yumenooto uminoiro

 

                                                                                           

 

                                    Mahane 12 ver2.1

 

 星海高校。

 シャンパンボトルがあくように笑い声がはじけた。談話室の扉があき、教師たちが出ていこうとする。

 廊下にたむろしていた生徒たちが、駆け寄って道をふさぐ。

「な、なんだ?」

 教師のひとりが思わずつぶやくと、

「どうなったんですか」

「星野さんは」 

「見つかったんですか。無事なんですか」

 口々に訊ねられた。

 なにか得るまで逃すまいと立ちはだかるこどもたち。見つめる目。問い詰める目。野次馬と言えば気の毒だろう。仲間の身を案じて、集まっている。

「ああ、ああ。安心していい。もう大丈夫だ! 電話があった!」体格のいい男性教師が腕をあげながら、大きな声もはりあげる。「いま星野は、ご両親といっしょにいるそうだ。それ以上のことはまだわからん」

 さあ、もういいだろう。あとはあした。帰ったかえった。どいてくれ。ちょっと通してくれんか。

 談話室から、教師たちの全身から、一段落した感、安堵感がにじみだしている。発せられた言葉の意味よりも内容よりも、むしろ彼らの態度に、気配に、こどもたちは事態の収束を察した。じゃあ、と身をひるがえし、道をあける。

 教頭がスマートフォンで早口に話しながら立ち去り、養護教諭は事務の女子職員の肩を抱いて支えるようにして通った。

時谷那智は最後のほうに出てきた。早川小桃と、おともーズ(金城沙枝と花里真美)がすばやくまといつく。タオルと、プロテイン飲料と、チョコ菓子をさしだす。おつか。お疲れさまです。良かったですね。でも、ほんと、良かったです。

ありがと、と笑いかけて、那智は立ちくらみを起こし、戸口に手をついた。垂れた前髪の隙間からどんよりくもった瞳がのぞいている。きゃっ、大丈夫ですか、しっかりして! みんなで支えて、転んでしまうのだけは防いだ。那智の肌には血の気がなかった。いつもの明るさも、快活さも、優しくてキラキラのオーラもない。憔悴しきっている。

そこまで心配だったのか、星野さんのことを? とかすかに嫉妬的な気持ちがかすめたが、それより、具合が悪そうな那智の、防御しきれない間合いにはいりこめた幸運のほうがまさった。そばでこうしてまじまじみるとなんだかいつもとは別人のようだ。頬がそげ、目の周辺がゾンビのように黒ずんでいる。こんなのって、まるで――『ブラック那智』。

それが早川小桃の頭にとっさに浮かんだ単語だった。那智黒という言葉も、そういう石の存在も、まったく知らなかったけれど。  

うっそー。いいー! 小桃は思い、胸がどきどきし、みるみる赤面した。ふだんのなっちもいいけど、このなっちったら、超美味しい。なんか危うくて。色っぽい。知らなかった。美形悪役、意外と似合っちゃうひとだったんだ〜!

 真崎黄菜はちょっと離れた柱のあたりで事態を眺めている。棒つきキャンディーを口にいれている。棒を持って、ちゅぽっ、ちゅぽっ。何度も無意識にくちびるから出し入れしている。人工的なまつげが長い影を投げている。

 ふうん。とりあえず、なんか無事に終わったみたい。もう、待っていても、面白そうなことは起こらないかな。

 黄菜は口の端をちょっとあげる。

 ――がっかり。

生徒たちが三々五々校門をぬける。ひとりで。グループで。徒歩で。自転車で。

高校前の坂道を連れ立ってはしゃいでしゃべりながらおりていた女子生徒ふたりは、見知らぬ男に声をかけられた。

「すみません、星海高校の生徒さんですか?」

 長い前髪を顔にたらし、あまりを後ろでくくってポニーテールにしている。サラリーマンではありえない髪形、ここらではみかけない小洒落た服装。テレビの取材だろうか? マイクが見当たらないが。

「はい?」

「あのー、星野さん、星野磨翼さんのことなんですが」

 ああ、やっぱり取材か。

「ご無事だったと。ほんとですか?」

「はい、おかげさまで。ほんと、良かったです〜(にこっ)」

「ちょっ、ちょっと優ちゃん」

 須和野静香は新田優の肘をひっぱって脇につれ出した。耳に口をつけ、小声でささやく。

「だめだよ。話したりしちゃ。何にも言っちゃだめ。だいいち、このひと……

「まぁ、静香ちゃん。失礼よ!」

やさしい子に育って欲しいのでこう名づけられた優は、いつでも誰に対してもオープンハートで、できるかぎり親切にするのをモットーにしている。もし相手が、ちょっと普通と違っていても、そんな瑣末なことは意識しない。たとえ見た目が怖くても、悪いひととは限らない。むしろ、お気の毒じゃないですか。

髪で隠しきれないケロイドは、目にはいらないふりをしてあげなくっちゃ。

「うちの生徒のことを、お気にかけていただいてありがとうございます。おかげさまで、大丈夫です」

「誤解してないかな。取材とかじゃないんで」と男は言った。「他人じゃないんです。私は、彼女の親戚なんです」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと。で、これから星野さんちを訪ねていかないといけないんですけど、場所、わかりますかね?」

 男は笑ってみせた。もとはきれいな顔だちだろうに、顔の半分が恐ろしいことになっている。やけどだろうか。瘢痕組織が醜くひきつれて、どんな表情をしても、顔のそちら側がいびつにゆがむ。

「まさか、こんな山奥だなんて知らなくて、すっかり道に迷っちゃって。電波悪くてマップも出ないし。良かったら案内してもらえないですか?」

だめだってば! 静香は首をふり、優ちゃんの肘をさらにグイグイひっぱった。

「やめとき。嘘だから。ありえないから!」 

「ごめんなさい」

 やさしい優ちゃんはほんとうに申し訳なさそうに、可愛らしく言い、きちんとおじぎまでした。

「できればご案内したいんですけど、わたしは、星野さんちを、知らないんです! この春ともだちになったばかりで。まだ、おうちに、行ったことないんです!」

「あー」

 男の顔からすっとなにかが抜けた。やさしい優ちゃんは、わあがっかりさせちゃったみたいねごめんなさいと思うが、かたわらでハラハラ成り行きを見守っていた須和野静香には、『なんだ。せっかく呼び止めたのに、役に立たねーなこのブス』心で舌打ちする音がはっきり聞こえた。

「うーんとね、わたしは知らないんですけど、あの子なら知ってるんじゃないかな。小学校からずっといっしょだから」

おーい!

優ちゃんは元気よく手をふった。

ちょっ! うわ、こら、やめなってば! 静香が気づいて止めようとするのに。

おーい! きなちゃーん! 小さなこどもみたいに元気よくさかんに何度も手をふった優ちゃんは、スマホを鏡がわりに前髪とつけぼくろの具合を確かめながらぽとぽと歩いてきた真崎黄菜の注意を惹き、立ち止まらせるのに成功する。

 

 

 

 

星野親子は家路を急いでいる。

国道を右折したところだ。別荘地内の道はひどく細く、大きくうねって曲がっている。舗装がメチャクチャのがたがたになっているところも少なくない。ひとけのない別荘でも、かなり間隔があいていても、とりあえず現役の建物があるうちはそれでもまだ良かった。奥へ奥へ進むうちにますます道幅が狭まり、人工物の気配が圧倒的にとぼしくなる。たまの看板とカーブミラー、あとはただ森。砂利道と、鬱蒼とそびえたつ樹木ばかりだ。

木が両側から枝をさしかける道は昼でも薄暗く、走っても走ってもかわりばえがしない。ひとけもなく、対向車も、むろん信号もない。どこまでいっても似たような気色ばかり。迷ってぐるぐるまわっていても気づかないだろう。突然、道が消え、行き止まりになっても不思議はない。

町暮らし、都会育ちのひとにとっては、たぶん、不気味な、恐ろしい、えたいの知れない森。だが星野一家にとっては、ただの日常の通路。毎日使う道である。

ポチのマコトはダートレーサー並みの速度でかっ飛ばしている。砂利をはじき、カーブでドリフト、エンジンノイズが時々キインと耳を刺す。こんなにふくらんで、ブラインドカーブにつっこんで、対向車がきたらどうするのか。

いつも穏やかで冷静で温厚な父に、こんなアグレッシブな運転ができるとは知らなかった。ファザコン気味の愛娘としては「おお、父上、かっこいい! やればできるんじゃん!」はしゃいでみせたいが、うっかり口をきくと舌を噛みそうだ。

ふざけたくなるのは、あまりの速度で飛びすぎる景色がちょっと怖いからだ。これほど急ぐわけを尋ねるのが怖いからだ。不安とGで車酔いしそうだ。おとうさん、おとうさん、ジェットコースターはレールがあるから安全なんだよ。いま路肩ちょーギリギリだったよ。マハネのからだはこわばり、顔は、ぴきぴきとひび割れる音がしそうにひきつっている。掌はダッシュボードにあてがったまま。もし転落したら速攻つっぱってせめて身を守らなくては。

「思い出すな。ここ。この道をはじめて来たときのこと」しかし母はのんびりと言う。過激な運転を気にもしていない。父を信頼しきっている。

「マハネちゃんは、おぼえてない?」

「え! なにそれ」マハネはむりむり、と首をふる。「ていうか、え。いたの? わたし、それ、いつのこと?」

「もちろん」

 母はうなずいた。

「いっしょにいたわ。まだうんと小さかったけど。そうね、まだマハネちゃんじゃなくて、アキコちゃんだったわ。マコトさんは免許とりたて。普通免許があれば割のいいバイトができるからって教習所、最短時間で通った。あたしたち、嬉しかった。もうすぐ結婚できる、いっしょに暮らせる。そう思って頑張ってたころよ。そうしたら……そう。そうだわ。あの日。……おかあさんが夢にあらわれたの」

 サヨラはさしだしたのだそうだ。

 プレゼントを。

てのひらにのせることができるほどの小さな箱を。

 

 

当然だ。むろんだ。サヨラが出てくる夢がただの夢であるはずがない。

レイラは夢の中で確信した。受け取った贈り物をうきうきのぞきこみ、リボンをほどき、包み紙をはがし、箱をあけた。

なにもなかった。

からっぽだ。

さかさにして振ってみた。なにも出てこない。

――ひどい。

レイラはふくれっ面になった。泣きそうになった。おかあさん。これ、なに? なんの冗談? 

文句を言おうと顔をあげたが、サヨラはもういない。

消えてしまっている。

どういうこと? どうしてこんないじわるするの? 

信じられない!

と。

投げ捨てようとした箱の中で、なにかがキラッとした。顔を近づけてのぞきこんだら、押し返された。なにかがいきなり、箱の中から盛り上がってきたのだった。あっと思う間もなくどんどん大きくなり、ひろがり、あふれ出した。

それは透明な黒でつやつやしたもの。ふわふわもこもこしたものだ。噴水のように、あとからあとから沸き出してきた。ところどころにキラキラなデコレーションを散りばめながら。

驚いて足をさらわれ、すてんと転んだら、その黒いものに頭からのみこまれた。ざんぶり。レイラはそう感じたけれど、つめたくもなかったし、濡れもしなかった。それは、ふわふわで、ぷりぷりで、つぶされる感じもない。それでも、少し冷たかった。ながされた。運ばれた。持ち上げられ、浮かんで、くるくるまわってしまった。

それは……空だった。

星空だ。

まるでかたまりきっていないゼリーのような。たくさんのふわふわのぬいぐるみでできているみたいな。やわらかい可塑性の宇宙だった。宇宙はどこまでもどこまでもあとからあとから広がって、とてつもなく大きくなっていくところだった。無限にひろがる。ひろがりつづける。気がつくとレイラはぷかぷか浮かんでいた。大宇宙のまっただなかで。おふとんにのっているみたいに。クッションにのっているみたいに。ゆったりとあおむけになって、全身のちからをぬいて、背泳ぎするみたいな姿勢で、ぽかーんと脱力した。星をみていた。満天の星を。まわりじゅうの星を。

上に星があり、下にも星があった。もちろん右にも左にも。

うわー。どまんなか。

ためしにちょっともがいてみると、かんたんにうつぶせの姿勢になることができた。手と足を動かしてみると、進んだ。

泳いだ。

気持ちがよかった。

レイラは星の海で泳いだ。

ダイバーのように。いるかのように。人魚のように。

天のこどものように。

星の空と星の海の間で、星空のまっただなかで、どまんなかで、ひとりはしゃいで、思いきり遊んだ。楽しく動き回った。

なんて幸福だったろう。

晴々と、のびのびと、心地よい感触。

そんなにも自由で楽ちんで気持ちがよいのだと自覚して、気がついたら、涙が流れていた。レイラは泣いた。

世界が、愛しくて。

海が。

なつかしくて。

あの夏――銃声の夏――を経験してから、そうだ、そういえば、レイラは海に行ったことがなかったのだった。逃げるのと暮らしていくのにせいいっぱいでそんな余裕はなかったし、ふりかえれば海は怖かった。海はすべてのおそろしいことの象徴に思えた。怪物に思えた。それ自体、意志のあるバケモノのように。怖くて、苦しくて、それ以上に悲しかった。海が大好きだったのに。海には思い出がありすぎた。思い出したくないことがたくさんありすぎた。

泳ぎたいとか、波にふれたいとか、砂遊びをしたいとか、潮風に吹かれたいとか、水着になって太陽光線に背中をじりじり焼いてほしいとか、せめて海を見たい、とか。

そういう気持ちには、もう一生、ならないと思っていた。

海なんかもういい。

そう思っていた。

いたのに。

海が。

海が。

なつかしかった。

海が好きだった。海は素敵だった。恋しくてならなかった。海に行きたかった。

海にはいって、海に抱かれたかった。

でも、だめだ。だめだ。だめだ。まだ無理だ。だって、海は、この夢の海とは違う。ホンモノの海は、あまりに大きくて、しょっぱくて、強くて、乱暴で、怖い。

海は攻撃的だ。

海にはいろんなものが溶け込みすぎている。

その点、夢の海、星の海はやさしかった。地上の海に似ているけれど、まったく別の種類の海だった。おおきさややさしさはもっているけれど、別に怖くはなかった。ほんとうの宇宙なら真空で、無重力で、まったくぜんぜんこうではなかっただろうに。なにしろ夢の海だから。サヨラの、かあさんの、海だから。

きれいだった。楽しくて、安心で、幸福だった。重力から開放されて泳ぐのは素敵なことで、なにもかも忘れて夢中になれた。のびのびとのばす手足の先から、疲れや悩みがふりはらわれていく。こころもからだもぜんぶ、リフレッシュされたように感じた。

いやなことをみんな、振り捨ててしまえたみたいに。

還れるかもしれない。

そうおもった。

こういう海になら。還れる。

わたしはわたしに水をそそぐことを忘れていたのかもしれない。

レイラは思った。

だからずっとわたしは涸れていて、乾いていて、ひからびて、こちこちで、みずみずしくなかった。

わたしは恐怖にとらわれていた。

わたしは時間をとめていた。

海を。忘れていた。

いのちを、忘れていた。

拒んでいた……

わたしには、こんなに、こんなに、海が、必要なのに。

 

 

夢からさめたあと、レイラはポチに言ったのだった。

「わたしたち星海町に行かなくちゃいけない」と。

「星海町に引っ越しましょう。すごくいいところだから! あなたも、アキコちゃんも、ぜったいぜったい、気にいるから!」

それどこ? そこでなにをするの?

けげんな顔をするポチに、

「わからない。でも、行くの。行かなくちゃ。サヨラが教えてくれた。そこにわたしたちのための場所があるって」

 ほし、うみ、まち?

まずは、そんな名前の場所が土地がほんとうにあるのかどうか、日本に実在するのかどうか、調べてみなくてはならなかった。

あった。星海町。存在した。

でも、それはふたりにはまったくなじみのない場所で、行ったことも聞いたこともない地方で、知識も情報もほとんどなかった。当時のことだ。ネット情報などかんたんに検索できる状態ではなかった。また、あまり観光のさかんなところではないようで資料を眺めても実際どんなところなのかさっぱりわからない。地図は等高線ばっかりで、表示がほとんど白い。面積の大半が深い山林であるらしい。湖があって、その沿岸の部分と、川沿いの土地にぽっちり人家があるていど。たいそう僻地だ。過疎地のどいなか。

でも、

いってみるしかない。

そろって休みがとれた日、借りた車を走らせた。

それが、そう、その、「はじめての」とき。

遠かった。行けども行けどもたどりつかなかった。そこは世界のほとんどの場所からいちばん遠いところだから。日本でいちばん海から遠いところだから。

早起きをしてがんばって飛ばしても、何時間も、何時間も、ちっとも近づいた感じがしなかった。

そう、もちろんアキコ=マハネもいっしょだった。まだ小さな明子はチャイルドシートにくくりつけられてぐうぐう眠っていた。そうでなくても車に乗せるとすぐ寝てしまう子だった。いかにも小さな健康なこどもらしく、お腹をありえないほどふくらましてすーといい、ぺしゃんこにしてふーという。まぁびっくりするぐらい極端にふくらんだりしぼんだりするのだ。まるで、イソップの牛の真似をするカエルのおとうさんか、ふいごをしこんだ人形のよう。息をするということが、いかに重大でないがしろにできない大仕事であるかをきっぱり主張するような、腹式呼吸の模範演技みたいな、そんな吸ったりはいたりをして、ほんとうにぐっすり熟睡するのだった。

長い長いドライブの果てにようやく星海町にさしかかると、そのアキコがいきなり「むー」といってもがいた。具合が悪いのだろうかと様子をみると、寝ている。むくんだまぶたを遮光器土偶のように閉じたままだ。

だが、アキコは腕をのばしていた。

輪ゴムでくくったような手首が、

全部のばしきれない指が、

幼児のぷくぷくのひとさし指が、

ひとつの方向をしめして、ゆるがない。ぴくりともぶれない。

アキコNAVIはその後も作動しつづけた。曲がるべき角や進路を選ばなくてはならない分かれ道で、確実に、きっぱりと、行く手をしめした。

そして、彼らは、この道にはいった。

深い深い、道しるべもない、森の道に。

そのときはもちろん、こんなにすごいスピードは出せなかった。おっかなびっくり、何度も左右を確かめながら、路肩を見下ろしながら、とろとろ慎重に走った。だから、よけいに時間がかかった。

うわー、ほんとか? ほんとにこの道で大丈夫なの? 不安のためにポチは饒舌だった。どこまでいくのかなぁ。ぼくまだUターン苦手なんだ。たっぷり場所がないとできないんだけど。長い距離のバックなんてもっと自信ないし。かんべんしてくれ、まだ免許とりたて、若葉マークなんだし! レンタカー、傷つけてかえすとお金かかっちゃうんだよー!

やがて、とうとう、道が終わった。ゆきどまりになった。

大型車でもじゅうぶんにゆったりとまわることができる空き地の脇に、古い鋳鉄製のゲートがしまっていた。

ゲートからのぞく木立の奥に、とても大きな建物があるのが伺えた。あたりはしいんとしずまりかえっている。誰もいない。誰も住んでいる気配がない。そもそもここまで周辺数キロに、まったくぜんぜんひとけがないのだ。

建物は古かったが、立派そうだった。太い煙突があって、窓などのつくりが外国風で、とても素敵だった。おしゃれだ。ペンションかな、とポチは言った。誰かの別荘かもしれない。でも、もう何年も使われてないみたいだ。それにしても、ずいぶん走ったなぁ。日本にも、こんな秘密めいた場所があるんだねえ。

レイラは建物をひとめ見たとたん泣きそうになった。なんともいえない懐かしい感じがして、あたたかなうるおいで胸がいっはいになっていた。そこにはよく知る「なにか」があった。親しい「なにか」があった。気配が。雰囲気が。オーラがあった。

ああ、似てる、同じだ、と思った。

思い出す。

菩提樹を。ヒロさんの屋敷を。

みんなのいた、あの懐かしい場所にここは、きっと、「なにか」がつながっている……

赤ん坊のアキコが目をさまして、もがいた。まぶたをさかんにこすりながら、たどたどしく、「ちゅいた?」と聞いた。

抱き起こし、三人でくるまをおりた。

ゲートにはしっかりと鍵がかかっていたけれど、ひとのとおれるほどの幅のちいさなドアになるようにくりぬいた部分があり、押してみると、あっさりあいた。

「ごめん……くださぁい」そっと小声でいいながら、くぐった。

寝覚めのアキコは元気いっぱいで、鼻唄まじりにどんどん歩き、とてとて歩き、それから,突然、「うおっ!」一声叫んで、走り出した。なにかかくべつに素敵なものを見つけたみたいに、猛ダッシュで。

建物をまわって、奥へ。むこうへ。

「え、まって!」

「走っちゃだめだー! 見えるところにいてー!」

「アキコちゃ〜ん……あ」

 叫ぼうとして、息をすいこんで。

 感じた。

 そのかおり。

 匂い。

どんどん行ってしまう小さなこどもを追いかけていくうちに、ようやく、レイラたちにも見えてきたのだった。

果樹園が。

広大な、実りが。

何十本何百本という癒恵がびっしりと葉をしげらせていた。城の大広間を埋めつくす豪華な招待客たちのように。みずみずしい緑に着飾って、この素晴らしき日にここに集えたことを祝ぎながら、うやうやしく立っているのだった。

さやさや。さやさや。風が吹いて木立を揺らすのは、まるで、樹木たちの拍手のようだ。にこにこ微笑んでいるかのようだった。ようこそ。ようこそきてくださいました! いらっしゃいませ。よくおいでくださいました! 笑い、喜び、会釈をし、目をみかわし、うなずいてくれるようだった。

中でも特別太くて立派なごつごつと節くれだった長老のような癒恵のそばに、根元に、小さなアキコがいた。膝をついて、よつんばいになって、お尻を高々とあげている。地面近くにあるなにかをとろうとして夢中になった小さな子がいかにもやるかっこう。

そうやって、なにかをいっしょうけんめい見つめている。

「アキコちゃん!」

 レイラが駆け寄ろうとすると、顔をあげる。

「おかあさん、ここ」

ゆびさす。

「ひかってゆ」

癒恵の大樹の根の幾重にもおりかさなった隙間の奥で、なにかがキラキラ光をはなっている。小さなマハネはとめる間もなく、そこにまた、腕をつっこんだ。とどかない。とどかない。もうちょっと。ワンピースの袖がどろんこになるのも構わずに。あ、なんとか、とどいた!

ひっぱりだしたのは、箱だ。

あの箱。

レイラが夢でみたのと同じ。そっくりの、リボンのかかった箱。

えへへっと得意がって(指で鼻のしたをこすったものだからまるで髭みたいなどろんこがついた)さしだしたアキコから、レイラが箱をうけとる。こわごわ、ポチに見せる。父はふうっと息をつく。そっとあけてみる。

のぞきこむ。

箱の中に、真鍮色の古風な鍵束と封筒。

白いカード。

 

『わたしのたいせつなこどもたちへ』

海色のインクで、かいてある。

 

 

『この土地と屋敷をつかいなさい。

 ここで、種子を蒔き、苗を植えなさい。

 お陽さまの光と雨と長い年月があれば

 たいがいのことはなんとかなります。

 佳き夢を。

               SAYORA

 

 

 

 

 

「そんなことが」

 時は流れ、はるかな「いま」。

小さなアキコだったレイラはまばゆく輝く女子高校生になり、いつもの道を走る父の車に乗っているのだ。なにげなく。まるでふだんそうしているままのように。

間もなく家につく。

家に。

その家には。

「そんなことが、あったんだ?」

 知らなかった。いや、忘れていたのだ。なんとも思っていなかった。あまりに幼すぎて。小さすぎて。

 家。

 自分の家。

 自分の家と呼んでいる場所。そこに大好きなひとたちがいる建物。

果樹園という名の秘密の憩い場。

 そこをそうしておくように、誰が考えたのだろう? そうしておくことができるようにするために、どれほどたくさんの作戦が、努力が、幸運が、そして誰かの助力が、必要だったのだろう?

 父は、母は、きっと、とても用心深く準備をし、警戒しながらも味方をさがしたのだ。だってそんなこと、

 ひとりではできないから。

 ふたりではできないから。

 まだ若くて、世間的な信用も経験もほとんどなにもないふたりが、いったいどうやって成し遂げたのか?

 しかも。自分を――まだ学齢にも達していなかった小さなこどもを――きちんと育てていかなければならなかったのだ。一人前に。ごくあたりまえの、ふつうの子のように。学校にいれて。疑われず、嫌われず、順当にこの国に適応するように。

 不意にマハネの耳によみがえる。母が細い声で時々くちずさんでいた古い歌。子守歌。この子のことを見守らなくてはならない、と、母は歌う。いまにも壊れてしまいそうな子だから。風が悪さ、せぬように。悪魔がさらっていかぬように。

 怖いものが追いついて来ることを、母は――レイラは――どんなに、どんなに、恐れていたか。

 どれほど用心してもしたりなかっただろう。

(私が今日、とうとうなにかにさらわれてしまったと聞いた時、父は、母は、どんなにショックだったのだろう!)

 なのに。わたしは、自分は、こどもで、平気で、てんしんらんまんで、怖いもの知らずだ。大事に大事に守られ、かばわれているのに、そのことに気づいていなかった。

 ずっとずっと、そうだった。ものごころついたらもうここにいて、こうしていて、楽しくて、嬉しくて、ご機嫌で。そういうふうに暮らしていけることを、なにも特別だと思っていなかった。

 アルバムにみる幼い日々。父がいて、母がいて、家があって、美味しいごはんがあって、ぐーぐー何も怖がらずに眠れて、当然明日もまた、みんな同じようにあり、来年も来て、再来年も来て、とうぜん一生このまんまなんだ。そう思っていた。

 しゃぼん玉をふいて笑う自分の写真。花びらをまきちらす自分の写真。神妙な顔つきでなにかつくっている自分の写真。どうしてそんなものを大事そうにかざるのだろう? 母も父も親バカ過ぎ、おセンチすぎだと思っていた。むじゃき。安心。安全。健康。笑顔。それが、どんなにかけがえがないかなんて、思いもしなかったから。

 でも。

 ひどいめにあったことがあるから。

 とんでもないめにあったことがあるから。

 知っている。

 母も父も。

 あたりまえなんかじゃない。

 あたりまえのことなんて、ひとつもない。

 人生は、一瞬一瞬が、戦い。

 奇跡の連鎖。

 果樹園――オーベルジュ・ル・ヴェルジェ――のゲートは、大きく大きく、開け放たれている。

いつだってそうであるとおりに。

遠いそのサヨラの箱の日、見つけた鍵束のうちのひとつは、錆び付いていたゲートの錠をあける鍵だった。かちゃん。鍵をはずして。全員、手を真っ赤にして、重たい鋳鉄の扉をあけた。よいしょよいしょ。全力で。みんなで。大きく開け放って、あけきった。その日からこっち、たぶん、一度も、しめたことなんかない。だってそれは重いし固いし錆びてるししめるなんてめんどくさい。そして、あの尋常じゃなく走りにくい道を黙々と延々と越えてここに至るのはこんな場所まで来ることができるのは、来るべきひとだけだから。家族と、友人、たいせつなお客様だけ。

両手をひろげて歓迎するべきひとたち。

けれど、いま、そこには、――うすうす案じていたとおり――招かれざるものが到達している。

オープンカーの姿をしている。

幌はたたんである。

見たことのない黒いポルシェ。

運転席側のドアの外に男がひとり立って、ゆったりと寄り掛かっている。腕組みをして。長い髪をほどいて、風になびかせている。半分事故で損なわれ、半分は恵まれてきれいな顔が、見えかくれしている。

なんであんなとこに停車なんかしてンだろう? これみよがしに? だって、開いてるんだから、中に、敷地に、はいろうと思えばはいれるのに?

鼻に皺が寄ってしまうほど疑問だと思ったのは一瞬で、

気付いた。

――悪魔は、

招かれないところには入ることができない。たしか、吸血鬼もそうだ。招待されていない舞踏会や晩餐会には出席できないのだ。だから、彼らは、誰か親切でだまされやすい若者とかをたぶらかす。そして、まんまと招待される。

よこしまなやつらにも設定がある。ゲームにはルールがある。ダークサイドのキャラだろうと、規定を逸脱したらそれは即刻負けなわけだから。

 おかげで、本来なら関係ない誰かが――無辜の善人が――巻き込まれることになるのだが。

「黄菜!」

 マハネはドアを蹴りあけ、飛びだした。

「ちょっと、あたしの友だちになにしたのよ! その子は関係ないでしょ。放しなさいよ!」

「おっとっと」

 ポニーテールの男はおおげさにずっこけてみせた。

「ずいぶんいきなりだな。レディはまず、ごきげんよう、はじめましてと挨拶をするもんじゃないのか?」

 幌のおりた助手席に真崎黄菜が見えていた。不機嫌そうな顔つきで座っている。長すぎるぐらい長いまつげが頬に鳥のつばさのような影をつくっている。

「誤解だ。ぼくは礼儀に反するようなことはなにもしていない。彼女にも訊ねてもらいたい」

「そのとおりよ」

 真崎黄菜は棒つきキャンディーをなめている。

「別に、なにもなくてよ。ちょっと乗せてもらって、ドライブしてきただけ」

 ちゅぽっ。ちゅぽっ。

「星野さんたら、どうしたの。なんでそんなに興奮しちゃってるわけ? あたしがあんたより先に、このカッコいい車に乗せてもらったのが、悔しかったりするわけ? それとも、あたしみたいなもんは、あなたのおうちに来ちゃだめだったのかしら?」

 トゲトゲしいな〜? マハネは首をひねる。おまけに、ことさら下品で失礼だし。黄菜、なに怒ってんだ? なにがそんなに気に入らない。いつもよりさらに喧嘩腰だ。

「とにかく、ちょっと、まず降りてちょうだい。頼むから」マハネは言った。「あのね、ほんとあなたのためを思っていうんだけど、そのひとには関わらないほうがいいよ。ぜったいひどい目にあうから。そういう設定だから。とくに女子」

「おいッ!」

 言われた当人が、苦笑した。

「聞き捨てならんな! 誰がそんなことを」

……『顔に火傷の痕がある男』……

 黄菜は棒つきキャンディーをねぶってみせる。

「有名人だよね〜? なにかと噂だよね〜? そっかー、このひとも、星野摩翼ちゃんを、たずねて来てたんだ〜」

 黄菜の目がブラックホールみたいにすぼまる。

「不思議だね。どうして、そうみんな、誰も彼も、星野さんに吸い寄せられるんだろう? なんか強力な磁石みたい? へんなカルマでもあんじゃないの。近づく人間、軒並み調子狂う、運勢狂うみたいな」

「かもね。それ、もしかすると父親ゆずりのDNAだったりして」

 ラリーのボールを打ち返すように摩翼は言う。

「ちなみに、それ、そこのそいつだから。あたしの。父親。生物学上の」

「は?」

 驚いた黄菜の口でキャンディーが滑り、あわてて戻そうとしたら棒が鼻に刺さった。やだ、いたーい! うそー! 

 生物学上ではないほうの父と母が車をおりて、マハネに並んだ。左右からはさんで、背中にふれた。

 守るように。かばうように。

 ずっとこれまでそうしてきた通りに。

「宝生さん」

 父が言う。育ての父のほうだ。だがマハネにとっては、真実の、唯一の、こちらこそが、魂の唯一の父だ。

「宝生真名瀬さんですね?」

「いかにも」

 ポルシェの男は道化師のおじぎのようなしぐさをした。

「星野ポチくんか? 光栄だな。こんな顔でも見分けてくれて」

「何度か居合わせたことがありますよね」

 失礼な(あるいはわざとらしい)間違いを訂正もせず、父は穏やかな調子をくずさない。

「菩提樹で。見たことがあります。あなたはいつも悪ふざけをしていた。したく中のお皿からつまみ食いして怒られたり。手相を見てあげるって女の人の手を握って、ひっぱたかれたり。ええ、たしかに。何度も、お見かけしました」

「生まれついてのピーターパンでね」と長く伸ばした爪で耳をほじる真名瀬。「自分で言うのもなんだけど、チャンスがあるとおチャラけずにいられない。……これでも大人しくなったほうだ。さすがのぼくも年をとったから」

「ヒロさんは」レイラがくぐもった声で言った。「ヒロさんはどこ。ヒロさんを、どうしたの?」

「ヒロ姉?」

 真名瀬はきょとんとする。

「なんのことだ? なぜここでヒロ姉の名が出る? 一別以来、ずっと会っていないぞ。メールも電話も、なにもない。まるっきり知らない」

「ごまかされないわよ」レイラは顔をしかめた。「あんたが黒幕だったんでしょう。自分のものにならないぐらいなら、殺してやるって。なによ。好きな子いじめる小学生男子? サヨラと菩提樹を逆恨みするあまり、海の家にまで、ロレックスたちを差し向けて来たくせに」

「え? なんで……あ。そうか! あんたら、そう思ってたのか!」

 真名瀬はぴしゃりと自分の額を叩いた。

「うわー,マジか。そうか。それでわかった。どうりで長年、避けられてたわけだ! 信用なかったろう。ぼくは悪名高かったからね。極悪非道の無責任男で有名だったから。けど、わかってくれ。菩提樹ぶっこわそうとしたのは、ぼくじゃない。ぼくはあそこが大好きだったし、あのひとたちが好きだった。ぼくも巻きこまれたんだ。見ろ。この顔。これは、あの日、あの館で、生きながら焼かれたせいなんだ!」

 

 

「あの日、ぼくは菩提樹を訊ねたんだよ」

 と彼はかたった。

「サヨラに会おうとした。相談しなきゃならないことがあった。告白っていうか。心配なことがあって。誰もいないところで話したいって頼んで、温室で会う約束をした。けど……だけど……

 

 

優雅なガラスの温室に、サヨラはゆったりと腰を下ろしている。

椅子は庭でつかう籐の軽いものだが、編みこみの地模様が手がこんでいて美しい。背もたれ部分はたっぷりと大きく、緩やかにまろみを帯びている。おんなのからだを優しくつつみこむようで、おそらく座り心地もよいのだろう。

彼女が居る。じっと座っている、それだけで、そこは天下の大国の玉座のように見える。誇り高きもののある場所に見える。

財宝も、華美な装飾も、なにもないのに。

あたりにはただいちめん、さんさんと陽光が降り注いでいる。あざやかな色の花々、つやつやした葉を持った植物たち。何種類も何十種類も層をなして繁り、彼女を取り巻き、取り囲んでいる。その静かさ。その清らかさ。ひっそりと、落ち着いて。しかし、何億年とぎれることなく繋げてきたなにか§三文字傍点§を漂わせる場所。

太古の昔から連なる途切れない流れ。

変化、継続。調和。

いのち。

 分厚くつらなる緑のどこかで、鳥だろうか、なにか他の小さな生き物だろうか。ひそやかな声が、くるるるる、と吐息のような警告音を洩らした。

風が通り、霧が流れた。サヨラの長い髪がふわりと広がり、ゆっくりと戻った。

不穏な気配が空気をチリチリと帯電させる。

どこか遠くで物が壊れる音がした。誰か倒れたようだ。

 サヨラのまなざしがわずかに揺れる。

 大きな一群れの葉がざわざわと擦れた。南国の草の頑丈な太い茎が、投石機のように大きくしなる。その戻ろうとするのを、ぐいと抑えた手。手に続いて、からだが現れる。堂々とした体躯の男だ。仕立ての良いシャツの肩のあたりが筋肉に張りついて透けている。ぐっしょり濡れているらしい。

 女はかすかに目をすがめ、口の端をキュッとひきしめた。

 約束した相手ではなかった。

 予期した相手ではあった。

 なるほど。あのか弱い優しい小さなものは、なんとかこやつを止めようとしたのだ。せいいっぱい邪魔をし、意地悪をしたのだろう。ささやかな抵抗の結果、そのものが、どうなったか。

「きたか」

 サヨラは潤んだ目を伏せた。

「きてはならぬといいおいたはずだ」

「言えば大人しく従うとでも?」

 招かれざる者は不機嫌そうに言いながら、襟をくつろげた。

「ひどい女だ。なんでもきまえよくくれるがあとでとりあげる。ふん。もう気づいてるだろう。俺を拒絶なんて、しちゃいけなかったんだ。おかげでおまえらはおしまいだ。もう終わった。試しにちょっと命乞いでもしてみろ。這いつくばって、せいぜい謝って、媚びてみたらどうだ」

「そなたは夢をみた。佳い夢であったはずだ。おうちへおかえり」

「まだ強がるのか? バカな女だ」

 いつの間にか拳銃を握って突きつけている。かと思うとまた消す。また見せる。それは、いかにも手慣れたしぐさ。武器がフェルトペンぐらいの存在感でしかない。

「あんた、勘違いしてるんじゃないか? 手加減してもらえるはず、まさかそんなひどいことはされないはずって? どっこい。やると決めたらとことんだ。我々が襲撃したのはここだけじゃない。うんと遠くへ隠したつもりのあの子どもらも皆殺しだ。驚いたか。これが我々の流儀だ。退治すると決めたら、害虫は完璧に駆除する。すべての巣を根こそぎだ。破壊し、浄化し、根絶だ」

 ペンのような銃をかざした手首には、金むくの大降りの時計と大粒の貴石を繋げた腕輪がある。黒瑪瑙§オニキス§、猫目石§キャッツアイ§、金針水晶§ルチルクォーツ§。金運、財運、覇運を望んだ選択だ。漆黒と茶縞。黄金色のひときわ大きな珠に模様がある。異国の文字のような象形が刻まれている。二重に重なった卍のかたちだ。八つ岐の卍の先端がそれぞれ異なった幻獣の頭部をなしている。幻獣たちが互いに争い、挑みかかり、噛みつきあうことをやめようともしないのをサヨラは見た。蛇が虎を呑み、鬼牛が角馬を喰い、怪鳥の嘴が蟷螂の斧を迎え撃つ。魔猫が眠そうな目を細めてあくびをする。

 挑むもの。

 チャレンジャー。

「ふ。はははは! どうした、何か言ったらどうだ? ショックのあまり、ことばもないか? まさかこんなにいきなり全力で潰しに来ると思ってなかったんだろう。我等を舐めたのが大間違いだったな!」

 あらぶるもの。

 たかぶるもの。

 おびやかすもの。

 剛胆で勇猛であろうとするあまり踏み外して修羅になり外道になる。恐れを知らぬものになろうとして、情けを知らぬものに堕してしまう。幼稚な残虐さに酔い痴れれば、もはや道理はない。目的も勝利もない。ただ潰えるまで暴走するのみ。

 挑戦者は満たされない。退屈や怒りをくすぶらせ、呪詛と怨嗟を漏らしつづける。屈辱や憎悪を矯めて溜めて昂ぶらせる。きつく撓めて引き留めて、こらえればこらえるほど解き放つ瞬間の快が膨らむ。暴力に憑かれたものたちは嗜虐的§サディスティック§であると同時に甚だしく被虐的§マゾヒスティック§だ。

 形あるものは崩れ、蕩尽は陶酔に通ず。破壊は成長につながることもあるし、失敗という重要な経験になることもある。ぜんたいのために、むろんなる。なぜなら代謝が必要だから。プログラム細胞死が、アポトーシスもネクローシスもオートファジーも必要だから。

 だから、

 チャレンジャーは来る。

 いつも必ず現れる。

 閉じた瞼に刺青してある魔法印。

 待ち受け迎え撃つ準備はいつだって出来ている。

「気の毒に思う」サヨラは言った。「そなたは勝てぬ。なにをしても、わたしは消えぬ」

 

 

 やばい。やばい。やばいやばい。真名瀬は思った。なんで今日。なんでよりよって。

 こんなにいきなりおっぱじめやがったんだ? 

 まずいかもしれないって、きょう、言おうとしたのに。なにか仕掛けてくるかもしれない。たくらんでるみたいだって、注意しにに来たところだったのに!

 まさか。

 ぼくか。ぼくのせいか! 

 ぼくが尾けられたのか。ぼくが道をあけた? 隠された扉を、封印されていた門戸を、開けて通って、敵を呼び込んでしまったとういうのか? 

 くそっ。

 襲来は突然で一気呵成だった。武装した男たちは玄関だけではなく、裏手、二階、搬入路など、あちこちから一斉に侵入し銃弾と恐怖をふりまいた。叫び、足音、ものが割れる音。館じゅうがたちまち騒然となり埃まみれになった。まったく戦場のようだ。

 温室にはたどりつけなかった。近づくこともできなかった。剣呑な物音を避けて脇へ脇へ逃げるうちに、建物の最深部にもぐってしまった。彼は煙草室に出た。窓の少ない奥まった部屋で、誰もいない。屋敷じゅうの喧騒から、無関係でいられそうな、うまくするとこのまま見逃してもらえそうな、そんな楽観に一瞬とらわれた。だが、マントルピースの開口部から、不穏な騒ぎがやはり聞こえてくる。うかうかしてはいられない。

 物入れ兼用のらせん階段の脇に時計があった。古色蒼然とした木製の家具風時計。お爺さんの時計とか、棺桶時計と呼ばれるあれだ。とっさに飛び込んだのは、むろん『七匹の仔ヤギ』を思い出したからだ。狼が襲ってきた時、兄弟が次々に食べられても賢い末っ子は無事だった。時計にひそんで難を逃れた。おかあさんが帰ってくるまでじっとしていた。

 以前、この時計をあけてみたことがあった。退屈をもてあまして、あれこれ引っ張り出したりいじってみたりしているうちに、発見したのである。胴体部分が小さすぎ短すぎて、仔ヤギならまだしも人間の大のおとなが隠れられるようには見えない。しかし実は、機構の配置に工夫があった。巧みにあんばいして、くりぬいて、謎の空間があけてある。その気になれば、ひそかに隠れて、文字盤の裏側から部屋の中でおきることを観察することができるようになっている。

 誰が仕掛けをほどこしたのか。なにか暴きたい秘密があったのか、他人の秘事を覗き見する趣味の持ち主だったのか。隠れんぼうにぴったりの装置だ。真名瀬はこの如何わしいしかけを発見したことを、誰にも言わなかった。内緒にしていた。もう子どもとは言えない年頃で、誰かと隠れんぼうなんかするチャンスはたぶんないだろうと思いながら、万が一の用心にそなえたのだ。そう真名瀬はすべてにおいて運の強い男であった。いつか、これを使うことができる時がくるのではないかとあるいはその無意識が、警告していたのかもしれない。

 大時計に身をしずめ、蓋をひっぱって閉じた。わずかにみじろぎしたところで、なにかがひっかかり、それ以上、うんともすんとも、まったくどうにもならなくなった。そこは見かけよりずいぶん窮屈だった。秘密の収集者は小柄で痩せっぽちだったのだろう。女性だったのかもしれない。

 埋葬を待つひとのような姿勢で佇立して、彼は溜め息をついた。無理だ。たまらん。苦しい。そう長いことは我慢していられないぞ。さっさと出てどこかよそに逃げ場をさがさなくちゃ、どこがいいだろう、思ったとたん、敵の兵隊の一群が雪崩れこんできた。獲物をかつぎあげていた。もがいて暴れ悲鳴をあげて抵抗する姫をふたり戦利品のように運んできて、狂ったように笑い猛々しく雄叫びをあげ、激しく興奮しているのだった。彼は心底うんざりしたが案の定。その狭苦しいところにおしこめられたまま他人の残虐な蛮行をさんざん目撃させられることとなった。ひどい音や声をさんざん聞かされ、匂いも嗅がされた。敵はまことに忌むべき最低のやつらで、なんの抵抗もできないする気もない姫たちをとことんなぶった。いかなる憎悪か軽蔑か、刃物も銃もつかわずにだ。情けのひとかけらもありはしない。ちからづくで折ったりえぐったり引き抜いたりして、絶叫と哀願を愉しみ、競ったのである。おのれらの狂乱凶行に真っ赤に酔った男たちは、ほどなく亡骸となった姫たちに屈辱的な姿勢をとらせて埒をあけピースを出して記念写真を撮り、仕上げに火を放って立ち去った。

 やれやれ。なんてこった。よし出よう、一刻もはやく出なくては。そう思うが、真名瀬は動けなかった。緊張と恐怖でぎちぎちにこわばって、手も足も感覚がない。からだじゅうが痺れていうことをきかない。汗ばかりがつつつと流れた。すぐそこで、愛くるしかった姫がぽっかりとうつろにあけっぱなしの瞳をこちらにむけている。すまん、ごめん、悪かった。だが、許せ。そんな目でみるなよ。彼は小声でつぶやいた。助けられるものならそうした。もちろんだ。けど、無理だった。多勢に無勢だし、どうしようもなかった。それはわかるだろう? 頼むから、恨まないでくれ。いつのまにか炎がやってきて、姫の衣装に燃えうつった。美しい髪が炎に包まれ、ごうっと吹きあがった。その温度を熱を感じた。近かった。これはまずい。ほんとうにまずい。遠からず、ここに燃え移る。真名瀬は必死にもがいた。すると、いきなり投げ出された。まるで重力の方向が突然変化でもしたか巨人に振り回されでもしたかのようだったが、実際には、屋敷が崩れ落ちたせいだった。壁や二階に押しつぶされて、時計が倒れたのだった。とほうもない重みがのしかかって来た。。秘密の観察者の出入り口であった時計の蓋はいまはうつぶせのからだの下となり、どう考えても、あけられそうにない。

 裂けた時計の箱の隙間から、真っ赤になって燃えている室内が見えた。姫の白い腕がひとつすっと宙に伸びている。まるでなにかをつかもうとするかのように。見えない小鳥か。希望かなにかを。

 ズボンがはりつく。いよいよ熱くなってきた。燃えはじめたようだ。賭けだなぁ、彼は思った。この狭苦しい中にはさみこまれて身動きできないまま炙り焼きか。どこか燃え落ちてうまく壊れて、ぎりぎり脱出できるようになるか。

 確かにいろいろと後ろ暗いことをしてこなかったわけでもない。罰があたったというひともあろう。それにしても火刑はひどすぎる。残酷な刑罰は人権に配慮して禁止されたんじゃなかったか。

 もしもう一回、やりなおすチャンスがあったら、こんどは逃げない。さっさと撃たれて死のう。そのほうが楽だ。マシだ。

 ああ、俺に、ホンモノの運があるのかどうか、この時を生き延びて、まだ何か成すべきさだめのひとつふたつがあるのか。やれやれ、遠からず判明するだろう。おお。熱い。ちくしょう、痛えぞ。やばい。やばい。咳きこみそうだ。本格的に熱くなってきた。

 

 

「まったくさあ」と真名瀬は言った。たらたらと、あぶらあせをながしながら。思い出すだけで、からだじゅうふるわせながら。「地獄だった。あんな恐ろしい目にはあったことがない。さすがのぼくもまいった。心をいれかえた。心機一転生まれかわって、人生、やりなおすことにした。したんだ!」

「待って」母が――レイラが――冷静に言った。「あなたの言い分はわかった。でも、聞かせてもらいたい。その日、サヨラに、何を知らせようとしたというの? なにか、危険を予感したようなことを言っていた。そのことを説明して」

「そうか」ポチのマコトはくちびるを噛む。「もし、このひとが言うことがうそでないとしたら」

「それ、襲撃の真犯人だね」マハネがうなずく。

 三人は真名瀬を見た。

 

 

 いおうとして、くちびるがふるえる。

 なんども、なんども、やりなおして。

 やっとちいさなこえでいう。

「マホツカ」

 

 

「なに?」マハネは聞き返した。「なに塚って?」

 

 

「マホツカ」あきらめたようにかくごをきめたように彼はくりかえした。「魔法使いの略じゃないのかな。だって、みんな、そう呼んでた。マホツカ不死夫とかって、ときどき、ふざけて。たぶんあだなだろう。え、本名って? 知らないよ」

 知らないんですか? あきれ顔をむけられて。

「だって」真名瀬は少年のように顔をゆがめた。「そんなもんだよ。浅い付き合いで。ともだちのともだちとか知り合いの知り合いとか、たまたま一緒ンなって、ノリがあえば、結束してワーッと動く。いちいち自己紹介とかしない。やばいことする時なんか、特に」

「やばいこと?」

「だから、たとえば海岸とかスポーツカーぶっとばして、女の子ひっかけ」

 もとから大きな眼をさらに大きく見ひらいて、猫のような顔になっているマハネ。その視線に気づいた真名瀬はあわてて途中でしゃべりやめ、ゴホゴホ咳こんでごまかした。

あのね。おとうさん若い頃は不良だったのね。いまは違うよ。違うけど、昔は、めちゃくちゃだった。いろいろやった。遊んだ」

「知ってる」摩翼は不機嫌そうに口をとがらせた。「お金持ちのぼんぼんで、ワガママ放題して、大勢のひとを不幸にしたんだ」

 摩翼猫は目を細くしてはなしわをみせた。 にゃあおん、と言わんばかりだ。

「あんた、ざいごう、ふかそう」

「ううんんんまぁそうザックリきられて括られちゃってもしょうがなかった人生前半だった。確かに。けど、とにかく! いまはマホツカだろ。そっち、知りたいんじゃないの?」

 猫になったままのマハネは、ちょいとからだをすくめ、しらんかでまえあしをなめだした。

「仲間には、いろいろいてさ。女にモテるやつとか、喧嘩強いとか、メカ得意とか。だってほら、なんかないと、つるんでてもしょうがないじゃん? マホツカの場合、それ、権威っていうか。ちょっと超能力っぽいものだった。そういう家系だったんだ」

「は?」

 とつぜんの展開のひやくにみな黙りこんだ。真名瀬は、たんたんとはなしつづけた。

「仏教か神道か、陰陽師とかなのかわかんないけど。なんかすごい古い由緒正しい家柄のやつみたいでさ」

 閣僚とかのえらいひとって、すごく験をかつぐから、と彼は続けた。たよりされてる、かげの大もの。選挙とか国会答弁とか、こどもの結婚とか、大切なときになると相談に来るひともいっぱいいたんだって。なんか奉納して、御祓いとか占いとかしてもらって、そうじゃないと、きめられない勝負に出られない、みたいな。

「俺らとつるんでたそのマホツカってやつには、そんなおそろしいような雰囲気なんかみじんもなくて、ただのひょろひょろ。おとなしくて、かげうすくて。みんなのあとくっついてくるだけ、しりうまのってるだけ、みたいな。でも、考えてみると、もしかすると、おれにはみせてなかっただけかも。本性かくしてたのかも。

 おれは、ほら、いろいろつながってたし、さいしゅうてきは、菩提樹につながってたから。

 おれのしらないところでは、あいつ、けっこういろんなこと、してたのかもしれない。別のかおをみせていたのかもしれない。

 あー、で、まぁ、おとなしかったのがうそで、けっこうわるいやつだったとする。そうなんだって。そういうものなんだって。若いうちは、なんでもやってみて、好きなだけはめをはずすほうがいい、みたいな? うちもちょっと近い、そういう家。若いうちは、好きなだけむちゃをやって、悪の味もしって、怖いものを知って、業ってやつものぞいて、そこまでいってみて、おぼれそうなって、はじめて真の意味で、「よいもの」それがわかるんだから、って。

 そいつんちのお爺さんもお父さんも、おじさんたちも、そういうのさんざんくぐって、おとななったわけだから。

 卒業して、まじめるなると、ひょうへんするわけ。ずいぶんと偉かったっつーか、ごりっぱちなっちゃったりするみたいだぜ。飢えや貧困に苦しむひとを助けたりとか、無益な戦争をやめさせてとか、災害現場に駆けつけたとか国連とかそういうとこから感謝状もらう的な」

 

 

 ……

 真名瀬のことばをききながら、マハネはなぜか、ある人物の顔をおもいうかべていた。

 やさしくて、おだやかで、いつもしんせつ。

 みんなにたよりにされている。

 だれからも信頼されている。

 先生がたもふくめて、彼をきらうひとなんかみたことない。

 なぜ。

 どうして。

 どうしていま、那智くんの顔がうかんでしまうの……

那智くんちってすごいらしいよって噂は前々から聞いてた。お爺さんがとくにすごいんだって。なんか超有名人。名前をきけば、誰でも「ああ、あのひとか」って思うような誰かさん。よく知らないいけど、大人はみんな「ああ」っていう。とかく、すごいりっぱなひとらしい。

 いつかどっかで、雑誌かなんかだっただろうか、そのひとの写真をみたことがある。これだよ、これ那智くんのお爺さんだよって。だれかがもってきてみせてくれた。

 すごいおやしきの門みたいなところで笑っていた。きものきて、はかまはいたふくぶくしいお爺さん。白いつやつやの分厚いのれんみたいなのが門の中さがっていて、模様があった。龍のえがらのもんしょうみたいなの。

 龍っていっても西洋ドラゴンじゃなく、和風。あ。もしかすると、八岐大蛇かもしれない。金色の柱とか欄干とかに、とぐろまいて、まきついて、鎌首擡げてた。その頭が一個だけじゃなくて、いくつかあって、ぜんぶべつべつの獣のかおをしているみたいだった。そういえば、そうだ、なんか、しめなわとか、御幣束とか、サカキの葉っぱとか、そういうもんも出てた。

 

 

「そのマホツカを」

 真名瀬ははなしつづけている。

「まんまとつれてっちまったのはおれだ。一回だけ。菩提樹に。あんないした」

 夏のガーデンパーティー。わりときがるでオープンなとき。ほかの若者たちと一緒に、ごちそう食べいこうぜって、さそって。

 あいつがサヨラと話してるとこをみた。

 サヨラと、森にはいっていくのをみた。

 だれもいないところへ。ふたりだけのところへ。

 びっくりした。うらやましくて、くやしかった。嫉妬した。なんでよりよってあんなぱっとしないやつをえらぶ? サヨラも趣味がわるいぜ。あんな、マホツカを。きじゅつしを。

 

 

「え、……ちょっ……ちょっと待って!」

 マハネは、うかんできえない好きな笑顔の幻を両手でごまかして、きこえた言葉に反応した。

「いまなんて? 奇術師?」

「あー、そうそう。そうだった。マホツカって、マジシャンでもあったんだ。手じなが得意でさ」

 

 那智くん。

 優しくてかっこいいマジシャンのおにいちゃんは、幼稚園とか小学校とかで子どもたちに大人気。

 ミッキーみたいな白い手袋。ステッキ。シルクハット。ちょっとポーズをきめて、みんなのちゅうもくをあつめたら、つぎからつぎへ。ゆめのような、魔法みたいなことしてみせる。

 スタッフやるよ、手伝うよって、みうちぶりっこしてついていけば、背中からながめられた。でも、たねなんて、いっこもわかったことがない。最高の奇術師。あこがれのスーパースター。

 

「それと、あと、やつは、へんな小説みたいなのをずっと書いてたんだよね。ノートなんさつぶんも。あまりひとにみせたがらなかったけど、おきわすれたとき、ちらっとながめた。もー、ぎょうてん。こまかいのが、びっしり。当時のことだからさ、手がきなわけ。すっごいととのってるんだけれど、くせのあるじが、むしのひょうほん箱みたいさ。読んでみると、なんかわけわかんないんだけど、魂がすいこまれそうなるの。背すじがぞくぞくしてくんの。なんだあれってきいたら、わらってさ。創作じゃないんだっていってた。みんな、ほんとうのことだって。ぼくは奇術師であるだけじゃなく記術師なのさ、って」

 

 

 みんな知らないんだ。

 ほんとうのことを。

 きょうかしょとか、新聞には、知られてもかまわないことしか出てこない。

 ぼくたちは、ほんとうのほんとうを、真実を、知っている。

 あとのよにくる子どもたちに、あやまたず、つたわるよう、こうして、こまかく、かきとめている。

 

 

 きじゅつし?

 

 

 と。たちつくすマハネはころびそうなった。いきなり、真名瀬が手をひっぱったからだ。ほほをかすめて、髪をふわりとまいあげて、なにかが、とんだ。

 ぶうん。

 それは耳のそこにいつまでもよいんする音をたてて。

 すとっ。

 吸い込まれた。

 

 

「『おお。そうかこれが』」

 真名瀬はいった。

「『これが』……『いたみか』」

 マナセはマハネに近づくと、顎を片手で軽くすくいあげて顔を寄せた。美しいほうの顔を向け、マハネの視界をそれでいっぱいにした。まるで、最愛の好敵手に、いまにもくちづけをしようとしているかのように。

「『知らなかった。そなたの瞳は、出会ったその日には、もう、わが心臓を貫いていたのだが』」

……う、うそ」

 マハネはあえいだ。

「なんで? なんで知ってるんですか? そのセリフ!」

 それは聞けなかったセリフ。その声は、あの無残中断してしまったゲームの、格別お気にいりだった吸血鬼王をおもわせた。

 YouTubeで悔しい気持ちをおしころし、他人のプレイ動画を再生したから知っている。実にいいシーンだった。何度も何度も見た。聞いた。脳ない再生も。できるなら自分でその場面に達したかった。自分の手元で、自分の画面で、自分の育てたキャラにむけて、いちでいいから言って欲しかった。けれど、何度トライしても、戦っても戦っても、攻略方法を参照して研究して補強してがんばってもがんばっても、どうしても、たどりつけなかった。そいつに勝つことができなかった。

そして、ゲームはおわった。唐突に、サービスが終了してしまったのだ。世界が消滅してしまったのだ。

 

「なんでって。だって、しごとだもん」

 真名瀬は笑う。

「言わなかったっけ? ぼくはいま俳優をやってるんだ。ただ顔がこうだから、もっぱら声のしごとをしている」

 じゃあ、 

 あたしが好きだったのは。

 あんなにあんなに好きだった吸血鬼は。

 マハネがめいっぱいに見開いた目で見つめていると、真名瀬はうっとりしたようにまぶたをとじ、おおいかぶさってきた。

 あっ、こら、なにふざけてんだ、ひとがちょっと優しくしたからって、つけあがりすぎ、甘えすぎだぞ、ジジイ! 

 避けるか支えるか一瞬迷った。けれど、唐突すぎて逃げそびれたし、そうまで無力によりかかられれば、耐えるしかない。

「ちょっ……やめ。おも……まじ重いですったら!……え?」

 なんだこのねばつくものは。

 なんだこの棒は。

なにか刺さっている。きゅうにぐったりしたジジイの脇腹から棒みたいなものが出てる。

羽根がついてる。

矢だ。

 射られたのだ。

 

 

「星野さん」

燐とした声にふりあおぐと、那智がいる。斜面の林の中。稽古着姿で、おおきなおおきな弓をもっている。もう次の矢を油断なくつがえて、引き絞っている。

「や……やめて! だめ。そうじゃない、ちがうー!」

 マハネは必死に両手をふりまわした。からだをまわして、矢のコースにはいろうとした。必死に抱き支えているが、マナセは重い。重くてずるずる滑り落ちてしまう。父が駆けつけてきて半分助けてくれた。母は携帯をとりだして、なにかしている。たぶん救急車を呼ぼうとしている。

「ちがうの! ごかいなの。まちがいだった! このひとじゃない。このひと悪くなかった」

 マハネは両手をひろげて立った。

「このひとラスボスじゃなかったのー!」

「うん」

 那智はわらう。少しだけわらう。

「知ってる」

 そして、つぎの矢をはなった。

 

 

 

 

 

 

 

                                        NACHI

 

 

善いものになろうとした。

ひととして、より善いもの。

恵まれた環境と生まれもってこのかた磨き上げてきた能力のすべてをかけて、さらに、善いもの。

だが、勤めても、励んでも、頑張っても、耐え忍んでも、努力しても頑張ってもなにをしてもなにをしても……ほんとうのところ、すればするほど……まったく心がやすまらなかった。どこまでいってもゴールはなかった。

――悪は、滅びそうにない。

 

 

たとえば支援物資や寄附を届けると、目の前で奪い合いになった。列を作って順番を待ってくれと頼んでも、必ずわりこむものがある。並ばずに、受け取ったひとから分捕るやつがある。弱いものや困窮しているものだけを助けることにすると、自分は病気だと嘘をつく。わざと毒を飲ませ、年寄りや子どもを病気にして、だから助けてくれと言ったりするものまであった。

どうして、ひとは、そんなに悪賢くなるのだろう?

そう、「悪」は「賢」い。「善玉」はむしろ間抜けで、よくだまされる。ひとを信じて、裏ぎられる。それでも諦めない。愚直に。鈍感に。バカがつくほど「おひとよし」ということばもある。

なぜ?

なぜ、悪は賢い? いや、むしろ、こう問うべきなのかもしれない。なぜ賢くなると悪くなるのだ?

たぶん――悪いほうが得だからだ。

 

 

ネズミの集団での実験をみた。

いちばん悪いやつをとりのぞく。

すると、残った集団のなかに、また、悪いことをするやつがあらわれる。とりのぞく。すると、また。

かならず何%か、悪いやつがでてくる。ほかのその他おおぜいののんきなネズミより「聡く」ふるまって、得をする。

自分よりも腕っぷしや知能がより強い、つまり、より悪いやつがいるときは悪くならず、おとなしくしている。のに、悪くなっても大丈夫になると――まわりが自分よりもはしっこくない、なめていいものだとわかると――すぐさま悪くなる。

「悪」は適応的なんです、と、生物学者は説明した。

ちょっと悪いやつのほうが、異性にモテます。子孫をつくりやすい。「悪」い遺伝子をひいた子どもも同様にモテますから、その血統は滅びにくい。

もし集団が全員同質だとしたら、病気や環境の変化でいっきに全滅してしまうかもしれない。だから「みんなちょっとずつ違う」ほうがいい。多様性です。

悪は、多様性の中に、どうしても現れるものなんです。

 

そんなあるとき、彼は、菩提樹に出会った。夢をみせてもらった。感激した。そうか、これだ、これこそが答えだと思った。

彼らの協力があれば、むずかしいことができる。

頼みます。ちからをかしてください。彼は言った。その代のいちばんの長であったひめに誠意をつくして、たのみこんだ。

どうか、いっしょに闘ってください。隠れていないで、世にでましょう。あなたがたの存在を、広く世間にしらせるのです。どんな特別なことができるのか、教えてやろうじゃありませんか。わたしも身命をかけますから、あなたがたも覚悟をきめてほしい。みんなきっとびっくりしますよ。頭のかたい指導者も、ふんぞりかえった暴君も、欲の皮のつっぱらかった特権階級の連中も、あわをくって逃げ出すでしょう。だって、あなたがたには勝てっこない。どんな悪者も夢を見るのだし、夢の中では無防備だから。あなたがたには抵抗できない。

邪悪なこころは治療して、ゆがみをただして、改心させてしまいましょう。ひとに迷惑をかけないように。

世界でも指折りの極悪非道の悪人たちをリストアップしてあります。たとえば、麻薬カルテルのトップだとか、野蛮な軍事支配をつづけている国の悪辣な将軍などなど。こういう連中を、どんどん標的にして、悔い改めさせてしまいましょう!

ひめは、うんとは言わなかった。

そんなことはしたくないし、しません。できません。

なぜ?

むごいことだからです。意味のないことだからです。

あなたは、ご自分の気にいらないものを取り除きたいのです。どんなに良かれと思ってのことであろうとも、それもまた独裁です。

そんなことはありません。彼は言った。わたしは自分のことなんかどうでもいい。ほんとうです。ただ、世の中があんまりひどいから。あまり気の毒なひとがいるから。正直ものが報われないから、ずるくて不正直で嘘つきなやつらばかりがのさばっているから。

そんな世界は、まちがっている、変えるべきだといっているんだ! 悪いやつらをほっとくのか? さんざん罪をおかした人間も? 悪魔のような狡猾なやつでも? ほっとけば、また悪いことをするかもしれない。もっとひどいことをするかもしれないんですよ。

なぜだ。

なぜ、動かない。

きみたちになら、戦争が、対立が、虐殺がとめられるかもしれないじゃないか。差別が、蹂躙が、見殺しが防げるかもしれないじゃないか。なのにどうして、なんにもしないで手をこまねいて。それは、それこそ、卑怯だし欺瞞じゃないか。怠慢の罪じゃないか!

ひめは悲しげな顔をした。

わたしはここにいます。

と、彼女はいった。

わたしたちはいつもここにいました。

菩提樹は、はるかむかしからあるのです。

ひとは夢みることができる。

夢に水をそそぐことができる。

けれど。

目覚めたとき、現実の世界で歩きだすことができるのは、それぞれ自分の足で、なんです。

なにをいまさら。そんなあたりまえのこと。そんなことわかっている。そんなことで本意するぐらいなら、こんなことを言い出しせはしない。

彼は心底がっかりした。

菩提樹に、ひめに、失望した。

きっと快諾してもらえると信じていた。喜んで、手をとって、感動してくれると思っていた。なのに当然の提案をまっこう拒絶され、あまつさえ、ばかばかしいものであるかのようにさえ言われたのだ。 

彼は失意に沈んだ。期待していた分だけ、反動の憎しみがこみあげるのを、必死に蓋をしなくてはならなかった。こめかみには青い筋がむくむくとしてきた。

なぜわからないんだ。

なぜわかろうとしないんだ。

なぜこばむ?

俺のどこが間違っている?

すると、ひめが一本の苗をさしだした。

これを。植えてください。あなたの庭に。

やがて、大きくなって、花が咲いて、実がなるでしょう。そうしたら、みんなにわけてあげてください。その種の一粒から、また新しい芽が出てふえるでしょう。いつか、みんなの庭が、この樹でいっぱいになる。

そういうふうにするのがいちばんいい。そういうふうにしかできないのです。大きな船が進路をかえるようなものです。急に転回しようとすると転覆する。失敗する。

でも、少しずつでも、方向をかえようと思えば、変えることはできる。これでもずいぶん変わってきたんですよ。じわじわ少しずつ。学んで、知って、考えて、計画して、支えて、助け合ってきた。そうしていまがある。

ひめのことばは彼の胸には届かなかった。言われるまでもない、手垢のついたことだと思った。

――こんなもの!

彼は、ひめの手をはらいのけた。

苗が落ち、土がこぼれた。

その土と、植物をふみに十手、彼はでていった。

エデンを出ていく、アダムのように。

 

 

 那智は昔から、お爺ちゃんっこだった。

 おかあさんが大学病院の医者で、なにかと忙しくて、小さいころから祖父母の家にあずけられることが多かった。そこには大勢がでいりしていて、あそんでくれたり、ほんをよんでくれたり、勉強をみてくれたりした。けれど、時間があればいつも、祖父じしんが面倒をみてくれた。

 手品を習ったのも、お爺ちゃんからだ。

 菩提樹という場所の話は何度も聞いた。この世のものとは思われないほど美しい女の人たちがいて、素敵な夢をみせてくれるところなのだと。

 いいなあ。ぼくもいってみたい。そういうと、お爺ちゃんは、いやいやすまん、それはむりだ、だめなんだ、と言った。こどもはな。連れていくことができないんだ。大きくなったら、そのうちきっとな。

だが祖父はやがて病気になり、家ではめんどうがみきれなくなった。高級リゾートホテルみたいな病院にくらすようになると、あまりしょっちゅうは遊びにいけなくなった。そこは遠かったし、祖父の体調がおもわしくなかったからだ。手紙をかいても、返事はめったにこなかった。なんだかどんどん他人行儀になった。たまに電話で話すこともできたが、いつも不機嫌そうで、気難しかった。

あんなにかわいがってくれたのに、嫌われてしまったんだろうか。那智は悲しく思った。いまにしておもえば、脳になにか異変ができて、人格にも影響して、少しひとが変わってきていたのかもしれない。祖父は家族やともだちを近づけなくなった。ひとを信用しなくなり、目つきの鋭い男たちを何人も雇って、まわりに配置し、自分を守らせるようになった。あんなにきらっていたはずの?軍人のように。

 那智が小学校にあがるころ、その祖父が亡くなった。病院をぬけだして、どこかで事故にあったらしい。ひどい怪我をしていたが、その事実とか事情とかは、厳重に秘密にされた。盛大な葬儀がおこなわれ、えらそうな立派なひとたちがたくさんきた。おお、きみがあの彼じまんのお孫さんなのか。このたびはまことに残念でした。あのかたには、もっともっと長生きしてほしかったのに。声をかけてくれたなかにはときの総理大臣もいた。

 

 

――ねぇねぇ、おかあさん、菩提樹って知ってる?

 

「送る会」のあった週に訊ねてみると、母は中途半端な顔をした。それは「ほんとうはよーく知っているけれど、知っているとはぜったいに認めたくない顔」だった。「信条として子どもに嘘はつけない。母親として、はたまた、医学者という科学者として、不鮮明な態度をとって、ものごとをあいまいにごまかしたくもない。だから……できれば、追求しないでくれるといい。なんとかこの話題は、早めに打ち切りたい」顔だった。

那智にはそのぐらいのことはもうわかっていた。けれど、それをわかってしまうということをまだこの母に悟られないほうがいいということもまた、既にわかっている年頃だった。だから、無邪気を装って言ったのだ。

すごく素敵なところなんだって。きれいな女のひとたちがいて、天国みたいなんだって。お爺ちゃん、ぼくのこと、いつかきっとつれていってくれるって言ってたんだよ。でも死んでしまった。もう連れてってもらえなくなっちゃった。約束がかなわなくなっちゃった。だから。いつか、おとうさんかおかあさんが、かわりに連れていってくれるかな?

うーん。

母は苦笑で時間をかせいだ。

天井の隅っこのまったく関係ないほうを眺めて、どう対処するか、判断をしている。母の脳みそが回転するブンブンいう音が聞こえそうだった。

きれいな女のひとがいて、天国みたいな、素敵な夢をみせてくれるところ。お爺ちゃまたちの世代の男の人には、そういうところが、とってもいいところだったんでしょうね。そういうところがたくさんあって、そういうところにいくことが、いちばん楽しいことだったのかもしれない。でもね、もう、そういうの、いまはもう違うんじゃないかな。もうきっと、そういう場所少なくなってると思うよ。

母はどうやら、話を一般化して、菩提樹からじわじわ遠ざける作戦をとることにしたらかい。

なぜかって、それは、女ってもの、女の地位とか役割とかっていうものが、だんだん変わってきたからだよ。

おかあさんも女だけれど、ちょっと昔には生まれたくなかったと思う。だって、昔、つい最近まで、女は、人間じゃなかった。

――人間じゃない?

そうだよ。英語でmanは男で、イコール人間でしょ。女は男じゃないからね。だから人間じゃないんだよ。ちょっとは役に立つ動物。いってみれば、家畜といっしょ。牛馬みたいな使役動物と、犬猫みたいなペットにする動物、それに、動物園でみるような珍しい動物。いろんな違いみたいなのもあったかもしれないね。

でも時代がかわって、ひとの意識もかわって、女も「男じゃないけど人間だ」っていうことを、多くのひとが理解してきた。認めざるをえなくなってきた。女だって男と同じように、尊重して、大事にしなきゃならないって言われるようになってきた。

だから、そういうお店は、だんだん経営がむずかしくなってきたんじゃないかな。

もしかして、お爺さまも、うんと昔、若いころにあったことを思い出して話してくれていたんじゃないかしら?

でも、ママ。那智は反論を試みた。そうじゃないと思うよ。そんなに昔のことじゃない。お爺ちゃん、写真をみせてくれたんだ。いっしょにうつってた。すごくきれいな女のひとと。名前も知ってる。

サヨラ。

へんな名前でしょ。なんだか、サヨナラみたい。だから覚えちゃった。

母は肩をすくめ、興味をしめさなかった。

もしかすると、母はほんとうには「知ってはいない」のかもしれないと那智は感じた。あそこにはほんとうに「人間じゃない」女の人たちがいる。そのことを知らないか、あるいは、知りたくないのかもしれない。

母の頭はそうでなくてもいろんな計画や心配事でいっぱいだった。未亡人になった祖母をどうするのか、兄弟の誰がひきとるか、ひとりぐらしのままか、屋敷で暮らすのか、広すぎるから引き払って新しくマンションなどを買うか、だったらどこに、とかなんとか。急いで考えて対応しなきゃならないことが、あまりにもたくさんあって、それどころではなかったのだ。

四十九日というのが来て、祖父のものを片づけることになった。、那智は祖父の書斎にいってみた。あちこちにもぐりこんで、さがしてみた。めあてのものは机のひきだしの中にあった。素朴な木彫りの写真たてにおさまった、一枚の写真。

持ってかえった。

写真たては嵩張って邪魔になったので、その一葉の写真を、絵本にはさんで隠しておいた。『ぼく、空をさわってみたいんだ』という子猫が主人公の絵本だ。祖父に買ってもらったたくさんの大切なもののなかでも、いちばんのお気にいりで、幼いころから何度も何度も読み返して大事にしてる本。枕元のすぐ手の届くところにおいてあって、心細いことや、さびしいことや、いろんなことがわからなくなってしまったとき、何度も何度もよみかえしていた本。

さわってみたい空。

さわってみたい菩提樹。

この指が、届くのなら。

 

 

 ――だから――

 星野磨翼をはじめて見たとき、那智は心臓がでんぐりがえるかと思うほどびっくりした。

 写真のあのひとに――サヨラに――瓜二つのそっくりさんだったから。

星野さんちの奥さんは近所で評判の美人だ。山のうんと奥のほうで一見さんお断りの隠れ家レストランみたいなのをやっているらしい。そういうひとを地元の勘定にいれていいのかよくないのか、「あそこはちょっとかわってるから」「特別だから」さわらぬ神にたたりなし、的に、敬して遠ざけられている対象。

そういう意味では、星野家は、那智自身の境遇と重なるところがあった。

お婆ちゃん――亡き祖父の未亡人である祖母――は結局、住んでいたダダッ広い家を引き払って、星海町に引っ越したのだ。海外もふくめていくつもあった別荘をみんな処分し、ひとつだけ遺した家。こぢんまりとしているが、老婆とお手伝いさんと少年には充分。祖父が最後に遺した家で新築に近く、冷暖房などの設備も整っていた。

母も父もあいかわらず忙しく仕事で飛び回っているので、那智は祖母にあずけられ、星海町で育ったのだった。

――偶然か?

――いや。

まさか。

偶然なんかじゃない。

これは、お爺ちゃんがぼくに遺したプレゼント。あるいは

――託した宿命だ。

星野磨翼は二歳年下だった。惜しい。あとちょっとのところだったのに。もし同い年だったらなら、クラスメイトになれたのに。隣の席にも座れたかもしれないのに。

二学年違っていたので、ずっと見張ってることはできないけれど、気にかけておくことはできた。そのうちきっと縁が繋がる、仲良くなれる、なにかぜったいきっかけがあるはずだ。

自然に。無理なく。知り合うんだ。

親しくなるんだ。

そうなるに違いないと、那智は信じた。

案の定だった。肘がぬけた騒ぎのおかげで、話しをすることができた。接骨院に案内すると、美人のおばさんにもおおいに感謝された。おばさんの名はレイラというのだそうだ。顔はそんなに似ていないけれど、その響きは、なんだかサヨラに似てる。

まちがいない。

このひとたちは、菩提樹だ。

お爺ちゃんが果たせなかった約束の場所へ、彼女らが、ぼくを、きっとつれて行ってくれるはず。

待とう。

待つんだ。

急いじゃいけない。

弓道や剣道の稽古といっしょ。新しい手品のトリックをひとつ見につけるときといっしょ。できたと思ってすぐ次にいくと、せっかくのできた感覚を忘れてしまう。うまくできたような気がしたら、何度も何度でもくりかえしなぞる。練習する。確かめる。その感覚が定着するまで。いちいち考えなくても自然とそのかたちや動きが出せるようになるまで。うごきやしぐさがじぶんのものになるまで。

自分が消えてなくなるまで。

あわてるな。無理はするな。

ゆっくり、じっくり、待つんだ。

 

 

十四歳の夏のある夜、見知らぬものたちが訊ねていた。

手首にはめた宝珠の腕輪を見せた。

二重の卍のしるしを見せた。

「ご令孫さま」

 と彼は言い、サトリマルと名乗った。視線をそらさぬままやたら深々と会釈するので、三白眼になって、悪いやつにしか見えなかった。だが、亡き祖父の家来であるらしい。

「あなたさまを、とあるところにお連れしなくてはなりません」

 那智は祖母をふりかえった。

 そのかたたちの言うようになさい。祖母は四角く座ったまま、ひくい声で言った。そのかたたちは、お爺さまの代理人なのですから。

 死んで何年もたつのにまだ忠実だとしたら、それは立派なやつ偉いやつだと思わなくてはならないのかもしれない。

ご存じでないほうが強みになりますのでと目隠しをされ、車で何時間も運ばれた。車を降りると、ひんやりと霧風の巻く山奥である。まだ夜があけていなかったが、あたりはすでにうっすらと明るくなってきてはいた。前後を彼らにはさまれて歩いた。修験道でつかうような道だ、と那智は思った。険しくて、岩がちで、ちょっと靴を滑らせると膝が痛い。たどりついた先は、ひんやりと霧風の巻く高山。ひとの手のふれぬ森の懐に巨岩がひとつ、天から降って刺さったごとく鎮座していた。

白い着物を肩からかけられ、葛の葉の冠をかぶせられた。

誰かが振りまく香炉から濃い煙が漂いだし、周囲の霧と入り交じった。吸いこむと、意識が朦朧としてきた。

日がのぼってくる。

巨岩の上に誰かいる。ごく気軽な様子で立っている。

霧と煙が立ちこめる中、のぼる朝日を背にたっているので、後光が差しているのと同じ、まぶしくてシルエットしか見えない。

那智は瞼を無理やりこじあけようとした。

そのひとを見ようとした。

一瞬、目があった。気がした。

それは

自分だ。

自分とそっくりな顔をした誰か。

先祖だろうか? 何千年も、何万年も、昔のひとの魂魄を見ているのだと感じた。

そのひとはニッコリと微笑み(それはまったくひとを魅了せずにおかない笑顔だ)なにかをこちらに放り投げて寄越した。

うけとった。

弓矢。

 

 

――射よ。

と、彼は言った。

――滅っせ。

あれは危険だ。

放置してはいけない。

女にしてはならぬ。

ひめにしてはならぬ。

夢にしてはならぬ。

癒恵のその実りが生じてしまう前に

おんながじゅうぶんに熟れてしまう前に、

 

ぼくと同じ顔の少年は、空中のなにかを、ぎゅっ、とする。

ぎゅっとして、ぐちゃっとして、だらーりと、落とす。

ああ、それが。それが託された役割。

それがお爺さまが期待したこと。

まかせてくれたこと。

 

 

(でも)

那智は思う。

(でも、ぼくは、きみが好きなのに!)

 

 

「あのね。那智くん。もし、もしね? わたしがもし、突然消えちゃっても、信じないでね。たぶん消えてないから。いないように見えるだけ。そこにいても、見えなくなってる。ただそれだけだから。だから、……だまされないで」

 

 

 ああ。きみも。きみのほうも予感しているんだね。

 もうじきなんだ。

 もうじき、それが来る。

 その時がきて、

 「那智くんの手品みたいな」ことが起こるって。

 

 

 

 

「うまく言えない。ごめん。とにかく、……えっと、つまり、ただの、……ただの家庭の事情なんだよ。……いまは、これぐらいしか言えない。ごめん、ばかで」

「星野さんったら」

 

 

 

 

 きみはぜんぜん、ばかなんかじゃないのに。

 ぼくたちは、ぜんぜん、ばかなんかじゃないのに。

 

 

だから

きみがきみであるうちに

ぼくがぼくでいられるうちに、

ぼくたち

ぼくときみ、

対消滅しよう。

抱きあって、融合して、永遠になろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                      Mahanne

 

 

飛んでくる。

飛んでくる。

矢。

矢の先端。

矢の黒曜石の打ち砕かれてとがったかたち。

マハネは立っている。まっすぐ立っている。背中に三人の父や母を庇ったまま。両足を大きく踏ん張って。目を大きく見ひらいて、にらんでいる、矢の先っちょ、矢の棒の部分。しなりながら、ゆがみながら、高速で泳ぐ魚のように、飛んで来る。耳は聞いている、捕らえている、ぶううううん、むしのような、風のような、矢羽根のうなり。

と同時に、どこか上空、空の高いところから、この図のぜんたいを眺めてもいる。

矢を放ったあとの残身、美しい「離」のポーズを決めたかっこうの那智、まっ黒なポルシェのぴかぴかの車体、助手席から脱出しようとしてもがいてる黄菜、驚いてスマホを落としてしまったママのレイラ、なにか(たぶんわたしの名前を)叫んでいるパパのマコト、なんかうっとり瞑目しちゃってまるで殉教者みたいな、すっかり儲け役の実父、悪漢真名瀬。

ぜんぶ。

みている。

細部まで。

永遠に引き延ばされた一瞬を。どこまででも観察できる。

 

 

「飛んでいる矢はとまっている」

鉛筆でさっと描いたような口髭のひとが、その髭をちょっとさわりながら言った。

マハネの肩の横あたりで。この空間ではない、どこでもない、どこかで。

「そう、まさに」

「時間なんてものは存在しない」

「有名なゼノンのパラドクス」

「瞬間は静止しているから」

美しい双子みたいなひとたちもいて、どちらからともなくいっては掛け合う。

「時間が瞬間の連続である以上」

「切り取るどの任意の瞬間にも」

「矢は動いていない、いるはずがない」

「動いている瞬間が、ただひとつもないので」

「つまり、静止している」

――知っている、とマハネは思った。

わたしはこのひとたちを知っている。名前、よく覚えてないけど。うるゆさんとか、青とか緑とか、なんかそんなひとたち。

このひとたちは、母さん(レイラ)や父さん(ポチ)を知っていて、だから、わたしのこともちゃんと知っている。

 

 

ここは永遠。

ここは一瞬。

時とかかわりのない場所。

ゆめ。

ゆめのなか。

eye in the sky

指さし、そう言うひとがいる。

美しい発音。

きれいな声。

その可愛い懐かしい声、わたしのなかのなにかが、いきなり満潮になる。

 

 

 

 

                 ――スミカ――

 

 

 

 

スミカがわたしの指に手をそえてくれたので、空中のなんでもないどこかに「その粒」がみつかる。「その粒」を掴んで、つまんで、ねじってひっぱる。ほそいほそい蜘蛛の糸を、きれないようにうまくたぐるように。縒りあわせればそれはひとつの線になる。時間という一本の線。

いとなみという波。

いのちの歌を奏でる、ひとつの弦。

弦を張る。琴に張る。吟遊詩人の楽器に張る。弦をつらねたらチューニング。調子をあわせる、音階をつくる。

ととのった?

正しい指に爪をはめ、

はじけ……

澄んだ高い音がする。

そしてすべてが動き出す。

動きだした、まさにその瞬間か、あるいは、その次の次の瞬間あたりに、顔の寸前で矢が吹っ飛ぶのをマハネは見た。払い落とされたのだ。どこからともなく現れた僧侶のような姿をした誰かに。そのひとが、すばやく割って入って持っていた錫杖で叩き避けてくれたらしい。

「槙野ォ!」

 那智はすばやく間合いをとり、次の矢をつがえる。

「どけ。邪魔をするな!」

え、これ、まきのくん? なの?

 なぜ?

 僧侶は無言だ。なにもいわない。ただ静かにその場に立っている。網代笠をかぶっているし、顎をひいてうつむいているから、顔は陰になってまったく見えない。こんな近距離で矢に狙われているのに、その場からどこうとしない。ぜんぜん殺気だってもいない。

 時代劇でみるような旅支度をした手が、すうっとあがる。持ち上がる。なにか持っている。

 銅鐸?

 鈴?

 ほかのなにか、わたしの知らない道具?

りいいいいいいいん。

それは音をたてる。

さっき琴が奏でたのと同じ音を。

同じ高さ。

4096ヘルツ。

扉を開く周波数。

穢れを祓う音。

天に通じる音。

 

りいいいいいいんんんん……

いつまでも、まるで永遠に減衰しないかのように、いつまでも、深く静かに余韻して、高い音が鳴る。鳴り響く。美しい、鼓動するようにかすかにうねる、どこか悲しいような音。長く長く長くもう終わらないのではないかと思うほどつづき、場を満たしていた余韻の余韻が、とうとう小さく小さくなって、やがて消えていく、もう消える、消えてしまう、と思えた、その刹那、ふたたび、また、楽器が振られ強く鳴る。

きっぱりと。

りいいいんんんと。

重なる音のこだま、音の波形、波動が、あたりじゅうに広がっていく。みんなの鼓膜を揺らしながら。ほかのなにもかもを揺らしながら。見えない影響を届け、さわれない光の粒のようなものをひろげていく。

那智は弓と矢を取り落としている。

 りいいいん。

……やめろ」

膝をつき、両手で耳をふさいでいる。顔がゆがんでいる。やさしい慈しみ深い那智のいつもの顔が、阿修羅像のような、怒りの苦悶の形相に。

りいいいいいいいいん。

「やめろ。やめてくれ……やめろというんだあ!」

 

 

 りぃぃぃぃん。りぃぃぃん。その間も音は鳴っている。那智はうなりながら、悶え苦しんでいる。霊妙な音をあびせられるにつれ、て、那智は変わっていく。もういつもの那智ではない。マハネが知っている那智ではない。気のせいか、なんだか煤でもついたように薄汚れて、どんどん汚らしくなっている。いやな匂いを放っている。からだがみるみる黒ずんで、衣服ごと皮膚もひからびて、古い樹木の皮のようになってぼろぼろと剥がれ落ちる。かぶっていたもののしたから、なにやら別のおぞましいものが現れいでようとしている。

 毛けむくじゃらの大きな獣。耳が生え、牙が生えている。

 ――うそ。

 マハネは両手をにぎりしめる。

 ――うそ!

「やだ」

 那智くんが。

 あの那智くんが。そんなものに。そんなものになるなんて。

(なるのではなくて、そちらが本性だったのかも)

(隠していただけ)

(猫をかぶっていただけ)

「やだやだ。うそだ。そんなの、やだよう!」

 いきましょう、と母がマハネの腕をとって言う。

「男は狼なのよ。そんなこと、知ってると思ってたわ」

「ま……ママ……?」

 こんな時に、それ冗談? それとも、本気? 判断がつかなかった。母がさっさと歩きだすので、ひきずられるようにしてついていくしかない。

 土手の斜面は登りにくかった。母はためらいもなく膝を汚し両手両足を使ってテキパキよじのぼっていく。

 もう那智は真っ黒くてむさ苦しくて剣呑な、野生の獣そのものだ。熊のようでもあり、狼のようでもあり、西洋絵画に描かれた謎の悪魔のようでもある。醜い恐ろしい顔をふりたてて、わめいている。その声もすでにひとの声ではない。獣の咆哮だ。たぶん威嚇。こっちに来るなと言っている。

 母は頓着しない。まっすぐずんずん近づく。わめき声も、獣が振り回す爪や腕を恐れもしない。なにごともないように母はするりと懐にとびこみ、大柄な獣を抱きしめかえした。あがく頭を起こさせ、口吻をつかみ、両目をしっかりと自分のほうにむける。

「だいじょうぶ。大丈夫だから、そんなに苦しまないで。悲しまないで」

 獣は抵抗した。白目をむき、牙をむき、泡を吹い飛ばしてぐるぐるうなる獣を、母は抱きしめた。

「いい子」

 頭を胸に抱きかかえ、背中をなでてやっている。とんとん。とんとん。リズミカルに叩く。

「いい子」

 低い優しい声で、つぶやくのは、こもりうた。ねむれ。ねむれ。やすらかに。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 こわくない。

 それでいい。

 なにも心配しなくていい。

 獣はぐったりとおとなしくなっている。マハネは獣の手をとった。それは手というよりはむしろ前肢だった。太い鋭い爪が生えていて、毛は黒くて、どろどろで、べとついている。さわるとひどくべたべたした。赤黒いような、紫色のような粘液だ。穢れなのだと思った。この彼と彼の群れにつづくもの、彼につらなるものたちが行ってきたさまざまなことがらの結果。美しくない所業、誇れぬ残滓。それが、こんなにべっとりとこびりついている。

きれいにしてあげられたらいいのに。

マハネは思った。

シャンプーして、よーく洗ってあげたい。

――水をそそぐ――

前肢がひくっと動いた。制服のブラウスの袖が汚れた。獣がまみれているものをなすりつけられてしまった。かまわずもう一度手をとった。握る。

右手を左手で。左手を右手で。両手をつかむ。

那智くん。

那智くん、聞こえる?

いるんでしょう。

きみはどこ?

ほんとうのきみは。

わたしの知ってるきみは。

きみの夢はどこ? こころはどこ?

那智くん、きみの魂は、いま、どこにいるの?

 

 

遠くに行かないで。

そっちに行っちゃだめ。

帰ってきて。

帰ってきて。

 

ここに。

こっちへ。

 ――わたしのところへ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  読者さまへ

 

 作者はあまりにも長いことこの物語とつきあいすぎ、登場人物たちと交流しすぎました。長い年月の間にさまざまなバージョンを描き、消したり、変えたり、足したりしてきました。最適の結末を考えようとしたのですが、どうしても、ひとつに決めることができません。せっかくのウェブ掲載なので、ここから、現在、わたしに与えられている解のいくつかを示しておくことにします。とりあえず、大きく方向の違うふたつがあります。将来もし、また、分岐したり増殖したりするようでしたら、さらに足すこともできるかもしれません。読者さまがたは、全部を読んでいただくこともできますし、任意のひとつを読んでいただくことができるでしょう。籤をひくように選んだものを、「あなたのエンド」と思っていただいてもいいのではないでしょうか。すべてを読んでみて、どれが好きなのか、どれがこの物語の結末としてもっともよいのか、考えていただくこともできます。そしてもうひとつ。もしかして、ありうる中でもっとも望ましい美しい解かもしれないのは、ここで読むのをやめてしまうということです。スポーツ選手がよく「ゾーン」にはいるということをいいます。いちばんよいパフォーマンスができていた時というのは、あとでふりかえってみると、自分がどこかに消えてしまっているときだった、リラックスしきって自動制御みたいに動いていて、でも、すべての動きや判断が最適だった、というあれです。わたしも物語を書いていて、そういう状態になることがあります。自分が「考えて」書くのではまったくない、「小説のかみさま」に書かせてもらった、と感じたことが何度かあります。そのようにして描けるところまで自分を持っていくこと、追い込むことが、むしろ、わたしの仕事のようなものです。とすると、あるいは、読者さまをも「ゾーン」に導くことができるのかもしれません。わたしというこの世の作者は、ここで退場するほうがいいのかもしれません。そうすれば、レイラやマハネやサヨラやそのほかの誰かが、直接あなたのところに出向いて、あなたの夢にしのびこんで、なにかを物語るのではないでしょうか? 

 もし、菩提樹のひめがあなたさまのところにうかがいましたら、どうか、怖がらず、うけいれてやってください。そして、そこでなにを語ったか、あとで教えてくださるとありがたいです。もしも、秘密でないのならば。

   

 

                                      n1                                     n2