の名残りが、くすんだシミになってのこっている。

 描きかけの絵の主人公であるピラミッド岩は、レイラの目にはごく平凡な岩にしか見えなかった。別にどうということがない、わざわざ絵に描きたくなるようなシロモノではない。それでももし描かなくてはならなかったら、たぶん灰色に赤を少し混ぜた絵の具でざーっと塗っておいて、乾いてからそこにサッサと影をつけただろう。レイラの知っている絵の具は水彩だ。影は、もとの色に黒をちょっとだけ混ぜたものにする。つまり、岩はおおむねピンクがかった灰色だとレイラは思うのだが、驚いたことに、その色はおじいさんのパレットの上にはない。白は二種類あったし、薔薇色と、血みたいなワインみたいなどっしり重たい類の赤の仲間はあったが、ごくふつうの赤や灰色や黒はまったくない。二十四色のクレヨンにあるような色はちっともない。

 なのに、絵の中に描かれている岩はちゃんと実際の岩とそっくりに、いかにも岩らしく見えるようになっているのだった。黄色や白や緑や紫が筆を置いたそのかっこうのまんまにコテコテと盛り上がっていて、部分部分だけを近づいて見るとただ絵の具を適当に乱暴になすっただけなのに、ちょっと離れてぜんたいを眺めるようにすると、なぜかちゃんと、ピンクがかった灰色の岩に見えるのだ。不思議! 魔法のようだ。あちこちとりどりに配分された色が全体でひとつの塊になって、ごつごつした岩のかたちと、固くて無機質な感じ、うっかりさわると痛そうな感じまでも現している。海や砂はちゃんと海や砂らしい。動いているところと、動かないところ。でっぱりとひっこみ、つるんとたいらな部分とざくざくした部分、光のたくさんあたっているところと影になっているところ。一目で見渡す光景の中に、たくさんのかたちがあり、たくさんの色がある。みなありふれたものだけれど、どれひとつとして同じではない。

 こういう描き方もあるんだ、とレイラは思った。

 ものをほんものらしく写生するときは、うんと細い筆を使って、点をたくさん打つようにして描くものだと思っていた。だって、新聞の写真は点でできている。輪郭を正確にトレースし、そこにあるのとぴったり同じ色ができるまで根気強く絵の具を混ぜあわせ、細かく細かく丁寧に徹底的に時間をかければ、ほんものそっくりになるんじゃないかと思っていた。

 だが、いま見る絵は、そういうふうにはできていない。おおざっぱな捕まえかたなのに、芯を捕らえている。雑なようでいて、妙にほんものらしく、実際の風景以上に、そのものずばりを示しているようだった。

 思えば、単にそっくりに描けばいいものなら、絵は写真に勝てっこない。

 こういうのが描けたら、図工の吉備野先生、こんどこそ、「5」をくれるかな。

「おじいさんは、画家さんですか?」

「そう」という。「画家であり、馬術家であり、思想家であり、ついでに郷土史家でもある」

 なかば自慢げになかばユーモラスにいわれた後半は、レイラの耳には入らなかった。あの図工の「3」のことで頭がいっぱいだったので。

 海にきてからずっと忘れていたのに。いきなり胸がどきどきするほど鮮やかに蘇ってしまった。傷がまた、ひらいて、心臓の拍動のリズムでズキズキ血をしぶく。

「あたし、図工の成績がすごく悪かったんです」手の中の砂を弄びながら、レイラは言った。「一学期の、通信簿で」

「せいせき?」

「先生の評価が、よくなかったんです。てんでなってないって、ぜんぜんダメだっていわれたんです。あたしとしては、いっしょうけんめいやったつもりだったんだけど……」

 泣き声になってしまいそうだったのであわてて息を吸うと、シンナーみたいな匂いがした。絵の具の匂いだろうか。

「なるほど」と画家は言った。「どんな教科にしろ、成績を確実によくする方法がただひとつだけある。教えてやろうか?」

「なんですか?」レイラは身を乗り出した。「はい。ぜひ、教えてください!」

「成績をつける人間の弱みを握る。金を貸す、女を抱かせる。欲しがっているものをくれてやる。ようするに、恩を売るわけだ」

「…………」

 このひと大丈夫だろうか、とレイラは思った。相手が小学生の女の子だってことを、ちゃんと理解しているだろうか? 思わず眉をひそめると、画家はニヤリとして、言った。

「その程度のことだ。賄賂が無理なら、そんなもの、気にしないのが一番だ」

「そうもいきません」

「きみは小学生?」

「四年です」

「飛べるか?」

「え?」

「いまもまだ空が飛べるか?」

 とっさに返事ができなかった。だが画家の目が背中を、レイラの日に焼けた水着のうしろのほうをさぐるようにながめているのを感じた。たちまち肩甲骨のあたりがむずむずくすぐったくなりはじめ、それから、ちょっぴり痛くなってきた。なにかくる。なにかが芽吹きかけている。思わず顔をしかめ、前かがみになると、たちまち背中の皮膚がめりめりと断ち割れはじめた。つばさの萌芽がたちあがり、伸びていく。濡れてよじれた白いものが、あっという間ににょきにょき育つ。空気にふれると表面がぱりぱり乾燥しはじめ、やがて、風をはらんだヨットの帆のように、ひと思いにバッとひろがった。

ふわふわまぶしい純白の、うまれたての、天使の翼。

レイラはびっくりしたけれど、思わず、ちょっと、はばいたいてみた。つばさは、優雅にひるがえった。美女が顔にかかるスカーフをそっとなでつけてみせるように。背中のあたりで、ゆったりと空気をかきわける。潮風に吹かれて吹き流されそうになると、あわててしゃんとちからをこめ、誇らしげにぴんと伸びて伸びきってみせる。

「……ええ。もちろん」

 紅の頬で、うなずく。

「飛べます。案外、うまいんです」

 そういったとたん、レイラは自分がいつもの肉体からはみだして、その場面を外側から見ていることに気づいた。海のほうの、空の上からだ。ちょっと前のめりになって小さな椅子に窮屈そうに座った老画家と、二匹の犬と、水着姿の女の子。

 大きな確かな頼っていい翼がしっかりと上昇気流をつかまえている。だから、姿勢を正しくたもっていることができる。ゆっくりと円弧を描いて飛びながら、レイラは一羽の禽になっている。鳥のするどい目が地上のひとかたまりを見つめる。寄せて砕ける波の描く白いレースの段々フリル、ピンクがかった灰色のピラミッド岩、砂浜に残ったひとと犬の足跡。すべての構図がぴたりとバランスよく決まったその瞬間、場面が急速にフィックスし、絵になって、額に嵌まる。かと思うと額の中の画面がテレビのフレームのように早送りで巻き戻されていった。ちょこちょこと動きまわって女の子と犬が後ろ歩きで画面の外に消えた。小さなイーゼルの上に載った絵から絵の具が拭い去られ、白紙になったキャンバスを取り上げ絵の具をしまって画家がもどる。帰っていく。さかさまに、足跡を逆にたどりながら。誰もいなくなった海に波が寄せた。波が寄せた。波が寄せた。ただ波だけはずっとそのまんま何度でもたえまなく寄せてつづけているのだった。あのなんということのないピラミッド型の岩に、ただ光だけがたっぷりと注いでいるのだった。一瞬の、そして、永遠の夏。

 

 その夏を描いた絵が、壁にかかっている。

 青年がひとり、腰をおろしている。

 絵の趣向にあわせたのか、いかにも夏らしい白い麻のスーツに、からし色っぽい黄色のワイシャツと金まじりの橙色のネクタイをあしらい、パナマ帽をかぶり、ウィングチップの靴を履いている。あたりにあふれた苗や若木からわかる。ここは菩提樹の温室だ。青年は、傘のようなパーゴラのような屋根をもったあの離れの温室の暖炉の際の孔雀型の籐椅子にゆったりと座っている。

 帽子の鍔が深くおろされていて、顔がよくわからない。

 

「遠い昔」と、彼はささやくように言った。「アテーという王女がいた。強大な王国の、とてもちからのある王女だ。敵にもっとも恐れられた存在だったので、彼女のまぶたには秘密がしこまれていた。眠っている間に暗殺されないよう、魔文字が描かれていたんだ。目にしたらとたんに死んでしまう特別の文字だ。毎日、その役目のための訓練をうけた特別の化粧係が……生まれつきまったく目がみえなかった……ていねいにその文字を描きなおし描き足し、魔法の呪文を新しくする。だから王女は安全だった。しかし、ある時、ある国から、二枚の鏡がプレゼントされた。ひとつは少し気の早い鏡、ひとつは遅い鏡だった。とある朝、目を覚ましたアテーは贈られた鏡を見てまばたきをし、とたんに死んでしまった。気の早い鏡と遅い鏡が働いたのだ。瞬く前と、瞬く後を、一瞬の未来と一瞬の過去を、王女に見せてしまったのだった」

――ポチ!

 どこからか聞こえた声に青年がびくりと顎をあげると、ようやく顔が見えた。

 まぁ、彼だわ。あの時の子。

 とレイラは思う。

 あの無人駅に走ってきた汽車に乗せようとして、自分に手を伸ばしてくれたひと。あのときより、ずいぶんおとなになったみたいにみえるけど……。

 

 

 

 わん!

 レディの吠える声がして、我にかえる。もとの浜だ。画家は筆をとって、絵を描きつづけている。ざざぁん、ざざぁん、と波の寄せる音がした。

「おじいさんの名前は、もしかして、ホシノマコト?」

 画家はびっくりしたように顔を見張り、それから残念そうに首をふった。

「ちがうよ。それは別のひとだ」

 ピラミッド岩の絵が完成するまで、レイラと二匹の犬はそばの砂に腰をおろして、ずっと見届けつづけた。

 

 

 

 波に混ざった貝殻や岩のかけらが濡れた砂に食い込んでそこを窪ませると、不思議な模様ができる。抉れた部分でだけ勢いづいて戻ってゆく水がくねくねと蛇行して溝を掘る。いくつも並んで正弦曲線を描く。

 なみのわすれもの。

 高まっては下り、下りきってはまた登る。

 右の端までいったら折り返し、左の端へ。何度も何度もくりかえされる、ちいさな永遠。

 大きすぎる貝殻はそんなところまでは運ばれてこないし、小さすぎる砂粒は痕跡を残さない。波のちからと均衡する特別の大きさとかたちの、ちょうどいいものだけが、溝をなす。ひとつのかけらが、ひとつの波形を作ってから波に押されてちょっとずれて、また別の波形を作ったりもする。

 柔らかな、くねくね。

 なみなみ。

 横から見たばねのような。

 解けかけの螺旋のような。

 波形はみんなどれもだいたい同じ大きさをしている。幅七センチ前後、ピッチは二十五センチから三十センチほど。互いによく似通った波形がいくつもいくつも並んでついているところは、まるで、誰か目に見えない几帳面な職人が、せっせと腕をふるいでもしたかのようだ。

 潮が引くと、そのようにして刻まれた波形が砂浜の海に近い側にひっそりと残された。

 満ち潮になれば洗われて消えてしまう、ほんの半日ほどの展示物だ。

 レイラは魅せられた。

ただじっと砂の模様を見つめていると、なんとも言いようのない気持ちになった。なにかをはじめたくなるような。どこにもいかずにじっとしていたくなるような。

 浜にからだを横たえ、模様を指でたどる。レイラの髪を、潮風が乱した。照りつける太陽に焦げた肌の上を、ちいさな砂粒がころがっていく。ざぁん、ざざぁん、と音をたてて波が寄せる。幸福すぎて、はかなさを思った。すべては移り行き、一瞬たりとも留まらない。ならば、なにを思い煩うことがあろう? なんでも、こころの向くまま好きにすればいい。

 涙があふれた。

 おぼえていよう、とレイラは思った。

 この夏を。この景色を。

ずっとずっと、こころにとどめておこう。

 

 

 

 そうして、その日がきた。