yumenooto uminoiro

 

                                                                                         Layla10

 

 コバヤシは腹を押さえ、よろめく足取りで歩いた。

 破れた窓の隙間から夜明け前の淡紫色の光がさしてきて、シャツの袖のちぎれた肩のあたりの赤をきらりと鮮やかに照らした。手で押さえている腹のあたりもぐっしょりと赤い。脂汗にびっしょり濡れた鼻先から落ちる汗もピンクだ。

 よたよたと歩いてきた足が、床の上のなにかに躓いた。倒れている別のひとの脚だったか。めくれあがった絨毯だったか。コバヤシはバランスを崩して大きく前のめりになり、その拍子に、汗まみれの喉窪にくっついていた十字架がはがれて揺れた。顔を半ば隠していた長い前髪も動いて、垂れかかったまぶたで半分塞がった右目がのぞけた。コバヤシは、だが、転ばなかった。歯を食いしばって踏みとどまり、また立ちあがる。どこかで誰かが叫び、ぱらぱらと小太鼓の鳴るような音がした。コバヤシは歯を食いしばり、血色に染まった目をギラリと光らせた。

 のめる手がノブをまわし、全身の体重をかけてぶつかるようにしてあけた扉が、遥か遠くまで続く長い廊下を見通させる。どん詰まりの窓に太陽があってまぶしすぎる。白大理石の一筋の通路がモノクロームに揺れる。床や壁に天井にまでも飛び散ったおびただしい黒。すぐそこで顔の半分を失って倒れ伏した誰かのそのなくなった顔からゆったりと広がってゆく粘度の高い液体も、ひっくりかえったテーブル椰子の大鉢からこぼれた土も、額がこわれて斜めにずれ落ちた抽象画の真中のゆがんだ瓢箪型も、みんなみんな、黒だ。

 輝度の高い白と黒がハレーションしている。

 必死に電話機の黒を探す目には、他の黒が邪魔でしょうがない。

 コバヤシはやっと電話のあるはずの場所までたどりつく。架台はひっくりかえっているが、壁からコードが延びている。祈るような気持ちで、姿勢を落とし、力が抜けて思わず両膝を正座のような形にして座ってしまってから、そっとコードを手繰る。コードをたどっていくと誰かの手にぶつかる。その横たわった誰かの手指がちょっと動く。一瞬ぎくりとするが、手はまた重力のままに落ちて止まる。そっと手を伸ばし、まだ暖かいがへんにむくんで動かない手指を少し持ち上げてみると、探していたものがそいつのからだの下敷きになっているのが見えた。

 押しのけ、電話機をひっぱりだして、床に置く。周囲のいやらしく粘つくものを死体の胸ポケットから奪ったハンカチでざっと拭く。少し清潔になった受話器を取り上げたところで、はぁと一度大きく息をつく。どこか遠くでまた誰かがなにか叫び、コバヤシの肩がビクッとする。銃声がし、爆発音がする。音がやむ。コバヤシは、袖で額の汗をぬぐう。受話器を耳にあてダイヤルをまわしかける、ひとつまわしかけたところで、その指が凍り付く。発信音がしない。そうではないかと予測しながら、そうでなければ良いと希望していたのに。すっかり力の抜けた指がはなれると、ダイヤルがシャーッと音をたてて元の位置まで戻る。もう一度、最後の希望をこめて、二度、強く、指先でフックを叩いてみる。やはりだめだ。電話線はここに来る前にカットされている。コバヤシの顔から何かが抜け落ちる。

 受話器を持ったままの手も落ちる。手は握り締めた受話器をまだ放していない。そのままぐったりと壁にもたれる。悲しげに目を見開いたままのコバヤシの喉仏がごくりと動く。

 ものの燃える匂いがする。コバヤシの足元にも、こっそりしのびよる夜の獣のような黒い煙が流れて来る。コバヤシは動かない。どこでもないどこかをぼんやり見つめたまま、ただ壁にもたれかかって弛緩している。ごく短い、なんでもない時間。おそらく、生涯最後の休息の時間。窓の外の光が動いて、コバヤシの半身が影に飲まれる。まるで影に両断されたかのように。コバヤシはポケットをさぐろうとして受話器を持ったままだったことに気づく。無造作に受話器を落とし、ぺしゃんこのタバコの箱をひっぱりだす。やっとみつけたタバコは、どれも途中から折れている。中で一番ましな一本を唇につっこむ。ライターを、かちり、かちり、とならす。火はつけない。コバヤシの唇の端に、折れたタバコがぶらさがっている。やがて、どこからともなく、火の粉が飛んで来る。ぱちぱちいう音が聞こえてもよさそうなものなのだが、コバヤシの耳は詰まっていて聴覚の限界のあたりをひっかくようなキインという音以外はなにも聞こえない。ゆっくりと充満していく煙の臭いはコバヤシに花火の日のことを思い出させる。春に路傍に咲く小さな花に似た名を持つあでやかな少女の笑い顔が浮かぶ。コバヤシの眉がほんの少しだけしかめられる。コバヤシはライターをぎゅっと握り、大事そうに、胸ポケットにしまう。ゆっくりと髪をかきあげる。指先に血の固まりが触れ、唇が引き攣る。折れたタバコをへばりつかせたままの唇を。その拍子に、見開いたまま瞬かない目尻から、ひと筋の液体がこぼれだす。音もなく壁が吹っ飛び、壁の向こうの隣の部屋にそれまでなんとか閉じ込められていた猛火があたり一面を覆い尽くす。渦巻くオレンジの炎に飲まれて、コバヤシの姿はもう見えない。

 

 

 

 “ひめ”のひとりが車を飛ばしている。青い平べったく横幅だけやたらに大きいスポーツカーだ。サングラスをかけ、唇を噛みしめ、アクセルをぐんぐん踏んでいる。美しい横顔にススを拭ったあとがある。寝間着なのかドレスなのかわからない華やかで非日常的な衣装に、からだにはおおきすぎるトレンチコートをいいかげんにまとっている。助手席には別の“ひめ”がいてからだを揉み絞るようにして泣いている。狭い後部座席にはもうひとり、さらに別の“ひめ”が横たわっている。ショールを巻き付け、空をみつめたまま動かない目をしているから、壊れて捨てられたマネキンのようだ。

 まだ明け方だ。お堀端の道。すいている。どんどん追い越す。対向車線のライトが目を射る。柳が風に揺れている。運転者である“ひめ”がハッとしたようにバックミラーに目をやり、我慢しきれずに肩越しに後ろを振り向く。一瞬で前に向き直って、ギアをいれかえる。その乱暴な動きに助手席の別の“ひめ”と後部座席のマネキンのような“ひめ”がみんなガクンガクンと動いた。ムチでも入れられたように車が飛び出す。歩道に半分乗り上げ、あわてて降りる。車が躍る。車線を横切って。周囲じゅうの車がこの無謀運転を避けようとしていっせいに躍る。信号のある交差点に近づいたために減速しはじめていた先行車の一台を、青いスポーツカーは、まず前のバンパーで揺すり、大きく振った尻でもう一度大きく押しのけるようにして、無理やり交差点を曲がる。突つかれた車は対向車線にはみだした。ガラスの割れる音。曲ったとたんにそこにいたトラックの正面が視野いっぱいを覆う。助手席の“ひめ”が上も下もやけにくっきりとまつげの長い目を丸くし、それからあわてて、握りしめすぎてすっかりくしゃくしゃになったレザーの上着に顔を突っ伏す。弾けるフロントグラス、殺到する大きなもの、ハンドルと座席の背とが運転手の“ひめ”を、続いてあとのふたりを、瞬時に跡形もなくぺしゃんこにする。フォーン。怒号。サイレン。

 

 

 

 コック着の男たちは両手を肩まであげて並んでいる。向かい合っているのは、どこかの軍隊の兵隊のような目つきの冷たい黒っぽい服装の男たちだ。半分ほどが拳銃やマシンガンを構えている。人数はほぼ互角。厨房には湯気とおいしそうな匂いがただよい、ついたままのコンロの上で“菩提樹”名物ブラウンソースのビーフシチュウがくつくつと微笑んでいる。調理台には、飾りつけの途中で放置された皿が二十個ばかり並んでいる。白身の魚の薄切りのブロッコリーソース和えを詰めたプチシューにコンソメゼリーと野菜が散らばせてあるものだ。金縁の皿の白磁がひとつの傷もなく美しく輝いている。

 “軍人”のすっと伸びた手がプチシューをひとつ取りあげ、口に放り込む。

 うまいじゃないか。

 調理台に尻を乗せてニッコリ笑った顔は猿に似ている。

 コックのひとりが目をそむけるようにして皮肉な顔付きで何かつぶやく。と、黒っぽい服装の“軍人”のひとりがいきなり動く。銃の台尻でコックの顎をつきあげたのだ。次に、仰向けに倒れかかるそのコックの胸座を捉え、足払いをかけ、額を調理台に叩き付けた。怒号。皿が飛び散る。髪をつかまれて引き上げられたコックの顔は真っ赤だ。鼻が潰れている。苦しげに開いた口から、折れた歯が落ちる。

 猿がおいおいと宥めるような仕種をする。よしなって。せっかくの食べ物をむだにしちゃあいけないよ。

 すみません。別の、もっと若いコックがいう。コック帽の下からひと筋の汗が落ちていく。あのう……ひを。火を、とめさせてもらえないでしょうか。このままでは、シチューがだめになってしまうので……。

 シチューが?

 猿はニヤリと笑う。

 ダメになってしまうのか。それはいけないな。

 猿は、どうぞ、というように手を動かす。

 コックはギクシャクと背中に定規でもつっこまれたようなかっこうで歩いていって、コンロのガスをとめた。その目が、コンロの右となりでニンニクを刻んだまま放り出されていたペティナイフにチラチラ流れる。

 と、猿がゆっくりと足を床におろし、立ち上がった。

 若いコックはあわててその場でとまる。

 猿のめざす先はオーブンだ。猿はオーブンの扉を開く。空気がぐにゃりとゆがむので、熱気があがっているのがわかる。若いコックは全身を緊張させて立ちながら、チラチラとまだナイフを見ている。ナイフを見ている。見ている。猿は銀色のオーブン用グローブを手にはめ、オーブンのトレーをひっぱりだす。楕円形の銅鍋の中で川魚のオリーブオイル煮つまりアクアパッツアがじゅうじゅういっていた。猿はほほお、と感心したような顔をし、にこにこして、舌なめずりをする。若いコックはまだ時々隙をうかがってナイフを見るのをやめない。猿は熱い魚を指先でちょっとむしってみる。うーん、残念だ、こいつはもうちょっと、いきすぎてる。若いコックがジャンプしてナイフに飛びついた。向き直ったコックの顔めがけ、猿が銅鍋をぶつけた。熱いオイルが飛び散り、若いコックが絶叫する。取ろうとしたナイフに向けて伸ばした手は、あと少しのところで届かなかった。それをとりあげる前に、猿はまず、みごとにころりとしたにんにく一片を口に放り込んで、がりっと奥歯で噛む。辛かったのか、ちょっと顔をしかめる。汚れた指を服で拭って、猿はナイフを握る。それを若い勇敢なコックの右の耳に少しばかりつっこんだ状態に保ちながら、猿は、うめくコックをひきずって扉の開いたままのオーブンのほうに連れていく。

 ほかのコックたちの顔がみるみる色を失う。従順に降参のかたちにあげたままの手ががたがた震える。

 若いコックが叫ぶ。もはやそれは人間の声のようではない。フルオープンにされて空気が逃げ庫内温度の一気にさがった業務用ガスオーブンは、聞くからに性能のよさそうな唸りをたててひときわ盛んに燃えはじめている。コックが叫ぶ。猿は、にやっと笑いながらなにか冗談を言ったらしい。軍服の半分は半端な笑いを浮かべるが、残りの半分は思わずイヤそうに顔をそむける。

 

 

 

「おかしいわね」

 ヒロさんが縁側に腰をおろしたのは午後遅くのことだった。

 それは、その時までは、すこしもおかしい日ではなかった。ごくあたりまえの、これまでずっと続いていたようなまったく普段どおりのいつもの一日だった。どこにも違いは見えなかった。

 例によって例のごとく浜にいって一日遊んで帰ってきてすぐのことであった。まだみんな、濡れた水着のままか、なにか軽いものを一枚羽織っているだけ。ヒトシがノリヲを連れて、いちばん最初にお風呂に入っていた。

 ナルミちゃんは縁側で鼻歌を歌いながらアキコのオムツをとりかえている。

 スミカとミキヲはブランコに乗ってなんとなくそこを揺すっていた。

 レイラはホースで犬のトランプから塩水を洗い流してやっていた。

 フクちゃんは明日のための薪を割っていた。

「ずっと?」

「はい。どの番号もでません。ウンでもスンでもないんです」マツエさんが答えた。「もう一度かけてみましょうか。それとも、電話局に問い合わせてみましょうか」

 ヒロさんは答えなかった。片手を口にあてて黙り込んだ。ブロンズがかったピンクにきれいに塗ってある爪が、少しだけハゲていた。

 マツエさんは引き返していって、また電話をかけた。いらいらとスリッパを鳴らしながらしばらく受話器を耳にあてていて、やっぱりだめですよ奥さま、と言った。いったいどうしたんでしょうね?

 トランプを洗いおえたので、レイラはレディを呼んだ。レディはこなかった。

「レディ?」

 レディは地面に四肢をつっぱり、キッとした顔で二階をみあげていた。唇がめくれ、背中の毛、たてがみのような部分が一列うねになって立ち上がっていた。レディは低くうなった。

 ヒロさんが強張った顔でパッとたちあがり、緊張した顔で二階を見上げた。

「そう」

 ヒロさんはいった。

「来たのね」

 静かな、落ち着いた声だった。ひとりごとのような。自分に言い聞かせるような。喝をいれるような。ひょっとすると、少しぐらいは恐怖や諦めはにじんでいたかもしれない。

 なにが、と問い返す暇はなかった。犬たちがいきなり火でもついたように吠えはじめたのだ。

 スミカがブランコから飛び降りた。レイラの手の先で、ホースの水がしゅうしゅう出ていく。

 どくんどくんどくん。どくんどくんどくん。

 レイラの胸の奥で心臓が走り出す。

 なにかが来た。なにかが

 

 

 はじまった。

 

 

 二階のヒロさんの使っている部屋の窓がなにげなく開いた。金色の、水に潜っても平気な高級時計をはめた腕が、そこを開けたのだった。

「どうもー」

 ロレックスは窓枠に肘をつき、ひとなつっこい顔でヒロさんを見下ろした。

「またおじゃましてました」

 言いながら手をあげる。お土産のスイカでも差し出すように下げていたのは誰かの首。なまくび。食いしばった唇の端から、そして、斜めに切り取られた耳のあたりから、赤いものがしたたり落ちている。あまりに突然で、それに、顔がひどくこわばってまるで人形か作り物のように見えていたので、一瞬、おもちゃのように見えた。趣味の悪い冗談のためにかぶる仮面のように。

「……松橋さん……」

 ヒロさんがうめいたので、それがこの家の持ち主のあのおじいさんだったことがやっとわかった。

「そのひとは関係ないのに」

「正当防衛です」ロレックスが笑った。「やらなきゃ、やられるとこだったんで」

「殺さなくたって……」

「殺すなかれ。盗むなかれ。貪るなかれ。淫することなかれ。嘘をつくなかれ……人間にはしてはいけないことがたくさんある。でも」ロレックスは、なまくびをボールのようにぽんぽん放りあげた。「兵には、これらよりずっと大きな禁忌があるんですよ。不服従。それと、逃亡」

 ロレックスが見せびらかす、ロレックスがきらっとする。

 金色の盤面に幾重にかさなった卍のかたちが刻まれている。

 その卍の意味がわかったのか、ヒロさんが顔をしかめる。

「命令は、ぜったいなんです」

 ロレックスはにやっとして肩をすくめ、ひっこんだ。

「すみません、申し訳ありません奥さま!」敵が見えなくなったわずかの間にマツエさんが顔を真っ赤にして必死に言った。「いつの間に入り込まれたのやら! ……しかもいったいどうやって! まったく気づきませんでした、申し訳ない」

「いいの」

 蒼白な顔になったヒロさんはマツエさんの手をとって、キュッと握った。

「あなたのせいなんかじゃない。いつかこうなるってわかっていた。思ってたより、少しはやかったけれど……ヒトシくんとノリちゃんは、どこ? もうお風呂あがったの?」

「見てきます」

「お〜っと、待って」玄関に回ろうとしたマツエさんに、既にキッチンに降りてきていたロレックスがサッと拳銃を向けた。「どこに行くんです?」

「お風呂場ですよ」マツエさんは静かな怒りを目にこめて答えた。「子供がお風呂にはいっているんです。お客が来てるとは知らず、裸んぼうで戻って来て失礼するといけないでしょう」

「なぁるほど。いま、ここにいないのは……ヒトシくんと、双子の片方ですね。では、あのすばしっこい双子くんの片割れに、妙なことをしでかしたら、もうひとりが死ぬって、言っておいてください。えーと……どっちがどっちだっけ? そっちは、ミキヲくん? ノリヲくんかな?」

 まだブランコに乗ったままのミキヲは口をキュッとすぼめた。

「つれないね。こないだは、あんなに仲良く野球したのに」ロレックスは芝居がかってわざと傷ついたような顔をした。

「行ってもいいのかね?」マツエさん。

 どうぞ、とロレックスが顎をしゃくった。

 ひとりなはずはない、レイラは考えた。ひとりで来るわけがない。あの時、彼らは六人もいた。全員がいま行動を共にしているのだろうか。誰かまだ二階にでも隠れているのか。それとも、家の別のどこかに。

 どこ?

 探らないと。

 レイラが点滅しはじめようとした時。

「えーと、きみ。レイラちゃんだっけ?」

 指差されて、レイラはハッとしてロレックスを見た。

「その犬たちをどっかに繋いでおいてくれないかな。イヤだなんて言いっこなしだよ。さもないと、最初に、その可愛い忠実なわんちゃんたちを撃ち殺さなきゃならないから」

 レディはスミカに軽く首輪を押さえられたかっこうで、まだ唸っているのだった。トランプはブランコと縁側の間をさかんにいったりきたりしていた。

 レイラは考えた。引き綱はどこにあっただろうか。なにしろこの海の家に来てから、必要になったことがなくて、ぜんぜん使っていないのだった。

「引き綱が、ここにはありません。取りに行かないと」レイラは言った。「ふだん使っていないから。確か、二階にあったと思うんだけど」

「オッケイ。急いで」ロレックスはウインクをして、手の中の拳銃を振った。

 

 

 

サヨラは窓辺で椅子に腰を下ろしている。籐でできた軽いものだが、かたちばかりは、女王さまがすわるような椅子だ。

「来たか」

 サヨラはまなざしを横にずらす。

「来てはならぬと、言いおいたはずだ」

「ひどい女だ。なんでも気前よくくれるが、あとでとりあげる」

「そなたは夢をみた。佳い夢であったはずだ。しかし、それは、終わった。もうそなたにみせる夢はない。いい子だから、おとなしくおうちにお帰り」

「いやだ」

 そのものは言い、どこからか、拳銃をとりだしてみせる。

「俺はさめない。この夢に残る」

 肘をきめてまっすぐつっぱったように突き出した腕。手首に、黄金の時計――ロレックス――と、パワーストーンの腕輪がある。オニキスと猫目石とルチルクォーツ。財運と仕事運で選んだ系。

「二度と来ることが許されぬなら、ここでこのまま死のう。あんたと」

 サヨラは笑う。

「なんの意味があろう」

「さすがのあんたも殺せば死ぬだろ? そうすれば、もう二度と、誰にも夢をみせてやれるはずがない」

煙がまわりはじめている。

目にしみる。

男はまぶたを細める。

「どこの誰にも」

 唇の端にちらっと舌先をのぞかせて。

 かちり。

 親指が拳銃の安全装置をはずす。

 

 

 

 廊下にスイカのようなものがころがっていた。松橋さんのおじいさんの首だ。レイラはそちらを見ないようにして走った。ヨット部の(それがほんとうなのかどうかはともかく)残り五人の誰かが階段の上に隠れているのではないかと思っていたが、誰とも出くわさない。気配もしない。

 琴の部屋に、ユメミが立っていた。そこにいて欲しい、と願っていたとおりに。

「手をかして」レイラは小声で言った。「みんなも呼んで。いっしょに、あいつを、やっつけなくちゃ」

「ごめん」ユメミは首を振った。「それは無理。あたしたちにはそんなことはできないんだ」

 がっかりだ。

 役たたず!

「じゃあ、せめて、教えて。いったいどうしたらいいの」

「一緒に行こう」ユメミは言い、手を伸ばした。「こんなとこから、逃げちゃえばいいよ」

「だめよ!」レイラは思わず大声で叫び、ロレックスに聞こえてしまったかと思ってあわてて口を押さえた。「他のみんなをどうするの。あたしがいなくなったりしたら、きっと誰か殺される。みせしめに」

「同じだよ」ユメミはもじもじとシュミーズの裾をいじくった。「どっちにしろみんな殺されるんだから」

「なんなのそれ……どういうこと」

「わかってるでしょ」ユメミは上目遣いにレイラを見た。

 そうか。顔から血が引いた。

 決定なんだ。

 これは、もう起こったことなんだ。

 だから、ユメミは知ってる。あたしだってほんとうには、もうずっと前から知っていたのかもしれない……ただ、わかりたくなくて、認めたくなくて。視たくなかっただけかも。ああ、やだ。吐き気がする。気絶しそうだ。

 おーい、どうしたぁ? ロレックスの声がする。まだかぁ?

 レイラはあわてて自分の頬をピシャッと叩いた。でも、どうだかわかったもんじゃない。やってみるしかない。

「すみません、このへんにあるはずなんですけれどー!」怒鳴り返す。「ずっと使ってなかったから! なかなかみつからないんですー!」

 ともかく引き綱を捜さないと。言われたとおりにしてみせないと。

 みんなの荷物をのけ、畳んでない服を掻き回したが、ない。焦りが目を眩ませた。心臓が飛び出しそうだ。ない、ない。どうしてないんだろう。

「わんこの引き綱ならサンルーム」袋に入ったままの琴にもたれるようにして、ユメミがつぶやいた。「洗って、あそこの洗濯紐にかけて干して、そのまんまになってるでしょ」

「そうだわ! 思い出した。……あんたよく知ってるわね」

「だって。ひまなんだもん。ここんちのことなら、なんでも知ってる」

 あわててそこらじゅうの荷物を蹴飛ばして立ち上がろうとした時、ずれた勢いで、ジッパーの開いていたバッグの中身が動いて、それが目に入った。ロケット花火だ。双子ったら。なんでこんなもの後生大事にしまっているの。

 なんていい子!

 これなら、武器になる。目に向けて撃つとか?

「やめといたほうがいいと思うよぉ」ユメミは内気そうにからだをゆらゆらさせた。「へんなことすると、あんたがまっさきに殺されちゃうじゃんか。ねぇ、知ってると思うけど、銃で撃たれると、そうとう痛いんだよ」

「撃たれたことあるわけ」

「ないけどさ」ユメミは泣きだしそうだ。「あんたはあるわけだからさ。あんたのほうが知ってるでしょ」

「そっか」

 あるんだ。

 あったっけ?

 あったんだとしても。

 いまは、こうしていられる。

 だったら。

 またあっても、べつに平気。へいき、たぶん。

「じゃあ、もしか死んじゃったら、そんときはよろしくね」レイラはロケット花火を水着のパンツの右の脇に近いお尻側にさしこんだ。もろに背中をむけなきゃ見えないはずだ。腕を垂らしてカバーもしておけるし。

「ねぇ、たのむよ。無駄だって。やめようよ。だめだってば」

 レイラは階段を走り降りる。ユメミが肩にへばりついてついてくる。

「花火って、火がつかないとなんの役にも立たないんだよ。そこらへん、わかってる? ねぇ、ちょっと、とまって。落ち着いて聞きなよ、レイラってば!」

「すみません、あたし間違えました!」ユメミの助言に返事をせず、レイラはキッチンの椅子を縁側に持ち出して座っていたロレックスの背中に呼びかけた。「ごめんなさい、二階じゃなかったの。思い出しました、サンルームだったの! これからそっちにいきますから、撃たないで!」

 ロレックスが振り向いてなにか言おうとする間に、レイラは彼の背後側を全速力で駆け抜けて、サンルームに向かった。その途中、大急ぎで横に振った目のすみに、いかにも風呂あがりらしくバスタオルを頭からかけたかっこうのヒトシが、誰かよその人間に掴まれて歩いていくのが見えた。あの横顔は、たぶん、あの時は麦わら帽子をかぶってたひとだ。今日は殺し屋みたいな黒っぽいスーツを着てる、ヒトシはその彼に突き飛ばされ追い立てられるようにしていやいや歩いていく。自分の親指をしゃぶっているミキヲをお腹側にへばりつかせたまま、むっつりした顔つきでブランコのほうに行った。

 みんなの配置を頭の中の家の間取り図に描きこむ。

 ヨット部はもうひとりいた。これはサンルームにたどりついてあたりを捜すふりをしてぐるっと見回した時に見えた。女の子顔と呼んでいたひとだ。キッチンにいる。椅子に座らせたマツエさんの後ろ側、流しの前に立っている。自衛隊のひとみたいな迷彩模様のジャケットを着ている。恐いというより、むしろ、そんな無骨なかっこうのおかげで余計に彼の華奢で中性的な雰囲気が強調されてしまっているのだが。テーブルには俎板が出してあって、俎板の上に、たぶん、このうちにあった全部なのだろう、包丁やナイフがささっていた。針山みたいに。ウニみたい。と思った時、女の子顔のひとがパチリとナイフを開けた。銀色のナイフ。密猟したウニを、そして、レイラの足の裏を、こじったことのあるあれにちがいない。ぞっとする。一瞬じろっと見られた。まさか、背中のロケット花火を見られた? レイラはあわてて顔をそむけた。

 サンルームの干し綱の端っこのほうに、なるほど、犬の引き綱がふたつ、すっかり忘れられてぶらさがっていた。あった! とレイラは大声で叫んだ。レディの分の黄色いのと、トランプの分の青いのと、引き降ろしながら急いで目を走らせる。それから? 近くにライターはないか。ライターか。せめてマッチは?

 ああ、ナルミちゃんがもうすこし当てになるひとだったら。目配せやなにかで、彼らに内緒でなにかの協力が頼めたかもしれないのに。ナルミちゃんはぺったり座り込んで膝の上でアキコをあやしながら、鼻歌を歌っているばかりだ。招かれざる客が来てることなど、気にもしていない。みんなが恐怖と緊張感に包まれてることなんて、伝わらない。

 そうだ。ヒロさん! ヒロさんならタバコを吸うからライターを持っているはずだ。ヒロさんに、なんとかこっそりうまくこれを渡すことができれば。

「やめなったら」ユメミ、まだついてきていたのか。「じたばたしないほうがいい。運命と拳銃にはさからわないほうがいい。痛い目をみたくないでしょ、聞いてる、ね、レイラ」

「あれ」

 ナルミちゃんが顔をあげ、ユメミを見て、そう、レイラではなく、ユメミを見て§六文字傍点つけ§、ぱちぱちと瞬きをした。それから、いとも無邪気ににっこり笑って、いかにも嬉しそうなすっとんきょうな大声をあげた。

「おねえちゃ〜ん!」

 

 

 

 ロレックスがいきなり椅子ごと倒れ込みながら拳銃を撃った。続けて素早く三発。一発はナルミちゃんの腕に、一発はナルミちゃんの背中に沈み、最後の一発は赤ん坊のアキコのがらがらにぶつかって弾けて窓を突き抜けていった。立ち尽くしたレイラの頬に、アキコのがらがらのセルロイドのくだけたかけらがあたって、傷をつけた。

 銃声のこだまが鼓膜と脳みそを震撼させた。空気はビリッと帯電したようだ。ショックでレイラは動けない。足ががくがくする。耳がまともに聞こえるようになるまでに、しばらくかかった。

「痛い……」

 ナルミちゃんが言っている。レイラに、そしてユメミに、早くなんとかしてくれ、と懇願するような顔をしながら。

「いたい。あああ、いたい、痛いよう……」

 みるみるあふれた涙がナルミちゃんのふっくらした頬をつたう。ナルミちゃんは鼻を啜り、むせ、ごほごほからだを揺すって咳をして、ゼンソクのように息を吸った。また、ごほごほ。

「なんだ?」ロレックスは目をぱちくりさせた。「ちくしょう、いまの女はなんだ? どこに消えた?」

 ああ。

 ロレックスにもユメミが見えたのか。

 説明しようとレイラが口をひらきかけた、でも、こんなこといったいこんな時にどう説明すればいいのか。

 そのとたん、なにか銀色のものが飛んできた。陽光を反射して、ギラッと光った。斧だ。レイラは思わず両手を握りしめ体を折って悲鳴をあげてしまった。すんでのところでヒョイと頭をかわしたロレックスの左の肩にストッと斧が刺さる。ロレックスはわめきながら柄をつかんで斧をひきはがし、振り払い、振り返りざまに何発か撃った。フクちゃんに向かって。薪ざっぽうを振り上げてわめきながら走ってきたフクちゃんに向かって。

 あわてたので銃弾は、重大なところには当たらなかったようだ。しかし全くあたっていないわけでもない。フクちゃんは突進する。そうだ、もちろんフクちゃんだ、斧を投げたのは。そう、フクちゃんがいた。フクちゃんはきっとこのおかしなことがはじまりかけた時にどこか近くにいていそいでサッと隠れて、この家になどいなかったふりをした。そのままうまく隠れてチャンスを狙ってた。なのに、あたしったら! 肝心な時にせっかくの時に! うっかり余計な悲鳴なんてあげて、邪魔をしてしまった。ああ、フクちゃん、ごめん、ごめんなさい! 裏切ったんじゃない。ただびっくりしただけ。突然すぎて。気分は奈落におちこんだ。

 ロレックスがフクちゃんにしがみつかれて気をとられている隙に、レディが襲いかかった。全身のバネをきかせて飛びついた犬のからだにバランスをくずされて、ロレックスはよろけ、手から拳銃が落ちた。フクちゃんとロレックスはとっくみあいながら縁側を転げ落ちる。ヒロさんはなんとか拳銃を拾おうしているのだが、もつれあった男ふたりの足がバタバタして、じゃまで、手が届かない。

 ロレックスに駆け寄ろうと飛び出した迷彩服の背中に、マツエさんが出刃と刺し身包丁を両手に掴んで突き立てた。ぎゃあっ、とすごい声があがり、迷彩服が横倒しになる。まだ死んでいない。そのまま体操選手のようにくるりと回って立ち上がり、勢いあまってよろめいたマツエさんの背後にくっつき、手にしたナイフでマツエさんの喉を掻き切った。びゅっと噴出した血飛沫。切れた喉に、首の骨に、マツエさんの体重がかかった時、マツエさんの血に足を滑らせた迷彩服はつるりと転び、壁にぶつかり、その拍子で脇腹にひっかかっていた包丁が根元まで刺さる。目がくるっと白くなる。

 スミカが元麦わら帽子の股間を蹴りあげた。元麦わら帽子が二つ折れになって膝をつく。ニヤッと笑顔になり、笑窪ができた、その瞬間、スミカは吹き飛んだ。上のほうから放たれたたぶんマシンガンの銃弾が彼女の美しい顔を一瞬のうちに破裂させたのだった。バレリーナのようにくるっと回って倒れるスミカ。元麦わら帽子の腕を咥えてグイグイふっていたトランプも弾を浴びた。ひゃん、と鳴いて飛びあがり、肢を引き攣らせた。

 スミカ、スミカ、スミカ! レイラは叫んだ。しゃがみこんで叫んだ。叫べばまだいまのことがなかったことにできるかのように。時間を逆まわしにして、やりなおせるかのように。ミキヲとノリヲも喉も割れよと甲高い悲鳴をあげている。時にユニゾンで。時にカノンで。ひとりが息を吸い込んでる間にもうひとりがわめく。ヒトシも叫んでいる。双子を黙らせようと、物陰に隠そうと、引き摺りながら叫んでいる。両手で抱いてなだめようとしている、だが、屋根から銃弾が降り注ぐ。窓が割れ、ブランコの鉄のあちこちに弾があたってカンカン鳴る。ますます高まる双子の悲鳴。

 レイラは叫ぶのをやめ、歯をくいしばって悲鳴を押し殺し、台所まで駆け戻った。屋根にいるんだ、もうひとりいる。いやひとりしゃないかもしれない。猿だろうか、エチオピアだろうか? なんとかしなきゃ。この花火で? それとも、包丁で? できるか。なにかできるのかこの自分に。自分ごときに。膝が震える。と、屋根を走る足音がした。だだだだだ。人間のものではなかった。獣。犬?レディだ。敵にしのびより、飛びついた! うわっ、と悲鳴があがる。レディは裏山をかけあがってたどって、屋根にあがったのだろう。また銃弾。やっつけたのか? それとも、やられてしまったのか?

 テーブルの上、器に盛られた山ほどの癒恵。ひとつ掴んでギュッと握り、かぶりついた。甘かった。みずみずしかった。幸福の香りがする。でもしぶきが飛んで目にしみた。思わずギュッと目をつぶる。

 こんなことみんなうそだったらいいのに。

「そこにある」

 目をあけると、ウルがいた。ウルは、おちついた、穏やかな、諭すような口調で言っているのだった。幽霊の半分透明な姿で立ちながら、調理台の上のガスコンロを指でさししめしているのだった。

「わかるだろう。それは、火だ」

 

 

 

 炎が燃える。

 いのちが燃える。

 冬枯れの枝に新芽が芽吹き、若葉が伸び、陽光を浴びて繁る。蕾がその特別の可憐な姿をそっとあらわし、そっとそっと色づきはじめ、そっとそっと膨らんでいく。

 そうして癒恵の花が咲く。

 世界の真ん中で、樹はひらき、どこまでもひらき、どこまでもどこまでもひらきつづける。贈り物のリボンをほどき蓋をとり包み紙をひらくように。幾重にもおりたたまれてあった折り紙を展開するように。芳しきはなびらのいちまいいちまいが、くしゃくしゃにたたまれた襞をひろげ、みずみずしくふくらんで皺をのばし、ふるえながら伸び、すみずみまで張りつめ、限界までもひらいてひらいてひらいて、それぞれがそれぞれの持てるすべてを言祝ぎ、つつんでいく。明滅する世界を、粒と波でできた世界を、きらめきと偶然の世界を、甘やかな芳香で満たしながら。

 ひらくことはさしだすこと。

 すさまじいまでの痛みと歓びと光がレイラをばらばらに粉みじんにし、どこまでも散らばらせる。拡散させる。

 なんて明るいのだろう。まるで世界じゅうのシャンデリアを灯したよう。輪になって渦になって、もっとむこうへ、もっと遠くへ、ひろがりつづけながら、踊る炎の大樹。散り撒かれ、舞い飛び、渦と螺旋と曲線を描いて、どこまでもどこまでも、際限なく、ふりそそぐはなびら。きらきら。きらきら。それはいつしか、海の波、たちのぼる泡。

 無限流転の円舞曲。

 まるで、海の底からみているみたい。

 水面に向って登っていこうとしているときみたい。

 あの境界線のむこうへ、帰る。

 かえる。

 孵る、換える、返る、反る、還る……。

 

 

 

 知らず留めていた息が、ぷはっ、と洩れた。吐いて、はじめて、吸うのを忘れていたことに気付く。レイラはあえぎながら何度もせわしなく空気を吐き、ついで、吸いこんだ。いま、きえていた。どこかよそにいっていた。ここではないどこか。よその場所、よその時間。もしかするとよそのわたし。よその別のいのちに。もうちょっとで、そのままとりこまれてしまいそうになるところを、あやういところでもどってきた。

 ここで

 やることがあるから。

 果たすべきしごとがあるから。

迷彩服の死体を横に押しやり、ソファのカバーをふたつとも毟り取り、流しの下を捜してみつけたサラダオイルをぶちかけた。コンロに火をつけ、油で濡らした布を押し付けようとした。布がひらひらひるがえってしまうので、思わず怯えて後ろにさがった。なにせ自分の手もからだも油だらけなのだ。うまくいかないのかと思った。ダメなのかと思った。最初、蒸気が出てくるだけだったから。真っ白い、しめった煙がもうもうと出た。それから、いきなり、ボッと音をたてて火が走ったかと思うと、みるみるうちに燃え上がった。

 その火を導火線に移しておいて、勝手口から走り出た。屋根の上、雨樋のあたりを大きな銃を構えたふたりがよろめき逃げている。レディに追われて走って逃げてきて、高さに怯んでいる。レイラはロケット花火の先端をそちらに向けた。間に合った。ぎりぎり。しゅん、と拍子抜けするような音をたててその小さな武器が飛び出して、頬に、肩に、火花が飛んだ。いきなり飛んできたものにびっくりした誰かは足を滑らせ、もうひとりとぶつかり、もつれながら転んだ。大声。落ちる。何枚かの瓦ごと。

 狼めいた白いからだに赤を散らしたレディは軒先で落ちた敵を見下ろして確認すると、サッと身を翻した。

 縁側のあたりではフクちゃんとロレックスがまだ激しくもみ合っていた。と、ロレックスがついに拳銃に手を届かせた。ロレックスは破裂するような大声で笑い、これで決まりだ最後だざまあみやがれとかなんとかわめき、拳銃をフクちゃんのお腹にほとんどくっつけるようにしたまま何度も撃った。何度も。何発も。かちっ、かちっ。ただ音しかしなくなっても。フクちゃんは動かなかった。しがみついたまま、動かなかった。弁慶みたいに。ロレックスは立ち上がろうとする。フクちゃんをどけようとしている。だが、がっちりくっついた逞しいフクちゃんのからだがじゃまで動けない。くそっ、なんだよ、この野郎、どけっつーんだよ、もがくロレックスの背中の向こうに、ヒロさんがすっと立ち上がる。血みどろの柄の斧をヒロさんはいかにも重そうにいやそうに持っている。そんなものはこれまでただの一度も持ったことがないのにちがいなかった。まったく慣れない、どうしていいかわからないような手つきで掴んでいる。斧そのものの大きさと、重さと、長い爪と、たぶん柄がぬるぬるするから。いまにも取り落としそうだ。が、ヒロさんは持ちこたえ、あまつさえ、それを不意に大きく、下から上にスイングした。ゴルフのティーショットみたいに。うまかった。意外にもスムーズだった。

 フラミンゴでパターするアリスの女王。

 スイングは、ロレックスの腰に、がつ、とぶちあたってそこで止まった。斧はそのままそこに突き立った。うるさかった彼の繰り言がぴたりとやみ、ロレックスは、どすん、と音をたてて地面に倒れた。

 すると。

 静かになった。

 急に、やけに、しずかになった。

 あたりじゅう。静寂。

 とても、とてもしずかになった。

 それから、小さな音が耳に戻ってきた。

 ナルミちゃんがしゃくりあげながら歩いて来る。トランプのきゅーんという声がする。ブランコがきいきい鳴っている。

 目まぐるしかった。あっという間だった。まだなんだかよくわけがわからない。なにがどうして、どうなったのか。なぜなのか。もう少したって、気を落ち着けたら、理解することができるだろうか。けっしてわかりたくなんかないだろう、いろいろなこと。

 もう取り返しがつかない、いろいろなこと。

 レイラはぐったりとして、その場にへたりこみそうになった。だけど、だめだ。まだだめだ。誰が無事で、誰がもうだめなのかぐらい確かめないと。救急車呼ばないと。

 消防車も。

 ぱちぱち爆ぜる火の粉が降り注ぐ。いくつか、ここまで飛んでくる。炎はもう二階までまわっているのだ。

 あたしは放火の犯人としてつかまるんだろうか。 松橋さんは火災保険をかけていただろうか。このおうちを弁償しなきゃならないとすると、きっと一生かかっちゃうな……。

 考えたくないたくさんの事柄のかわりに、いたって世俗的な不安がいきなりふくれあがった。

 と。ヒロさんが大きく息をついた。動かなくなったロレックスの手の中から、拳銃をとりあげる。カートリッジをはずし、安全装置とかいうものだろうか、どこかをカチャッといわれて、ちょっと確かめてみているその手つきから、ヒロさんがそれまでに(あの斧とは勝手がちがって)拳銃にはさわったことがあるに違いないのがよく分かった。

 ロレックスの背広の後ろのほうに手をつっこんで、別の新しいカートリッジをみつけ、すばやくそれを装填する。ヒロさんは膝に手をかけて、おっくうそうに、痛そうにぎくしゃくと立ち上がる。

 ほかには誰も立ち上がらない。

 ナルミちゃんがお腹をおさえている。いたい、すごくいたいの、いたいです。めそめそ泣いている。

 ヒロさんはゆっくりと時間をかけて、レイラを振り向いた。いつも端然と美しいヒロさんが、この時は、幾千年もの年齢を重ねた老婆のようにみえた。洞窟の奥に巣くっている魔物のように見えた。ヒロさんは怯えるレイラを無視して、視線をめぐらせ、ぐるりと一周見回して、やれやれと大きく溜め息をついた。

「……痛いです……」

 ナルミちゃんが言った。誰かをとがめるような口調で。

「とても痛いです。死にそうです」

 ヒロさんは、そうでしょうね、とつぶやいた。

「……あ。ナルミ。……おまえ、あの子を見た?」訊ねた。「さっき、おねえちゃん、って呼んでたわね。あの子が……ねえ、ゆめみが……いたの?」

「ユメミちゃん?」

 ナルミちゃんは泣き止んだ。弱々しく涙をぬぐっていた手を退けて、その場にきちんと正座をした。

「はい。おかあさま」ナルミちゃんは言い、ごほごほと咳きこんだ。口にあてた拳に血が飛んだ。「いました。おねえちゃん。ユメミちゃん。いまも、そこにいる」

「どこに」

「そこ」

 ナルミちゃんの手は、まっすぐレイラをさしている。

 ヒロさんの目がなにか激しい狂おしい欲求に燃えてゆがんだ。レイラは自分が責められているような気がして、息ができなくなった。違う、違います。わたしじゃありません。隠しているんでもありません。

 だが、ユメミはたしかにそこにいたのだった。肩のむこうに。レイラのすぐ後ろに背中にへばりつくようにして息を殺していたのだった。

ヒロさんとは話をしたくないみたいだ。

レイラがとりなしの口をひらこうとした時、ヒロさんは痛ましい目を無理にもぎ離した。

「あの子は、どうしてるの?」

「どう、ですか?」ナルミちゃんは顔をしかめた。

「どんなかっこう?」

「えと……えと、お洋服は、白いドレスです。おねえちゃんの、大好きだった、あのサンドレスです。おかあさまが、いつだったか、ナルミとおねえちゃんに、お揃いで縫ってくれたあれ」

「…………」

「おねえちゃん、きれい」

 ナルミちゃんは、うっとり言った。

「いいなあ。ぜんぜんかわんないだー。おおきくならないんだねえ。いまも、ずーっと前の、かわいかったままの、ずーっと、そのまんまです。あのう、でもね……おかあさま……ナルミはね、痛いです。痛いのね。このへんが、すごく痛くて、死にそうです」

「そう……」

 ヒロさんはかすかにうなずいたかと思うと、いきなり拳銃をあげ、撃った。泣き言をいっていたままのナルミちゃんがそのままの表情で、どうっと倒れる。

「連れていってもらいなさい。ユメミに……」

 優しく微笑んだヒロさんの唇の横の深く刻まれた皺のところを、涙が一筋、流れていく。

 ヒロさんの拳銃がレイラのほうを向いたのは、たまたまなのだろうか。視線を向けたついでにそうなってしまったのか。それとも、ことによったら、レイラのことも、撃ってしまうつもりだったんだろうか。

 折れちゃってる、爪。

 レイラは思った。

 ヒロさんの、美しい爪。家事とか育児とかそういった瑣末なことにわずらわされない、だからいつもすきなだけ伸ばしておける、すてきな爪。あんなに大事にしていたのに。……こんなひどい騒ぎだったんだから、しょうがないけど。

 気がつくと、ユメミの背中があった。目の前に。ユメミは隠れているのをやめて、歩みだしていたのだ。両手を広げて。レイラをかばうようにして立っていた。

「だめだよ。この子は」

 ユメミは怒ったような声で言った。

「撃たないで。撃っちゃだめ。ねえ、わかる? 聞こえてる?……お願い、ねぇ、一度ぐらい、あたしの言うことに耳をかしてよ、たのむよ、ママってば!」

 ママ?

 そういえば。

 ナルミちゃんもへんなこといってた。おかあさま、とか。おねえちゃん、とか。ナルミちゃんのことだから、ちょっとへんなのはふつうだけど。

 でも、それって。もしかして。

 懇願するユメミの姿は、しかし、ヒロさんにはどうしても見ることができないようだった。声も、聞こえていないのかもかれない。だが、それが見えて聞こえているレイラの態度のせいで何かがわかるのか……あるいは、せめて、気配ぐらいは感じられるのかもしれない。

「あの子が、いるのね……そこに」

 気がつくと、ヒロさんはかすかに目を眇めてレイラを見つめているのだった。

 拳銃は、だらんとおちていた。両腕といっしょに、まっすぐ地面にむけておろしてあった。

「レイラにも見える?」

 それはひとりごとのようなつぶやきだったので、問い掛けられているのだということに気づくまで、すこし間があいた。

「みえます」

「ゆめみ」

「……あ。はい。ええ。もちろん。見えます。いまだけじゃなくて。ずっと見えてました」

 何度も。何度も。この夏のはじめから。ここにくる電車の中ではじめてあってから、たびたび。

 言おうとしたことが喉にはりついた。ああ、そうか。そうだったのか。

 ユメミはヒロさんを見つめていたのだ。

 あたしじゃなくて。

 はじめて現れたあのときから。せつなげに。じーっと。ヒロさんのことを追いかけて、ヒロさんの姿を見て、ヒロさんと一緒にいたんだ。ヒロさんがお琴を弾いた時なんか、すごくすごく嬉しそうだった。

 あれっきり姿をみせなくなったのは、怒ったからじゃなく、満足したからなのか。

 その気持ちちょっとわかる。あまり嬉しいことがあると、その自分をしまっておきたくなる。おなかいっぱいみたいな気分になって、ちょっとひとりになって、時間をおきたくなる。こころがそれをきちんとたたんでしまいこめるように。

 宝物をとっておく場所をととのえられるように。

 そういえばレイラは、ユメミのことを、ただの一度もヒロさんに話したことがなかったのだった。わざと隠したわけではなかったが、まさか、言ったほうがいいことだなんて、思っても見なかった。

この時までは。

「ゆめみは……ヒロさんの娘さんなの?」

 ふう。

 ヒロさんは溜め息をつき、いいえ、と首を振る。

「違うわ。マナセの娘よ」

「マナセ? 誰?」

「きかせてあげる」

 ヒロさんは言った。

「いつか。いまはだめ。それどころじゃない」

 ギュッとまぶたを伏せたヒロさんの頬に、一筋、涙がつたった。

「それより、教えてレイラ。あの子は……ユメミは、いま、どんなふうなの?」

「……ユメミは……可愛いですよ。とても。すごく可愛いです」

「何歳なの? 何歳ぐらいにみえるの?」

「わかりません。こどものような、こどもじゃなくなりかけのような。ああ、たぶん、あたしぐらい。十歳か、その前後」

「髪は? 服は?」

「髪は、ちょっとだけくせっ毛で、むきだしの肩にくるくるってかかっています。服は、素敵で、ひらひらしています。手足はほそっこくて、きゃしゃで……キュートで……妖精みたいです。天使みたいです。……女の子なら誰だって、こうだったらいいな、って、そう思うような。可愛い。素敵な子です」

「そう」

 ヒロさんが目を伏せ、鼻と口を手で押さえた。

ひとさし指の爪と中指の爪がぽっきり折れて、血がにじんでいる。いつもきれいに整っている手がそんなになってしまっているのが、とても痛ましかった。

「ふふ。あいかわらず父親そっくりね」

「でも……まさか……ユメミがナルミちゃんのおねえさんだったなんて。そんなこと、思いもよらなかった」

いっちゃなんだけど、まったくぜんぜん似てないし。

「大人になりたくなかったんだと思う」

 ヒロさんはうっすら笑った。

「とめることなんてできなかった。いいわけかもしれないけど。の子は、よっぽどね、女になるのがいやだった。初潮が来るの、こわがっていた。きちゃったら、もう、終わりだ、ぜったいに、女になんかなりたくない、って」

「…………」

「そうして、あの子は行ってしまった。十二歳の誕生日の少し前に。自分ひとりで、さっさと決めて。……なにも、そんなに急がなくたっていいのにねえ」

「…………」

「そんなにうまく死んじゃわなくたっていいのに。まだ、なにも、してないのに。わかってないのに。やってみもしないうちから、金輪際いやだって、思っちゃったのねえ……」

 ヒロさんはいきなり拳銃をあげると、庭の、あの、みんなが心底だいっきらいだった屋外トイレに向けた。ばんばんばんばん音高く撃った。それが何かの象徴であるかのように。いやなのに、きらいなのに、なきゃいいのに、でもある、なければ困る、そういうものの代表であるように。

女になることと、それが、つながっているものであるかのように。

ぜんぶの弾がなくなってしまうまで、ばんばん、ばんばん、ばんばん。ばんばん……。ヒロさんはうちつづけた。休まず、うちつづけた。

 銃声の最後のこだまが消えていくと、ヒロさんはだらんと手をおろして、拳銃をその場に落とした。

「あたしこそ、死んじゃってもいいんだけど!」

 怒鳴るように、あざ笑うように、叫ぶように、ヒロさんは言う。

「いつ死んだって、いいんだけど! でも、しょうがない! 死なないから。生きてくしか、しょうがない!」

 かんかん、かんかん。

 どこかで鐘がなりだしていた。

「……逃げなきゃ」

一刻もはやく出かけるよ、とヒロさんは言った。火を見て、ひとが来る。消防や警察が集まって来る。

だから、大急ぎで、姿をくらます必要がある。

「ど、どこへ?」

わからない、とヒロさんはいった。

とにかく、逃げる。

ここに、この高台の家にわたしたちがいたことは、バレてる。全部で何人いたのかも、たぶんバレてる。全滅できなかったことも、そのうちバレる。

でも、死体がこんなにたくさんあれば。

「とりあえず、大騒ぎになる。時間がかせげる」

だから、いまのうちに消える。

「いそいで、レイラ」

燃えてくすぶる家に踏み込んで、役に立ちそうなものを手早く探した。衣服を何枚もはおり、ものをつめこんだかばんをななめにかける。ヒロさんがおぶいひもでアキコを自分の背中にくくりつけている間に、レイラはスミカにかけよって、別れのキスをした。美しいままの耳に。

サイレンの音がする。近づいてる。

町には行けない。崖は降りられない。駅にも、海にも、行き場がない。

山を越えていくしかない。

ヒロさんが無言で大股に歩きはじめたので、レイラも黙ってついていくことにした。草むした、踏みわけ道。山の中の細い道。いつか烏賊を買いにいったのがここだった。フクちゃんの車でがたごと揺られた。あの道は漁港に通じていた。途中に分かれ道が何本かあった。山を抜けていく道があった。

背後でがさごそ音がしたのでギョッとして振り向くと、犬が二匹。だるまさんがころんだ! みたいに立っていた。自分たちもついていってもいいのかどうか、許されるかどうか、まよっているらしい。

おいで。

レディ! トランプ!

呼ぶと、犬たちは嬉しそうにちょっとだけシッポをふって駆けてきた。トランプのほうは足を一本怪我しているらしく、少しひょこひょこさせている。レディのからだには無数の赤い斑模様がある。誰の血なんだかわかりゃしないけど、できれば、どこかで洗ってやらないと。犬たちを抱き寄せ、首のあたりの毛皮に鼻をうずめると、犬のいかにも犬らしい匂いがして、でも、かさなって焦げ臭い戦闘の名残のにおいがした。

はやく。

ヒロさんがせかす。

海から吹く風がしょっぱい。海は東側にある。だから、風に押してもらえば西だ。

行かなきゃ。

あそこにみえる、あの山を越えて。

『サウンド・オブ・ミュージック』みたい、とレイラは思った。クライム、エブリ、マウンテン。すべての山をのぼれ。あの映画は実際にあったことだって聞いた。あんな小さなこどもたちだって、がんばり通して生き延びた。

だから、わたしにも、やれる。

きっと。

やれる。

やらなくちゃ。