yumenooto uminoiro

 

Layla 3

 その日こどもたちは海に行った。

 ――海! 

海はなんと壮大で、美しかっただろう! はるばる旅をしてきた甲斐もあるというものだった。

 レイラはたちまち夢中になった。波打ち際にたっただけで、幸福に満たされた。

 疲れも、痛みも、前の日にあった忌まわしい出来事たちも、早朝のフクちゃんとの気づまりな対決場面もすべて忘れ、あっけなく消してしまうことができた。ああ、ここに来てよかった、こられてよかった。そう思った。

 ひとけのない白い砂浜に静かに寄せる波。淡いエメラルド色の水は、積もりたての淡雪か高価なレース編みのショールの縁のような泡立ちを浮かべながら、次から次へとやって来る。寄せては返す、というけれど、むしろ、寄せて、そのまま溶けていくみたいだ。いつのまにか、どこからともなく、砂にしみこんで消えていく。どの波もどの波もたぶんかなりの負けずぎらいだ。波打ち際の濡れた砂のゆるやかな斜面を、前をいったともだちの波に負けるもんかと駆け登っては力尽き、音もなく吸い込まれてゆく。水は沖のほうにいくにしたがってだんだん青の濃さを増し、キラキラ輝きながらとほうもなく広いブルーの平面になる。ある方向を見ると、きらめきがまぶたにしつこくキスをするので、まぶしくて、ちゃんと目をあけておくこともできない。

 なんてきれいないろ。なんてきれいな場所。

 誰もいない。身内だけ。家族だけ。レイラたちだけだ。見渡す限り、ひとりじめだ。

 ……ざん。……ざん。

 耳をすませても、聞こえるのは波の音だけ。時おり吹く風には、ほんの少しだけ潮の香りがする。

 なんという静けさ。穏やかさ。ゆたかさ。

 幸福のあまり溜め息が出た。

 他のみんなも同じだったのだろう。砂浜を目にしたとたん、おお、とか、ああ、とかうめいたきり、黙り込んでしまった。いつもうるさい双子でさえ。

 そこはまさに夢の場所。レイラのおぼろげな期待や想像を、あっけなく上回った場所だった。

 こんな浜でひと夏まるごと過ごせるなんて! ――最高!

 やがて争うように走り出した双子がたちまち転び、大笑いしながらゴムぞうりを脱いだ。脱いだぞうりを両手に持って、砂を蹴たててまた走りだす。レイラも真似をして、履き物を脱いだ。

 砂は、白くてとても細かい。粒がこまかく、角がなく、踏んでも心地よい。足の裏や指の間がさらさらして気持ちがいい。しかも真夏の太陽のおかげで、ほんのりと暖まっている。確かにここでは裸足に限る。

 目にも肌にも柔らかな砂浜は、なだらかに隆起したり窪んだりしながらしばらく続き、やがて磯に変わる。ゴツゴツした岩が、ブックエンドのようにこの海岸線の右と左を閉ざしている。

 レイラは社会の教科書に載っていた図を思い出した。大地が削れ、砂が堆積して浜になって、やがては埋め立て地になっていく図だ。地面はつねに雨や海に浸食されている。岬と岬に挟まれた場所を湾とかいりうみ§四文字傍点§とか言う。湾曲のわん。わんは、弓なり。陸地に入り込んだ海は必ず緩い円弧を描く。湾の内側の波は外海のそれと比べると圧倒的に穏やかなので、運ばれてきた砂は出ていかず、浜はどんどん遠浅になり、やがて干潟になったり、三角州になったり、灌漑されて農地や工場になったりする……。

 幸い、この浜はまだそのサイクルのごく初期のほうにあるようだ。永遠にこのままでいてくれたらいいのに、そうして欲しい、とレイラは思った。

 浜の端から端までは、たぶん二百メートルぐらいはあるだろうか。ゆっくり歩いても十分もかからずに横断してしまうことができるだろう小さな浜だが、みごとにぽっかりと何もない。だから、遠近感がおかしくなって、一見、はるか遠くまでずうっと続いているように見える。

 何もないとは言っても、打ち上げられた海草や貝殻が、波打ち際にかすかに幾重かの等高線のようなものを描いていたりはする。波がめったにとどかない高いところには、ウニの殻の山や、乾ききって骨のような色になった木がさらされている。ごくたまには菓子パンの袋やジュースの王冠も落ちていたが、波に洗われ風雨にさらされて、ほとんど消えてしまいかけている。そもそも、圧倒的な広さの中に多少のゴミがあってもたいして気にならない。

 一行は浜のほぼ真ん中あたりの奥まって高いところに陣取ることにした。背後がどこかの民家ではなく、雑木林に接するところを選んだのだ。持ってきた荷物を降ろし、水着の上に着込んでいたシャツやサンドレスを脱ぐ。マットを広げ、浮き輪やビニールボートに、もう一度改めて空気を吹き込む。

「ねぇ、泳ぎに行っていい?」ヒトシが聞き、

「どうぞ」ヒロさんが笑う。「けど、冷たいと思うから、よくからだを馴らして。よほど気をつけてちょうだいよ」

「わかってるって!」

 こどもたちはみなきゃあきゃあ言いながら、波打ち際に駆けていった。綱をはなされた二匹の犬も。

海水は冷たく、いきなり勢いよく顔から水に倒れ込んだヒトシがたちまちはね起きて悲鳴をあげる。

「うおー、こりゃ、心臓麻痺だ!」

「さむいー!」

「つべたーい! しょっぱいー!」

 震えながら口々に双子がわめく。ミキヲの浮き輪は怪獣柄、ノリヲの浮き輪には各種スポーツカーがちらばっている。顔にちょっと水がかかると、ギュッと目を閉じて口を歪め、はいった、はいった、いたい、いたい。ああ、もう。うるさいったらない。少し黙っててよ。雰囲気、ぶちこわし。

「ちょっと、みんな! まず、ちゃんと準備体操をしないと!」スミカが叫ぶ。

 レイラはまだ泳ぐつもりはない。だいいち、こんな夢のような景色の中で学校みたいに準備体操だなんて。てんでいかさないわ。

 遠くにある時の海は青に緑に紺色にさまざまな色合いに見えたが、膝のあたりの深さになるところまで行って真上から見下ろしてみると、ほとんど完璧に無色透明なのがわかった。波が寄せるたびに裸足の指の隙間を砂粒がいったり来たりするのが見える。水の屈折で妙に近く見える足はいやになまっ白く、黄色味がかったへんな色だ。マネキンか、死体の足のよう。ほんとうに自分の足なのかどうか、思わず指を動かして確かめたくなる。

 そのままじっと目をこらしていると、からだのすぐそばを、小さな魚たちが群れになって泳いで通りすぎていくのが見えた。

「さかな!」レイラは驚いて叫んだ。「さかながいるよ!」

「どこどこ!」ヒトシがおでこにおしあげていた水中メガネを顔にかける。

 ほら。いる。いくらでも。たくさん泳いでいるよ。なんていう名前なんだろう。メダカがもっと細くなって色が淡くなったような魚たちだ。列になってつうーっと泳いでいったかと思うと、いきなりいっせいに向きを変える。捕まえようとして手をさしいれてみるが、まるで届かない。追いつかない。水中メガネをかけて沈んだヒトシでさえ無理。はじめそうっと、やがて、がむしゃらに追いかけていくと、魚たちは、ひとをからかうように、なにくわぬ様子でサッと避ける。人間ごとき、恐るるに足らんといわんばかりに。まっすぐ立ったままのレイラの脚の間を、平気でするりとかすめて行く。

「……ちくしょーっ!」ヒトシが立ち上がって、水飛沫を飛ばした。「はぇぇッ。つかまんねぇッ!」

 空にはじける水玉が、陽射しにきらめく。一千個のビーズをバラまいたみたいだ。ああ、なんてきれいなんだろう。

 レイラが思わず笑い声をあげると、失敗を笑ったと思ったのだろうか、ヒトシがプッと頬をふくらませ、いまにみてろよ、きっと捕まえてやるからな、タオルか手ぬぐいかなんか持ってくりゃいいんだ、ブツブツ言いながら沖に向って歩いてゆき、やがて、とぽん、と肩まで入って泳ぎ出した。

 ふうん、ヒトシ、うまいじゃない。平泳ぎ、できるんだ。あたしも、やってみようかな。

 波がしょっぱい。泳いだら目にしみるだろう。水中めがね、欲しいな。

 海の水の冷たさには、少しずつ慣れてきたかもしれない。

 裸足の足裏がくすぐったいのを我慢して、しばらくそのまま立っていると、足の親指のあたりから踵めがけて、少しずつ海底に溝が掘れていく。ずうっとずうっとそのままここに立っていたら、足が埋ってしまうのだろうか。

 まるで海に生えてるみたい。

 波の間に間によろめきながら、そこからにょっきり木のように生えてそのままにこにこしているところを想像してみる。けっこう悪くないかも。レイラはその場にしゃがみこむ。もう大丈夫かと思ったのに、やはり水はかなり冷たくて、ゾクッゾクッと震えたお尻に、おろしたての水着の布に、ほんの一瞬だけためらってから、海水が徐々にしみてゆく。

 海に入っている部分を濡らしおえると、水は、水着をつたって、じわじわと胸のあたりまで這い上がって来た。レイラは浅い海の底にぺたりと腰をおろしてしまうことにした。すこし冷たいけれど我慢できないほどではない。包帯にも海水がしみて来る。火傷はもうほとんど痛まない。だいたいこんな包帯なんておおげさだったのだ。じゃまくさいな。ゆるんできたら、とってしまおう。

 海底に座り、両手で水底の砂をつかんだ。ざらざらしている。とがったところもある。貝殻のうんとうんと細かくしたやつみたい。肩まで海につかったかっこうで、見回してみる。

 海はあくまで穏やかで、空はいくつかの雲を浮かべて真っ青、しかも、そこには、自分たち以外、誰もいない。まるで菩提樹のこどもたち専用の海だ。誰にもわたさない、秘密の海。

 ああ、海。

 両手をそっと伸ばし、うつぶせに浮かんでみた。学校のプールと違って、塩素のイヤな匂いがしない。浮きやすいのは、塩水が真水より密度が高いから。

 ああ、海。なんてすてき。確かに、天国って、こういうところなのに違いないわ。レイラは思う。だったら、天国にいくのも悲しくない。

 浮かんだまま、そっと手をかいてからだを回した。ヒロさんがフクちゃんに命じてパラソルをたてさせている。そう、フクちゃんも一緒なのだ。なにせパラソルとビーチチェア、ヒロさんの化粧ケース、さらには、みんなのおやつや飲み物などの入ったバッグも持ってこなければならなかったのだから。男手は必要だ。

 パラソルの真っ白いキャンバス地の布は、緑濃い潅木の森からくっきりと浮き上がって見えた。風が吹くと布の端のほうがハタハタとなびく。

 二つ立てるらしい。残り一本のパラソルの支柱を地面に突き刺す時、フクちゃんの上腕の筋肉が陽射しを反射してギラリと光った。倒れないかどうか、ちょっと揺すって確認すると、フクちゃんは、ふたつのパラソルの下にビーチチェアを並べておいた。バスタオルを広げてはたいて、そっとかける。ヒロさんは、ありがと、と会釈をして、そこにゆったりと横になった。まだ泳ぐ気はないらしい。

 そのヒロさんのところに、水着姿のスミカと、裸の上半身をバスタオルですっぽり包んだかっこうの双子が大股に近づいていく。双子はなにか不平をこぼしている時の例の哀れっぽい顔付きだ。がたがた震えているところを見ると、寒いとか、塩水が目にはいって痛いとか、なんかそんなことだろう。

 スミカがなにか言い、ヒロさんがふたことみこと返事をし、それから、フクちゃんのほうをむいて、なにか言った。フクちゃんは黙ってうなずいたようだ。バッグをさぐり、ナイフのようなものを出す。

 なに? レイラは思わず起き上がった。海の中にトンビ座りをしたまま、息を飲んで見詰め続けた。

 雑木林の中に無造作に入っていったフクちゃんが、折れた枝を二三本引きずって戻って来る。砂浜にあぐらをかいた双子が興味津々のぞきこむそばで、ナイフで枝を払い、こまかくする。パラソルの横、少し風下のほうの砂の上に、枯れ木の山ができた。

 なぁんだ、焚き火をするんだ。レイラは思い、また海の中に座った。きっと双子が寒がったからだ。確かに、ここの水は冷たくて、漬かっているとからだがどんどん冷えていく感じがする。入っているうちはまだいいけど、あがったらブルブルきちゃいそうだ。

 フクちゃんは荷物を探り、自分の胸や短パンの尻のあたりを叩いて、途方にくれたような顔をした。ヒロさんが寝そべったまま、自分のバッグを探り、黙ってライターをさしだす。フクちゃんはうやうやしくそれを借りたが、何度炎を近づけても、枯れ木にうまく火がつかない。フクちゃんはひとことなにかヒロさんに言って、歩き出した。シャツの背中が汗で張り付いている。

 そこまで見張って安心したので、レイラは仰向けになり、両手両足をいっぱいに伸ばした。波がからだを揺する。空が揺れる。青い空。昼間の空はなんて明るくてあたたかなんだろう。夜の空とは、ぜんぜん違う。

 フクちゃん、きっとあきれてるに違いないな、と思う。あたしたちが、自分じゃなんにもできないから。次から次へと用事を言い付けるから。だから、ますますムッとして、不機嫌そうな顔をして、余計に口をきかなくなっているのかもしれない。

 そんなにいやなら、やめればいい。他のひと、もっと愛想のいいひとと、変わってくれればいいのに。

 “菩提樹”から、誰か、若い男のひととかがついてきてくれればよかったのに。

 溜め息をひとつ吐くと、そのわずかな振動で、ちゃぷちゃぷと波が生じた。手の中に握っても水は指の隙間からいくらでも零れてゆく。

 レイラたちが朝食(牛乳をかけたコーンフレークと、缶詰のフルーツだけだった。それが水道の水を極力使わないためだということを、他の子たちは気づいていないはず)を摂っている間じゅう、フクちゃんは風呂場のあたりでトンカンざばざば音をたてていた。あんなに何度も往復して運んだ水は、やっぱり、ぜんぶ捨てて、改めて汲み直さなきゃならなかったようだ。

 とすれば、フクちゃんが朝からむだな労働に疲れさせられたのの半分ぐらいは直接的にレイラのせいだ。レイラがあんなにぐずぐずしたりせず、最初から声をかけていれば、少なくともバケツふたつ×三往復分ぐらいは、水を無駄にしないですんだのだから。

 そう思うと、自分の勇気のなさが、ますます情けなくなってくる。まるでわざと意地悪したみたい。ひどいことをしたくなんかなかったのに。悪感情、持ってもらいたくないのに。

 あのひと朝ごはんはどうしたんだろう。うちに来る前にちゃんと食べただろうか。おなかへってないだろうか。おなかがへってると、人間は、余計に怒りっぽくなるものだ。あんなにたくさん入ってくるフナムシを、いったいどうしたのか。ちゃんとうまくいったのか、今日からは安心してお風呂に入れるのかどうか。訊ねたいことはたくさんあった。

 でも、とても近づけない。怒ってないって、わからないうちは。

 ごめんなさい、ありがとう。

 言えればいいのに。

 はやく仲良しになって、信じても大丈夫だって思えたらいいのに。口に出して言わなくても、通じればいいのに。

 レイラは少し水を蹴った。背泳ぎはらくちんだけど、腕をちゃんと動かすと顔に飛沫がたくさんかかるのがキライだ。プールの水でもイヤなのに、しょっぱい水だとすごくしみる。

 ヒロさんはなんだってあんな変なひとを雇うことにしたんだろうな。もうちょっと、感じのいい、親しみのもてるタイプのひとはいなかったのかしら。ダンマリさんより、あの何を言ってるのかわかんないお爺さんのほうがマシだ。少なくとも、フクちゃんのように怖くはない。でも、あのお爺さんには、毎日バケツに何倍も何往復もの水汲みなんて重労働は無理かしら。

 そもそもフクちゃんって、ふだんは、いったい、なにをしているひとなんだろう。いったい何歳ぐらいなのかレイラには見当もつかないが、スミカにいわせると、三十歳にはなっていないはずだそうだ。網元さんのところのひとだっていうから、船乗りさんなのかしら。お魚を捕るしごと? 慣れたしごとを無理に休んでるんだろうか。“菩提樹”のこどもたちの面倒をみるために。それって嬉しいことなのかしら。それとも、イヤイヤしょうがなくなのかしら。自分からやりたいって言ったのか、誰か偉いひとに選ばれたからなのか。他の仲間のひとたちにどう思われてるんだろう。船で働くよりラクチン? それとも、余計な苦労? 誰かに、からかわれたり、うらやましがられたり、妬まれたりするだろうか。たったひとり、いつもの仲間からはぐれて、気の毒かもしれない……。

 ふと目をやってみると、そのフクちゃんがもう浜に戻っている。海底に座って見物する。どうやら、どこか近くに行って焚き付けにするものをもらってきたようだ。新聞紙か、タドンか何か。丁寧に準備をした焚き火は、こんどはあっさりうまくいった。ボッと灯った小さな火が、煙をあげる。あがる炎にたてかけるようにした何本もの生木から、しゅうしゅう白い湯気のようなものがさっそく立ち上りはじめた。

 双子がわざと焚き火に近づいて、白い煙に頭をつっこんでは、煙がってきゃあきゃあ叫んでいる。濡れた背中にはおったバスタオルが大きすぎて、踏んづけて転んでしまいそうになる。危ないから近づきすぎちゃだめよ、そんなにはしゃがないで。双子が放り出した浮き輪を拾いながらスミカが言う声が、風になかば千切れながらやっと聞こえた。

 ヒロさんはパラソルの下に置いた寝椅子に仰向けになって、じっとしている。ヒロさんのサングラスがきらりと日光を反射する。女王さまのお昼寝。時間はたっぷりあるのだから。

 そう。時間は目の前にたっぷりと横たわっている。

 なにをしてもいい、なにをしなくてもいい時間。海に抱かれていればいい時間。

 そういえば、わたしはこの浜の名前を知らない、とレイラは思う。

 電車でふたつみっつ行った先の別の駅には、浄土が浜という名前がついているんだそうだ。浄土というのは天国のこと。たぶん、そこも、こんな感じにきれいなのだろう。

 天国みたいと名前がつくほど有名な浜にはもっとおおぜいのひとが行くのだろう。なんでもこの地方の小学校はまだ夏休みに入っていないのだそうだ。だから、土曜や日曜になったら、きっとじもとのこどもも遊びにくるのだろう。でも、いまは、ここなら、見渡す限り自分たちだけ、よそのひとがひとりもいない。週末もあまり混まないといいけど。

 レイラは上体を倒し、海底をそっと蹴って、また仰向けに浮かんでみる。頬に日光があたる。波がキラキラして、とてもまぶしい。

 波はいくつ来てもそれで終わりということはない。みんなはりきり屋で、負けず嫌いで、ともだちの波を追いかけて、追い越して、追いつめて、自分こそ一番高いところまでたどりつこうとする。

 いまはいま。

 このいまがいま。

 レイラは自分に言い聞かせる。

 誰がどうだろうと。

 明日や、明日の明日がどうだろうと。来年や、再来年や、遠い将来がどうだろうと。

 いまわたしはこのいまにいて、確かにいて、とても幸福だ。そう感じてるこのいまがいまなことが、とても嬉しい。いまはまだ続く。しばらくは続く。この素敵な気分のまま。とことん、居続けよう。いまを感じつくそう。

 ……いつ、なにが起こってもいいように。

 あの時、あんなにも幸福だったということを、いつでも確かに思い出せるように。

 記憶は宝物だ。誰にも取られない、盗まれない宝。しまっておけばあとでいくらでも取り出せる。幸福な記憶をたくさん溜めたいと思う。嬉しい楽しい記憶が充分にたくさんあったなら、悲しいことやつらいことがあっても我慢できる。あれがあったじゃないか、またあんな時があるかもしれないじゃないかと、縋りつくことができる。

 目を閉じて波に揺すられていると、いつの間にか、あまり幸福でないほうの記憶が蘇ってきた。

 海に来る前、百貨店の水着売り場で、たくさんかかっている中からどれでも好きなものをと言われてレイラが選んだのは、青くて縁のところに白いパイピングがついているワンピース型の水着だった。学校で着ている水着から、あまり遠くないものに思わず手が伸びてしまったのだ。

生地は伸びのある化学繊維で、しっかりと厚く、頑丈そうだった。だが、ハンガーからはずしてはじめて気付いたのだが、それはホルターネックで、背中がまるごと剥きだしになるほど大きくくれたものだった。おまけに、胸のところが大きくでっぱっている。裏についている肌色のパッドが妙にとんがっているのだ。おかげで、中身がなくても、誰も着ていなくても、おとなみたいな、バービー人形みたいな、ぽこんぽこんとふたつ突き出して強調したような格好になる。

 うわ、こんなのダメ。恥ずかしい。あたし向きじゃない。レイラはあわてて掛けてあったところに戻そうとしたが、いいじゃないの、さわやかっぽくて。横にいたスミカに言われたのだった。ジャンセンね。ほら、このマーク。きちんとしたメーカーよ。とりあえず着てごらんなさいよ。

 試着室には注意書きがあった。水着は、下着の上からつけてください、というのだ。パンツを履いたままで水着を着るのは生まれてはじめてで、おまけに水着のその部分にはぴらぴらした透明なビニールのようなものが張ってあり、なんとも言いようのない妙な感触がした。水着のほうが下着よりずっと小さくてぴったりしていているから、足のつけねの部分から白い木綿が大きくはみだしてしまう。ものすごくへんで、みっともなくて、他の誰にも見られていないとわかっていても顔が赤らんでしまった。

 ボタンホールがきつく、後手ではどうしても止められなかった。首の真後ろにある大きなプラスチックのボタンをはめておいてから無理やり頭を潜らせて、なんとか着ることができた。すっかり息が切れて汗をかいた。おまけに、からだのあちこちが赤くなってしまった。生地が乾いてザラザラしていて、腕の内側などの柔らかいところをひどく擦ったのだ。

 カーテンに囲まれた試着室の鏡の中には、大人の女性ようなみごとなおっぱいをして、青いVの字型から下着の端をのぞかせて頬や腕を赤く腫らしたなんとも珍妙でみじめな格好の自分が映っていた。

 これはひどい。ひどすぎる。レイラは悲しくなった。けれど、こんなに汗をつけて擦ったりしてしまったんだもの、イヤでもこれを買ってもらうしかないではないか。

 どう? ちょっと見せて。

 スミカがカーテンに手をかけていまにもあけそうになったので、レイラはあわててしゃがみこんだ。

だめっ、見ないでっ、悲鳴のように叫んでしまった。

 じゃあ、見ないけど。サイズあってんの?

 たぶん。

 じゃ、これも着てみて。スミカはカーテンから、黒っぽい布のかたまりをつきだした。こっちのほうが、あんた、似合うかもしんない。

 そちらはビキニというほど布地が少なくはなかったが、おへそが見える程度には上下セパレートになった水着だった。上は、短いランニングのようなかたちで、全体がゴムシャーリングになっている。胸の裏側にあて布はあるが、幸いにもそう極端に飛び出したりはしていない。下はたっぷりしたパンツに超ミニのフレアスカートが重ねてあるかたちだった。自分の見つけた青いのよりずっと柔らかな生地で、着やすいし、着心地がいい。黒地に刺繍の赤い花模様が飛んでいるが、花のひとつひとつがほんとうに小さいから一見ただの水玉のように見える。シャーリング部分では、それがくっつきあって、また違った感じに見える。上品で女の子らしい、可愛い水着だ。なんといっても、スカートがついている。少々油断をしても、お尻が見えないということだ。セパレーツだけど、不良っぽくない。実のところ、トイレにいく都合からすると、そのたびにいちいち裸にならなければならないワンピースよりも、セパレーツのほうが便利な気もする。短いプール授業などではなく、一日海にでかけているなら、トイレの心配はしなくてはならないだろう。

 どう考えてもこっちのほうが良い。

 さすが、スミカは見たてがうまいなぁ。レイラは感嘆した。こんなことなら、最初からスミカに任せておけばよかった。

 でも、汚してしまったこの青いほう、知らん顔して売り場に戻してしまったりしていいんだろうか……。

 

 そういうわけでレイラは幸福の絶頂であるはずのいまのいま、他ならぬその青いホルターネックの水着を着ている。あまり好きになれなくて、できれば、やめておきたかったほうを。

 こっちにする、と言うと、スミカは明らかにムッとしたのだった。ふうん。それが気にいってんなら止めないけど、黒いほうも買っとけば? と言った。あたしたち、ずっと海なのよ。毎日泳ぐ。せめてもうひとつないと、お洗濯が困るじゃないの。わたしはふたつ買ってもらうつもりよ。

 いい。だいじょうぶ。スクール水着もあるし。

 レイラが答えると、スミカはメダマをぐるりと天井のほうに回し、あんたの強情はいまにはじまったことじゃないけど、というような意味のことを口の中で小さく言って立ち去った。自分の水着を選びに行ったのだ。スミカは、六つも七つも試着をして、決めるまでずいぶん時間がかかった。

 ヒトシは水着の他に、水中めがねとアシヒレを買ってもらったし、「みんなで乗って遊ぶ用」のビニールボートも買ってもらった。双子は浮き輪と、水鉄砲と、お砂遊び用のちいさなバケツやスコップも買ってもらった。あんまりすごい荷物になってしまったから、電話で迎えを呼んで、外商係のひとに駐車場まで荷物を満載したカートを押してついてきてもらうことになったぐらいだ。

 みんな、あれこれたくさん買ってもらったのだから、自分だって遠慮などせず、もうちょっと勇気をだして、ほんとうに欲しいものをさがせばよかったのじゃないか。なんでも好きなだけ買ってもらえばよかったじゃないか。そうも思うが、みんながあんなに散財させてしまったのだから、せめて自分ぐらいは我慢して、ヒロさんを無駄遣いさせなくてよかった、とも思う。

ふたつの気持ちがどちらも同じぐらい強くて、どちらも相手側を「バカみたい」と思っている。そうして第三の気持ちもある。正反対の気持ちふたつにいつもいつも引き裂かれていて、いまさらもうしかたがないあとあとになってまでぐずぐずああでもないそうでもないと後悔ばかりしているのは、まったくばかみたいだという気持ちだ。いったいどうしていつもこんなふうなんだろう。そうして益体もなく考えこんでしまうあんたは、結局とってもみっともないし、イヤな子だよ。あんたみたいにウジウジしないで、素直にはしゃいで喜んぶことができるひとたちのこと、ねたんでいる。そのくせ、内心では、そういうひとたちより自分のほうが上等だと、オリコウだと思いたがっている。ほんとうはみんなみたいになりたいのに、そうじゃない。そうできない。ひねくれもの。カッコつけ。

 点滅する。

 レイラは思う。

 わたしはいつだって点滅している。

 蛍光灯のずっと点いているように見える電灯は、実はものすごい速さでついたり消えたりしているものなのだそうだ。気持ち一、気持ち二。気持ち三。あたしはついたり消えたりて、のべつまくなし点滅している。出たりひっこんだりする自分のどれかひとつに決められない。安定しない。

こんなふうに点滅しなくてすむひとたち、もしかすると、点滅することがあっても、そのことをあんまり気にしてないだけかもしれないけど。そういうひとたちを、いつもいつも、なんて羨ましいんだろうと思っている。羨ましいのと恨めしいのは違うんだろうか?違うよね。

 パンツ抜きで着てみれば、この青い水着もまずまずだった。ただ、ホルターネックがいっかな長すぎる。水に入ると生地が柔らかくなり、ゆるんでくる。余裕があるのだから、多少成長しても着ることができる、来年も、もしかすると再来年も使えるだろうが、なにせホルターネックだ。ちょっと屈むとゆるんで、横から胸がまるみえになりそうなのだ。いかにもまずい。うかつだった。こんなすいている海で、身内しかいないからよかったようなものだけれど、帰ったらさっそくお洗濯をして、少しつまんで縫うか、新しくもうひとつボタンホールをあけなくては。

 そんなお裁縫が、自分でできるだろうか。マツエさんに頼んだら迷惑になるだろうか。なんでそんな面倒なものを買ったんですかって叱られちゃうだろうか。もう着ないで、しまっておいて来年かさ来年になってから着ることにしたらどうだろう。そうだわ。これはおとなっぽいもの。中学生ぐらいにならないと似合わなかったのよ。そうしよう。そうすればいい。やっぱりわたしには、スクール水着がいいんだ。

 いまのいま、仰向けで漂っていれば、誰からも覗かれる心配はない。が、中身と密着していない胸がぷかぷか浮いて、水面から妙に突き出すようにそびえたっていることに突然気がついた。顎をひいて見れば、燦々と降り注ぐ陽光に、早くも先端が乾いてしまっている。贋物の胸の小山のてっぺんだけが。

なんだかへんで、とてもいやらしい気がする。ちゃぷんと来る波に、水玉模様ができる。

 これを着てれば溺れないかも。贋おっぱいが浮き輪がわりになって。

 冗談めかして自分を笑わせようとしてみたが、笑顔がへなへな崩れる。ああ、やっぱり、最悪だった。これはダメな水着だった。なんだってまたよりによってこんなのを選んでしまっただろう? まるで、わざとひどいハズレをえらぶ運命にあるみたいに。こんなのに目がとまらなければよかったのに。あのデパートがこんなの置いておかないでくれてればよかったのに。

 後悔。

途方もなく悲しい気持ちの波がやってきて、ザブンとそれに飲み込まれてしまう。

 さっきまで、あんなにうれしかったのに。とてもとても幸福だったはずなのに。

 どうしてあたしはいつもいつも、こうなんだろう? 悲しみに曇らされてしまう。してもしょうがない後悔に、ぺしゃんこになる。

いっしょうけんめいやってるのに。あれこれ考えて、ちゃんと正しいものを選んでいるはずなのに、うっかり間抜けで失敗する。後から思いもかけないことが出てきて、足をすくわれちゃう。きちんと考慮したはずのことがらが裏目にでちゃう。そのことに気付かないでいればいいのに、気付いてしまって、しまった、こまった、と思う。過去にもどってやりなおせればいいのにと思う。

 ひょっとすると、わたしはとんでもなくバカなんだろうか?

愚かで、考えなしで、判断する能力が足りないというか、そもそも、ものごとを考える方向性がなにか間違っているんだろうか。自分がどうしようもなくバカだということもわからないほどのバカなんだろうか。

 せっかく天国のような気分だったのに、すぐ、つらいことばかり意識して考えてしまうことそのものが、いやだ。過ぎたこと、もう済んでしまってとりかえしのつかないことを、いつまでもひきずってしまうのはなぜなのか。さっさと先にいけばいいではないか。おおきすぎる飴玉を口の中でころがしているうちに頬がひきつれてくるように。うんざりしているなら、棄てればいい。はきだしてしまえばいいのに。できない。勇気がない。どうしてものみこまなきゃいけないかのように思ってしまう。そうして、いやだいやだもうやめたいと思いながら、何度も何度もぐずぐず後悔して、わざとみたいに不幸せになっていく。

 じぶんでじぶんをわなにかける。

こんなことはもうやめたい。バカな自分でなくなりたい。だが……デパートになんかいかなければ、これを見つけていなければ、最初からスミカに選んでもらっていれば、汗ばんでも知らん顔で売り場に返していれば……ああ、もう、いいかげんにしたいのに! かれこれそれぞれ百回ずつも考えたことが、またひとつずつ蘇る。やりなおしたい場面の時点にもどれたらと思う。

し損なったことがらは、手をつないで輪になって、レイラを囲んでラッタラッタと踊り、ぐるぐる回る。正面に来るたびにいちいちいかにもひとをバカにしたように高々と脚をあげて笑う。

 かごめかごめ、籠の中のとりは。いついつ出やる……出られない。こんなところから出るべきだとわかっているのに、はやく出たいのに出られない。夜明けの晩はいつ来やる。夜明けの晩ってなんだろう。へんなことば。夜明けは夜明け、晩は晩。どちらかであって、両方ではありえない。

まるで自分が点滅して消えたりついたりするみたいだ。夜明けは晩に、晩は夜明けに。かごめかごめのうたは誰がつくったんだろう。そのひとは、夜明けの晩を知っているんだろうか。夜明けの晩がくれば、この籠から、出られる?

 “ひめ”になれば、出られるのかしら。

「それはそうかもね」ユメミが言う。「ほんとに、あんた、そこから出たいの?」

 レイラはハッとして、物思いからさめる。

 ユメミは銀色の円盤のようなものに腰掛けている。そんなものがついさっきまでそこになかったことは、なにもわざわざ首を捻じってみなくてもはっきりわかっていたし、そもそも、レイラ自身、もう少しも海に浮かんでいるのではなかった。あの海に、白砂の美しい浜にいるのではなかった。

 周囲は……なにもなかった。

 別の場所。

 ここは、どこ? 籠の中?

 見たことがない奇妙な景色だ。空は暗く、あしもとはぼうっと輝いている。白っぽい靄が漂う中、銀色の柱が、無造作な間隔で何本も何本も立っている。柱の根は輝きの中に消えていて見えない。おのおのの柱のてっぺんは、ユメミが座っているそれのようにわずかに潰れて平らになっている。まるでおそろしく巨大な釘か、昆虫標本用のピンのようだ。

 海は砂時計の青いビーズになって、レイラのからだを音もなく滑り落ちていった。仰向けに浮かんだままの格好が落ち着かなかったので、わずかにもがくと、ねばりけのある宙を泳ぐようにして姿勢をかえることができた。

レイラは急いで手近にあった銀色の柱の一本に近づいた。しがみつき、よじ登り、座りこむ。

「オッケイ」親指を立ててユメミが笑う。「それであんたもピンヘッドダンサーズの仲間いりだね!」

 知らず知らずのうちに擦った腕がざらざらしている。開いた空間の吹きっさらしの中にいるのに、濡れた水着は適当ではない。あれだけ元気に輝いていた太陽がいったいどこにどうやって隠れてしまったのか、沖も浜辺も波打ち際もいったいどこにいってしまったのか。

 陽光の感触が恋しかった。わけがわからない。おまけに寒い。風邪のひきかけの感触がする。

「ここはどこ? なに? ピンクヘッドパンサーって、なに? 頭が桃色の豹?」

「違う、ちがう」ユメミは大笑いした。「ピンヘッドダンサー。微細地点の踊り手。聞いたことない? ピンの頭に天使は何人いられるか、一度に何人いっしょに踊ることができるのだろうか? っていう話」

 天使?

「なんのことだか、ぜんぜんわかんない」レイラは両手で自分を抱きしめた。「それ意味あるの?」

「ほんとよねぇ。けど、これってね、賢いひとたちがこぞって競って集まって真剣この上なくさんざん大討論した大命題なのよ」

 歯を鳴らして震えた。ユメミは風呂場で助けてくれた。燐粉まみれのからだから離れてしまいそうになるところを、ちからづくで戻してくれた。だから、信じていいのかもしれないけど……どうしてこういつもいつもわけがわからないんだろう?

「寒い」レイラはぶっきらぼうに言った。

「無理もないね、その格好じゃ」誰か別のひとが答えた。

 レイラはあわててそちらに顔を向けた。

 ピンのような銀色の柱は、いまではひとでいっぱいだった。どの柱にも、どの柱にも、誰か乗っているのだった。男のひとや、女のひと。ほとんどのひとは、遠すぎてこまかなところまでは見分けられない。いや近くのひとも、きちんと見ようとして目をこらすと、どんな顔をしているのかよくわからなくなってしまうのだった。目の隅のほうで、焦点をあわせないようにして眺めれば、いることだけはわかる。だが細部を見極めようとうっかり視線を向けると、たちまち周囲の靄にまぎれてしまう。

 見ようとしていると、震えがきて、レイラは、クシュン、とくしゅみをした。

「貸しましょうか?」

 誰かが黒っぽいびろうどのように見える上着を脱いで、こちらにむけてほうってくれた。上着は過たずレイラの背中に着地する。

「やさしいね、ウユル」ユメミがからかった。

 上着はずっしり重たくて、とてもあたたかかった。いまさっきまで、誰かが着ていた服特有のやわらかなぬくもりがして、上等そうな手触りがした。

「どうもありがとうございます」レイラは言い、少しはまっすぐにからだを起こした。「助かります」

「どういたしまして」ウユルと呼ばれたひとは言い、微笑みのかたちに細い口髭をうごめかした。4Bぐらいの鉛筆でサッと図画用紙をなでたような髭。どこかであったような気がする。でも、その顔もおなじだ。きちんと見ようとすると、とたんにおぼろにかすれてしまう。

 わざと焦点をあわせないようにしてぼんやり観察したところでは、ひょろりと背が高く、色白で、上品そうなひとだ。黒い髪の毛が襟首のあたりでくるんとカールを描いている。声は柔らかく、中性的。なんだかマンガの登場人物のようだ、とレイラは思った。ヒロインを陰ながら見守ったりとことん甘やかしたりする役の、すごくお金持ちで年上のひと。理解にあふれ優しくて、いつだって何も聞かないうちから全部わかってくれているような……でも、最後には少し不良っぽいヒーローに、いいとこ持っていかれてしまう人物。彼はどこか大きなところがスッパリ省略されているみたいだ。ヒロインにとって……あるいは読者の少女たちにとって、都合の悪い部分は持たないように。

「……彼女はいつもこうなの?」ウユルは眉をひそめて、ユメミに聞いた。「『理解があって、やさしくて、誰かにいいとこさらわれちゃう』……ズバリだ。僕の存在の本質を残酷なまでに言い当てている」

「ああ、この子は典型的な覗き屋§3文字傍点つけ§だからね」ユメミは肩をすくめた。「望まないものまで見ちゃうんだ。見なきゃ知らずにすむものを。気の毒に」

 レイラは胃がでんぐりがえりそうになっているのに気づいた。こころで思っただけのことがらを聞きとがめられたからだけではない。いきなり既視感を覚えたのだった。しかも未来の。

 見なきゃ知らずにすむものを。

 ずっと先のいつか、レイラはもう一度きっぱりと言われる。誰かに。

 誰か。誰なのかいまはまったく知らないけれど、その時がきたら、もうよく知っている、とても親しい、とても懐かしい、とても慕わしいひとに。

 そのひとは少し首をかしげて、そう言った。いや、過去形ではおかしい。このあと、これから何年もたってから、そう言うのだった。それはあまりにも確かな感触で、とうてい、錯覚には思えなかった。

 気の毒だと思います。そんなふうに生まれつかなければ、もっと幸福に生きられたはずなのに。芥川竜之介さんもいっていますよね、『幸福者、彼は誰よりも単純だった』、と……。

 なにか答えようとした彼女の唇を笑顔で封じて、そのひとはつづける。いいえ、知っています、わかっていますとも。もちろん、見えていても、わかっていても、ぜんぜん気づいてないようなふりはできますよね。

 爛漫の花であふれた温室の少し湿った空気の中、黒鍵が孔雀石で白鍵が水晶でできた古いグランドピアノに肘をもたせかけ、うっとりするようなハスキーな声で言いながら、そのひとは吸血鬼が犠牲者を口説く時にしそうな表情をした。

 でもそれでは救われないでしょう? それはただの逃げだから。

 怖いものに出会ったら砂の中に頭をつっこんで見えなくしてホッとしている、間抜けなドードーみたいなものだ。怖いものはいなくなっていない。ちっとも安全ではない。だから彼らは絶滅してしまう。なのに、それでもいっときは安心。安心って大事です。こころがもとめる。だってつらい現実から逃げていれば、確かに、狂わなくてすみますから。

 そう。うっかりなんでもかんでも見てしまって、隠されているものまで覗いてしまって、それを自分が確かに見ているのだということを自覚しても、なお、生き続けていくのは、しんどいことです。それで正気でいるのっていうのにはエネルギーがいる。体力と根性と若さが。なかなか大変な精神力と技術が必要となるものなんです。

「……あ、ダメ! そっちにいっちゃ!」

 誰かがうめくように言い――ユメミ?――レイラは急にはっきりと我に返り、そうなったことをたちまち恨んだ。塩水が鼻の奥を痛くさせている。ごぼごぼ口から空気が洩れる。海だ。ここは海だから。いったい何段階「もどった」のだろう?

それより、あのひと。

たったいま、すぐ目の前から話し掛けてくれていたあのひと。もうわからない。もういない。どこの誰なのか。大切な、懐かしい、親しい、大好きなひとだった。

離れたくなかった。そばにいたかった。つづきはどこ? あのまま、あの時のほうにいたかったのに。あのひとが誰なのかわかるまで、たぶん、あとほんの少しだけいられたらわかったのに。ほんとうにほんのちょっとだったのに!

 こころが戸惑っている間にもからだはちゃんと反応して、よろめきながら立ち上がろうとしている。浜辺に戻っていることを、レイラは知る。かなり否応なく。なにせゴホゴホ咳込んでしまっているから。あしもとを波があらうから。

 空は明るく、海は青く、太陽はきらめき、陽射しはあたたかく照りつけ、波はちゃぷんちゃぷんと音をたてて打ち寄せてくる。ヒトシにむんずと掴まれている腕が、肩をこじいれられた脇腹が、痛くて、怒鳴り声が鼓膜に刺さる。

「なに沈んでんだよ、びっくりするじゃん!」

「……ごめん、ごめん、離して……」

 レイラは言った。

「もういい。もう、ほんと、だいじょうぶだから……」

 ヒトシはむっつり怒った顔をしたまま、手を離した。つかまれていた二の腕がじんじんする。くっきりと手の痕がついている。

「すっげぇへんだったぞ、おまえ」ヒトシは言った。「目ぇあいたまま、海の底にぼーっと座ってた。バカか? 目んタマ、しみないのかよ」

「しみた」

 おかげで涙がとまらない。レイラは両手で顔を拭ったが、ダメだ。タオルがいる。

「水ん中見たいなら、水中メガネしろ。貸すから」

「うん、ありがと」

 逮捕でもされたかのようにヒトシに引きずられながら浜にあがり、パソラルの下の荷物の中からきれいなタオルを探し出した。まず顔を、そしてからだを拭った。

生き返る。焚き火はあたたかい。砂もあたたかい。

 戻ってきた。ああ戻ってきた。こっち側に。この世に。

 あのまま、いってしまわなかった……。

 レイラは安堵のあまり、深深と息を吐く。

 それにしても、……覗き屋って、なに? ピンヘッドなんとかってなに? あのひとたち、誰?

 すっかり弛んでぐずぐずになってしまっていた包帯をはずして、そこらに置いた。包帯の下でふやけた指がなまっ白い。

 ヒトシが魔法瓶を振って、飲むか? と聞いてくれた。

「なに?」

「あったかい紅茶」

 一瞬、フナムシのまぼろしが見えた。まだ“菩提樹”からミネラルウォーターは届いていないはずだ。でも、そんなことはもうどうでもいいような気もした。

 大宇宙に星雲が散らばり、極小微細なピンにたくさんのなにかがくっついている。顕微鏡は望遠鏡、世界は夾雑物で満ちている。

「ちょうだい」

 熱くて甘い飲み物はとてもおいしい。ひりつく喉をやさしく撫でてくれる。こんな静かなお昼間に浜辺に座って、足のつまさきで砂をちょっと掘りかえしながら飲むと、特においしい。

 もどってこれてよかった。

 でも。

あのひとは。

 ああ、もうほんとうに消えてしまう。目覚めかけの時にみていた夢のように。あんなにくっきりしていたのに。大好きなひとだったのに。たいせつなひとだったのに。もう顔もわからない。

思い出せない。

誰かも知らない。名前も知らない。わかっているはずなのに、手がとどかない。

悔しい。

時を巻き戻したかった。脳のどこかについさっきのできごとがもし記録されて残っているなら、つかんで引き寄せたかった。

レイラは溜め息を洩らす。なんだったんだろう、あれは。未来の記憶なんてありうるんだろうか。変よね。夢なのかな。錯覚?

 でも……そうだ。もし、ほんとうに、未来のいつか、実際あのひとにあって、あんなふうに話をすることがあるんだとしたら。そう信じるなら。

わたしはいつかきっとその未来のところまでたどりつく、ということだ。

つまり、そこまで、生きる。死なない。それまではなにがあっても大丈夫。どんな不安なことがあっても、こわいことがあっても、なんとか乗り越えられるはず。そう思うと、ちょっとちからがわいてくる。勇気がもてそう。

 あなたに、いつか、逢える。あなたが、どこの誰なのかわかる。あなたと笑いあえる。手をつなげる。

そう信じて、それを楽しみにしていよう。そうしたら、いろんなことが、いまより少し、楽になるかもしれない……。

「レイラ、ひま?」スミカが訊ねる。「いま、ちょっと、いい?」

 あわてて、意識をこちらに戻し、うん、と答えながら、スミカったらへんなの、と思う。笑ってしまいそうになる。砂浜でぼうっと座っている時に、いったいどんな用事があるというのか。

いや、待て。スミカのことだから、知っているのかもしれない。ただぼうっと座っているだけに見えても、忙しい時があること。頭の中でなにかをいっしょうけんめい追いかけていて、気がそらされてしまうとダイナシになってしまう瞬間があること。

 紅茶の飲みのこしを口にほうりこんで、さかさまに振った蓋を魔法瓶に戻しながら、つけ加えた。

「いいよ、なに?」

「あたし、昼ごはんの菓子パンかなにかを買いに行くのね」

 見ればスミカは乾いた水着の上にシャツを羽織っている。からだよりだいぶ大きめ。ボタンがふつうと反対についているところを見ると、男物のワイシャツだ。色は薄いピンクだから、中の水着がぼんやり透けて見える。大きなとがった襟をちょっと立てて、ボタンを全部はとめないで、裾をそのまま垂らしている。半乾きで茶色がかった髪をスミカが指で掻きあげると、かたちのいい耳がのぞいた。思いがけないほどの白さで。

 なんだかとても美しくて、色っぽくて、思わず見蕩れてしまった。雑誌のグラビアに出てくるひとみたいだ。

 スミカはとても魅力的だ。ただでさえきれいなのに、こんな水着なんかきていたら、とんでもなくひと目を惹く。きっと、すれちがうひとは、みんなどっきりするだろう。ひとめで恋におちてしまうだろう。  

 そんなスミカが、ふつうに生きてしゃべって寝て起きて、ごはん食べたりトイレもしたりするというのが、なんだかときどき、とんでもなく不思議になる。

「あんた、どうする?」

 特に、こんなふうに、ごくあたりまえのことをごく何気なく言われたりするのが。

「あ。うん。いく。スミカといっしょに行く」

 レイラは立ち上がった。もう一度バスタオルをつかって水着の水分をよく取っておいて、フードつきのジャンパーを羽織った。淡い水色系のマドラスチェックのジャンパーだ。振ると、少し砂が落ちた。そういえば、あたし、ウユルさんとかいうひとのあの上着をどうしたろう。ちゃんと返せたのだろうか。あれは夢の中のことだから、気にしなくてもいいんだろうか。

 もう一度あえたら、あやまろう。

 

 いくら海辺の町だからって、せめてショートパンツぐらいは履いたほうがいいんじゃないかとは思ったのだが、水着のお尻がまだかなり濡れているから諦めることにする。

 雑木林の横の道を戻った。高い木の陰になっているからか、そこらの泥道はねちょねちょと湿っていて、ビーチサンダルのゴムの草履の底裏が一歩ごとに張り付いて、ちょっとやそっとではなく歩きにくい。ふたりぶんの張り付いては粘って戻る踵が、ぺた……こん、ぺた……こん、すこぶる間の抜けた音をたてる。

「おいしいパン、あるかなぁ」スミカは買い物籠の持ち手を腕にひっかけたまま、器用にシャツの裾をお臍のあたりで結んでいる。「泳ぐと、喉が乾くでしょう、パンだと、飲みこみにくくない? なんか喉に詰まりそう。おにぎりのほうがいいのに。マツエさん、なんで作ってくれないんだろう。リゾート気分で、サボッてるのかしら」

「そんな。きっと、ものすごく忙しいんだよ」

 スミカはフナムシのことを、まだ知らないんだ。たくさんのたくさんのフナムシ。水道管の中を飛ぶように流れていくところ。白い細い毛のような足をいっしょうけんめいショワショワさせても、とうてい水の勢いには勝てなくて。真っ暗けの狭い管にはいりこんでしまって、もう戻れない、逃げだせないフナムシたち。なんだか可哀相になってくる。

 でもそれの混じったお水でごはんを焚いてもらったりするのは、まことに申し訳ないが、やはり、あまり嬉しくない。

「昨日ずーっとずーっと長いこと電車に乗ってたし、来たてでなにかと用事があって、てんてこまいだったから、疲れたんだよ。マツエさんだって、もうおトシなんだし。あのウチのお台所には慣れてないから、なかなかテキパキいかないんじゃないの。きっと、そのうちには、おにぎりをつくって持たせてくれるよ」

「だといいけど」スミカは肩をすくめた。

 塀から庭木のはみだした民家の庭をかすめるように数分行くと、もう商店街だった。といっても、ごく狭い町のこと、雑貨屋さんと、お肉屋さんと、八百屋さんと、お豆腐屋さんと、電気屋さんと。一目で全部のお店が見渡せてしまうぐらいの、短いものだ。もっとも、それはそれで便利だとは言える。つまり、そんなに歩かなくてもいろんな用事が足せてしまうということだから。

 お肉屋さんの前を通りすぎようとしたとたん、揚げ物のいい匂いがして来たので、ふたりして立ち止まった。

「こんにちは」

 中身の少ないショウケースカウンターの奥、白い上っ張りのおじいさんが、小さくしぼんだような顔を皺だらけにして笑っている。

「嬢ちゃんたちは、あれだろ、松橋さんとこの」

 ちょっとへんなイントネーションがあったが、何を言われているのかはわかった。ここにきてから会ったごく少数のこの地方のひとたちがみんな、ひどく訛っているか、ぼそぼそしか話さないか、ほとんどまったく口をきかないかのどれかだったので、ちょっと意外だ。

「泳ぎに来てんだって?」

「はい、そうです」いかにも利発でかわいいこどもらしく、はきはきと、スミカが答えた。「おじゃましています」

 レイラもあわてて、会釈をする。

「天気よくてよかったね」おじさんはにこにしている。「ここしばらく、いいようだよ。それよか、コロッケ買わない? うちの、うまいよ。いまあげたて」

「うーん」スミカは首をひねった。「どうしようかな」

 なんてことだ。匂いを嗅いだだけでこんなに唾が涌いているというのに! 潔癖なスミカは、よそのひとが作ったコロッケなんて、と思っているのかもしれない。

「欲しい」レイラはスミカのシャツの背中を掴んだ。「食べたい。買って」

「でもね」スミカは言い返した。「実は、じゃがいもはあるのよ。焚き火に埋めて、ホクホクに焼いてるとこなの。なのに、こともあろうにコロッケなんて買ってったら、一食まるごとジャガイモだらけ。炭水化物ばっかじゃないの」

「けど」レイラのお腹はもうぐうぐう鳴っている。「一回ぐらい、栄養かたよったって、どってことないよ」

「ニムラさんちで、食パン買っておいで」痩せたおじいさんはまた言った。「キャベツきざんどいてやるから、はさんで食べな。ソースはサービス。ねっ、可愛いお嬢ちゃんたち。コロッケと、メンチと、ハムカツと、マカロニサラダもある。大ごちそうだろう」

「そうねえ」

 スミカが考えこむと、色の薄い目が少し細くなった。レイラがシャツを掴んだ手にもう一度ギュッと力をこめると、やめてよ、皺になるでしょ、と少し険のある声で言った。

「じゃあ、いただきます。でも、ここの商店街来たの今日が初めてだから、いったん、あっちの端までいってきたいんですけど」

「ああ、いいよいいよ。そうしな」おじいさんはマジメにうなずいた。「コロッケ、いくつ包もうか?」

「どんぐらいの大きさ?」

 おじいさんは、後ろをふりむいて、銀色のトングで見本の一個をはさんで見せてくれた。両手の親指とひとさし指を使った丸ぐらい。

「十五円。お買い得だろ?」

「そうね」スミカは指を折って数えた。「えーと、双子と、あたしたちと、ヒロさんと、あの彼」

「ひとり一個じゃ足りないよ」レイラは急いで言った。「すごく美味しそうだし」

 なにせ、フクちゃんは朝から重労働で、いい加減、いろんなことが頭に来てるかもしれない。せめて、ごはんぐらい、たっぷり食べさせてあげておきたい。

 それにレイラ自身、ものすごい食欲を感じてる。海にいるのは、格別おなかのすくことなのかもしれない。

「そうね。コロッケなら余したら持ってかえればいいな。じゃあ、十個」

「メンチカツは?」

「ええっ! うーん、ごめんなさい。戻ってくるまでに考えます」

 じゃあ、と手を振って、歩き出す。

 レイラはあわててスミカに追いついた。

「スミカすごい」

「なにが」

「あたしなら、メンチも十個って頼んじゃうよ。あんなに親切に言ってくれたら……」

「まぁね」スミカは透けるシャツの肩をそびやかした。「でも、よそでも、なんか買いたいものがみつかるかもしれないでしょ」

「ハムカツって、あたし食べたことない」レイラは唾を飲み込んだ。「ケースの中にあったよ。とってもおいしそうだった。一個たった十円だった」

「あんな薄っぺたいの! コロモばっかりなんじゃない」スミカはすたすた歩く。「第一、ハムみたいなものこそ、上等なのとそうじゃないのとの差が大きいのよ。なにがはいってるかわかんない。そんなの食べるの恐いじゃない」

 そうかなぁ。揚げ物なら、熱で消毒してるし。だいじょぶだよ。 それに、わたし、カツのコロモってかなり好きだわ。中身なしでコロモだけでも嬉しいぐらい。

 レイラは思ったが、口にする暇がなかった。

 小さな文具屋の軒先から、目が離せなくなったのだ。

 虫取り網と、竹の釣竿と、何年前からあるんだかわからないぐらい古くなった麦わら帽子のそばに、信じられないほど美しいものがかかっていたのだ。

 白い水中メガネ。

真っ白に白い、純白の。まるで、おとぎ話の絵本の魔法のアイテムのよう。陽光をまとって、キラキラしている。

「お肉屋さんのアブラっていうのはね」スミカは話続け、あくまで勢いよく歩き続けている。「ラードとかヘットとかの動物性脂肪を使ってるのよ。だからいい匂いがするし、揚げてからしばらくたってもピンとしてる。ほら、動物のアブラっていうのは、常温で固体だから。さめると固まる。家庭科でちょうどこの前ならったとこなんだけど、植物性脂肪のほうがだんぜんからだによくって……あんた何やってんの」

 レイラは、そこから目が離せず、歩きながら横目を使い、横顔になり、すっかり振り返って後ろ歩きをし、とうとう立ち止まってしまっていたのだった。

 黒いのや、青いのはよくある。どこにでも売っている。黄色いのも見たことがあるような気がする。

 だが、白、は。

 まっしろ、純白、は。

 こんなものが、この世の中にあったなんて!

 白い白い真っ白なゴムの真ん中に、まんまるいかたちのガラスが嵌まっているそれには、300円、とマジックで手書きした荷札がハリガネで止めてあった。

 三百円! おお。なんて高価な高級な水中眼鏡なのだろう! 一ヶ月分のお小遣いの半分以上もするとは……!

 小遣いは、小学校の学年の数に百を掛けた数によって現されていた。一年生は百円、二年生は二百円。レイラは今年四年生なので月に四百円をもらっているのだった。ふだんはそれで充分だったし、たいていの場合、余らせて貯金箱に溜めることになる。かわいい絵のついたノートは百円だし、いい匂いのするケシゴムだって50円出せば買える。ふだん使いの鉛筆ひと箱や授業用のノートは、ヒロさんが買ってくれるからお小遣いから出す必要はなかった。洋服や、靴や、髪をとめるピンなどは、ときどきスミカからおさがりをもらう。もっと小さい頃はリカちゃん人形が欲しくてたまらなかったけれど、いまはもうあれはコドモっぽすぎると思っている。

 クリスマスや誕生日には、本を買ってもらった。自分の本にするのには、学校の図書室で読んで、どうしてもぜったいに手元においておくべきだと思うものを厳選する。たとえば『くまのプーさん、プー横丁に立った家』や『ライオンと魔女』。何度読み返してもぜったいに飽きない、買ってもらって後悔しないものを。

 だが、世界にはときどき、思いがけない宝物が隠れていて、レイラにばったりめぐりあってしまうのだった。たとえば、そのメロディを聞くといつも涙がとまらなくなるオルゴールとか、ロケットのかたちをした銀の指輪とか、この世のどんな白よりも真っ白く輝く水中メガネ、といったようなものが。

いつもは、宝物はまったくレイラごときの手が届くものではなく、オトナになったらいつかきっと手にいれたいなと思うだけなのだが。そんな素晴らしい魔法のような品が、高価ではあるけれども、自分にもかろうじて手の届かないこともない程度の値段で売っているなんて。にわかには信じ難かった。

 白は花嫁の色であり、ヒロインの色であり、高貴なスワンの色だ。ヒロさんの家の大型テレビで生まれてはじめて見たバレエ白鳥の湖の、オデット姫の色だ。

 レイラは白が好きだった。それはきれいでオゴソカだ。真新しくて清潔だ。白の中の白を純白という。純黒とか、純赤とか、純青とは言わないのに。白だけが特別に純粋性を問われる。きちんとしているかどうか、まっさらで無垢で間違いなしであるかどうかを、判断される。そんなところが、とほうもなく好きだ。

 しかし着るものの場合、白は汚れが目立ちやすいし、ブラウスやワンピースだと、下着が透けてしまう。だから、ふだん着には白はあまり適さない。だから、結婚式みたいな特別な時にだけ白を着るのだと思う。水着だってぜったいに白なんか選ばなかった。そもそもほんとうに真っ白のすっきりと白い水着は見当たらなかった。でも。でも。でも。

「どしたの」

 考えが次から次へとやってきて衝突して、なす術もなく立ちつくしているレイラの視線の向かっている先を見て、スミカは、あらまぁ、と言った。

「ひょっとして、あの水中メガネ?」

 ああ、またしてもだ。スミカはいつだってわかってくれてしまうのだ。あまりのことにとてもじゃないけれど口がきけなくなっていてさえ、ちゃんと見逃さず、感づいてしまうのだ。

「あんた、あれが気にいったの? 欲しいの?」

 レイラは泣きそうになった。ぶるっと震えた。目をそらした。うなずくのは恐ろしかった。認めるのは恐かった。

 だって、あれを買ってしまったら、今月のお小遣いはほとんど消えてしまう。今月は、まだはじまったばかりなのに。あとから、どうしても必要なものが出てこないとも限らないのに。

 そもそも。サイフはきょう、持ってこなかった。まさかお小遣いが必要になるとは思っていなかったし、なくすのが恐かったからだ。高台の家の二階の奥のお琴のある部屋の隅の自分のバッグの底のほうに、下着の中にくるんで、隠しておいてある。

 レイラはあまりのことに、胸がいっぱいになってしまって、何も言えなかった。黙ってうなだれて身動きひとつできずにいると、スミカはさっさとひとりで問題の店に戻っていってしまった。まぼろしではない。目の錯覚ではない。白い水中メガネは確かにそこにある。たったひとつ。たったひとつだけ。スミカは背伸びしてとろうとするが、うんと高いところにくくりつけてあるせいで、かすかに揺らすことしかできない。

 スミカは、やれやれダメだよ、というようにこっちを向いて肩をしゃくった。レイラは動けない。足が地面に根っこをおろしてしまったみたい。

 スミカが、がらがらと文具屋のガラスの引き戸をあけはじめた時には、仰天した。

 待って。待って。まだだめ。まだ決心がつかない。

 でも。……あとで来て、もしなくなっていたら。誰かにとられてしまったら。

「ごめんくださーい!」

 スミカはさっさと言うべきことを言う。さっそく、奥から、手拭いをかぶったオバサンが出てきた。

「すみません。あれを、ちょっと、見せて欲しいんですけど」

 どれ? と、オバサンが目をすがめ、スミカの指差す先を見て、 ああ、メガネ、と納得したようだった。この村のほとんどのひと同様、このオバサンも、あまりはっきりと口をきかないらしい。

 オバサンは店の中に戻り、先にカギのついた長い棒を持ってもどってきた。オバサンはスミカやレイラとほとんどかわらないぐらいしか背がなかったから、それがなければ、高いところのものが取れなかったのだ。

 ほら。なにしてんのよ。ここに。おいでったら!

 スミカが最初やさしく、しまいにじれったそうに激しく手招きしたが、レイラは動けない。まだ地面から生えたまんまだ。動けるなら、ほんとうのところ、くるりと後ろを向いて逃げ出してしまいたい。

 あんなものにさわってしまったら。一度手にとってしまったら。二度と離せなくなるに決まってる。そんなのは困る。だってあれはなんと三百円もして、今月はまだはじまったばかりなのだから。

 スミカはお金を持っている。ヒロさんからおサイフを預かってきているのかもしれない。でも、そこにあるのは、みんなのためのお金、お昼ごはんを買うためのお金だ。そこから盗んだら、ドロボウになる。それにもしかすると、三百円もの大金をとってしまったら、みんなのごはんが買えなくなるかもしれない。

 レイラはたまらなかった。欲望と悲しみと申し訳なさと、なにがなんだかわからないもので満杯で、自分がはじけとんでしまいそうだ。

 オバサンが苦労してやっとひっかかりをはずしたので、白い水中メガネがスミカの手に渡った。スミカはそれを、なんでもなさそうに手の中でひっくりかえした。ゴムを伸ばしてみたり、指の関節でガラスを叩いてみたりする。

「ふうん、いいじゃない。けっこうちゃんとしてるみたいね」

 あたりまえです、といわんばかりに、オバサンがムッとする。

「じゃあ、これ、ください」

 ええっ! レイラはあわてて両手で口をおさえた。でないと、悲鳴をあげてしまうところだったのだ。

 スミカは買い物篭からサイフを出して、もうお金を払ってしまっている。ああ、買ってしまった。もう、とりかえしがつかない。まいどあり、というように、オバサンがちょっとだけ笑うと、金歯が光った。スミカがオバサンとなにごとか少し話しをしたかと思うと、驚いたことに、オバサンはうなずいて、割烹着のポケットの中からなにか、どうもお金にしか見えないものを出して、スミカの手に戻した。スミカが鼻に皺をよせてにっこりする。バイバイ、と手を振って、白いゴムの中に腕を通して、ぶらぶら歩きにこっちに戻ってきた。

「……あそこで、花火も売ってるんだって」スミカはどこかウンザリしたような顔で、ほら、と、乱暴にそれを差し出した。「打ち上げとか、手で持ってやるやつも、いろいろあるって。だから、もしかしたら、帰りにもう一回来るかもしんないし、夏じゅう何度も来るかもしれないわって言ってみたら50円オマケしてくれた。まぁ、どうせ、売れ残ってひと夏日にやけちゃうよりかいいってことだろうけど……はい」

「え」

「どうぞ」

 レイラは目を大きく見開く。胸かどきどきしている。つまりどういうことなのか、よくわからない。なにもかも、めくるめくうちに、ぼうっとしているうちに、起こってしまって。

「どうしたの。いらないの?」

「そ、そ、そ、それそれ」舌がもつれた。「……あ、あたしのなの?」

「ええ、もちろん。そうよ。あんたの。でも、時々は貸してね。あたしも、たまには魚とか、のぞいて見てみたいから……ああ、わかった!」スミカは買い物篭の中に手をつっこんで、黄色いがま口型のビニールのパスケースを出した。「あんた遠慮してんでしょう。お昼ご飯買いに来たのに、そのお金使っちゃった、って。違うわよ。ほら、ちゃんとこっちのサイフから出したの。ヒロさんからあずかってきたお金じゃなく、あたしが自分のお小遣いで買ってあげたんだからね。わかった? 感謝しなさい」

 胸がいっぱいで涙で前が曇って何にも言えなくて、レイラはスミカの肩にしがみついた。

 ああ、スミカ、スミカ! 三百円もの大金を、あたしのために使ってくれることができちゃうなんて! スミカってなんてやさしい。なんて思い切りがいいんだろう。気前がいいんだろう。大人物なんだろう。

 このご恩は一生忘れません。

「……よしよし。なによ。泣くことないでしょ」スミカは言った。「あんたって、すこしおおげさよ、レイラ」

 この通りとそれより少し大きな道が交差するところに商店街じゅうで一番大きな明るく広いお店があって、そこがお肉屋さんの言うニムラさんだった。八百屋さんによくあるように開放的になっている店内には、果物やお菓子や飲み物やアイスなどなどがたくさん売っていて、ほんとうのところレイラには、こんな狭い町には少し多すぎるのではないかと思えてならなかった。こんなにたくさん集めておいて、売れ残っちゃったらどうするんだろう?

 食パン一斤をサンドイッチにちょうどいい薄さに切ってもらっている間に、ふたりで、フルーツ牛乳ひと瓶を分け合って飲んだ。店の前の道の、アイスクリームボックスにもたれて。

「あれ、学校ね」

 スミカが指さす先を眺めると、なるほど、幅広のほうの道の少し向こうの植え込みの奥に、ピンクがかったベージュ色に塗った大きな建物が見えた。木造校舎の外壁だろう。なるほど、学校の行き帰りにこどもたちが立ち寄る店なのだとするなら、けっこう繁盛するかもしれない。

「今朝はびっくりしたわ。いきなりたいそうのテーマ曲がかかるんだもの。もっと遅くまで寝てるつもりだったのに。このへんはまだ夏休みにはいってないんだってね。なのに、毎朝、あれってことは、年中ああなのかしら」

「たぶん」レイラは短く答えた。

 きっと、学校は、こどもが寝坊するのが好きじゃないんだ。

「ねぇ、早起きして、明日、あたしたちもここまで来てみようか。朝の体操、一緒にやったら、ハンコとか、ヤクルトとかくれるかもしれないよ」

「……うん……」

「なによ」スミカは笑った。「うそつきレイラ。なにがうんなの。ほんとはイヤだと思ってるくせに。知らない子の中に混じりたくないし、知らない学校の先生とかに、別にハンコなんてもらいたくないくせに!」

 わかってるなら、言わないでよ。

「いいよねぇ、あたしたち。学校から、先生から、同級生たちから、こんなにこんなに遠くまできてるんだよ。こんなとこにこれて、とってもとっても恵まれてると思うわ」スミカは牛乳瓶の口のところをちょっと指で拭って、まわして寄越した。「あげる。あと、全部飲んでいいよ」

 分厚いガラスが唇にひんやり重たい。瓶から直接飲むとき、牛乳はどうしてこんなにおいしいんだろう、とレイラは思う。

 それに、こんな透明でリンゴ味のするジュースをフルーツ「牛乳」って、どうして言うんだろう?

「あーあ。小学生も、今年限りだ」

 溜め息をそのまま声にしたような声で、スミカが言った。

 ギクッとした拍子に、レイラは喉に甘すぎるジュースをひっかけてしまった。激しくむせる。

「んもう、なにやってんの」

 笑いながら背中を叩いてくれたスミカは、ちょうど切り終わったパンの包みといっしょにニムラさんのお店のひとが渡してくれた白い牛乳のうちのひとつの蓋を爪であけて、ほら、飲みなさいよ、と言った。

 まるで魔法のような手早さ、手際のよさだ。

 スミカは「蓋開け」なしでも、牛乳の蓋をじょうずに開ける。レイラがやろうとすると、どうしても時間がかかってしまうし、五回に一回ぐらいは紙の上側の層だけがめくれてはがれて、灰色のボサボサしたやつが残ってしまう。そうなると、蓋はビクともしない。もう爪のかかるところがないから、よほどうまく、灰色のボサボサのうち大きなとこを捕まえて引っ張らない限り、開かなくなる。へたをすると、指が蓋をつきやぶって、あたりじゅう牛乳の飛沫だらけにしてしまう。ああ、やっぱり、最初からちゃんと「蓋開け」を使って、針を刺してグイッとやって開ければよかったのに、と思う。

 でも、プラスチックの端に画鋲のような針の埋ったあれは、捜す時に限って見えなくなっているし、第一、これから飲むものの中に針をつきさすなんてなんだか不潔な感じがしてイヤなのだ。みんながみんな使ったらきちんと洗っておいてくれるならいいけど、そうとは限らなくて、時々、針に、さびなのかなんだかわからないものがこびりついて汚くなっていたりするし。

 牛乳の蓋開け用に、せめて右手のひとさし指だけでもきれいに爪を伸ばしておこう、と思うのだが、いつも知らないうちに噛んで短くしてしまう。

 オトナっぽいスミカの爪はひとさし指に限らず全部縦長でピカピカしていて、きれいなピンク色で、噛んだ痕なんてひとつもない。

 いつか、スミカの爪はきれいで羨ましいと言ったら、爪磨きの道具を見せてくれた。色とりどりのちいさなヤスリと、ちいさなケースに入った粉と、淡いブルーグレイの厚みのある布みたいなものが、ちょうど、携帯用の裁縫用具のように、きちんと狭い中に納まっているのだ。

 これ、ほんものの鹿皮だよ。ブルーグレイの布みたいなものを取り上げて、スミカは言った。この粉をつけてね、そうっとこするの。そうするといいツヤが出るの。爪はね、はさみとか爪切りで切ったりしちゃダメなのよ。痛むから。まして噛むなんて。ほら、ヤスリをかけるの。こうやって。

 直角にあてがったヤスリその一がスミカの爪先をきれいに丸く削り、色の違うヤスリその二がさらにこまかく整える。いまこすったところをさわっても、ギザギザしたり、チクチクしたりしない。

 ――小学生も今年限り。

 スミカは来年から、中学に行くのだ。サージの制服を着て、黒いカバンを持って、きっと毎日英語で話すようになる。電車に乗って登校するような私立の学校に行くことになるのかもしれない。そしたら、うわぁ、バスの回数券じゃなく、電車の定期を持つんだろうか。

 あたしはスミカに定期入れを買ってあげよう。レイラは思った。卒業祝いに。入学祝いに。真っ赤な革の、できれば、ほんものの鹿革のがいいな。スミカには、上等なほんものがきっとすごく似合うもの。いくらくらいするのかな、そういうの。来年の三月までお小遣いを溜めてれば間に合うかしら。ダメだったら、ママにちょっとだけ助けてくれないか聞いてみよう。クリスマスプレゼント、わたしはいらないから、その分ほしいって、いってみよう。

だって。

 いま、腰骨にこつんこつんあたっているのは、魔法のように美しい白い水中メガネ。スミカが買ってくれたもの。

 ご恩返しをしなくっちゃ。

 ああ、でも、スミカが離れていってしまうなんて。中学にいってしまうなんて。

 六年生のいまでさえこんなにうんとお姉さんらしいのに、差がついておいつけないのに、きっと、もっともっと離れてしまう。変わってしまうだろう。いまに、もうあたしのことなんて構ってくれなくなるに違いない、とレイラは思う。いまだって、内心は、あたしみたいな幼稚でバカな子とつきあうのウンザリだって思ってるかもしれない。やさしいから、そうはいわないだけで。

 牛乳をひと口飲んだら、なんとかむせるのが納まった。スミカは、はずした蓋をまたしめた。きれいに開けておいたからこそできること。

「さ、行こうか」スミカが言った。あくまで軽く。なんでもないことのように。ぜんぜん恩に着せたりせずに。

 

 お肉屋さんに寄って、あつあつ揚げたてのコロッケとメンチカツを結局やっぱり十個ずつ買って、ビニール袋いっぱいの繊切りキャベツと、小さな空き瓶に分けていれてもらった中濃ソースを持って帰った。レイラはなんだか途方もない重労働の大冒険をしたような気分がしてかなり疲れてさえいたのだが、商店街にいたのは全部あわせても十五分ぐらい、ほんの短い時間の間のできごとにすぎなかったのだった。

 たった十五分の間にも、こんなにもいろんなことが起こる。ドキドキしたり、胸がいっぱいになったり、不安になったり。忙しくってしょうがない。夏じゅうこうじゃあ、身がもたない。でも、ひと夏、毎日、このぐらいいろんなことを体験したなら、少しはオトナになれるかもしれない、とも思う。

 だからって、スミカに追いつくことは一生できないのはわかっているけど。

 白いまんまバタも塗らない食パンに、好きなおかずを好きなだけ手掴みではさんだだけのサンドイッチは、頬が落ちそうにおいしかった。ヒトシはあぢあぢと言いながら、すごい勢いで食べた。チャンスとあらば文句や好き嫌いをけっして言わずにおかない双子たちさえ、ものも言わずに先を争ってむさぼるように食べた。多めに買ってきたつもりだったのに、なにもかも、あっという間に減っていく。

 みんなお腹がぺこぺこだったのだ。やっぱり海はお腹がすく。

 もし帰りに花火を買いに行くのなら、あのお肉屋さんにも寄って、ひとことお礼を言おう、とレイラは思った。ひょっとして、誰か、あたし以外のひとも、ハムカツを見て、食べてみたいって思ってしまって、そう言い出してみてくれるといいんだけどな……。

 コロッケとメンチカツがみんなの胃袋に納まって、コロモのカケラの茶色い破片ばっかりになってしまうと、双子はそれを唾で濡らした指先にくっつけてさらった。よほど気にいったらしい。お肉屋さんのアブラガミに、テカテカ光るものだけが残る。それを舐めようとして犬じゃないんだからね、とスミカにいわれ、やっとあきらめる。

犬であるレディやトランプはふたん、ひとの食卓からは食べ物をもらわない。一日に一度、ドッグフードを食べる。でも、きょうばかりは、パンをすこしちぎってわけてもらった。

 フクちゃんは、残ったキャベツとマカロニサラダをパンからはみだすぐらいに豪快にはさんだのをむぐむぐ食べながら、つまりそれを片手に持ったまま、もう一方の手で生木の枝を使って、焚き火の底のほうの砂を掘り返しはじめた。何をやってるんだろう? みんな注目し、それから、ハッと顔を見合わせる。そうだ。忘れていた。焼きジャガイモもあったんだった!

「よかったー、まだ腹ぺこだと思ってたんだ」ヒトシが腹をさする。

 焚き火の下に埋めて、長い時間をかけて、皮が全部真っ黒けになるまで焼いたジャガイモを、枝を使って砂の上にいくつか転げ出す頃、フクちゃんはさっさとサンドイッチを食べ終わった。あいた両手に軍手をはめて、ジャガイモを掴み、野球のピッチャーみたいにちょっとトスしてから、大きく振りかぶって海に投げた。

 ジュッ。

「えーっ?」いろんな高さの悲鳴が重なる。

 違った。捨てたんじゃなかった。そうすれば、持ってもヤケドしないぐらいになるし、塩気もつくし、皮がむけやすくなるのだ。最初の数個をフクちゃん自身が服のままざばざばと海に入って回収してきてくれたとたんに、それがわかった。

 たちまちヒトシが飛び出した。波打ち際に陣取って、投げてー。わめく。取るから。こっちこっちー! フクちゃんはまた軍手の手でちょっとトスをしてから、ジャガイモを投げた。じゅっ。ヒトシが抜き手を切って追いかけていくが、ジャガイモは波に揺られてひょいひょい逃げる。やがてうまく追いついたヒトシが高々と得意げにジャガイモを持ち上げ、たちまちむしゃぶりついて、うめぇ、と笑う。すげえうめー! ぼくもやるー、ぼくもー! 双子が立ち上がり、浮き輪を装着して、ばしゃんばしゃん水をはねあげながら走っていく。二匹の犬もきそうようについていく。双子たちがこっちに向き直ると、プレイボール。ジャガイモ・キャッチボール大会のはじまりだ。ただし、熱いから、直接ではなく、かならずワンバンで……いったんは海についてから……取らないといけない。飛んでくるジャガイモからは巧みにからだをかわしつつ、いったん着水したなら、大急ぎでそっちに向わなければならない。ミキヲとノリヲのはしゃいだ声がきゃあきゃあこだまする。夢中で、顔に水がかかるのも、波が恐いのも忘れている。

「まあまあ」ヒロさんは呆れたような顔をした。

「あいつら、犬だわ」スミカなんかもろに言った。

 確かに。「とってこい」の訓練されているわんこみたいだ。

 ヒロさんとスミカは食べたもののあとを片付けて、それぞれパラソルの下に寝そべって、食休みの態勢を取る。

 レイラは迷った。オトナの女性組に混じるか、男の子組に混じるか。どっちにも行けるようでもあるし、どっちにいたってはみだし者であるような気がする。えーい、だったら、やってみたいほうだ。

 レイラはあの真っ白い水中メガネを掴んだ。こっちこっちー、こっちにほら投げてー! 男の子たちが波間であげる声をききながら、あせって準備。水中メガネを顔にあてがって、ゴムを頭の後ろ側に回してみる。丸いガラスがたちまち曇ったのは、うっかり鼻から息を吐いてしまったからだ。真新しいゴムのクシャミの出そうな匂いがする。バンドはちょっときつすぎる。ほんの少しだけだ。歩いて波に入っていく。いったん外し、水でゆすいでガラスの曇りを取り、ゴムバンドをでっぱりふたつ分ぐらいゆるく調節しなおす。こんどはだいじょうぶだ。ぴったり。口からしか息ができないのはなんかへんだけど。頬や目の縁がゴムに押し付けられて、なんだか顔が外側に向けて引っ張られてるみたいだけど。

 駆けていって、波に踏み込み、勢いをつけて、ざぶん、と頭から飛び込んでみる。わぁお。すごい。きれい! なんてよく見えるんだろう。みんなの足や浮き輪や海水パンツ。水ごしでも、くっきりはっきり見える。海底の隆起模様や漂っている海藻、近づいてきてあわてて避けていく小さな魚たち。自分の吐き出す泡まで。遠くまですっかり見える。ああ、よかった、やっぱり、これを手にいれることができて!

 半ば潜水、半ば平泳ぎ、最後には犬掻きの要領で進んでから、海水が腰ほどの高さになっているところで底に足をついて立ち上がる。目もぜんぜん痛くならないし、鼻から水を吸ってしまう心配もいらない。水中メガネってなんてステキなんだろう!

 しかし泳いでいない時にはちょっと邪魔だ。いったん水中メガネをおでこにあげた。オトナが、サングラスをそうするように。

 振り返ったとたん、フクちゃんと一瞬だけ目があった。あたしにも投げてー! レイラは両手をあげた。フクちゃんは確かに、レイラのために投げてくれたと思う。真っ黒に焦げたジャガイモが放物線を描き、レイラの頭上を追い越して海面に落ち、そこにピッタリ張り付いた。腰まで水中の状態で走るのは難しい。手を使って半分泳ぐようにして、なんとか拾った。さっそく皮をひっぱがし、その場でかじりつく。中がちょっと熱すぎる。もう一回海に落としておいて、さめたところを、食べる! おお。なんて原始的。なんて野蛮。はがした黒いジャガ皮が、いかにもゴミらしくぷかぷか波に浮かぶ。それはレイラのまわりをしつこく漂っている。でも、なんておいしいんだろう。甘くてホクホク。

 こんなことができるも、こうすることに抵抗がないのも、水が、ほんとうに透明できれいだからだ。海の塩味は、食卓塩より、なんだかずっと深くておいしい。

 フクちゃんはあいかわらず黙り込んだまま、間隔を見計らいつつ、せっせとジャガイモを投げ続けた。ど根性野球部の特訓みたいに。ヒトシと双子とレイラの四人は、ひとつのボールを奪い合ってはしゃいだ。食べ物で遊んじゃいけません? 確かに。考えてみると、もうとっくにおなかはいっぱいだった。悪いヒトシはジャガイモをパンツに溜めている。逃げるノリヲをつかまえて、そのちいさなパンツの背中のほうにジャガイモをつっこむ。ぴしゃん、と叩くと、イモがつぶれてはみだして、いくつかのかたまりになって漂った。うんこだぁ! ミキヲが笑う。うんこもらしたぁ! ノリヲは顔を真っ赤にして、ぎゃあぎゃあ文句を言う。知らぬまに集まってきたあの小さなお魚たちが、ジャガイモの皮や破片をつついている。海をよごしてごめんなさい。でも、こういうゴミなら、食べられて、分解されて、ちゃんと消えてしまうよね。

 もうジャガイモが飛んでこない。さすがになくなったらしい。レイラが見ると、フクちゃんは、すまない、というように両手を広げた。

 数知れぬ投ジャガで息を切らしたせいなのか、開けた唇の端があがっていた。あれ、ひょっとすると笑ってるのかもしれないと思ったら、自分でも不思議なくらいホッとしていた。遊べたね、あたしたち。一緒に。やっと、気持ち、通じたかもしれない。あたしたちのこと、気にいってくれたかも。けっこうかわいいとこあるこどもたちなんじゃないかと思ってくれたなら、嬉しい。

 できれば、ぜひとも、そう思っておいて欲しかった。

 はやく心の底から信じられるようになりたかった。悪いひとでも恐いひとでもないのだと。ただ口下手で、ぶきっちょなだけなのだと。

 あたしたちを好いていてくれるのだと。

 そうでないと……ずっと、ビクビクしていなきゃならない。ひと夏じゅうそんなでは、身がもたない。

 腹ごなしに少しだけ本気で泳いでみようか。

 レイラは水中メガネを顔にあてなおした。鼻の中に塩水が入ってきた。少しの水が残っていても、一番低いそこに溜まるのだ。あわててはがして、さかさに振る。もう一度はめるが、またうっかり息をしてしまったらしい。曇ってしまう。

「唾でこするといいんだぞ」

 ヒトシが声をかけてくれた。ヒトシは両手でそれぞれ双子の手を引いて、浜にあがるところだ。濡れてぺしゃんこになった髪をしたノリヲは、半べそ顔だ。紺色の海水パンツを履いた小さなお尻はなんだか、アトムに似ている。そのノリヲの布地や背中に、ジャガイモの名残がまだへばりついている。ミキヲはやぁよう、ミキはもっと泳ぐのよぉ、と甘えた声でだだをこねている。

「唾で、どうするの?」

 おまえら、待ってろ。じっとしてろよ。海にはいるなよ。すぐ戻るからな。

 双子を浜に残すと、ヒトシは大股に歩いて戻ってきて、貸せ、とも言わずにレイラの水中メガネを取った。

「こうすんだ」

 止める間もなかった。透明で、少し泡のまじったヒトシの唾が、レイラの水中メガネのガラスの内側にぺっと吐き出された。ヒトシは指でそれをガラスにこすりつけ、隅から隅までたんねんに塗りつけ、それから、海につっこんで、じゃばじゃばとゆすいだ。

「な。こうすると、あんまし曇んないぜ」

 ヒトシはサッサと背をむけて、浜の双子のところに戻る。ノリヲのせつなさはいよいよ本格的になってきたらしい。顔を赤くして口をゆがめて全身を震わせてなにかを必死にこらえている。もしかしたら、トイレを我慢してるんではないか、とレイラは思った。高台の家のあの外のトイレではできなかったものを、もよおしてしまったのではないか。ジャガイモつぶしでからかわれて、それのことを思い出して、思い出したらいきなりその気になってしまったというか。さすがのミキヲも、ただごとではない気配を察して、だいじょうぶ? ノリちゃん、どしたの、だいじょうぶ? と甲高い声をあげている。

 推測はあたっていたに違いない。ヒトシがあたりを見回し、フクちゃんになにか声をかけ、人形のように変な姿勢のまま固まってしまったノリヲを半ば横抱きに半ばひきずるようにして物陰に連れていくところを見れば。だいじょうぶ、ノリちゃん、ノリちゃん。悲鳴のような声をあげるミキヲに、いいから、おまえはそこにいろ、ついてくるなって。言うところを見れば。

 それはともかく。

 唾。……ああ。

 レイラは手の中の水中メガネを見下ろした。

 真っ白の純白の純粋にきれいなはずの水中メガネに、唾……?

 レイラはメガネを海で洗い、さらに洗い、さらに洗い、よくゆすぎ、それから空にかざしてみた。きれいだ。曇ってない。ガラスは透明だ。確かに唾は効くらしい。

 だが、かざした手をおろしたそのまま、一歩も動けなくなった。そばをジャガイモの皮の破片がぷかぷか漂っている。この水には、ヒトシの唾も溶けているんだ、と思う。それはなくならない。洗った、といっても。どこかよそにやったわけじゃない。そばにばらまいただけ。知らなければよかった。わからなければ気にもとめなかっただろう。でも、自分は見てしまった。はっきり、この目で。

 いま、ちょっとでも動くと、その溶けたものにさわってしまいそうな気がする。

 こんな広い広い海に、ほんの少しだけ違うものがまじったからって、別にどうってことはないはずだ、と思う。まったくなんでもないはずだと思う。地球の表面積の七割は海。海はみんなつながっている。寄せては返す波が、海をよく掻き回す。なにがまじっても、徹底的に薄まっちゃって、まったくなかったのとほとんど同じぐらいに薄まっちゃって、なんの問題にもなるはずない。

 どうせ世界は夾雑物でいっぱいだ。

 そもそも悪気じゃなかったのよ、ヒトシは。レイラは自分に言い聞かせる。知らないひとじゃない。家族同然なんだし。ヒトシのことも、ミキヲやノリヲのことも、好きでしょう、あたしは? スミカとさっき、ひとつの瓶からフルーツ牛乳飲んだじゃない。それはぜんぜん抵抗なかったでしょう。あっちのほうがよっぽど直接なのに。それでも平気なのに、ヒトシだと、いやなの? なんで?

 それでも、ヒトシの唾がなすりつけられたものを顔にあてがうのかと思うと、目の前にくっつけるのかと思うと、なにかがひどくイヤなのだった。直接、目に唾を吐き掛けられたような。あるいは、直接、目玉に唇をおしつけられたような。そんな感じがして。

 でもヒトシは、ただ親切でしてくれただけ。なんの気なしに。自分の水中メガネにする通りに。それを、そんなふうにいやがるなんて、失礼だ。潔癖すぎ。どうかしてる。

 レイラはひとつ溜め息をつき、メガネを見た。

 自分でもやってみよう、と思いついた。そうすれば、平気になるかもしれない。

 意識して唾を吐こうとしたことなどなかったので、唇がむずむずして、うまくできなかった。最初は少なすぎて、ただ唇の上で泡が破裂しただけだった。充分たっぷり唾をためようとして、慎重に歯のまわりを舌でこすったり頬を動かしたりしていると、知らないうちに口の中がやけにネバネバしてたような気がしてきて、無性に歯が磨きたくなってきた。やっとなんとか吐き出してみたものの、思い切りの悪さのために、唾は唾というよりむしろ涎になって、バカみたいにあいた口からメガネのガラスまで透明な液体の橋を作ってしまった。

 なんだかひどく見苦しいことをしてしまった。誰にも見られていなかったかどうか、おもわずあたりを見回す。

 ギクリとしたのは、フクちゃんが見ていたからだ。いや、ほんとうに見ていたのかどうかはわからないけれど、少なくともこっちに顔を向けていた。焚き火の横の砂浜に腰をおろし、たてた膝に両手の肘のあたりをかけて、手に持っている端の焦げた木の枝で、ゆっくりと砂を掻き回している。なにもレイラを見ていたのではないかもしれない。ただ、ばくぜんと、ぼんやりと、沖のほうを眺めていただけなのかもしれない。溺れたりしていないかどうか、警戒してくれていたのかもしれない。

 だが、なぜかいきなり頬が火でもついたように熱くなった。心臓がどきどき言い出した。

 レイラは顔を背け、唾をガラス面にこすりつけ、端から端まで満遍なくゆきわたらせ、海ですすいだ。ピカピカといっていいほどきれいになった水中メガネを顔にくっつけ、頭から沈みこむようにして、泳ぎはじめた。まぶしい陽射しが海底に揺らめきながらモワレ模様を描いている。できるだけ深く潜っていってから顔をあげてみれば、どこまでも遥かに広がった水面が割れ鏡のように百万のナイフのようにキラキラと冴え冴えと輝き渡っていた。