yumenooto uminoiro |
Mahane 2
夢を ――歩く? ずいぶん思いがけないことを言われたはずなのに、そうでもなかった。むしろ、ああ、それか、そうきたのか、と思って、なんだか、それまで知らないうちにつまっていたものが通ったような、目の前がぱぁっと明るくひらけていくような感じがした。 昔大好きだったものに久しぶりに出会ったような、ぽっ、とあったかい感じ。愛着のあった場所に偶然、たどりついたような、驚き。世界の秘密の黄金の公式を――もちろんうんと偉いひとがとっくに見つけて証明していることではあるのだけれど――自分のアタマで、たまたま思いつくことができて、おおっ、と感激している、そんな感じ。 秘密に、ふれた。 そう、わたしたちは夢を歩く種族。 やりかたを思い出しさえすれば、いつだってできる。 それがわたしたちのやくめでもある。さだめでもある。 歩かずにいても、思いつきもしないでいたころも、いつか、そうするんだと、知ってはいたのだ。時が満ちれば、不足しているなにかが手にはいれば、いずれ、そうなるとどこかで覚悟していた。 こころが忘れていても、骨が、血が覚えていた。ことばのひびきが、どこかの細胞を揺すって、遠い昔かきこまれた指令書を結んだリボンをゆっくりとほどきはじめる。なすべきこと、ただしいこと。さからいがたいことどもがあふれてくる。まどうわたしの中に、なんでも知っているわたしがいて、すべて、はじめからふくんでいる。さからわなければ、あやまたない。水が低いほうへ流れるように、おのずと、行くべきところにたどりつく。けして道をうしなうことはない。 そうして――わたしは、母の夢を歩いた。 海を。 あの海を。 母の夢の中の海を。
親の夢に引き寄せられるのは初心者の常道なのか、それとも、特殊なことなのだろうか。 ほかの誰かじゃなくてよかったと思う。よそのひとの夢じゃなくて。だって、あんなに怖かったもの。 母の夢の中ですら無力だった。戸惑って、出口を見失いかけた。あのまま、あそこで、とほうにくれてすわりこんでいたらどうなったのだろう。迷子になってしまったら、どうなるんだろう? 脱出できなくなるのだろうか。 母の夢なら心配いらない。たとえ、迷っても、そこは母の場所なのだから。いずれ、助けがくる。 知らないひとの夢を歩くなんて、できるのかな? どんな神経? きっと、たいへんだろう。ずいぶん危険な、勇気のいることだろう。 けれど、それが、やくめだから、いずれはしなくてはいけないのだ。 そんなこんなわたしがうろたえ考えているうちに、母はわたしのパジャマをぬがせ、タオルでからだを拭いてくれた。首や背中のつめたい汗を。 されるがまま、めんどうを見てもらうのは、なんて幸福だろう。 ちいさいときは、いつもこうだったのだろうなと思う。 してもらうことがあたりまえだから、いちいち感謝などしなかったけれども。いま、こうしてここにいるこのわたしになるまでに、どれほどたくさんのかけがえのないものが降り注がれたのだろう。 「わたしたちは菩提樹のこどもで」ものうげに語りながら、母がブラシでわたしの髪のもつれを梳く。「ヒロさんというひとにあずけられていた。あの海にでかけた夏、わたしはまだ小学生だった。十歳にもなってなかった」 「ぼだいじゅ」わたしはつぶやいてみる。「なんだっけ、それ?」 「菩提樹は」 言いかけて、母は手をとめた。なんにもない空中の一点をみつめて、しばらくじっと考える。 あんまり長いこと黙っているから、もういい、自分で調べる、って言おうとした、その矢先にいきなりつぶやいた。 「……しょうかん、って、いったらあなた、わかるかしら」 「魔物を呼び出すこと?」 ――召還―― 母は笑った。「ううん。それじゃなくて。娼館。娼婦の館ね。娼婦はわかる?」 こんな話題を、こんな真夜中に、母親と淡々とかわす高校生の娘なんているものだろうか。 「わかるけど……法律違反だよね」 「ああ、ええと」母はきょとんとする。「そうね。ああ、たしかに。罪なのね。いま、この国では」 いま、このって。ほかの何があるの。 「ショウカンがなんなの。菩提樹って、つまりそれなの?」
母はなにかの重さに耐えるように首をかしげる。 「そう思われたって別にかまわなかったんだと思うわ。というか、もしかすると、そう装ったのかもしれないし、実際、そうである部分もひょっとするとあったのかもしれない。いつもでなくても、そうである部分があったりすることが、あったりする時代が、あったのかも。そうだとしても不思議はない。ごめんなさいね、わたしは知らない。ただ、なにかを隠すときには、隠しているということそのものを隠せたら上出来だということ。なにも隠してなんかいないように見えるなら、とても安全だから」 「待って、まって」 わたしは母をさえぎった。 「なに言ってんだか、ぜんぜんわかんないよ。きちんと最初から、順序だてて話してくれない?」 「最初?」 母はまゆをひそめた。 「最初は……ええと……『灰の帝国』かしら。ハザール。そうね、アッシュというものがあった……アッシュは、はるか遠い砂漠の国。菩提樹は、アッシュに生まれた。王女アテーの血を継いで……」 わたしはへんな顔をしたらしい。 母はぶつりとことばを切って、それから、笑いだした。 「ごめん。だめ。ママには無理。うまく話せそうにない」 「そうみたいね」 「パパに聞いて」母はわたしの手を握った。「パパならきっと、うまく説明してくれる。マハネに話してあげてって、わたしからたのんでおくから」 ああ。それが。 それが、十六歳のプレゼントなのだろうか。 「話すのがうまくないのは、話す必要がないから?」 わたしがたずねると、ママはきれいな目をぱちくりした。 「だって、ママはそんなにもきれいで」ひとを惹きつけるのだし。「夢を歩く。こころとこころが直接つながるなら、ことばなんか、いらないよね」 ああ、なるほど。そうなのかもしれないわね、とママはうなずいた。 「マハネちゃんは賢いわね。あなたなら、きっと、すばらしいひめになれる」 ひめ、ってなんだ。 胸の底のほうがズキッとした。 ショウカンのような、コウキュウな、恥ずかしい、いかがわしいもの。誤解されるとか、真実とか実体とか、なにがどうなんだかわからないけれど、ひめは、きっと、夢を歩く。 母からすれば、いまのは間違いなくほめ言葉で、みとめてもらってるってことで、それはうれしい。けど、でも、いやだ! めだつのはきらいだし、ごたいそうなものになりたくない。ただの、ふつうの女の子でいたい。 水の中の油になりたくない。 その、ひめ、ってものがなんなのか、なりたいのかどうか。一度もちゃんと聞かれたことさえない! 説明してもらっていない。なのに、もう決まってるみたいに言われると、むかつく。ほかでもない自分のことなのに。誰かが勝手にきめてて、変更不可能なの? そんなのひどいよ。人権侵害だ。 ひめが、なるものなのだとすると、なるまえは、なってないってことでしょ。ならなくてもいいの? ほかのなにかに、なっちゃってもいいの? なれる? 聞きたかったけれど、おだやかに話す自信がなかった。だってママは、ひめだから。人魚姫じゃないけど。でも、やっぱり、ひめだ。 思っていたとおりだ。 うすうす感じていたとおりだ。 わたしがひめになんてぜったいなりたくないなんていったら、きっと、ママは、とても傷つくだろう。 しかたない。あとでパパにたずねよう。……そういえば。 「パパも……なの?」 「なにが?」 「だから」その一味なのか。でも、男のひとはひめにはきっとならない。「その……ひめ、じゃないよね。男だもんね。つまり、えっと……菩提樹のこどもだったの?」 「うううん。ちがうわ。彼は外部。よそのひと」 ママは急にブルッとふるえた。それでいきなり思いついたかのように、わたしをせっせとふとんでくるみはじめる。ちいさなこどもにするように。ていねいに。何重にも。 「今夜は寒いわ。風邪をひかないで」 でも、ふるえたのはママでしょ。寒がったのはママなのに。 「おやすみマハネ。ぐっすり眠って。こんどはもっと良い夢を」 ぱたぱたぱた。たたく母の手の魔法で眠りに深く沈みこんでいくその途中、泡のような考えが浮かぶ。 これは夢? それとも、うつつ? いったいどこからどこまでが夢だったのだろう。どこからどこが現実だったのか。学校に行こうとして電車に乗った、あれは、ほんとうにあったことなのか。そうじゃないのか。 あの海は。砂は。波は。星の湖は。 がたこん。がたこん。がたこん。 通学電車の揺れの、身にしみたリズム。 よくなじんだ、いつもの場所。寄り掛かるのにちょうどいいドアの脇。たまたま居合わせるよそのひとたち。しずかに窓外を流れていく山や森、他人の家。 世界はわたしとは関係なく存在している。はず。……そうなの? ほんとうに? これはただみんな夢、わたしがみている夢、じゃない証拠がどこかにある? がたこん、がたこん。がたこん。 わたしは遠く運ばれる。 どこまでもとぎれずつながる一筋の銀色に乗って。
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