yumenooto uminoiro |
都会の電車は、五分に一本とか二分に一本とか走ってくるって聞いたことがある。 だったら乗り遅れても平気だね。ちょっと待ってればすぐ次が来る。「何時何分の電車に乗ろう」って、前もって決めなくていい。駅に行けば、いつでもすぐに電車が来る。 なんて便利で、ぜいたくなんだろう……! そんなにいっぱい電車が走ってて、ぜんぶに誰かが乗っているなんて、すごいね。朝とかは、ものすごく混んで、ひとがぎゅうぎゅうづめになったりもするらしい。そんなに混んでるなら、そして、そんなにすぐに次がくるなら、見送って次の電車にすればいいんじゃないかと思う。もしかして、つぎもやっぱりぎゅうぎゅうなの? アンビリーバブル! そんなにおおぜいのひとがいるって状態を、わたしはうまく想像できない。テレビで、渋谷っていう都会の駅の前の大きな交差点があっちからこっちから渡るひとでいっぱいになっているのを見たことがあるけれど。あれがふつうのことならしいけど。ジモトじゃあ、お祭りのときだって、あんなにならない。たぶん、都会では、わたしなんか立ちすくんで、まごまごして、すぐにぺちゃんこになってしまうと思う。 星海線の電車は二輌編成で、環境にもひとにもやさしいハイブリッド車両だ。 自動車では昨今めずらしくないけど、鉄道のハイブリッドは、これが世界初なんだって。スピードを出したり坂をのぼったりするときには、ディーゼルエンジンで発電してがんばる。惰性で走るときや、ブレーキをかけたときには、余るエネルギーをリチウムイオン蓄電池にためこんでがんばる。停車中とかはその溜めた電気をつかうからとってもエコ。車内にトイレもあるし、車椅子のひともはいれるぐらい大きくてきれい。 あの電車が、ひとでぎゅうぎゅうづめにこむなんてことは、たぶん、永久に、ありえない。 キハ200形という地元自慢のその電車は、通勤通学時間帯にはなんと十五分おきに来てくれるし、観光シーズンには臨時便が増発になったりもするけれど、ふだんは一時間にいっこもあればいいほうで、もちろん終電はとてもはやい。 わたしたち高校生にとって、乗る予定の電車をうっかりのがしちゃう、タッチの差で間に合わなくてガックリ……っていうのは、日常的すぎてつい油断しちゃうだけに、けっこうよくある悲惨な事態だ。 あれには、ほんとうに、まいる。とほうにくれる。二時間三時間先まで次がなかったりすると。翌朝まで、どうにもしようがない場合すらあるし。 歩いて帰ろうとすれば何時間もかかかるし、そのうち日が暮れてあたりは真っ暗だ。雨が降ってたり、冬だったりすると、舗装路日じゃない地面がぐちゃぐちゃで絶望的。そうでなくたって、薄暗い山道を女子高生がひとりとぼとぼ歩いていたりしたら、どんな犯罪を誘発するかわかったもんじゃない。 だから、もし電車をしくじったら、すばやく謝るしかないのだ。さっさとあきらめてごめんなさいやっちゃいましたって連絡をして、誰かに車で迎えにきてもらうしかない。クラブ活動の予定が変更になったとか、突然熱がでちゃったとか(つまり自分に非がない場合)でも、ご好意にすがるしかないから、気持ちはちょっと卑屈だ。運転するひとはするひとで、家族がどこか徒歩圏外にでかけてるときは、潜在的に緊急に呼びだされる覚悟をしていないといけない。 タクシー? うん。そうね。星海町には五台も§一文字傍点§あるから、呼べば来るけどね。幾らかかるか。交通量少ないから時間のわりにぐんぐん距離を走る。だから、そうね、10分とかのると、もう何千円レベルです。バス? あるけどね。電車以上に本数がすくないんだよね。 ちょっと前までは、スマホや携帯もなかった。連絡がつかないとか、行き違いとか、勘違いの待ちぼうけとか、いろいろな不幸な事態があって、もっともっと悲惨でたいへんだったらしい。いまはモバイル端末にはGPSもついてたりするから、ちっちゃな子がどっかいっちゃってもさがしやすいけど、逆に、どんなにひとりでゆくえをくらましたくなったって、そうはいかないんだけど。 こんな環境です。 若者がジリツするのはむずかしい。 恋を育むのは、もっとむずかしい。 でしょ? だって、ふたりきりの甘い時にも、どんなに愛情やら欲望やらが燃え上がっても、どこかで冷静に電車(またはそれをしくじったときの帰宅方法)のことを考えてないといけないんだよ? 帰らなきゃならない時間はいやおうなしに決まっている。その時が近づいてきたら、どんなにラブラブで別れがたくても、あきらめるしかない。ずっといっしょにいたいなあ、いられたらいいなぁと思っても、朝までこのままくっついていたいなぁと思ったとしても、せつない気持ちを断ち切って、いさぎよくサヨナラしないといけない。 そんな事態になるぐらいなら、親に内緒にしようなんてことは、思わないほうがいい。ごまかそうとすればするほど不自然で苦しい。「なんで遅れたの」「誰とどこいってたの」「ちかごろソワソワしてない?」「いったいなにを隠してるの」はげしく追求されるに決まってるんだから。 そう。隠せない。だって、休日にデートに行ける先の選択肢だってぜんぜん多くないんだよ? それはイコール、まちがいなく誰かとかぶるということだ。町内どこにいこうとも、ぜったい知ってる誰かがどこかで見てる。 高校生の分際で恋愛なんてのんきなことができるのは、赤ん坊のころからおさななじみで仲良しでそのままゆるやかな恋愛関係にシフトしてきた子たちで、つまりそれはもう恋愛というよりも、長年つれそってきた夫婦も同然なのだ。一生それっきりそのまんまの超安定カップル(とうぜん、親も周囲もみな公認、いずれほんとうに結婚する)だ。彼らには、それ以外の選択肢なんてはなからないし、それで不幸だったりはぜんぜんしない。とても幸福なのだ。 あるいは、たまたまラッキーにも徒歩や自転車で行き来できるご近所同士で恋に落ちることができたら。あるいは、彼または彼女がバイク乗りだったり軽トラとかをちゃんと自分で持ってたりする場合ね。 そういう子も少なくもない。校則違反でもないんだ。十六や十八になったら免許をとるっていうのは、星海みたいな僻地のいなかではいたってふつうなことだから。男子でも女子でも。教習所にはいく。さっさといく。いけるようになったらいく。費用も、なんとかしておく。たとえば、こどものころからもうそのためにお年玉とかぜんぶためておくとか。バイクや自動車は中古だって、こどもにしたらぜんぜん安くないけど、親のほうもあてにしてるから、そこそこ援助はしてくれる。ちっちゃい子を保育園に迎えにいくとか。おじいちゃんやおばあちゃんを病院につれてくとか。灯油とか米みたいな重たいものを運ぶとか。若者の体力と機動力がもとめられる用件はいくらでも存在するのだ。 いなかには。 公共交通機関がさほど発達していない場所には。 そういうふうに献身的に家族につくす良い子ほど、もちろん、甘い恋愛というぜいたくからは、無限に遠ざかることになる。考えてみると、これは、おおいなる矛盾だと思う。わがままでジコチューなひとのほうが、恋にむいてるっていうのは。 だって、恋に堕ちちゃうとふたりの世界になっちゃって対外的なことはどーでもよくなっちゃうでしょ。 責任感ある子ほど、そうかんたんに、恋できないよね。 少子高齢化の世の中、若者の恋愛に対するおとなたちの態度は「どうぞお好きに」をとおりこして「がんばれ、ぜひ、どうか願わくば手遅れにならないうちに!」だ。もし、そのおかげで、地元から出ていかず、次の世代を生んでさらに繁殖してくれるなら、じつにめでたいことになる。 なにしろ星海はひとが少ない。 しかも、ひまな年寄りが多い。 だから、なんでもすぐにうわさになる。 あの子とあの子がお似合いだ。好きあっているようだ。両思いだ交際だとなったら、好奇心まんまんの視線で
のべつじろじろ注目され、ニヤニヤからかわれ、旧世代ノリの遠慮会釈なく世の中にセクハラということばがなかったころの発言をストライクでぶつけられる。「恋愛のベテラン」を自称するおせっかい焼き集団にいらんアドバイスもきかされる。誕生プレゼントはこれにしろとか、そのためのバイトはここでやれとか、いやうちにきて俺の手伝いをしろ、色つけてやるから、とか。 恋人本人およびその家族の過去の過ちとか恥ずかしいこととかがしたり顔でむしかえされ、ご近所との確執や学年別成績まで逐一ばらされる。性格分析や相性判断をされるのはもちろん、結婚式までの正しいスケジュール管理のために必要な六曜つきカレンダーをさしだされたりする。 こうなんだもの。 ちょっといいな、あの子、好きだな、きゅん。なんて思っても、……そうかんたんには踏み切れません。 うっかり気軽に恋愛関係におちいって、しかも破局になったりしようものなら、元カレや元カノができちゃうでしょ。町内全域に×つきの人間だと認識されるようになるんだよ。好きになってだめになった当の相手とも、ごく狭い生活圏のあちこちで、年がら年中すれちがうんだよ。 そんな悲惨で過酷な目にあうぐらいなら、「いいな」の気持ちはこころひそかに灯しておいて、なにくわぬ顔でふつうにともだちっぽく仲良くしているほうがいい。男女を意識しないともだちのまま、ほどほどに親しくしているほうがいい。ずっといい。平和で幸福。誰も傷つかない。 だから、わたしは、那智§なち§くんのことがほんとうにほんとうに心の底から大好きなんだけれど、その気持ちがうっかり燃え上がらないよう、恋なんかぜったいしないよう、うんと、うんと、気をつけている。時谷§ときたに§那智くんは、それだけ、大切で、特別で、ぜったいにそこないたくないひとなのだ。 母と父にあれこれややこしい話を聞かせてもらった日、わたしは高校を無断欠席した。 なにしろ話はとっても長かった。はるかな年月にわたる話で、聞いても聞いてもさらに奥があって、きけばきくほど、わかんなきことがふえるっていうか、なかなか全容が見えてこなかった。そのうち、話すほうも聞くほうもすっかり疲れてきて、なんか喉がかわいたね、頭もぼうっとしてきたから、ちょっとひと休みしようかって立ち上がってみたら、窓の外が真っ暗だった。 親子で顔を見合わせた。いつの間にか夜になっていたのだった。まるで時間がすとんとかたまりで落っこちたみたいに。 明日はいつもどおり学校なんだよね〜、って考えてみて、はじめて、「うわっ、なんだこれしまった!」って気付いた。朝から学校にいかなかったこと、つまり、無断欠席してしまったことにやっと気付いたのだ。すぐに電話すると、事務室のひとに、 「ほ、ほ、星野さん! ぶじだったんですか!」 悲鳴みたいな声で叫ばれた。 「そこはどこですか。誰といるんですか? おとうさんやおかあさんは知っていますか!?」 あー。まじやばい。 最近、町に不審者がうろついてるって噂があって、そうでなくてもおとなはぴりぴりしてるんだった。噂では、片方の顔はすごくハンサムなのに、反対側がものすごい火傷の痕になってる怪しい男なんですと。なんだそれ。ちょっと作りすぎじゃない? ホラー映画の設定ですかっつーの。第一、それが、そんなのがほんとだとしたら、怖いっつーより、むしろ気の毒なひとなんじゃないの。 どうやら、学校は、何度もうちに電話をしてみてくれたらしい。 ああ。 どうして誰も呼び出し音に気付かなかったんだろう? もしかすると、わたしたちのまわりに、バリヤーみたいなものが張りめぐらされていたんだろうか? なにかのむこう側にあるこことはちがう別の世界に、家族そろっていってしまっていたんだろうか。 だとしても、いまはまた正気にかえって、みんなそろって、こっちにもどってきたのだ。 すみません、ごめんなさい。 わたしは平謝りに謝った。 実は、登校途中で、具合がわるくなって、そのまますぐ帰宅してしまったんです。 (ちゃんとそれらしい話を作ってから電話すればよかった。まさか、そんな激しい反応がかえってくるなんて思ってなかったから、面食らった。そのわりに、冷静だったじぶんをほめたい) あいにく両親が家にいなくて。どこかに出かけていたものですから、ひとりでそのままやすんでいました。つい、ぐっすり眠ってしまって。両親は戻ってきたら、わたしをみて、ああ、早退したのねって思ったので。 ごめんなさい、何度も電話してもらって、たぶん、わたしが静かにねてられるようにって鳴らないようにしてたんだと思います。まさかそんなことになっているなんて。ずっと気付かなかったんです。ごめんなさい。それだけなんです。はい、大丈夫です。ちょっと貧血っぽかったんじゃないかと思います。もうなんともありません。両親もいますし。あしたはちゃんと学校にいきます。すっかりご迷惑おかけしました。連絡が遅れてしまって、どうもすみませんでした。申し訳ありませんでした。 ふう。 「あ、待ってください、きらないで! 浅川先生がきました。かわりますから」 担任は、しゃがれた声で、やあ、星野、無事だったのか、よかった安心した、と言った。警察に連絡するかどうしようか、教頭と相談していたところだぞ。 うひー。 「いや良かった。ほんとうに良かった。われわれはつい最悪のことを想像してしまって。時谷§ときたに§には、すまないことをしたな」 えっ、 (どき) うそ。 やだ、那智くん? ふええええん! あんたたち、あたしの大事な那智くんに、いったいなにをしやがったのよ!? 「といつめられましたよ」 ならんで歩いてる。 那智くんとわたし。 放課後だ。 ごめんなさい、すみません、申し訳ないほんとうに。わたしあやまる。平謝りにあやまる。どうかゆるしてください、かんにんしてください。もうしません。 「星野さんは、拉致されたんじゃないかって、先生がた、ほんと、パニクってた。ぼくは、たぶんそんなことはないと思うって言ったんだけど。聞く耳ナッシングで。ずっと星野さんに執着していたストーカーがいるんだろう、そうにちがいない、おまえなら詳しいことを知っているはずだ、誰もかばうな、遠慮するな、この際すなおに全部吐け、教えろって、恫喝されました」 裏手の崖をぬう細い道だ。 校舎は小高いところにある。鉄道の駅からなら商店街や住宅街をぬけて行くことになるんだけれど、いちばん近いコンビニは、この崖を降りた国道ぞいだ。コンビニになる前は、老舗の酒屋さんで、パンやアイスもおいてあった。冒険心と空腹が、学校から店まで無理やり抜け道をとおしたらしい。よそのおたくとおたくの間に、幅五十センチあるかないかの通路がつづく。ほとんど猫道。両側が高いブロック塀で、ゆだんすると肘をすりむいてしまうところがつづく。まったく見通しがきかない直角とかもあって、ミラーがついてる。自動車なんかぜったい通れないところだけれど。急ぐ高校生が走ってきて衝突するとあぶないからだ。 そんな過酷な曲がり角で那智くんは苦労して自転車の方向をかえる。 「別にそんなのに心当たりなんかありませんって言ったんだけど、槙野§まきの§くんの名前をだされちゃって。う。しまった、って。そこまで具体的に聞かれちゃったら、もうごまかしようもなかったんだ。だから、ごめん。話しちゃいました。たとえぼくが知らんぷりしても、鹿流小§かるしょう§に問い合わせれば、あのころの事情を知ってる先生がまだいるはずだし」 うん、とわたしはうなずく。 そのとおりです。その判断まちがいないです。それでいいです。 ああ、ほんとに。ほんとにごめんね。 ごめん那智くん。 今日、わたしは、朝からいったい何回ひとに謝っただろう。 校長室で。教員室で。ホームルームで。休み時間、机のまわりに集まってきたみなさんに。廊下でたまたまばったりあったかたがたに。 「ごめんなさい。心配かけて。ほんとうにごめんなさい」 「星野さんが謝ることないです。でも思い出してみたら、なんだかぼくまで、じわじわ心配になってきちゃいました」 「今回のことは、槙野くんは関係ないよ」 「うん。でも、それは、あの時点ではわからなかったし。彼も、いまじゃすっかり大人なはずだから。たしかに、警察に、いちど、ちゃんと相談しておいたほうがいいのかもしれないって、ぼくもあらためて思ってしまって」 それは、鹿流小学校で、那智くんが四年生でわたしが二年生だった時のこと。六年に槙野晴彦くんというひとがいた。支援学級のひとで、感情をおさえるのが苦手で、からだがとても大きかった。先生がただって、槙野くんよりも大きいひとは二三人しかいなかったぐらいだ。 休み時間や掃除の時間になると、槙野くんは、わたしをさがしにきた。わたしにあいたがった。でも、その気持ちのあらわしかたがへたくそすぎた。すれちがいざまにぶつかってきたり、髪をつかんだりするんだ。ああ来たなと思って、女子トイレに隠れて、あーあ、困ったな、はやくどっかいっちゃってくれないかなって思ってると、マハネばばあ、どうした、出てこい、って叫ぶし。トイレ長いな、うんこか、うんこたれてんのか、ぎゃはは、って、きんきんする大きな声で言うし。ずっと言ってるし。それ、女子的には、やっぱり屈辱だし。 壁にもたれてぼうっとしていると、とおりがかりの子が、わたしをじろじろ見るし。チャイムがなってしまうまで、トイレから出られなくて。わたし、なきべそかいた。 ある日、たぶん、そんなにわざとじゃなくて、ただちょっとふざけの度がすぎただけだと思うけど、槙野くんに、すりちがいざま、つかまった。手首のところを、強くつかまれた。放して、っていっても放してくれないから、もがいたら、腕のどこかが、ぽきっといった。腕がとれちゃったかと思うような衝撃だった。もちろんついてたけど。ものすごく痛かった。手ぜんたいに、火がついたみたいだった。 わたしは泣いた。がまんしきれなかった。くやしいけど泣いた。わーわー泣いて、たまらず、その場にしゃがんで、わーんわーんって、泣いてしまった。すると槙野くんは真っ赤になって、怒鳴った。ばかマハネ、泣くんじゃねえ、ほんとうはなんでもないくせに、平気なくせに、そんなに泣いてみせて、同情ひいたりするんじゃねえ。 わたしが悲鳴をあげて、もがけばもがくほど、槙野くんは、かえって興奮して、どんどん乱暴になるみたいだった。やめろ、やめろって言いながら、ぶったりたたいたりした。頭や、背中や、からだじゅうを。平手でたたいて、げんこつでたたいて、蹴って、つかんで、ゆすぶった。髪をつかまれて、ふりまわされた。わたしは廊下をひきずりまわされた。ほこりが口にはいってげほげほむせるぐらい。 さすがに先生がたが駆けつけてきて、暴れる槙野くんをはがいじめにして、どこかへつれていった。ほっとしたけど、ぼろぼろだった。腕はすごく痛くて、燃えてるみたいだ。からだじゅうのほこりをはたいて立ち上がってみても、まだ痛かった。教室に座って、自分の席で、じっとしていても痛かった。授業がはじまって、何時間かたっても、まだジンジンする。だんだん痛いっていうより、しびれてよくわからなくなってきたんだけど、ちょっと動くと、ビーンとひびいて、涙がでてしまった。 ショックでふるえがとまらなかったこともあって、とうとう、先生に頼んで、保健室にいかせてもらった。保健の先生はわたしの話をきくと、そうだったの、こわかったわね、それじゃあ少しここでやすんでなさいねって、ベッドをあけてくれた。いたみどめの薬をのみますか? わたしは首をふった。知らないくすりを飲むのこわかった。そうして横になったけど、まだやっぱり痛かった。 那智くんは、掃除当番で保健室にやってきて、わたしを見つけたのだった。わたしはあんまり泣きすぎて、疲れ果てていた。涙とはなみずと冷や汗で、きっとものすごい顔だったと思う。おばけみたいな、やつれかただったんだと思う。 きみ、どうしたの、って聞くから、つかまれた痕があざになっている手首を見せた。そこ、痛いの? どうして? わたしは説明した。しどろもどろ。すると、もしかして肘が抜けてるんじゃない、って那智くんが言った。那智くんも保育園のころ、肘が抜けたことがあるんだそうだ。それはそれは、ものすごく痛かったって。 保健の先生は驚いた。肘の関節が抜けたりするのは、ふつうは、就学前ぐらいの小さな子で、小学生にもなったら、ふつうは抜けたりしないらしい。それで、考えてもみなかったらしい。 連絡するとママが迎えにきてくれた。那智くんは柔道接骨院までついてきてくれた。どこにそれがあるのか、ママも保健の先生も知らなかったから、自分が世話になったことがあるところへ、道案内をしてくれたのだ。 那智くんのみたてどおりだった。接骨の先生は、わたしの腕をちょっとひっぱって、ある方向にそっとまわして、ぽん、とはめた。すると、突然、うそのように痛くなくなった。 わたしは年齢のわりに体格がきゃしゃだったし、槙野くんの怪力も、ちょっとふつうじゃなかったんだと思う。 きっと強く注意されたのだろう。槙野くんは、わたしにかまわなくなった。しばらくのあいだは。 でも、二週間もすると、またチラチラ廊下とか校舎のかげとかで、こっちを待ってるようになった。ぜったいに近づくなって言われてるから、遠くからこわい顔でにらんでる。視線を感じてふりむくと、どこかに立ち止まってじっとこっちを見てる。げたばこに、へたくそな字で書いた手紙がはいってたこともある。うそつきマハネ、ほねなんかどこもおれてねーのに。かわいそうなふりなんかしやがって、どうせ金めあてだろう。卑怯もの。そんなことが、ものすごくたどたどしい、怒りくるったみたいな字で書いてあった。 槙野くんは、怒っていた。 いつだって怒ってて、ずっと怒っていた。 痛くしちゃってごめんね、もうしないね、みたいな考えは、槙野くんには、なぜか、ありえないみたいだった。 わたしがおおげさに痛がって、先生たちに言いつけて、もしかすると、親からも叱られたのだろう。そのことを、恨んでる。自分をこまらせたわるいやつだから、復讐したいのだ。悪いやつであるわたしをこらしめて、あやまらせたい、自分のほうが正しいと証明したい、そう思ってるのだ。 チャンスがあったら、次はやる、ぜったい失敗しない、そんなに折られたいならこんどはほんとに折ってやる。ぶつぶつひとりごとみたいち言ってることがあるよって、誰か教えてくれた。 すごくこわかった。 どうしてわたしだったんだろう? どうしてわたしに目をつけたんだろう。 わたしのことなんて、気にしないでくれればいいのに。そうしたら、わたしだって、ゆるすのに。どうすれば忘れてもらえるのか、許してもらえるのか、わたしにはぜんぜんわからなかった。 槙野くんの姿が見えると、ううん、気配がしただけで、おなかがぐにゃぐにゃしてきた。肘がぬけた時のばらばらになっちゃいそうな痛みがよみがえって、気が遠くなった。 それはもう冬になりかけで、寒くなってきたころ。槙野くんは六年生だから、ほんの少しがまんすれば卒業になるころ。はやく三月になれ、はやく卒業して、と思っていた。おねがいします、どうか、どこかよそのほうへいってください。どこか遠くにいって、二度とあわなくなりますように。 目の前からいなくなったら、見ることもなくなったら、わたしのことなんかどうでもよくなるだろう。 そうなってほしい。 そうなってほしい。 「……ほんとは、どこいってたの?」 那智くんがぽつんと言った。 「え」 「きのう」 「ああ……」 「いいたくないならいいけど。もしかして、それ、誰かは、知ってたほうがいいことなんじゃない?」 那智くんの声は男の人にしてはすこし高い。やわらかくて、ふんわりやさしい。 「もし、誰かがひとりぐらい、ちゃんと真相をわかってたほうがいいことなんだったら、ぼくに教えてくれてもいいよ。 知ってるとおり、ぼくは口がかたい。 自分でいうのも、なんだけど、信頼おける人物です」 わたしがぼうっとしていると、ふいに、那智くんの指がひらめいた。 キャンディーがあらわれる。 空中のなにもなかったところから。 ありがとう、って受け取って、包み紙をほどいてほおばる。モカミルク味だ。甘い。ほっとする。 受け取った包み紙が、那智くんの手の中でぱちんとたたかれて、一瞬でキラキラの蝶々になる。ふわふわとぶ。 そう、那智くんの特技は手品。 手品が得意。 那智くんのおとうさんは政治関係のひとで、おかあさんはお医者さんなんだって。なんか、すごく立派なひとたちらしい。おとうさんは世界の紛争地域とかで、苦しんでいるひとたちを助ける働きをしていて、おかあさんも、ただ診察するだけじゃなくて、医療行政とか、日本の将来とか、なんかそういうたいへんなことにかかわるぐらいえらいひとであるみたい。代々そういう家柄だったり役割だったりする一族だったりするらしい。 すごいー。 だから那智くんも病院とかそういうところになじみがあるし、なんか、ひとのため、みんなのため、みたいなこと、すっごい考えてる。剣道と弓道でからだとこころを鍛えていて、病院や幼稚園、老人ホームとかで、頼まれて、手品を、しょっちゅうやってみせてる。そういうとき、那智くんは手袋をする。ぴかぴかに真っ白い手袋と笑顔。なんだかミッキーマウスみたいだなって思って、もしかしてめざしてるのかもなって思ったことがある。聞いてみたことないけど。きっと聞いたら照れる。 いつでも誰でもウエルカムで、どこまでも限りなくオープンハート。サービス精神旺盛な、永遠の人気者。 だから、赤ちゃんからおばあちゃまにまで、くまなくもてる。男子にも女子にも好かれる。なのに、ぜんぜん鼻にかけない。いっしょうけんめい。やることなすことおしゃれで、さりげなくて、自然体。 中学では生徒会長だった。運動会とか文化祭でも、骨惜しみなく働く。愛とか希望とか夢とか、友情とか、そういうきれいなことばが、無理なくにあう。 魔法のキングダムのあるじに、那智くんは、ほんとうにぴったりだ。 ほかの誰にもいえないことでも、たしかに、那智くんになら、言えると思う。 聞いてもらえる。はず。 だから。 「海にね」 つい、ぽろっと言ってしまった。 「行ってたの」 「海?」那智くんがちょっと足先をつまずかせたので、自転車のどこかがチリンと言った。「ええっ、海。ひとりで行ったの? すごく遠かったでしょう」 「ううん。遠くなかった。すぐそこだった」 おもわず本音をもらすと、那智くんがびっくりしたような顔をした。 「……ごめん。へんなこといった。これね、……ちょっと夢みたいな話なの」 「夢」 「そうなの。けど。……そうでもなくて。ああ、ごめん。へんないいかたして。こんなの、余計混乱しちゃうよね」 だって、どこからどこまでがいわゆる現実§リアル§で、どこからそうじゃなかったのか。わたしにもまだよくわかってない。区別がつかないのだ。母の説明も、父の思い出話も、まだ全部を聞かせてもらってないし、理解とか消化とか、ぜんぜんできてない。 でも、 ――もし、誰かがわかってたほうがいいことだったら―― 那智くんには、いちおう、ねんのため、知っていて欲しいかもしれない。 ひとの痛みにめざとくて、治す方法も知っている、魔法使いの那智くんに。 「あのね。那智くん。もし、もしね? わたしがもし、突然消えちゃっても、信じないでね。たぶん消えてないから。いないように見えるだけ。そこにいても、見えなくなってる。ただそれだけだから。だから、……だまされないで」 ああ、こんなこというと、ばかみたいだ。頭へんな子だと思われるんじゃない? 「うまく言えないんだ。ごめん。とにかく、だいじょうぶだから。きっと、見たとおりのことが起こってるわけじゃないの。那智くんの手品みたいっていうか、ふつうにはわかんないようになっているっていうか……だから、えっと、つまり、ただの、……ただの、家庭の事情なんだよ」 「……家庭の事情……星野さんちの?」 那智くんの瞳に、心配そうな真剣味がくわわる。 「なにか、具体的に困ってることがあるんじゃないみたいだね?」 「うん。そうじゃない。だったら相談する。すなおに。……ごめん。ほんとばかみたいで。こんなふうにしかいえないと、かえって心配かけちゃうね。できたら、ちゃんと説明する。でもいまは、これぐらいしか言えない。うまくできない。ごめん。ばかで」 「星野さんったら。そんなに謝らなくていいのに。きみは、ぜんぜん、ばかなんかじゃないのに」 「ごめん」 那智くんは、小さくためいきをついた。 「でも。いなくなったりしないでほしい。さびしい」 「……わざとはしないけど」 でも、海が。 あの海がわたしを呼んだら。 本気で呼んだら。 ……抵抗なんて、できるのだろうか。
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