yumenooto uminoiro

 

 

                                                                                                        Layla 2

レイラが初めてその子を見たのは、海に向って走る汽車の中だった。汽車だ。蒸気機関で走る列車。そんなものがまだ動いている路線だった。いったいここはどこだ。いまはいつの時代なのだろう? 

 うんざりするほど隧道§ルビ・トンネル§が多い。

 汽車は鈍くて、ひどく揺れた。灯かりは弱々しく、時々チラチラ消えかける。おかげで、本が読めなかった。ページがゆらいだり、にじんだり、全然見えなくなってしまったりするのだ。無理に読もうとすると、頭が痛くなってきた。

 そんなに本気で読書をするつもりではなかった。あくまで予備の退屈しのぎのはずで、レイラは、むしろ、車窓からの景色のほうを心から愉しみにしていたのだ。この日通るのは、なにしろ生まれて初めての道、一生の間にそう何度も来るとは思われない経路だった。帰りにもあるいは同じところを戻るのかもしれないが、反対側からになる。一日のどの時間であるかによって、見えかたも、見えるものも、違ってしまうだろう。

 見せてもらえるものはなんでもよく見たいし、ただ一度しか経験できないことは逃したくなかった。感じられるものはどんなものであろうとも、しっかりと心に焼き付けたかった。

 世界には、きれいなものがたくさんあるから。素敵があちこちに隠れているのだから。

 なのに、あまりにもたくさんの隧道が、旅気分の邪魔をする。

 たとえば、連なる山々の奥深いところに、これまでひとが辿りついたことがあるかどうかも怪しいような急斜面があって、他の木よりひときわ高くにょっきりと一本そびえ立った種類の違う木が陽射しに燦々と照らされていたりする。その高い枝に何か大きな鳥が止まっているように見えて、ほんとうに鳥なのかどうか、知らない鳥だったらどんな鳥なのか、特徴を見ておいてあとで図鑑で調べようと思わず身を乗り出したそのとたん……あたりが闇に飲まれる。一気に真っ暗になり、隧道に入ったことがわかるのだ。

 客車の天井にいちおう燈はあるのだが、ひどく暗い。何枚も障子紙越しに見た蝋燭ぐらいのオレンジがぼうっとともるばかり。そんなのでは、助けにならない。

 がたこん、がたこん、がたこん、がたこん。焦れったいほどのろい汽車がさんざん時間をかけて闇を乗り越え、やっと隧道から滑りだす時にはもう、あの木はどこにもないし、あの斜面もどこにもない。別の急斜面と、別の木と、ひょっとすると今度は切り立った崖の底のせせらぎが見えたりする。窓に鼻をおしつけるようにして、そのせせらぎを見ようとしたとたん、また隧道。暗転。

 そんな具合だ。

 ヒロさんとマツエさんと他のこどもたちは、うつらうつら眠っている。連れのものたちばかりではない、客車じゅうの乗客たちが、みんなシンと黙り込んでいる。特急の停まる駅からこの田舎列車に乗りかえたばかりの頃には、窓の外に広がる見慣れぬ風景を眺めてはしゃぎ、互いに盛んにおしゃべりをしていたのだけれど。もうずいぶん長いこと乗り続けているし、ろくに景色も見えないのだから、退屈し、草臥れてしまうのも無理はない。この路線に乗り慣れているひとびとならばなおさら、はじめから寝てゆく心づもりだったりするのかもしれない。

 レイラも疲れていないわけではない。お尻なんか痺れて感触がない。きっとペシャンコのまっ平になっている。

 だが、生まれてはじめての大旅行に興奮した心はなかなか鎮まってくれなかった。微睡みはようやく訪れたかと思うと雑音ひとつ振動ひとつであっけなく振り払われ、手の届かないところまで去っていく。

 みなが眠っているときにひとり覚めているのだと自覚すると、奇妙な感じがした。置いていかれたような、責任を課せられてしまったかのような。羊の群に犬一匹。牧羊犬は、みながのんびり寛げば寛ぐほどピリピリ神経をそばだてずにいられない。いったんそんな連想をしてしまうと、ますます眠れなくなった。自分まで眠って意識をなくしてしまったら、なにかがあった時すばやく対応できない。

 なにか、くる。今日じゃないとしても。いつか突然。

 きっとそうで、間違いなくそうだ。

 いつもの「確信」が訪れて、レイラはブルッと震え、鳥肌たった腕をさすった。

 レイラは空想にひたるのが好きだったが、嬉しくないことも空想してしまうのには少し困っている。根拠のないこと、ありそうもないこと、なんでもないことでもすぐに不安の種になってしまうのだ。気詰まりなことがらが実際に出現してもいないうちから、ふと怖くなってしまう。イヤな予感がする。どうせあたらない予感なのに、今度というこんどは本物かもしれないと毎度感じてしまう。どうしよう、どうしたらいいんだと焦って、息が苦しくなってくる。炭酸を飲み過ぎた時のように、胸の奥でふくれはじめ、押さえつければおさえつけるほど圧力をまし、加速して、破裂しそうになる。

 バカなレイラ。心配性すぎ。

 だいじょうぶ。だいじょうぶ。ここにはヒロさんがいるし、スミカもいるし、ほかのお客さんたちもこんなにいる。みんな一緒。悪いひとなんかいないはず。たとえいたとしても、万が一おそろしいひとが乗り合わせていて何かが起こったとしても、なんとかしなきゃならないのはわたしじゃない。小さな怖がりの女の子に過ぎないこのわたしなんかじゃない。きっと誰かがなんとかしてくれる。守ってくれる。助けてくれる。だから安心していい。だからもっと油断していいのよ。

 窓を全部閉めた汽車の中は、むっと暑かった。天井のところどころにくっついている小さな灰色の扇風機は三つのうちふたつは壊れていて役にたたない。また見えた外は相変わらずの山奥で、濃いみどりでいっぱいだ。深呼吸したら気持ちがよさそうだと思う。窓を開けて風をいれたかったが、開けることができない。方法がわからないのではなくて、やってはならない感じがするのだった。隧道に入ったら困る。閉めておかないと煙だらけになってしまう。レイラの力と体格では、望ましい時だけ窓を開けておいて、隧道が見えたら大急ぎで閉め、ほど良いタイミングで開けたり閉めたりをすきなだけ頻繁に繰り返すというのは、どうしたって無茶である。

 ほら、また隧道だ。

 レイラは溜め息をつき、窓に目をやった。

 外の暗黒のせいですっかり鏡になった窓に、映った顔がびりびり震えている。ガラスがあまりきちんと嵌まっていないらしい。こまかく振動する顔が、時々なにかの加減で数秒間ばかり静止して、はっきり見えた。不安そうに目を見開いた仄白い顔。両方の目がどうにかぎりぎり見えるぐらいの横顔に近い角度なので、睫の長さが際立った。どうしてこんなに途方にくれてるんだろう、と自分でも思う。くらやみ鏡の自分と視線が錯綜したとたん、ふいに強烈な憐憫がこみあげてきた。かわいそうなあたし。こんなに怖がりなのにひとりぼっちにされて。まるで世界じゅうから取り残されたみたいに。

 前髪を切り揃えず伸ばしている途中だった。夏らしくなって暑くなってきたので、全体を後ろに流し、邪魔にならないように後ろでひとつに結んでおくことが多かった。そんなにきつく引っ詰めにしてばかりいると禿げるぞ、オデコが広がっちまうぞ。ヒトシが時々脅す。たぶん、ヒトシは、ふんわりとゆったりと垂らしている髪が好きなのだ。そうしているレイラが好きなのだ。だが、そう言われてすぐに直したりしたら、まるでヒトシに気にいられたがっているみたいではないか? レイラはいっそうきつく、オデコが全開になるほどまで、髪を縛っておくようになった。

 輪にしたゴムを、一回二回、引っ張ってくぐらせて止めたあと、ゴムの根元あたりにある髪の束を二つに割って、そうっと引く。時には、髪のどこかが攣れて頭皮が引っ張られ思わぬ痛みが走ることもあった。が、その疼痛さえ、心地よくないこともない。ひとすじの乱れも残さずにひっつめた髪は、だらしなさの正反対だったし、少しばかり垂れ目ぎみのレイラの顔をキリッと凛々しく引き締めてくれるような気がした。

 窓が大きく揺れたかと思ったら、いきなり明るくなった。隧道を出たのだ。景色が見える。V字型に切れ込んだ谷の向こうに人家の赤い屋根。ひらべったい若緑色はたんぼだろうか。ほっと安堵してこころゆくまで愉しもうとしたとたん、だが、すぐ近くの山肌が視野を覆い、汽車がまた暗がりに飛び込んだ。

 レイラはまたレイラと向き合う。まだ十にもならないこどもなのに、こころは無邪気にはほど遠く、たくさんのやくたいもないことを心配しすぎて既にすっかり草臥れた娘だ。緊張にはりつめて強張った顔に、見ているうちに皺やシミやたるみが生じてしまいそうだった。強く引っ詰めた髪がだんだらに、そして、真っ白に、灰色まじりになってゆきそうだ。

 窓鏡の老婆から逃れるように目をそらせば、がたがた揺れる窓には、四人掛けボックスになった汽車の座席が映っている。レイラの隣にヒトシ。野球帽を深々とかぶっているから、むっつりむすんだ唇しか見えない。輪郭はくっきり、キューピッドの弓のようにふっくらとみずみずしい、魅力的なくちびるだ。ヒトシは誰かにキスしたことがあるだろうか。うんと小さいころに、わたしとキスしたことがあっただろうか。あったような気がする。頬がむずむずする。

ヒトシの向かいには、たがいにもたれあってずり落ちそうになって眠る双子。靴は脱がしてあるから、蹴られてもだいじょうぶ。通路の向こう側に、スミカとヒロさんとマツエさん。余ったひとつの席には、バッグや雑誌や、お菓子の箱が乗せてある。ヒロさんは真っ黒で中のうかがえないサングラスをかけ、窓にもたれるようにして眠っている。

 みんないる。みんな一緒。だからだいじょうぶ。身じろぎしようとした、その時、ヒロさんのサングラスのあたりに、ふと、違和感を覚えた。なにかへんなものが見えたような気がしたのだ。爪先だ。サテンっぽい艶のあるバレエシューズを履いた、小さな両足の爪先。そんなありえないものが? レイラはぎくりとして視線をあげた。

 ヒロさんの座席の真上の網棚の上に、その子はいた。銀色のバーの部分に半ば座り、半ば宙に浮かぶようにして。シュミーズのような、バレエの衣装のような、妖精が着ると似合いそうな、そんなドレスを着て。ほどいて流した柔らな髪がむきだしの肩から胸のあたりまで流れ落ちている。彼女は、きちんとそろえた足をぶらぶらさせながら、じっとヒロさんを眺めているのだった。

 その子はふと、なにかの気配を察したかのように顔をあげ、レイラを見た。窓ガラスごしに目があった。視線は、まるで、糸電話ででもあるかのように、たがいにたがいを繋いで、放さなかった。あっけにとられたレイラの顔を、その子はまじまじと眺め、同じぐらいあっけにとられているようだった。その子がふいに口を開いた。なにかを言おうとしているのだった。が、そのとたん、汽車はまた隧道を脱し、窓が鏡の力を失った。

 あきれるほど明るい景色。

がたこん、がたこん、がたこん。線路の響き。

 両手で唇を抑えたかっこうのまま、レイラはしばらくの間、動けなかった。悲鳴をあげなかったのが、我ながら不思議だ。

 なに?

なんだったの、いまの?

 わからない。

知りたいだろうか。いや、知りたくない。もう見たくない。また暗くなったらどうしよう。またあの子がいて、目があってしまったら。こんどこそ、なにかを言われるはずだ。なんだろう。きっと、なにか、おそろしいことだ。

たとえば、おまえとわたしの立場を交換しよう、とかなんとか?

ああ、そして、わたしは、いなかを走る古い列車のト隧道の暗黒の中にとじこめられる。次にあわれな自分に気付いてくれる間抜けな誰かがあらわれるまで、永遠にひとしいほど長いこと、たったひとりぼっち、とじこめられてしまうのだ、そうにちがいない。

よいことを考えた。目をつぶろう。そうすれはいいのだ。隧道にはいりそうになったら、思い切り目を閉じて、明るくなるまでぜったいにあけなければいい。かんたんだ。それだけのこと。

 だがそんな時に限って、隧道はなかなかあらわれず、窓は長いこと実に健康的にぴかぴかに明るい外の風景を見せてくれており、いっかな鏡にならなかった。なかなかならないと、それはそれで、疲れる。緊張が耐えがたい。

レイラは肩をまわし、座席の背もたれに背中をくっつけた。そっと息を整える。横目を使ってヒロさんの座席のほうを見る。なにもいない。もちろん。網棚に座っている妖精のような女の子なんて。いるわけがないのだ。

 からからにかわいた喉を無理に絞り出した唾で湿しながら、レイラは手をおろし、隣のヒトシの半袖シャツの脇のあたりにそっとかすらせた。こんど何かあったら、そこを、ギュッと掴もうと思った。そうすればヒトシはたぶん起きてくれるし、もし、わたしがおそろしい目にあっているなら、きっとなんとかしてくれる。少なくとも、力づけてくれる。だいじょうぶ。ひとりじゃない。みんな一緒。いざとなったら、みんなここにいるんだから。

 音がかわった。また隧道にはいる。レイラは思わずギュッと目を閉じた。こんどの隧道は長かった。あまりに長すぎて、とてもじゃないが、ずっとまぶたを閉じてなんかいられないほど。レイラは息をはき、息をすい、もういちど、吐いた。それから、こわごわ薄めをあけて――できればあけているということが自分以外の誰にもわからないと信じたい――窓のほうを伺ってみた。いない。へんなものはなにも映っていない。網棚を見上げてみた。

いない。

なあんだ。いなくなってる。

 レイラはもう一度あらためて、深々と息を吐いた。

 なんだったんだろう。いまのは。錯覚? 空想?

 だが、あの子はあまりにリアルだった。網棚に腰掛けるなんてありえないことはしていたものの、見かけは、いたってふつう。年齢はたぶん、あたしと同じか、少し上ぐらい? なんだろう。汽車の妖精かな。でも、妖精って、もっとちっちゃくて、掌に載りそうなんじゃない? 宙に浮かんでいるようには見えたけれど、羽根なんかあったかな?

 それとも……お化けか。妖怪のようなもの? 背中一面がぞーっと冷たくなった。

 ひょっとすると、この路線に憑いている魔物なんじゃないかしら。昔、そう、このあたりの隧道を作るとき、落盤事故があったんだわ。掘るためのダイナマイトがしかけてあることを知らずに山で隠れん坊していて、閉じ込められてしまったこどもがいて、そのままずーっと出られなくなった。……でも、へんねぇ。だったら、もっと昔っぽく、いかにもこのへんの村に住んでる子みたいな格好をしているのじゃないかしら。つぎのあたった木綿の着物を着て、作業服のおじさんに手をつないでもらっているとか……ああ、だめ。やめやめ! そんなこと詳しく考えたりしちゃだめ!

 お化けは、お化けのことを考えてくれるひとがいるほど、出てきやすくなるんだって。考えてくれるひとの、その考えを養分にして、どんどん育って強くなるんだって。

 レイラが鳥肌のたった腕をこすっている間に、また景色が現れた。せわしなく流れすぎる電柱を十本ばかり見せてまた隧道に飛び込む。窓は、真っ暗になり、明るくなり、またすぐに暗くなった。隧道から出たり入ったりするたびに、びくびくして、心臓が喉のあたりからおりてくれなくなったが、そのうちうんざりしてきた。

 どうせ錯覚よ。ばかみたい。あんまり心配ばっかりしているから、へんなものを見たような気がしちゃったのよ。

 想像力、ありすぎ。

 レイラは本を手にとって読みはじめた。やはりあかりの具合が悪くて、活字を目で追いかけづつけるのは難しかった。またすぐに考えが漂い流れ、頭の中ではさっき見たものがくりかえしくりしえし上映された。

 ありえないところにある、足。

別にあの子は、恐い顔なんかしてなかった。親しげな、可愛い子だったわ。うらめしやぁ、って感じなんか全然なくて……そうだ。第一、真っ先に見えたのが爪先だったじゃないの! じゃあ、あの子は少なくとも幽霊じゃないわ。伝統的な幽霊なら、すくなくとも足は、ないはずだもの。

 悪いものではないのかもしれない、と落ち着いて考えはじめて、思い当たった。

 ひょっとして、あたし、“ひめ”になりはじめたのかも!?

 なにしろ、ひめは、いろんなものを見るんだそうだ。

ふつうのひとには見えないものを見る。見ているのに捉えきれていないものを見る。見るといっても、目で見るわけじゃない。人間の感覚の中でいちばん発達したのが視覚だから、見るという感じがするだけ。はみだした感覚がつかまえるのは、色であって色でないもの、音であって音でないもの、波でも香りでも温度でもなくて、光みたいだけど、光でもない。ひろく流布していることばにはあてはまるものがない。オーラとか、霊とか、気配とか、魂とか、いろいろ言うけど、どれも帯に短し襷に長しだ。ほんとうにぴったりくるものではない。

 とくに、なりかけのひめは、余計なものまでいろいろ“見て”しまうらしい。“見る”ちからが開花してきて、じゅうぶん制御できないからだし、若くて元気がよければ感度も異様に高い。

世界にはたくさんのものが隠れているし、世界と世界のすきまにもさまざまな層がある。ひめには、それらが、いやおうなく“見える”ことがある……のだそうだ。

そういうことが、あるいは、起きたのかもしれない。

菩提樹のこどもたちのうち女の子はたいがいの場合それなりの年齢になればひめになるわけで、レイラにとっても、いずれくる運命だったが、きっとスミカのほうが先だろうと思っていた。学年でふたつ年齢では三つ近く上のスミカがまだなのだから、自分にはまだまだとうぶんないことだろうとのんきにかまえていたのだ。

先になるだろうスミカにいろいろ話してもらったり教えてもらったら、心構えもできるし、だまってあとをついていけばいいのだと、すっかり安心しきっていた。

 なにしろまだなったことがないし、現役の“ひめ”である母たちはなにやら恐れ多く、打ち解けて話ができる相手ではない。それに、なんとなく漠然と知らないわけでもなくて、いちおう理解していて当然のことのようで、いまさらあらためてたずねるのも気がひける。だから、よくわからないのだが、聞きかじったところによると、“ひめ”は夢に引き寄せられるものなのだそうだ。

誰かに夢見られると、夢の中で覚醒する。他人の夢の登場人物のひとりになる。夢の中を歩いて乾いているところやひびわれているところを探し、見つけたら、水を注ぐ。つねにたずさえている水瓶で。

夢を歩き、水を注ぐ。いってしまえば、それだけのこと。

濃すぎる思いは薄めてなだめ、カサカサな土地はうるおして満たす。肥沃でみずみずしく健康的なものにする。汚泥はかきまわしてとりのぞき、滞った流れをもどし、よどみない力強いものにする。ないほうが良かったものをようやく捨てさることができるとき、夢みるひとは、おりおり涙を流すとか。

ひとがみる夢の大地はある層ではただひとつのものだから、たんねんにたどれば、夢から夢へ、わたることができる。熟練のひめともなると、夢づたいに、どこまででも好きな場所に行けるものなんだそうだ。どこでも、誰のところへでも行ける。だが、深入りしすぎると厄介だ。もどり道に迷うかもしれないし、苦しい夢に呪縛されて身動きがとれなくなってしまうかもしれない。遠い昔から連綿と存在した無数の“ひめ”の中には、誰かの夢の中にでかけていったきり、とらわれて、そのまま戻ってこなかったものがあるらしい。

やがて“ひめ”になるときがきたなら、そういった危険や慢心についても先輩からよくよく教えてもらって、危険を避ける知恵をさずかり、みずからを律し守る訓練を積むことになるはずだ。初心者はひとりで勝手にあまりあれこれ試してはいけないし、まして、冒険したがってはいけない。

……こういうことは、そうであるらしいとなんとなく聞いているだけで、まだ“ひめ”でないレイラには実感はなかった。

ここにも……汽車の中にも……眠っているひとたちがたくさんいる。

 ぐうぐうと、いまも、寝息が聞こえる。

 きっと、おおぜいがなんらかの夢をみているのだろう。だが、そのうちのどれかに呼ばれたというわけでもないようだ。 

いま、ここに、こうして自分がいる以上は。ここは誰の夢でもない。ただの現実。

 あらためてほうっと息をついた。 

 しかし、現実だとするなら、いったい、あの子はなんだったんだろう。誰だったんだろう。何か言いたいことがあるみたいだった。むやみに怖がったりしないで、ちゃんと聞いてあげればよかった。レイラはすまなく思った。

 ねぇ。どこいっちゃったの。出ておいでよ。いじわるしないから。もう一度顔を見せて。

 隧道が来るたびに……そしてそうでなくとも……レイラはたびたび網棚のほうに目をやったり、ガラスの鏡を利用してちらちらうかがってみたりしたが……その子はもう現れなかった。それきり、出てこなかった。

 ひときわ長い隧道を通り抜けると、車両の向こうのほうで、誰かが窓をあけはじめた。外の涼しい風が、ひと筋吹き込む。それで眠っていたひとたちが何人か起きだして、あちこちで、次々に、たくさんの窓を開け始めた。彼等がこの列車に乗り慣れた地元のひとたちだとするなら、もうこの先には、少なくともしばらくは隧道がない、ということなのだろう。

 レイラが立ち上がり、重たいガラスと軋む金具を相手に格闘していると、いつの間にか起きだしたヒトシが手伝って窓を押し上げてくれた。涼しく新鮮な風が吹き込む。開け放たれた窓の向こうに、いきなり、明るい色のハンカチでも振ったように、海が広がった。青い青い、美しい海。よく晴れた空。

 まるでスライド上映されているように唐突な、そこだけいきなり明るい景色だ。うわあ、とレイラも思わず微笑んだ。潮風に顔を撫でられたノリヲとミキヲが、たちまち目をさまして、海だ、海が見えたときゃあきゃあはしゃぐ。

 そろそろ荷物をまとめてね。ヒロさんが言うので、みんないっせいに身じろぎした。レイラは、靴を脱いで椅子にあがり、網棚の上からみんなのバッグをおろした。その時、そうっとふりかえって、ヒロさんたちのほうの網棚の上を眺めてみたのだが、もちろん、誰もそこに寝そべったりしゃがんだりしてはいなかった。安心したほうがいいのか、ガッカリしたほうがいいのか、レイラ自身にもよくわからない。

 結局ほとんど読めなかった本をバッグの中にしまいこんで、ハンカチで顔の汗をぬぐう。

 

 山の中ではあまり停車しなかった汽車は、海沿いに来て、しつこいくらい、細かく何度も停まるようになった。あるにぎやかな駅で、もとから多くない乗客たちがごっそりまとめて降りてしまうと、車両には、自分たちしかいなくなっていた。大勢が降りたその大きな駅をすぎてからは、ほんとうに小さな、オモチャのような駅ばかりが続いた。まわりの景色もなんだかどんどん心細くなる。うらぶれて素朴で地味だ。鬱蒼と自然のままの夏山と、悠然とただなにごともなげにそこにある海、誰も気にとめもしない特徴のない原っぱなどなど。ひとの気配がどんどん薄らいでいく。人家はむろんのこと、柵も看板も、小屋も道も、ごくごくたまにしか見当たらなくなった。ただ、線路と電柱だけがどこまでも続く。まるで、どこか遠くにある点と点を結んでいるかのように。

 寂しい空き地の隅に、古い型の自動車がぽつんとまるで暗礁にでも乗り上げたかのように置きざりになって、丈の高い草に覆われかけているのが見えた。ぺしゃんこのタイヤと車体の隙間からも、ガラスのなくなった窓からも、猛々しい草がぼうぼうと這い出している。くるまの野ざらしだ、とレイラは思った。実は野ざらしというコトバは知らなかったけれど、そういう意味のことを考えたのだった。塗装が剥げ自然に解体され朽ちかかった自動車に、風雨にあらわれて清潔な純白色になった髑髏のぽっかり空いた眼窩から野草の茎がすっくと伸びて花をつけている図を……それはいつかどこかで見た昔のひとの絵だっただろうか……連想したのだ。

 いなかというところは、ただ町から遠くにあるのではない。町とはまったく違う論理によってたったものなのだ、とレイラは感じた。感じたので、そのような文言で考えたわけではないが。

 そこでは都会のようにすばしっこくは時が流れない。昨日、今日、明日、すべてがいつの間にかめまぐるしく変わってなにものも容易には留めようとしない町の空気とはまったく違う、なにか、濃密で粘度の高いものがいなかぜんたいをすっぽりと包んでいて、「現代」や「流行」がたどり着くのを頑固に阻んでいる。町の風物のいくばくかは、いつかはやがていなかにも届くのだろうが、それには時間がかかる。

 ひとけの少なくなった汽車は奇妙にがらんとしていて、薄暗かった。この車輌だけではなく、ほかの部分にも、もう他の乗客はほとんどいなかった。誰も乗ってこないし、降りてゆくひとも少しだけ。見慣れぬ地名、ろくに見分けのつかない光景。

もしかして降りる駅を間違えちゃったら大変だわ、気をつけておかないと、とレイラが思い始めた頃、ヒロさんが、確かこの次ですよ、と言った。

わたしたちがおりるのは。

 汽車が速度を落としはじめたので、一行は荷物を手に通路を歩き、ドアのところまで行って待った。やがて汽車が止まる。ドアが開く。プラットフォームは思いがけないほど低いところにあった。長いことすわっていてすこししびれたようになっていたせいもあって、レイラはもうちょっとで転んでしまうところだった。双子には助けがいるだろう。

 薄暗い車内からおもてに出たから、遮るもののない光があまりにも眩しくて、しばらくなにも見えはしなかった。降りたったのはどうやらヒロさんとこどもたちだけのようだ。そもそも、たった三輌しか連結していない汽車なのである。まだほかに客が残っているのかどうか。ぷしゅう、と音がして、ドアが閉ざされた。汽車はみなを置いて走り出し、ガッシュガッシュと音をたてて遠ざかっていった。

 まぶしすぎてあまりよく見えなかった目が少し慣れると、ほど遠からぬあたりに、男たちがぬうっと三人ほど立っているのがわかった。

 おじいさんと、若いおとなのひとがふたりだ。みな真っ黒に日焼けして、髪が短く、使い込んだ服を着て、首にタオルを巻いている。おじいさんが顔を撫でて進み出、低く歌うような声でひとことふたこと何かを言った。外国語のようで、レイラにはまるで聞き取ることができなかった。ヒロさんは悠揚と微笑み、うなずいた。若いのが、もう荷物を持って歩き出した。

 線路の間を。

 雑草だらけの枕木をふたつみっつ一跨ぎにするような大股で、ずんずん歩いていってしまう。

 レイラはぱちくりと瞬きをした。

 なんだかとほうもないことばかり起きる。

不意に吹いた塩辛く湿って重い風に、帽子が飛ばされそうになった。あわてて押さえながら見回してみる。ここは、どこ? 

 出口がない。屋根も、階段も、改札もない。プラットフォームらしく線路の際にもりあがったコンクリートのかたまりがあり、単線のレールがあっちとこっちに続いている。それだけ。それ以外、ほんとうにここには、まったくなんにもない。

なんて風変わりなんだろう! あまりにそっけなさすぎ、簡素すぎて、まるでバス停みたいだ。

 誰もいない、ただ、停車するための最低限のものがぽつんとあるだけ、そんな駅を、レイラははじめてみた。

 無人駅、という呼称を、このときまだ彼女は知らない。自分のことを都会っ子だとも思っていない。このような駅が、この国にはいたるところにたくさんあるということを、まったく知らない。

 かろうじてそこが駅であることを示すのは、雨ざらしの看板だ。吉里吉里と書いてある。漢字の下に、かながある。きりきり? これが、駅の名前なのだろうか? なんだかふしぎなひびき。

看板の下のほうは、ふたつに分かれ、右と左にそれぞれ名前がかいてある。たぶん、隣の駅の名前だろう。おおつち、なみいた、と読める。

きりきり? ねじを巻く音? きりきり。こどもがふざけてつぶやくことば。きりきり。虫の鳴く声。

なにがきりきりなんだろう。どうしてきりきりなんだろう。

レイラはほんとうに面食らってしまう。

 線路のある場所のすぐ背後まで山が迫っていた。たぶん、崖をいくらか切り崩して鉄道を通したのだろう。下側は繁る樹木の合間あいまにどこまでも民家の屋根が連なっている。

 もしかしてきりきりは、ぎりぎりのことなのかな。山と海がぎりぎりまでくっついている、みたいな意味で?

 そういえば、海はどこ? 列車からはずっと海が見えていた。でも、降車するために通路にたったら、見えなくなった。どこいっちゃったの。

 爪先立ちになったとたん、

「置いてかれるわよ」

 スミカにせかされた。

 おっかなびっくり(だって線路だもの! こんなところ、歩くのはじめてだし!歩いてもいいって、どうも信じられない!)歩いていくと、山肌にいきなり階段が出現した。土の地面に直接木の杭を打ち込んで段々にしたものだ。ツユクサの茂る狭い道を、前をゆくスミカの背中に遅れないように、けんめいに急いだ。また風が吹き、湿った道に靴底が滑った。こんなところでつまずきたくない。ワンピースを汚してしまう。せっかくのよそゆきを。レイラは帽子を脱いで握りしめ、足にちからをこめ、息をはずませながら登っていった。

 こんな急などろんこ道、どこまでつづくの。双子はちゃんと歩きとおせるのかしら、おぶってくれ、と泣き出すのじゃないかしら。

 心配になって何度も振り向きながら歩いていくうちに、いきなり視野が開けた。

 つづらおりの土の道が二手に分かれ、片方はさらに上に伸びるが、一方は岬のようにつきだしている。見晴台だ。柱と屋根だけのちいさな休憩所のようなものもある。

 レイラは思わず、そちらのほうに踏み出した。

 眼下いっぱいが、海になった。太平洋が横たわっていた。濃い紺色の水面が真夏の太陽を反射してキラキラと波打っている。いや、紺ではない。ぐんじょうだ。物心つく前から持っているクレヨンの、青より濃く黒よりも青い色に、その名前がついている。ほんとうにぐんじょう色をしたものなんて、これまでただの一度も見たことがなかった。だから、クレヨンのその色は他の色がみんなチビて擦り減ってちゃんと持てなくなってしまっても、ほとんど新品のまま残っている。

 クレヨンを持ってくればよかった、とレイラは思った。この海を写生したら、あのぐんじょうを一色だけ余らせてしまったりしない。

 実際には海は視界の四分の一かせいぜい三分の一を占めていただけで、上のほうはもちろん広い広い空なのだし、底にあるのはもちろん民家だ。だが印象は、ただひたすら、海。空はかなりよく晴れていてすこぶる気持ちがよかったとは言え見慣れた空のバリエーションのうちだったし、家々は「なるほど、ここにも確かに人が住んでいるのだな」という小さな証拠のようである。

 案外大きな村だ、とレイラは思った。軒と軒の間に電線がつながっているのが見えるし、屋根は瓦でできている。あの時計台のようなのは、学校ではないか。とすれば、淡い土色にひらたいのは、校庭だろう。茂った木々のためにあまりよく見えない校舎は、少なくとも二階建てだ。

 なぁんだ。

 すごいいなかだっていっても、ひとが大勢住んでるんじゃないの。とっても、ふつうだわ。

 三四軒のいまにも倒れそうな掘っ建て小屋しかないような……浦島太郎の絵本の挿絵のような場所をいつの間にか想像していた自分に、なんて失礼なやつ、と苦笑した。なにせこの時代に汽車しか通っていない場所だ。何時間も、何時間も、乗ってやっとつくようないなかだ。住むことになる場所も、もしかすると電気も水道もなくて、車のかわりに馬か牛を使っているようなところかもしれない、屋根は茅葺きで、囲炉裏があるような……時代劇にでてくるような。それでも、ぜったい、文句は言わないようにしないと、と決意していたのだ。

 来る前に日本地図を広げてみてはいた。ヒロさんの説明からたぶんここいらだろうと見当をつけた地域は、どこも海のすぐそばまで山が迫っていた。地図の色分けでいうと、濃い茶色から淡い緑色までが狭い範囲に窮屈に重なる一角だ。関東平野のような、標高の低い平地をしめす黄緑色はほとんどない。海岸線がアイラインのように一筆すうっと目立つばかり。つまり、たいらな土地がほとんどないということだ。

 あたしはいま、きっと、あの薄い緑と次の緑の間に立ってるわ。

「ぐずぐずすんな」後から登ってきたヒトシが言う。「それとも、なんだ、のぼり疲れたのか? 降参か?」

「ちょっと景色を見てただけ」

 だが、急な上りに息がきれていたのもほんとうだ。少し足をとめて、楽になった。うっかりするといまにも踏み壊してしまいそうな地面に気をつけながら、さらに登る。スミカの背中に、すぐに追いついた。さっきまで背中に吹きつけていた潮風が、こんどは左手側からになる。顔を向けると、また、角度がかわって、海が見えた。

 うわぁ、

 広い!

 きらきらの海。まったいらの海。両手いっぱいを広げても抱きしめきれない。

 きれい。

 と、レイラは思った。

 群青からミントグリーンまで、だんだらになって透き通る美しい色。

 なんて素敵なの。ここで夏が過ごせるなんて。まるでここに生まれた子みたいに、暮らせるなんて! うれしい!

 でも、この階段、あとどのぐらい続くんだろう。あの海は、遠いのかしら。海まで遊びにいくたびに、ここを登りおりしなきゃならないんだとしたら。けっこうたいへん。足腰が鍛えられちゃうだろうなぁ。

 心臓がごとごと言いはじめた頃、縦一列になって登っていた一行の先頭が登りきって見えなくなり、歓声が聞こえてきた。やれやれ、おかげさまで、もうじき終点らしい。レイラは足をはやめた。

 

 登りきった先は、いきなり庭だった。鮮やかに咲き誇った夏花でいっぱいの花壇が目に飛び込んでくる。カンナの赤、山百合の白。ヒヤシンスや石竹の淡い紫。グラジオラスに似たかたちのオレンジ色の花が一番たくさんあって、まさにいま真っ盛りだ。芝生を植える趣味ではないのか、それとも海風のせいで育たないのか、地面はそのままのむきだしだ。縁取りにされた和風の植え込みをのぞけば、赤っぽい土を踏み固めただけの土。ところどころに、クローバーやオオバコや、知らない野草が生えている。

 いま登ってきた階段から見て左、庭の一番奥まったあたりに、少し錆の浮いた青いブランコがあった。ひとりが乗ってこぐかたちではなく、ふたり向かいあわせで座れるようになっているほうだ。双子がさっそく声をあげて駆け寄っていく。気をつけてよ、スミカがさっそく怒鳴っている。この花壇の具合ならブランコも大丈夫だろう、とレイラは思う。そんなに古くなっているはずはない。

 ここは空き家じゃないんだわ。夏だけ使う別荘でもない。誰かの家だ。

 目を転じ、家屋のほうをじっくり眺めてみる。山を背にして建った堂々たる総二階で、外壁は淡いベージュ色。屋根は黒。窓はみな銀色のサッシだから、建てたのもそう昔のことではなさそうだ。縁側の掃出し窓が開け放ってあるので、板張りの廊下の向こうに畳敷きのがらんとした部屋が二つ繋がっているのが見える。いかにもいなかの大きな家らしい作り。それぞれ十畳はゆうに越えた座敷が、敷居のふすまを取り払われて、ひとつの長細い部屋のように使えるようになっているのだ。その奥、左隣、庭のブランコのそばに、もうひとつやや小さ目の和室があり、廊下はまわりこんでその向こうに消えている。三つならんだ和室の山側は全部ふすまで、しまっている。山がほんとうにすぐそこまで来ているから、後ろ側にはもうそれ以上は部屋はないだろう。ひょっとすると、あれはふすまではなく、押し入れの戸なのかもしれない。

 男たちは、運んでくれた荷物を縁側におろしている。マツエさんやスミカは靴をぬいで、さっさとそこからあがりこんでいる。玄関を使わないの? ちょっと驚きながら、レイラも習う。靴下の足裏に板の間がひんやりと気持ちいい。

 座敷の向こう、もといた位置からすると右側の隠れていた部分には、二階に登っていく階段があった。たっぷり幅があり、つやつやした濃い色の板を張られた階段だ。丸太をきれいに磨いたような手すりがついている。いかにも滑って遊びたくなりそうな手すり。ヒトシはともかく、双子が真似をしたら危ないかもしれないな。注意したほうがいいかも、と、レイラは思う。

 階段のさらに奥は板張りのダイニングキッチンだ。天井が高く、窓も勝手口もみんな開け放ってあるから、かなり明るい。花壇に面した窓には、レースのと、布のと、二重にカーテンがかかっていて、いまはどちらも風に揺らいでいる。窓の下端に、ピンク主体のチェック柄の布カバーをかけたソファがふたつ並べてある。ふたつの長椅子の真ん中にマガジンラックがあって、雑誌やウチワがつっこんである。

 さっそく蛇口をひねって水道の出を確かめているマツエさんに、あの年老いた男のひとが近づいていって、なにかぼそぼそ言い、コンロに火をつけてみせている。給湯機からのお湯と水が、別々に出てくるようになっているらしい。

 流しや調理台はステンレスで、壁はタイル張り、冷蔵庫は新しめで、かなり大きい。食器だなの中にはお皿や器があふれるほど入っている。ヒロさんの好きなブランドのものではないようだが、とにかく、数だけはたっぷりある。部屋の真ん中には、ソファとはまた別のオレンジがかったチェックの布をかけ、さらにその上に分厚い透明ビニールの覆いをした食卓があった。コップをおいた痕跡がいくつも残っており、六つしかない椅子の座面は真っ赤で座ったらたちまち腿にはりつきそうな合成レザーだ。卓上に、味しおやコショウや七味とうがらしや醤油やつまようじまでもが市販の容器のままプラスチックの籠に小ぢんまりとまとめて放置してあった。

 やはりそうだ。誰かがついこの間までここを自分のものとして使っていたのだ。わたしたちが来ることになって、そのひとたちを追い出したのだろうか。

 こんなふうな生活感たっぷりの雰囲気は、ヒロさんの趣味ではない。食事は、ピッチリと糊付けされた純白のテーブルクロスの上でするものだ。わるいけど、これ、はずして取り替えてくれないかしら。眉をしかめて言う声をもう聞いたような気がしたぐらいだが。

「やれやれ、やっと到着ね」

 階段のほうからゆっくりと現れたヒロさんは、ダイニング全体をぐるりと見回し、ちょっと肩をすくめただけだった。長旅に汗ばんだ顔をハンカチでちょっとおさえ、いわれぬうちからなんとなく周囲に集まってきたみんなを見回す。

「こちらは、このおたくを貸してくださる松橋さんのところのかたがたです。下山さんと、矢野さんと、福田さん。松橋さんは網元で、みなさんも、ふだんは漁業関係のおしごとをなさっているのです。けれど、福田さんには、明日からもこちらに来ていただきます。男のひとの手の必要なことがあるので、いらしていただいて、いろいろと助けてくださることになっています」

 下山さんというのがお年寄りで、矢野さんというのが顔が四角くて小さいほう、福田さんというのはぬっと背が高く、伸びかけの坊主刈りがくるくる癖っ毛のほうだ。

 こどもたちはいっせいに気をつけをし、こんにちは、はじめまして、どうぞよろしくおねがいします、とお辞儀をした。老人は相好を崩し、いいこだ、いいこたちだ、とかなんとか言い、双子の頭を撫でた。若いふたりは黙ったまま、口をきかない。矢野さんの目は、レイラの見た限り、スミカの裸足の足のパープル色のペデュキュアを塗ってある爪に吸い寄せられたきり離れないようだった。福田さんのほうがまだマシな顔立ちをしているが、ハンサムというには目がぎょろっとしすぎているし、顎が大きすぎる。

 どういう顔なのかちゃんと覚えておこうとレイラが目をこらしていると、どこでもないどこかを見ていた福田さんがふと、レイラの視線に気付いて、目をあわせ、かすかに笑った。剥き出しになった前歯がへんに白い。どんな堅いものでもガブリと噛み切ってしまいそうな、大きな白い歯。

 レイラはあわててうつむいた。ひとをじろじろ見たりしちゃいけない。

「海は?」とヒトシが行った。「いつ行くの? どのぐらい遠いの? 行ってみちゃだめ?」

「今日のところは堪忍してちょうだい」ヒロさんは窓の下のソファに腰をおろした。「歩いていけるぐらいの近くだそうですけど、もう夕方になるし。出かけるのは、明日にしましょう」

 すかさず言い返すかと思ったけれど、ヒトシはだまった。長旅で、やはり疲れているのだろう。

「お風呂場はどこにあるのかしら」と、スミカ。「わたし、顔を洗いたいんですけど」

「洗面所はそこよ。その階段の陰。お風呂はそっちから出てすぐの離れにあるんですけど、これから沸かさないといけません。お手洗いも外なの。ちょっと不便だけれど、このへんの家はまだ、どこだってこんなふうなの。ちゃんと使えるんですから、多少の不便はガマンしてちょうだいね。……さぁさ、こどもたち!」

 ヒロさんは、ぱん、と手を叩いた。

「どうしたの、あなたたちったら? こんな素敵なおうちじゃない。なにをぐずぐずしているの。知らないおうちにきて、こどもたちが真っ先にすることっていったら、なにかしら?」

 探検だ。

「どこでも好きに見ていいの?」と、ヒトシ。

「どうぞ」ヒロさんは手をひらひらさせた。「ただし、この真上の、二階のこっち側の部屋はわたしが使います」

「わかった。そこは覗かない。じゃあ、おい、ミキ、ノリ! どうだ、隠れん坊しないか?」

 やる! やる! 双子はさっそく賛成した。

「最初は俺が鬼だからな。百数える間に、隠れろ。家の中ならどこでもいいぞ。よし、じゃあ、いけ!」

 ミキヲとノリヲは雄叫びをあげて駆け出した。

 スミカもレイラも、はしゃぐ双子の後について二階にあがってみた。

 階段を登りきったところからまた廊下が伸びている。ダイニングの真上の洋室の扉が空気をいれかえるためか、大きくあけはなってあって、ベッドがふたつと鏡台があるのが見えた。ここは入ってはいけないヒロさんの部屋だ。

 反対側は、下と同じようにふすまを隔てて繋がった和室だ。三つある。駆け抜けてザッと見回した双子は、このへんにはいい隠れ場所がない、と思ったのか、くるりと反転し、また足を鳴らして駆け下りていってしまった。そんなに急がないの、転んだら危ないでしょ、スミカの声もいっしょに遠ざかる。

 レイラはひとり、二階に残った。奥のつきあたりの和室には床の間があって、この家のひとの持ち主のものなのだろう、荷物がいろいろ積みあげて、布をかけてある。ダンボールや、家電品、おおきな風呂敷で一まとめにしてあるなにか。金色の刺繍のある朱色っぽい布の袋をすっぽりかぶせたなにか長いものがたてかけてあった。あの陰にしゃがめば見えないな、と思った。みんながみんな一階に隠れ場所をさがすなら、ひとりぐらいは二階のほうがいいだろう。

 箱をいくつかそっとずらしておいて、舞い上がった埃にむせながらするりと滑りこむ。狭いけれど、なんとか座れた。

 物陰に淀んでいた空気はひんやりと冷たい。レイラは膝を抱え込み、そっと息をついた。

 よおし、百だ。いくぞぉ。

 遠くでヒトシが叫ぶ。

 どたどたと足音高く階段を登って来たヒトシが、そのまま一直線に廊下を近づいて来る。勢いよく通りすぎるから、風が動く。首をすくめ、息を殺していると、床の間の隣の押し入れが開けられ、チッ、と舌打ちひとつ、また閉められた。床の間の手前の箱が、ごとごと動く。ヒトシの視線がすくめた首のあたりをたどっていくような気がする。見つかったかな? 顔をあげようとした。っかしいなぁ、他に隠れそうなとこないよなぁ。ぶつぶつつぶやきながら、ヒトシが顔をひっこめた。早足に廊下を戻っていく。

 どうやら気付かれなかったらしい。暗くて見えなかったんだろうか。ラッキー。レイラは膝を抱え直した。

「ねぇ、これ、なんだか知ってる?」

 あまり驚いたので、動いた。はずみで、なにかそこらのものに、ひどくおでこをぶつけてしまった。

「そそっかしい子ね」からかうような笑い声が、すぐに、心配そうになる。「ごめん。大丈夫?そんなに痛かった?」

 ざらざらした砂壁から、あの子の顔が覗いていた。あの、妖精めいた服装の女の子だ。汽車の網棚であった子。からだ半分壁の中に残し、見えている右手で、朱色と金色の袋をまとめた紐をそっとまさぐっている。いや、違う。ほんとうにはさわってなんかいない。半透明な指を、紐の向こうとこっち側と、いったりきたりさせているだけなのだ。

「痛かった?」

「……っ……」

 ものが言えなかったので、待って、と手で合図した。声がだせそうになるまで、しばらくかかった。びっくりしたのも確かだが、ぶつけたところが痛かった。目の玉が飛び出る、とはこのことだ。

「角、だったみたい、運が悪いことに」やっと口がきけるようになると、レイラはなんとか笑顔を作り、つかえつかえ説明した。「ああ、びっくりした。火花が見えたわ。ヒバナってきっとあれのことだと思う。はじめて見ちゃった。こういう時、マンガとかだと、目から火花が出てる絵がかいてあったりするけど、あれってほんとうのことだったのね」

「タンコブできちゃったね」女の子は言った。「早く冷やしたほうがいいよ、それ。でないと、青くなって、それから、落ちてきて、目のまわりおばけみたいになっちゃうから」

「おばけみたいにね」レイラは神妙にうなずいた。

 幽霊かもしれない女の子と初対面の挨拶も抜きに交わす話題としては、じつに絶妙で最高じゃない? なんだか笑えてしまったが、頭はまだぼうっとしていた。あたしはひょっとすると、おでこをぶつけたまま、まだ気絶している最中なんじゃないだろうか。いっそ頬をつねってみようかと思っていると、女の子が言った。

「ねぇ、これ、おことだよ。知ってた?」

「おとこ?」

「おこと! こと!」

「琴? ああ、そう。そうなんだ」なるほど、この長さ、このかたち。いわれてみれば、それはそうかもしれない。お正月などに、テレビでお琴を弾いているひとを見たことがある。しかし、実物にさわったのははじめてだ。

「あたし、弾けるんだ。『ろばさん』って曲なら」

 幽霊みたいな女の子は嬉しそうに宣言した。壁に半分埋もれたまま、しかも空中に浮いたまま、きちんと正座をして、両手を、いかにも琴を弾くひとが琴を弾きそうなかっこうに伸ばして(おかげで右手が問題の琴の中を貫いてしまうのにも少しもかまわず)得意げに歌ってみせた。

「ろばさん、ろばさん、とことっ、と……って。こうだよ。ほんとだよ。ねぇ、これ、ちょっと出してみてくれない? そしたら、押さえるとこ、教えてあげる。はじく糸も。あんた、弾いてみたいでしょう」

「……でも……」レイラは面食らった。「勝手に触ったりしちゃいけないんじゃないかしら。ここのうちのひとのものだもの」

「いいよ。べつに。へるもんじゃなし」

 ろばさん、ろばさん。

 まだ歌っている。

 レイラはみるみるふくれてきたタンコブを押さえたまま、顔をしかめた。 へんな曲。ぜんぜん聞いたことのない曲だ。なんとなくふるめかしい。和調。昔の曲だろうか。この子はやっぱり昔のこどもなのだろうか。

「『さくらさくら』とかできたらいいんだけど、難しいんだ」と彼女は言った。「

ろばさんは、いちばん簡単なの。お琴のための練習曲なんだよ」

「習ったの?」

「うん」

「どこで」

「おうち」

「おうちって……」ここなの? あなた、ここの子なの?

「とことっと……ああ、ここ。ここが、むずかしいの。いつも失敗するんだよね」

 幻の糸をはじいた手をとめて、女の子はふと、レイラを見た。

「そう言えば、あんた誰?」

 それを聞きたいのは、こっちじゃないの! レイラはふくれっ面になりそうになるのをがんばってこらえた。

「加賀見玲良」

「ふうん。れーらちゃんか。可愛い名前ね。いくつ?」

「九歳。来年三月で十」

「えーっ? なあんだ。こどもじゃん」女の子はにやにやした。「あんた、けっこうおとなっぽいね。もうちょっと老けてみえたよ。同い年ぐらいかと思ったのに。あたし十三。じき十四」

「じきって……」

 幽霊は育つのか。幽霊じゃないのか。じゃあ、なんなの? レイラは混乱した。怒らせないように、失礼じゃないように、どう聞いたらいいんだろう。考えようとすると、そうでなくても痛いぶつけたところが急に余計にズキズキしてきて、痛くってたまらない。

 みっけ! スミカみーっけ!

 どこか下のほうで、嬉しそうなヒトシの声がした。

 あとひとりだ。ちくしょう、レイラのやつ、うまいなぁ。どこ隠れたんだ?

「なに? かくれんぼしてんの? ガキだねぇ」女の子はからかうようにいったが、大きな澄んだ瞳は悲しげだった。「いいなぁ。遊び仲間がいて……」

 二階なのか? 降りてきてないって? 嘘でぇ。俺、真っ先に探したぜ。たしかに誰もいなかったぜ。

 何人かの足音が階段を登ってる。近づいて来る。

「鬼が来る」女の子は立ち上がった。というか、少なくとも、壁からはみだしている範囲はそういうふうに見えた。「あんた隠れないと。しゃべってると見つかっちゃうから、もう行くね」

「待って!」レイラはあわてながら、せいいっぱい低い声で囁いた。「名前おしえて。あなたの名前を。まだ聞いてない」

「ユメミ」

 その子の指がレイラの腕をかすめた。かすかに、チリッ、と刺されたような痺れるような感じがした。

「ユメミだよ。じゃ、またね!」

 ゆめみ? 夢見? 夢を見るって書くの? やっぱり夢に関係あるの。どんな字を書くの? 

あなたは菩提樹の子なの、そうじゃないの? なにを訊ねる間すらなく、壁の中に消えた、そのとたん。

「レイラみ〜っけ!」ミキヲが突進してきて、レイラの背中に抱き着いた。

「みっけ! みっけ!」ノリヲもわめく。

「はいはい。降参」

 這い出して、スカートの裾にくっついてしまった綿埃を叩き落としていると、ヒトシがむっつり顔で訊ねた。

「おまえ、さっきからここにいた?」

「うん。そうよ」

「っかしいなぁ。んなはずねぇよ」ヒトシはますます顔をしかめた。「そこ、俺、最初に見たんだ。ぜったい誰もいなかった。誰の気配もしなかったぜ。まるっきし、ぜんぜん」

 レイラは眉をひそめた。

 いなかった? 

見えなかった? でも、わたしはじっとしていたのに。

なんで? なにが起こっていたんだろう。

 あたし……もしかすると……ここにいるのに、いなかったんだろうか。消えていたんだろうか。やっぱり“ひめ”になりかけているんだろうか。

 夢の中を歩く時、からだは置き去りのもぬけの殻になる。こころが抜け出すと不用心だから、“ひめ”はおのれを隠すのだという。そこにありながら、ひとの目には見えず、ふれても感じられぬものにしてしまうという。あるけれどないもの。確かにそこにいるけれど、いないもの。そうなる。

 でも……そんなことを、したつもりはなかった。隠れなきゃ、という気持ちが、知らぬ間に、ちからをひきだしていたのだろうか? 自分でも、できるということを知らないうちに、していたのだろうか?

もうくるのか。それが。その時が。まだまだずっと先のことかと思っていたのに。まさかスミカよりもはやく。

ずきん、と、胸が痛む。

なりたくないわけじゃない。でも、そんなにはやくなりたいわけでもない。

 スミカより先なんて、いや。

 まだ考えたくないけど……そうもいっていられないかもしれない。こんど、ヒロさんに相談してみよう。“ひめ”になる時ってどんなふうなのか。ちゃんと聞いてみなくっちゃ。ちょっと恥ずかしいけど……不安だけど。知らずにすむことなら知りたくないけど。

そう遠くない先に直面しなきゃならないことなんだし、自分のことだ。訊ねておかないと、余計にあわててしまう。

 ひょっとするとあの子のことも……ユメミのことも……ヒロさんなら、知っているかもしれない。そうだ。だって、ユメミはそもそも、ヒロさんのことを眺めていたみたいだったじゃないの。

 よし。たずねよう。それでいい。

 考えが一段落したので、ようやくにっこり笑うことができた。口を開く。

「あたしの隠れかたがよっぽどうまかったのね。それよりヒトシ……これ、なんだか知ってる?」レイラは朱色の布に手をかけた。「お琴だよ。すごいね。お琴のほんものなんて、見たことないでしょ?」

「おまえ、すげぇコブできてんぞ」うんざり呆れたように、ヒトシは言った。「それ、なんとかしたほうがいいんじゃねえ?」

 

 ヒロさんと話さなくては。

 その日、レイラがずっと考えていたのはそのことだった。

 ふたりきりで、内緒で。相談したい。

 しかし、なかなか機会が見つからなかった。ヒロさんは下山さんやマツエさんとなにくれとなく忙しそうにしていたし、双子は遊ぼうあそぼうとまとわりつく。みんなの荷物をほどいて、二階の箪笥のあけてあるところにしまっていたら、もう夕御飯の時間になってしまった。ヒロさんはお疲れのご様子で、はやめに寝てしまうかもしれない。この調子では今夜じゅうに時間をつくってもらうのは無理かもしれない。

 夜、ふとんにはいったら、きっとまたいろいろ考えてしまうだろう。なにもわからないうちに、ひとりであれこれ考えたってしょうがないのに。

 いっそ、思い切って、スミカに相談してみようか。スミカはわたしよりもおとななんだし、準備のいい子だから、もういろんなことを確かめてみているかも。あらかじめ、ちゃんと心得て、よく知っているのかもしれない。知っていたら、いいアドバイスをくれるに違いない。

でも……スミカは、いやじゃないだろうか。あたしのほうが先に“ひめ”になるなんて? 先をこされたみたいに思って、不愉快にならない? もちろん、そんなこと、わたし、ぜったい自慢しないけど。ほんとに、できれば、スミカに先になって欲しいって思ってる。あっ、そうか。もしかして、スミカにも、前兆があるんじゃ? なのに、わたしには隠しているの? ああ、でも、そんなこと聞けない。まるでスミカをせめてるみたいになってしまう。たとえ、イヤだと思ったって、顔にだすようなスミカじゃないけど。

仲違いはしたくない。スミカに嫌われたくない……。

 溜め息をついてスプーンをおろすと、皿にあたって、かちゃん、と鳴ってしまった。妙に大きな音で。

 食卓のあちこちから、びっくりしたような視線が集まって来る。

 レイラは頬が赤くなるのを感じた。ごめんなさい、とつぶやく。

「お口にあいませんでしたか?」マツエさんがコップに水を注ぎ足してくれる。「なにか別のものをお出ししましょうか?」

 その夜の食事のメインは缶詰のカレーだった。ふだんと比べれば安易な手抜きには違いない。それでもマツエさんはシェフの意地をかけて、マッシュルームの炒めたのと微塵切りパセリを混ぜ込み、ターメリックで黄色く染めたバタライスにかけ、絶妙の火加減で止めたポーチドエッグと、炒ったスライス・アーモンドと、小さな四角に刻んだゴーダチーズを添えてくれたのだった。サイドディッシュは、湯剥きトマトにマヨネーズであえたツナオニオンを詰めたもの。いつものように、癒恵の実もたっぷりと盛ってある。時間も材料もなかったことを考えれば、じゅうぶん豪華なご馳走である。

 カレーはレイラの好物だ。食の細いレイラも、マツエさんのカレーは、きれいにたいらげてしまうし、たいがいお皿に半分はおかわりをせずにいられない。

 だが、今日は。

「ごめんなさい」レイラは小声で謝った。「なんだか、あんまりおなかがすいてないの」

「怪我のせいじゃなくて?」ヒロさんが心配そうに言った。「頭を打ったんでしょう。お医者さんに診てもらったほうがいいかしらね」

「この村にまともな病院がありますかどうか」とマツエさん。「救急車を呼んだほうがよろしいかも」

「平気でしょ」スミカが言う。「コブができるのは、なんでもない証拠。長旅で、くたびれたんだわ」

「それ、残すの? だったらくれ」

「ありがとう。お願い」

 ヒトシがレイラの皿を引き寄せた。すると。

「ぼくも、あげう」

「ぼくも」

 双子がさっそく真似をして食べかけの皿を追い遣ろうとした。ヒトシはうんざりしたように頭を振った。

「よーし。わかった。てめぇら、明日になっても海にはいきたくないってんだな?」

 双子は驚いたように目を見張り、ヒッと音をたてて息を吸い込んだ。

「食わないやつは泳いだりしちゃいけないんだぞ。ちゃんと栄養をとっとかないやつは、海になんて連れていってもらえないんだ」

「いくもん」

「いくけど!」

 双子は顔をしかめた。ノリヲのほうは、さっそくすすり泣きをはじめている。

「たべない。だって……おなか、くるしい」

「てめえら」ヒトシがすごんだ。「まだウンコしてないな!」

 ミキヲは真っ赤になり、ノリヲはますますしゃっくりあげた。

 ああ、それか、とレイラは思った。双子はときどきうまく排便できない。知らない場所ではなおさらのこと。旅の興奮と列車の長旅で、まだ決着がついていないのだろう。

「飯の前にさっさと行っとけって、言ったろ」

「だって……やだもん。あそこ。くさい。オエなる!」

「なるもん!」

 トイレのことだ。風呂場のある離れの横、庭のじめじめした隅のほうにぽつんと立てられたその縦に細長い小屋は、確かに、双子でなくとも、もしできることならば敬遠したいようなしろものだった。

 ぐらぐらした木造の戸をあけると、とたんにとてつもない匂いが襲って来る。腐った汚物と消毒薬のまじった、目にしみるような匂い。吸い込んだら毒になるに決まっている匂い。床にしつらえられたスリッパ型の陶器から、つかみにくい蓋をとりあげれば、匂いはさらに濃厚に強烈になった。ぽっかり空いたおおきな穴。うっかり足を滑らせたら落ちてしまいそうだ。恐ろしいその暗がりから、すうすう冷たい風が吹きあがって来る。吸い込みたくない空気もあがってくる。そんな場所に、しゃがみこまなくてはならないのだ。小用ならば庭の隅っこでサッと用が足せてしまう男子に生まれておけばよかったと、これほど切実に思えたことはなかった。

 その時使うべき紙は、ごわごわ皺のよった真四角であまり白くないもので、床の片隅の籐の籠の中に積んであった。正直いってそれもイヤだった。用を足したあとにつかう紙のうち、ロールのトイレットペイパーではないものを、レイラは、生まれてはじめて見たのだった。そんな小さな頼りない紙では手が汚れてしまいそうな気がするし、手でないほうの場所にもよくないような気がする。事後に手をあらうのが、天井からぶらさがった白いプラスチックに溜まった水であるというのも信じがたい。下にでっぱった銀色の部分をちょんとつつけばちょろりと水が出てくるが、ということはつまりみな、「手を洗う前」にそこにさわることになるではないか。それでは、とてもじゃないがちゃんと手を洗ったことになどぱないと思う。実際、レイラは、この家のトイレに行ってもどったあとで、洗面所でもう一度石鹸をかけて手を洗い直さずにいられなかった。

 それでも、手拭いで武装したマツエさんがせいいっぱいに掃除をしてくれて、床や便器や明かり取りの窓のあたりに溜まっていた蜘蛛の巣や虫の屍骸の干からびたのは可能な限り撤去したのだった。そしてそれでも、夕暮れになり、灯かりをともすと、おびただしい量の羽虫や蛾がどこからともなく集まって来たのだった。きりもかぎりもない。そもそも灯かりはワット数の少ないむきだしの電球ひとつで、しかも戸の外側にぼんやりついているだけ。そこまで行く庭もろくに足場が見えないほど暗いが、小屋内部の隅には、もっと恐ろしげな闇がわだかまっている。大量の虫が隠れていそうだ。ごく高い天井のほうにいる蜘蛛や蛾は、まぁ、見ないことにしてもいい。だが、顎のところにハサミのようなもののある虫や、たくさん足のある長い虫や、バッタみたいな黒い虫が、くだんのトイレットペーパーがわりの紙の上をかさこそと這い回っているのだ。震え上がらずにいられない。不潔なところを歩いてきたかもしれない毒があるかもしれない虫の足が踏んだ紙を使うなんて、金輪際できない。紙の端っこを持って振って邪魔な虫をどかしたあと、レイラはそこからさらに二三枚の紙を取り除けて床の穴にまず捨てしまわずにはいられなかった。たぶん他のみんなも、同じことをしているのだろう。二度目にトイレに行った時、紙はいやにごっそり減っていた。このままでは朝までになくなってしまうだろう。

 ああ、夜。

 昼間だってイヤなのだ。真夜中には、ぜったいに、あんなトイレに行きたくない。そもそも、海辺のいなかのこの夜は、町の夜とは比べ物にならないぐらいに真っ暗だ。夜中にトイレに起きたくならないように、今夜はできるだけ水分はとらないでおこう。

 レイラでさえ、そう思う。短いほうの用を足すのならまだいい。覚悟を決め息を止めて、できるだけ大急ぎでしてくればいい。だが。

 幼くて、からだも小さい双子がいやがったり怖がったりするのは、まったく無理ないことだと思う。落ちそうな気がするだろう。たとえ、誰かに付き添ってきてもらうとしても、中までついてきて支えてもらうには狭すぎる。

 ヒロさんは、あれを甘んじて受け入れたのか。が、考えてみれば、ヒロさんやマツエさんは、けっこう年輩なのだった。彼女たちが若かった頃には、この国はもっと貧しかったときいている。どこの家にも、ああいった原始的なトイレしかなかった時代があったのだろう。昔、していたことなら耐えられるだろう。他にないなら、しょうがない。楽をして贅沢に育ったわたしたちも、我が儘を言って困らせたりしちゃいけないのだろうが……。

「レイラはいくよね」ミキヲは抵抗した。「うみ。いくでしょ?」

「レイラ、のこした!」ノリヲが椅子の上に立ち上がり、鬼の首でもとったかのように言った。「レイラ、ごはんのこした! レイラ、うみ、いけない!」

「てめぇら……」ヒトシが拳骨を握りしめた。「くだらねえ屁理屈いいやがって、そんなに俺を怒らせたいのか?」

「もうおやめ」ヒロさんが言った。「困ったひとたちねぇ。食事時になんですか。お手洗いのことなら、明日には、きっと、もうちょっとなんとかしますから。今夜のところは、辛抱しておいてちょうだい」

 ノリヲがあわてて椅子に座りなおし、ミキヲはいったん放り出したスプーンをねぶりはじめ、スミカに注意されてあわててやめた。

「おかげでわたしまで食欲がなくなってしまったわ……」ヒロさんはほんの少しつついただけの自分の皿を眺めやって眉をしかめ、片手でそっと口を抑えた。「ごめんなさい、これ、もう、片付けて。ごちそうさま」

 マツエさんは唇をすぼめたまま深呼吸をした。鼻の穴がふくらんで、また閉じた。黙って手を伸ばし、ヒロさんの席の前の皿や器やカトラリーをとりあげ、流しに運んだ。せっかく心を込めて作ってくれた美味しいごはんがろくに食べてもらえぬままゴミになってしまったのだ。申し訳なくて、レイラはまともにマツエさんのほうを見ることもできなかった。

「みなさんは?」マツエさんは低い声で訊ねた。「お残しになるんなら、遠慮なくどうぞ」

「俺は食うぜ!」ヒトシはわざとのように明るく高らかに宣言し、スプーンを使って、ほとんど食べ終わりかけていた自分の皿に残っていたものをレイラから引き受けた皿にザッとうつし、空になったほうをマツエさんに手渡した。

「わたしもいただくわ。とっても美味しい」スミカがにっこり笑いかける。

 ヒトシの皿を持ったままのマツエさんは軽くうなずき、ぎょろっ、と目玉を動かして双子を見た。ミキヲは震え上がり、ノリヲはあわててバタライスにスプーンをつっこんだ。マツエさんは肩をそびやかし、流しに戻る。

「赤ワインをもう一本だしてちょうだい」ヒロさんは言った。「レイラ、あなたもいかが? お水でうんと薄めればいいわ。フランスでは、こどもでも飲むのよ」

「いただきます」レイラは提案に飛び付いた。お酒を飲むとぐっすり眠れるように聞いたことがある。めんどくさいことを考えなくてすむようになるとも。今日はもうこれ以上なにも考えたくない。

「癒恵をいれましょう」マツエさんが言った。「あいにく丁子はございませんが……癒恵のしぼり汁でワインを割って少しあたためましょうか。ただのお湯割にするよりもずっと飲みやすくなるはずでございますから」

 そんなわけでレイラはその夜、ホットワインを生まれてはじめて飲むことになった。それは甘酸っぱく、コクがあって、なんともいい香りのする飲み物だった。厚手のガラスのコップを両手に包んで顔の下に持ってくると、魔法の薬のような湯気が立ち上って鼻腔をくすぐる。とても熱いので、そっと啜って、口にふくんでしばらく舌の上で転がすようにしてみると、幸福そのものの味がした。胃に落ちていくと、そこがポッとあたたかくなり、そのぬくもりがゆっくりと手足の隅々にまで広がっていく。

 おとなたちがなぜお酒を飲むのか、ちょっとわかったような気がした。

 レイラがあまり美味しそうにしたせいか、双子もヒトシも味見をしたがった。スミカは、とっくにほんもののワインも飲んだことがあるのかもしれない。黙って首を振っただけ。ひとさじのホットワインをおっかなびっくり味わってみた双子は、口々にもっと欲しいとせがんだ。ヒトシまで、俺にもマグ一杯、と言った。うめぇじゃん。いいよ、これ。それでマツエさんはまた片手鍋ひとつ分のホットワインを作り足さなければならなくなった。

 思えば海辺の家は夜になると夏にしては少しばかり涼しすぎたのだった。網戸にしてあった窓を閉ざすと、波と風の音が遠くなる。食事の終わったテーブルで、こどもたちはみんなそろって湯気を吹きながら甘いホットワインを啜った。結局スミカも飲みはじめたのだった。あなたたちがそんなのんべえさんばっかりじゃ、うんとたくさん取り寄せないとだめねぇ。機嫌を直したヒロさんが笑う。あまり良いワインではございません、マツエさんがヒロさんの耳元に囁いた。奥さまにおだししたのとは別の、料理用のを使いましたので。それに大半、癒恵ジュースです。聞こえたが、レイラもそれでかまわないと思った。それならむしろ安心。

 マグカップ二杯のホットワインをすすってしまうと、気分がふわふわして来た。ひょっとすると、最初の一杯、つまり、こどもたちではレイラだけがもらった分は、少しアルコールが多かったのかもしれない。こめかみの奥のほうでかすかにはじまった頭痛を感じながら、レイラは胸を圧していた不安がどこかになくなってしまっているのを歓迎した。もうなにがなんでもいいわ。さっさと“ひめ”になっちゃうならなっちゃうでそれでもいい。どうせいつかはなるんだもの。

 あしたはいよいよ海なんだわ! せいぜい愉しまなくっちゃ。

「さぁさぁ、こどもたち」ヒロさんが言う。「そろそろお風呂が焚ける頃よ。順番にはいってしまってちょうだい。誰から?」

「レイラ、ふたりで、いっしょに入ろう」スミカが言った。

 

 昼間のうちに見物はすませていた。風呂場もまたこの屋根の下にはない。勝手口からつっかけサンダルを履いて二十歩ばかりいった先の離れの一階にあった。

 漆でも塗ったような色の木造の離れの奥まった部分は階段で少し登った先の独立した部屋で、扉に鍵がかかっている。背伸びして、汚れた窓にかかったあまり趣味のよくない柄のカーテンの隙間から覗いてみると、家具や箱でぎっしり埋っている。たぶん、倉か物置か納戸のようにつかっていたところに、もともとの住人のひとたちの荷物をかりそめに詰め込んだのだろう。

 浴室は、この倉と、壁を一枚共有するようにして建て増しされたもののように見える。

 浅い軒下のガラス戸をあけると、靴脱ぎ兼用の板張りの狭い脱衣所がある。風呂場そのものは、せいぜい二畳分ぐらいだろうか。床はコンクリートで半分が少し高くなっていて細かなタイルが貼ってある。そこが洗い場だ。浴槽と言っていいのかどうか、からだを沈めるところは黒く錆びたような金属の巨大なお釜みたいなもので出来ている。入る時、スノコを浮かべ、それを踏んで自分の体重で沈めて使うようになっているらしい。さもないと、熱く焼けた釜の底でヤケドをしてしまう。そう、この釜は、小屋の外壁に空いた窓のような部分から炭だか薪だかをつっこんで、直接火を焚いてあたためるのである。こういうのを、五右衛門風呂、というのだそうだ。釜の隣に、たっぷりと水をはったコンクリートの水溜めがあり、真鍮色のひしゃくが添えてある。熱くなりすぎたら、これでうめて使え、ということらしい。

 そんな風呂を見たのもはじめてだったし、隙間だらけの板壁一枚でほとんど吹きっさらしの外も同然な風呂にひとりで入るのは心細かったから、ふたりいっしょにというスミカの誘いはとてもありがたかった。

「うわぁ、寒いね」

「すごい星」

 懐中電灯を持って、勝手口から風呂小屋まで、大きすぎるつっかけにつんのめりそうになりながらふたりで駆け抜けた。がたぴし立付けの悪い引き戸を空け、また閉める。鍵は釘に輪にした針金をひっかけるだけだ。こんなの、誰か蹴り破ろうと思ったらすぐに吹っ飛んじゃうだろうなぁ、とレイラは思う。

 風呂場は湯気でいっぱいだった。釜には、まさにゴハンを焚くお釜の蓋にするような木の蓋がのっていて、隙間からしゅうしゅう蒸気をあげている。ヒノキだろうか、とてもいい匂いがするけれど、こんなのに入るって煮られるなんて、なんだかスープになってしまいそうだ。

「あ、しまった! バスタオル持ってこないと」

「ここになにかある」スミカが脱衣所の棚のところに重なったぺしゃんこな布の塊を指差した。

「……あるけど……」

「いつお洗濯したかもわからないね」

「うん……」

 それに、ほら、上のほうに蜘蛛の巣が張ってるよ。そのタオルの間に、虫とか、ネズミとか、なんかもっと恐いものとかがいないとも限らないじゃない。

 きれいじゃないかもしれないタオルなんて。

 レイラはきっと、よっぽどイヤそうな顔をしてしまったのだろう。

「わかったわかった」スミカが笑った。「うちらが持ってきたのをとってくるから、湯加減みといて。やけどしないように気をつけなさいよ」

「うん」

 スミカが懐中電灯を持っていってしまうと、なんだかやけに暗くなった。ここの灯かりもトイレ同様、ついているのに、ちっとも明るくない。脱衣所と風呂場の間の壁の高いところに隙間が作ってあって、クリスマスの時ツリーに飾るやつよりほんの少しだけ大きな程度の電球がひとつ、ぽつんと灯っているだけだ。なんだか、ちゃんと明るくするためというよりも、あたりの暗さをいっそう際立たせるためのような灯かりだ。弱々しい光の届かない部屋の隅という隅には、濃い影がうずくまっていて、油断するといまにもじわじわ膨れ上がってきそうだ。

 腕や背中のうぶ毛が、ぞわぞわとそそけ立っていく。

 ううん、だいじょうぶ、だいじょうぶ。ここは家の中。剥き出しの夜の中じゃない。夜はここまでは入ってこられない。この情けない灯かりでも。ちゃんと灯かりがあるんだから。すうすう隙間風の吹く場所だけど。ちゃんと壁も屋根もあるんだから。

 だが、夜の圧倒的な大きさに比べて、そこは、なんと小さくて頼りなかっただろう。夜が本気で支配力を発揮したなら、あっと言う間に消し飛んでしまうに違いなかった。

 黙って立っていると、余計にこわい。なにかしているほうがいい。

 脱衣所には、古い感じの籠があった。脱いだものをいれておくために使うのだろう。特に汚れているようには見えなかったが、いちおう、さかさまにして、とんとん、と床にぶつけて、埃を振り落とした。スミカ、早く帰ってきてくれないかな。寒いな。隙間風がひどい。夜があたしにさわるよ。

 あたしに、おいでおいでしてる。

 夜の声に耳を塞ぎ、靴下を脱ぎ、背中のファスナーにちょっと苦労しながらワンピースを脱ぎ、シュミーズの裾に手をかけて、そこでやめる。裾をもう一度ひっぱりおろす。もしお湯が熱すぎてうめなきゃならないとしたら、裸ん坊ではやりたくなかった。ちゃんとすぐ入れる温度になるまでは、せめて木綿のシュミーズ一枚でも、着ていたい。

 レイラは洗い場に踏み出した。ぽこぽこつるつるしたタイルが、降った蒸気で濡れている。ひんやりした。予想以上に冷たい。思わず爪先がすくんで、転んでしまいそうになった。注意注意。また頭をぶつけたりしたら……しかもそれが、カッカと熱くなっているお釜だったりしたら、ほんと、冗談じゃないわ。

 湯船に沈めるためのスノコが横の壁にたてかけてある。重たそうな蓋を、どかしたあといったいどこに置こうかと考えながら、もわもわ漂い出ている蒸気の中に手をつっこみ、取っ手に手をかけた。たっぷり水を吸った木は、ほんとうに重たい。両手を使って、やっと開ける。さらにいっそう湯気があがる。

 煮え立つ水面はずいぶん下のほうにある。釜の縁がじゃまになって灯かりが届かず、漂う蒸気も邪魔をして、あまりよく見えない。顔を突き出したとたん、なにか、ツンと酸っぱい不快な匂いがしたような気がした。熱い蒸気を吸い込んだら、鼻の中をやけどしてしまいそうで急いで顔をそらした。濡れて蒸れた木の匂いかもしれない。いちいちビクビクしてしまうのは、そもそも灯かりがこんなに暗すぎるからだ。いやだいやだ。明るくないお風呂はいやだ。あしたは夕方、明るいうちに入りたいって言ってみようか。

 レイラはひしゃくで水を一杯すくい、入れてみた。水面が揺れた。たぷん、たぷん、たぷん。なにかが揺れる。水でないものが。水の表面にいるものが。端から端までびっしり埋め尽くしたそれは……。

 それは……。

 ぐるんと世界が回り、膝の力が抜けた。どこかにつかまろうとしたけれど、つかまるところがなかった。大事な糸をぷつりと切られたあやつり人形さながら、くたりとちからなく倒れこむ。そのまま気をうしなうところ、支えを探った指先が熱く焼けた釜の縁をかすめた。レイラは悲鳴をあげた。叫び、叫び、喉が裂けそうになるほど叫びながら、反転し、手も足もつかって四つんばいになって逃げ出した。全速力で逃げたはずなのに、ふと気がつくと、叫びのかたちにぽかんと口をあけ目もまじまじと見開いたままタイルの洗い場に半分うつぶせてひっくり返っている自分を、見おろしている。目がへんだ。立体感も遠近感もへんだ。自分は、ひどく小さく、ひどく平板で、顕微鏡で眺めるためにプレパラートに載せられた何かみたいに見える。肌がてかてかと発光している。蝶の翅をギュッとつかんでしまったあと、指に残る粉のような無気味で美しい光りかた。あれは、あたしだ。じゃあ、これは誰?

「どこ行くの!」

 耳をひっぱられて、びっくりして真横を見ると、すぐそばに、ユメミが浮かんでいて、レイラの首と腰にうでを回し、しっかり抱くようにして支えてくれていた。支えて押さえて、力いっぱい踏ん張ってくれている。そうでないと、そのまますごい勢いでどんどん登ってしまう。ふくらましたてのヘリウム風船のように。ほら、油断した隙に頭が屋根をつきぬけた。外気が冷たい。いや、熱い。わからない。解放感。星が見える。澄み切った海の村を覆う満天の星。素敵にきらきらの星たち。カモーン、と夜が呼んでいる。マントを翻し、大きな腕を広げて、三日月を笑った口のかたちにして招いている。

 このまま夜にとけてしまてば、ああ、素敵……なんていい気持ち……!

「……して!」ユメミが怒鳴った。

「なに?」レイラは聞き返した。「なんて言ったの?」

「しっかりして! 目えあけて! いいから、はやく戻んなさい! バカ!」

 ユメミはレイラをつかまえると、思い切り突き飛ばした。下に向けて。レイラ自身のからだに向けて。

 足先がなにかにさわった。ああ、わたしだ、自分のからだだ。と思ったそのとたん、強い力でひっぱられた。見えない吸い込み口から飲み込まれるみたいに。トムとジェリーのマンガみたい、レイラは思った。強力掃除機にシッポの先をつかまって、そのままひゅうっと、吸い込まれてしまうトム。トムのかたちにふくらんでしまう掃除機。

 しぼんだ、つかまった、窮屈だ、と思う間もなく、熱と血が腹の底からまつげまで駆け抜ける。どこまでもうすっぺらくなって夜に同化していく幸福な感覚が、舌先でアイスクリームが溶ける時のようにすうっと溶けてなくなるのをレイラは感じた。知らぬまに曇っていた目の前が急に晴れ、しかし元に戻ったのではない、世界は異様にまぶしかった。風呂場の床や釜や落ちているひしゃくなどなど、ありとあらゆるものが妙にくっきりとした輪郭をしている。みな輝いていた。蝶の羽根のあの燐粉のように。

「レイラ! レイラなに、どしたの!」

 飛び込んで来るスミカもぴかぴかに光っていて、彗星の尾を引いている。スミカの全身から零れ落ちる燐粉が宙に尾をなすのだ。おーい、なにがあったんだぁ。どこか遠くのほうからヒトシの声もする。レイラは、だいじょうぶ、と言おうとして、舌を噛んだ。のどがいがらっぽくて、咳込んだ。スミカはレイラを助けおこしてくれた。

「やだ、あんた、酔ったの? それとも、貧血!?」

 ひとつふたつ瞬きをすると、頭の中でぐらりと世界が揺れ、異様な視覚が唐突にもとに戻った。スミカはもう光っていないし、彗星の尾も撒き散らしていない。

「レイラ?」

「お湯が」レイラはよくまわらない舌に苦労しながら、言った。「お湯がね、虫でいっぱいなの」

「うそ」

 スミカが懐中電灯で水面を照らし、うわ、と小さく言った。ゾッとする気分をこらえながら、レイラももう一回、見た。錯覚ではなかった。風呂釜の水面は、端から端までびっしりと煮られて死んだ虫で覆われていた。白い腹ともしゃもしゃした産毛のようなたくさんの白い足を見せてひっくりかえっているもの。平たく丸い甲羅のような背中の三筋の鱗模様を晒しているもの。大きいもの小さいもの。他の虫と向かい合うようにしてくっついたもの。たぷたぷと水が揺れると、全部の虫がいっせいに揺れた。

「……最低………」

 レイラを抱いたままのスミカの腕が、ぶるるっ、と震えた。

 

 虫を掻き出して掃除をしようにも、なにしろ釜が熱すぎる。焚きつけにつかっていた文化薪とかいうものは消そうとしてもすぐに消えるものではなく、空焚きになってしまうのは危険だった。双子たちにはお風呂がうまく焚けなかったのだと嘘の説明をし、スミカとヒトシと四人、電話で呼んだタクシーで村の銭湯に行かせた。線路があるのとは反対側の山道を少し下るあたりまでは、車の入れる道があるらしい。

 ヒロさんとマツエさんとレイラの三人は、その日は、湯沸かし器で作ったお湯で絞ったタオルで、からだを拭い、梳かした頭を撫でるだけで我慢することになった。

「あんなにたくさんの船虫がねぇ」

 一階の和室で、レイラの火傷した指三本に軟膏を塗ってくれながら、ヒロさんが言った。

「この家は場所が高すぎて、井戸水がひけないんですって。水道の水は、給水タンクにためてあるもので、タンクには、下のほうの共同井戸からいちいち人力で運びあげるの。減った分だけ、毎日フクちゃんが汲んでくれる約束なんですけど……今日の水は少し古くなっていたのかしら。それで、いつの間にかはいりこんでいたのか」

 レイラは黙ってうなずいた。フクちゃんっていうのは、福田さんのことだろう。ヒロさん、さっそく親しげに呼んでる。

「ということは」マツエさんが唇を噛んだ。「お炊事に使った水にも、あのムシが」

「し!」ヒロさんは指を一本たてた。「お願い。それは忘れて。だまっていてね。こどもたちには絶対に内緒よ」

「わかりました」マツエさんはうなずいた。「水道のお水は、口に入るようなところでは、使わないようにいたしましょう。奥さま。“菩提樹”に電話をしてもようございますか? ミネラルウォーターを何箱か、届けさせます」

「そうしてちょうだい……あ、待って。わたしも話したいから」

 巻きかけの包帯を手に困ったヒロさんに、レイラは、つづきは自分でやりますから、と言った。

 ついたわ、ええ、無事よ、いちおうね。電話口で話すヒロさんの声をぼんやり聞きながら、レイラは考えた。

 台所の蛇口からは虫は出てこなかった。たぶん、どこかにゴミを濾す部分があるのだろう。それにしても、虫のエキス入りの水だ。……あのショワショワした足が千切れて紛れこんでいてもわからない。そんな水で焚いた御飯を食べてしまったのか。うわぁ。気味悪い。

 ふだんだったら、レイラは吐き気をもよおしていただろう。いやだいやだと大騒ぎをしたかもしれない。だが、夜にとけだしてしまいそうになったいまでは――大きな圧倒的な魔人にさらわれかけて戻ってきたいまでは――虫ごとき、どうでも良かった。みかけは可愛くないとしても、別に毒があるわけでもないのだろう。知らずに少々食べちゃったからって、これっぽっちも害はない。虫は生き物で、この世のもので、大地と海からできたこの星のたくさんの生命のうちの小さなひとつに過ぎない。あたし自身と同じ成分でできている。同じものが同じものに溶けるだけ。

 だとしたら、汚くなんかない、と思った。泥にまみれていたとしても。おなかにウンチを抱えていたとしても。自分だって同じ。ムシもあたしも、別の種類のからだというかたちの中に閉じ込められているいのちなのだ。それだけ。それだけのこと。

 からだは弱い。簡単に切り離される。不自由なからだを棄てさえすれば、どこまでも飛んでいくことができる。でも、それは、自由? それとも。

……ふわふわ浮かんで、どこまでもどこまでも、高く登っていってしまう……。

危なかった、と思う。ひやひやする。あのままでは、どうなっていたかわからない。自分が自分でなくなりそうだった。のぼるって、どこに行けばいいのかわからないし、どうやってコントロールすればいいかもまるでわからなかった。なのに、少しも怖くなかった。幸福だった。その幸福感こそが、危険だと思う。

 怖がりも心配性も、どこかに消えてしまった。自由。ユメミに突き飛ばされたから、戻ってこれたけど。もう一度、やってみたい。もっとふわふわしていたかった。中毒性がありそうだ。

 もしかすると、あれが、夢の中を歩くこと?

 だったら嬉しい。もうじき、おそわることができるんだから。ちゃんとよく習って、うんとじょうずになろう。そしたら、どんなに楽しいだろう。

 あれが、自分でできるようになったら、わたしの弱虫も怖がりもなおってしまうんじゃないかしら。

 でも、……そうだとしても……いくらムシに親近感を覚えても、わかっていたら食べられない。あの虫の死骸がつまったタンクの水に、さわりたくない。

 どうしてわたしがこんな目にあうんだろう。

 ……わざとじゃないよね?

きっと、ただの偶然だ。不注意だ。別に、誰かが、わたしや、わたしたちがイヤな気持ちになるように、こっそり仕組んでおいたりしたことじゃない。

 ほんとうにそうだろうか?

 “菩提樹”を嫌っているひともいる。気味悪がって、関わり合いになりたくながらないひとは、いっぱいいる。もしかすると、親切そうな下山さんや、仏頂面でろくに口もきかない福田さんもそうなのか。松橋さんとかいうこの家の持ち主さんが自分で顔を出さなかったのは、なぜなんだろう。ほんとうは、イヤなんじゃ。腹を立てているんじゃ? たいせつなおうちを“菩提樹”のやつらになんて使わせたくないんじゃ。せっかくのおうちを取り上げられたのが不愉快で、はやく出ていって欲しいって思っているんじゃ。

 菩提樹の言うことをきいてはいるけれど……もしかすると、むかし恩があったり、お金をもらったりしたから、断ることができなかったけど、面と向かっては歯向かえないから、意地悪をしているんじゃ。

 てきぱきと電話で指示を出すマツエさんと、その横でうなずいているヒロさんを見ながら、レイラは座布団の房をギュッと掴んだ。

 ……だとしたら、許さない。そんなこそこそしたやりかた。ひどいわ。

 せっかく海にきたのよ。とても楽しみにしていた。いやになるぐらい電車にのって汽車にのって、やっとここまで来た。ここで、夏じゅう、楽しくしたい。嫌がらせなんかされて、たまるもんですか。

「手配できました」マツエさんが言い、電話を切った。「明日にもとりあえず三ダースほどは、水が届くはずです」

「よかった」と、ホッとした様子のヒロさん。

「もう切ってもようございますか?」

「ええ」

 挨拶をして電話を切ったマツエさんは、ふうっと息をつくと、畳の上に窮屈そうに肩をすぼめて四角く正座した。

「すみません。レイラお嬢さん。なんとお詫びをすれはよいやら。あたしがもっとちゃんと確かめとけばよかったんです」

 エプロンの前にそろえた手を、関節が白くなるほどギュッと握りしめ、目を真っ赤にさせている。

「空焚きしちゃあいけないと思って、いちおうはのぞいたんですけど……その時は、きれいな水に見えたんですけどね……きっと、あいつらは、底のほうに隠れていたんです。煮られてはじめて、あがってきたんじゃないでしょうか。でも、お風呂ができたところで、わたしが自分でちゃんとよく確認しにいきさえすればよかった。そうしていればねぇ。ほんとうに申し訳ない。すみませんでした」

「気にしないでください」レイラは言った。「あそこ、かなり暗かったもの。ちょっとやそっと眺めたぐらいじゃ気がつかないと思います。あんなにお湯が熱そうじゃなかったら、あたし、きっと、さっさと入っちゃっていたと思います」

「おお、いやだいやだ」マツエさんは震え上がった。

「あの……松橋さんって、どういうかたなんですか?」レイラは火傷をしていないほうの手で、ヒロさんに包帯を切るハサミを手渡した。「ここの家をわたしたちに貸してくださって、お困りにならないんでしょうか。ここに住んでたひとたちは、どうしたんですか?」

「結婚する娘さんのために建てたおうちなんですって。でも、旦那さまが転勤になってしまってね。遠くにお引越ししなきゃならなかったの。いつか戻って来る予定はあるから、荷物がたくさん、そのままなのね」

「そのかたがたは……外のひとなんですよね?」

「そうよ」ヒロさんはハサミを返し、かわりに短く切ったテープを受け取って、包帯の最後の部分を巻いて止めた。「さ、おしまい」

 マツエさんが余った薬や包帯を集めて救急箱にしまった。

「“菩提樹”のことはご存知なんですね?」

「知っていますよ」ヒロさんは、じっとレイラの目を見つめた。「松橋さんの持っていた船の一隻が昔、嵐で沈んでね。おおぜい亡くなったの。それで心をいためられてね……水を注いでさしあげる必要があった」

「ああ」

 そうなのか。

 だったら、きっと、大丈夫。きっと、恩に着てくれている。そんな相手を、うらぎったりなんかできるはずがない。

「痛み止め、もっと飲む?」

「平気です」

「……強い子ね」ヒロさんは片一方の頬に笑窪を刻んだ。「でも……最初がオデコ、こんどはヤケド。いつも慎重なあなたが、きょうはいったい、どうしちゃったのかしらね」

「それは……」

 ユメミをみたからで。“ひめ”になりかけているからかもしれません。

 言おうとした時、ただいまぁ、と玄関に声がした。銭湯にでかけていたこどもたちが戻ってきたのだ。

「よほど運の悪い日だったんです、きっと」レイラは急いで言った。「明日になったら、だいじょうぶです」

 ヒロさんはもう一度まっすぐにレイラを見詰め、そっと微笑んだ。

 

 フクちゃんは翌朝早くに高台の家にやってきた。レイラはよく眠れなかったし、神経を張って耳をすませていたので、給水塔に水をあけるざばざば言う音に気がついた。

 パジャマの上にカーディガンをひっかけて、庭に出る。とても寒かった。世界はまだぼんやり柔らかな光の中にある。海のかなた、うっすらピンク色の雲がたなびいているのがとても美しかった。

 縁側に腰をおろし、膝を抱きしめるようにして暫く待っていると、ブリキのバケツを両手にさげたフクちゃんがあの線路際からの階段を登って来た。じっとしているレイラには気付かず、まっすぐ離れのほうに行く。外階段を登って屋上にあがり、給水塔に水をあける。シャツの下で、肩の筋肉がぐりっと盛り上がる。真っ黒に陽灼けた顔は、あいかわらず、無表情だ。空のバケツを下げて庭を横切り、階段を降りて行く。すました耳に、きこ、きこ、きこ、と金属の擦れ合うような音がした。

 レイラは足音を殺して庭の端に出た。フクちゃんはポンプのそばにいた。昨日は気付かなかったが、例の展望台のあずまやのそばに古めかしい手押し式の水道施設があって、緑青のふいたような色のその蛇口から、いま水がほとばしり出ている。蛇口には赤ちゃんの靴下のようなものがかぶせてあって、そこが赤錆色にうっすら染まっている。

 もともとは、あっちが先だったのかもしれない、とレイラは思った。この家の敷地の中で、井戸を掘れるのがあそこだけだったから、水場を作って、せっかくだからついでに展望台にしたのかも。

 そこらじゅうに水をこぼしながらふたつのバケツをいっぱいにすると、フクちゃんはまた物も言わずに階段を登りはじめた。

 レイラはあわてて頭をひっこめた。

 言い出すきっかけがなくて、庭木の陰でじっとしたまま、往復するフクちゃんを何度も見送った。あたりがだんだん明るくなってきて、離れの屋上の給水タンクにバケツをあけるフクちゃんの顔に光る汗もよく見えるようになってきた。

 勇気を出さなきゃいけないわ、レイラは思った。お風呂にムシがはいりこんでいたんだと。早く言わないと。あの屋上の水を溜めるとこにまだムシがいっぱい潜りこんでいるなら、水はいちど、全部抜いて捨ててもらわなきゃならない。次の水をいれるのは、いっぺん、底までさらってきれいに洗ってからにして欲しい。

 フクちゃんが屋上を降りはじめた。空っぽのバケツをひと重ねにして機械のような足取りで戻ってくる。早くしないと、今日必要な分の水汲みが終わって、帰ってしまうかもしれない。

 レイラは自分をはげまして、木の陰から飛び出した。フクちゃんの往復した跡の、こぼれてしまった水にあんまりひどく濡れたところを踏まないように黙って立つ。

 フクちゃんはレイラを見ると当惑したような顔をして、すぐに目をそらした。よそよそしく無関心な様子で、ほんの半歩だけ横に避けて擦れ違っていく。笑顔もない。おはようの挨拶もない。足取りも緩めない。

 失敗した。スミカも起こして、一緒にきてもらっていればよかった。

「おはようございます!」

 レイラは階段を半分だけ降りた。展望台が見えるところまで。できるだけ元気そうな無邪気そうなこどもらしい声で言う。

「おしごと、ごくろうさま、ありがとう!」

 フクちゃんはポンプのところにいって、バケツを置き、ハンドルを二三度押し下げた。きこきこと金属が鳴り、赤錆色の赤ん坊靴下がふくれあがる。繊維の間から、水が流れ出す。じゃあじゃあ言う音がうるさいから、こんな遠くから話し掛けても、聞こえるわけがない。レイラはカーディガンの腕で自分を抱きしめるようにしながら、さらに階段を降り、ポンプの横に立った。おなかいっぱいに息を吸い込み、声をはりあげた。

「ねぇ、聞いてよ!」

 バケツひとつがいっぱいになった。こんどはバケツその二だ。

「昨日、あたし、お風呂にはいれなかったんです。だって、フナムシだらけだったから!」

 フクちゃんがつと顔をあげた。その目に苛立ちが、あるいは、怒りが、浮かんだように見えた。例の真っ白い牙のような歯がチラッとのぞく。こんなくだらない力仕事をいっしょうけんめいこなしているまじめな青年につまらない文句をつける小生意気なガキ。

 レイラは後悔した。この持ち出しかたはまずかった。とっとと逃げ出したい。でも、そういうわけにはいかない。

「今日はお風呂に入りたいの」レイラはなるべくかわいらしく弱々しく、こどもらしく言った。「ムシなんかぜったい入ってないお風呂に、ぜひ、入りたいです。どうか、すみません、お願いします」

 二杯めのバケツがいっぱいになったが、フクちゃんは動かなかった。バケツを見詰めている。

 水がじゃあじゃああふれだして、そこらじゅうをびしょびしょにした。地面がざわざわ動いているのに目が停まって、レイラはやっと気付いた。そこらじゅうがフナムシだらけなのだ。地面が濡れると、フナムシは浮き上がった。例のしょわしょわした毛のような足をけんめいに動かして抵抗するが、簡単に流されて運ばれてしまう。サンダル履きの裸足のレイラの足元までも。このままじっと立っていたら、足が濡れてしまう。ムシにさわってしまう。

「すみませんけど、どうか、よろしく、おねがいします……!」

 レイラはじりじりと後ずさりして、水を避けた。乾いた地面にたどりついたところで、くるりと後ろ向きになって、階段を駆け上がった。

 庭にあがる寸前、チラッと振り返ってみると、フクちゃんはまだポンプの横にいた。ぎりぎりいっぱいになったバケツの水面に、しおたれた靴下からぽたぽた落ちる水が、丸い波紋を描いている。その波紋を、じっと見詰めているかのようだった。

 縁側から家の中に入って、ぴしゃりと音をたててサッシをしめ、ようやくホッとする。言うだけは言った。やらなければならないことは果たした。

 そのとたんに、ブツッ、と空気に穴を空けるような音がしたかと思ったら、確かにどこかで聞いたことのある音楽が大音響で鳴り響きはじめた。

 おはよう、ございます。

 へんに鼻にかかったすかした声をした女のひとが、音楽をバッグに喋っている。

 さぁ、今日も元気に、ラジオ体操の時間です。

 どうやら、それは、小学校の校庭のスピーカーから聞こえて来るものらしい。ひどく音が割れていて一瞬気がつかなかったが、よく聞いてみれば鳴っているのは、ラジオたいそうのテーマソングだ。

 こんなに都会から離れた場所でも、ラジオたいそうは知られているんだ。なんだか面食らってしまう。ここのこどもたちは、毎日、あの放送を耳にしたら、サッととび起きるのだろうか。すごい音だ。とても寝てられない。

 寝坊したくても、無理だ。

「すごいわねぇ」

 階段の途中に、ヒロさんが座っていた。ヒロさんの寝間着姿を見たのは、うまれてはじめてだった。