yumenooto uminoiro |
Layla&Mahane
車はいまは停車している。 そこは,がらんと広い駐車場だ。人気がない。敷きつめてあるアスファルトかコンクリのあちこちに亀割が走り、ところどころは大きく割れて草が生えている。何年も前に廃業したパチンコ屋の土地。目の前の国道を、ごくたまに大きなトラックが、びゅん、と通りすぎる。 ここは……どこ? 名前のつけられないどこか。 どこでもないどこか。 過去と未来にはどこかであったことがあるかもしれない。でも、ここには「いま」がない。 通過点であるどこか。 そんな場所。 そんな場所でも、電波があった。 だから、さっきマハネは学校に連絡をいれた。星野です。無事です。ごめんなさい。心配かけてすみません。はい。そうです。いまは、両親といっしょです。 何人かのひとの声が、わっとわくのが聞こえた。 拍手の音もした。 みんな安心してくれた。 でも、 耳のなかには、まだ、銃声がとどろいている。 はるか遠い過去の銃声。夏の家。次々に倒れていくこどもたち。 ヒロさんが、撃って破壊したという屋外トイレ。 なにかが燃えくすぶっている匂いがする。まぼろしにしては、いやにはっきりと。 悲しみと痛みと衝撃が、まだ、この胸にとどろいている。 だあん、だあん、だあん。 何度も何度も、揺さぶられる。 ママは――ちがうおねえさんだ、でも、だめだ、ママはママだもん――こんな怖い思いしたんだ……そんな小さなときに……。 かわいそうに。 と。 こつこつ。 別の音――窓をたたく音がして、マハネは顔をあげた。 父が、ドアガラスのむこうでニッコリしている。あわてて、ロックをあけた。父がもどってきた。ペットボトルの飲料を持っている。 どうぞ。どれでも好きなのとって。 いつものとおり、最初にマハネに選ばせてくれる。素早く麦茶を選んで、キャップをあける。そういえば喉がからからだ。 少し、休ませて。 さっき、母は言ったのだった。 山を越えていくことになった、そこまで話したところで。 ちょっと疲れたわ。一息いれたい。 じゃあ、飲み物を買って来る。父が言った、きみたちはここで待っていて。そう言って、サッと出ていったのだった。 それから沈黙が続いていた。 父がいなくなると、母は黙った。 まるでスイッチがきれたみたいに。 そうしていると、気配がしない。お留守になる。魂のぬけがら、ただのからっぽのいれものみたいになる。とてもきれいないれものだけど。 もとから母にはそういうところがある。みんなで普通に話していたのに、気がつくと、いきなり、いなくなっている。そこにいるのだが、話に加わらなくなって。存在が感じられなくなる。 いるのに、いない。よそにいっている。たぶん、なにか、夢中で考えている。いや、自分から意識的に考えているというより、なにかにつかまってしまうのだろう。 たぶん、さっきまで話してくれていた、あの日々に。 母はまだいるのだ。 母の心は――少なくともその一部は――遠い過去にいて、何度も何度もその夏の楽しい日々を、そして、最後の惨劇を追体験しているのだ。まぶたには種々の景色が焼きついており、鼻には臭いが漂いつづけ、口の中には味がして,背中には太陽の感触がする。そして、耳の奥にはみんなの声と、すべてを断ち切るあの音がこだましつづけているのだろう。 銃声が。 もしも、とマハネは思う。 もしも、わたしにちからがあって、いらないマボロシを引き裂くことができるなら、そうする。そうしたい。でも、そのためには傷口をひらかなくてはならなくて、血をながしたり、傷つけたりしてしまう心配があるのかもしれない。もしかすると、母は、なくしたくないのかもしれない。たとえ、つらい記憶でも。でも、それが、愛したひとたちの記憶だから。 ためになることなのか、そうでないのか? わからない。だから、怖くてできない、かもしれない。もし、やんなきゃならない手術だとしても、未熟でドジでバカでへたくそで、失敗したら? とりかえしがつかない。 ああ。 プラクティスが必要だ。 わたし、ちゃんと、まっとうなやつになくなくちゃ。 必要なことを見極めたら、ためらわず、自信をもって、落ち着いて、ほんとうにしなきゃならないことを、ちゃんと過たずできるひとに、なりたい。 ……ならなきゃ。 いつかきっと、いつかぜったい、ママの悪夢に思いきりドシャドシャきれいな水をぶっかけてやるんだ! だから、 ――いまはもらった水で喉をうるおして――そっと訊ねる。 ……それで、それから? それから、……どうなったの? 「……それ……から」 母は(レイラは)ゆっくりと瞬きをした。自分で自分の声に目をさましたような顔をしてる。だんだんに、少しずつ、意識が清明になっていくみたいだった。 「わたしたちは、生き延びたわ。もちろん。そうでなければ、ここ にいない。でも、……かんたんじゃなかった」 母は話した。 放浪の日々のことを。訥々と。 ヒロさんと、犬たちと、赤ん坊のアキコのことを。 山道をさまよった。 追手を警戒した。 人里はさけた。いくらでも遠回りをした。 海から遠ざかった。 知らない町までいけたなら、きっと、なんとかなる。追手をやりすごせる。ヒロさんがそう決めて、そう動いた。 古いおんぼろのバス停で雨やどりをした。 トラックの荷台にこっそりもぐりこんで運んでもらった。 ゴミをあさって食べた。 川で着ていたものとからだをあらい、水をすすった。 たがいのぬくもりにしがみついて眠った。 よその畑の作物や干してあった洗濯物を盗んだ。 親切なおばあさんに呼び止められてお家にあげてもらったことがある。質素だけれど、温かい、美味しいごはんを食べさせてもらって、お風呂にもいれてもらった。アキコはここに置いていこうよ。レイラは言った。きっと、可愛がってくれる。大切にしてくれるよ。けれど、ヒロさんは首を無言で横にふった。 工場を手伝った。畑を手伝った。倉庫を手伝った。温泉で働き、鶏舎で働き、病院で働き、お酒を出す店でも働いた。 河原の土手を、鉄橋の下を、黄色い花の咲く田んぼの横のあぜ道を、どこまでも、どこまでも、歩いた。 両手両足にはまめができて、かたくなっていた。 濡れるとしみた。 おなかがすいて、たまらなくて、みちばたの草を選びもせずにつんで、泥まみれで口にいれた。飲み込めなくて、えずいて、胃液しか出てこなくて、痛くて苦くて、みじめで泣いた。 知らない場所で、知らないひとたちの中にはいっていくとき、犬たちは、とても頼りになった。猟をするひとや、山で仕事をするひとたちは、だいたいが犬好きだ。おお立派な犬だなと目をかけてくれた。逆に、悪いやつは、だいたいが、犬を恐れる。子連れの女を美味な獲物か値踏みする眼は、二頭の犬が毛をさかだて牙をみせてうなると、不埒な企みを諦めることにするようだった。 ある朝、気がつくと、トランプがいなくなっていた。いっしょうけんめいさがしたのだけれど、どうしてもみつけられなかった。レディは居場所を知っていたはずだ。わかっていたと思う。匂いをとれないわけがない。でも、教えなかった。 そのレディも、それから半年ばかりする間に、だんだん少しずつくたびれて、年寄り臭い犬になっていった。わたしたちより歩くのが遅くなり、毛がぼさぼさして艶が悪くなり、弱々しく咳こむことがあるようになり……そうして、ある日、とうとう、動けなくなった。草地に横たえたレディをヒロさんと両方から抱きしめた。ありがとうね、ずっとずっと、どうもありがとう。だいじょうぶ。なんにもこわくないからね。これからいくところは、いままでいたところより、ずっとずっといいところだよ。楽しいし、みんないる。きっとレディには天使のつばさがはえるよ。神さまも天国の門番さんや天使たちも、なんて可愛くて勇敢な犬でしょうって、歓迎してくれる。だから、安心して、待ってて。またあおう。大好きなレディ。ありがとう。さようなら。ありがとう。 とある小さな町で、女性のためのシェルターをみつけた。 暴力から逃げてきたことを打ち明けると、無条件でかくまってくれた。詳しいことを説明する必要はなかった。 言わずに隠していることがたくさんあったけれど、そこには、そういうひとが少なくなかった。 質素な共同生活をはじめて一カ月したとある晩、ヒロさんは、こどもたちの寝かされている場所にそっとしのんできて、レイラに、わたしは今夜出ていくことにした、と言った。 「ここなら大丈夫。あなたたちは未成年だから保護してもらえる。自立できるようになるまで、公的支援をしてもらえるはず。途中でほうりだしたりしない。だから、わたしは、行く」 どこへ? 口に出せない問いをのみこんだ。 菩提樹に決まってる。ただし、そこがまだあるのなら。 生き残ったひとがほかにあるかどうか、探しにいくんだ。そうして、見つけたら。また戦いをはじめるの? 復讐をはじめるの? いやだよ。 いかないで。もういいよ。もうやめよう。このままここにいて。いっしょにいて。もう誰も失いたくない! レイラが熱いまぶたから涙をこほすまいと必死にこらえていると、ヒロさんは、手をのばして親指でそれをぐいぐぬぐった。 「わがままいって、悪いね」 突き放すような強い目で見る。 「ここはいいところよ。でも、わたしは、だめ。ごめんなの。他人とこんなふうにくっつきっぱなしで、ひとりになれないと息が詰まる。誰かの世話になりっぱなしもいや。だいいち」 爪を、 と、ヒロさんはつぶやくように言って、短く切り整えた両手をながめ、首をふった。 「わたしの爪をとりもどしたいの。……あなたは大丈夫。適応できる。うまくやれる。賢いし、可愛いし、とてもいい子だから」 ヒロさんはレイラの頬を乱暴につまんで、わざとぎゅうぎゅうひっぱって、へんな顔にさせた。 「無理しなくていい。なにも頑張らなくていい。遠慮なく世話になんなさい。こどもなんだから」 無理しなくていい。そういわれたので、聞いてみる勇気を出した。 ヒロさんは? どうするの? もう、あえないの? 「そうね。お金持ちのお爺さんでもひっかけるかな。一生、遊んでくらせるように。……もし、あんたたちもまとめて面倒みてくれられるようになったら、すぐ、迎えに来る。約束する。楽しみにしていて」 放浪生活で溜めた少しのお金や道具を、ヒロさんは持っていかなかった。なにも。なにひとつ。 菩提樹のあった場所にふたたび、レイラがたどりつくことができたとき、季節は春だった。 あれから秋をこえ、冬をこえ、春をこえ、もう一年そしてさらにもう一年をこえた、次の次の春。早春だった。 ヒロさんとこどもたちの屋敷はみるも無残なありさまだった。ぽっかりとものがなくなっていて、壊れた家具や玩具が床にほうりだしっぱなし。 それより本館だ。 廃墟だった。 あんなに立派で華麗なお城のようだった建物が、壊れかけの石の箱になっていた。なんとか登ることができる階段や、たどれる床をみつけて、あちこち探してみた。どこもかしこも割られ崩され汚されていた。柱や壁に激しく焼けた痕跡があった。屋根も抜け落ちて、青空がぽっかり見える。 火事で、あんな頑丈な石の建物がここまでひどいことになるだろうか? まるで巨大な雷でも落ちたか、戦争にあったみたいだ。空爆されたみたいだ。 誰かが片づけたのか、どろぼうがはいったか、廃墟を冒険する趣味のひとが、それぞれ記念品を持っていったのかもしれない。そこにあった秩序や美意識は、もう影もかたちもなかった。価値があるものもないものも、なんにもなくなっていた。 ――でも。 母は顔をあげて、マハネの目をみつめた。 「花があったの」 あまりのことに立ちつくすレイラの顔の前を、ふと、ひとひらの花びらが横切った。 ひらひら、ひらり。 風に吹かれて。 舞うように飛んでいったのだった。 レイラは花びらのゆくえを目で追った。すると、すぐに次の花びらが飛んできた。次も。次も。 見回してみた。 春だった。 そこは。 らんまんの。 春なのだった。 屋敷がなくなっても、ひとの暮らしが踏みにじられても、若木は萌え、花が力強く咲きほこっているのだった。春は、ちゃんと、めぐってきているのだった。 それであらためて探してみると、庭のあちこちに、雑木にまぎれて生きのこった癒恵の樹が――古いりんごの樹が――、白い可憐な花をつけているのだった。 花たちは微笑んでいるようだった。静かに散って、振りそそいで、レイラに、ああ、かえってきたんだね、無事だったんだね、ようこそ、おかえりおかえりと、挨拶をしているようだった。 「何百本も燃えちゃったんだけどね」父が言う。「やつらは徹底的で、情け容赦がなかった。……いちばん立派なみごとな癒恵畑のあった斜面は、まるごとひとつ消滅させられた。たぶん、ナパーム弾みたいな、化学薬品の炎で焼き払ったんだ。敷地中が焼かれた。かろうじて燃え残ったのも、消し炭みたいに真っ黒になってやっとどうにか立っているだけだった。それを見たときには、もうだめだと思ったよ。でも……それでも、蘇った。ちゃんと、生きていて、芽吹いて、咲いて、実をつけた」 「おとうさんも、知ってるんだ? その場所」マハネが聞くと、 「もちろん」父は笑った。 「……ぼくたち、そこで、出会ったんだから」 花吹雪の庭で。 黒こげの樹の立ち並ぶ中で。 風に流されるひとつの花びらを、レイラが目で追い、目ではおきれず、つと足をすすめて、歩いて追いかけていくと、その先に。ずっと先に。 木陰に佇んでいるひとかげ。 そのひとは気配を殺している。足音をきいて、あわてて隠れたみたいに。見つかってしまったいま、しかたなく、目をあげて、こちらをみている。 むかいあう。 目と目をみつめあう。 少年と少女。 たがいに怪訝な顔だ。 疑い深い、あっけにとられたような顔をしている。 無理もない。こんなとこで、いきなり、誰かに出会うなんて思っていなかった。 敵、かもしれない。 油断していいはずがない。 この場所を知っていて、この樹木に思い入れを持つ人間。 まさか、ほかにいるなんて。 そう、ふたりはそのとき、お互いを知らなかった。 顔をあわせたのは、それがはじめてだった。 ――誰? ――なぜここにいるの? レイラは警戒した。 あなたは誰? どうしてここにきたの? ただの偶然? それとも、ちゃんと知ってるの。ここがなんだか。なんだったのか。 知っているの? 知ってるなら、いったい、なにをしにきたの。 どこのなにもの? 見つめ合う。ただ、見つめるばかりで、どちらも何も言わない。 だが、だんだんわかってきた。 良くないもののようには見えない。 なぜって、その佇まいが。癒恵の幹にそっとふれた手が。悲しげな瞳が。なにかを深く悼んでいるような表情が。 そして、なにより、攻撃してこないことが。 びっくりして、どうしていいかわからないような顔をしていることが。 信じたい。 信じたい。 ぎゅっ。手を握る。 レイラは思い切ってもう一歩、彼に近づいてみた。いま握りしめた手を、前にのばす。さしだす。ひらく。 それには、あるものがのっている。 てのひらに、ちいさな華奢な金色のもの。 途中で切れた鎖と小さな十字架。 男の子は、ハッとした。目を見張り、息をのみ、それから、ちいさな、かすかな声でいった。 「――スミカ」 レイラの目にみるみる涙が盛り上がった。 知ってる。このひとはスミカを知ってる。あたしが大好きだったあの子のことを知ってて、おぼえてる! 「あなたはだれ?」 小声でレイラはたずね、 「きみこそだれ?」 鋭く聞き返された。 睨み合うように見つめ合う。 ちょっと強い風が吹いて、枝をゆすった。癒恵の花びらが、雨のようにふりかかる。ふたりの肩を頭を愛撫するようにかすめて、舞い飛び、うずまく。 まるで、誰かの抱擁のように。 「行こう」 男の子がいったのは、たぶん男子の自分が決めなきゃいけないと思ったからだなとレイラは思った。 「場所をうつそう。このまま、ここにいちゃいけない」 「そうね」 その気持ちはレイラにもわかった。 ここは特別な場所。神聖な場所。大切な場所。 万が一にも、誰か、まずい相手に見られてはならない。 跡地を抜け、春まだ浅い雑木林を抜け、男の子が隠しておいた自転車をひっぱりだしてふたりのりをして、郊外のショッピングセンターのごった返すフードコートの隅っこに、席をみつけた。 おごるよ。 いいえけっこうです。 おずおず不器用に言い合って、コインをだして。トレイにのせて運ぶ、ホットドッグと、コーラ。ポテト。 距離のとりかたが、ぎこちない、ふたりでそうしていることに、全然なじんでいないカップル。 ありがちの、どこにでもいる、初々しい若いふたり。 傍目にはそう見えているのだと承知のうえで――それならそれが最高の擬態だ――おずおず、ためらいがちに、肩を寄せて、話した。 まずは、自己紹介。 「わたし、加賀見玲良です。スミカは姉。ほんとはイトコだけど。きょうだいどうぜんに育ったから」 「そうか! じゃあ、きみは、きみも……!」 男の子は、あたりをはばかってますます声をおとし、パイプ椅子をずらして、膝と膝がくっつくほど近づいた。 「ぼくは星野信っていうんだ。小学六年のとき転校して、彼女と同じクラスになった。素敵な子で、ともだちになりたいと思って、近づいた。だから」 男の子が急に手をのばしたので、レイラはギョッとしてビクッとしてしまったけれど、ちがった。耳の上のあたりから、なにか取ってくれたのだった。 はなびら。 癒恵の。 つまみあげたはなびらをレイラのてのひらにのせて、その手をそっと、おずおずと、でも、しっかりと握りしめて、彼は言う。 「だから、知っている。これのこと。きみたちのこと。菩提樹のことも」 レイラは、なにかをのみこむように喉を動かした。 「ぼくはいまはもう、この町には住んでいないんだ」彼は早口で説明した。「あのあとすぐ、父が転勤になってよそに引っ越したから」 それでも、ずっと気になっていた。あんな恐ろしい事件だったのに、ニュースに出なかったこと。TVも、雑誌も、なにも告げないこと。ネットにすら、なんの情報もでてこない。 「現実だったのか、ほんとうにあったことなんだろうかって疑いたくなるぐらい、きれいさっぱり無視だった。みんな、口をつぐんでいた」 だから、こっそり戻ってみたのだった。 ほとぼりがさめたころに。 両親は――シゲルさんとユリコさん――危険なことにはもう二度と近づいてほしくないと思っているだろうし、もと同級生や地元の知り合いに見つかると少々やっかいだ。だから、誰にも言わず、ひとりで、なるべく見とがめられないよう慎重に行動した。 最初に戻ってみたとき、現場は――菩提樹の跡地は――まだ雑然としていた。鑑識などに、きちんと調べられたようではなかった。失火して、焼け落ちて、ただ放置されたままのようだった。 「いったい何がどうなってるんだろうって思ってた。みんながあれからどうなっちゃったのか、ぼくには全然わからなかった。サヨラも、セイとロクも、ほかのひとたちも。ぜったい大丈夫だ、やられっぱなしなはずがない、って、自分に言い聞かせてたけど。生き残ったひとたちをみつけて、話したかったけれど。あの日々が夢じゃなかったって、誰かに保証してほしかったけど。でも、月日がたつと、だんだん自信がなくなってきた。焼け焦げた廃墟がひとつあるきりで、手がかりはなんにもない。誰かほかひともあの場所に来ることがあるかもしれないとは思ったけれども、まさか、自分の連絡先を、そんなところに無防備に残していくわけにもいかなかった。だから……だから。ただ。ただ、何度か。何度めだろう。いったんだ。いってみた。戻ってみた」 だって、あそこは、ぼくの場所だったから。 燃えてしまおうと、崩れてまおうと。 大好きな場所だった。そのことは変わらない。誰にも、じゃまさせない。取り消させやしない。 「しょっちゅうは無理だったけど。いって、ちょっと歩いたりして。座って。待ってみても、いつもは何もおこらなかった。ただ少しばかり時間を過ごして、戻る。それだけだったけど」 徒労の何度めか、十何度めかのことだった。 こうして、きみに、めぐりあったのは。 「ね、聞いたことないかな? ぼくのこと。スミカから? ない?一度も?」 レイラはすまなそうに首を振る。 「ポチって子のことも?」 「ポチ?」 「そう呼ばれてたんだ。あそこのひとたちに」 彼は頬を赤らめた。 「おかしいだろ。まるで犬だよね。ふつうなら侮辱だと思うだろう」 知らぬ間に握りしめて、そのままつないでいた手にいまさら気付いて、あわてて離そうとする。 「……知ってます」 レイラはその手をつかみとめた。 「スミカからは聞いてないけど。母から聞いた」 手にちからをこめる。 「母のサヨラから。何度も聞きました。ポチのこと。おかしな、素敵な男の子のこと。母は、ポチが……ポチさんが……とても、とても、可愛かったんだと思う。大好きでした」 「サヨラが……」 彼は言葉につまった。急に無理やりに手をもぎはなして顔のそばで(涙を拭こうとしたのか)不器用に動かして眼鏡をふっとばしてしまった。あわててさがす。 やっと拾い上げてかけなおすと、レイラがきちんと座りなおしている。 「わたしは、いま、民間の保護施設にいます。暴力にあって困ってる女の人のシェルターみたいなところ。あれっきり、ふつうの学校にはいってません。誰にも居場所をさがしてほしくなかったから。そこの手伝いをしながら、通信制のフリースクールで勉強しました。もうすぐ中学の過程は卒業になります」 「そうか」少年はびっくりしたように言う。「きみはまだ中学生なんだ」 「アキコって子がいて、今年、四つになるんです」 レイラは言った。 「里子にだしたらどうかって言われています。養子にしてもらうなら、なるべくはやいほうがいいって。物心ついちゃう前がいいからって。……可愛くて、いい子です。欲しがってくれるひとが、たくさんいるでしょう。きっとどこのご家庭でも、大事に育ててもらえます。あの子は、このまま、なにも知らずに、どこかよその優しいひとのところで、ふつうの子として育つほうがいいかもしれない。菩提樹のことなんか、なんにも知らずに。そのほうが幸福かもしれない。安全なのはまちがいない。でも。でもね。……あたし……だめなの……いやなんです……手放したくなくて……わがままだってわかってるけど」 もう、ほかに、いない。 「……でも……でも、あたし、どうしても……」 泣いてしまった。 とうとう泣きはじめてしまった。 いったん感情の栓がぬけてしまうと、もう止まらなかった。 レイラは泣いた。声をころして泣いた。顔をゆがめて、泣いた。両手で手の甲で関節で何度も何度もなんども拭って泣いた。店のそなえつけのナプキンを何枚も何枚も透明にした。くしゃくしゃにした。泣いた。 あんまり泣くものだから、まわりの席のひとたちもそれに気付いた。あらまぁと顔をしかめたり、興味津々目をむけてきたり、連れの袖をひいて、みてほらあそこと指さしたりまでした。店のひとも、カウンターのむこうで、どこかのテーブルで、あの子たち大丈夫かな、と、首をのばしてくる。 ポチは胃が焼ける思いをした。きっと、不届きな男子だと思われてしまったにちがいなかった。ほんとうのところ、こんなふうにめだちたくはなかった。万が一、知りあいにみつかるととてもまずい。 そうじゃなくても 女の子を泣かしてしまったなんて、ものすごくばつが悪い。 どうしていいかわからないので、しばらく黙って泣かせておいてしまった。氷ばかりになってしまった飲み物のストローをくわえてずずっといわせたり、すっかり冷えきったポテトを持ち上げたりまた置いたりしながら。 レイラは泣きつづけた。とことん泣いた。そうするうちに、なにかがゆっくりとほころんで、溶けていった。 彼女の泣き声がしずまって、震えるのがすこしおさまると、ポチは新しいナプキンをまたたっぷりもらってきて(すみませんね、どうも、と店のひとや、周辺の第三者にあいさつの苦笑い)それをわたして、ついでに改めて、レイラの手をとった。 「結婚しよう」 いきなり言った。 言ってしまった。なんにも考えぬまま、そのせりふがひょいととびだしてしまったのだった。 「家族になろう。そうすればいい」 レイラはあっけにとられた。ぽかんとした。 ポチの、にかー、と無理にわらっている顔を見た。 まわりでこっそり聞き耳をたてていたよそのひとたちからどよめきとざわめきがおこっていた。「わ」「やった」「がんばれ少年」「ガッツだ!」「そこだ、おせ、あきらめるな! もういっちょ!」 もらい泣きしてるおばさん。ちいさく拍手してるおねえさん。照れくさそうに笑ってるおじさん。ふぉっふぉっふぉっと肩をゆすっているおじいさん。腰に手をあててやれやれと首をふってる店の制服のひと。 ポチの自尊心はいまにもこなごなになりそうにひびだらけだった。耳が霜焼けみたいにカッカと熱くなってきた。でも、全力で、こらえた。レイラ以外の、周囲のすべてを無視した。シャットアウトした。ローティーンの少年の持ちうるかぎりの勇気と侠気を最大限必死にかきあつめて、ふたりのまわりに、まぼろしの壁をつくった。 「あと二年か。そんなにかかるか。ぼくが十八歳になって、きみが十六になるまでに」 レイラはまだぼうっとしている。 「ごめん。すぐじゃなくて」 二年も待ってもらわないといけなくて。 「きみは、きっと、ずっとがんばってきたんだ。なのに、まだ、もっとがんばれって、頼まないといけない。すまない」 ううん。そんなこと。 レイラは首を振った。 なにも言えない。なにか言うときっと泣いてしまう。 「でも、きょうから『がんばれ』じゃない。『がんばろう!』だから」 ポチは改めてにかっと笑い、レイラの手をとると、ゆびきりげんまんのかたちにした。 「約束する。ぼくはもうぜったいに、きみをひとりにしない」 「きゃ……あー……」 両手で頬をおさえながら。 マハネは思わずつぶやいてしまっつた。 そのときのことを思い出したのだろう。父が照れている。母の目がふるふるしている。 思いきりはしゃぎでもしないと、たまらず、こっちも、もらい泣きしそうになるじゃんよ。 「うわーうわー! そうなんだ、そうだったんだあ。……ていうか、あったその日にプロポーズって……! 」 すげえ。 破壊的。 蛮勇。 「でも、良かったぁ……パパとママがそんなバカ、いや、無茶苦茶なひとたちで……あははは! ほめてる! ほめてますから! だって、もしか、そこで偶然出会えてなかったら? きゃー、うそー、いったいどうなっちゃっていたんですかッ!」 あれもこれも、いろいろと! まるで違っていたはずだ。 実際……あれ? 「あれ……?」 なんかいま、すっごいことがいま、わたしの意識のかたすみを。 「あのね。もしかして。ちょっと。ちょっとだけ待ってね? いまの話の流れから考えますと、わたし……このわたしっていうのは」 父をみる。 母をみる。 シェルターを出ていく日、ヒロさんは爆弾を落とした。 秘密という名の爆弾を。 「アキコには、もうひとつ、別の名前があるの。そっちが“ひめ”としての正式な名。サヨラがつけた真実の名。それは、」 ――磨翼―― わたし? やっぱそうか。 もしかしたらって思ってたけど。 こうしてちゃんと聞かされるとなんか内臓がでんぐりがえりだ。 めまいがする。 でも。 こうなったら。 この際知りたい。 「あのですね。実はアキコだったわたしの母はサヨラなんだよね。じゃあ、きくけど、おとうさんは?」 おとうさんがいないってことないよね。 ありえないよね。 どこかの誰かなはずだよね。 イヤーな予感がする。 なんか、そのひとがすっごい悪いやつなような。 まるで、ラスボスみたいに。 パパとママが顔を見合わせる。 きょう何度め? そして、追い詰められたように、しょうがなさそうにわたしに向き直る。 きょう何度め? 「あなたのおとうさんは、ユメミちゃんのおとうさん。ユメミちゃんと、ナルミちゃんのおとうさん」 |
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