yumenooto uminoiro |
Mahane 3
――そうだな。 (と、パパは言った)。 どこから話そう? たくさんのことが起こったあの夏、パパは中学二年だった。 父の仕事の都合で引っ越しをして、転校したばかりだった。またしても。 マハネには話したことがあっただろうか。うちのおやじは小さなコンサルタント会社のひとだった。なにか困ったことがある会社に相談に乗りにいって、用件が片づくまで取り組む。問題が解決したり、どうしても解決しなかったりすると、任務は終了になる。派遣の期間は長くて三年、短いと半年ぐらいだ。単身赴任をする選択もあったと思うが、母は家族はみんないっしょに暮らすべきだと強く考えているひとだった。だから、おやじの担当先がかわると、一家まるごと引っ越しになった。おかげで、何度も何度も転校した。 だから、そのころにはもうすっかりなれっこで、新しい環境にもすぐ打ち解けた。いっしょに通学したり休みの日に遊んだりするともだちなら簡単に見つけられたし、どんなに仲良くしていても、いざサヨナラになったらさっさと割り切った。 泣いていやがったってどうなるものでもないし。悲しみは、どんなに強くたって、時間がたてば自然と薄れるものだったから。 ぼくはいたってクールなこどもだったね。 持ち物も少なくて、「引っ越すぞ!」って言われたら、半時間かそこらでとっとと準備ができちゃうぐらいだ。 うちの一家は、家族まるごと、旅人みたいなものだった。定住先をもたない、ジプシーだ。 どこにいようと仮の宿。また、別のどこかにうつる。旅の途中なのだから、荷物はむやみにふやさないほうがいいし、なにかをあんまり好きになりすぎないほうがいい。執着すると手放すのがつらくなるから。居場所は汚さず、ちらかさず。ポスターをはったり釘を打ったりしない。ふすまを破いたり、柱に背くらべのあとを刻んだりしない。 生活用具のすべてをたいせつに、ていねいに、なんでも「他人さまのもの」だと思って使うのだ。「かえして」といわれたらいつでも、はい、いままでどうもありがとうございました、と、返上する。なるべく、まっさらに近い状態で。 そういうのが、かっこいい。 そうするべきだ。 それが我が家の家訓で、ぼくも、まぁ素直にそう思っていたわけだ。 なにもかもが借り物だなんて考えをおしすすめると、刹那的で享楽的になるか、ニヒルになるかどっちかだ。だって、そうじゃないか。いのちとか、肉体とか、人生だって、いつかは否応なしに取り上げられてしまうもの、つまり、借り物にすぎないのだから。 人類発祥以来、死ななかったひとは「ゼロ」だからね。百%の確率でだれでもかならずみんな死ぬ。人生は終わりになる。どんなに抵抗しても、いやだ勘弁してくれっていっても、このひとは素晴らしい聖人で多くのひとに必要とされているから特別扱いしてくださいって、いくら言っても詮ないことだ。 そうしてみれば、自分のものなんて、なにひとつないとも言えるんじゃないかい? なんであれ、所有しているような気がするのはおめでたい錯覚で、かりそめ、たまたま、いまだけちょっと、預けてもらい、持たせてもらっているものにすぎない。 そんなこんな、いろんなことをはじめからあきらめてしまうことにすると、いっそ、ラクだ。くよくよしたって、はじまらない。いやがったって、意味はない。 あぶく銭ということばがある。でも、お金だけじゃない。この世のすべてはあぶくだ。バブルだ。いずれはパチンとはじけて消えてしまう。そうじゃないものなんて、なにひとつない。 そんなふうに思っていた。 いやなやつだね(笑)。 授業で『方丈記』を習ったときには、びっくりした。自分が日頃考えていることとそっくりのことを考えて、本にまでしたひとがうんと昔にいたんだなあと思ってね。「よどみに浮かぶうたかた」というフレーズはマハネもきいたことがあるだろう。うたかた、というのは、知ってると思うけど念のため、あぶくのことだ。ボリス・ヴィアンという早逝の作家も『うたかたの日々(または「日々の泡」)』という有名な小説をかいている。おかしくて、かなしくて、なるほどパリの若者ってこんなふうなんだろうなぁって感じの小説だ。いたましい恋愛話を読みたかったらおすすめだ。 まぁ――自嘲的に言えば――「あぶく」ってものは、そのはかなさと、安っぽさから、ある種の人間に自己投影させたり、強い感情を抱かせたりするのだろうと思う。ちょいとひねくれてて、かわりもので、世界に自分の居場所がないように感じるロマンチストが、はまりやすいものだと言えるかもしれない。 ちなみに鴨長明もボリス・ヴィアンもばりばりに文系だったけれど、パパはなんと理系だった。そのつもりだった。数学とか物理が好きで、文学とか芸術とか、ひとのこころとか、あいまいでわけがわからないものはだいたいにおいて苦手だったんだ。公式があって、理屈がはっきりしていて、数字や記号で説明できて、きちんと筋がとおっているものが好きだったし、そういうものなら、とりあえず、信じられた。パパは、正しいことが好きだった。倫理的な善悪の問題じゃなく、論理的に明快でうたがう余地がない、ということだ。だから、よく、星ロボとか、星野博士ってあだながついた。料理人になったのも、料理は厳密にいえば一種の科学だから、初志貫徹ではあるんだ。 まぁね。 背伸びだったとは思う。 意識はしてなかったけれど、
ぼくは孤独だったんだ。
あっちこっち居場所を移って、何度もいろんなものを捨てさせられた。みんながふつうに持っているものを持たず、あきらめたくないものをあきらめさせられ、なにもなるべく期待しないやつになった。もちろん、なまじ期待なんかすると、うらぎられるのがこわいからだ。こころのやわらかいところを皮肉の殻でよろって、世界に背中をむけていた。青臭いな。まあ許してやってくれ。まだ中学生だったんだから。 内心はそんなふうだったけれど、わかってはいた。こんなこと言うと、ふつうは顔をしかめられる。あまりサバサバしていると、冷たいとか、情がうすいとかいわれるし、こどものくせに無常観にとりつかれていたりするのがわかると、おとなはまちがいなくいやがるからね。要注意人物の烙印をおされる。 だから、なにをどう考えているかなんて、いわないほうがいい。 転校していく先々で出会うともだちの大半は、生まれた町でそのまま暮らしていた。彼らには自分の「うち」がしっかりあった。ちっちゃなころからの思い出と、生きてきた痕跡と、宝物という名前のガラクタが積もりつもってかれらの家をなしている。親もそんなに遠くないところで生まれていたりするし、おじいちゃんやおばあちゃんまで、そうかもしれない。家の裏手にお墓なんかあれば、ご先祖さままでみないっしょだ。 彼らは、いろんなものを持っている。刹那の借り物だなんて思わずに。先祖代々の畑や店や財産があって、それらはみんな、いずれはこどもや孫にひきついでいくものだと考える。だから、よいものを手にいれたら嬉しいし、もうかると嬉しいし、価値の高いものがたくさんあると安心する。所有物は、好きなようにつかって、つかいきって、こわしてしまったっていいんだ。家族がみんなそばにいて、いごこちのいい場所がしっかりある。どこにもいかない。いこうとしない。だからプラッとよそから迷い込んできたものは信用しない。「なんだ、観光客か、よそものか?」と警戒する。 そのくせ、彼らは旅行好きだ。国内だ海外だってたくさん旅行する。まだ知らないなにか、一生きっと一度もふれることがないだろうもの、ぜったいに行くことがないだろう場所に、奇妙なあこがれを抱いていたりする。そうして、行く先々でいろいろと不自由なめにあって、かえってきて、ああやっぱりうちがいちばんいいな! と思うのだ。 ……なんの話だっけ? すまん。 あの夏の話だった。 そう、あの夏。あの町だ。 あそこもまた、そんなふうに、とおり過ぎて忘れてしまう町のひとつだと思っていた。うたかたの日々をすごす、かりそめの場所のひとつにすぎないはずだった。それまで過ごしてきた数多くのほかの場所と、どこといって変わらない、ちいさな平凡な町。 けれど……そうではなかった。 引っ越して一ヶ月ぐらいたった時だったと思う。 学校帰りに、たまたま小さな公園をとおりがかって、ぎょっとした。 女の子がひとり、すべり台の下で、たばこをふかしていたんだ。ぼくと目があうと、すっとからだをひいて、暗がりにかくれてしまった。そう見えた。 すべり台っていっても、階段とすべるところだけがある金属とかのやつじゃなくて、ごろんとしたドームみたいなかっこうになってるほうだ。のぼるほうには手がかりや足掛かりになるでっぱりがあって、ところどころに明かり取りの穴があいている。ドームの内側にはいると薄暗がりで、雨も防げる。どちらかというと小さな子むけの遊具だ。コンクリと陶器のあいのこみたいなのでできていて、もとが何色だったのかわからないぐらい古びていて、あちこちはげて欠け落ちていた。 中学の放課後だから、夕方わりとはやめの時間だったかと思う。そのあたりにはけっこうひともいた。乳母車が何台かくっつけてとめてあったりして、赤ちゃんを抱っこしたおかあさんたちがベンチでしゃべっていた。砂場やブランコでは、保育園ぐらいのちっちゃな子が何人もあそんでいるし、自転車やキックスケートで走りまわってる小学生ぐらいの子たちもいる。 でも、そのすべり台ドームには、誰もちかづこうとしない。うんと遠巻きにしてさけている。まるで、見えないバリヤーがはりめぐらされてでもいるかのように。 へんだなと思った。だから、歩いていった。 ほんとうにたばこならとめなきゃいけないと思ったし、気になることわからないことがあるとしっかり確かめたい性分。あとで「あれはいったいどういうことだったんだろう?」なんて悶々としたくない。 そもそもそんな薄暗いとこに、ちいさな女の子がひとりぼっちでいるのも不自然だ。もし、いじめられているとか、仲間外れにされいるとか、ひとに見られたくないような状態になっているとか、なにか事情があるのなら、誰か親身になって話をきいてあげたほうがいいんじゃないか、そう思った。 住みはじめたばかりのその町が、幼いこどもがひとりぼっちでグレかかっているのにみすみすほったらかしにするような、そんなところだったらいやだな、みたいな、正義感ぶった気持ちも少しぐらいあったかもしれない。 いったろ。孤独に関しては、ぼくはいっぱしの専門家だった。身におぼえがあったから、自分よりちいさい女の子が、孤独にさせられているなんて、たまらないと思ったのだ。 穴のひとつから、ひょい、と、のぞきこんでみた。 薄暗がりの中、女の子は、背筋をのばしてまっすぐ立っていた。ほの白く整った顔だちが、ぼうっと浮かびあがってみえる。くちびるの端にひっかけたたばこがすごくよく似合っていた。くすぶるけむりの甘い香り。けむそうに、ちょっとだけしかめた顔。あまりにもの慣れて堂に入った様子で、とうてい、はじめてのこととは思えなかった。 ほんといって、かなり素敵だった。モノクロ映画の大女優のポートレートみたいで。 おっとっと、この子はこどもじゃないのかな? と思った。小学生に見えるのは勘違いか。パパは目をはっきりさせようとして、まばたきをくりかえした。小柄だし、童顔だけれど、よく見たら、ほんとうはおばさん、いや、おばあさんなんじゃ? 琥珀の瞳がギロッとこちらを見た。 猫みたいに誇り高い、にらみつけるまなざし。 ぼくのほうが背が高いのに、なんだか、見下ろされているような、獲物としてねぶみされているような、そんな目つき。 何秒、見つめ合っていただろう。女の子は、やがて、ふん、と目をそらした。肩をそびやかし、茶色っぽい髪を背中にほうりなげ、ずかずか歩いてすれちがっていく。両手はポケットにつっこんでたと思う。たばこはくわえてなかった。いったいどこにいったのか? そこらに落ちてもいない。消えてしまった。ただ、香りだけが、残っていた。 あまりの見事な退場ぶりにあきれて見送って、ふと気付いた。その子は、どうみてもランドセルに見えるものを背負っていた。 「あれは何だったんだろう?」 翌日、学校で、休み時間に、ヒロシに話してみた。砂山田洋は、そのとき、いちばん仲のよかったともだちだ。学年トップ級に賢くて、よく気のまわるマメなやつで、転校したてのぼくをめんどうみてくれた。なんだかんだ必要なことを教えてくれ、教室を移動するときは、つれていってくれたりした。 こういう親切で面倒みのいいやつというのは、どこにでもひとりぐらいはいるものだ。ぼくはありがたく恩恵に浴し、すっかり頼りにしていた。 「なんだかふしぎな子だったよ。勘違いかなぁ。たばこに見えたのはシガレットチョコだったかもしれないし。ランドセルみたいなかばんを背負ってただけかもしれない。でも、なんか雰囲気がへんだったんだよなぁ。だって、誰もなにもいわないんだ。まるで、その子がそこにいるのに、見えてないみたいに、無視するっていうか。そばにくると、すうっと顔をそむけて。敬遠するみたいにふるまってて」 不自然だったんだよなぁ、とぼくは言った。ひとのよさそうなちいさな子のおかあさんとかまで、そうなんだからね。 ヒロシがむっつり黙っているので、なんとか自分の感じた違和感をつたえたくて、ことばを重ねた。 うまく説明できないけれど、へんな空気だった。重たいっていうか。けんのんっていうか。発火寸前みたいな。へんなスパイスみたいなひりひりした緊張感が、空気にまじってるような。 ほんの小さな女の子に、ビクビクしてるみたいな。はやくどっかいっちゃってくれ、って、いのってるみたいな。 「はー……。もう見つけてしもたんか」 ヒロシは、ため息をつきながら、ぱらぱらとまばらに髭が伸びている顎をこすった。 「そら澄香や」 「スミカ?」 「ぼだいじゅの子ぉや。小学校……えっと……六年になるな。きれいな子ぉやったろ?」 「そ、そうかな?」 言われてみて、急にどきどきしてきた。そんなつもりはなかったけれど、たしかに、顔だちはととのっていたような気がする。まさか。小学生にひとめぼれしてしまったのか。自覚してなかったけど、ぼくはロリコンなのか。 「目ぢから強うてな。ちょっとガイジンみたいやろ。茶毛やし、やけに色白で。まつげ長うて」 「そうだったかもしれない。菩提寺ってなに? お寺の子なの?」 「ちゃう。ぼだいじゅ、菩提樹や」ヒロシは教室の窓にちかづくと、遠くを指差してみせた。「見とみ。あそこ、丘があるやろ? こんもりした、でっかいマリモみたいな緑のかたまり。あれや。あれがまるごと菩提樹や。外からはよう見えんが、立派な屋敷がある。お城みたいんとこに、きれいな女がようさん住んどるんやて。シモジモには縁がないけどな」 「なんなの? それ」 「わかるやろ?」 「……わかんないよ。ぜんぜん。だって……」 外から見えないお城で? きれいな女のひとが? ……お金持ちなのか。宝塚みたいなところかな? 「いちげんさんお断りの高級料亭?」 ヒロシは、きょん、と目を見張ったかと思うと、プッと吹き出し、それから、ごほごほ咳きこんでごまかした。口をひんまげて、さらにいっそう声をひそめる。 「アホ。んなんちゃう。もっと、こう、淫靡な、猥褻な、話や。遊廓§ルビ・くるわ§いうたら意味わかるか? お江戸でいうたら吉原や。つまり、そこのきれーきれーな女たちは、おいらんやっちゅーことや。春を売っとる。うぶなこどもは知らんふりせんといかんタグイのことやが」 頬が火照ってきた。ぼくはまさに、うぶな中学生そのものだったから。でも、さすがに意味ぐらいは知っていた。いちおう。 「まさか。からかってるんだろ。江戸時代とかならともかく、だって法律が禁止してるんだし……えっ、あるの? そんなのが、近所に? ……みんな知ってるのに、なんで逮捕されないの。そこに……きのうのあの子がいるっていうの、なんで!?」 「お女郎さんにかて、こどもは出来る」 ヒロシは耳をほじった。 「女が春をひさぐのと、男が兵隊に駆り出されるのは、人類発祥以来磐石の職業や。最古にして、最強。いざとなったらそれで食える。どこの文化かて必ずある。おっと、まぁ、アーミッシュの村とかにはないかもしれんな……百のうち九十九はあるやろ。スミカはおれらの二級下や。おととしまでおなじ小学校やった。保健委員とか、運動会の係とか、いっしょにやったこともある」 格別美人なのはおいといて、ごくふつうの小学生や、と、ヒロシは言った。 菩提樹には、そのスミカのほかにもこどもがいるんだそうだ。小学生は、男の子と女の子があとひとりずつ。登下校するときに見かけることができる。三人つれだって歩いていることもあるし、リンカーンとか、ロールスロイスに乗って登校することもあるから。 「ロールスロイスで登校……」 「おー。それも、ファントムだかゴーストだかって、ホラーみたいな名前のやつなんや。車に詳しいのがいってた。何千万円もするらしい。なにせ冗談みたいな車や。でかすぎ、長すぎ、ぴっかぴかの銀色。窓は真っ黒で中がみえん。そんなんを、あいつら、何台ももっとる。そんなんが走ってきて、正門の前びたーっとふさいで、白手袋の運転手がおりてきて、ドアをあけておじぎしよる。そらみんな見る。そやよって、どの子が菩提樹の子ぉか、ここらのもんは、みな知っとる」 そりゃそうだろう。 「スミカは、いまおる子らの中では、いちばん年上なんよ」 ヒロシは訳知り顔に言った。 「なにかと苦労もあるやろ。公園でぼうっとしてたって、たまにはひとりきりになりたいんちゃうか。来年は中学やしな。……そいえば、進路、どうすんやろ。うちにくるか。都会の私立にでも進学するんかな。そうしたほうがええんちゃうか」 「どうして」 「あれだけの器量や。金には困ってへんのやから、都会に暮らせばいい。したらスカウトされるやん? モデルにでも女優にでもなれる。したら逃げられるやんか。さもなんだら……まあ、いずれ、親のしごとを継がされる。処女は値打ちが高い。あいつの美貌ならなおさらや。菩提樹が何歳でデビューさせるもんか知らんが、そろそろ、覚悟せんとならん年頃や」 ……なんだって? あまりのことに、ぼくは面食らった。 胸がどきどきして、顔があつくなった。よく知らないことだけれど、いかがわしい、あぶない話であることぐらいはわかる。小学生の女の子をそんなことに結びつけたら大犯罪だ。 だって、まるで人身売買じゃないか! なんでヒロシはそんなことを淡々と、既定の事実みたいに話せるんだろう? 「うそだ」ぼくは言った。「ありえない。だって、だめだろ、そんなこと!」 許されるはずはない。 いまの平和な世の中で。この日本で。経済大国の法治国家で。人権侵害だし、こどもの虐待だ。人種差別や奴隷貿易をしていたころの暗黒時代の話じゃないんだから! せきこんで言うと、ヒロシは肩をすくめた。 「まあな。けど。あいつら、人間やないから」 は? 「見た目はな、ほんま、そっくりやけど。中身はない。きれいなんも無理ないんや。よくできたケースやから。しょせん、がらんどう。ガセの贋物。じょうずに人間のふりをしてるけどな。……なんや、へんな顔して。ははあ、おまえ、まんまとだまされよったか」 ぼくはほんとうに驚いて、自分の耳がいま聞いたことが信じられなくて、なにも言えなくなってしまった。 「にせって、だって。ちゃんと動いてるじゃないか。生きてたよ。そう見えた。じゃなんなのあれ。宇宙人? ロボット? 妖怪?」 「むー。たぶん群体ってもんじゃないかのう」 ヒロシはつづけた。 「ほら、手塚治虫の『火の鳥』にそんなんあったやろ? ムーピーちゅーたかな。クラゲとか、サンゴとかみたく、こまかいもんがたーくさん集まっていっこの生き物みたくふるまっとるって。きっと、あんな感じで擬態してるんちゃうかな」 「…………」 「まぁ、悪い子やないで。そんなふうに生まれてついてもうたんは、しゃあない。自分のせいやないし、責任ない。どうこうできることでもない。やし、いうてもかわいそうや思うけど、どうしてもいやや、いうひともおる。気味悪い、けがらあしい、そんなんうちの子のそばにおきいな、いうてな。町から出てってもろうわけにいかんのか、あんなん学校に来さすな、って。PTAとか、町議会のひととか、さんざん運動しはった。けど、なんも変わらん。あいつらああみえて、コセキもあるし、パスポートとかも持ってる。かたちはきっちりととのえてあるんや。したら、義務教育だから、しゃあないんやて。役場は、正式の書類がそろってたら、どうしようもない。それに、……ひそかな圧力もあったらしいし」 「……?」 「内閣官房なんとか部署の誰とかさんがな、釘さしたとか。菩提樹の常連には、政治家とか経済界の首領§ドン§とかが、何人もいてるんやて。外国のようじんとか、王族ともつながりがあるって聞いた。そら、ちっぽけな町の一介の市民ごときには、どもならん」 ぼくはあんまり驚きすぎて、もう、なにをどう考えていいかわからなくなった。面食らったし、ほんとうのところ、背筋が寒くなっていた。 国のトップや王族が常連として通う高級娼館? 接待しているのは、人間そっくりだけど実は人間じゃない存在? 龍宮城か? そんな安易なSFホラーみたいな、おとぎ話みたいな、低予算映画みたいな、悪意と偏見だらけの与田話を……信じろって? そもそも、本気で信じてるっていうのか? 学年トップの秀才が? おとなたちも? この町の誰もかれもが? あきれた。 マジか。 いったいなんだこれは。 なんなんだ、その菩提樹って?
まずは調べてみた。 とりあえず、菩提樹というものについて。図書室で植物図鑑をひいた。 菩提樹は、なんてことのない樹木だ。別にたいして珍しくもないし、特別なものでもない。世界中、日本中、いたるところにいくらでもはえている。まぁ杉とか松とかほど多くはないかもしれないが、たいしてありがたくもない種類の木だ。 でも、調べをすすめてみると、すこし奇妙なところがあった。 たとえば、お釈迦さまは菩提樹の下で悟りをひらいたんだそうだ。ところが、お釈迦さまがいたのはインドだ。インドには菩提樹はない。すくなくとも、お釈迦さまの昔には、あたりまえにはなかったはずだ。あるのは、クワ科イチジク属のインドボダイジュという常緑樹だ。いわゆるふつうの落葉樹の菩提樹とは、てんでまったく別の種類なのだ。 名前のつきかたからすると、たぶん、西洋の菩提樹のほうが先にあったのだろう。西洋人がインドを侵略してみつけて、インドボダイジュを見て、勘違いして、ボダイジュと呼んでしまって、それが定着したのかもしれない。インドにはインドの名前があるだろうに。それがいやだとしても、天下のお釈迦さまゆかりの樹なら、ちゃんとした名前をくふうして訂正して、新しくもっとふさわしい名前をつけてやればいいじゃないか。まるで、わざと勘違させたがっているみたいな話になってしまっている。 シューベルトの歌曲にも『菩提樹』がある。けっこう有名なクラシック曲だそうだ。原題はドイツ語でLindenbaum§リンデンバウム§、直訳すれば、セイヨウシナノキだ。ほら、まただ。ここでも、妙なことがおきている。菩提樹は、菩提樹じゃない。菩提樹だってシナノキ属のうちだから、インドボダイジュ問題にくらべればすこしはマシといえそうな気もするが、でも、やっぱりへんだ。そんなに遠くはないけれど、やっぱりちがう。別物だ。日本で曲のタイトルをつけるときに、誰かが、よりによって菩提樹っていう名前をえらんだ。ほんとうはリンデンバウムなのに。セイヨウシナノキなのに。強引に、菩提樹だって言い張って、そういうことにしてしまった。なんで? まぁ、セイヨウシナノキっていうのは、そんなに有名なものじゃないし、なんとなく長ったらしいし、説明っぽいし、いまひとつかっこよくない名前だって思ったのもしれない。歌曲だそうだから、もしかすると日本語で歌うときに、音の数で、ボダイジュ、がぴったりだったのかもしれない。 けど。 それにしても。 へんだろ? 菩提樹って、へんだ。 ボダイジュはボダイジュじゃない。菩提樹じゃないものが、いつのまにか、菩提樹って呼ばれる。別のものと混同され、勘違いされる。まるで、わざとみたいに。違法にほんもののふりをするコピーみたいに。 なぜ、そうじゃないものを、わざわざ菩提樹と呼んだりするんだろう? そんな必要がいったいどこにあるんだ? 菩提樹という音の成分に、へんな作用があるのかもしれない。本物じゃないものをひっぱりこんで合体しちゃうとか。自分でないものをとりこんで、吸収するとか。なにか、ふしぎな作用や、ちからや、魔法をひめた名前なのかもしれない。 「人間じゃない」 ヒロシの言ったことがよみがえってくる。 人間にしかみえないのに、人間そっくりなのに、ほとんど同じなのに厳密には人間じゃない。そんな存在がありうるとでもいうのか。人間じゃないなら、じゃあ、いったいなんだっていうんだ? きれいな女のひとが何人もいるというその『菩提樹』もまた、ほんとうの正体や姿を隠してごまかしているのではないか。ほんとうは、それは、なにか、「菩提樹ではないもの」なんじゃないか。 でも、なんのために? いったい、なぜ? 考えても、考えても、こたえなんかでない。 スミカって名前だったらしいあの子のあの猫みたいな目に、ちくちく爪弾かれているような気がした。 おまえには関係ない。だからわからない。わかるもんか。わかってたまるか。わかちなくていいんだ。 あきらめろ。あきらめろ。 あっちいっちまえ! すれちがって去っていくとき、ふわっと流れた髪。 歩いていく背中のランドセル。 何百年もの年齢をかぞえた魔女のような瞳。 あの子が、もしかすると、ひどい目にあうかもしれない。いまにも、お金持ちのおとなたちの邪悪な欲望の贄になってしまうかもしれないとは! 笑ってもいい。そう、パパは義憤にかられた。たぶん少し恋に落ちていたのだ。 いてもたってもいられなくなった。だから、思い切って菩提樹に出掛けてみることにした。最初はヒロシをさそった。おまえだってほんとうのことを知りたいんだろう!? あの森の秘密が見れるものならみたいだろう、と説得して。 自転車に乗って。野球のボールとグローブと、バットをカゴにいれて、ぼくらはでかけた。もちろん、あれだ。うまいこと敷地内にボールを放り込んで、すみませーん、ちょっと取らせてくださーい、ってやつをやろうとした。引っ越してまだ日の浅いぼくなら、立入禁止の場所だとは知らなかったのだと無邪気に言い張ることもできるだろう。なにしろ問題の場所はあまりに濃い森で、とうてい誰か個人の住居とは思えない。公園だと思っていたのだと言い張れば通ると思った。 菩提樹の森はそれほど広大で分厚かった。周囲をめぐる道路を自転車でまわってみたけれど、まったくとりつく島がなかった。建物はおろか、塀や門すら確認できない。崖や丘や岩や生い茂った樹木がじゃまになって、すっぽり隠されてしまっているのだ。それに、残念なことに、そこらにはキャッチボールにふさわしい広場もまったくなかった。丘の麓から、樹木の間をぬって急な坂を登っていくただ一筋の道があるだけ。車が一台とおるのがやっとのような、いかにも余所者ははいってくるなと言わんばかりの細い通路があるだけなのだ。しかもその道の入り口には金属のゲートがあって、ごていねいにも「私道、立入禁止」という札がたっている。 計画ははじめもしないうちに頓挫した。しょうがないから、その付近で、自転車のチェーンを直すふりで何分か待ってみたが、誰も通らない。うわさのリムジンだかロールスロイスだかもこない。なんの気配もしなかった。 ヒロシはいまひとつ気がすすまないようだった。最初はへんにはしゃいでみせていたが、どうやら、少し怖がっていたのだった。いったろ、親切なやつだから。ぼくのためにいやいやつきあってくれていたが、後悔しているのかもしれなかった。なぁ、もういいんじゃないか、そろそろかえらないか、と何度もいった。たぶん、菩提樹に近づきすぎているこんなところを誰かに見られたらどうしようとびくびくしていたのだろう。 この土地に根付いた人間であるヒロシは、地域のひとたちから後ろ指さされるようなことはするわけにいかないのだ。根無し草のぼくとはちがって。彼は、菩提樹の邪悪に、染められるわけにはいかないのだ。 ぼくらは三四十分をむだについやした。けっきょく、なんにもおもしろいことなんかなかった。まったくばかみたいだったね、と、言いながら家にかえった。それぞれの家に。じゃあ、また明日学校でな、といって手をふって、そして、パパはひとり、日を改めて出直す決意をかためていた。ヒロシをまきこむのはやめた。ひとりじゃキャッチボールはできないから、こんどは昆虫採集用の網を持っていこう、と。 土地勘だけはすこしはできたから、適当なところで乗り捨てた自転車を木立に隠し、例の坂道の横の斜面を徒歩で登った。野良猫かなにかが通うような、けもの道と言えないこともないような踏みあとが、ほんのかすかにある道を。足をかけると、土がどんどんくずれてしまったりする。膝や手を汚し、草っぱにつかまり、無理やりのぼった。すると、いつの間にか例の鉄壁のゲートのあたりを通過していて、舗装道路に降り立つことができた。 菩提樹の敷地にはいったのだ。 初夏で、町はもうかなり暑かったけど、森は濃く、暗く、ひんやり涼しかった。別世界みたいだ。虫の声と、鳥の声と、風が吹くときに枝がさやさやいう音ぐらいしかしない。とても静かで、自然のまっただなかだ。なかなかどこにもたどりつこうとしない道を、もっとたどった。とにかく、登って登って、登った。疲れて足を留めたときに振り返ってみると、町が見えた。屋根屋根は陽炎に霞んで、ひどく遠く感じた。 大丈夫、帰りは下りだから。戻りたくなったらすぐだ。まっしぐらなんだから。こがなくていい、自転車なら一瞬だ。自転車までもどるルートをまちがえるな。ちゃんとおぼえておけよ。自分に言い聞かせながら足を励まして登り続けていくと、ふいに頭の上に、ひらり、となにかが見えた。捕虫網をもってはいたが実際には別にさがしてもいなかった蝶が、じぶんから翅をひるがえして誘ったかのようだった。 みあげてみた。 高い梢に女のひとが座っていた。 白い、うすい、サマードレスを着て。半分透き通った裾の布地が、巨大なはなびらのようにひらひらしていた。 「こんにちは」と彼女は言った。
「良い子はここにはきてはならんはずなのだが」
重さなんかないかのように、さらり、と枝を離れて、まるで体重などないかのように降りて近づいてくる彼女を、パパは、たぶん、ポカンと口をあけて見上げていたんじゃないかと思う。 そんなものは、それまで見たことがなかった。 あまりに風変わりで、きてれつなので、目と脳が、一瞬、エンストをおこした。自分がいまなにをみているのかを理解するのにひまがかかってしまったのだ。「あっ、そうか!」と思ったら、ふいに、はっきりした。みているものの意味がわかって、そのとたん、目が吸いよせられて放せなくなった。 彼女は、骨や肉からできているのではないもののようだった。ブンブン唸りながらまわる光の粒が、何色何層ものミニサイズのオーロラになって、全身をとりまいている。顔のぜんぶ、頬や額、耳や顎先、そして腕や指、つまり衣服などに隠れていない皮膚からは、きらきらしたものが絶え間なくたちのぼる。お風呂あがりのからだから湯気がたつように。どんどんたちのぼるものは、やがて空気にとける。ときに、シャボン玉ようにはじける。木の葉や、枝や、地面の石ころやそこらにいるちいさな虫ななにかにふれると、キラッとして、ちからづよく脈うつ光になって、ぐんぐん吸い込まれて消えてしまう。光は、そうやって次々に発散しても、さらにまた生まれてくる。あとからあとから生まれて、波になって、帯になって、何度も何度もどこまでもひろがっていく。 いつか、なにかの映画かテレビで、ヒーローが瀕死の重症を負いながらそれを隠して戦いを指揮しているシーンを見たことがある。それを思い出した。ひどい大怪我をして、流血して、破れた動脈をグッと押さえたまま、何食わぬ顔つきで命令を発し、敵を圧倒した。威風堂々振る舞っていた。何シーンかあとにはあっけなく死んでしまうのに。そのときは、気力だけでかろうじて立っていたのだ。そんな姿だ。まるで弁慶の立ち往生。 そういう、なにやら、本来ありえないものがかろうじてあるみたいな感じだ。本来散らばっているものがかりそめにここにかたちになっている、みたいな。ぎりぎりまとまっているけれど、ちょっとちからをゆるめたら、ぱぁんとはじけて、それきり拡散してしまいそうだ。いまにもその瞬間がきてとりかえしがつかなくなりそうだ。守っていないから、とざしていないから、平気でおおらかにあけっぴろげだから、どんどん失っていってしまうのに、いいのか。もったいなくないか。このままではやがてからっぽになってしまいそうなのに、こんなに潤沢にあふれていていいのだろうか。ひとごとながら、心配になる。 ああ、なるほど。 突然、ぼくは思いついた。 人間じゃないって、このことか……! なるほど。無理もない。 ずっとあとで知ったけれど、彼女のその独特のエネルギーの豊穣、世界にむけてひらいている感じ、アクセス可能な窓がつねにあいている感じは、能力の高い“ひめ”によく見られる特徴のひとつだそうだ。 ひめ以外にもままあるらしい。たとえば宗教の教祖とか、大衆をうごかす政治家とかに。こういう種類の波動をうまれつき持つのか、後天的に手にいれるのか、そういうことができるひとも、中にはいるということだ。 絵画や、彫刻で、天女に羽衣が描いてあったり、神様やそれにちかいひとに後光があったりするよね? あれは、たぶん、この、発散しつづけている特別のちからをしめすためのものだと思う。本来はさだまったかたちのないものを、ふつうのひとにもわかるように表現したのだと思う。 その強烈な個性をべつにしても彼女は美しかったけれど。 なにをどう話したか、覚えてない。どこをどう歩いたか、覚えてない。気がつくと、パパはそのひとに手をとられて、森をすすみ、やがて、大きな建物の立派な玄関を潜っていたのだった。まるでうんと小さな子みたいに。親子みたいに。 彼女のほうがずっと背が高かった。2メートルぐらいはあるように感じたが、実際には、それほどではなかっただろう。だが、態度も堂々としているし、顔つきも毅然としているし、大地や樹木とあまりに自然にとけあっていて、慈母神みたいだ。そしてむろん、圧倒的に美しい。 玄関ホールの鏡に一瞬写った自分があまりにもバカみたいに見すぼらしくてこどもっぽくて恥ずかしすぎて消え入りたくなったのを覚えている。シンとした廊下を通りすぎて、明るい大広間みたいなところに案内された。庭に面した一角はサンルームみたいになっていて、ドーム型のガラス天井がとても高くて、さんさんと日が注いでいる。どこもここも静かで高級な雰囲気で、とても緊張した。手伝いのひとが何人か現れて、とがめられるのかと思ったら、にこにこ顔で歓迎された。 植物園のど真ん中みたいなところですわり心地のいい椅子にかけた。彼女はすぐとなりにゆったりと腰をおろした。誰かがお茶をいれ、甘いものをだしてくれた。お菓子を食べ、冷たいものを飲んで、気分が落ち着いてようやく、目的を思い出した。あわてて喋りだした。なにしろ言うだけいってみなくちゃと思ったから。 小さな女の子が公園でたばこを吸っていた。勘違いかもしれないけれど、そう見えた。心配で、ひとにきいてみたら、こちらのスミカちゃんというお子さんなんじゃないかといわれた。ほうっておいてもいいのか心配だ。だれも注意しないなんて、ひどいと思う。 やっとのことにそういった。 ほんとうにいいたかったのは別のことだ。 知ってますか、あなたたちは、「人間じゃない」なんてひどいことを言われてるんですよ。あのスミカさんだって、だから、みんなに無視されていたんです! でも、そんなこと、とても口にだしていえなかった。 おせっかいすぎるし、失礼すぎるし。自分はあまりにこどもすぎる。 パパはどうしていいかわからなくて、混乱して、そんな自分が恥ずかしくてたまらなくて、首をうなだれて、顔を胸にうめた。 もう、息をするのも苦しかった。 これ以上、緊張したら、心臓が破裂してしまうと思った。 例の大きな女のひとはまじめな顔つきで、時々うなづきながら聞いてくれたけれど、あとから思うと、たぶんニヤニヤ笑うのを我慢していたのだと思う。話が一段落したのに気付くと、ふうっ、と息をついて、姿勢をくずして、 「かたじけない」 と、言った。 「そなたの気病みはわかった。スミカは我が姪である。その件について、どのようにとりなすべきであるか、よく考えてみることにいたす。機会がありしだい、周囲と、またあれとも、よく話しあってみよう」 彼女の話しかたは、ちょっと奇妙だった。小学生の姪っ子のいる年頃の、つまり、おばさんというような立場のおんなのひとにしてはずいぶん堅苦しくて、厳めしくて、まるで、正式な文章にするために書記にかきとらせなきゃならない種類のせりふみたいだった。よその国からきたばかりのひとが、いっしょうけんめい練習したことばを、できるだけきちんと話そうとしているみたいでもあった。 そうしてくださるとうれしいです、とぼくは言い、じゃあ、どうも、突然おじゃましました。立ち上がって帰ろうとした。はたさなくてはならなかった用件はもう無事にすんだのだから。 「待ちゃれ。そなた、名はなんという。聞かせて欲しい」 「星野です」パパは面食らったけど、嘘はつけなかった。「ほしのまことです。星に、野原の野に、信じるのシン」 「ポチの?」 彼女は、ああそうか、というような顔をした。 「なるほど。そなたはポチか。ポチだったのか」 誰かがたまらず笑い声をあげた。すると、みんながどっと笑った。 もし、あのとき、ぼくがもう二、三歳年がいっていたら、すべては変わっていたのかもしれない。なにを失敬な、って、腹をたてたかもしれないから。もっと大人だったら確実に、あまりの無礼と非常識にあきれはてたろうし、ひどい屈辱だと感じて憤慨して、彼女や彼らのことを嫌いになったかもしれない。二度とここにこようとしなかっただろう。 菩提樹には、いっさい、ちかづかなかっただろう。 けれど、そうではなかった。そうはならなかった。 ポチって呼ばれたことが、(いま思うとちょっとふしぎなぐらいなんだけど)あのときのパパにはぜんぜん不愉快じゃなかった。 なにしろ何重にも現実ばなれした経験だったからな。なんだかふわふわした雲の中の世界にでもいるようで、ふつうの感じかたではなかったのかもしれない。そこであったひとたちは、ひとりとして、あたりまえじゃなかった。存在感がへんだった。希薄というより、むしろ、へんに際立っていて、やけに親しい感じがするんだ。絵本やお芝居に出てくるひとみたいに。風変わりで、豪華で、無邪気で。魅力的で。 とても素敵だったのだ。 えへへ、と、ぼくも笑った。 ポチ。 ああ。いいじゃないか。 そうとも、ぼくはポチだ。犬だ。愛犬だ。ペットだ。それがどうした? いやだとは思わなかった。侮辱されたとは思わなかった。むしろ安住を覚えた。 その気持ちは、説明すればこうだ。 ポチはかわいい。ポチなら気にいられる。ここを追い出されたり追い払われたりしない。またあそびに来てもかまわない、 ポチでいれば、幸福だ。ポチになれば、彼女のそばにいられる。ここにいていい。そんなふうに感じたのだ。 もし実際に犬のようにしっぽがあったら、おもいきりふっていただろう。 ぼくは訊ねた。 あなたがたはなんなんです。どういうひとたちなんです? そして……(ポチなら聞ける。無邪気で無害な犬のポチなら。どんなことだって、平気で訊ねることができる)……僕はあなたたちを信じてもいいのですか? 人間じゃないっていうひともいましたよ。そんなの、ばかばかしいと思うけど。ほんとうのところ、どうなんです。それに、ここは、いったい、なんなんですか? ここは菩提樹、わたしはサヨラだ、と彼女は名乗った。 いたってすなおに。いたって純に。 「申し遅れてすまぬ。わが名は加賀見小夜良。ここ菩提樹のひめのひとりで、いまのたばねをまかされている。われらは、はるか砂漠の国より流れきたるハザールゆかりの民。夢の守り人王女アテーの末裔である」 もちろん、ちんぷんかんぷんだった。 けむにまかれているのかもしれなかった。 首をふってたちあがり、出て行こうとすると、サヨラが引き止めた。 「すわりなさい、ポチ。外部のものたちがどう言うているかは知っている。あやしむのは詮ないことだが、われらは卑しきものではない。責務をおい、さだめをはたしているだけだ」 「いったいなんの話です」 「われらは夢を歩く。水を注ぐ」 サヨラがそう言うと、彼女の周囲の空気の中に、幾多の花が生まれて咲いた。透き通って、きらめいて、香った。 「われらはパハのみちすじをたどり、ワグネイの流れを整える。ゴウジョウガンをよみ、バラスがこなごなにならぬよう、モヘイヤとルビヴラをつむぎ、メネマでかがってつなぐ。マナセ、グーム、マタクサス、ポリ、ボレスポス。千年余の昔、われらが母なるひめのひめ、はじめのひめが契った誓いだ。このためわたしは真実をしか話すことができない。もしわざと嘘をつけば血が凍り心臓がとまる」 そう、それがサヨラ。 レイラのおかあさんだ。 マハネ、きみの、おばあさまだ。
☆
ポチは菩提樹にいりびたった(と父はつづけた)。 放課後になれば一目散にとんでいく。休日は朝はやくにでかけ、そこで遅くまで過ごす。家や学校にいる間は脱け殻で、オートマチックなロボットだった。でも、はたから見る分にはあまりわからなかったと思う。このロボットは実によくできていて、両親との日常会話も、授業中の受け答えも、体育の授業やテストでさえ、なんなくそつなくこなしたから。 いりびたって、いったい何をしていたのかって? その質問にこたえるのはむずかしい。特になにもしていなかったような気もするし、こまごまとした雑用をして忙しく立ち働いていた気もする。あそびほうけていたようでもあり、あらゆることを学んでいたようでもある。 サヨラにあいにいっていた? そうである面もなくはないけど、それだけじゃない。サヨラはいそがしそうで、いつもあえるわけじゃないし、つきまとってうるさがられたくはなかったからね。 想像して。正面玄関をはいってすぐは大ラウンジだ。庭に面した壁は一面大きなガラス窓。そのガラスのむこうに、最初に通された植物園みたいなサンルームがある。ラウンジは吹き抜けで、天窓もたくさんあいているから、かなりの広さがあるけれど、すみずみまで充分に明るい。牛一頭もはいりそうなマントルピース、漏斗型の銅がかぶさったファイヤープレイス、西部劇の酒場みたいなカウンター。白いピアノの片隅には四角い小テーブルがならんでて、ときどき誰かがブリッジとかポーカーとかをやっている。大階段の裏側にあたる壁際の一角は少しばかりひっそりとした図書コーナーになっていて、いろんな国のいろんな本がずらっとならんでいる。文字が読めなくても、絵本や画集もたくさんあるから、大丈夫。立派な革の装丁のやたらぶあつい本ときたら、もし理解できたら魔法がつかえるようになりそうだ。そんなもの、そこらの肘かけ椅子に腰をおろして、好きなだけじっくり堪能できる。 この大ラウンジでいちばんめだつのは、なんといっても階段だ。幅が広くて、大きくカーブしながら、上のフロアにつづいている。シンデレラが靴を忘れていきそうなしろものだ。二階は、もちろん、ひめたちの部屋のあるフロアだ。まったく、プリンセスには、階段がつきものなのかもしれないね。この階段は、ひめたちが降りてくるときに、みんなの視線が自然と集まるようにできているんだろうと思う。 ときに、そこを、誰かが、のぼっていく。ひとりで。あるいは、ひめの誰かと、腕をくんで。 そもそも菩提樹はそのためにあるので、階下のこの大きな部屋はいわば待合室、あるいは、エントランスロビーだ。 何度も見たよ。誰かがそこをのぼっていくのを。 杖をついた老人が、ほとんどふたつおりになって手すりにしがみつき、一段ごとにぜいぜい大きく息をつきながら、やっとのことにのぼっていったかと思うと、小一時間後、にやにや笑いをしながら、口笛を吹き、はずむようにスキップをし、さっきのステッキをフレッド・アステアみたいにくるくる回しながら降りてきたりする。見違えるように元気はつらつになってね。 髭面で、いやに体格と姿勢がいい、軍人か警察のひとじゃないかと思うようなひとが、ぴりぴり金気くさい殺気をまとってのぼっていったかと思うと、一転、憑きものがおちたかのようにおだやかなやわらかな顔つきになって、戻ってくるのを見たこともある。ぼくの横でカード遊びをしていた連中が、これを横目でみると、ほうっとため息をついた。これで戦争が回避されたみたいなことをつぶやくひともいた。 訪れてくるのは男性ばかりじゃない。女のひともいたよ。ひどくやつれて、疲れはてて、どす黒い顔をした女のひとが、ひめにあったら、二十歳も三十歳も若返って、見違えるほど美しくなってしまったのを見たことがある。おとなばかりじゃない。たまにこどももいた。包帯だらけでサングラスもマスクもして顔をかくした子がきたときには、ぎょっとして――あまりじろじろみたら悪いと思いながらも――思わず、ずっと目でおいかけてしまった。たぶん小学校の中学年ぐらいだったと思う。両親らしい男女がつきそっていて、階段の上までもついていきたがったけれども、菩提樹のひとたちに、やんわりと止められた。ひとりで行けっていわれて、包帯だらけの子は、しばらく、とまどってた。けど、やがて、決心をして、自分の足でのぼっていった。それからどうなったのか、ぼくは見てない。ぼくがいる間にはその子はもどってこなかった。 ああ、きみに……こころから愛する娘にぜひともわかってもらいたくて、なんとか説明しようとしてこうしてあらためていっしょうけんめい思い出してみると……自分でも驚いたよ。記憶はとてもはっきりしている。あざやかによみがえる。まるで、いま、そこにいないのがふしぎみたいに。そうして、懐かしさで胸が苦しくなる。 どんなに、どんなに、あの場所が好きだったろう! 特になにもしなくても、ただ、あそこにいれてもらえて、あそこの一員みたいな顔をしていられるのが嬉しかった。片隅にすわって、なかなかとけない知恵の輪をひねったり、お菓子をつまんだり、居合わせた誰かれのなんてことのない話に耳をすましていたりするのが、それはそれは幸福だった。 そこには、それまで知らなかった「なにか」があった。 ぼくは、その「なにか」を浴びにいっていたのだと思う。 そこにいれば、なんともいいようのない、ふんわりした気持ちになれた。だから、ただ、そこにいきたくて、そこにずっといたかった。とほうもなく強く。それ以上のことは考えていなかった。考える必要を感じていなかった。 居場所§三文字傍点§だね。 生まれてはじめて、自分の場所を見つけた。そこに所属したい場所、そこに還りたい場所。 だから、夢中になった。 根無し草の転校生で、なにも欲しがらない惜しがらない、すぐにあきらめて、忘れるはずの子が。あらゆるものはうたかたの借り物で、遠からず失われるものでしかないと嘯いていた子が。生命だって、人生だってそうだと、鼻で嘲笑って皮肉っていた子が。誰かを怒らせたり困らせたりしないように、用心深くふるまってばかりで、やさしいけれど空虚でからっぽだった子が。こころがくたびれはてて、いまにもすりきれそうになっていた子が。 ポチになって、幸福を知った。 誰かにすがり、属することの安堵を、懐くことのぬくもりを、知った。 なにしろ、ポチなら、どこにでももぐりこめる。なにかを期待されるということもない。いるだけでいいし、うるさくしなければ、じゃまにもされない。呼ばれたら、したがう。ご主人さまについて歩く。むずかしいことを、自分で判断したり、悩んだり、まよったりしなくていい。 ポチになったばかりのパパは、いわば仔犬だ。だからそりゃもう無邪気に、ほんとうに赤ちゃんみたいになにも考えなかった。ただ、はだかの、ゼロの自分になって、ぽかんとそこにいるということができた。 ふつう、ひとは、そんなになんにもなしのただの個でいられるもんじゃない。なになに中学の何年生、っていえば、そのとたんに、その中学がどの程度で、なんの部活が有名で、卒業生が誰だれで、とかってことと無関係ではいられない。どこで生まれてなにをしてきたか。親はどんなで、職業はなにか。身分にはデータや地位や位置づけがある。十歳でも、二十歳でも、それまで生きてきた道筋ってものがある。 でも、そういうのを、全部脱ぎ捨てることだって、できなくはないんだ。ただの、まっさらな、ピュアな自分になるってこと。できなくはないんだ。 ごたごた考えるのをやめると、気持ちが落ち着く。かたい握り拳みたいになっていたこころがほどけて、ひろがっていく。足りなかった酸素が胸いっぱいにとりこめる。 リフレッシュすると、こんがらがっていたことがシンプルになる。自分にとってほんとうに大切なのはなんなのか、なにが好きでなにがいやなのか、見ようとしなくてもみえてきた。ほんとうに望んでいることと、惰性でしていることの区別がついたからね……。 二階に行ったことはないのかって? あるよ。 あるけれど……それは、またあとで話そう。 二階はお客さんの部屋って感じで、ポチが気軽にいっていいところじゃないなって思っていたってことを、まずは説明しておくだけにしよう。 なにしろ居場所をみつけて、幸福で、とりあえずそれ以上のことは望んではいなかった。よくばりは不幸な目にあうって決まってるし。 もちろん、あの階段をのぼっていけば、きっとまたサヨラにあえて、あのすごい後光みたいなものにもふれることができるんだろうな、と思わなかったわけじゃないよ。でも、それは、目的じゃなかったし、願望ってわけでもなかった。そうするべきときがきたら、きっと、そうしてもらえるはずだって信じていたっていうか。 いろんなことが充分で、それ以上のことを、要求とか、勝手なことをいえる感じじゃなくてね。うるさくして、せっかくのポチの居場所を失ってしまいたくもなかった。 犬はいつもそこらの床に伏せてじっと待つ。大好きなひとがきてくれるのを。声をかけ、にっこり笑ってくれるのを、頭をなでてくれ、散歩にいこうといってくれるのを。人生のほとんどを、なにということをするでもなく、うつらうつら眠りながら、じっと待つのだ。 菩提樹にはおおぜいのひめがいたし、ひめじゃないひとたち、男のひとや、年配のひともいた。 みな、あでやかに美しくて、素敵なひとたちだったよ。やはり羽衣を背負っているし、後光を発していた。サヨラのほど特別強く見間違いようもないほどはっきりしたものではなかったとしても。 もう少し、あの光のことを話しておこう。 光といっても、光じゃないんだけど。 ふつうのひめたちの光程度だと、まず、本人がじっとしているときじゃないとほとんど見えない。それがそこにあると知っていて、注意深くじっとみつめていれば、やがてみえてくるかな、というぐらいのものだ。せわしない動きや、ほかのもっとハデで目をひくものにまぎれると、すぐ見えなくなってしまう。あると知っているからみつけることができるけれど、もし知らなければ気付かないかもしれない……といったレベルにおちこんでしまう。あたりがあまり明るいとよく見えない。ほのかに薄暗いところでじっとしているとき、あまりひとの輪郭に焦点をあわさないようにして、右の耳の横のほうの空間を見ていると、やがて、ぼうっと淡く輝いた層みたいなものが感じられてくることがある。いつもじゃないとしても。かならずじゃないとしても。落ち着いて、うまくやれば、きっとできる。光の層のようなものには、いろんな種類や色合いがある。 赤ちゃんは金色だ。菩提樹にいくようになって気付いたのだけれど、赤ん坊たちは輝いている。そう、ふつうの赤ちゃんだよ。どこにでもいるふつうの赤ん坊たち。泣いていても笑っていても眠っていても。ほとんどどこのどの赤ちゃんも、たいてい、元気で明るいまっさらの金色をしている。生まれつき、よほど具合のわるいところがあったりしたら、ちがうかもしれないけれども。赤ん坊特有のあざやかな金色の輝きがあまりにまぶしくて、ひとりひとりの区別はまだつかない。本人独自の色やテイストがあっても、まだはっきりしない。 逆に、おとなでも、ひどく重い病気にかかっていたり、なにかの中毒だったり、こころが壊れかかっていたりするひとにも、はっきりわかる特徴がある。輝きではなく、くすみや、曇りや、影のようなものがまとわりついているのだ。 死が近づいているひとは、もわっとした灰色のぬいぐるみをかぶっているようにみえる。ひどく古びて弱ったぬいぐるみが、あちこちやぶけて、中身の綿がはみでているみたいな感じ。皮がすごく薄くもろくなっているから、なんともいえない色合いのなかみが、ときどき、ぼとっぼとっと落ちる。崩れほどけてあたりにちらばる。そういうひとのまわりには、落ちたものがひろがり、ただよっている。うっかりそれにふれると、こっちまでやりきれない気持ちになってしまう。 心配事や悲しみに落ち込んだひとは、ぶよぶよしたゼリーのような粘り気のある液体に包まれている。自分で自分をとじこめて、いまにも窒息しそうだ。ため息をつくたび、ゼリーがふえる。涙を流すたび、ゼリーがふえる。世界はゼリーごしにしかみえないから、ぶよぶよゆがんで、耐えがたい。 たぶん、人間は、そんなふうになると、元気がなくなって、周囲とうまくコンタクトできなくなるのだろう。「死相」というのは、そういったものがあまりに強くなって、見えてしまうものなのかもしれないし、「死に神」というのはあの灰色のものとかがとる典型的な姿のひとつなのかもしれない。 ふつう、ひとは、サヨラたちみたいには強く輝いたりしていないけれど、それでも、なにかは発している。もらしている。自分と自分以外の世界はなにかを媒介して、なにかをやりとりして循環している。誰だってそうなんだ。しらずしらずのうちに。 でもその不気味な灰色とかぶよぶよした粘膜とかにおおわれると、体調はくずれるし、精神的にも混乱する。というか、不健康になると、そういうなにかがかぶさってくるのかもしれない。どちらが原因で結果なのか、ぽくにはわからない。いずれにしろ、そういった尋常じゃないもんにくるまれてしまうと、世界から切り離される。ありとあらゆるものから隔絶される。それまでダイレクトにつたわっていたものが、分厚いふとんごしでかろうじてようやっととどくかとどかないか、みたいなことになる。 苦しいし、つらいことだ。 だからできるなら、なにもまとわず、なるべくからっとクリアにして、光の循環をさまたげないほうがいい。 サヨラと知り合って、菩提樹で、彼女たちの明るい渦を何度も見ているうちに、ぼくには、そういうものを見る訓練ができてしまった。いちど、「ああ、なるほど、こういうもんなんだね」とわかってしまえば、それを見るための目とかこころのつかいかたがわかって、はっきりしないものや微弱なものまでちゃんと見つけられるようになったりする。でもね。誰だって、多かれ少なかれ、ばくぜんとは見えたり感じられたりしているのではないかとも思うよ。オーラとか、後光とか……「気」ってことばもそうだよね。 ひめは、その生来持っている光の明るさで、世界に、そして、他人に影響をもたらす。サヨラ級の輝きなら、よほどやっかいなぶよぶよグレイだって、一瞬で吹き払ってしまうだろう。苦しんでいるひと、出口なしの気分においつめられているひとにとっては、まさに神、すくいのみわざ、特効薬、かわききった喉をうるおす甘露だ。 二階にいるひめたちはそんなふうにしてお客さんたちを救っているのだ。なにか特別なことをして治療しようとか救おうとかしなくても、いっしょにいあわせただけで、オートマチックに救う。ぜひとも救ってあげなきゃって決心したなら、なおのこと素早く強力にそうなる。 だからいやおうなしに魅力がある。 素晴らしい奇跡のようなちからだ……! でも、もちろん、良いことばかりではない。どんな素晴らしいちからだって、つかいかたをまちがえればたいへんなことになる。対立するものからみれば脅威だ。許しがたい認められないものになる。やっかいで、憎らしくて、都合が悪い。喉から手がでるほど欲しい、できるものなら、相手じゃなく自分のほうがそれを持っていたい。なのに、自由にならない。口惜しい。腹立たしい。ちくしょう。きにいらない。許しがたい。いっそ殺してやる。滅ぼしてやる。地獄におとしてやる! ……そうなる。 ほしいものがもしきれいな毛皮なら、まとっている獣を撃ち殺せばかんたんに手にはいる。けれど、能力は、ポテンシャルはそうではない。美しい声の鳥はつかまえてとじめこてしまえば歌えなくなる。 だが、英雄、為政者、宗教家、芸術家、民衆先導者、ただの狂人、エトセトラ、エトセトラ、昔から、おおぜいのひとびとが、ひめたちのことを知り、もとめ、かくまい、争い、戦ってきた。自分だけのものにしようとして。敵のものにしまいとして。守ろうとして。滅ぼしてしまおうとして。 菩提樹にいたる歴代ひめたちの生涯は、持て囃され祭り上げられるのと、追い詰められ囚われるのの繰り返しだった。ちやほやされ、要求され、逃げ出し、つかまえられ、殺された。 だから、ひめの周囲には、ひめを守りサポートするものがどうしたって必要になる。 菩提樹には、大勢のそういう身内も暮らしていた。ひめはみんな女のひとなんだけど、もちろん身内には男子もいる。日常のこまごましたことをかたづけるしごとをしていたり、外部から客がくるとき、その対応をしたりする。 セイとロクは高貴なほど美しい若者たちだった。暗がりでは爪先から光の粒がおのずとこぼれて漂いだしてしまうのが見えたから、きっとひめの血すじが濃かったのだろう。どんなに美しくても、ちからの片鱗をみせていても、男子はぜったいにひめになれない。 菩提樹にでかけ、その日はおもしろいといえるほどのなにごともなく、かといってすぐには帰りかねてあてもなくぶらついているうちに館の高いところに天文学の研究施設らしい部屋をみつけたことがある。ドーム状になった屋根の下、円柱形の部屋に、おおきなふるめかしい装置がしつらえてあり、太陽系の天体の運行をシミュレーションできるようになっていた。クランクをまわすと時間がすすんだりもどったりして、ある日ある刻限の天球をあらわす。ぼくが夢中になって火星や土星をあんばいし、好き勝手に配置し、おもしろいかたちになるように動かしていると、「こらこら少年」と声がした。 「そこを直列させちゃあいけないよ。大災害が起きてしまう」 菩提樹のひとたちはみな年齢がわかりにくいけれど、セイやロクは、たぶんあのころ、大学生ぐらいの年頃だったんじゃないかと思う。当時のパパからすると、ちょっとお兄さん、でも、すごくオトナではない、背伸びをして仲間扱いしてもらえたら嬉しいぐらいの年齢のひとたちだ。 「ごらん」 壁をおおう緞帳に隠されていた隣の部屋には、別の縮尺の模型の地球があって、隕石が三つ四つ、グサグサ深くつきささっていた。大気が擾乱され、ハリケーンがあれくるい、黒雲がうずまき、雷がチカチカしている。地球は地軸のまわりをぶんぶんまわりながら、ベーゴマみたいにうんうんうなっている。いまにも爆発しそうだ。 「ごめんなさい。どうしよう、どうしたらいいんです? まだとりかえしがつきますか?」 「そうだね。ためしてみようか」 セイが、蟹を食べるときにつかうフォークをどこからかみつけてきた。隕石をほじくりだし、ぽっかりくぼんであばたみたいになってしまったところをパテでうめた。それから秤や分度器やぼくの知らないいろいろな道具で数字や角度をはかりながら、慎重に惑星たちをうごかしなおした。 ふたりは、あまり口をきかない。目配せと、手振りで、こまかなところまで意志がつうじてしまう。双子なのかな、と思ったけど、それにしてはそんなに似てない。どちらも男装の麗人みたいだ。フリルたっぷりの舞台衣装みたいなかっこうで、たばねた髪がちょっとほつれている。お昼寝からさめたばかりのように。いぶかしげにしかめた眉にその髪がはらりとかかる。熱心だけど、あそんでる。優雅だけど、ゆったり脱力していて、隙がある。静かで、賢くて、植物みたいな青年たち。 作業でちらかったものをほうきで掃き集め、ちりを暖炉にほうりこんで、一件落着。 「よくがんばったね、ポチくん」 「お茶にしようか」 ふたりの暮らす部屋は、館の高いところの突き当たりにあった。廊下に面してドアがふたつ並んでいて、どちらから入ってもがらんと広くて真四角な部屋に出る。正面の壁に縦長の窓がふたつ、左の中央に弓形窓§ボウ・ウィインドウ§、右にはふたつの§屋根窓ドーマー§。ドアの間に間仕切りをすれば、同じ大きさのふたつの別々の部屋にすることができただろう。ふたりいっしょにくらしている、共有の部屋。 どうも、こんにちは、あらためましてはじめまして、と、紅茶で乾杯をした。たぶんはじめてじゃないと思うんですけれど、というと、うんでもほんとうの意味で知り合ったのはこれがはじめてのことだからねとロクがいい、悪いけどきょうまでぽくらきみのことぜんぜん気にとめていなかったから、と、セイもいった。 「ぼくたち、外部のものには、興味ないんだよね」 「そうね。どうでもいいよね」 「けどきみは」 「サヨラのお気に入りだし」 「ポチなんて呼ばれて、いい気になってるようなら」 「とっちめてやらなくっちゃと思ったわけだ」 「けど。いい子だね」 「うん、いい子だ」 「さすがサヨラ」 ふたりの四つの目でじっとみつめられると、落ち着かない気分になった。 もっとお茶をお飲み。お菓子をおたべ。ごほうびにこれもおとり。あれもおとり。よしよし。かわいいね。ポチや、ポチくん。 部屋は高いところにあるのに、建物のそばに高い樹木が何本も覆いかぶさるように生えていたから、日のあるうちに窓をあけていてもあまり明るくなかった。梢を揺らす風がさらさら通って抜けていく。奇妙にひっそりとしている。床の真ん中に古風な寝台がひとつあって、あとは、骨董屋の店内にあるような小卓とか、長椅子とか、クッションとか、風変わりな雑貨が少し。几帳面に片づいている部分と、無造作に散らかしたままになっている部分。なにしろとほうもなく広くて、ガランとしている。羨ましかった。その頃のパパの部屋なんか狭くてチープでしかたがなかったからね。 ずいぶん高いところにあるはずなのに、そして、そんなふうにぽっかり広いのに、あなぐらのような、秘密の隠れ家のような、なんとも気分が落ち着く部屋だった。こうして思い出すと、懐かしさに胸がしめつけられる。あそこに、またいきたい。還りたいよ。あの部屋のにおいを鼻がおもいだす。あそこで過ごした時間はまるでセピア色で、クラシックなアルバムのページのようだ。あの部屋を、パパは、とても好きだった。あそこですごした時間が、とても好きだった。なにしろ中学生だったから、憧れた。やがて年をとったら、彼らのようになりたいものだと思って。 たとえば、話しかた。身につけるもの。シンプルなモノトーンだけれど、妙に品があって、華やかなものたち。白いシャツと黒いズボンというだけなら男子学生の制服みたいだけれど、すべすべ光沢があって、たっぷりしていて、いくら乱雑にあつかっても皺にならない。きっと、生地や片手がよほど上等だったんだろう。 セイは長い前髪で顔を隠し気味にしていて眼鏡をかけていた。ロクは少し癖っ毛だ。だから容易に区別がついたけど、顔だちそのものはよく似ていた。双子でも兄弟でもないらしいことがそのうちわかってきたけれど、血は近かったのだと思う。セイとロクという名前は青と緑だったのかもしれない。クレヨンのようなくっきりとした色ではなく、自然にある色だ。空と草。あるいは海。あるいは地球。 彼らと話していると、時間を忘れた。時おり風の抜けるひっそりした部屋で、床や寝台や寝椅子に陣取って、寒い時はそこらの布にくるまって、僕らはさまざまなことを話した。というか、ほとんど、彼らが話すのを聞いていたのだけれど。 あれを全部覚えていられたらなぁと思う。 「竜のいるところ、宝物あり」いつかセイが言った。「聖なるもののそばに怪物は棲む。だから、ひとは、なんだかおっかなそうなものを見ると近づきたくなる」 「誤解しちゃいけない」と、ロクが口をはさむ。「怪物そのものが尊いわけじゃない。宝物を見つけてすばしっこく近づいただけ。宝のある渦巻きの中心には辿り着けなくて、ごく近いへりをウロウロたむろするのがせいぜいなのさ」 何日かあとで、パパは訊ねた。 「菩提樹はどっち? 怪物なの? 宝物なの?」 ふたりは顔を見合わせ、少し笑った。 「宝物だと思うひともいる。怪物だと思うひともいる」 「怪物を倒せば、宝物が手にはいると思うやつも」
夢を歩くことについても彼らに聞いた。サヨラの役目ってなんなのか、夢を歩くってことが、よくわからなくて、知りたかったから。 そう“ひめ”は、ひとの夢の中を渡り歩く。かわいているところをみつけたら、水をそそぐ。最初はいつもそう説明される。それだけで、わかるひとにはわかるらしい。 どこにでかけてゆくべきなのかは、ゆくものにとってはおのずとわかるのだそうだ。今日はあっちの誰かさんの夢を味見し、明日はこっちのどなたやらの夢に足跡をつけ、それぞれ、ちょっかいを出してみる。 菩提樹のひとたちは、夢というものを確かにあるひとつの場所であるように話す。多くの(ふつうの)ひとにとってはいまだ秘境だとしても、まちがいなく、実在しているのだと。いってみれば、大航海時代前のアメリカ大陸のようなものらしい。確かにあるのに、地続きなのに、行けばたどりつくのに、まだぜんたいの様子がわかっていない、よく知られていない。ただ地球の反対側にあるだけ。 けれど、アメリカだってそうだったわけだし、いってみればすぐわかることなんだけど、実際夢は、正しい航路をとりさえれば、出かけていってたどりつくことが可能な場所なんだそうだ。もちろん行ったきりじゃなくて、無事に戻ってくることだってできる。他人の航跡をたどることもできる。 その昔、砂漠のほうにあったハザールという国のひとびとは、ほとんど全員そこに行き来することができたそうだ。中でもアテーという王女は(サヨラが最初に話した彼女だ)とても能力が高く、夢を歩くコツみたいなものを会得し、ひとびとにつたえ、説明し、おさないものを教育したらしい。そこでどうふるまったらいいかについて、後輩のひめたちに尊い教えを残したわけだ。その国はやがて近隣の大国に攻められ、滅ぼされた。生き延びた少数のひとびとは、ちりぢりになった。世界じゅうに散らばって、それぞれ行った先の国や民族の中にまざってしまって、もうひとつの民としての姿はたもっていないけれど、“菩提樹”のひとびとは、直系の末裔の太いひとすじなんだそうだ。 菩提樹のひめたち、アテーの娘たちは、夢大陸を旅するけれど、同じひめがあっちでもこっちでも目撃されていることに気づかれることはけっしてない。他人の夢の中身を覗き見することなんて、いまでは、ひめ以外の誰にもできたりしないから。 ただし、語ることはできる。ひめに出会ったことを目覚めてからも覚えていて、書いたり、歌ったり、演じたりすることはできる。そんなふうにして生まれた作品がたくさんある。ハザール国の遠い子孫たちは、すっかり血が薄まって知識もほとんど失われてしまって自分のちからではもう自由に夢を歩けなくなっていたとしても、ことさら懐かしく思うのだそうだ。そうして描かれる夢の国のことどもを。 いまのこの世よりそっちのほうが、「むしろほんとう」のような気がしたりしてしょうがないひとたちは、きっと、彼らの血族だ。魂のどこかに、痕跡があるんだ。 でも、もちろん気味悪がったり、不愉快に思うひともある。そんなのばかばかしいとか、なにかのまやかしだろうとか。科学的根拠のないくだらない与太話で、真剣に相手にする価値なんかゼロだと思うひとたちもたくさんいる。現実の生活がキュウキュウしていて、いまこの今日をどう生き抜くかでせいいっぱいで、それ以外のことに目をむける余裕なんてぜんぜんないひともいる。 ぼんやり信じはするものの、でも、自分の夢は自分ひとりのもので、覗き見されるなんて我慢できないな、と思うひともいる。もしほんとうにそんな未開の処女地があるのなら、行ってみたいとか、自分が支配したいとか、征服したいとか。とうてい実現できないことを考えて、悶々としてしまうひともいる。 「でも、だって、夢って、夢でしょう? ただ誰かの頭の中に偶然浮かんで消えていくだけのものじゃないの?」 ぼくも聞いた。 「想起されたものは、すべて発生する」セイは言った。「消えてしまう前につかまえるかどうか、次元空間に表出するかどうか、定着することができるかどうかの些細な違いはあるとしても」 「一瞬でも誰かが空想したら、ほんとうになるってこと?」パパは驚いた。「だったら、世界はガラクタであふれちゃうよね」 「だから歩く。誰かがいってかたづけないと」セイが言いかけると、 「ガラクタでないものなんて、あるのだろうか」ロクが言う。「たとえば生命。生命ははじまればかならず終わる。肉体は衰えて滅び、土にかえる。たとえばこの家。あるいはどんな建物でも。なにものも永久ではない。都市も町もいずれは廃墟になり、瓦礫になる」 それはぼくがいつも考えていたことだったけれど、他人の口からいわれるとちょっと反発心がわいた。 「京都は? 何百年もずっとある。そりゃ、何世紀も前からまったく変わっていないってことはないけれど……それでも、ぜんたいとして京都は京都のままだ。細胞みたいに、少しずつ新しいものと取り替えることで、生き延びているよね」 「大地も動く。アフリカと南アメリカが分離したように」 「そんな規模の話?」 何万年単位なら人類も滅亡する。何億年なら星も死ぬ。国も、文化も、法律も、そりゃあ、なにひとつ確かなものなんてないじゃない。信じて頼っていいものなんてほんとうになにひとつなくなってしまう。 「……怖くなってきた」 「きみは引っ越しの達人だ」とりなすように、セイが言った。「新しいウチにきてすぐは、なにかと気分が落ち着かない。身一つで移動したわけじゃない。家族といっしょだし、もとの家から持ってきたものもたくさんある。それでも新しい環境はなじまない。シックリするまでには時間がかかる。なぜだろう?」 「うーん……なんか、じぶんちみたいな気がしないから? じぶんの気配とかが、まだしみ通ってないから」 「そう」セイが笑う。「でも慣れたとしても、そこにある事物の事実にはなんら変わりはないではないか? ほんとうは、ぜんぶ、借り物のガラクタだ。ただ、ひとの思いだけが、それに色を添える」 そう思うよ。 ほんとうにそうだなと思うよ。ずっと思ってたよ。 でも、そんなのさびしい。いやだ。いやになったんだ。 「菩提樹はずっと前からあるんでしょう?」 「まあ、そうだ。ここ十世紀ぐらいはあるな」 「長いね」 「別の場所で別の時代には別の名前だったこともある」 「このわたしも別の肉体の別の生命だったかもしれないけれど」 双子のようなふたりがいうと、へんな感じだ。 「ポチや、ポチくん。どうした。なにをふるえる」 「そんなに怖いのかい?」 「だいじょうぶ。ここにいれば」 「そんな可愛い顔をすると、たべてしまいたくなる」 「ああそうだよ。もういっそ」
うちの子になっておしまい!
なんとも魅力的な提案じゃないか? 抵抗なんてできるわけがない。 パパはそうしようとしたんだ。すなおにね。ポチは自分のこころにすなおに、ご主人さまのところにいたいと思った。 それを別の角度からみると、「家出する」ことになる。 |
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