yumenooto uminoiro |
Layla 4 太陽が天頂を過ぎ影が長くなりはじめる頃、こどもたちは海を引き上げた。 時間をかけて慎重に火勢を弱めておいた焚き火は小さな黒い炭の塊の状態でその場に残し、明日また次の火の土台になってもらう。畳んだパラソルや浮き輪やビニールボートなど、浜でしか使わない道具は、花火を買いに寄った時、あの文具屋さん レイラはちょっと迷ったのだが、大事な白い水中メガネはそっと自分のバッグに隠して持って帰ってきた。文具屋さんを怪しんだわけではない。まさか一度売ったものを知らん顔してまた軒先にぶらさげて売るはずはない。盗まれるかもしれないと考えてみると、預かってもらった他のものと比べると、水中メガネなど無価値である。宝物だと思うのは自分だけで、泥棒がふつうのひとなら、見るからに立派なパラソル等を持っていくはずだ。それぐらいのことはレイラにもわかる。そもそも今日まで売れずに残っていたもので、つまり、この村にはそれを欲しがるひとはいなかったはずで、いきなりそんなひとが現れる可能性なんてゼロに等しい。たまたま偶然海で遊ぶ道具を買いに来るひとが、そうそうあの寂れた商店街を通りがかるとも思えない。みんなの遊び道具と一緒に置いておいてもらっておいてもだいじょうぶで、なんの心配もなくて、けっしてこれひとつだけがなくなったり盗まれたりなどしないだろうと頭ではわかっているのだが、それでも、どうしても置いてはいけなかった。そばに持っていたかったのだ。 可能性はゼロに等しいけれども、でも、中には、それまであったものがなくなったのを見て、実際に「売れてしまった」のを見て急に、「ほんとうは欲しかったのに」と思うひとがいないとは限らないではないか。 レイラ自身にはそういうことがある。 小学校にあがる前のこと。 歳末に賑わう商店街、おもちゃ屋の軒先のワゴンに、白い紙の福袋が山積みになっているのを見た。いくら、と値札がついていたのかはもう覚えていないが、袋の大きさのわりにはずいぶん安い値段だったと思う。「福袋」と銘打たれたものを見たのはそれがはじめてだった。どういうものなのか予想はついた。たぶん、いいものじゃない。売れ残りの流行遅れのあまりものを詰め込んでカサだけ大きくして一気にさばいてしまうためのものなのに違いない。福なんてあるはずがない。 だが、歳末の人込みの中、まだ若かった母のサヨラに手をひかれ、たちまちのうちにその場を歩きすぎながら、胸が苦しいほどどきどきしたのだ。 欲しかった。 熱烈に。たまらなく。 赤ん坊の頃には、たぶん、母親のオッパイを欲しがって泣いたことがあるだろう。だが、そんなことは覚えていないし、その頃にはおそらく「欲しい」というコトバを知らなかった。そのコトバを知ってからはじめて、たぶん、その時、「自分の中」にそのコトバであらわすのにふさわしい気持ちが存在していることを知ったのだった。自覚したのだった。 欲しかった。 その欲しさが、物欲なのか、それとも、好奇心なのか、のちのち何度思い返しても区別できなかった。袋の中にどんなものが入っているのか是非とも知りたかった。それは確かだ。だとすると、ほんとうに満たしたかったのは欲望ではなく、好奇心なのだろうか? そもそもレイラはおもちゃにはそんなに興味はない。他の子がおもちゃ屋ですごす時間をむしろ本屋で過ごしたいほうだ。なのに、なぜ、あれは、あの「中身がわからない白い袋」は、そんなにも自分を惹き付けたのだろう? レイラにはわけがわからない。買って、あけてみたら、たぶん十中八九ガッカリするのだろうと思う。どうせ自分の気にいるようなものがあるわけがない。そのことは容易に予想がつくのに、それでも「欲し」かった。値段が安かろうと、不要なものは不要だ。どうせ気にいらない、ものの役にたたないもの、趣味にあわないものがどんなにたくさん手に入っていても、なんにも嬉しいことなんかないはず。余分なゴミが増えるだけ、部屋が狭くなるだけ、ダマされて悔しくなるだけ、ほかのことに使えたはずのお金をドブに捨てることになるだけ。 ママはよくそういうことを言った。つまらないものを買うことを、お金をドブに捨てるようなものだ、と言った。 もしかすると自分は、お金をドブに捨ててみたいのか? バカみたいだよ、そう自分に言い聞かせる。 よく考えて、レイラ。ほんとうに必要なものなら、たとえ値段が高くたって、買えばいい。お小遣いをためるなり、誕生日にねだるなり。なくてもすむものを欲しがるなんてばかだし、ゼイタクだ。自分は悪い子ではない。 一生懸命考える。考えることで納得してあきらめようとした。それでも欲しい気持ちは少しもおさまらなかった。 例の白い袋から見えない糸が伸びてきて、レイラのからだじゅうを縛りあげているかのようだ。 どこが悪いの! 欲望はわめく。 だって欲しい。とにかく欲しい。欲しいのよ。どうしても。欲しい! その異様な胸の高まりに、これまで覚えのない感情のあまりの激しさに、手綱をつけておさめようにも暴れまわって鎮まらない「自分の中の知らない自分」に、レイラはびっくりし、呆然とし、当惑し、いったいどう対処すればいいのか、どこをどう歩いているのか、まるでわけがわからなくなった。 まちがいなく、「抱いてはいけない感情」だった。なのに、なぜ、こんなに強いのか。 欲しい! その叫びは油断するといまにも口から飛び出しそうだった。透明な力になって、糸を引きよせそうだった。だがレイラはギュッと唇を噛み締めて思いを消した。欲望の獣の激しい咆哮をそうしてなんとか抑えこんだものの、かわりに涙がにじんできた。かくしてなんとか辛抱し通したのだが、白い袋への思いはなかなか消えなかった。レイラは考え続けた。 なぜあんなに欲しかったんだろう、と。 なぜ、欲しがってはいけなかったのだろう、と。 それまでは、欲しがらない子だった。なにかちょっと気にいっても、ふだんなら、我慢するのが大変ではなかった。ものを欲しがらないほうが「いい子」だと思っていたし、「いい子」の自分でいることが好きだった。後先考えずに、気分のままに、いまちょっとだけ良いなと思ったものをダダこねて欲しがって手にいれてすぐに飽きて放り出すようなのは、バカで愚かな悪い子だ。外では時々そういう不幸そうな子を見るが、“菩提樹”の子供たちは満たされていて幸福だから、そんな愚かしいことはしない。 好きなだけ無闇にお金を使っていたら、いくらお金があっても、どんどんなくなって、必要な時に使えなくなってしまう。足りなくなってしまう。 お金とちからは同じだ、と、レイラは思った。エネルギー、というコトバをその頃はまだ知らなかったが、同等で、同じ種類のものだということをいやおうなく感じたのだった。少しずつ溜めて、滞らせず、正しく循環させると、役に立つ。小出しにすることもできるし、必要な分を溜めておいて一気に放出することもできる。 大切で貴重なものほど、使い方をよく考えなければならないのだ。 なのに。中になにが入っているのかもわからないものを欲しいなどということが、どうして起こるのだろう? いらない、自分には関係ないと、なぜ、思うことができなかったのだろう? クリスマスの頃、町にはいつもサンタのブーツがあふれる。確かその年ではない、前の年だろう、どこかで……“菩提樹”がどこからかたくさんもらって余っていたか、商店街かなにかで配ったのかもしれない……それをもらったのだが、一見きれいな赤いブーツはまったくの見かけ倒しだった。レイラの小さな手でも容易に握り潰せてしまうほど情けない厚紙でできていて、しかも、ちょっと見にはわからないところを無骨なホチキスで留めてかたちにしてあるだけだった。片足分しかないのだから履けはしないのはわかっていたが、けっして乱暴にあつかったわけでもないのに、中身をひっぱりだしたそのとたんに形が崩れた。それがとても悲しくて、こんなものはぜったいに欲しくなかったと思った。大きなツリーにたくさんたくさん飾ってあるのを遠くから仰ぎ見ているときには、けっこうステキだったのに。そばで見れば、テカテカ光る安っぽい赤や雑な細工がみじめたらしく、こども扱いされてバカにされたようで、とても腹立たしかった。中身はといえば、パサパサのクッキーと、舐めると舌に色のうつる飴と、ぜんぜん美味しくないラムネだけ。底のほうなどスカスカだった。なんにもなしの空だった。もっとたくさん、もっといいものが、入っているかのように装っているところが、実にイヤだった。 ずるい。 こどもの喜ぶ顔見たさにこれやこれと似たものを家に買って帰ったのに、失望する顔を見せられて、いっしょになって怒るのならまだいいが、「せっかく買って来てやったのに、その態度はなんだ」不機嫌になってしまうおかあさんやおとうさんがきっと日本中に山ほどいて、そのおとうさんに裏切られたような気持ちになってせっかくのクリスマスだっていうのに泣きたくなるこどもたちもまた山のようにいるに違いない。そう思うと、そんなおとうさんやこどもたちを作る、ひとを騙して儲けようとするブーツのやり口は、ほんとうに許せないと思った。 だが……たとえそんな卑劣なやり口であろうとも、「何か」をもらうことができたなら、こどもたるもの、素直に喜ばなくてはならないものではないか? ともかくもらったということに単純にコロリとだまされて、嬉しい、ありがとう、と、喜んで見せなくてはならないのではないか? いや、どんなチャチで無意味なものでも、けっしてガッカリなんかせず、本気で感動できるような、そんな微笑ましいおバカさんでいられたならそのほうが望ましいかもしれない。 子供がそういうふうだとおとなは助かるし、安心するし、世界は平和だ。 だから、ありがとう、すごく嬉しい。はしゃいで喜んでいるふりをしたし、まずい菓子も残さず食べて、みっともないブーツもしばらく大事に飾っておいたけれど、そうしている間じゅう、レイラとしては、かなり冷めた皮肉な気持ちを抱いていたのだった。 次にその商店街を通りがかったのは、年が明けてしばらくしてから後のこと。年末が過ぎ、正月が過ぎ、妙な浮かれた雰囲気とどこから涌いて出てきたのだろうかと疑いたくなるようなひとごみがすっかりなくなって、いつものうらぶれた静けさと寒々しさを取り戻した商店街のあの店の前には、当然のことながら、すでに福袋の台はなかった。 あれは「二度と」手にはいらないものだったのだ。 そう思ったとたん、胸を圧した安堵と寂寞と喪失感を、レイラはとてもよく覚えている。 そう、安堵もあったのだ。もう迷わなくていい。もう騙される心配はない。しかし体のど真ん中に大きな穴があいたような気持ちは、確かに自分が何かを永遠に失ったことを声高に主張していた。 なにを失ったのかもわからないものを失ってしまった。 レイラはとてもとても悲しくなり、恐くなった。 以来、欲望というものについて、身構えずにいられなくなってしまった。 なにかを欲しがることも、手にいれてみることも、どちらも同じぐらい虚しくてイヤだ。欲しくなってしまうことも、欲しがって得られないことも、手にいれておいてうっかりなくしたり盗まれたりしてしまうことも。 欲望というものがからむと、なにもかも凶悪になる。辛くて悲しくなる。そんな思いをしたくなければ、なにも見ず、なにも聞かず、なにも感じず、なにも欲しがらないにこしたことはない。なのに、世界は手を変え品を変え欲望をそそる。ほら素敵でしょう、これはどう、こんなのは好きでしょう、欲しいでしょう。誘惑の魔の手を伸ばしてくる。油断も隙もありゃしない。 世界は広すぎ、選択肢は多すぎ、時間は流れすぎてしまう。チャンスは来たと思えば去る。キョロキョロ目移りしたり、迷ってぐずぐずしたりしている間に、ゆきすぎて、二度ともどらない。 あたしはきっとこれからもたくさん、するべきだったことをしそこない、見るべきだったものを見損ない、出会うべきだったひととはぐれ、手に入るはずだった宝物を知ることもなく通りすぎていくのだろう。一生というのは、きっと、そんなふうにすぎていくのだろう。 それを、どうしようもないのだ。 そんなにもちっぽけで無力なのだ。 レイラは震える。 無限の力がないということに。 欲しいものをすべて手にいれるのは不可能なんだという自覚に。 どこの誰にも許されてないことなのだから、わたしだけが不幸なわけじゃないけれど。 世界の王様にでもならない限り、誰にも。ぜったいに、かなえられないことだけど。 そんなわけで、スミカが……わざわざ、レイラ自身がすぐに諦めようとしたのに、それでも、あえて、道を戻ってまで!……買ってくれた純白の水中メガネという宝物は、なにがあってもぜったいに失ってはいけないものなのだった。 それに、できれば、一度マツエさんに台所用洗剤を借りて、ガラスを洗っておきたかった。洗剤で、ごしごし洗って、ほんとうの意味で清潔にきれいにしておきたかった。こんど曇ったら自分の唾を使うし、もう絶対に自分の唾しか使わないつもりだ。 小学校の横を通って山のほうに戻る道があった。塀の上に眠たげな猫がいたり、松がみごとな枝ぶりを示したりしているよその家々を外から眺めながら村を抜け、線路とその土盛りを横断すれば、目の前にツユクサの崖が迫る。間をひとすじ貫くのが例の階段だ。 潮につかって気怠く重い手足をはげまして高台の家までのろのろと階段を上っていると、いきなり、わん、と吠える声が降ってきた。ふさふさの毛をした犬が庭の縁からひょいと覗いている。 「トランプ!」 スミカが呼ぶと、トランプ殿下は高貴な鼻面を横にかしげ、太くてたっぷりした尾をゆさゆさと振り、くるりと横を向き、階段口をめざして駆けてきた。そのまま勢いよく道を下ってくる。ただでさえ急で狭い階段が足元をちょろちょろする犬のせいでやけに歩きにくかったが、みんなはずんだ笑い声をあげ、早足になった。歓迎は嬉しい。 どうやら後発隊が到着したらしい。「家族」がまたもとどおり、ひとつになれるのだ。嬉しい。 足を速めてのぼってゆく。昨日他人行儀に見えた庭も、たった一日たっただけで、今日はもう「うちの」庭に見える。なにしろ狼のようなレディもブランコの支柱のあたりに座っているし。庭には、コバヤシユキオくんと、それに、アキコを抱いたナルミちゃんもいるのだ。 「おかえりー、おかえりー」赤ん坊のアキコの手を持って振らせながら、からだを揺すりながら、ナルミちゃんが歌うように節をつけて言う。 コバヤシくんは、サングラスをはずすと、みんなの間を影のようにするりと抜けてヒロさんに歩みより、ほとんど中身のないバッグを預かった。「おかえりなさいまし」低い、囁くような声で言った。 コバヤシくんは“菩提樹”に所属する大勢の大人のうちで一番若い男のひとだ。二十歳そこそこ。少し前までは子供の側だった。レイラがまだ小学校にあがる前のチビだったころ、ヒロさんの家に一緒に暮らしていたこともある。年が離れ過ぎていたし、彼は寡黙でじぶんのせかいに閉じこもりがちだったから、あまり遊んでもらった記憶はあまりない。中学を終えると高校には進まず、“菩提樹”本館に住まいも移した。そちらで、さまざまな雑用や“ひめ”たちの手伝いをして過ごしているらしい。 ボタンをとめないで着たシャツの喉のあたりに時々キラッとするものは、ぜったいにはずせないようになっている金色の十字架だ。髪は伸ばして垂らしている。ヒトシのようなほったらかしのボサボサではなく、つやつやのストレート。脚がとても長く、睫の長い目が少し垂れ目ぎみで鼻がすうっと高い。しょっちゅうガムを噛んでいるから、そばに寄ると、かすかにハッカの匂いがする。だが、あまり親しみがもてないのは、ひとを寄せつけない態度のせいかもしれないし、いつか見たテレビドラマで謎の連続殺人事件の真犯人の役をやったなんとかいう流行歌の歌手のひとにちょっと似ているからかもしれない。 コバヤシくんはたぶんあまりこどもが好きじゃないのだと思う。 いつか、アキコが吐いて、熱を出して泣いて泣いてとまらなくて、マツエさんとナルミちゃんが病院に連れていかなければならなくなったことがある。留守番役を頼まれて急遽ヒロさんのお屋敷にやってきたのが、コバヤシくんだった。スミカもヒトシも双子たちも、もちろんレイラ自身だって、不安で恐くて居ても立ってもいられなくて、なんとなく玄関ホールにうろうろしていた。ともかく来てくれたおとなのひとに、みんな思わずしがみつこうとした。だいじょうぶだよ、心配するなよ。やさしく抱きしめて、なぐさめてほしかったのだ。が、コバヤシくんは、せつない目をして無言で囲むこどもたちを見ると、ギョッとしたような顔になり、あわてて顔を背け、みんなの視線や伸ばした手を掻い潜るようにしてサッサと奥に入ってしまった。それでも頼りたくて、すがりつきたくて、ぞろぞろついていくこどもたちから逃げるように大股に。落ち着け。平気だよ。わめくなよ。なんか用があったらそう言えよ。とりつくしまのない声で短く命令するように言うだけは言って、ソファのクッションの位置をずらし、肘掛けに長い足を高々とあげて横になり、持ってきた雑誌を――拳銃の写真がたくさん載っているカタログみたいなやつだった――読みはじめた。無言で。眉の間に皺を寄せた、すごく深刻そうな顔で。 留守番している間中、コバヤシくんはハッカの匂いのするガムを噛み続け、2パック近くもゴミにしたが、ただの一度も、どのこどもにも、おまえらは欲しくないか、いらないか、食べないか、と聞かなかった。あんなからそうなガムなんかもともといらなかったけど。とてもじゃないけれど、ほんのちょっとぐらいの用があっても、気軽に声がかけられるような感じではなかった。 あのひと禁煙してるのよ、スミカが心得顔で言った。だから、イライラしてるの。近寄んないほうがいい。 ガムが禁煙のためであるとすると、コバヤシくんの禁煙は、ずいぶん長いこと続いているらしい。海辺の村の高台の家の庭で見るコバヤシくんは、ますます近寄らないほうがよさそうな雰囲気だった。全身から立ちのぼるイライラがもうちょっとで赤色の煙になって目に見えそうだ。頼りにならないナルミちゃんとともするとグズる赤ん坊のアキコと二匹の犬たちを乗せてはるばる運転して来る間じゅう、きっとものすごくたくさんのガムを噛んだのだろう。いつもビシッとプレスの効いているシャツの背中が無残に皺だらけのクシャクシャになってしまっているのと同じぐらい、くたびれ果ててミジメな気分でいるに違いない。 こんな田舎の村に来るんなら、海に来るなら、長い距離ドライブするなら、もっと楽な格好をしてくればいいのに、とレイラは思った。なにせこっちはみんな、一日遊びつかれてぼうっとした顔で、濡れた水着の上になにかちょっとひっかけただけ。いつも隙のない装いのヒロさんでさえ、くだけたサンドレスの肩にカーディガンを羽織り、砂まみれの素足にゴム草履なのだ。 「ご苦労さま、大変だったでしょう」そのヒロさんが被っていた帽子を脱ぐと、コバヤシくんが押し頂くように受け取った。「あちらは、どお? みんな無事?」 「はい」 コバヤシくんは上唇の薄い口を右横にだけひっぱるようにした。これがコバヤシくんの笑いだ。 こどもがキライなコバヤシくんも、ヒロさんに対してだけはすごく感じがいい。 そういったことを横目で見ながら、レイラはブランコのところまでいって、そこらに荷物を置いて、レディを撫でた。たっぷりした白い毛皮に顔を埋めると、幸せな匂いがした。たっぷりお日さまにあてたときのおフトンのような匂い。レディはところどころがピンク色のまだらになった冷たい犬の鼻をレイラの首筋にくっつけた。くすぐったくて、ちょっと笑おうとしただけで顔がつっぱるのは、たぶん、今日一日でさっそく陽に灼けてしまったからだ。 日のあるうちにみんなで順番にお風呂を使うことになった。昨日の今日だ。確認のためもある。レイラは、一番風呂を借りることにした。犠牲者はふやさないほうがいい。 今日のお湯はそれはそれはきれいで、ムシなんて一匹たりとも浮いていなかった。レイラは湯掻き棒でしっかり底まで掻き回してみたが、だいじょうぶ、なにひとつ沈んでもいなかった。 明るいお風呂場は夜のように恐くはなかったけれど、五右衛門のお釜の縁のほうは、うっかりさわるとかなり熱い。湯気やあふれ湯に濡れても、すぐに乾いてしまうぐらいだ。しかもどんどん焚き続けているのだから、お湯の温度は上がりつづけている。時々水をさし足さなきゃならない。スノコは乗っていないと浮いてくる。 一番湯の特権と引き換えに、レイラはナルミちゃんと一緒に入ることになった。スミカとヒトシが双子の面倒を見る。マツエさんはアキコと入る。ヒロさんは最後がいい、という。さら湯は肌にきついからイヤなのだそうだ。 軽く浴び湯をして塩気を流して、まずはナルミちゃんが頭やからだを洗っている間、レイラはずーっと湯船に沈んで、足の下にスノコを押さえておいた。うんとぬるめにうめたつもりのお湯でも熱すぎて灼けた肌がピリピリしたし、ナルミちゃんの動作は半分寝ているんじゃないかと思うほどのろいから、だんだんのぼせそうになる。せっせと足したので、もうカメの水が半分ぐらいもなくなってしまった。 湯気の向こう、ナルミちゃんのからだは、とても白くて、ふわふわで、パールがかった金色にへんに光っていて、なんだかとても大きなナメクジみたいだ。茹だって頭がぼうっとしてきたレイラは、一瞬、あの特別の視力が戻ってきたのかと思った。燐粉をまぶしたように見える、あのふしぎな目の力が。だが、自分の指先をお湯から出して見詰めてみると、ぜんぜん白くも光っても見えない。皮をむくまえのゴボウみたいな、ごつごつした黒い手だ。ナルミちゃんは、もともと、そういうからだをしているんだろう。 やっとナルミちゃんがからだを流し終わったらしい。どっこいしょ、と言って、立ち上がった。隠さない胸が揺れた。すごく大きい。おまけに、乳首のまわりが真っ黒で、まんまるく濃い。直径四センチぐらいもあるだろうか。おへそのあたりがたるんで横皺になっているのが笑っている口みたいで、なんだかマンガのギョロ目の顔みたいだ。 じゃ、交代。こんどはナルミちゃんが湯船に入る番だ。だが、レイラが先にあがってしまうと、スノコが浮いてしまう。 「いいよ、さぁ入って」レイラは言った。 「どうしてぇ」ナルミちゃんは、クスクス笑う。「こんど、ナルミの番でしょう。レイラちゃん、あがって」 「うん、あがる、あがるけどね。まず、ナルミちゃんも、いったん、いっしょに入って。そうじゃないと、スノコが浮かんで来ちゃうから」 ナルミちゃんのことだ。ぷかぷかするスノコをちゃんと踏みしめる加減がわからなくて、転んでしまうかもしれない。そうでなくともお風呂場は滑りやすい。危ない。だから、よかれと思ってそう言ったのに。 「スノコなんて、お湯にいれないでよ」ナルミちゃんは眉をしかめる。「スノコ、外でつかうのよ。中で使わないのよ」 「うん。ふつうはそうね。でも、ここではそうするの。これはそういうお風呂なんだって」 ナルミちゃんは悲しそうに首をかしげた。「しらないもん」 「見て」 レイラはしょうがなく、湯船からあがった。残った片足を引き抜くか引き抜かないかのうちに、たちまち、丸く切ってあるスノコがぷかんと浮き上がる。 「ほらね。こうなってる」 「だめなのよ!」ナルミちゃんは驚いたように叫んだ。「お湯にいれるものでないのよ、これは! おかしいです。出しましょう」 「いいの。いれとくの。踏んで入るの。でないと熱いの」 じれったくなったレイラは、ナルミちゃんの手を取って、お釜の縁の乾いたところに一瞬だけ触らせた。 「あつい!」 「でしょう? 底はもっとアツアツなんだよ。だから」 「レイラちゃんいじめた」ナルミちゃんの目にみるみる涙が盛り上がった。「ナルミちゃんのこと、やけどさせた。させたのね」 「してないでしょ、やけどなんて!」 ナルミちゃんは手をじっと見て、こくん、とうなずいた。「そうね。してない」 もう知らない。 のぼせて、だんだん面倒くさくなってきた。 「とにかく、ここはこうなの。はいるならはいって。あたしは洗うから」 レイラは頭からざぁっとお湯をかぶり、シャンプーを手にとって髪にまぶした。泡立てながら見ると、ナルミちゃんは浮かんでいる丸スノコをなんとか取り出そうとして苦労している。スノコは表面に張りついているし、持てばけっこう重たいから、うまくいかない。ちょっと持ちあがったかと思うと、また落ちる。お湯がはねかえって、ナルミちゃんが、あつい! と叫んだ。 「熱かったらうめて。ほら、横の水で」 ナルミちゃんは肩越しにこっちを見て、いかにも助けて欲しそうな顔をしたが、あいにくレイラの手はセッケンだらけだ。 「ヒシャクあるでしょ。それで、水汲んで、いれるの」 「ひしゃく?」 ナルミちゃんは水ガメにつっこんである真鍮色のヒシャクをつかんだ。 「それ」 「これ。ひしゃく?」 「そうそう」 ナルミちゃんは洗い場の板の間にぺたんと正座をすると、そうっと右手で水を汲んで、両手を添えて、ちょろちょろと五右衛門釜に注ぎ込んだ。なんだか茶道でもやっているようだ。それを三度ばかり繰り返しているうちに、ナルミちゃんの頭に、なにかが急にひらめいたらしい。 「これは浮かべてて、いいものなのね? 踏んで、入るのね?」 だからさっきからそう言ってるじゃないの。 それより、どいてくれないかな。そこに座っていられると、お湯がくめない。頭が流せない。 ナルミちゃんはまた立ちあがり、そろそろと片足をあげて、スノコを踏んでみた。 「ぷかぷか!」 おもしろくなったらしい。 「乗るのね?
乗るのね?」 「そうだけど。うんと気をつけてよ、お釜にさわると熱いよ」 だがしかし釜の底は洗い場よりもだいぶ低いところにあるのだった。スノコを踏んだ足だけが底に達してしまったら、股割きになる。しかも、熱い釜の上で。よほど足が長くなければ、洗い場に残ったほうの腿や膝裏が釜の乾いたところにくっついてしまいかねない。ぽってりと太りぎみのナルミちゃんに、そんな器用なことはできないだろう。 これがタイルかなにかでできた湯船だったら、いったん縁に腰をおろして、体重を支えながらそろそろはいることもできるのだが。 さすがのナルミちゃんにも、無理をするとなにやらひどいことがおこりそうだとわかるのだろう。片足湯船の中、片足洗い場のまま、硬直してしまっている。 「ぷかぷか……」ナルミちゃんは言った。「降りないのよ」 「ああもう!」 しょうがないのでレイラは、頭をシャンプーだらけにしたまんま、両手のセッケンをざっと流しただけで、立ち上がった。 「いっかいあがって。そっちの足も。で、つかまって。ほら……支えてるから、両足じゅんばんに、ぴょんって、して。お釜にはさわんないように気をつけてよ」 「りょう、あし、ぴょん? うさちゃんみたいに?」 「そう」 「ナルミ、できるかなぁ。うさちゃん。できるかなぁ」 ナルミちゃんはレイラの手を必死に、潰れてしまいそうなほど強く握りしめたかと思うと、目をつぶって、膝を大きく屈伸して、その場で飛び上がって落ちた。風呂場全体が、があん、と揺れた。おまけにナルミちゃんの足が濡れた洗い場で滑りかけたものだから、レイラは必死に踏ん張って倒れないように支えなければならなかった。 「違うったら。両足一度じゃなくて。まず片足ぴょん、それから、そっちの足が沈まないうちに、もう一方をぴょん。で、そっちに入る」 「ぴょんね? ぴょんなのね?」 「うん」 「できる? ナルミちゃん、できる?」 「できるでしょう。あたしにだってできたんだから。ナルミちゃんだってできる。ナルミちゃん、おとななんだもん。ねっ?」 「うん」ナルミちゃんはうなずいた。「ナルミもうおとなです」 ナルミちゃんは緊張に歯を食いしばりながらひとつ大きくうなずくと、エイ、とばかりに右足をあげ、スノコの上にドスンと踏ん張った。 「そうそう、それで、残ってるこっちの足、左足もいくのよ。いい?」 「ぴょん!」 スノコは隙間からお湯を吹き出しながらずぶずぶと沈んでゆき、ナルミちゃんは無事に湯船の中に降り立った。 「……できた……」 ナルミちゃんは自分で自分に驚いたようにつぶやき、それから、湯をはねらかしながら両手を叩き、きゃあきゃあ言った。 「できた! できたぁ! じょうじい! じょうじい!」 じょうじいは、上手い、ということらしい。 「うん」レイラは深々と溜め息をついた。疲れた。「ねぇ、よかったら、ちょっとわたしにお湯かけてくれないかな?」 ナルミちゃんはさらにいっそうきゃっきゃと笑い、両手を使って、バシャバシャお湯をはねらかした。 「違うったら、もっとたっぷりちゃんとかけて! 頭流したいの!」 手桶を渡すと、ナルミちゃんは釜の中のお湯をたっぷり汲み、半ば立ち上がってレイラのほうに身を乗り出した拍子にバランスを崩して足をとられ、盛大にお湯をぶちかましながらお釜の縁に胸から落ちた。ぐえっ、と、踏みつぶされたカエルかなにかのように、ナルミちゃんはうめいた。 「……いたいです、いたいのです」 マンガの目のようなナルミちゃんのオッパイのやや下のほうに横一線の赤い線が入った。 その日の夕食はオイルフォンデューだった。各自のお皿に、柄の長いフォークみたいなものがふたつつく。一口大に切ったお肉三種類(鶏肉、豚肉フィレ、ローストビーフにするような真っ赤な牛肉)と、茹でたり小さく切ったりした野菜がいろいろ。インゲンやアスパラガスやナスやにんじんやカリフラワーやブロッコリーやしいたけや。 「ジャガイモだぁ!」 ミキヲとノリヲが声をそろえる。 「またジャガイモ!」 「今日はジャガイモの日なの?」 「すみませんね、お昼をどうなさったか、知らないうちに準備しちまってたもんで」マツエさんはエプロンでちょっと手を拭いた。「けど、もうちょっとでカツにしてしまうとこだったんですよ」 みんなが商店街のコロッケをさんざん絶賛したので、少し拗ねているらしい。 長いフォークに突き刺して油に沈めておくと、軽く下茹でしてあるジャガイモは縁のとんがったところからじわじわだんだん色づいていく。油から、その金色の色のエッセンスを奪って凝縮するみたいに。オイルフォンデューにする時には、ジャガイモは面取りしないほうが絶対においしい、とマツエさんは力説した。見た目はそうじゃないかもしれませんけどね、角になったとこがカリッとして、全体がパリッとして、中はふっくらっていうのが、一番なんですから。 「次、何にする?」ヒトシが聞く。 「お肉」ミキヲが言う。 「お肉」ノリヲも断定する。 あぶらがハネるし、手が短くて危ないから、双子の分はヒトシが面倒を見てやっているのだった。 「おまえらなぁ、肉ばっかじゃなくてちゃんと野菜も食えよぉ」 「あんたもね」と、スミカ。 コバヤシくんは黙々と箸をすすめている。箸だ。せっかくフォンデューフォークがあるのに、そこから食べればいいのに(金属の部分はなかなかさめないから、あげたてを、お皿においてちょっとさましたら、前歯でサッと上手に取ってそのまま食べればいい)、揚げたものを次々にはずし、すぐには食べずに溜めこんで、それからお箸を使っている。片手でビールを少しずつ少しずつ啜るようにして飲みながら。そんなにまずそうに飲むなら、飲まなければいいのに。 フクちゃんはいなかった。みんなを家まで送りとどけるとサッサとどこかに帰ってしまった。 つまんないの。とレイラは思う。男同士の対決、ちょっと見たかったのに。 フクちゃんとコバヤシくんは、お互いをどう思うんだろう? まぁまぁ似たような年頃で、ずーっとイナカぐらしのひとと、都会ぐらしのひと。ひとりは真っ黒で、ひとりは真っ白。ひとりは坊主刈りで、ひとりは長髪。煮しめたようなズタボロな服を着てるひとと、いつもパリッとキメているひと。みごとに正反対。 コバヤシくんの水着姿なんて想像できないなぁ! コバヤシくんは、そこらの枯れ枝で焚き火を燃やして、ちょうどいい具合で燃やし続けておく、なんてことができるだろうか? そもそも、泳げるんだろうか。 それで質問を思いついた。 「コバヤシさん、いつまでいるんですか」 レイラが訊ねると、コバヤシくんは、
びっくりしたように顔をあげ、いつもの通りすぐに目をそらして、イヤ、と、首を振った。今晩すぐに戻ります。送ってくるだけの役目ですから。 「あら、ゆっくりすればいいのに」ヒロさんが言う。「二三日、泳いでいったら。ここの海は、ほんとうにきれいよ」 「すぐ帰ってこいっていわれてますから」コバヤシくんは背を丸め、先の細い鼻ごしにヒロさんを見上げるようにした。「これをいただいたら、出発するつもりです」 「まぁ、せわしないのね」ヒロさんは眉をしかめた。「あらまあ。じゃあ、お酒なんか飲んじゃだめじゃないの」 「は」コバヤシくんは、まさにいま取り上げたビールのグラスを置いた。「まぁ、酔わない程度なら」 「警察はそうはいいませんよ」ヒロさんは眉をしかめた。「深夜に長距離運転していくんだし。万一、事故を起こされたりしたら、わたしが困るわ」 「すみません」コバヤシくんは目を伏せた。 「あとはお水にしましょう」と流し前に立ったままのマツエさん。 「そうしてあげて」 マツエさんはうなずいて、さっそく冷蔵庫から氷を出して、おおきなグラスにいれていく。 なぁんだ。 泊まっていけばいいのに、とレイラは思った。“菩提樹”の用事がなんなのかは知らないけど、コバヤシくんが居なきゃすごく困るようなことがそんなにたくさんあるとも思えないのに。ヒロさんが、「あの子はこっちで二三日借りるわ」ってひとこと電話すれば、通らない話じゃないはずなのに。 コバヤシくんはあまり好きではなかったが、少なくとも信用はできる。だって身内だから。 第一、もう飲んじゃったビールをさまさなくていいの?
ずうっと運転してきて、すごく疲れてるはずだし。冷たいお水をすすめちゃうのは、それでも気合いれてサッサと帰れってこと?「ゆっくりしてけばいい」って言ってあげたのは、ヒロさんなのに。 マツエさんが氷と水のグラスを置いて、半分ビールの残ったコップをさっさと片付ける。 「花火、買ってあるんですよ」レイラは言った。「せっかくだもの、花火ぐらい、見ていってください。いっしょに、やりましょうよ」 コバヤシくんの目が、チラッとレイラを見た。驚いたようなその目は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかったような気がした。 火をつける前と、火をつけてからと。花火というものはその外見から中身がなかなか想像できないものだ。赤や緑を金色のらせんがぐるぐる巻いていて濃いピンクのリボンみたいなのがでっぱっているところに火をつけるやつが、しゅうしゅうパチパチ音ばかりすごいけれど、実際には、さえない黄色の光の弧がヤナギの枝のように流れおちるばかりでそのうちなにかアッと驚くようなのがはじまるかと目をこらしているのになにもなくあっけなくしぼんで消えて終わってしまうかと思うと、砂壁をツクネにした地味の極みのようなのが、ちいさな星や稲妻を盛んに飛ばしながら恐いくらい大きくなってしかも一緒に火をつけた他のどの花火よりもじっくり長い時間燃えてみせてくれたりもする。 打ち上げ花火はほとんどない。幼いこどもたちには危ないからだ。手で持ってやるものがほとんど。その中では、赤に黄色に緑にオレンジに、次々に色を変えてみせてくれるのが、レイラは一番気にいった。手で持たないのはコバヤシくんが仕切って、ヒトシにも手伝わせた。ベエ独楽のような音をたてながら地面を跳ね回る火の虫。地面においておくと、噴水のように火の粉を吹き上げながら、時々、ひゅうん、と火の玉を打ち出すもの。木の枝からぶらさげて火をつけると、静かに燃えた提灯が割れて、いきなりベロンと一つ目お化けの顔を出す仕掛のやつ。おもしろい花火にみんなが、オオッ、と言うと、コバヤシくんの目が少しだけ得意そうになる。 終わったやつはバケツだぞぉ、ヒトシが言う。バケツには水が張ってある。燃えつきた花火の棒がたくさんささって、なんだか矢のようだ。弁慶の立ち往生、とレイラは思う。 何種類も何十本も買ってきたのに、花火はどんどんなくなっていった。バケツがまんぱいになるほど、つまり、残りが少なくなっていく。花火は好きだけれど、こうして目に見えて「終わっていく」のは少しだけキライだ。楽しい時はすぐにすぎてしまうのだということを、あまりにもきっぱり思わせてくれるから。 田舎の海の村の夜は暗かった。花火がいっぺんに四本も五本もついていると、とても明るくてにぎやかなのに、たまたまいっせいに消えてしまった瞬間には真っ暗になる。それまで後ろに隠れていた闇が、たちまちあたりを覆ってしまう。蝋燭と懐中電灯と家の窓から洩れる明かりでは、とうてい太刀打ちできないしつこさで。 だから、少しも間をあけないようにどんどん点火せずにいられない。ひとの花火から火をもらって、自分の花火からまたひとのに火をうつして。そうやって大急ぎでつなげていけばいくほど、どんなにたくさんあった花火でも、すごい勢いでなくなっていくのに。 誰にももらえなくて、誰にもうつせないと、なんだかだめだという気がする。まるで、ずるいことをしているような、たいせつなものをひとりじめしているような気がする。でも、ひとつの花火をじっくり、もっと大切にみつめたほうがいいような気もする。いくつもいくつも同時につけてしまうと、全部をちゃんと見ることなんてできはしないのだし。 スミカがふと花火をもちあげて、空に流れる字を描いた。読めない文字。たぶん、英語の筆記体だ。くるくる、くるり。描かれるなり消えていく文字。余韻だけ残して。きれいだ。でも、じっと持っているよりも、はやく燃えてしまいそう。真似っこの双子がさっそくきゃあきゃあ振り回して、チャンバラごっこみたいにぶつけあって、コラあぶねぇだろ、やめろ、ヒトシに怒鳴られている。 花火はその場にいるみんなのものだ。自分の持っている花火だけが自分のものではなくて、自分のもっている花火でも自分だけのものではない。 それでもレイラは、あの気にいった色がくるくる変わる一本をだいじにずっと握っておいた。せめて一本ぐらいは、点火してから消えるまで、最初から最後まで、それだけを、ずうっとみてやりたかったのだ。見守って。できれば、それを、みんなにもちゃんときちんと見てもらいたかった。 だからたまたまみんなの手の中の花火がいっせいに終わった瞬間を狙って、蝋燭で火をつけたのだが、たちまち、ミキヲが、ナルミちゃんが、別の花火に点火する。 「ない!」ノリヲが甲高い声をあげる。「ぼくも、なんか持つ!」 レイラは譲った。 なにも持たずに、見る花火。 炎と闇がおしくらまんじゅうをする庭、手にした花火を一心にみつめるみんなの顔は照り返しに橙色に染まり、へんなところに影ができて、しかもゆらいでいる。いつもとちがう。恐いような、不思議なような、きれいなような顔。よく知っている顔なのに、知らない世界の知らないひとのよう。花火は目で見るだけじゃない。音。煙の匂い。火薬の匂い。うっかり誰か髪の毛の先を焦がした匂い。 燃え残りをバケツに始末しにいったスミカがちょっと足を緩めた。バケツの横で、コバヤシくんが、点火用の蝋燭をかたむけて蝋をたらしている。地面に。いや。違う。地面にいる虫にだ。フナムシかダンゴムシかゲジゲジか、暗くて、よく見えないけれど、たぶん石をひっくりかえすと出てくるようなやつだと思う。熱い蝋をあびせられたムシがキュッと丸まって小さくなると、コバヤシくんの瞳がすうっと細くなる。そして、すぐ、ものもいわずに蝋燭を動かして、次の別のムシに蝋を垂らす。 スミカの手がコバヤシくんの肩をすっと撫でて通った。スミカはもっていた花火の棒をバケツにつっこむ。 コバヤシくんは立ち上がった。いま自分の惨殺したものをさりげなく足で踏みにじりながら。 その首で、なにかがキラッとする。十字架だろうか。シャツのとがった襟。とめてないボタン。 レイラはふと気づいた。似てる。スミカが水着の上に羽織っていたあのピンク色のシャツと。ひょっとすると、あれはコバヤシくんのシャツなんじゃないだろうかとはじめて思った。お古っていうほどくたびれてはいなかったけれど。もらったんだろうか。小さくなって着れなくなっちゃったとか? 気にいらなくなったから、捨てるかわりにあげたとか? でも、どうしてコバヤシくんが、スミカに。 気になってチラチラ見ても、ふたりは目をあわせないし、お互いにことばをかけもしない。知らん顔だ。 これ以上覗き見をするのは、失礼だろう。 いつの間にか、もう線香花火しか残っていない。時間競争。くっつけっこ。じいじい唸りながらちいさな太陽のようにまるくまるく大きくなって、やがてぽとりと落ちる。火のしずく。 「昔の線香花火は、もっと、長い長いこと燃えてたような気がしますがね」マツエさんがつぶやく。 「ね、ね、花火! あっちも!」 双子は地味で辛気臭い線香花火などおもしろくないらしく、ぜんぜん違うほうを見ていたのだ。ミキヲが指差す指の先は、遠く海の向こう、沖の果て。確かに、水平線が光で彩られている。 「漁り火ね」ヒロさんの目に線香花火の色が映る。「きっと、烏賊釣り舟だわ」 「イカ?」ヒトシが聞く。 「光で集めて取るのよ」 「それはようございます」マツエさんがうなずいた。「あした港にいってみましょう」 光の線は白く、強く、かすかにチラチラと揺れているようだった。実際のところ目で見えるほど大きく揺れるはずはないと思うのだが、それでも、波があるんだろうか、揺れて、瞬いて見える。星よりずっと強く。明るく。遥か遠くで、一直線に並んだまま。 ひとの燃やす炎が星より強いのか。星が、嫉妬しないだろうか。 神様や、海の神様が、なんてごうまんだ、失礼だって、怒らないだろうか。広い広いとてつもなく大きなはずの海に、こんな遠くからでも目に見える線を引くなんて、ひとのしていいことなのだろうか。 それとも……大きく見えるだけで……神様からしたら、ちゃんちゃらおかしいくらいの光なのだろうか。 光の線はくっきりと強く、しばらく見つめているとにじんでぼやけて涙が出てきた。目を閉じてもそらしても残像が見える。まぶたに、夜空に「一」の文字が焼き付けられる。海と空の境目はその光なしではよくわからないから、ただ、宙に、「一」と書いてあるのとかわりがない。 まるで、なにかの神秘的な答えのように。 なにが一なんだろう、レイラは思う。どこが、なぜ、一なんだろう……それが最終的な回答だとして、いったい、どんな質問の答えなんだろう……。 夢中になって考えこんでいるうちに、花火が終わってしまった。コバヤシくんが、じゃ、これで、と言う声で、それがわかった。 道はひどく暗い。彼は懐中電灯を持っていない。だから、スミカとヒトシとレイラで送っていった。線路とは反対側の山の小道だ。お地蔵さんの横の少しだけ道の広くなったところに、クルマが停まっていた。メタルグリーンのリンカーン・コンチネンタル。とても大きくて立派なクルマだ。“菩提樹”は何台も何台もいろんなクルマを持っているけれど、犬を乗せるときに使うのは、かなり古くから持っているこれと、狩りに行く時用のゲレンデヴァーゲンの二台に限る。 コバヤシくんは、“菩提樹”の財産であり、みんなのたいせつな思い出のつまったものであるこのクルマを、安全に、無事に、ちゃんとさっさと戻さなければならないのだ。 コバヤシくんがキーでドアをあけ、乗り込んで、ライトをつける。 夜の山のどこまでも深い闇を、一条の光が切り裂く。ただし、見えるのは、いかにもハンドルをとられそうなガタガタ道と、その道にはみだしていまにも道を飲み込みそうな、うっそうと茂った木ばかりだ。 スミカが窓をノックする。 運転席の窓があく。コバヤシくんはサングラスをかけている。こんな真夜中なのに。 「お酒、もうさめた?」スミカが低く言う。 コバヤシくんはふん、と鼻を鳴らし、もう行けよ、と言うようにわざと邪険に手を振った。 ダイニングキッチン横のテレビのある部屋が、かりそめのお茶の間だ。田舎のテレビはチャンネルが少ない。連続ドラマも一週間か二週間か、送れて放送しているらしい。見慣れぬコマーシャルのあと、刑事ドラマがはじまったとたん、ヒトシが、俺これ見た、犯人はさあ! ……ニヤニヤする。双子は互いに寄り掛かり合ってとろとろして、もうまぶたがくっつきそうだ。スミカと目と目を見合わせる。先に寝かしつけてしまうほうがいい。 「ほらほら、眠いんなら、トイレトイレ」 懐中電灯を下げて連れていく。扉はあけたまま、後ろを向くだけにするから、しょぼしょぼとオシッコをする音が聞こえる。 こどもたちが寝るのは、二階の奥の、あのお琴のある部屋だ。部屋数はたっぷりある。はじめ、隣の部屋と、二手に分かれることも考えたのだが、こいつらの面倒を俺だけに押し付けるのかよぉ、とヒトシがいうので、男子も女子もなく、みんな一緒に寝ることにした。こいつら、というのは、もちろん幼い双子のことだ。夜中にトイレをもよおしたりしたら、誰かがついてってやらなければならない。 そう、あの恐ろしい外トイレまで。階段降りて、ドアをあけて、庭を渡って、いかなければならない。 だからふとんは、山側に三つ、枕と枕をあわせるかっこうにしてあとふたつ、ぎっしり隙間なく敷き詰めてある。誰かがひどい寝相をしても、蹴飛ばされない用心に。だがヒトシなど、壮絶な寝相で、寝ている間にぐるぐる回って枕のほうに足が来ることだってあるのだから、せいぜい気休めである。 パジャマに着替えさせ、横にならせる。 「じゃ、おやすみ」 電灯の紐に手を伸ばすと、ノリヲに、けさないで! と言われた。 「暗いのやだ」 「じゃ、弱いのにする?」 「ううん、そのままがいい」 「明るくても寝られる?」 聞くまでもない。ミキヲはもう白目をむいて、ちいさなピンク色の口をぽかんとあけて、すうすう息をたてているし、ノリヲだってほら、大あくびだ。 ふとんからはみだしたミキヲの腕をしまってやる。先に眠りの国にいってしまった片割れをいかにも恨めしそう羨ましそうに眺めやるノリヲの汗ばんだ額から、はりついた前髪をのけてやる。 「眠るまで、ここにいてあげようか?」 「いい」 ノリヲは首を振った。 「ねれる」 「ほんと?」 「ねる」 意地っ張りに閉じた睫がまぶたの間から突き立って長い。ふくふくした頬や鼻の頭がうっすらと赤いのは、陽に灼けたからだ。眉を寄せ加減の緊張した表情が、見ている間にすうっと和らぎ、やがて唇が開く。まるで花のつぼみがほころぶか、できたての傷口でも開くように。 スミカとレイラは目を見交わしあい、足音を殺してその場を立ち、階段を降りた。 ヒトシが犯人を知っているはずのドラマを食い入るように見つめている横で、ヒロさんは卓袱台にお酒のグラスを置き、片手に煙草をくゆらしながら、座卓に背中をもたせかけ、眼鏡をかけてぺこぺこしたカバーのかかった銀色表紙の本を読んでいる。いつもの、外国の推理小説の翻訳したやつのようだ。マツエさんは台所のテーブルで難しい顔をして帳面をつけている。その足元で二匹の犬が横になっている。 一階の一番奥、サンルームの手前、ちょうど、こどもらの寝部屋の真下にあたるところから、ナルミちゃんがアキコをあやしている声がする。ふすまがきちんとしまっていなくて、スキマがあるのだ。 「ヒマだね」スミカが言った。「宿題でもやる?」 「今日の分は朝やっちゃった」レイラは答えた。「ほんといって、明日とあさっての分ぐらいまでやっちゃったよ」 「あたしも。じゃ、ダイヤモンドゲームしない?」 「ダウトのほうがいいな」レイラは答えた。 「ふたりでダウトやったってバカみたいじゃない」 「じゃあ、七並べ」 しばらく勝ったり負けたりをしていると、やがて、テレビを消したヒトシが混ざった。七並べがダウトになり、ポーカーになった頃、ヒロさんが、おやすみ、と言っていなくなった。本の続きは、部屋で読むのだろう。マツエさんが手早くグラスと灰皿を片付け、キッチンの灯かりを消して、それじゃあ、あたしも、と奥に引き取った。マツエさんは、ぜったいに、ヒロさんより先には寝ない。ヒロさんにいつ用事をつつけられてもいいように、なにか用事をしながら待機しているのだ。ふすまのスキマからは、そういえば、もう話し声は聞こえていなかった。ナルミちゃんもアキコを寝かしつけているうちに寝てしまったのだろう。 こどもたちが三人残った。 時計は十一時に近かった。ふつうの家なら、もう寝なさい、と言われる頃かもしれない。でも、夏休みだし、海にいる。眠くなければ寝る必要はなかった。昼間、海辺で、ずいぶんゴロゴロしたのだ。肌が灼けている以上に、頭の中に熱がこもっていて、そう簡単には去りそうになかった。 ほんとうのところレイラは、あまり眠くないうちにからふとんに入るのがきらいだ。すぐ眠れないと、苦しい。昨日はさすがに長旅の疲れで枕に頭をつけたかつけないかのうちにグッスリ眠れたからいいようなものだが、おりおり、寝付きが悪くなる。いったんうとうとっとしても起きてしまう。真夜中まで何度も時刻をながめながら眠れないで苦しむ。慣れたお屋敷でさえそうだ。なんだかんだ考えこんで、考えてもしかたのないことを考えているうちにどんどん目が冴えてしまう。 こんな、よく知らない家で、しかも、あたりじゅう誰もいないような高台の家で、たったひとりぼっち、夜中に目覚めていたくなかった。 それに、へたに寝て起きると、またトイレにいきたくなるかもしれない。あのトイレに。みんなが寝静まっている時に、ひとりだけそうっと起きて庭を横切って行くのはいやだ。 しばらく、無言で勝負が続いた。 「お茶いれようか?」スミカが言い、 「麦茶でいいよ。冷蔵庫にあった」ヒトシが言った。 それでスミカがさっそく立とうとした。 「あたし、いらない」レイラは言った。「トイレに起きたくないもん」 スミカは肩をそびやかし、キッチンにいった。そのあたりに寝転んでいた犬たちが顔だけをあげて、尻尾を振る。冷蔵庫のドアをあけると、灯かりがつく。その灯かりで……つまり、冷蔵庫を開けっ放しにしておいて……コップを三つだし、麦茶を注いで、戻ってきた。 スミカといっしょに、二匹の犬も戻って来て、タタミの匂いを不思議そうにかいだ。ちょっとためらっていたが、誰もとめないので、平気であがりこんで、それぞれ空いている座布団に陣取った。トランプはヒトシのアグラをかいた膝に顎を乗せて目を閉じ、レディはうつ伏せになって大あくびをする。 スミカが麦茶を配る。 「いらないっていったのに」レイラは言ったが、実のところ喉は渇いていた。 「内緒のつもりだったけれど、話すわ。あんたも笑わないでよ」ヒトシに釘をさしておいて、スミカはちょっと頬を赤くした。「あたし、もし夜中におしっこしたくなっちゃったら、お風呂場に行こうと思ってるの」 「お風呂?」 聞いたとたんに、ピンと来た。そうか。スノコのところでしてしまえばいいんだ。よく流しちゃえば不潔じゃないし、わかりっこない。なにせ風呂場には流すための水がいくらでもある。お風呂場だって暗いし寒いしが、あの、どこまでも底のない無し穴があいていてひどい空気がじゅうまんしているトイレよりかは、はるかにずっとマシだ。離れてるから、みんなにもわからないし。離れているといっても、トイレほどは離れていないから恐くない。 「とてもいい考えだわ」レイラはうなずいた。 「でしょ」スミカはうすく笑った。「だから、教えた」 「たいへんだなぁ、おまえら。俺、縁側からやっちまったぜ」 「うっそー! いつの間に」 「ひどい。お花だってあるのに!」 「いいじゃん。栄養栄養」 ヒトシはかははははと笑って、トランプを(犬のほうではなく、カードのことだ)まとめた。卓袱台の上でコンコンと叩くようにして揃え、二つに分けて、両手で挟んで、ぱらららら、と混ぜた。こういうことをやらせるとヒトシはうまい。 「……でも……おかげで、わかったわ」レイラは言った。「あのトイレが死ぬほどいやでキライなの、あたしだけじゃないのね」 「もちろんよ」スミカは麦茶を飲んでしまい、また立っていって、こんどは冷水器ごと持ってきた。「暗いし、虫だらけで、気味が悪いもん。双子なんか、ほんとにイヤがってる」 「くせーもんな」と、ヒトシ。「そんだけならまだいいんだけど……なんか……なんかが、ほんと、たまんねーよ。ゾッとするんだよな。あそこ」 「…………」 「…………」 三人は黙りこんだ。なんだか部屋の温度が、急にさがったような気がした。 こち。こち。こち。こち。 壁の時計の秒針のたてる音が、いやに響く。 「……なんでだろ」スミカが言った。「なんか、あるの? あそこ。たとえば……」 「あのさ。知ってっかな。昔の中国、支那のさ」ヒトシが言い出した。低い、かすれた、震えるような声で。「なんとかいう、王様だか皇帝だかのオメカケさんの話。聞いたことねえ?」 「やめてよ、ちょっとー!」 スミカがヒトシの手をピシャンと叩いた。トランプがびっくりしたように顔をあげて、またそろそろと伏せた。 「趣味悪いね。なにムードだしてんの。こわがらせようったってそうはいかないんだからね!」 「ちがうって」ヒトシは叩かれたことを怒りもせず、赤い濡れたような目で、スミカを見、レイラを見た。「俺、前に、歯医者においてあった雑誌で読んでさ、びっくりしちまったんだ。たぶん、ほんとにあったことだと思う。王様が、ほかの、若い女を気にいっちゃって、あったま来たおきさきが、憎い女をつかまえて、便所につっこんだんだ」 「最低」スミカはうめいた。 「やめようよ」レイラは言った。 お化けはお化けの話をされるのが好きなんだと聞いたことがある。話題にしてもらうと、それをとっかかりにしてこの世に出てくることができるんだとかなんとか。 「つづきがあんだよ。それ、便所で溺れさせて殺すって意味だって思うじゃん? 思わねぇ? 俺はそう思った。それだけでもひでぇなって思ったけど、そうじゃねぇんだ」 聞きたくなかった。だが、耳は聞きたがっていた。聞かずに、知らずに、いられないのだった。 「支那の便所って二階建てになってて、下のほうではブタを育てるもんなんだって。ひとのウンコには栄養があるから、ブタがよく育つ。王様んとこの便所ときたら、食ってるもんがそーとーいいから、ブタもすげえ太るだろうな。そのブタといっしょに押しこんで、だから、その女はしばらく生きてたんだよ。ブタにまじって。ウンコあびながら」 「うそよ」スミカが遮った。「おかしいじゃない。そのひと、王様に大事にされてたんでしょ。いなくなったら捜さないわけないじゃない。それに、なんで、助けを求めないの。大声で。悪いやつにさらわれてここにいる、誰か助けて、って、言えばいいだけじゃない!」 「舌を抜かれたのよ」 レイラは言い、自分がそんなことを喋っているのに心底仰天した。スミカもヒトシもあんぐり口をあけて、こっちを見ている。 「そうでなくても恥ずかしい。誰にも見られたくないわ。ただもう早く楽になりたい。死にたいの。だって手足もないの。首と胴体だけ。だからもうそう長いことはないはず。切り口は熱くやいた刃物で消毒された。血がいっぱい流れて、うんと弱ってるけれど、でもかんたんには死なない。すごくきれいなひとだったのに。なんて無様なのだろう、おまえはもうひとじゃない、ひとぶただね、って、高笑いするおきさきの声が耳にいつまでもこだまして」 あんぐり口をあけたスミカとヒトシの顔が光っている。燐粉をまぶしたように光っている。レディが、ううっ、と唸った。のろのろと視線を動かすと、牙を剥き鼻面に皺を寄せて唸っているレディの目の中にちいさくなった自分が見えた。そのとたん、レイラは自分がみるみる小さくなって、ひとりでありながら分割されて、そっくり同じ姿の双子になって、レディのふたつの眼球の中にとじこめられてもがいているのを感じた。手足をもがれ、舌を抜かれた古代の異国の姫ぎみのように。 汚物に塗れた四肢のない裸身、解けてもつれた長い髪、白くてきめ細かくて触れれば掌に吸い付くようだったその肌は、熱い夏の夜には抱けば涼を取ると珍重されたもの。そこをたくさんの忌まわしいものが這いまわっている。叫ぼうと開いた口に言語を絶する液体が流れこみ、たちまちこみあげた吐瀉物の酸が歯に軋る。涙がとめどなく流れだすように感じられるけれど、それは幾度となく降ってくるだれか他人の排泄物かもしれない。苦しいのは痛いのはからだではなくこころなのだとレイラは思う。とらわれたこと、自由を奪われたこと、尊厳を奪われたこと、屈辱。憎悪や嫉妬や怨嗟に比べれば物質はなんと優しいものなのだろう。ナイフも縄も致死毒も瞬時の解放をもたらしてくれる。 排泄をする場所がなぜ鬼門にありなぜそこであまたの怪談が生まれるのか、未来のいつか誰かが自分の考えを熱心に説明してくれたことがあるのだった。そこでひとは否応なく「かくしどころ」をさらす。それもまた歪んだ話なのだ、本来なら忌む必要などない自然な器官のひとつにすぎないのだから。あってふしぎのないないものをないことにしておきたいこころ、暗く湿って悪臭を放つことの象徴性。イヤだから隠し、隠すからイヤになる。恥だから汚れ、穢れているから卑しくなる。ありもしないことにできもしないことをむりにないようにふるまうたわみこそが、化けてでる怪物になる。誰もが知らぬ顔をしたがるもっともふれてほしくないいきなりふれられれば腰をぬかす肝っ玉をひっこぬかれてしまうかのように思うまさにその場所へ、つめたい手でふれてくる。 「レディ!」 掌に、火箸を、おしつけられた。うぉん、と強い声がした。たちまち視野が揺れ、夢の中で階段を踏みはずした時のようなガクンと落ちるような感触と、いったいどちらが先でどちらが後なのか、レイラはストンと戻ってきた。部屋だ。高台の家のキッチンに近い部屋。犬の牙に手を刺し貫かれているのがわかる、レイラが気づいたと同時に白い大きな犬レディもまた我にかえり、びっくりしてきょとんとなる。吠えたのはトランプのほうだった。いつになく精悍な顔付きになり、四肢をつっぱったまま、いまだ油断をとかず、低くうなっている。山に面したのほうの、部屋の隅の壁と天井のあわさるところを向いて、唸って唸って、やがて声が低くなったかと思うと、緊張してピンと立っていた尾が力を失い、しずかに足の間に垂れる。トランプはきゅうん、と甘えるように鼻を鳴らし、その場にくずれるように腰をおとした。まるで、見えない誰かに、お座り、と命令されたかのように。 「へんな声出すからよ!」スミカが叫んでいる。「レイラが、気味悪い声を出すから、レディ、びっくりしたのよ!」 「なんだよ、おまえもあの話、知ってたんだ」とヒトシ。 そうね。そうかもしれない。そうだったらよかったんだけど。 知ってたはずなんかない。 いったいあれは誰の知識? 誰の意見? わたしの頭をつかって、誰が話したの? レディが口を離すと、ぶっつり開いた赤く丸い穴から、ためらうように一拍おいて、血が流れ出した。どくん。どくん。どくん。左手の親指の根っこのあたりだ。牙がささったのは一箇所だけで、だが、裏のほうにはもう一箇所、痣になってみるみる膨れていく部分がある。腱と骨がずきずきする。拍動にあわせて、どくん、どくん、穴からあふれ出した血が手首を経て肘のほうまで、ゆっくりと流れていく。濃い赤の、小さな鎌首をもった蛇が、穴からゆっくり這い出すように。 きれいだ、とレイラは思った。 いのちの赤。なんてきれい。 痛みはまだこなかった。 ヒトシがティッシュをたくさんひったくって押し当て、せっかくの細蛇をだいなしにしてしまった。スミカが救急箱、救急箱って、どこなのよ、叫びながら走り回っている。 気が抜けたような途方にくれた顔をしてはぁはぁ熱い息を洩らしているレディの鼻面の白いところにも真っ赤な血が一滴、散ってしまっている。レディの濡れた黒い目がひたとレイラを見つめている。怒ってない? 怒ってない? ごめんなさい。わたしどうしてこんなことをしてしまったの。途方にくれる白い大きな犬はいつになくこどもっぽい。 怒ってなんかいないわ、もちろん。レイラは犬の首を抱いて、その耳を頬でくしゃくしゃと押しつぶした。あなたは、わたしを助けてくれたのよ。あちらにゆきかけてしまったあたしを、こちらに引き戻してくれたのよね? わかってる。ありがとう。だいすきよ、レディ。 キスをして、犬の毛に落ちた血を吸うと、金気臭い味がした。 その瞬間、とつぜん、じん、とした痛みがやってきて、たちまち肩まで走った。 消毒し、ヨーチンを塗り、包帯を無事に巻き終わるまでがてんやわんやだった。あたしのせいでここんちの救急箱の包帯がどんどんなくなっていくな、とレイラは思う。明日、また商店街にいったら、買って補充しておいたほうがいいかも。それとも、それってかえってよくない? もっと包帯が必要になるようなことを呼び寄せてしまうかな。 そろそろ二階に行くことにした。もうとっくのとんまに寝る時間だったし、ゲームを続ける気分じゃないし、場所を移すことでこのへんな雰囲気を刷新して消してしまいたかったからだ。トランプといえば、二匹の犬たちも、なんだか落ちつかなげにパタパタうろついている。かと思うと、こどもたち三人にくっついて二階にあがってきた。木の階段のツルツルした面で爪を滑らせながら、なんとかのぼってきた。 「うわ。ひでー寝相だなこいつら」ヒトシが双子を正しい位置に置き直す。 レイラは包帯のおかげでズングリ重たくなってしまった左手を無意識に右手で支えながら窓を見た。蛾がいた。灯かりをつけっぱなしにしていたのだからそれがしごく当然当たり前のことなのかもしれないけれど、なんの不思議もないのかもしれないけれど、こどもたちの寝部屋に面した窓いっぱいにびっしりと蛾がとまっていた。ゾッとするほど大量に。 いやだけれど、いやだと思うあまり目が背けられない。大きいの、小さいの、グレイの茶色の赤いの緑がかったの。まるで絨毯のように、タペストリーのように。満遍なく。それはただの蛾ではない。じわじわと絵になろうとしている。もう今日はじゅうぶんいろんな目にあってしまったのだから、いいかげん勘弁してくれたっていいようなものなのに。 くらやみ鏡になっているはずの窓が、大量の蛾のせいで、ほとんど鏡の役を果たさない。余すところなく止まった蛾たちは全体で一枚の絵を描きだしている。色盲検査に使うようなクレージーにまだらな絵が、徐々にととのって、まるでひとの顔のよう……知っている誰かのよう……。 「……ユメミ……」 レイラがつぶやくと、ユメミは、シッ、と唇の前に指をたててみせた。蛾が何匹か、ちょっとだけ羽ばたいた。 「なに?」 枕をぽんぽん叩き、ふとんをめくりかえしながらスミカが訊ねる。 口を開こうとしたレイラに、だめだめ、とユメミが首を振る。なんで? だって、スミカだよ。いちばんの仲良しなんだよ。かくしごとしたくない。紹介したい。 「見て!」がまんできなくてレイラは言った。「スミカ見て。あそこ……ほら窓。すごい蛾が……」 指さす先で、ユメミのカッと怒った顔が見るみるぐちゃぐちゃに崩れていく。黙ってろって言ったじゃないの! 裏切りもの! と言わんばかりに。 「ああー……ちがう。もう変わっちゃった……けど、さっき、ちょっとひとの顔みたいに見えたの」 「まぁ、あんたときたら。ほんとに想像力がゆたかだこと」 スミカはおとなぶってため息をついた。 「ホラータイムはもうおしまいにしない? 寝られなくなっちゃう」 「ごめん……」 うう、と犬たちが唸っている。レディとトランプは耳をピンとさせたまま、中腰になりながら、窓のほうを睨んでまだ警戒している。犬には見えるんだ。それとも、感じる、って言うべきかしら。 「おやおや」スミカが言った。「わんこたちまでなんでしょう。ほんとにお化けでもいるのかしらね」 ごめんユメミ。レイラの胸には罪悪感が兆す。お化けよばわりなんかして。でも、あんたも悪いのよ。だって、ほんとに、それじゃまるでお化けだもの。 こんどはいったい何しにきたの。なんですぐ帰っちゃうの。いつもいつも突然で、そっちの都合で出たり消えたり。スミカなら平気だよ。ぜったい信用できるんだよ。大丈夫、あたしが保証する。 だって、わたしだけ知ってるなんてやだ。 誰かと共有したい。 なんで、あたしにしか姿見せないの? いつだって、あたしがひとりでいる時ばっかり話しかけてくるし。 読んだことのあるたくさんの話の中に時々そういうものがあった。確かにいるのに、いないふりしている誰か。気付いているのはたったひとりだけ。他のひとに知らせようとするたびに、証拠もなにもかも消えてしまう。いるんだよ、ほんとに見たんだ。信じてもらえない。怖がりのお騒がせ、嘘つきの烙印。おおかみ少年。 あんた、ひょっとして、あたしをからかってるの? 困らせたい? それとも、みんなから信用されなくさせたいわけ? お化けじゃないなら……悪いものじゃないのなら、双子はともかく、スミカやヒトシになら、正直にふるまってほしい。姿を見せてくれたっていいじゃないの。 犬たちがもじもじした。ひゅーん、と鼻声で鳴きながら、悲しげに深い探るようなまなざしでレイラを見る。あんたたちも途方にくれてるわけね。無理もない。あの子、敵なのか、そうじゃないのか、よくわからないもんね。 レイラがうなずくと、安堵したようにトランプの耳がぺたんと折れた。彼は、ふとんの平らなところにあがって、自分で自分の尾を追いかけるようにぐるぐる回りをしてよく踏んでから、ストン、と腰をおろした。ふう、と息をつき、伸ばした前肢に顎を乗せて伏せる。それは双子の真ん中で、いわば双子を守る位置。 「よしよし」とスミカ。「偉いぞ、わんこたち! お化けをおっぱらってくれたのね」 レディはひたひたとレイラに近づいてくると、案じるように、レイラの頬に冷たい鼻をくっつけた。レイラはその大きな頭をかかえこんで、頬づりした。しかたなく自分のふとんに横になると、レディはレイラのそばによりそい、レイラの首筋に顔をほとんどくっつけるようにして横になった。ここにいてくれるのね。守ってくれるんだ。ありがとう。レイラは怪我していないほうの手で、レディの大きな顔にさかんにふれ、首を抱いた。 ほんとに困ったユメミちゃんだ。レディ、あんたにまで、心配かけてごめんね。 蛾はまだうんざりするほどたくさんいたが、もうへんなかたちになったりはしなかった。不自然な顔はもう見えなかった。なんの意味もないかたまりにすぎない。寝そべった位置から見上げる窓にはぴったり並べて敷き詰められたふとんが映っている。いぎたなく眠りこける双子と、腹ばいになって枕を抱きしめて、うへー、背中いてぇー、皮むけそー、と言っているヒトシと、仰向けになって静かに目を閉じて両手を胸元であわせてなんだか聖母マリアみたいにみえるスミカが映っている。 ここにみんないる。大切なものたちが。外と中を隔てるガラスのこちら側に。 ねぇユメミ、とレイラは思う。あんたが何ものなのか知らないけど、あたしはこっちの人間なんだよ。そっちの、あんたのほうじゃない。何をしたいのかしらないけど、何をさせたいのか知らないけど。わたし、そっちには行けないよ。すくなくともまだ。 答えが帰ってきた感触はなかったが、反論が帰ってきた感触もなかった。ひとりきりではないから案の定ではあったが、なによ、拗ねちゃって、とレイラは思った。しかたないじゃない。びっくりしたんだもの。あんな悪趣味な登場のしかたをする、ユメミが悪いんだよ。 窓の外の夜は深く濃い。夜の中には、もしかするとほんとうに、あたりまえとはいえないなにかがいるのかもしれない。ユメミや、あのピンクヘッドパンサーズや、それともまたなにか違う種類のものたちが。いるとしても、すすんで関わり合いになってはいられない。善いものなのかどうかわからないうちに、こころを許すわけにいかない。してやられるわけにはいかなかった。 レイラは包帯の手を伸ばしてレディの頭を撫でた。もういいみたい。だいじょうぶだから、おまえもおやすみ。犬の毛の柔らかな手触りの下に、小さな脳みそをまもった小さな頭蓋骨のかたちを感じる。ちいさないのち。いとおしいいのち。 「消してよ」ヒトシが言う。 レイラはあわててたちあがり、電灯の紐スイッチに手をかけた。 「あ。小さいのは残しといて」目を閉じたまま、スミカが言った。 「そだな。ぜんぜん見えないと危ないからな」 部屋がオレンジ色に染まり、なんだか、小さくなったように感じられるようになる。 天井に映った電灯の笠の影をみつめるともなくみつめながら、レイラは、このまま眠りに落ちていいのかどうか、少しばかり心配になる。ユメミの態度は不可解だったが、怒っていたのは確かだ。なにかを言いにきたかもしれないのに、伝えてもらう暇もかった。喧嘩別れみたいになってしまった。 何度も助けてもらった恩人に対して、失礼な態度だったかもしれない。 そう、何度も助けてくれた。あの子は次も助けてくれるだろうか? それとも、ほんとうは、信じてはいけないものなのか。あたしに、見極められるだろうか。抵抗できるだろうか? おかあさん。 サヨラのことを思う。ほんものの“ひめ”、当代一流の“ひめ”である母のことを。 そういえば、しばらく逢っていない。あわただしく出掛けてきたので、「行ってきます」も言ってこなかった。 だが、……もし逢っておく必要があるならきっと逢えたはずだと思う。母は夢を歩く。どこまでも過ちなく行ける。母が逢いにこようとすれば、いつでも来ることができるはずだ。わたしがもし危ないものに近づいていることがわかったら、警告してくれるはずだ。 おかあさん、助けてね。 もし、わたしが、こわいものになにかされそうになったり、迷子になりそうになったら、かけつけてね。守ってください。 もし、さらわれてしまったら。 どこまでも探しにきて。きっと、つれもどして。おかあさん。
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